第六話

文字数 7,041文字


 長かった夜が明けた。
 朝の穏やかな日差しに小鳥たちが飛び交い、樹々の間を夜露を含んだ風が吹き抜け、青々とした若葉を揺らしている。太陽が眩しいくらいに、生命を感じさせている。
 夏はすぐそこまで来ていた。

 七時過ぎに起き出した真奈を、香ばしい味噌汁の香りが迎えた。台所からネギを刻む音が響く。フライパンで何かを焼く音も聞こえる。
 作っているのはもちろん義人だった。
 傍には真奈のために作ったのだろう、弁当箱に詰められた御飯とおかずが、冷ますために蓋をせずに置いてある。並べられた蛸さんウインナーや卵焼きが、食欲を催す香りを漂わせていた。

「おはよう、真奈」
「……おはよう……」

 振り向かず、背を向けたままで挨拶する義人に、真奈も返事を返す。

「すぐ、朝御飯だからね。先に着替えておいで」
「……ん……」

 真奈は小さく頷くと、洗面所へと歩き出す。
 それを見届けた義人はフライパンの目玉焼きを、手首の軽いスナップだけで宙に放り投げるや、テーブルに置いてあった二つの皿の上へと、見事に滑り込ませたのだった。


「……いただきます……」
「はい、どうぞ」

 両手を合わせ、真奈は朝食を取り始めた。その横ではTVの番組が朝から騒々しい。目覚めたばかりの人を急かすような、慌ただしいリポーターの声が流れてくる。
 熱い味噌汁を口に運ぶ真奈の隣で、義人が、

「う~ん? 朝から落ち着かない番組だなぁ……」

と、リモコンを持って、チャンネルを順次、変えていく。そんなことには見向きもしないで、真奈は湯気の昇る味噌汁を啜っていた。
 義人は、某〝国営放送〟のニュース番組でリモコンの操作を止めた。

「ん~、やっぱり朝はシンプルな番組に限るねぇ」

 そう言った割には、ニュースを無関心に聞き流して、朝食に夢中だ。目玉焼きを美味そうに頬張っている。
 その手が、ピタリ、と止まった。

「……どうしたの……?」

 それを見て取った真奈が問いかけた。

「ん? いや、ちょっとね……」

 その眼は流れているニュースに向けられていた。ニュースは昨夜、東京都内で起きた、奇妙で凄惨な殺人事件を報道していた。
 その事件とは、殺された女性の首から上が

――というものであった。
 しかも

が、刃物を使われたものではなく、力任せに

――というのだ。更に、腹部が喰い破られ、臓腑が失われていたらしい――と、現場リポーターが告げた。
 ニュースを聞き終わった義人は小さな溜め息を漏らし、湯気が立ち昇る味噌汁を一口飲み込んだ。

「やれやれ……。〝忠告〟は効果がなかったようだ」
「……〝忠告〟……?」
「そっ、忠告。僕は今晩から、少し

をするよ。真奈はどうする? 家で待ってるかい?」
「……

と関係があるの……?」

 TV画面を見ながら真奈が聞き返した。義人は頭を傾げて、

「さぁ、どうだろう? 多分、〝当たり〟だろうけど……」
「……ふうん……。じゃあ、私も……」
「ん、わかった。どうせ、相手も夜にならないと動かないだろうから、とりあえず学校に行っといで」
「……はい……。ご馳走さま……」

 そう言ったときには、真奈は朝食を取り終わっていた。
 すでにニュースは、昨日行われたプロ野球の話題になっていた。


 真奈が学校へ行った後、義人は朝食の後片付けを終えると早速、出掛けることにした。
 今のうちに、殺人現場に行こうというのだ。
 いつもの格好に、薄手の黒いジャンパーを羽織り、義人は家を出た。
 そのまま駅へと向かい、何度か乗り換えつつ、通勤ラッシュも終わろうという頃合いの新宿駅で降りた。
 後は、徒歩だ。
 そして、TV画面に映っていた周りの風景を頼りに、目的地へと、一寸の迷いもなく進んでいく。

 辿り着いたのは、ビルの裏路地の、行き詰まったところであった。そこだけは何故か、ビル街の喧騒から、遠い昔に取り残されているかのようだ。
 すでに警察関係者は引き揚げ、陽の差さない薄暗い路上は凄惨な事件の痕跡を、アスファルトに染み付いた、流し切れなかった血痕という形で残していた。辺りには、常人では分かるはずのないほどの薄さで、淀んだ空気に血臭が漂っている。
 その血臭には、ほんの微かに瘴気も混じっていた。
 こんな昼間でも薄暗くて薄気味の悪い場所へ、わざわざ女性が真夜中に自ら足を踏み入れるとはとうてい思えなかった。
 だとすれば、

