第四話
文字数 5,043文字
夜の闇を駆け抜ける義人は、遠くに歩く綾子の姿を認めていた。あっという間に追いつき、
「綾子ちゃん、他の二人は?」
と、聞いた。
夜道でいきなり背後から声をかけられた綾子は、ビクリ、と身体を震わせた。しかし、それが義人とわかると、
「……えっ!? あの二人とは家の方向が違うから、さっき別れました……けど……!?」
「どっちかな?」
「智恵子と範子はあの角から右手のほうに……」
「ありがとう」
声を後に残し、義人は踵を返して疾り出した。角を曲がって辺りを見回し、二人の姿を探す。
二人は少し進んだところにいた。
智恵子は地に倒れ伏し、範子は塀を背にしゃがみ込んでいた。月明かりが、恐怖に歪む範子の顔を浮かび上がらせている。
範子は常軌を逸した恐ろしさのために、ずり落ちた眼鏡を戻すことも出来ず、声すらも出せないでいた。
その範子の前に立ち塞がっているのは、背中の大きく曲がった異形の影――。
大きく顎が突き出した顔付きは、〝人間〟のものでは有り得ない。見れば、手足も異様に細く、そして長い。
それにも増して不気味なのは、夜の中でも妖しく輝く血に餓えたその瞳――。
不意に現れた義人を見るその赤眼は憎悪に彩られ、突き出した顎からは低い唸りが涎とともに零れだす。
「ひっ……」
「範子ちゃん、動かないで」
恐怖から
「大丈夫。僕が絶対、助けるから。だから、じっとしてるんだよ。ね?」
「……は、はい」
その言葉に範子がコクン、と頷いた。義人の笑顔には人を、ほっ、とさせるものがあった。
それ
が、範子に義人を信じさせたのだろう。範子は壁を背にしたまま、情勢を見守ることにした。
義人はスラックスのポケットから数枚の紙を取り出した。月明かりに、その紙に何か一文字、描かれていることだけは範子にも見て取れた。
義人はそれを何気なく地面に投げる。吸い殻を投げ捨てる様にも似ていた。
そして足先で軽く、トンッ、と地面を叩くようにしたのだ。
次の瞬間、アスファルトの表面が盛り上がり、何かの形を取り始めた。
見る見るうちに、それは『昔話』に出てくる〝鬼〟とも〝餓鬼〟ともつかないような姿になっていく。その体長は一メートルから、一・五メートルくらいのサイズまであった。
その数、六体。
「……さて。退くならよし。さもなくば……」
異形の〝
影
〟に向ける、丸眼鏡の奥から覗くその眼差しには、いつもの穏やかさは微塵もなく、戦いに臨む厳しさを湛えていた。その鋭い眼光に気圧されたか、〝影〟がジリジリ、と後退する。「今回は見逃してやる。……行け」
その声を合図に、〝影〟は大きく跳び退がって、そして――消えた。
それを見届けた義人が再び、地面を蹴ると〝鬼〟たちは元通りの平坦なアスファルトに戻った。
「無事だね?」
「は、はい……。あれは一体、何なんですか!?」
振り向き、範子に声をかけた義人は既にいつもの〝
にこ眼
〟であった。〝影〟が逃げ去ったのを見て範子も安心したのか、義人に問いかける余裕が出てきたようだ。義人はまずは倒れたままの智恵子に近付き、抱き起こしながら言った。
「う~ん、知らないほうがいいかも知れないよ?」
「そう……なんですか……!?」
範子の声に僅かな不安が混じる。
「知りたい?」
少し、からかう調子で義人が聞いた。
範子はちょっと戸惑ったが、しかし好奇心が勝った。恐る恐る、
「……はい」
と、答えた。義人は智恵子が気を失っているだけなのを確認しながら、
「
あれ
はね、〝闇のもの〟だよ。いわゆる『名
〟で呼ばれる〝モノたち
〟だよ」「妖怪……!? じゃあ、地面から出てきたのは!?」
「ああ、あれは『
と、普通の人が聞いたら、顔をしかめるようなことを、しれっ、とした顔で言った。範子も実際に見ていなかったなら、信用することはなかっただろう。
――『
〝
