第十八話
文字数 5,373文字
義人は明かりを消したリビングの窓から独り、月を見ていた。付近の住民曰く、『お化け屋敷』こと、義人の自宅である。
帰宅の足にはタクシーを使った。真奈は血だらけだったし、範子も真奈の血で服を紅く染めていたからだ。タクシーの運転手は不審そうな目で見ていたが、義人が余分に一万円札を握らせると、素直になった。
家に着くや否や、義人は昏睡したままの真奈を部屋に運び、治療を済ませた。と言っても、あの札を傷口を塞ぐように貼っただけである。そしてカイムの腕を同様にくっ付けた後、着替え終えた範子を送っていった。
夜遅くに帰宅した範子を叱ろうとした母親には義人が説明した。その間、母親は義人の顔を見つめて、蕩けっぱなしであった。
往復一時間ほどで義人が戻ってみると、カイムは疲れからか、宛がわれた部屋で眠っていた。よほど疲れていたのか、カイムは熟睡していた。そっと覗いてそれを確認した義人が、こうして居間でぼぉ~と月を眺めているのだ。
と、ふいに、
(…………様……)
と、音にならない程度の声が聞こえた。空気が僅かに揺れた、と言ってもいいくらいのものであった。
またもや、
「…………ル……様……」
と、今度は微かに聞こえる声――。
同時に何もなかったところから影が起き上がった。影であるのに、
それ
)は立体感を伴っていた。跪くその影は、頭が大きかった。丸く大きな頭部には猛禽類のような嘴が備わっていた。雰囲気は梟である。それにトカゲのような長い尻尾も付いているようだ。月を見たまま、
「アモンか……。
こっち
での僕の名前は義人だよ。……その名では呼ぶなと言ったぞ?」と、台詞の前半と後半とでは明らかに口調の違う義人の声であった。影はビクリ、と震えた。怯えにも似た緊張が影に疾った。それは、恐怖からか――。
「はっ……、申し訳ございません。義人様」
と、かしこまって影が答えた。元の声音に戻った義人が問うた。
「で? 君が来るなんて、何の用だい?」
「はっ、東方のベール王が動き出しました。その数、およそ八万にございます」
「へぇ……。ベールゼブブは? 彼にはこんなとき、抑えるように言っておいたんだけどね?」
「はっ、ベールゼブブ様は五万の軍を率いて布陣。両軍、睨み合いとなっております」
と、影が頭を下げて述べた。
「そう。
こっち
はあと四、五日で片が付くと思うから、そうしたらそっち
へ行くよ。ベールゼブブには、それまで持たせるように言っといてよ」と、義人が言った。
「はっ、かしこまりました」
深く下げた影の頭が再び上がり、
「こちらの件……、やはり真奈様の力を狙ってのことでしょうか?」
と、義人に聞いた。
「まぁ……、そうだろうね」
ポツリと義人が、他人事のように言った。
「でも今回で無支祁が得た真奈の血の量じゃ、元通りの力を回復するにはまだ足りないだろうね。……また来るだろう」
「畏れながら……。真奈様のお父上はかの御方で……?」
「うん。
呆れたように義人が言った。続けて、
「せっかく僕が
席を譲ってやった
のに、人間の女性にと、遠くを見やりながら、呟いた。それから、ふと思い出したように言った。
「ああ、そうだ。アモン」
「はっ……」
「
「はっ!? しかし、奴めは無断で地上を徘徊した罪でここ七十年ほど、氷漬けの刑に処されております。刑期はまだ終わっておりませんが……?」
「〝
影
〟だけでいいから。聞きたいことがあるんだ」「はっ、そういうことでしたら、今すぐ……」
そう言って、影は床に同化するように形を失うと、そのまま消えた。また影がすぐに戻ってくると、その横にはもう一体の影がいた。
こちらは最初の影よりも、細身で背丈があるようだ。より真っ直ぐな嘴を持ち、飾り羽根のようなものは王冠らしき影に付いているようだ。
「何か御用でしょうか、義人様?」
「うん。
そこ
の部屋に寝てる子がカイムと名乗ってるんだけど、見覚えはないかい?」「はっ? そちらの部屋でございますか?」
「うん。どうかな?」
後から来た影が、すっ、と一時消え、またすぐに戻った。
「確かに覚えがございます。名は……そう、〞昌志〟……と言っていたように覚えておりますが」
「そうか。どれくらい前だい?」
