第13話 わたの原 小野篁(十一番)
文字数 1,385文字
その日の放課後、トオルはひとり廊下を歩いていた。
てくてく
ちょうど教室の前まで来たときだった。
ずでんっ!!
なんと、靴ひもがほどけていたことに気づかず、それに足をとられて転んでしまった。
トオルは床にしこたま鼻を打ちつけた。
たら~
鼻血である。
さらに足首もひねったらしく、ジンジンと疼き出した。
自分一人では対処できそうもない事態になったと思ったトオルは、やむを得ず教室の前でくるりと踵を返すと、保健室へと進路を変えた。
いつもは帰れないことが嫌だと思っていたのに、いざ教室に居られないとなると、こんなに寂しくなるのかとトオルは不思議に思った。今は、どこよりも教室が一番遠い場所に感じた。
それは、百人一首が学べないことに対してなのか、それとも。
ひねった足をかばうようにしながら、保健室へと向かった。
明かりがついていたことにほっとする。ついていなければ職員室に行かなければならないからだ。鼻血が床に落ちないようにかばいながら、保健室の戸を開く。
そこには生物教師笹塚がいた。
鼻血を垂らしたトオルの疑問と笹塚先生のそれが重なった。
笹塚先生の驚いた顔を見て、トオルは自分の状態が思った以上に深刻だと気づいた。
トオルは、笹塚先生の声を聞いて内心ほっとしていた。先生は手早く怪我の処置をしてくれた。
笹塚先生の節くれだった大きな手が、トオルの後頭部に触れた時、トオルの心臓は自分が思った以上にどきりと跳ねた。
トオルは笹塚先生の呆れ顔に笑うしかなかった。
笹塚先生が戸棚を開けて、足に貼る湿布を探している。その背中に向かってトオルは疑問に思っていたことを口にする。
ーーーん? てことは。
そう、トオルが顔から転んでいなければ、今頃おうちに帰れていたことになる。
(がーん)
トオルは不運な自分を呪った。
ーーーまさか。
先生が取り出したのは、小倉百人一首だった。
ーーーここでやるんだ。
ますます運の悪さを呪うトオルであった。
わたの原
八十島かけて
こぎ出でぬと
人には告げよ
あまの釣船
わたのはら
やそしまかけて
こぎいでぬと
ひとにはつげよ
あまのつりふね
毎度のことながら意味が跳躍しすぎていて、トオルには全くわからない。
笹塚先生は窓の外をしばらく見て、それから鼻栓をしているトオルの顔を数秒の間、真顔で見つめた。
その声色があまりにも真剣だったので、トオルは先生が本当にいなくなるのだと思った。
心がずきりと重くなる。
だが、先生のにやけ顔ですぐにそれが戯言だと知れた。
笹塚先生にからかわれたトオルは、面白くないと感じながらも、大海原をたった一人で流れゆく小野篁の心情に、思いを馳せたのだった。