――と考えるのが自然だ。
 いや……〝

〟というべきか。

 一人じっと立ち尽くす義人は、何を感じ、何を考えているのだろうか。
 その義人がふと、何かを発見したのか、数歩、前に出た。その場にしゃがみ込み、何かを摘み上げる。それは長さ十。
 野良犬や猫にしては長過ぎるし、細い割に、針金のような剛毛というのも妙だ。
 義人は血を吸い込んだ獣毛を見つめ、それから辺りを見回した。そして、路地裏の入り口から見て、右手奥に位置する瓦礫に近付いた。片隅に何気なく転がっている石塊を蹴倒す。
 人間の頭くらいの大きさの石の裏側に、『曼荼羅』様に何かの紋様が組み合わされた図が描かれていた。
 それを見た義人は、

「『八門遁甲(はちもんとんこう)』の応用か……」

と、ぽそりと呟いた。
 次に左手奥へ、次いで入り口近くの両脇に進む。そして先ほどと同じようなサイズの石を転がし、裏に全く同じ紋様が描かれているのを確認した。
 この路地裏の四方に、〝誰か〟の手によってそれが配置されていたのだった。
 しばらく何かを考え込んでいた義人は、手にした獣毛を捨てて、路地裏から出て行こうとしたが、ぴたりと足を止め、立ち止まった。
 路地の出口には、昨夜の青年――カイムが立っていた。

「どうして、アンタがここにいる?」
「その質問はそっくりそのまま、お返しするよ」

 険しい顔をしているカイムの問いかけにも、義人は平然としたものだ。すかさず、にこやかな顔で切り返した。
 カイムも義人と昨日同様に〝押し問答〟をしても仕方がないと思ったのだろう。素直に答えた。

「……昨日の事件が、気になっただけさ」
「奇遇だねぇ? 僕もなんだよ」
「ちっ……。アンタと(おんな)じだと思うと、目眩がするぜ」
「心外だなぁ……。君とは長い付き合いになると思ってるんだけどなぁ」
「はっ! 俺としちゃアンタとは、これっきりにしたいねっ!!

 カイムは心底から、そう言った。しかし、義人は、そんなことはどこ吹く風――といった趣で、話を続ける。

「で、君は

で、何かわかったことはあるのかな?」
「あったとしても、アンタにゃ教えねぇ」
「はっはっは、嫌われたもんだねぇ」
「……。……アンタは何かわかったのかよ?」
「あっても教えな~い」
「ああ!? ……んだとぉ!?

 人差し指を口に当てて、とぼける義人の言葉に、カイムが眉間に皺を寄せて問い返す。このカイムの凄んだ顔を見れば、たとえ極道の者であっても素直に聞かれたことに答えるだろう。
 その口調には、明らかに怒気が含まれていた。
 それを知ってか知らずか、義人は、

「君と同じことを言ったまでだよ? それとも、文句でもあるのかな?」
「……ちっ……。わーったよ。知ってること、話しゃいいんだろ」
「そうそう。人間、素直じゃなきゃ」
「……」

 なんとも困ったような、やれやれといった顔をして肩をすくめ、カイムが唾を吐き捨てた。それを見て、義人が優しい微笑を零す。その姿はまるで、やんちゃ坊主を諭す父親のようにさえ見える。

「……ここ一月(ひとつき)の間に、十八人の若い女が殺されてる。死因は全部、巨大な〝

〟に咽喉笛(のどぶえ)を喰い千切られて即死だ。ついでに腹ん中も、

だ。……俺は〝

〟だと思う」
「ふ~ん。それから?」
「……。今んとこ、そんだけだ」
「え? ……それだけ?」

 カイムの言葉を聞いていた義人が、意外そうな顔をした。それに気付いたカイムも憮然として答える。

「仕方ねぇだろ。情報が足りねぇんだから。俺だって、何もかも知ってるわけじゃねぇ」
「ま、そりゃそうだ。でも、今回のは〝奴〟じゃないね」
「なんでだ!? 何故わかる……!?

