第18話 たちわかれ 在原行平(十六番)
文字数 1,269文字
たち別れ
いなばの山の
峰に生ふる
まつとし聞かば
今帰り来む
たちわかれ
いなばのやまの
みねにおうる
まつとしきかば
いまかえりこん
生物教師笹塚はあくびをかみ殺した。
大学の講義は一時限(一コマ)九十分ある。
九十分も!!
笹塚は腰が痛くて逃げ出したくなっていた。
チャイムが鳴り、やっと終わった、
と背伸びを目いっぱいして
廊下を歩いていると、
窓越しに中庭がみえた。
笹塚は中庭を散策して帰ろうと
思い立ち、一旦建物の外に出て
回り道をする。
目の前に大きな桜の木が現れた。
悠然と花を開いてそびえている。
笹塚は木のそばにあるベンチに腰掛けることにした。
年季の入ったベンチは汚れが付きそうだったが、黒いスラックスなので俺的には問題ない、ということにするのが笹塚流だ。
昼下がりの中庭は、人もまばらで美しい桜をほとんど一人占めできている。
笹塚は、トオルの素行を心配していた。
桜はどっしりとした幹からしなやかに枝を伸ばしている。
そこからさらに幾本もの枝をひろげ、まんべんなく花をまとった姿は、荘厳であり、可憐だった。
笹塚は一年前のことを思い出していた。
試験官は登壇するが、補佐は後ろに立つため、受験する生徒と顔を合わせることはほとんどない。
推薦試験は面接と小論文があり、先に小論文の試験が行われる。
試験中の教室内は、机に向かって鉛筆を走らせる音のみが聞こえ、ここにいる子たちはいま、人生を背負ってそこに座っているのだと、神妙な気持ちで笹塚は教室に立っていた。
窓からは、霞んだ青空が受験生を見守っている。
席の間を歩き、質問や不備がないか見回っていると、問題用紙に
絵を描いている受験生がいた。
それが、藤原トオルだった。
笹塚は、殊更にゆっくりと歩きながらなんの絵を描いているのかと見ると、それは桜の木だった。
どうせ暇つぶしの落書きだろうと思っていたので、すこし驚いたのを記憶している。
試験中に二度、笹塚はトオルの席の横を通り過ぎたが絵はついに完成しないまま終了時間を迎えた。
トオルの絵を二度目に見たときには、桜の木の脇に人物を書こうとしているところだった。
盛大なくしゃみがでた。
花粉症の薬は服用しているが、念のためにと持ってきていたマスクを取り出す。
陽が陰って肌寒くなってきたようだ。
笹塚は二の腕をさする。