第13話 わたの原 小野篁(十一番)

文字数 1,385文字

 その日の放課後、トオルはひとり廊下を歩いていた。
てくてく
 ちょうど教室の前まで来たときだった。
ずでんっ!!
 なんと、靴ひもがほどけていたことに気づかず、それに足をとられて転んでしまった。
……いってぇ
 トオルは床にしこたま鼻を打ちつけた。
たら~
鼻血である。
 さらに足首もひねったらしく、ジンジンと疼き出した。
これはヤバい
 自分一人では対処できそうもない事態になったと思ったトオルは、やむを得ず教室の前でくるりと踵を返すと、保健室へと進路を変えた。
(今日は、百人一首はお預けだな)
 いつもは帰れないことが嫌だと思っていたのに、いざ教室に居られないとなると、こんなに寂しくなるのかとトオルは不思議に思った。今は、どこよりも教室が一番遠い場所に感じた。
 それは、百人一首が学べないことに対してなのか、それとも。
 ひねった足をかばうようにしながら、保健室へと向かった。
失礼しまーす
 明かりがついていたことにほっとする。ついていなければ職員室に行かなければならないからだ。鼻血が床に落ちないようにかばいながら、保健室の戸を開く。
ん? どうした?
 そこには生物教師笹塚がいた。
え? なんで?
あれ? 藤原?
 鼻血を垂らしたトオルの疑問と笹塚先生のそれが重なった。
なんだお前、鼻血出てるじゃねーか
 笹塚先生の驚いた顔を見て、トオルは自分の状態が思った以上に深刻だと気づいた。
そこ、座ってろ
はい
トオルは、笹塚先生の声を聞いて内心ほっとしていた。先生は手早く怪我の処置をしてくれた。
 笹塚先生の節くれだった大きな手が、トオルの後頭部に触れた時、トオルの心臓は自分が思った以上にどきりと跳ねた。
なに? 転んだ? しかも顔から?
えへへへへ
 トオルは笹塚先生の呆れ顔に笑うしかなかった。
あの、ところで先生はなぜここに?
 笹塚先生が戸棚を開けて、足に貼る湿布を探している。その背中に向かってトオルは疑問に思っていたことを口にする。
ああ、保健の先生な、陸上部員のケガの手当に行ってて、たまたま通りかかったら留守番頼まれたんだよ
そうだったんですか
ーーーん? てことは。
 そう、トオルが顔から転んでいなければ、今頃おうちに帰れていたことになる。
(がーん)
 トオルは不運な自分を呪った。
よし。手当も終わったし、はじめるか
ーーーまさか。
 先生が取り出したのは、小倉百人一首だった。
ーーーここでやるんだ。
 ますます運の悪さを呪うトオルであった。

わたの原

八十島かけて

こぎ出でぬと

人には告げよ

あまの釣船

わたのはら

やそしまかけて

こぎいでぬと

ひとにはつげよ

あまのつりふね

これを一言でいうと、俺はさみしい、となる
えーと、どこらへんが?
 毎度のことながら意味が跳躍しすぎていて、トオルには全くわからない。
ま、細かいことはいいだろう
(あ、いいんだ)
んー
 笹塚先生は窓の外をしばらく見て、それから鼻栓をしているトオルの顔を数秒の間、真顔で見つめた。
藤原はさ、俺が明日からしばらくいなくなるって言ったら、さみしくないわけ?
えっ
 その声色があまりにも真剣だったので、トオルは先生が本当にいなくなるのだと思った。
心がずきりと重くなる。
にやにや
 だが、先生のにやけ顔ですぐにそれが戯言だと知れた。
~~
 笹塚先生にからかわれたトオルは、面白くないと感じながらも、大海原をたった一人で流れゆく小野篁の心情に、思いを馳せたのだった。 
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登場人物紹介

藤原 トオル

生物教師 笹塚

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