「はい、あれはこの前の大戦が起きる十年ほど前のことかと……。独りきりでしたので、一興にしばらく面倒を看ておりました」
「そのときに、
「はっ、申し訳ございません。自分でもわかりませんが、何故か気になりまして。情勢も情勢でありましたので、子供一人でも生き抜けるように……と」
「うん、わかった。ありがとう。戻っていいよ」
「はっ。では……」
そうして、二つの影は消えた――。
「そうか、ベールが動いたか……」
暗い部屋に一人残った義人が、最初の影が告げた事案を思い出したのか、そう独り呟いた。ただし、その言葉には大した感慨も含まれてはいなかった。義人にとっては、その程度のことなのだろう。
「さて? 無支祁はどうでる?」
と、自らへ問いかけるような義人の言葉であった。
それから、二日ほどは何事もなく過ぎた。
真奈はまだ眠り続けていたが、あれだけの出血であったのだから止むを得ないだろう。
傷口はほとんど塞がっていた。負傷の度合いからすれば、驚くべき回復力であった。
もう一人の負傷者、カイムは腕もくっ付き、普通に動かせるくらいになっていた。関羽による切断面が鋭利であったこともあるが、義人の符が効いたようである。その効用に、カイム自身が目を見張っていたのだから。
あとは範子や孝史は勿論、綾子やめぐみたちも毎日、真奈の見舞いに来た。真奈はまだ会える状態でなかったが、義人は彼らを快く迎え入れた。
ところが三日目に、それまで毎日見舞いに来ていた孝史が来なくなった。学校も休んでいたから病気の可能性もあったが、家族から学校への連絡はなかった。
そして、孝史の来なくなった三日目から、入れ替わるように見舞いに来たのは大野であった。
「よく来たね」
無愛想に小さな花束を差し出す大野を、義人は優しげな微笑を浮かべて歓迎した。
「なんで、あんたがいんのよ?」
義人の入れた紅茶を啜りながら、智恵子が大野に言った。
「……いちゃ、
こう言われると、他の者も反論はし辛い。なにせ、怪我をした同級生の見舞いに来ているのだから。
大野は相変わらず、無愛想であった。それは、この場のような雰囲気に慣れていないためでもあった。
大野としても、ここまで係わったことでもあるし、真奈の怪我の具合も何となく気になって仕方がなかったのだ。しかしながら、
あの
大野が真奈の心配をするなど、範子らから見ても意外であったのだから、本人にしてみれば、なおさらであったに違いあるまい。「それで、真奈の具合は変わりなく……?」
と、範子が聞いた。
「うん、まだ眠ったままだけどね。まあ、もう大丈夫だよ」
義人が微笑み返しながら、そう言った。
「あの……、カイムって人は?」
「ん? カイム君? 彼なら心配ないよ。元気があり余ってるくらいさ」
そう言って、義人は範子に片目を瞑って見せた。
「ねっ、カイム君」
「……ああ」
義人の言葉を継ぐように、開けていたドアの向こうにいたカイムが頭をボリボリと掻きながら、大野に負けないくらいの無愛想さで答えた。
居間に入ってきたカイムは空いていた一人掛けのソファに黙って座り、義人が新しいティーカップに注いだばかりの紅茶を口に運んだ。
「あの……本当に大丈夫ですか?」
怖々と、しかし心配そうに聞く範子に、
「あ!?」
少し荒げた声を上げたカイムの足をコツン、と隣の席の義人が小突いた。その意味に気が付いたカイムは、付け加えて言った。
「あ……ああ、心配すんな。ほらっ、ピンピンしてらぁ」
範子に余計な気を使わせた――と感じたカイムは、力瘤を作る仕草をして見せて、大丈夫であることをみんなに示した。慌てていたので、少しぎこちない笑顔であった。はっきり言って、硬い。
「そうですか。良かった」
ほっ、として微笑んだ範子を見やるカイムの眼には穏やかな光があった。
そういや、こんなに落ち着いたのはずいぶん久し振りな気がするな――。
カイムはふと、和んでいる自分を感じた。
「真奈はまだ……ダメか?」
ふと気になったカイムが義人に聞いた。
「ん? カイム君も気になるのかい?」
「まぁな……。あんな傷だったからな」
「そう。でも、あれだねぇ。噂をすれば何とやら……って
やつ
でさ」「あん?」
カイムの問いに対して、答えにもなっていない言葉で返した義人に、皆が不思議な顔をした。
皆の疑問を顕わにした顔に、義人はゆっくりと扉を振り向いて、示した。他の者もそれに続いた。
