第十四話

文字数 3,205文字

 
 そこはまるで、空高い雲の上、天上の世界を歩いているかのような気にさせた。あるいは夢の中とは、このような場所であろうか――と。

 ただし、それが眩い陽の光が降り注ぐ昼間であれば――。
 微かな月明かりに照らされる乳白色の濃厚な霧が腰辺りの高さで漂い、ただでさえ薄暗い足下は何も見えなかったが、真奈は地を這うように生えている巨木の根に一度たりと躓くこともなく、しっかりとした足取りで先に進んでいく。
 ここへ来たときから、真奈は先ほどにも増して確かな視線を感じ続けていた。

 やはり……、いる――。
 誰かが見ている――。
 だが、それが何者なのかは、全くわからない。
 謎の気配を追って暗闇の中を独り歩む真奈から、少し離れた霧の中を何かが蠢いていた。
 霧と通常域との境界ぎりぎりのところを、背鰭らしき物が流れていく。見えている部分だけの高さで三十センチメートル、長さも四十センチメートルはあるだろうか。その背鰭の前方部分は、何本かの棘条が長く伸びており、後方へと靡いていた。
 よくよく見れば、その数はおよそ二十。……いや、四十近い。
 真奈は気付いているのか、いないのか――?
 時おり身を屈めては何かを拾うような素振りを見せている。そして、拾った何かをジャンパーのポケットに仕舞い込んでいた。

 そんな真奈を取り囲む背鰭の輪が、じわりじわり、と狭まる。
 次の瞬間、霧の中に潜んでいた背鰭の持ち主たちが真奈を目掛けて、一斉に跳びかかった。
 全長一メートルを超えるその姿は確かに魚類のものであったが、口吻にはサメのような鋭い牙の羅列、背鰭同様に胸鰭を初めとする各鰭の条はこれも長い棘状であった。深みのある(くろがね)色の大きな鱗は鈍く光り、鋼の硬度を備えていた。
 まるで水中から跳ねるが如くに霧を飛び出して迫る怪魚たちは、しかし、(ことごと)く何かに弾き飛ばされ、鉄の巨体を煌かせては霧中に落ちていくのであった。
 真奈はさっきまでと変わらず、平然と歩き続けている。が、その掌中から弾き出されているのは先ほどから拾っていた、

であった。

 だが、その正確さ。その威力――。
 見よ――!!
 真奈が親指で弾き出す、たかが二、三センチメートルのドングリは高速の弾丸と化して、一発たりとも怪魚を撃ち損じることはなかった。煌く巨体を地面に落として

怪魚たちは全て、見事にその硬い鱗を撃ち貫かれていたのだ。
 襲いかかる怪魚たちを真奈は次々と撃ち落とし、やがて、三十匹を数えた怪魚は大地の上で動かなくなった。残った数匹は敵わぬ相手と見たのか、逃げ去った。

 真奈の姿が消え去った後、大地で微かに跳ねる怪魚の尾を掴む手があった。
 手のサイズは四、五歳の子供くらいか。だが長い爪を備え、褐色の剛毛がびっしりと生え揃ったその手は、怪魚を片手で軽々と引き寄せた。それは複数あった。そして、バリバリと硬い鱗をものともせずに噛み砕く音が闇のあちらこちらに沸き上がっていった。
 やがて怪魚たちを腹に収めたそれらは、悠久の果てにふと懐かしい人を思い出したかのように、真奈が歩き去った後を追い始めた。


 気配がする――。
 先ほどからずっと、追いつくでもなく、離れるでもなく。
 

気配ではないが、背後から複数だ。
 いや……。正確には頭上から――といったほうが正しい。
 真奈がそびえ立つ樹々を見上げたそのとき、黒い影が次から次へと降ってきた。それは〝

〟たちであった。十二、三匹はいるだろうか。
 ただし、これらの猿たちも尋常ではなかった。
 カイムや義人と戦った猿人たちには及ばないが、それでも前屈みな姿勢での体長は一メートルにも達し、日本に生息する猿――日本猿から比すればかなり大きい。
 そして、剥き出した牙の羅列。だらり、と下げた手には剛毛と長く鋭い爪。先ほど、真奈が撃ち落とした怪魚を喰らっていたのはこの猿たちであった。
 しかし、何よりも不気味さを漂わせているのはその眼であった。一つ眼なのである。顔の中央に、ピンポン球くらいの大きな眼がぎょろり、と真奈を睨めつけている。
 血に飢えた眼であった。
 だが、そんな猿たちの真っ只中にいても真奈に緊張の影はない。ジャンパーのポケットに右手を突っ込んだまま、泰然自若としたものであった。
 久しぶりに柔らかな肉が喰える――と、歓喜の唸りを上げて、猿たちが迫る。
 迎え撃ったのは、真奈の〝指弾〟――あのドングリの弾丸であった。

「ギャッ、ギャアッ!!
「キヒッ……!!