 義人の発言に、カイムが声を大きくして問い詰める。自分の意見を、真っ向から否定されたからでもあった。誰でも、自分の考えを、否定や訂正をされるのは嫌なものだ。

「昨日会った奴と、ここで拾った獣毛とは〝臭い〟が違う。

だよ」

 そう言った義人の視線は、いつもの

と比べて鋭いものを湛えていたが、カイムは気付きもしなかった。

 「俺は警視庁の遺体置き場に忍び込んで、この眼で見て来たんだ。あの噛み傷は確かに……」
「奴と同じ化け物が他にもいたら?」
「……んだと……?」
「奴とは違う〝

〟だとしたら、どう?」
「はっ、あんなのが、そう何匹もいるわけが……」
「そう、言い切れるかい?」
「……」

 義人に聞かれ、再びカイムが言葉に詰まった。
 その意見を完全に無視するだけの決定的な情報は、カイムの手の内にはなかったからである。可能性という観点から見れば、有り得ないことではなかった。
 それを示唆する、自分の目の前に立っている人物は、奴と遭遇し、そして生き延びているのだ。
 しかも、本人の弁によれば、奴は逃げ出した――という。

「僕はさっき、現場に落ちてた毛を何本か拾ったんだけど、複数の匂いがしたよ。君が追っている〝奴〟が〝誰か〟の下っ端だとすれば、他にもおんなじ奴が何匹かいても不思議じゃないよね?」
「……」

 義人の言には説得力があった。
 そして不思議なことに、今の義人からは、カイムを納得させるだけの威圧感――風格といってもいいだろう――すら感じられたのだった。

「奴が下っ端……ってんなら、黒幕は一体、誰なんだ!?
「そこまでは、僕にもわかんないね。ただ……それなりには〝大物〟だろうね」
「それなり……って、アンタ……」
「君に

〟を〝物差し〟にして考えた場合だよ?」
「……ちっ……。勝手にしろ」

 舌打ちして、カイムはそっぽを向いた。自分を計りにされては、もはや何も言えなかった。
 しかし、この勝気な青年は文句を並べずにはいられなかったようだ。

「……アンタなら、捕まえられた――ってのか?」
「ん~、どうだろうね?」

 義人の口調には、カイムとの会話を楽しむ響きが感じられた。もっとも、そんな雰囲気に耐えられるほど、彼は出来た青年ではなかった。

「……舐めたコト、言いやがる……。今度会ったときゃ、問答無用でアンタにだって〝仕掛ける〟ぜ?」

 それは、義人に対する〝宣戦布告〟であった。だが、義人はさらり、と、

「やってごらん。

……ね」

と、片手を上げて言い捨て、路地裏から出て行った。その後ろ姿を一人、取り残されたカイムは憮然とした表情で見続けていた。


「ねぇ、真奈っ。学校終わったら、どっか、遊びに行かない?」

 そう言い出したのは智恵子だった。
 昼休みに一人で弁当を広げていた真奈を、自分たちのところで一緒に食べようと言い出したのも智恵子だった。他に、範子と綾子、めぐみもいる。
 昨日、得体の知れないものに襲われたことなど、すっかり忘れ去ってしまったかのようだ。
 この娘はどうも、みんなと一緒に騒ぐこと自体が好きらしい。
 綾子たちのグループでも、いつも率先して、遊びの計画を立てるのは智恵子だった。

「原宿、渋谷……。青山なんてのもいいんじゃない?」
「あっ、いいねっ。行こうよ、真奈! 真奈の歓迎も兼ねてさっ!! 綾子は行くでしょ。範子はどうする?」

と、これはめぐみだ。綾子は絶対に行くもの、と決めつけている。
 確かに、綾子はこういったことで、断った試しがない。本人もお弁当の卵焼きを口に咥えながら、こくこく、と頷いている。
 先日、真奈の家を訪れて以来、仲が良くなった範子にも、そう聞いた。
 だが、その範子はどうしようか、と思案していた。みんなと遊びにも行きたいし、その一方で、何かしらの理由を付けて真奈の家に寄って、義人の顔を見たい――とも思っていたのだ。だから、ここは真奈より先に返事を返すわけにはいかなかった。
 そこで範子は、自分の意見は答えずに、

「真奈はどうするの? 行く?」

と、真奈の返答を促した。すると、

「……今日は駄目……。……出掛けるから……」

と、黙々と弁当を食べながらの、静かな断りの言葉が返ってきた。

「何だぁ……。真奈、出掛けるのォ?」

 智恵子が心底、残念そうな声を上げる。めぐみや綾子も落胆の色は隠せなかった。
 その中で、範子だけが複雑な表情を浮かべていた。残念なような、嬉しいような――。
 真奈が遊びに行けない――というのに、心のどこかでは、義人の傍に真奈がいない――と、安堵する自分がいた。
 真奈がもし、一人で出掛けるのなら、義人はあの広い洋館に一人きり――。
 その状況を逃す手はなかった。

