第12話 裕美と琴音

文字数 29,232文字

「…へぇ、じゃあもう決めたんだ?今度の模試の参加記入用紙に書く学校」
「えぇ、一応ね?」
絵里のマンションに行った次の週、月曜日に裕美と朝、こうして一緒に通学している。特に約束したわけでもないのに、いつの間にか裕美のマンション前で落ち合うのが習慣化していた。
「で?何処にしたの?」
「え?えぇっとね…」
私は絵里の通っていた学校名と、後は滑り止めと言うのか、いくつかお母さんが煩くなさそうな女子校名を言った。
私が言い終えると、裕美はなんだか納得いかない顔で話した。
「へぇー…っていうかさぁ、琴音ちゃん?」
「ん?何よ?」
「…何で勝手にどんどん先に行っちゃうかなー?」
裕美はほっぺを膨らませて見せながら言った。私は隣に歩く裕美の足元を見ながら
「…?同じペースで今歩いているじゃない?」
と言うと、裕美はジト目で私を軽くにらみながら言った。
「もーう、そういう意味じゃないでしょ!」
「ははは、ごめんごめん」
私はおどけながら平謝りをした。裕美の機嫌はまだ直らないようだ。
「もーうっ!せっかく琴音ちゃんと相談し合いながら、じっくり決めようと思っていたのに」
「…あっ、そうだったの?」
「そうだよー…まっ!」
裕美は目を瞑り、両手を頭の後ろに回しながら、やれやれと言った調子で続けた。
「言わなかった私が悪いんだけど…察して欲しかったなー」
最後は私側の目だけを器用に開けて、私の方に視線を流しながら言った。
「相変わらず無茶を言うわね」
私はそれを聞いて、苦笑いするしか成す術は無かった。私のその様子を見て満足したのか、裕美は途端に機嫌を直して、とびきりの笑顔を向けながら嬉しそうに言った。
「でも偶然ね!私の第一志望もそこよ!」
「…え?ほんと?」
私はその可能性を正直微塵も考えてなかったので、素直に驚いた。裕美は私の様子をどう解釈したのか、慌てて言い訳するように続けた。
「あっ!イヤイヤイヤイヤ!別に琴音ちゃんの真似がしたくて、今思いつきで言ったんじゃないよ?…うーん」
裕美は先を話そうか、考えあぐねているようだった。これは言い訳が見つからなくて困っているというより、固く心に思っていることを私に話そうか迷っている感じだった。
裕美は決心がついたのか、顔をまっすぐ私に向けると真剣な面持ちで話した。
「…琴音ちゃん、今日一緒に塾に行かない?」
「え?え、えぇ、それは勿論構わないけど…」
一体何の話か理解が追い付かないでいるのに、構わず裕美は続けた。
「じゃあ改札前に四時待ち合わせでいい?」
「あ、うん…」
と訳も分からないまま了承すると、裕美は先程までの笑顔に戻った。
「良かった!じゃあこの話は後でね」
と言うと急にガラッと話題を変えて、裕美がいるクラスの中の四方山話をし出した。私ははぐらかされた感は否めなかったが、後で話すという言葉を信じて、今は裕美の話に付き合うことにした。

学校が終わり放課後、各々家に帰り塾の道具一式が入ったカバンを持って改札前に来た。この地元の駅は改札が一つしかないので、漠然と待ち合わせをしても、会えないような心配は無かった。そろそろ帰宅時間なのか、改札からは人がドッと引っ切り無しに出て来る。スーツ姿、学生服、普段着などなど様々だ。
