第十話

文字数 5,517文字

「母……親……!?

 範子は我が耳を疑った。
 このカイムという青年は、母をこの猿人に喰われたのか――?

 横にいる義人は眉一筋、動かさなかった。あるいはすでに知っていたのかも知れない。

「……ダガ、アレカラ苦労シタゾ……? セッカク逃ゲダシタノニ、主人ニ見ツカリ、連レ戻サレテ、コノ〝(ざま)〟ダ……」
「てめぇっ……!!

 〝母〟という言葉を聞いたカイムの顔色が、怒りに染まった。カイムは母を失ったその瞬間を思い出したのか。
 カイムは猿人の牙が食い込む手を引き抜かずに、逆に口腔に押し込んだ。

「ガッ……!?

 カイムの想像外の行動に、猿人が眼を剥いた。
 普通、噛み付かれたならば、その手を引いてしまうものだ。それに、牙というものは咥えた獲物が逃げることが出来ないように、内に向かって反っている。
 無理に引き抜けば、さらに食い込むように出来ているのだ。

 

、カイムは押し込んだのだ。
 口腔一杯に押し込まれた拳を、猿人は()せて慌てて吐き出そうとした。
 だが、まさにその一瞬を狙って、カイムの手刀が猿人の腹部に深々と突き刺さった。

「グ……ゴボァ……!!

 猿人が拳と共に、血泡を吐いた。
 普段ならば、カイムの手刀は猿人の強靭な筋肉の壁によって撥ね返されていただろう。
 だが、拳を捻じ込まれたことで猿人は慌てふためき、腹筋の力が一瞬、抜けた。
 その瞬きをするかしないかの間隙を、カイムは見逃さなかったのだ。

「くたばれ……。……このクソ猿がぁっ!!

 カイムが捩じり込んだ腕を引き抜くと、腸や内臓やらがズルリ、と握り出された。
 そのとき垣間見えたカイムの腕と指は、いつもより細長く、猛禽類を思わせる鉤状の爪を備え、滑らかな鱗の光沢を放っていた。
 それは鳥類の肢

であった。
 そして、違うことと言えば、肘の辺りから、刃物のような鋭利な突起状のものが突き出ていることであった。
 これがカイムの能力の一端であろうか?

「てめぇがお袋にしたのと、同じようにしてやるぜ」

 そう言うとカイムは引きずり出した臓腑を、力任せに引き千切った。

「グギャァァァ……!!

 カイムが、びしゃり、と地面に叩きつけるように、血に濡れそぼった臓腑を投げ捨てたのと同時に、猿人は微かな吐息のような断末魔を上げて大地に崩れ落ちた。
 まだ、僅かに痙攣を繰り返す猿人を、カイムは肩で息をしながらも睨んでいたが、やがて振り返り、

「どうだい、言ったとおりに殺ったぜ?」

と、言った。その腕はもう、普通の人間のものに戻っている。
 が、義人は冷めた視線をカイムに向けたまま、

「止めは刺しといたほうがいいよ?」
「へっ、何言ってやがる。臓腑抉り出されて生きてるわけが……。……!?……」

 そこまで言ったカイムが、

の気配を感じて背後を振り向いた瞬間――。
 がしり、と強い力で肩を掴まれたカイムは、目前に迫る大きく開かれた顎を、すんでのところで両の手で受け止めた。

「てめっ……!? まだ……」
「グルァァァ……!!

 瀕死とは到底思えぬ力で喰らいつこうとする猿人の顎を抑えながら、カイムは臓腑を失ったために厚みが薄くなった猿人の腹部に何度か蹴りを入れたが効果はなかった。
 肉体そのものは、既に死につつあるのだろう。

!? こいつ、もう死んで……!?

 掴まれたカイムの肩に猿人の長い爪が食い込み、白いTシャツに紅色の染みを広げていく。カイムの両手の筋肉が限界のため、ぶるぶると震えていた。

「ちぃ……!!

 歯を食いしばるカイムの視界を、銀光が過ぎった。

「……!?

 カイムの左方に、右手を振るう義人がいた。ずるり……と、猿人の頭部が、首から胴体と離れたのは、その直後であった。

「なっ……!?

 カイムは慌てて猿人の顎から手を放しながら義人の右手を見たが、自然に垂らした拳には

握られてはいなかった。
 だが、

地に落ちた頭部の断面は、確かに

を示していたのだ。
 なら一体、どうやって――?