「出掛けるって……。真奈、一人で?」

と、範子は何食わぬ顔で聞いた。高ぶる胸の鼓動を抑えながら。
 演技には自信があった。
 今まで本当の自分を曝け出さずに、優等生であり続けてきたのだ。少なくとも、みんなに気取られることはない。
 真奈にさえ、気付かれなければいい……。
 そんな範子の心の奥底の動きを知ってか知らずか、真奈は静かに視線を向けると、

「……ううん。お父さんも一緒……」

と、範子に告げた。それを聞いた範子は、

「そ、そう……。……うん、そうよね。一人じゃ、危ないものね」

と、悲観する内心を押し隠すように精一杯の、しかし、ぎこちない微笑を向けて言った。
 結局、智恵子たちは遊びに行くことをやめた。
 主役たる真奈が不在では、盛り上がりに欠けるということで、週末に日延べと相成ったのだ。真奈も週末の土曜日なら都合を付けることを約束し、智恵子たちもそれで手を打った。
 放課後になる頃までには、どこから聞き付けてきたのか、孝史や武生がやって来て、そのときには自分たちも参加したいと申し出てきた。

 授業が終わり、いざ帰る段になって範子が真奈に、途中まで一緒に帰ろうと言い出した。他の三人とは、既に別れた後で――である。わざわざ、真奈のところまで引き返してきたのだ。
 その目的は言わずもがな。義人について、あれこれと聞きたかったのが一つ。
 もう一つは、あわよくば二人が出掛けるときに、自分も同行出来るかも知れない――と、思ったからであった。

 しかし、その一つ目の思惑はあっさりと外れた。
 真奈は義人について、あまり語らなかったのだ。
 いや、語らないことはなかったが、自分の父親のことをわかっていない、よく知らない……。そんな印象をすら範子に与えた。

 例えば――。
 義人は何の仕事をしているのか――と尋ねれば、いつも家にいる――とだけ答え、歳は幾つなのかと聞けば、首を傾げて、わからないと答える。
 単純に考えれば、真奈の歳の娘がいるのだから、どんなに若く見積もっても三十半ば過ぎ……といったところだろうが、どう見ても義人は二十歳前後にしか見えない。
 まるで、歳を取っていないように……。

 父娘でありながら、娘が父親の実年齢を知り得ないとは奇妙な話である。
 洋館に着く頃まで範子は怪訝な顔をしていたが、気を取り直して、再び真奈に聞いた。
 それこそが本題だったのである。

「ねぇ……、真奈。今晩、出掛けるのって、あたしもついて行っちゃダメかな……?」
「……? ……危ないかも知れないけど……いいの?」

 真奈の答えは、範子が想像していたものとは異なっていた。当然、断られるものと思っていたからだ。だが、期待していたようなものとも違っていた。
 危険かも知れない――と真奈は言うのだ。
 だから、範子は両の瞳を見開いて、問い直した。

「危ない……って、一体どこに行くの!?

 しかし、それには答えず、真奈が門の鉄柵に手をかけたそのとき、声は範子の背後からかかった。

「どこ……って、街に行くんだよ。人が集まりそうな(とこ)。当てもなく……ね。一緒に行くかい?」

 突然のことに、範子は肩をビクリ、と震わせて振り返った。
 物事に動じることの少ない真奈でさえ振り返らせた声の主は、銀縁眼鏡の奥の瞳を細くさせて微笑んでいる義人であった。

「お帰り、真奈」
「……お父さん……いいの? 連れて行って……」

 顔色一つ変えることなく、真奈が義人に問うた。

「いいんじゃない? 〝行きたい〟ってんだからさ」
「……責任はお父さんが持ってね……」
「いいとも」

 にっこりと笑顔で義人が答える。傍で聞いていた範子には何のことやら、さっぱりな会話であった。

「あ、あの……。ホントにいいんですか? あたしなんかがついて行っても……?」

 初めは一緒に行きたいと思っていたものの、自分がいては邪魔なのではないか――と、思い至ったらしい。
 元々、範子は気の利くタイプであったし、義人のことがなければ、ここまででしゃばったりはしなかっただろう。

「うん? 構わないよ。どうせ、渋谷辺りをぶらつくだけだからね」
「ぶらつくだけ……!?

と、範子が義人の言葉を繰り返した。

「そっ。今日はその辺りだと

るんだけどね」
「その辺り……って、何ですか!?
「ん~。ま、何かがあるかも知れないってこと」

と、不安げな範子に、義人はウインクして見せた。たったそれだけで、範子の顔に安堵の色が浮かんだのだから、大したものだ。

「じゃあ、そろそろ出掛ける準備をしようか。真奈、着替えといで。ああ、それから範子ちゃんに適当な服を貸してあげて。制服じゃあ、さすがに都合が悪いだろうしね」


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