皆が見たのは――扉の傍にいつの間にか、ひっそりと立つ真奈の姿であった。
怪我で何日も寝込んでいたにしては、真奈の顔はやつれてはいなかった。
ボタンの二、三個を外して、ゆったりと着たシャツの胸元から左肩にかけて、白雪のような肌に白い包帯が巻かれているのが痛々しかった。
義人がカイムの側に寄って空けたソファーに、真奈は静かに座った。
それまで大野は義人の隣であったから、それほど気まずくもなかったのだが、義人がずれたために真奈の隣に座ることになってしまった。そのためか、何となく居心地が悪そうに見える。眼のやり場にも困っている風情であった。
そんな大野の動揺に気付いているのか、いないのか、
「……島本君は……?」
と、今日いるのは、以前にもやって来たことのある面子だが、その中で孝史だけが欠けていることに気付いた真奈が、ぐるりと回りを見回して誰に問いかけるともなく、ぽつりと聞いた。
「孝史? あいつなら、学校休んでるよ。風邪かなんかじゃないかな」
真奈の問いに、武生が答えた。
「ふぅん……。あいつが風邪ねぇ……」
武生の言葉に相槌を打ち、紅茶を飲むカイムの傍らで、
「風邪だったら、
まだいい
んだけどねぇ」と、義人が独り、誰にも聞こえない声で呟いた。
それ
は、隣に座っていたカイムにさえ聞き取れないほどの、ほんの小さな囁きであった。ただ独り真奈だけが、ちら……と、義人に視線を向けた。
それから、皆でしばらく談笑したころに、壁の掛け時計が六時を告げた。
「さて……と。そろそろ、みんな帰らなきゃいけないんじゃないかな?」
義人の声に、皆が名残惜しげに席を立った。
「じゃあ、真奈。明日ね」
「じゃあ」
智恵子や綾子らが口々に別れを告げた。
「範子ちゃん。それと大野君だったね? ちょっといいかな?」
「あ、はい」
「……?」
義人が範子と大野を呼び止めた。何事かと怪訝な顔をする二人に義人が言った。
「二人に言っておかなきゃいけないことなんだけどね」
「何ですか?」
「この件はもうすぐ……、そう、明日か明後日にでも
「はい」
「でね。二人ともここまで深く首を突っ込んじゃってるから、聞いておきたいんだけど」
「はい、何でしょう?」
「……言いたいことがあるなら、さっさと言えよ」
この言葉遣いが悪いのは、もちろん大野だ。
「この件を最後まで見届けたいかい? それは当然、危険を伴うことだけど。下手をすると死ぬことになるかもしれない。それだけの覚悟があるかい?」
「えっ……!?」
「……!?」
範子と大野は、二人とも言葉を失った。二人とも、この件の結末を見届けたいという気持ちはあった。だからこそ、大野は見舞いにも来ていたのだ。
だが、こんな風に言われれば、二人が二の足を踏むのも仕方あるまい。
見届けたければ、死をも覚悟する必要がある――と義人は言うのだから。
「どうする? ここでやめたって、ちっとも臆病なんかじゃないよ。そのほうが普通なんだから。でも……もし、その気があるんなら、明日もおいで」
義人は静かに問いかけた。
「義人さんは護ってくれないんですか?」
範子が恐々と聞いた。
否定されたなら、どうしよう――。
そんな思いがあった。
「もちろん、護るよ。僕に出来る限りはね。でも、護り切れないかもしれない。そういう可能性もある――ってことは、分かっていて欲しいんだ。だから、〝覚悟〟って言い方をしたんだけれどね」
そう言って、義人はいつものように微笑んだ。見る者を安心させる微笑だった。
「……信じます。義人さんが護ってくれる……って。私、そう信じます」
範子が言った。純粋な眼差しで。恋をする少女の純真さが、そう言わせたのか。
「……覚悟なら、あるぜ」
大野がポツリと言った。
「今回のがどんな
そう言った大野の表情は何となく、はにかんで見えないこともなかった。彼なりの不器用な表現なのかもしれない。
「そうかい。じゃあ、明日もおいで」
ただ、義人があえて伝えなかったこともあった。この二人は無支祁に出会っている。これ以上、この件に関わらなかったとしても、無支祁が狙わないとは限らない。むしろ、狙われる可能性の方が高い――ということは内緒にして、義人は二人の覚悟を問うた。
その二人の言葉を聞いて、義人はやさしく微笑んだのだった。