第3話 紳士とは
文字数 2,069文字
一緒にいた時間は長いようで短かった。お互い本名を伝えあい(跡部リオンさん)(柴ハルトくん)、この後の関係性を考えた。
「また、会いに来ていいですか?」
リオンさんは首を振った。「ごめんなさい」
「学生さんに交通費を負担させるのが申し訳なくって」
拒絶されているのかと。
「かまいません」「そうじゃなくって」
「金銭的な負担を負った方が、私の心理的負担が軽くなります、ごめんなさい勝手ですか?」
少し理解するのに時間がかかった。
「私から、会いに行きます」
「約束ですよ」
リオンさんは頷いてくれた。
もう十分だった。
帰りの電車内、僕の心に羽が生えて飛んで行ってしまうことを抑えなくてはならなかった。負担、負担。彼女は負担って言ったんだ。まだ恋を始めてはだめなんだ。でもどうしろというんだ。学生の本分は勉学です。少年老い易く学成り難し、嘘だ、今は情報に関する環境が以前と全く違う、勉学なんて70歳になったって出来るじゃないか。学生の本分は恋愛だ、でもしかし。彼女は七つも年上だった。果たして彼女の心の形は、僕の心の形と同じなのか?
レディー・ギャラガー、彼女こそが。
その後、スマホは一か月の間、恐ろしく冷たい機能の複合体だった。全ての通知は意味をなさないノイズのように感じられ、僕は能動的に世界にアクセスする欲を一切持てなかった。ただひたすらに、受信するデータの塵芥をデリートし続けた。
また、別の意味では期待の強さから来る落胆の冷たさだったと言えた。その振動、その告知ランプ、その着信音。全てが僕の心を揺さぶった。期待してはいけないのに、落胆してはいけないのに、この先は恋なのに、僕の心は脆く嫌になるほどチョロかった。千ページ、二千ページと読んだ小説に、何の実りもない結末が許されないように。僕は。
『返事が遅くなり申し訳ありません、展示会の準備がひと段落しました。これからはまめに返信できると思います』
僕はベッドからずり落ちた。わき腹を強打する。
『いろいろと話したいことがあるのですが、今日のところは寝て良いですか?』
僕が飼い犬みたいじゃないか!
『明日、深夜まで付き合ってください』
『(笑)おやすみなさい』
社会人が社会に出ていること意識せざるを得なかった。深夜までなんて大げさだった、喜びが伝えられればよかった。
『ヤングホーネットって、男子高校生が読んで面白いものなのですか? オフィスレディーが30歳過ぎたら化粧品がどうのこうの、ってお話に共感できるの?』
『その辺はよくわかっていないのが本当なんだけど……』
『恥ずかしながら、私もよくわかってないです。でもぼんやりと共感ぐらいはできる。特に恋愛は』
『僕も共感できますよ? あまり少年漫画の恋愛ものが肌に合わないってのもある』
『わかる』
『少女漫画は昔のやつの方が好き』
『わかる!』
『漫画は、どこの、どの瞬間を切り取るかだと思うんだけど、少年漫画は熱い瞬間とか、スケベとか、可愛い瞬間になっちゃう。これがピンと来なくて、年上の女性作家の感性に憧れちゃう部分が僕にはある。編集部の特徴っていう面もあるだろうけれど、ちょっとした疎外感を覚えた瞬間とか、大胆に大ゴマで切り取るでしょう?』
『感情のこまやかな振幅はあの空間でしか重要視されませんよね。今の少女漫画はどう大げさに揺さぶるか、勝負を始めるところがあって、言うなれば遊園地や映画館。みんな、遊園地好きでしょうって決めつけ。でも美術館や植物園が好きな人もいる』
『どっきり大成功と、落語の違いと言ってもいい』
『私、テレビのバラエティー番組が苦手なんです』
『どうして?』
『なんか運動神経が悪い人の無様な走り方とか笑ったりして、どこが面白いのか分からない。私、運動神経は悪くないけど、音楽も美術も得意じゃなかった』
『僕は体育もダメです。笑われる芸人の気持ちが分かります』
『無責任なアドバイスですが、運動に自信がない人は、型が重要視される種目がいいですよ。弓道とか』
『やったことないです。でもリオンさんの行射は見てみたい気がする』
返信にタイムラグがあった。ぽっかりと切り取られた空白の間 に、吸い込まれたかのような静寂 。
調子に乗り過ぎたかな? 嫌な気持ちにさせたかな?
『機会があったら、ね。』
僕は君のワンちゃんじゃない!
