第12話 壁と壁

文字数 1,546文字

 リオンさんは地下鉄の入り口で待ちあわせたにも拘らず、自家用車で来ていた。僕が接近されるまで気付かなかったのは、意表を突かれたからであって、決して信じ切れていなかったわけではない。湾岸線は事故で渋滞しているようで、10分の遅刻はむしろ早すぎるくらいだった。
 ジムに向かう車内で、僕はリオンさんのベンチコートと膝掛け毛布でモコモコにされた。初冬のビル街ではツワブキの花のみが僕の明かりだったが、灰色のゾンビタウンに温もりをもたらしたのはレンタカーばりの飾り気のないワゴン車だった。運転席でリオンさんはむっつりと一言も発しなかったが、そもそも怒らせてしまったのは僕の間抜けな調子こきが原因だったわけだから、甘んじて気まずい沈黙を受け入れた。
 スマホのナビアプリに案内されてたどり着いたのは、川沿いのガレージのような施設で、小さな看板のみが情報を伝えてくれたが、インスタの投稿一つなければ誰がこの施設をスポーツジムだと思っただろうか。リオンさんは好奇心を全てそがれてしまったようで、もじもじして完全にしり込みをしていた。
「僕が先に入って、中の様子を見てこようか?」
 リオンさんは細かく首を左右に振って、僕の右手を強く握った。一緒にプレハブのような引き戸を開けた。

 中は二階分突き抜けになっている、だだっ広い倉庫のような構造で、壁は石膏ボードで、屋根はコンパネ、照明はLEDの投光器がぶら下がっていた。大きなバネが瞬間的に伸び縮みする音が一定リズムで繰り返されていて、安全ネットの向こう側でトランポリンで飛んでいる女性が目についた。子供用のトランポリンもあるようで、数々の笑い声が上がっている。中央の休憩スペースに保護者と思わしき人たちが各々に休んでいた。
 フロントは足場パイプとベニヤ板で作られた工事看板のようなそっけなさだった。反面、PC周辺機は充実していて、僕は保護者の同意をオンラインで済ませることができた。僕が母親の電子印を待つ間、リオンさんは気の毒なほどあたふたしていた、まったく想定していなかったんだ。リオンさんは情けなさ過ぎてかわいい瞬間があって、僕の脳内ホルモンをカクテルにする。
 ボルダリングは聳え立つ壁の角度で、子供用・初級・中級・上級とあり、それぞれホールドの色でレベル1~5と別れていた。僕はワークマンで買ってきたようなシューズとパンツに着替えた。リオンさんはヨガウェアのようなレギンスとアディダスのシューズだった。
 最上級のコースに両腕にタトゥーをいれた女性がチャレンジしていて、ギャラリーが数人いた。僕もあほ面を下げて見とれていたら、リオンさんに初級コースまで引っ張って連れていかれた。
「参考にならないでしょ!」と。そんなことはないと思うんだけど。
 リオンさんはボルダリングの基礎の基礎から丁寧に教えてくれた。初級コースには僕らしかいなかったので、せかされて焦る必要も、視線を意識する必要もなかった。僕は落ち着いて彼女の声を耳に入れることのみに注意できた。嘘だ。たまにふんわりと鼻に届く柔軟剤の香りに気が散ったりした。
「赤ー、赤ー、赤、はいゴール! お疲れさまでした」
 初級コースのレベル1とレベル2は基本的なつかみ方と、基本的な足運び、三点支持を意識するだけで簡単にゴールできた。続けてクリアーした僕を、リオンさんは「優秀、優秀」と、大げさに褒めてくれた。
 僕が休憩している間にリオンさんは一人で登りだしたが、彼女は上級者というほどではなかった。多分、初心者を少し抜け出した程度。真剣に取り組んでいたが、応援するのも僕一人だった。養生テープにゴールと書かれたトップホールドを両手でつかんでから、するすると降りてくる。基本動作がスムーズで本当に運動神経がよさそうだった。
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