第19話 ちはやぶる 在原業平朝臣(十七番)

文字数 1,871文字

ちはやぶる

神代も聞かず

竜田川

からくれなゐに

水くくるとは

ちはやぶる

かみよもきかず

たつたがわ

からくれないに

みずくくるとは

その日の放課後、教室にやってきた生物教師笹塚は、なにやら考えごとをしているようで、トオルの問いかけに生返事を繰り返していた。
先生、先生……
うん、うん……
(何を考えているの……?)

メガネで見えにくいが、笹塚先生の目には隈がくっきりとついている。


先生、大丈夫ですか? 今日はやめておきましょうか?
トオルは言った。

”心配する生徒の声”で。


ん……

すまん、何か言ったか?

ぼんやりとした声で、メガネをずり上げながら笹塚が言う。
やっぱり、今日は帰りますね
トオルは言った。

”気遣いができる生徒の声”で。


この日、この時間を、トオルはいつからか心待ちにするようになっていた。
「だが、笹塚に無理を強いてまで、己の欲を満たしたいとはいえない。今日がダメなだけで、この先のすべてが失われるわけではない。」
というのが

常識的で健全な建前の心情。

嘘。


二週間、待った。


もう無理。

それが ”トオルの本音”。

トオルはカバンを手に立ち上がる。
ああ、そうか、……なら、

一階まで一緒に降りるか

あ、はい
「トオルは内心ドキリとしたが、先生の申し出に甘えることにした。」

これが模範解答。ほんのわずかでも、本音を見せたら終わりだと自覚している。なのに。


”嘘。ホントは

 帰りたくなんか、ない。”


ほんの少しでもいっしょにいたい気持ちが、今しも心の薄い表皮を突き抜けそうになる。

”ホントウハ センセイヲ ドクセンシタイ。”


”デモ

ソンナコト イエナイ。

ホンネナンカ イエナイ”


ありがとうございます
穏やかな声で”男子生徒”は笹塚に感謝を伝えた。
その時、椅子から立ち上がりかけた笹塚が、軸を失った駒のようにくらりと傾いて、倒れそうになる。
あっ!
トオルはとっさに支えようとして長身の笹塚の懐に入ってしまい、しがみつく形になった。
(ぅえええ

  えええええ!!!?)

トオルは、


(いや 笑、これじゃ

『先生! だいすき! ハグっ!!』じゃないか!?

てか、さっきの俺のちょっと格好つけ内心発言返して!?

ムーディなやつ、返して!?

なんかもったいないからさあっ!!)


と思っていたが、いたって冷静に、
先生、大丈夫、ですか?
と、しがみついたままの笹塚を見上げて聞く。
あ、ああ
と、笹塚はいたって冷静に”男子生徒”に答えたが、内心、
(いや、おま、これ、え、

 ……詰んだ?)

と、昨日の夜、面白い漫画にうっかりはまって明け方まで読みふけったことにより訪れた状況が脳内でうまく処理できずにいた。
思考停止したままの笹塚は、トオルをぼんやりと見下ろす。
……

トオルは両腕で笹塚をしっかりと抱きしめたまま、大きな瞳で見つめてくる。


……

笹塚が傾いた姿勢をゆっくりと戻していく。


トオルは、笹塚の背中に回した腕を離せないでいた。


(離さなきゃ、いけないのに)


”ハナシタクナイ”

濃醇な思考はついに表皮を突き抜けて鮮やかに世界を彩っていく。



トオルの頬に、笹塚の大きな右手が触れる。そのまま親指で、そっと下唇の形をなぞるように右から左へと撫でられていく。

おまえ、唇赤いんだな
……ぁ

微かに空いた唇から声がもれた。


ドクン、ドクン……


唇に触れる先生の指の感触。自分を見つめるメガネの奥の切れ長の目。


今、自分の世界を占有してるすべてが、トオルにとっては幸せで置換できるものだ。


トオルは願った


”どうか、このまま……”。


わり。さんきゅな

笹塚はふっと笑いながら、唇から手を離すとトオルの頭に乗せ、くしゃりと撫でながらそう言った。


あ、いえ

トオルは笹塚から手を離しながら、

大きく膨らんでいたなにかが、しぼんでいくのを感じた。


トオルを生徒玄関で見送ると笹塚は

生物準備室に戻ろうと踵を返した。

……

頭をばさばさと搔きむしる。


生物準備室は二階にある。

笹塚は階段へと向かい、

一段ずつのろのろと上がっていく。


一階の踊り場で、笹塚が立ち止まった。そのまま掲示物の張られた壁にもたれて、じっとしている。


その表情は、疲れているような、

うなだれているような、判然としないものだった。

……っはぁ、

小さく息をつくと、ずるずると体を引きずるように歩き始めた。


ドクン、ドクン……


右手を見つめる。

あいつ……あんな、
(あんな顔しやがって)

「情緒に

 悪すぎるんだよ。クソッ」


わずかに頬が紅潮した笹塚の悪態には理由があるのだが、ものすごく不機嫌なのでここでは割愛しよう。


笹塚は生物準備室の扉を開ける。

(あんなの調子が狂うだろうが……)


今も右手に残る、

トオルの動脈の激しい鼓動が、

笹塚を捉えていた。






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登場人物紹介

藤原 トオル

生物教師 笹塚

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