 流石にごった返しているので、見つけるのは難しいと思っていたがすぐに見つけた。裕美はいくつかある柱の内の一つに寄り掛かり、また図書館の時のように教科書を見ていた。この前の教訓で、どうせ気付かないことは分かっていたので、側に近寄り軽く肩を叩いた。
「やあやあ、精が出ますね」
「あっ、琴音ちゃん!おっそーい!」
と開口一番裕美が文句を言ってきたので、左手首の時計を見てみると、四時五分前だった。
私も不満げな顔を作りながら
「あのねー…むしろ約束五分前に来ているんだから、褒められて然るべきだと思うんだけど?」
と言ったが、通用しないらしい。裕美はワザとらしくツンとして見せながら言った。
「私はそれよりも早く来たんだから、あなたはもっと早く来ていなきゃダメでしょ!それでも私の恋人なの!?」
こ、恋人?…あぁ、なるほど。
まだ一ヶ月も経たない付き合いだが、一つ裕美について分かった事がある。一つの冗談を言うのに一芝居をうってくることだ。初めの頃は訳わからずキョトンとしていたが、すかさず裕美からツッコミが入ったので、理解(?)がやっとできたという感じだ。…裕美には悪いけど、ヒロの言った『裕美は暑苦しい女』の意味を理解した。別に嫌いじゃないけど。
「…はぁ、誰が恋人よ誰が。仮に恋人だとしたら、アナタはかなりメンド臭い恋人でしかないわね」
と冷たくあしらうと、裕美の方は何故か満面の笑みで返してきた。
「えぇー、それを琴音ちゃんが言うー?」
「…どういう意味ですかねぇ?」
私は笑ったが、絶対零度の微笑だった。裕美は爆笑だ。私のその様子が面白いらしい。
「あははは!ごめんってば!さぁ、琴音ちゃん!くだらない事をいつまでもしてないで、早く行こうよ」
と言うと突然改札に向かって歩き出した。
「…はぁ、そのくだらないのを始めたのはアンタでしょうに…」
私はさっきと同じ様に一人苦笑しながら、どんどん歩いていく裕美の後を追った。

「…やぁー、行きの電車は空いてていいね!帰りは地獄だけど」
「そうね」
私達は都心に向かう電車に乗っている。中は空席が目立っていた。夕方のこの時間帯は、まずこの電車が混むことは無かった。時折すれ違う下り電車を見ると、既につり革手すりに掴まる人が大勢いた。私達が帰り乗る頃には、あの倍以上になっているのだから堪らなかった。なるべく帰りの混雑は考えない様にしていた。塾のある御茶ノ水まで、乗り換え入れて四十分程かかる。
いつまで経っても話そうとしないので、時間が勿体無いと私から聞き出すことにした。
「…で?一体何の話をするんで、こんなに先延ばしにしたの?」
と単刀直入に聞くと、相変わらず裕美は隣に座る私から視線を逸らし、うなじ辺りを手で触り、上下に何度か動かす照れ隠しの動作を見せた。いつも裕美がそれをやると、後ろの短髪が逆立ち、あちこちに跳ねてしまうのが特徴だ。もっともすぐに手で梳かして直していた。
今回も手で髪を直して、その手を膝上に戻し、意を決したように話し始めた。視線は手元に落として。
「…じゃあ、話すけど…笑わない?」
「…え?」
私の想定していない言葉が聞こえた。確か受験関連の話をするはずだったのに、笑う笑わないってどういうことだろう?私は意味が分からなかったが
「…え、えぇ、笑わないわ」
とだけ短く返した。相変わらず裕美は手元を見ていたが、声も小さく話し始めた。
「…あ、あのね?…私将来、お医者さんになりたいんだ」
「…ん?へ、へぇー…」
これが笑うことなのか?
