第8話:浜田氏ベガス事件と大雪

文字数 2,081文字

 それにより浜田幸一は、自民党国民運動本部長を辞任した。野党は、浜田の議員辞職を要求して、攻勢を強めたが、ここから与党内にも主流派に対する批判的な動きが、再び顕在化した。4月10日、浜田は、自民党離党と議員辞職願を提出し、4月1日に辞職が認められた。しかし、いったん火がついた反自民、非主流派の流れは誰にも止められなかった。

 1980年が明け、この頃、真辺益一は、熱海中学を卒業、熱海高校を受験し合格した。その後、温泉の湯守の仕事を父から教えてもらうために、ついて回った。1980年5月14日15時、日本社会党、公明党、民社党は国会内で国対委員長会談を行った。その席上、社会党の田邊誠が大平内閣の失敗を追及し参院選で自民党と対決するため、内閣不信任案を提出したいと口火を切った。

 同党は、1つ、浜田幸一衆議院議員のラスベガス・カジノ疑惑、KDD事件などに象徴される政治腐敗。2つ、物価高を招いた経済政策の失敗。3つ、イラン問題などに見られる外交問題での自主性の喪失などを理由に挙げた。公明党の大久保直彦国会対策委員長は「公明党は社会党に同調するが、できれば民社党と同一歩調をとりたい」と述べた。

 これに対し民社党の永末英一国会対策委員長は「わが党は、中央執行委員会がまだ態度を決めてないので待ってほしい」と態度表明を保留した。内閣不信任案は5月16日の衆議院本会議に緊急上程される情勢となった。自民党執行部は非主流各派の対応を探った結果、「大したことにならない」と判断した。

 これを受けて5月15日午後、自民党幹事長の櫻内義雄は記者会見で「わが党の現存勢力に無所属からの同調者を加えると、相当の余裕をもって不信任案を否決する見通しだ」と述べた。大平派最高幹部で党総務会長の鈴木善幸も同日、同派の総会で党内の説得工作は行わないとの強気の態度を表明した。民社党は当日20時半から緊急中央執行委員会を開いた。

そして、対応を検討するが、夜半から三役一任の形で幹部会議に移った。同調やむなしとする佐々木良作委員長と、万一可決されれば解散、総選挙につながるとして反対を主張する春日一幸常任顧問との間で激論が交わされた。全日本労働総同盟会長の宇佐美忠信の意見も聞くなど、ぎりぎりの協議を続けた。5月16日2時、「提案理由が民社党の基本路線を損なうものでなければ同調する」との結論に至った。

 当日9時すぎ公明党と民社党は会談。公明党からは大久保直彦が、民社党からは永末英一と大内啓伍政策審議会長が出席し意見調整を行った。そのあと三氏は社会党の田邊誠国会対策委員長、武藤山治政策審議会長と会い不信任案は社会党の単独提出とする事で一致、公明・民社は不信任案に賛成することを確認した。

 10時39分、社会党は衆議院に不信任案提出手続きをとった。自民党は同日9時15分に役員会を開き協議に入った。安倍晋太郎政調会長が「党内統一に力を注ぐべきで、除名、解散の強硬論は不適当」と強い調子で主流派を批判した。ひとまず「党内一致で不信任案を否決」の線でまとまった。マスコミ各社は、否決をみじんも疑わなかった。

 そのため、朝日新聞などはこの日の夕刊の一面に「内閣不信任案否決へ」「自民、結束を確認」という見出しを掲げる程だった。昨年12月から1981年3月にかけて、東北地方から北近畿までを襲った記録的豪雪「五六豪雪」である。日本海北部からオホーツク海へ進んだ低気圧が1980年12月中旬から発達して停滞し強い冬型の気圧配置が続いた。

 このため、日本海側の地方で記録的な大雪となった。さらに同年は気温も全国的に平年より低く日照時間の短さも三八豪雪に匹敵するほどだった。その結果、雪が解けず積もり続けるばかりの状態になった。そのため、特に富山県内や岐阜県飛騨地方などの山沿いでは積雪が100センチ「山間部では300センチ」を超えた。

 さらに、着雪や強風による送電線の切断や鉄塔の倒壊が相次ぎ漁船の遭難被害も多発した。マツダは、自動車専用船で富山新港のマツダ岸壁へ自動車を運んでいたが、雪の重みで大量の自動車が壊れ船による輸送から撤退した。この冬の降雪量としては福井市で1963年の596センチを超え、622センチを記録し、1986年並んで歴代1位タイとなった。

 集中的なドカ雪のため、国鉄北陸本線は1980年12月29日と81年1月6日は、ほぼ完全麻痺となり私鉄の京福越前本線は1980年12月29日から1981年1月1日まで、および同年1月6日から10日まで全線不通となった。さらに福井県大野郡和泉村などの山間部は完全孤立した。記録的な大雪のため、雪捨て場となった福井県庁の堀は雪であふれた。

 排雪量は18万立法メートル「ダンプ5万台分」にも及んだ。この雪山は、隣の5階建の福井県警本部の建物と並ぶほどになり「五六豪雪新山」と呼ばれることもあった。この雪山は6月まで残った。1981年3月2日、中国残留孤児が、初来日した。8月22日、台湾で遠東航空機墜落事故発生し作家向田邦子などが犠牲になった。
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