第十九話

文字数 5,206文字

 
 翌日、真奈は学校に出た。体育の授業もあったが、難なくこなした。
 体操着に着替えたが、二の腕と左胸、そして首筋の切り傷は僅かな切り口の筋が見えるだけであった。それもいずれ消えるだろう。
 真奈は千五百メートル走で三分を楽々と切るという、女子としては破格のタイムで走りきった。昨日まで寝込んでいたとは、到底思えない成績だった。
 当然ながら、同級生で陸上部所属の部員が、

「ねえ、御子神さん。陸上部に入らない?」

と、誘ってきたが、真奈はにべもなく断った。断られた陸上部員は落胆した。それはそうだろう。真奈が部に入れば、インターハイや大会などで優勝を総なめにすることも夢ではなかったからだ。その他、女子サッカー部やソフトボール部なども勧誘に現れたが、真奈は取り合わなかった。
 興味がなかったからである。
 やがて放課後になり、真奈は範子以外とは別れて帰った。


 見届けたいと言ったもう一人、大野は放課後を待たずに、学校を抜け出していた。
 昨日、ああは言ったがやはり一緒に帰ることが照れくさくもあったし、また、一日経って冷静になって考えてみれば、ここまで関わる必要もないのでは――と思い直したのであった。
 大野はいつものスナックで取り巻きの女と水割りを飲んでいた。

「哲弥ぁ。最近ちっとも来ないで、どうしてたのさぁ~?」
「あん? どうもしねえよ。いいじゃねえか。こうして来てんだからよ」

と大野は、表面は以前と変わらずに、しかし、内心のもやもやとした感情を何とか隠そうとするようにそう言って、わざと威勢良くグラスを掲げた。
 その時、扉のベルを鳴らして、一人の男が店に入ってきた。
 振り返り、男をちらりと見た大野は驚いた表情で、ようやくに声を絞り出した。

「は、速水さん……?」
「よう」

 速水はやけに青白い顔で、大野を見ていた。

「どうした? お化けでも見たような顔して」

 そう言った速水の口元には、微かな笑みが浮かんでいた。見る者の心胆をぞくり、とさせる微笑であった。大野は背筋に何か、得体の知れないものを感じながらも、出来るだけ、態度に出ないように注意して、聞いた。

「い、いや……。速水さんの事務所が爆破された……って話だったんで。無事だったんすね?」
「あ? ああ、

……な。俺ぁ、あん時、いなかったんだよ。それで無事だったんだ」

と大野の問いかけに、速水はそう答えた。どこか、とって付けたような物言いであった。

「それより……よ。あの女の家、知ってんだろ? 案内しろよ」
「あの女……って、御子神のことっスか……?」
「ああ、御子神って言ったっけな、あの女。同じクラスなんだろ。だったら家くらい、知ってんだろ?」

 言葉使いは普通だったが、話の途中で速水は大野の胸ぐらを掴み、片腕で楽々と引き起こした。

「え……、ええ……」

 尋常でない雰囲気に呑まれ、大野はそう答えるのが精一杯であった。

「よし。じゃあ、案内しろ」

 速水は大野の襟元を片手で掴んだまま、引きずるようにスナックを出て行った。そして、車の助手席に大野を押し込み、エンジンを噴かして走り去った。
 速水の不気味な雰囲気に呑まれた大野の仲間たちは、そんな二人をただ見守るしかなかった―― 。


「どう、孝史? 調子は良くなった?」

 そう声をかけて、ドアを開けたのは、孝史の母であった。最近、体調を崩して寝込んでいた孝史を心配して、今日は仕事を早退したのである。
 孝史が寝込み出した時期に大きなプロジェクトの山場とかち合い、休むに休めなかったのだが、やっと一段落が付いて早くに帰って来たのであった。

「孝史……?」

 返事がないので、寝ているのかと思った母は、静かに部屋のドアを開けてそっと覗き見た。
 そこには――。
 開け放たれた窓に吹き込む風に、ゆらゆらとたなびくカーテン。そして、主の温もりを僅かに伝える、撥ね退けられた布団だけが残されていた。
 孝史の姿は何処にも無かった――。


 吹き抜けた微風に、庭に植わっている藤の枝が、さや、と揺れた。鈴なりに咲いた薄紫の花が、甘い芳香を風に乗せた。
 義人は何気ない素振りで、庭を振り返った。頬に触れていった微かな風を見送るように。
 またしても、一陣の風。今度のは、少し強い風だった。