私はさっき念を押されたせいか、自然な反応が取れなかった。でも裕美はツラツラと先を続けた。
「…今朝琴音ちゃんが言った第一志望校ね、知ってるかどうか分からないけど、都内の女子校では屈指の医学部合格率を誇る学校なの」
「へぇー」
さっきから私は『へぇー』としか言ってなかったが、他に言うべき言葉が見つからなかった。
そんな私の態度に気分を害することなく、裕美は続ける。
「だから私は琴音ちゃんと同じ学校に行きたいの!真似したいからとか、そんな理由じゃなくて」
「いやいや、私はそんなアナタが真似してるだなんて、これっぽっちも思ってなんかいないわよ」
私は苦笑いで、親指と人差し指で何かをつまむようにして、二つの指の間に若干隙間を作って見せながら応えた。そう言うと、裕美は小さく「そっか」と言うだけで、あとは私と視線を合わせて、静かに笑うだけだった。私はまだ続きがあると思って待っていると、なかなか続きを話そうとしないので
「…で?これで終わり?」
と正直に質問してしまった。流石の私もこれは、相手がやっと意を決して話した事に対して酷すぎるとは思ったけど、後の祭りだった。
私の心配を他所に、裕美はキョトンと、ある意味正しい反応を示していたが、ふと小さく噴き出すと、苦笑い気味に私に話しかけてきた。
「…ふふ。これで終わりって、ひっどいなー。けっっこう勇気を出して言ったのに」
と最後は意地悪く笑いながら言った。私は結構本気で申し訳なく思ったので
「…ごめん、そんなつもりじゃ無かったんだけど…」
と言い訳にもなっていない弁明をしたが、裕美は変わらぬ笑みで返した。
「はははは!やめてよ、しんみりするのはー。まぁ、確かに酷いと言えば酷いし、今の反応は人を選ぶと思うけど…まぁまだ一ヶ月くらいしか友達してないけど、アンタが悪気が無くそういうことを言っちゃうっていうのは分かってきたからねー…許してあげる!」
「裕美…」
「なーんてね!私は全然気にしてなんかないよ?それより…」
裕美は急に優しい微笑みを顔中に湛えながら言った。
「…私の夢に対して、茶化さず笑わないで聞いてくれてありがとう」
…?…あぁ、笑わないでってこの事だったのか。…ん?
私は一応言葉の真意を教えてもらった筈だったが、全然疑問が解消されていなかった。さっき謝ったばかりなのに、懲りずに聞いてしまった。
「…え?どういう意味?」
「え?あ、いや…」
当たり前だが、先程丁寧にお礼を言ったばかりだというのに、なぜお礼を言ったかについて質問されるのは想定外だろう。裕美は心底困っているようだったが、苦笑まじりに答えてくれた。
「その私の夢について笑わないで…」
「それよそれ…あっ」
私が言いかけた時、ちょうど電車が乗り換え駅のホームに滑り込んだ所だった。降りない訳にはいかないので、私達二人は黙って立ち上がり、ドアのそばに立ち、ドアが開くのを待った。

電車から降りて、今度は地下鉄に乗り換えるためにどんどん下へとエスカレーターを幾つか乗り継いだが、その道中、あまり歩きながらする話題でもないと知りつつも、”なんでちゃん”としては黙って居れなかった。
「そもそも何で私がアナタの夢を聞いて笑わなくちゃいけないの?」
「え?えぇ…っとねぇ…」
裕美は見るからに顔中に困惑の色を深めていった。何とか話題を変えようとしている節が見えたが、私が歩きながらもまっすぐ強めに視線を合わせていたので、とうとう折れざるを得なくなったか、若干引き気味に答えた。
「だ、だってぇ…自分の夢を語るのって…ダサいと思われるでしょ?」
「…誰が?」
「え?」
「誰がダサいと思うって言うの?」
「いやー…大体みんなそうだと思うけれど」
と裕美が言うと、ちょうど乗り換える地下鉄のホームに辿り着いた。
「みんなって…」
