第3話

文字数 2,493文字

            3,
 闇の中、また、誰かが男の名を呼んだ、その声が、手術室のタイル壁に反響して深い洞窟の中にいるかのように響く。確かに聞き覚えのある声、だが、それが誰だか思い出せない。
「広足よ、藤原広足よ」
その声は、手術台の下、しかし、それは、子供の頃、石を落して、その水音が跳ね返ってくるのを待って聞いたように、深い井戸の底から聞こえてくるようだ、
「広足さん」
 男の名を呼ぶ声が、はっきりと女の声に変わった、そして男はその声で、自分を呼ぶ声の主が判った、しかしその声の主は、30年も、40年も昔に聞いた、或る女の声、しかもその女は既に死んでいる。
「お前を、訴えにより、奈落迦の閻魔庁まで連行する」
今度は、太い、割れるような皺枯れた老人の声がタイル床の下から響いて聞こえた。男は、目を動かして、何処からか漏れ入る灯りで仄暗い中、声の主を捜した、誰の影もない、
「広足さん、私がお伴します」
またも女の声、しかも、今、男ははっきり思い出した、声の主は、30年前、死んだ、百合、だと確信した。
「百合?」
男、藤原広足の喉は潰れて声が出ない、何んとか体を捻り、百合の姿を捜す、だが何処にもその影はない、何かの間違いだ、空耳だ、百合が、生きている筈が無い…
手術台の横に、手術台の高さと同じくらいの背丈の子供が立っている、何で、こんなところに子供が?
そう思った瞬間、男の体は宙にふわりと浮き、渦を巻く水に吸い込まれるように宙で捩じれて舞い、手術台の下のタイル床にぽっかりと開いた穴に、頭から真っ逆さまに飲み込まれた。全てが一瞬、だった。

            
 男は、真っ暗闇の、洞窟の底に降り立った。漆黒の闇、しかし男には、洞窟の岩壁も、闇の中、不思議なことに、影絵のように全てが見え、岩壁を滴る水の音さえも聞こえた。
 背中に、鋭い刃物で刺されるような激しい痛み、顔を歪めて後ろを振り返るが誰も居ない、だが、
「さっさと歩け」
と、さっきと同じ老人の、皺枯れた声が洞窟に響いた。
 男はもう一度振り返った。真後ろに、赤い肌、牛のように大きな顔の、子供が立っていた。その正しく牛のような顔の口端に、何処かの寺で見た佛像のように、牙が逆さに生えて上唇を突き破り、金色の髪がザンバラに延び、牛のような二本の、大きな角が頭に突き出し、目は、怒り狂ったように真っ赤に燃えている。
 男は、何かの絵物語で見た、地獄に住むと云う、餓鬼、ではないかと思った。そんな恐ろしいものが、何故ここに?
 その赤い餓鬼が、手にした戟の先を男の背中に突き立てて前へ進めと追いやる。その痛みで男は再び、あの瞬間を思い出した…
男は、ホームで誰かに背中を突き飛ばされ、体が宙に浮き、走ってきた電車の真ん前に飛び出し、電車運転手の顔があっと云う間もなくまじかに迫り…そして、次の瞬間、男の意識は、一切が一瞬に掻き消えた、のだ。
(そうだ、俺は電車に撥ねられて死んだのだ。なら、ここは、何処だ?俺は、まだ生きているのか?)
 撥ねられて意識が絶ち消える直前、男は、耳奥に微かに、救急車のサイレンの音を聞いた記憶が蘇った。
(俺は、生きている…?)
男は手を動かした、が、思うだけで手応えが何もない。指を動かそうとしたが、ただ思うだけ、指が動いた実感は何もない。
(俺は、衝突の衝撃で脳の神経をやられたのか、俺の意識は戻っても脳の神経が働かないのだ、だから意識が働いても、神経が途絶えて、指一つ動かせなくなっている…)
 男は自分の状態をそう自覚した。男はふと思った、もしかして俺には、もう俺の体が、無い?
男は、意識に力を込めて働かせ、指先を、足の爪先を動かそうと試みたが、やはり、指先、爪先に“動いた”実感がない。俺には体が、付いて無い?俺は、やっぱり死んでしまったのか?身体から幽離して、魂だけが何処か知らぬところで宙に浮いて彷徨っている?
男は、首を動かして自分の体を見ようとしたが、首が動かない、いや、俺にはもう首も何も付いていない、のだ…?
 なら、俺の元の体は、何処に在る?闇の洞窟の中、見渡すが何処にもそんなもの転がってもいない、男は、思った、
(もしかして、俺の体は、担ぎ込まれた病院の手術台の上に残されたまま?)
(なら、ここは、何処だ?俺は何処に居る?俺はもう死んで、地獄に落ちた、のか?)
 男は、途端に、凍えるような寒さに襲われた。

 赤い肌の餓鬼に背中を戟の先で刺される痛みで、男は洞窟の中を歩かされる。正面に、大きな構えの門が見えて来た。門の両脇に巨大な鬼が立ち、牙を剥き、猛獣のような唸り声を轟かせ、今にも男に飛び掛かり、噛み千切らんと構えている。
 余りの恐ろしさに男は居竦んで身動き出来なくなった、その男の背中を後ろから餓鬼が蹴とばした。男は転がり、門の両脇の鬼の前で止まった。男が
(アッ)
と声を上げた瞬間、両脇の巨大な鬼は掻き消えた、男は、再び赤い鬼に蹴飛ばされ、石畳の上を石ころのように転がり、天にも届きそうな、壮大な、金色に煌めく社殿の前の、石の階段に当たって止まった。
 その衝突で、男は激痛に襲われた、あ、俺にはまだ元のままの体が付いている、男は、事実激しい痛みを感じ、何処を打って痛いのかも実感した、確実に自分の体の存在を脳は感じる、神経も行き届き、足を動かす意識も、腕を振る感覚もある。
男は、ほっとして、激痛の足を擦ろうとしたが、足許に自分の両の足は無く、激痛の腕を振り回したが、腕は無かった。

 眼の上の、巨大な社殿の門が開いて、数匹の、男の体の半分ほどの背丈の、頬に逆さに髭の生えた、緑の肌の餓鬼が走り寄り、男の両脇を抱えて、社殿の中へと引き摺り込む。

 社殿の中、その奥の正面に台が在り、その上に神輿が、その神輿の四方は、鬼界曼陀羅模様の緞帳で覆われ、その両脇に、二匹の大きな鬼が、片方は大きな巻物を両手で広げ、もう一方の鬼は、長い尺木と筆を持って控えている。
 男は、神輿台の前に引き摺り出され、頭を青い肌の餓鬼の手で抑えつけられて平伏させられた。
男をここまで連れて来た赤い肌の餓鬼は、少し離れた処で胡坐に座っている。

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