核
〟となるもの――例えば、それは水晶であったり、術者によって、操る『霊』の種類・ランク・一度に呼べる数は千差万別であるが、平安の御世に活躍した稀代の
これ
をよく使った――とされる。今も晴明の『その晴明の用いた呪符に印されていたと云われるのが、陰陽道で『陰陽五行』を表す〝セーマン〟とも呼ばれる、一筆書きの星の形をした『
義人はそこまでは話さなかったが、範子にすれば『式鬼』などの全てが奇妙に映ったかも知れない。理解し難い、といった表情を顔に貼り付けていた。
「……父さん……」
「真奈……?」
範子が『式鬼』や『人外のモノ』について思いを馳せているところに、少し遅れて真奈も現れた。それでも、かなり早い。
「何だ、真奈も来たのかい?」
義人が振り向いて言った。その腕に抱かれている智恵子を見て真奈が、
「智恵子は……?」
と、聞いた。義人は優しく笑いかけて、真奈に答えた。
「大丈夫。気を失ってるだけだよ」
「……そう……」
「…………」
智恵子の無事を聞いて小さく呟く真奈を、義人は黙って見つめていた。それから、
「僕は二人を送っていくから、真奈は家で待っといで」
「……はい……」
真奈は義人の言葉に素直に従って、家に向かって歩き出した。
真奈の姿が小さくなってから、義人は範子に一緒に来るように、と促した。
「智恵子ちゃんの家はわかるかな?」
「は、はい。知ってます」
「じゃ、行こう。範子ちゃんはその後でいいね?」
「はい」
智恵子を背に負ぶって歩き出す義人に遅れまい、と範子が足早について行く。
横に並び歩く範子が、義人に問いかけた。
「あの……、真奈さんは一人で帰してよかったんですか……?」
「ん? 大丈夫だよ、あの子なら」
相変わらず、にこやかな微笑で義人が答える。
「でもっ……。さっきのヤツがまだ、いるかも知れないし……」
「はっはっは、大丈夫、大丈夫。真奈は強いからね」
「……そうなんですか!?」
義人は範子の質問にただ、ニコリ、と笑顔で答えるだけだった。
それは真奈への信頼の証でもあったろうか。
智恵子を家に送り届けてから、今度は範子の家へと向かった。気を失ったのは、貧血によるものだ――と答える義人の顔を、智恵子の母は恍惚とした表情で眺めていた。
その様子を横で見ていた範子は、何故か苛立つ自分に当惑していた。
範子自身は気付いていなかったが、それはほのかな恋心だったかも知れない。
範子はこれまで小・中学、高校と、常に学級委員になってきた。
小さい頃は、
そんなもの
になどなりたくはなかった。しかし、クラスのみんなは何故か、必ず範子を選んだ。彼女なら、引き受けてくれる――。
そんな印象を範子は他人に与えてしまうタイプだったのだ。そのうちに、彼女も〝自分がやらなければ〟と思うようになった。中学の後半には、自分から進んで委員長をやるようになっていた。
学級委員長を長い間、続けてきたものだから、範子は今まで男子生徒を〝異性〟としてみたことがなかった。ただの同級生としか見れなかったのだ。
だからだろうか、初恋もしたことがなかった。
そこへ現れたのが真奈の父、義人だった。それも、恋を知らなかった少女が憧れるのも、仕方がないほどの美形ときた。
並んで歩いている間も範子は度々、義人の顔を盗み見ている。その頬は赤く染まっていた。思い詰めたように、ようやく範子が言った。
「あ、あのっ……! 義人……さんって、お幾つなんですかっ!?」
「うん? 僕の歳?」
「はっ、はいっ!」
聞き返す義人に、範子が緊張して答える。
「幾つに見えるかな?」
「あ、ずっとお若く見えます。……そう、大学生くらい」
「ははは、これは光栄だね。でも、僕はもう、おじさんだよ?」
そう言った義人は、どう見ても二十歳過ぎ。
「そんなことないですよ!! まだ若いですっ!!」