私が質問を続けようとした所、丁度電車が来るアナウンスが流れて、それと同時に電車が来たため、そのけたたましい音に私の声はかき消されてしまった。仕方なくそのまま私達は、揃って地下鉄に乗り込んだ。ここから御茶ノ水まで、かかって十五分くらいだ。普段はこの電車は座れない程度の混み具合だったが、今日は運よく座る事が出来た。
 私は一人クールダウンして反省していた。少し調子に乗ってあれこれ聞きすぎた。何しろ義一や絵里に対しては、年上というのもあって、世代間の感覚的な違いを少しばかり感じていたが、初めて同い年の、しかも比較的私の話を真面目に聞いてくれる友達が初めて出来たと、嬉しいあまり思わず暴走してしまった。
私が急に大人しくなったのをおかしく思ったのか、今度は裕美の方から話しかけてきた。
「…琴音ちゃんて、”本当”に周りの目を気にしないでいられるんだね」
「…え?」
私は思わず隣に座る裕美の顔を凝視した。裕美は微笑みながら視線を合わせていたが、ふと顔を正面に向けて、知らないスーツ姿のビジネスマンの方を見ながら返した。勿論言うまでも無く、そのビジネスマンのことは見ていなかった。
「…私ってさぁ、琴音ちゃんは知らなかったみたいだけど、結構同学年では目立つ方だって言ったよね?恥じらいもなく」
裕美は最後に悪戯っぽく笑いながら言った。
「え、えぇ」
それはここ一ヶ月、嫌という程わかった。何故なら登下校の時、すれ違う同級生の大体の人から声を掛けられていたからだ。その後私の顔を見ると、彼らは何とも言えない表情をこちらに向けて、そのまま黙って去って行くの繰り返しだった。
「…でもね、一度目立っちゃうと、中々もう飽きたからやーめたって出来ないのよ。そのまま続けなくちゃいけないの」
私はついこないだまでの”私”を思い浮かべていた。
「…これはある意味、琴音ちゃん相手には嫌味にならないから言えるんだけど…私みたいにクラスの中心にいるとね、それらしく振舞わなくちゃいけない…ダサい事なんか以ての外」
「…」
私の中で”意見”がいくつも沢山頭の中で生まれていたが、また話し過ぎちゃうと、私にしては珍しく抑えて、裕美の話の続きを待った。
「何でもいいんだけど、何かに対して”マジ”になるのは”ダサい”ということになってるのよ。…琴音ちゃんはさっきの口ぶりも含めて、今までお喋りして見た限り、そんなダサいかどうか、曖昧な他人の基準なんて気にならないみたいだけれどね」
「まぁ…うん」
なるべく誤解がないように、短く返した。
と、その時車内アナウンスが流れ、間も無く御茶ノ水に到着する旨を伝えた。
「…じゃあ、琴音ちゃん降りようか?」
「えぇ…」
色々と訂正したかったが、もう着いてしまった事実は覆しようが無いので、不完全燃焼のまま、異様に長いエスカレーターに乗り、地上に出て、二人仲良く並んで塾へ向かった。
途中まで、今日あった学校の出来事の話などを喋りあっていたが、塾の目の前の横断歩道の前で立ち止まると、裕美が仕方ないなといった調子で喋り掛けてきた。
「…もう、しょうがないなぁ。さっきの話、まだ話し足りないんでしょ?」
「あっ、いや、まぁ…うん」
私はぎこちなく答えた。一応それなりに世間話に笑顔で相槌を打っていたつもりだったが、どうも顔に出ていたようだった。
私の返答を聞くと、裕美は通りの向こうを見ながら、苦笑まじりに諭すような口調で言った。
「後で話に付き合ってあげるから、今は我慢しなさい?」
私は隣で並んで信号を待つ裕美の横顔をチラッと覗いたが、表情は自然な笑顔なだけで、言葉の真意をはかる事が出来なかった。
私も合わせて、不満げに返した。
「…なーんか上から目線だなぁ。あんたは私のお母さんかい?」
「えぇー…こんな面倒な娘はこっちから願い下げだよ…あっ!」
声を上げるのと同時に裕美は急に駆け出した。信号を見ると青に変わっていた。
「ちょっとー、待ちなさいよ」
