第19話 ちはやぶる 在原業平朝臣(十七番)
文字数 1,871文字
ちはやぶる
神代も聞かず
竜田川
からくれなゐに
水くくるとは
ちはやぶる
かみよもきかず
たつたがわ
からくれないに
みずくくるとは
メガネで見えにくいが、笹塚先生の目には隈がくっきりとついている。
”心配する生徒の声”で。
”気遣いができる生徒の声”で。
常識的で健全な建前の心情。
嘘。
二週間、待った。
もう無理。
それが ”トオルの本音”。
これが模範解答。ほんのわずかでも、本音を見せたら終わりだと自覚している。なのに。
”嘘。ホントは
帰りたくなんか、ない。”
”ホントウハ センセイヲ ドクセンシタイ。”
”デモ
ソンナコト イエナイ。
ホンネナンカ イエナイ”
トオルは、
(いや 笑、これじゃ
『先生! だいすき! ハグっ!!』じゃないか!?
てか、さっきの俺のちょっと格好つけ内心発言返して!?
ムーディなやつ、返して!?
なんかもったいないからさあっ!!)
……詰んだ?)
トオルは両腕で笹塚をしっかりと抱きしめたまま、大きな瞳で見つめてくる。
笹塚が傾いた姿勢をゆっくりと戻していく。
トオルは、笹塚の背中に回した腕を離せないでいた。
(離さなきゃ、いけないのに)
濃醇な思考はついに表皮を突き抜けて鮮やかに世界を彩っていく。
トオルの頬に、笹塚の大きな右手が触れる。そのまま親指で、そっと下唇の形をなぞるように右から左へと撫でられていく。
微かに空いた唇から声がもれた。
ドクン、ドクン……
唇に触れる先生の指の感触。自分を見つめるメガネの奥の切れ長の目。
今、自分の世界を占有してるすべてが、トオルにとっては幸せで置換できるものだ。
トオルは願った
”どうか、このまま……”。
笹塚はふっと笑いながら、唇から手を離すとトオルの頭に乗せ、くしゃりと撫でながらそう言った。
トオルは笹塚から手を離しながら、
大きく膨らんでいたなにかが、しぼんでいくのを感じた。
生物準備室に戻ろうと踵を返した。
頭をばさばさと搔きむしる。
生物準備室は二階にある。
笹塚は階段へと向かい、
一段ずつのろのろと上がっていく。
一階の踊り場で、笹塚が立ち止まった。そのまま掲示物の張られた壁にもたれて、じっとしている。
その表情は、疲れているような、
うなだれているような、判然としないものだった。
小さく息をつくと、ずるずると体を引きずるように歩き始めた。
ドクン、ドクン……
右手を見つめる。
「情緒に
悪すぎるんだよ。クソッ」
わずかに頬が紅潮した笹塚の悪態には理由があるのだが、ものすごく不機嫌なのでここでは割愛しよう。
笹塚は生物準備室の扉を開ける。
(あんなの調子が狂うだろうが……)
今も右手に残る、
トオルの動脈の激しい鼓動が、
笹塚を捉えていた。