「そうかい? じゃ、そういうことにしとこうか」
手を後ろ手に組み、夜道を散策するように木々を眺めながら歩いていた義人が、柔らかな微笑で範子に語りかける。
天上の神が、愛しい子らを見つめるような、そんな〝微笑〟で――。
それだけでもう、範子は浮かれたような気持ちになってしまう。
「あの……。こんなこと聞いて失礼かも知れませんけど……、いいですか?」
「なんだい?」
「あ、真奈さんのお母さん……って、見かけませんでしたけど?」
「母親かい? う~ん。もう、
いない
んだよ」少し困った表情になって義人が答える。範子が慌てて、
「あ、ご、ごめんなさいっ!! あたし、聞いちゃいけないことを……」
「いいんだよ。あの子の母親がいないのは、紛れもない事実だからね」
高く昇った蒼い月を眺めながら、しかし、暗さなどは少しも感じさせない声音で言った。
「……亡くなられたんですか?」
「そう。あの子が生まれてすぐにね」
「……」
「だからかなぁ……? あの子の感情が希薄なのは」
「希薄……ですか?」
範子が不思議そうな顔をした。
「感情表現が乏しい――と言えば、わかりやすいかな。あの子は母の胎内に、感情のほとんどを置いてきてしまったんだよ。知識としてなら、わかってるんだけど」
義人の言葉に、範子はますます理解出来ないといった顔で聞き返した。
「感情がない……ってことですか!?」
「ないわけじゃないんだけどね。ま、そんなトコかな」
話の内容に比べて、とても明るい口調で義人が肯定した。その声には、我が子に対する悲壮感など微塵もない。
義人は悲観的な考え方などしない、楽天家と言っていいタイプ――と範子は思った。
「……だから、素っ気ない態度に見えても、決して悪気なんかないんだよ。そこんとこだけは、わかってやって欲しいな」
「はい、わかりました」
微笑を見せて娘のことを語る義人を見ていると、範子は少し真奈が羨ましくなったが、それでも神妙な顔付きで頷くのだった。
「ここです」
範子は家の前で、義人を振り返って言った。
「わざわざ、遠い所までありがとうございました」
「ホントにご両親に遅くなったこと、説明しなくてもよかったのかな?」
「はい。それに義人さんが来たら、却ってウチの両親、怒っちゃいます」
「うん?」
「だって義人さん、大学生くらいに見えるから、ボーイフレンドだって思われちゃう」
「ふ~ん。そういうものかな?」
「そういうものですっ!」
範子は俯き加減で顔を赤らめて、そう言った。そんな範子を、義人は何となく納得したような顔で眺めていた。
「じゃ、お休み。いい夢を」
「はい。……お休みなさい」
微笑み、片手を上げて挨拶して立ち去る義人の後ろ姿を、名残惜しそうに見つめていた範子はやがて、自分の家に入っていった。
義人は振り返って、それを確かめてから、家路を辿る。
その際、ポケットから先ほどと同じ〝呪符〟を取り出し、何かしら呟くと、呪符は形を変えて掌大の〝
梟は翼を広げ、音もなく羽ばたくと範子の家に植わっている木へと飛んでいった。ふわり、と枝の一本に降り立つ。そして、そのまま範子の部屋を見張るように、静かに羽を休めた。
義人は梟を範子の護りにつかせたのだ。
再び帰路を歩む義人は、何かを見つけたように顔を月夜に向け、手を宙に伸ばした。
すぐに夜空から一匹の蝙蝠が舞い降りてきた。蝙蝠は腕に降り立つや、一枚の呪符に戻った。
これは綾子につけていた分だ。念のために――、と義人が遣わしていたのだった。
智恵子はもちろん、孝史たちにも護衛を差し向けていた。彼らが無事、家に帰り着いたのを確認した後、戻ってくるように命じていたのだ。
ただし、〝闇の者〟に接触した智恵子と範子には、しばらくの間、護衛させておくことにした。再び、襲われる恐れがあったからだ。
梟の〝式鬼〟を護衛に残し、義人は範子の家を後にした。