第2話

文字数 3,152文字

           2,
 壮太と別れてジゾー、歩く内、その肌は、石の地色から青くなって、赤くなり、大きなジゾーの顔は、口端に牙が生えて唇を突き破り、頭は金色の髪が残バラに延び、にょきにょきと牛のような、大きな二本の角が突き出し、目は、怒り狂ったように、真っ赤に燃えて、地獄の底に巣食う餓鬼になった。
 上に鉀を著、下に緋色の袴を履き(鬚生逆頰,下著緋上著鉀,佩兵持桙。 
以戟棠背立,前逼將。先見一人,後見二,使之中立我,追匆走往)、手にしていた棒は戟になり、ジゾーはその戟に付けた鈴を鳴らして、地下に在る手術室の前に立って腕組みした。
 病院の入り口で、救急車のサイレンが鳴り響き、血塗れの怪我人がストレッチャーに載せられ手術室へと運び込まれてくる。救急隊員が、付き添って走る看護師に尋ねられて、云う、
「駅のホームから、誰かに、見た人が云うには、子供のようだった、と云うが、その子に、後ろから、ホームに入って来る電車の前に、突然、突き飛ばされた、らしいんだ」
「ええ、そんなことってある?で、その子は?」
「すぐどっか行ってしまって見えなくなった、って。駆け付けた駅員、警官が捜してた、みたい、だけど、さあ、どうかな」
「で、どうなの?」
「もう駄目、だろうね。おれさ、何十人と、電車飛び込み、見てきたけど、こんなにひどいの、初めてだ。顔は潰れて手足は千切れ、内臓は腹が割れて飛び出して、でもさあ、まだ呼吸してんだよな、信じられないよ」
「じゃ、先生、すぐ来てもらわなくていいね、ゆっくりで、いいね、だって、先生、さっき、別の救患の処置して帰ったとこ、なの」
「いいんじゃない、ゆっくりで、無駄だよ、どうせ」
救急隊員、看護師らは手術室扉の前に立つジゾーの体を通り抜け扉を開けて、怪我人を中へ運び入れ、抱え上げて手術台に載せた。だが、誰一人、いつの間にか手術台の横に立っているジゾーに気付く者は居なかった。

 救急隊員、看護師ら、電気を消して手術室から出て、中には誰も居なくなった。手術台の上、運び込まれた男の体から大量の血が床に滴り落ちる音が、深い井戸の底に居るように響く。
手術台の男、既に意識は無かった。その心臓の鼓動がいつ止まるか、だけの悲惨な状況だった。

 手術台の男、夢現つに誰かに名を呼ばれたような気がして、ふと眠りから覚めた。耳を澄まして呼ぶ声を捜した。微かに確かに、誰かが自分の名を呼んでいる。その声、男には聞き覚えがあった、しかし、それが誰だか思い出せない。
  手術台の男、ふと、ここはどこだ?と周囲を見回した。真っ暗闇で、何も見えない、何も聞こえない。流れて肌に触れる風が冷たく、背中が、氷に触れるように冷たかった。自分は真っ裸にされている。
 男は、ようやく“今”を理解した。男は思い出した、男は駅のホームに立っていた。電車がホームに入って来る。いつも乗る、決まった時間の電車ではない。運転手も、いつも乗る、何んとなく顔も見覚えている運転手、ではないのは判っている。男は、いつもと違うことが、ふと不安になったが、気を取り直して電車が停まるのを待った。
 男は、余程に疲れていた。深夜に当落が出る選挙結果について頻りと考えていた。そのことしか男には考えられなかった。
 選挙事務所で、ほんの先程まで、慰労を兼ねてスタッフと乾杯し、結果が出るまで諦めずに居て下さいとスタッフに止められたが、判り切った、聞きたくもない結果を待つ等、男には耐えられなかった。
 皆と別れて、事務所から歩いて駅に来て、特に内、外どっち回りで、何処へ行こうとも決めないまま、ホームの、慣習的にいつもの場所で人の列に並んだ。並んですぐに電車は来た。勤め帰りの客で車内は混んでいた。前に並ぶ人も乗り切れないで多くがホームに残された。男は次の電車を待って、押されて一番前に立った。
 今回は初手から厳しい選挙戦を強いられていた。男の、選挙前に発した不用心なコメントが大衆の反感に晒され、選挙事務所に掛かって来る電話の殆どが、非難、抗議、侮辱する内容ばかりだった。新聞も、過去無敵、常勝だった男の、初めての落選を嬉々として予想してくれていた。選挙事務所前は抗議する人で毎日溢れかえった。
(もう、俺も、終わりか)
 ホーム一番前に立って男は後ろに並ぶ人から、その内の誰からか分からないが、殺意に満ちた視線をふと背中に感じた。
 男は振り返って見た。後ろに並ぶ人たち、ごく普通に、いつもそうであるように思い思いの顔をして並んでいる。男は常に電車を利用するが、列の中には一人二人見知った顔もある。だが、今も突き刺すような視線が、何処からなのか分からない。
 男は、ふと真後ろに、ひとのものではない、異質な気配を感じた、それは大人の大きさではなく、まだ子供のような、振り向いた、が、男の後ろには勤め帰りの客が列に並ぶだけ、見知った顔も、いつものように無機質な顔で電車の到着を待っている。どこにも子供、なんて居なかった。気のせいか、余程、疲れているんだ、と自覚した。