「『手助けはいらねぇ』っつっただろ!!
「僕は、『止めは刺せ』……って言った筈だよ?」

 義人の氷のように冷たい視線にカイムがたじろいだ。
 これが、先程までニコニコしていた男なのか――?
 威圧感までが、先程とは雲泥の差だ。離れて見ている範子ですら、背筋に寒気を感じた。
 カイムがその豹変振りに怯んでいると、義人が続けて言った。

「まだいるよ? 十四、いや十五匹かな?」
「……ンだとぉ!?
「昼間、君は、この一月(ひとつき)でいなくなった人は十八人だと言ったよね? で、僕も僕なりに調べてみたんだ。警察に届けが出てたのは、確かに十八人。でも、ホームレスの人に、家出してた中学生や高校生なんかも加えると、たった一ヶ月で、二百人以上の人が

になってた」
「なんだと……⁉ じゃあ……」
「そう。まだ

のさ」

 義人の言葉を裏付けるように。

(親父ガ殺ラレタヨ……)
(ダラシノナイ……)
(喰ッテモ、イイカナ……?)
(アイツラモ喰ッチマオウゼ……)
(俺ハ女ガイイ……)
(アタシハ、眼鏡ノ男ガイイワ……。綺麗ダシ……)
(アノ男ハ……? 『出来損ナイ』ダケニ、 不味ソウダナ……)

と、カイムの疑問に答えるように、闇から声が漂ってきたのだ。
 声は猿人を『

』と言った。
 『喰べていいのか?』とも――。
 なら、声の主たちは猿人の子供たちなのか?
 そして、死んだとはいえ、肉親を『

』気なのか?
 ゆらり、とあちらこちらの樹々の陰から現れたのは……。
 ああ、それはまさしく、先程、首を撥ねられた猿人そのものであった。

「ククク、逃ゲラレナイヨ?」
「『結界』ヲ張ッテオイタカラネ」
「怖イカ? ダガ、誰モ助ケニハ来ナイゾ」
「ククク……」
「ハハハハ……」
「お喋りは終わったかい?」
『…………』

 義人の一言で、猿人たちが笑いを止めた。

「ここに『結界』があることはわかっていたからね。入る前に式神を放っておいたよ。ここを四方から取り囲むように、〝四神(しじん)〟の力を与えてね。だから、出入りは自由。『囚われの身』なのは君たちさ」

 ――四神というのは、風水などでいうところの〞玄武(げんぶ)〟〞青龍(せいりゅう)〟〞白虎(びゃっこ)〟〞朱雀(すざく)〟の四聖獣のことを指し、それぞれが〞玄武〟=北、〞青龍〟=東、〞白虎〟=西、〞朱雀〟=南――の東西南北を司っているとされる。
 中国の国々や、日本の平安の都などは、

を基本思想にして造られていた。
 平安京の朱塗りの南門は『朱雀門』と言ったが、それは

から取られていた。〞朱雀〟は〝朱〟色で表わされていたのだ。
 それから、義人は続けて言った。

「真奈は範子ちゃんを守って……。あれ? どこに行っちゃったかな?」

 義人が振り向くと、真奈の姿はそこになかった。

「えっ!? あっ……、真奈っ!? 真奈っ!!

 その言葉に範子も辺りを見回して捜したが、真奈を見つけることは出来なかった。
 範子は今まで、真奈がいなくなっていることに、全く気が付かなかった。
 だが、義人は気にした風もなく、

「ま、いいか。じゃあ、カイム君。真奈の代わりに範子ちゃんを頼むよ」

と、言った。役割を勝手に決める義人に、すかさずカイムが喚き返した。

「てめっ……!!  何で俺があんなガキを……。あいつらは俺がっ…………」
「怪我人が何言ってんのさ。それに……」
「あ!?
「一匹にあんなに手間取ってたのに、これだけの数、相手に出来るのかい?」
「ぐ……。あ……あれは、たまたま……」

 図星を突かれ、言い淀むカイムに義人は、

「ここは、僕に任せてもらおうか」

と、宣言した。
 それを聞いた猿人たちが、

「クククク、コイツ、俺タチニ勝ツツモリデイルゼ?」
「フフフフ、夢デモ見テルンジャナイカシラ?」
「ハハハハ……」
「クククク……」
『ハハハハ……』

 闇に猿人たちの笑い声が響く。
 だが、義人は動じることもなく、

「……遅いね。周りを見てごらん? 戦いはもう始まってるんだよ?」
『……!?

 きき……きき……。
 きち……きちきち……。
 きぃ……きき……。

 猿人たちが周りを見回したとき、樹々の陰から、墓石の陰から、あるいは猿人たち自身の影から――。
 無数に這い出してきたのは、あの『式鬼』たちであった。

「ナ、何ダ、

ハッ!?
「グァッ!? コイツラ、噛ミ付イテ……!!

 今回現れたのは、あの

ではあったが、サイズが違っていた。それらはおよそ、三、四十センチメートル……。大きければ六十センチほどであった。
 しかし、特筆すべきは、その外観――。
 大きな額と口、ぽっこりと出っ張った腹。そのくせに手足は細く、胸などは

が浮き上がるほどに痩せ細っている。
 その姿は、地獄絵によく描かれる、飢えを満たすことが出来ずに、いつまでも喰らい続ける『餓鬼』の姿、そのものであった。
 それらが数え切れないくらいに現れ、小さな口と牙で、猿人たちに次から次へと噛み付いていったのだ。

「ギャアッ……!?
「グァァッ……!!
「マ、マサカッ!? 

……!?