「来たね」

 誰に言うともなしに、義人が呟いた。
 その声に真奈が振り向いた。

「ん?」

 カイムも少し遅れて振り向く。
 皆の視線の先には、無支祁を中心に、その左側に関羽。
 関羽は右手に青龍刀を持ち、黒鉄の甲冑を身に纏い、その上から若草色の着物を羽織っている。頭には同色の頭巾。珍しく、左の腰に長剣を帯びている。
 無支祁の右手側に、以前にやり合った黒衣の僧たちが紫色の法衣を着た老僧を真ん中にして陣取っている。
 老僧を含めた僧たちは総勢、十三人。
 無支祁は今回、兵たちを引き連れていない。義人たちを相手にした時に、何の役目も果たすまい、と見切りを付けて、連れて来なかったらしい。

「やぁ、お揃いで来たね。まだ何か用なのかい?」

と、義人が言えば、

「何故かは分からぬが、余の力が戻りきらん。ならば、その娘の血を洗いざらい、貰い受けるのみ……」

と、無支祁がとんでもないことを、無表情に言った。

「この前、真奈から得た血の量では足りない……と、そう言うんだね」

 その言葉を受けて、義人が呟くように言った。

「……本当に、そう思っているのかい?」
「何……?」

 無支祁の表情が険しくなった。

「真奈の血をどれだけ得ても、力を完全に取り戻すなんて出来やしないよ」
「何じゃと……!?

 ますます険しい顔で、無支祁が問う。

「君を封じた者と、真奈の父親は

だからさ」

 さらりと、義人が言った。
 それを聞いた皆が真奈を見つめた。
 そして、真奈は義人を見た。
 父の顔を。
 だが、その表情はいつもと変わりなかった。

「前にも言っただろう? 禹王に力を貸してたのは

だってね。血縁関係としちゃ、真奈とは、伯父と姪になるかな。この国の法に則れば、三親等――結構、離れてるだろう? だから真奈の血をいくら奪ったって、君の力が元通り――なんて、なりっこないのさ」
「貴様……?」
「まぁ、そんなことは君の都合で、僕たちには関係ない。とはいえ、決着は付けなきゃね」
「おのれ、言わせておけば……」

 無支祁に、怒気が漲る。

「今回の件に首を突っ込んだのが、まだ〝

〟ほど足りてないんだけど、始めるとしようか?」

 三人――?
 二人は、今日はまだ顔を見せていない孝史と大野のことだろう。しかし、三人目とは誰であろうか?
 カイムや範子が疑問に思い、義人を見た。

「さて、真奈は……無支祁とやるんだね?」

 すでに無支祁と相対している真奈を見て、義人は言った。

「じゃあ、僕は関羽君とだね。カイム君は……」
「なあ……、親父さん」
「ん? 何だい、カイム君?」

 カイムが義人に躊躇いがちに言った。

「関羽は、俺にやらせてくれねぇか?」

 義人は黙って、カイムを見つめた。

「あいつにゃ、この腕を切られた借りがあるんでよ」
「勝てるかい?」
「ああ、勝つさ。……でよ。親父さんの剣、貸してくれねえか?」
「ふむ。じゃあ、任せようか」

 義人はそう言って、カイムに剣を放って寄こした。カイムはしっか、と柄を受け止めた。カイムはその感触を確かめるように、剣を握り直した。
 刃は薄い造りだが、柄の拵えには風格すらあった。初めて手にするのに、柄の握りも手に良く馴染んだ。これなら関羽の青龍刀にも引けは取らないだろう――とカイムは思った。自分の肘の剣状突起は以前に関羽に切り落とされたが、義人の剣は青龍刀を受けきったのだから。

「はい、真奈も」

と、義人は真奈にも抜き身の剣を放り投げた。真奈は一瞬ちらりと眼をやっただけで、右手で軽やかに剣を受けた。
 それが闘いの合図だったかのように、その場の空気が、一気に張り詰めた。


「さて、僕の相手は君たちだけど……やっぱり、やるかい?」
「ほっほ、今の我らの主は無支祁殿じゃ。無支祁殿の望みのために戦うは、当然じゃ」
「そうかい。じゃあ、仕方ないね」

 義人はそう言って、ポケットに手を入れた。式神の呪符を取り出そうとしたのである。しかし、その手を止めて、義人は柳眉を僅かに寄せた。

「ん?」
「ほっほ、やっと気が付きおったか」

 老僧は、これは愉快とお腹を抱えんばかりに、哄笑した。

「また式神どもを使われては、敵わんからの」

と、隙間だらけの黄色い歯を見せて、笑った。配下の僧たちが声を揃えて、呪文と唱えている。

『臨・兵・闘・者・皆・陳・烈・在・前』
『臨・兵・闘・者・皆・陳・烈・在・前』
「早九字か。それで式神を使えなくすれば、僕なんか敵ではない……と?」
「左様。お主ごとき、我ら退魔師の業を持ってすれば、赤子の手を捻るようなもの」

