第5話 あしびきの 柿本人麻呂(三番)
文字数 1,148文字
その日の放課後も、藤原トオルの席には生物教師笹塚ミノリがなぜか仏像のごとく鎮座していた。
笹塚先生の手には当たり前のように百人一首の解説本。若干引きつつもトオルは内心、この教師との百人一首の解説がたのしみになっているのであった。
人の気配に気づいた笹塚先生は本から目を離し、トオルを見て声をかけてくる。
ーーー今日は、どんな解説なんだろう。
あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
あしびきの やまどりのおの しだりおの ながながしよを ひとりかもねむ
先生の声はいつもよりも幾分弾んでいるようだった。
トオルもつられて楽しくなっている。
「咳をしても一人」
そりゃ歌人じゃなくて俳人じゃないか。いくらトオルでもそれくらいは分別がつく。
笹塚先生はメガネを押し上げながら言う。
「(うそつけ)」
トオルは内心そう思った。
百万歩譲っても、今のはわざとだ。なんか、言い方が棒読みだった。
急に立ち上がった先生は、ミュージカル風に両手を広げながら大声で叫んだ。目線は遙か遠くを見つめている。
トオルは驚いて椅子ごと仰け反ってしまう。反射的に先生はいよいよ頭がおかしくなってしまったのかもしれないと思った。生物教師なのに授業の準備そっちのけで学生つかまえて百人一首なんか解説して、きっとそうだ。
と思ったが、そうではなかった。
「……なるほど」
ーーーなんか疲れた。そしてよくワカラナイ。
トオルの気持ちを知ってかしらずか、先生は何事もなく席に着くと思案顔で話す。
わざわざ詠まないかもしれないところはトオルも同意見だったが、解説に対する先生の熱量には正直理解ができない。
「たとえばな、相当好きな相手がいて、両思いだとする」
先生は机を凝視しながら両手を顔の横でふわふわと動かして話し出す。さながら地球外生命体とのそれを思わせるが、トオルにはこれが先生の妄想だということは百も承知だった。
笹塚先生はぱっと目を輝かせてトオルの目を見る。
明日もし、先生に会えなかったら……
トオルはこの歌が他人事には思われないような気がしたのだった。
トオルはずっと抱いていた質問をぶつける。
生物教師笹塚は、満面の笑みで答えた。
トオルはショックのあまり外国人になったとさ。