 その言葉通り、式鬼が噛んだ後は、ぽっかり、と肉が

いく。

「そうだよ、君たちが今までしてきたことさ。何を驚いてるんだい?」

 氷の如き冷酷さで義人は、動揺する猿人たちに告げた。

「ガアアッ……!!

 襲いかかる式鬼たちを、猿人は掴み、握り潰しては投げ捨てる。潰された式鬼は、ただの〝紙切れ〟へと戻った。
 しかし、式鬼たちの数が圧倒的に上回っていた。
 一匹の式鬼を掴む間に二匹が噛み付く。二匹の式鬼を叩き潰せば、三匹が喰らい付く――。

 やがて、肉を削がれ、血を飲み干され、力尽きた猿人たちが倒れていく。倒れた上にも式鬼たちが、それこそ〝餓鬼〟のように群がり、猿人たちは骨になるまで喰い尽されていった。
 その光景はまさに地獄絵図。
 範子はもとより、カイムですら凄惨な光景に声を失った。

「……タ、助ケテ……クレ……!! 死ニタ……ク……ナ……」

 一匹の猿人がぼろぼろになりながらも、義人の足元まで這い寄り、息も絶え絶えに許しを請うた。が、

「ガフッ……」

 吐気と共に絶命した猿人の額から、義人の掌中までを白刃が繋いでいた。

「……ダメだね。君たちは〝命乞い〟する人たちを笑って喰ったんだろう?」

 冷気を放つほどの冷たい声音で、義人はそう言った。
 戻した掌には一文字、〝

〟と描かれた呪符が一枚握られていた。猿人の父親の首を切り落としたのも

であった。

「貴様ァ……、ヨクモッ!!

 一際、巨大な体躯の猿人が義人の背後から襲いかかった。こいつだけは式鬼たちの襲撃を何とか凌いでいたのだ。……とは言え、その身体は既に血塗れだ。所々が、ぱっくり、と表皮が裂け、それのみか、筋肉組織までが覗いている。
 義人は知ってか知らずか、背を向けたままだ。
 にたり、と微笑に顔を歪めた猿人が殴りかかろうとした瞬間、地に落ちた義人の黒い影が――



「……!?

 

は鋭い槍状に幾本も伸び、殴りかかる姿勢の猿人をいともあっさりと刺し貫いた。
 それは影であるにもかかわらず、確かに

をも持っていた。
 串刺しになった猿人は断末魔を上げることもかなわずに息絶え、義人の影が元に戻ると巨体は音を立てて大地に崩れ落ちた。

(俺はこんな奴を相手にしようとしてたのか――? もし、本当に俺と戦っていたら……)

 カイムは戦慄を覚えながら、義人を見た。カイムがあれ程にてこずった相手を、義人は十五匹、まとめて葬ったのだ。
 僅か、十分ほどで――。
 なんの苦も無しに――。
 こちらに向き直った義人は、優しい微笑を浮かべていた。

 

変わりなく――。
 

――。

 それゆえに、恐ろしかった。
 その背後には、猿人たちの白骨だけが先ほどの戦いの名残を示していた。だが、それも――。

 ぽりぽり……。
 ぴちゃぴちゃ……。
 ぽりぽり……。
 ぴちゃぴちゃ……。

 式鬼たちの、猿人たちの白骨すらも齧り喰らう音と血を啜る音が、夜の墓場に小さく、だが確かに響く。その音が、より凄惨な光景を引き立たせていた。
 やがて、不気味な音は鳴り止み、同時に式鬼たちの姿も闇に消えていた。
 カイムは額に噴き出る汗を拭った。全身が冷や汗で濡れているような感じがした。

(こいつは一体……!?

 カイムの思考を遮るように、義人が言った。

「さて……と。これから、君はどうするのかな? 仇討ち……済んだんだろ?」
「あ……!? ああ、そうだな……」

 どうしたものか、といった感でカイムは呟いた。
 母親の仇――と、長年、追いかけていた相手はこの手で殺った。
 達成感もある。
 だが、だからこそ、その後のことまでは、何も思い付かなかった。

「暇だったら、真奈を捜すの手伝ってくれないかなぁ?」
「ああ!? 何で俺が……」
「まだ、終わっちゃいないから……さ」

と、義人は飄然としながら言った。にこにことした顔で――。

「……何だよ? それ?」
「前に言ったじゃないか。こいつらは下っ端だよ……って」

 指を振りながら話す義人に、カイムが怪訝な顔をする。

「じゃあ、何か? まだ、

ってのか?」
「そういうこと。もしかすると、真奈が何か……」
「あん……?」
「ん? いや、こっちの話。あ、範子ちゃんは大丈夫だね? 気分はまだ悪いかな?」

 義人の質問に範子は、

「……あ、はい。平気です」

と、気丈に答えた。あんな血生臭い戦いを見せられて平気なわけもなかろうに。
 ただ、義人について行きたい――との、健気な想いからの発言であった。そんな範子の気持ちを知ってか、義人は地べたにしゃがみ込んだままの範子に手を差し伸べて、言った。

「それじゃ、行きますか」


 
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