 老僧はニタリと笑う。屈強な僧たちが六人、ジワリと義人との距離を詰めてきた。その後方では四人の僧たちが呪文を唱え続けている。彼らは、攻め手の援護役なのだろう。

「では、試してみよう」

 義人は無造作に、僧たちの輪の中に向かって行った。
 前衛の二人が錫杖を振り上げて襲い掛かる。二本の錫杖の間をするりと掻い潜るや、振り下ろされた錫杖を掴み、左右に振り広げた。何気なく振ったかに見えたが、何とそれだけで大柄な僧があっさりと宙を飛んだのだ。
 背中から落ちた二人の僧はどこをどう打ったのか、ピクリとも動かなくなった。
 残った僧たちに動揺が疾る。

「ええい、相手は素手じゃ。打ちのめせ!!

 老僧の檄が飛ぶ。
 四方から、錫杖が唸りを上げて振り下ろされる。しかし、打ち下ろされ、大地を抉った四本の錫杖の下に、義人の姿はなかった。それを認識する間もなく、二人の僧はこめかみを殴打され、意識を失った。
 残りの二人が態勢を整える前に、義人はするりと懐へ入り込み、鳩尾に痛烈な一撃を打ち込んだ。呻き声を上げることすら出来ずに、二人は崩れ落ちた。
 瞬く間に四人を倒した義人に、他の僧たちはたたらを踏んだ。撃ち掛けるタイミングを計りかねたのだ。

「ゆっくりと君たちの相手ばかりもしてられないんだ。あの二人のフォローもしなくちゃいけないからね」

と、義人は真奈とカイムの方を視界に収めながら言った。

「さっさと終わりにさせてもらうよ」

 次の瞬間、義人の足元の影の先が細く伸びたかと思うと、先端部分が老僧を除く四方の僧たち全員の影の胸元に吸い込まれた。それは寸分の狂いも無く、影の鳩尾を貫き、僧たちは激痛のあまり、一言も発することさえ出来ずに失神した。目を凝らして見れば、僧たちの影の鳩尾部分から

を見て取れたかも知れない。

「さて……。部下は全員、気を失った。君はどうする? まだ()るかな?」

 義人は静かに、そう老僧に問いかけた。

「無論じゃ」

 老僧は先ほどから口の中でもごもごと唱えていた呪文を一気に解き放った。

「おっ?」
「……莎訶(そばか)……(おん)!!

 ドンッ――!!

 耳を劈く大音響と目の眩む光と共に、雷が義人めがけ、迸った。

「義人さんっ!!
「はぁっはっはぁーっ!! 如何な強者とて、雷に打たれては一溜まりもあるまい!」

 範子の叫びを打ち消すように、老僧の勝ち誇った哄笑が響いた。

「そうかい?」
「ぬっ!?

 確かな義人の声を捉え、老僧が目を凝らした。

「雷の化身・インドラ神の雷撃か。確かに凄い一撃だろうけど、雷は雷さ。人よりは避雷針に落ちる」

 いつものように飄々と立つ義人の前、数メートル先に、いつに間にか、細い金属の棒が突き刺さっていた。いや、それはいつもよりも刀身が数倍長い、あの白刃であった。

「義人さん! 無事だったんですね!?

 範子が心底、ホッとした声を上げた。義人は心配してくれた背後の範子を見やり、肩越しに軽くウインクして見せた。範子は忽ちのうちに頬が紅潮していくのを感じた。

「いつの間に……!?
「唱えてた〝呪〟を聞いていたからね。ああ、これは雷撃が来るな……ってさ」

 そう言って義人はうろたえる老僧にも、からかうようにウインクした。

「おのれっ……」

 次の呪文を唱えようと身構えた老僧だが、いち速く、義人から疾った影がすでに老僧を捉えていた。

「はぅっ……!?

 老僧は四肢を貫く激痛に息を詰まらせた。堪えようのない痛みに、顔から大量の汗が滴り落ちる。
 

か――。配下たちが気を失ったのは

か――。
 いつに間にか傍に近づいていた義人が、肩に手を置いて言った。その手の置き方は、とても優しかった。にも拘らず、老僧は背筋に疾る怖気(おぞけ)に身体が芯から冷めていくのを感じた。

「君には謀主の一人として、顛末を見届ける責務がある。身体の自由は奪った。君は、首から上だけは好きに出来る。但し、経文を唱えられたら面倒だから、声は出せないようにしたけれどね」

 義人はそれだけ告げると、もう老僧に興味はないと言わんばかりに背を向けた。


 
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