 猿たちは悲鳴を上げて顔を手で押さえた。指の隙間から、鮮血が滴り落ちる。
 真奈の指弾は猿たちの眼だけを狙い撃ったのだ。猿たちが一つ眼であることを瞬時に認めたうえでの攻撃であった。高速で飛来するドングリは、当たり具合によっては猿の頭部を貫通し、絶息に至らしめたものもいた。

 これは敵わぬと、散り散りになって逃げる猿たちに、もはや何の関心も示さず、真奈は再び歩を踏み出した。
 猿たちをも難なく撃退し、静かになった森を真奈がひたすらに進むと、雲越しの薄暗い月明かりをバックに大きな建物らしき影が浮かび上がっているのが見えてきた。少し拓けた場所に

はあった。

 廃城かと見紛うほどに古びた城であった。
 天に挑まんと高くそびえる複数の城楼。侵入者を拒むために高く築きあげられた城壁と、鏡面の如く静かに夜空の雲を映す冷たい水を満々と湛える堀は左右に果てしのない広がりを見せている。そして、太い鎖で引き上げられたままの厚く重い木製の吊り橋。枯れた蔦がしがみついたままの城壁はあちらこちらで煉瓦が崩れ、経てきた歳月を窺わせていた。
 虚無にも似た静寂に包まれた古城であった。
 時折り吹き抜けていく風が、侘びしさを掻き立てていく。
 真奈が堀の傍まで進むと、分厚い吊り橋が鎖を軋ませてゆっくりと降りてきた。

〟――ということなのか。
 真奈は臆することもなく、吊り橋を踏みしめた。

 門を抜けたカイムは霧に滲む森の中を、風を巻いて駆け抜けていく。
 微かに残る真奈の香りを追うのは至難であった。なぜなら、真奈は体臭そのものがなかったからだ。
 だが、カイムは正確に真奈の通った後を辿っていた。真奈の服から香る洗剤の微香だけを頼りにして。優れた嗅覚のなせる(わざ)であった。
 しばらく進むと、真奈が出くわした怪魚の潜む辺りまで来た。
 やはり……、いた――。
 真奈の反撃にも生き残った怪魚たちは新たな獲物に狂喜し、霧の海を泳ぎ近寄ってくる。
 だが、もちろんカイムも貪り食われるつもりは毛頭もなく、襲いくる怪魚たちを、腕で払い落とすような動作で叩き落していく。
 見れば、その両腕は鱗に覆われ、肘から伸びた突起状のものは刃物のように鋭利であった。しなやかに伸びる長い指先には、これも長い鉤爪が備わっている。
 猿人の父親との戦いで、その腹を裂いたのはこの腕であった。
 地に落ちた怪魚たちは真っ二つに切り裂かれ、あるいは、その爪で身を引き裂かれていた。
 真奈同様に、こちらも簡単には攻略出来ず――とみたか、やがて怪魚たちは霧の海に消えていった。

 カイムが更に森を進むと、真奈が猿たちに襲われた辺りまでやってきた。
 確かに猿たちもそこにいた。カイムが近づく気配も察していた。
 ところが、猿たちはとてもカイムを襲うことは出来なかったのである。真奈に一つ眼を潰されたものが大半であったがために、苦痛にいきり立ちながらも、猿たちは樹々に隠れているのが精一杯であったのだ。

 カイムも多数の何かがいることは感じ取っていたが、向かってくる気配を示さなかったので、ただ通り過ぎることにした。結果として、猿たちにとっては、幸運であったと言えた。
 その後は特に障害らしき障害もなく、カイムはただひたすら全力で疾り続けたおかげで、森を抜け、古城の影が視界に入ったのは、真奈が今まさに吊り橋に一歩を踏み出したそのときであった。


 
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