私も不満タラタラに声を掛けたが、顔は自分でも分かるくらいにニヤケていた。通りを渡り終えた後、お互いに軽く息を弾ませていたが、無言で顔を見合わせると、途端に二人で笑い合った。そしてそのまま塾のある雑居ビルの中へと入って行った。

「…もう、やんなっちゃう!」
「ふふ、今日もキツかったね」
私と裕美は地元の駅に降り立っていた。時刻は十時十五分前だ。この日もいつもと変わらぬ混雑具合だった。前にも言ったように、この駅には各駅しか停まらない、路線が一つしか無いような規模の小さな駅だったが、この駅は区役所から一番の最寄駅だという利点があって、どんなに車両の奥まった所にいても、皆が一斉に降りるので、わざわざ人をかき分けて出なくて済むのが、唯一の救いだった。
私達は人の進む流れに合わせて改札を出て、バスを待つ人でごった返すロータリーを抜け、帰宅の途についた。
ロータリーを出るまでは、満員電車に対する文句や、今日の授業の事などを言い合っていたが、私の堪え性の無さが出てきて、今までの脈絡を無視して、さっき疑問点をぶつけて見ることにした。
「…ところで、さっきの話なんだけど…やっぱり納得いかないのよねぇ」
「おっ!来たね?”なんでなんで攻撃”が」
「え?それって…」
裕美がいきなり”なんでなんで攻撃”と言ってきたので、出鼻を挫かれた形になったが、まずそこから片付けざるを得なくなった。
「それって、ヒロが言ってる奴…」
「え?あぁ、そうそう!」
怪訝な表情の私とは違い、裕美はあどけなく笑いながら応えた。
「森田君が学校で琴音ちゃんの話をする時に、質問攻めをされると文句を言う中で、そういう名前で言ってたの。…あっ、もしかして嫌だった?」
裕美は途中で私の曇った表情に気づいたのか、少し申し訳なそうにしながら、私の顔を覗き込むように聞いてきた。私は首をゆっくり横に振りながら、でも苦虫を潰したような表情はそのままに答えた。
「…いえ、裕美に対しては文句はないわよ?当然ね?…ヒロったら、そんな訳わからない事を他の人にも言いふらしてるのね」
と私は、曇っているせいで星や月の見えない真っ暗な夜空を見上げ、そこに意地悪くバカ笑いをしているヒロを思い浮かべながら毒づいた。裕美は私の様子を見て、隣りでクスクス笑っていたが、半笑いのまま私に訂正してきた。
「いやいや!森田君は私が知る限り、私にしか話してなかったよ」
「そ、そう?」
「うん。そもそも…」
裕美は私にいつもの意地悪風な笑顔を向けながら続けた。
「前にも言ったけど、アンタはかなり目立つんだから、森田君もあまり簡単に名前を出せないのよ」
「またぁー、そうやってなんでも大袈裟にして」
「いやいや…はぁ、ここまで自覚が無いと、こんなに困らされるなんて思わなかったなぁ」
「何よぉー」
「あははは」
裕美は私が不貞腐れるのを気にせず、一人愉快そうにしていたが、ふと何かに気付いたのか、今度は申し訳無さそうに聞いてきた。
「あっ!…気付いたら、アンタって呼んじゃってたね?変に馴れ馴れしかったかな?」
「へ?」
私は変な気の遣われ方をされて、一瞬戸惑ったが、すぐに笑顔になって返した。
「…ははは!そんなの今更よ?前から度々私の事を”アンタ”呼びしてたのに」
「え?えぇー、そうだったっけ?」
裕美は本気で驚いているようだった。そして、うなじ辺りをポリポリ掻きながら照れ臭そうに言った。
「いやー、琴音ちゃんじゃ無いけど、結構大人しめで上品な感じでいようとしてたのに、そんな言葉遣いをしていたなんて」
なんて言うので、私は心底呆れたといった調子で言った。
「あのねぇ…あなたはそういう衒わない着飾らないのが良いところなんだから、無駄なことはやめなさい?…まぁ、そもそも出来てなかったけど」
最後は意地悪く笑いながら言い切った。
「…えぇー…ってかそれ褒めてるの?貶してるの?」
言われた裕美は、何とも言えない、どういった反応をしたら良いか戸惑ってる調子で返してきた。最も顔には笑顔を浮かべていた。