毛布に頭から突っ込んだ。天日干しの臭いが鼻に飛び込んできた。
「僕は君のワンちゃんじゃない!」
七歳も年上の女性と同じ目線で親睦を深められるほど、僕の自尊心は洗練されていなかった。勝手に下から目線を繰り返しては自分自身を傷つけ始めていた。
僕はスマホを遠ざけて眺めた。やり取りの全ての文字が輝いて見えた。抱きしめるように再読した。
レディー・ギャラガー、僕は紳士になれるだろうか。
『昨日はああ言いましたが、学生のタイムラインに無理に付き合わないでほしいです』
『無理?』
『言いたいことの3割は明日に残せって、レディーも言ってた』
『馬鹿』
『おやすみなさい』
『勝手に納得しちゃって』
しばらくして、
『おやすみなさい』
目を閉じた。
「また、会いに来ていいですか?」
リオンさんは首を振った。「ごめんなさい」
「学生さんに交通費を負担させるのが申し訳なくって」
拒絶されているのかと。
「かまいません」「そうじゃなくって」
「金銭的な負担を負った方が、私の心理的負担が軽くなります、ごめんなさい勝手ですか?」
少し理解するのに時間がかかった。
「私から、会いに行きます」
「約束ですよ」
リオンさんは頷いてくれた。
もう十分だった。
帰りの電車内、僕の心に羽が生えて飛んで行ってしまうことを抑えなくてはならなかった。負担、負担。彼女は負担って言ったんだ。まだ恋を始めてはだめなんだ。でもどうしろというんだ。学生の本分は勉学です。少年老い易く学成り難し、嘘だ、今は情報に関する環境が以前と全く違う、勉学なんて70歳になったって出来るじゃないか。学生の本分は恋愛だ、でもしかし。彼女は七つも年上だった。果たして彼女の心の形は、僕の心の形と同じなのか?
レディー・ギャラガー、彼女こそが。
その後、スマホは一か月の間、恐ろしく冷たい機能の複合体だった。全ての通知は意味をなさないノイズのように感じられ、僕は能動的に世界にアクセスする欲を一切持てなかった。ただひたすらに、受信するデータの塵芥をデリートし続けた。
また、別の意味では期待の強さから来る落胆の冷たさだったと言えた。その振動、その告知ランプ、その着信音。全てが僕の心を揺さぶった。期待してはいけないのに、落胆してはいけないのに、この先は恋なのに、僕の心は脆く嫌になるほどチョロかった。千ページ、二千ページと読んだ小説に、何の実りもない結末が許されないように。僕は。
『返事が遅くなり申し訳ありません、展示会の準備がひと段落しました。これからはまめに返信できると思います』
僕はベッドからずり落ちた。わき腹を強打する。
『いろいろと話したいことがあるのですが、今日のところは寝て良いですか?』
僕が飼い犬みたいじゃないか!
『明日、深夜まで付き合ってください』
『(笑)おやすみなさい』
社会人が社会に出ていること意識せざるを得なかった。深夜までなんて大げさだった、喜びが伝えられればよかった。
『ヤングホーネットって、男子高校生が読んで面白いものなのですか? オフィスレディーが30歳過ぎたら化粧品がどうのこうの、ってお話に共感できるの?』
『その辺はよくわかっていないのが本当なんだけど……』
『恥ずかしながら、私もよくわかってないです。でもぼんやりと共感ぐらいはできる。特に恋愛は』
『僕も共感できますよ? あまり少年漫画の恋愛ものが肌に合わないってのもある』
『わかる』
『少女漫画は昔のやつの方が好き』
『わかる!』
『漫画は、どこの、どの瞬間を切り取るかだと思うんだけど、少年漫画は熱い瞬間とか、スケベとか、可愛い瞬間になっちゃう。これがピンと来なくて、年上の女性作家の感性に憧れちゃう部分が僕にはある。編集部の特徴っていう面もあるだろうけれど、ちょっとした疎外感を覚えた瞬間とか、大胆に大ゴマで切り取るでしょう?』
『感情のこまやかな振幅はあの空間でしか重要視されませんよね。今の少女漫画はどう大げさに揺さぶるか、勝負を始めるところがあって、言うなれば遊園地や映画館。みんな、遊園地好きでしょうって決めつけ。でも美術館や植物園が好きな人もいる』
『どっきり大成功と、落語の違いと言ってもいい』
『私、テレビのバラエティー番組が苦手なんです』
『どうして?』
『なんか運動神経が悪い人の無様な走り方とか笑ったりして、どこが面白いのか分からない。私、運動神経は悪くないけど、音楽も美術も得意じゃなかった』
『僕は体育もダメです。笑われる芸人の気持ちが分かります』
『無責任なアドバイスですが、運動に自信がない人は、型が重要視される種目がいいですよ。弓道とか』
『やったことないです。でもリオンさんの行射は見てみたい気がする』
返信にタイムラグがあった。ぽっかりと切り取られた空白の
調子に乗り過ぎたかな? 嫌な気持ちにさせたかな?
『機会があったら、ね。』
僕は君のワンちゃんじゃない!
毛布に頭から突っ込んだ。天日干しの臭いが鼻に飛び込んできた。
「僕は君のワンちゃんじゃない!」
七歳も年上の女性と同じ目線で親睦を深められるほど、僕の自尊心は洗練されていなかった。勝手に下から目線を繰り返しては自分自身を傷つけ始めていた。
僕はスマホを遠ざけて眺めた。やり取りの全ての文字が輝いて見えた。抱きしめるように再読した。
レディー・ギャラガー、僕は紳士になれるだろうか。
『昨日はああ言いましたが、学生のタイムラインに無理に付き合わないでほしいです』
『無理?』
『言いたいことの3割は明日に残せって、レディーも言ってた』
『馬鹿』
『おやすみなさい』
『勝手に納得しちゃって』
しばらくして、
『おやすみなさい』
目を閉じた。