 男は、何十年も議員を務めた。この次は是非国政へと勧められ、党の幹部たちから次の出馬の話も何度も貰っている。少なくとも今回は楽勝、そして次回は、と腹を決めていたのだった。しかし、男の不用意なたったの一言が、事態を暗転させた。
 男は悔いた、己の、調子に乗って吐いた無思慮な一言を悔いた、何であんなことを口走った?しかし、もうどうしようもなかった。
 初当選のあの夜のことが思い出される。既に30数年も前、新人ながら、妻の父の急死を受けて、義父の先祖代々からの強力な地盤と巨額の資産を譲り受け、その穏やかな、大衆好みの、平べったい二枚目の顔が、老人ホームのような、ボケ老人の集まりであった議会に、若々しい、新鮮な風を送り込み、議会の活性化を訴えて登場した、誰もこの男の初当選を疑いもしなかった。
そして男は予想を遥かに越えて圧勝した。一時は、調子に乗ってマスコミの寵児にもなって引っ張りだこだった。

 男が悔やむのは確実視される落選だけを悔いるのではなかった。落選後に待ち受ける、地獄のような日々を怖れるのだ。
過去の選挙戦で、男は、落選した候補者達のその後を、その残酷な後遺症を嫌という程見て知っている。
 その落選が決定した時点で、それは夜中であったり、夜明け前であったり、選挙管理委員会の役員と警官が、落選した候補者の事務所、自宅を訪ねて来て問答無用に連行する。
 容疑は選挙違反。勝利者にはどうでも良い些細な違反が、落選者はその一々を取上げられ、その行き着く先は必ず買収容疑であり、100%有罪が課せられる。そして本当の地獄は、敗戦の弁を終えた時点で始まるのだ。
 落選候補者を襲うのは、議員時代の、または直前の選挙資金の為に借りた金の返済、ややこしい筋からの厳しい借金取立て、そしてやがてには議員時代の収賄罪に、その他諸々の使途不明の公金横領罪も多重に追加され、最後には一切を失い、野良犬か棄て猫のように、痩せこけて路地にさ迷うのだ。
 勝てば官軍負ければ賊軍。男は想像する、夜中を過ぎて忽ち我が身に襲い来る地獄の責め苦の数々を。男は、ふと、呟いた、
(死ぬしかない)

 そうつぶやいた瞬間だった、男は背中を誰かに、信じられない程の強い力で押された?驚いて後ろを振り向く間もなく、男は宙に飛び出し、電車の運転手の顔をすぐ真横に見た。運転手、目を見開き、口を大きく開けて何か喚いている、そして運転手の眼と、男の目があった。
 何事?思う間もなかった、だがその瞬間は意外と長かった、男の体は宙を浮いている、まるでプールに飛び込むようにジャンプして宙に浮いていた、真横に、電車の運転手の顔、運転手が、叫んで、目を閉じた…

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