「さぁって、どっちでしょ?」
「もーう!」
「…ふふ」
「あははは!」
暗い夜道、明かりの少ない住宅街を私達二人は愉快に微笑みながら歩いた。

「…はぁーあ、ってもう着いちゃうね?」
裕美の視線の先には、もうマンションが見えていた。もう別れる時間だ。
「そうね。…はぁ、じゃあまた明日ね?」
「うん…ほら、そんな顔をしないでよ?明日付き合ってあげるから。…アンタの”なんでなんで攻撃”に」
「あっ!また言ったわね?」
と私が文句を言い切る前に、裕美はマンションのエントランスへ向かって一目散に逃げ込んだ。そして中に入りこちらに向き直ると、大きく手を振りながら大きな声をかけてきた。
「じゃあまた明日ねー!」
私も仕方なく、胸の前で小さく手を降りながら答えたのだった。
「ははは…うん、また明日」

次の日、いつものように裕美と落ち合ってから登校した。会って早々聞こうかと思ったが、流石にちょっと朝一、しかも短い登校時間で聞くことが叶わない事を、ある意味昨日で学習したので、そこには敢えて触れずにお喋りをした。すると裕美の方から察して触れてきた。
「今日姫は静かね?早速質問責めにあうと思っていたんだけど」
裕美は昨日と変わらぬ意地悪い笑みを浮かべながら話しかけてきた。私は大袈裟に肩を落として見せて返した。
「姫って誰がよ?全く…んーん、今はやめとく」
「え?何?」
裕美は心底意外と言った表情で私を見た。
「せっかく裕美とちゃんとお話出来るのに、こんな短い時間で適当に済ますのは勿体なくてね」
と素直な気持ちのままに答えた。すると裕美は私の腕に組んできながら、明るく言った。
「…もーう!本当に琴音ちゃんは相手が嬉しがる事を、ややこしく分かりづらく言うんだからなぁー。もっと子供らしく素直に言ってよぉ」
「いや、私はいつも素直なつもりなんだけど…」
いつまでも裕美が腕を組んでじゃれ合うのをやめないので、少し歩きづらかったが、何故か振りほどく気にはならなかったので、そのままにしといた。
すると後ろから私達に大声で声を掛けてくるのがいた。顔を見なくてもすぐわかる。
「おーい!お前ら道端で何をイチャイチャしてんだよ?」
「あっ、森田くん!おはよう!」
裕美はようやく私から離れると、ヒロに向かって元気に明るく挨拶をした。
「おはよう、ヒロ。今日も朝からうるさいわね」
「おいおい、うるさいとは何だよー。せめて”賑やか”って言ってくれ」
「ごめんなさい。”騒がしい”の間違いだったわ」
「おい、それ訂正出来てないぞ?」
「あははは!」
「おーい!」
向こうから不意に私達に声を掛けてくる軍団があった。見ると、いつもヒロと連んでいる賑やかな男子グループだった。その中にはヒロと同じ野球チームの男の子が何人かいた。
「昌弘ー!何朝っぱらから女子と喋ってるんだよー!ムッツリ!」
「ば、バカ!そんなんじゃねぇよ!…じゃあまたな」
と私達二人に一言言うと、一目散に男子の集団へ向かって駆けて行った。その集団もヒロから逃げるように駆けて行ってしまった。
「…やっぱり騒がしいだけじゃない」
静かになって暫くしてから、私はポツリと言った。隣で裕美はクスクス笑っていた。
「まぁ、そう言わないであげてよ。森田君はあの明るさが取り柄なんだから」
と、ヒロをかばうようなことを言ったので
「…まぁね。あなたとヒロはそっくりだからね」
と意地悪く嫌味のつもりで言った。私はてっきり裕美がブー垂れながら返事してくるものと思っていたが、予想とは違い、裕美は何故かモジモジして、ほんのり赤くなりながら返した。
「…え?そ、そう?私と森田君って…に、似てる?」
「え?え、えぇ…。なんか良く言ってムードメイカーなトコとか」
裕美が予想外な反応を示したので、私も若干戸惑いながら答えた。
「そっか…そっか!」
と独り言を言いながら、学校に向かい一人歩いて行った。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」
私は慌てて後を追った。もっとも歩きでだったので、すぐに追いつき隣についた。早速そのリアクションの訳を聞こうと思ったが、何故か実際に聞き出そうという気が起きなかった。すっかり感興を削がれてしまった。とここで不意に一つの考えが浮かんだ。早速裕美に聞いてみることにした。
「…裕美は今日、学校が終わった後用事ある?」
「え?今日?うーん…」
裕美は腕を組み目を瞑って、首を傾げながら考えていたが、パッと目を開けると私に視線を合わせながら答えた。
「…うん、今日は大丈夫。習い事もないし」
「そう?」
考えてみたら、裕美が何の習い事をしているのかも、まだ聞いたことが無かった。そんなつもりは無かったが、質問魔の私が聞かないのは、何だか相手に対して興味がないことを表明しているようで、一人で気まずい思いをしていた。勿論興味があったから、機会があればこのことも聞かなくちゃだった。
それは置いといて、私は続きを話した。
「じゃあ、今日放課後私にちょっと付き合ってくれない?…小学生でもゆっくりお話が出来るいい場所があるの」
「へぇー…」
裕美は少し躊躇したように見えたが、すぐにパッと明るい笑顔を見せながら答えた。
「…うん、いいよ!じゃあ放課後校門前で待ち合わせね?」
「えぇ、約束よ」
それから私達は取り止めのない会話をしながら、学校へと向かった。

「お待たせー」
裕美は途中まで誰か、友達なのだろう、女子何人かと途中まで歩いていたが、私の姿を認めるとその子たちに何か言い、手を振ってから私の元に駆け寄って来た。
「うん」
私は校門のすぐ脇にある桜の木の下で、持って来ていた文庫サイズの小説を読んでいた。
裕美は私の手元の本を見ながら言った。
「あれー?今何読んでたの?」
「これ?…これはね」
私は表紙を見せただけで、何かは言わなかった。
 因みにこれは、義一の本棚から借りたものだった。塾に通うようになってから、めっきり義一と話し込む機会が減ってしまったけど、ピアノのレッスンの帰りなどに義一の家に寄って、少しピアノを弾いて見せてから、本を借りていくという習慣が出来上がっていた。貸してあげるとは言われたけど、あまりに本の数が膨大だったので、選ぶのに困っていると、『僕はね、琴音ちゃんくらいの歳からは十九世紀の海外の作家ばかり読んでいたけど…もし参考にしてくれるなら、これから試しに読んでみると良いよ』と義一が色々薦めてきたのを、そのまま従順に読み込んでいった。今はトルストイを中心に読んでいた。
「とるすとい?…あぁ、名前は聞いたことある」
裕美は特に興味はないようだった。私は黙って本をランドセルに仕舞うと、早速裕美に話しかけた。
「よし、じゃあ行こうか」
私は返事を聞く前に歩き始めた。
「ちょっと待ってよー」
裕美が慌てて私の隣に来た。
「もーう、勝手なんだから。…で、今からどこに行くの?」
「え?うん、今からねぇ…」
私は進行方向の先を、漠然と指差しながら答えた。
「今から土手に行くよ」
「…え?えぇー…」
裕美は私が言うと、露骨に嫌な顔をして見せた。想像と違っていたようだ。
「え?嫌だった?」
「いやー…嫌じゃないけど」
と裕美はダジャレか何なのか分からないリアクションを取りながらも、相変わらず微妙と言いたげな顔で返してきた。
そんな顔をされても、他人の迷惑にならずに小学生の身分で友達と深く語らうとしたら、義一とも来た土手しか思い付かなかった。
「でも私達が人目を気にしないでお喋り出来るのは、土手ぐらいしか思い付かなかったんだけど?」
と私が質問調で言うと、裕美は慌てて返してきた。
いや、別に不満があるんじゃないよ?ただ意外だったからさ。そんなに”圧”をかけてこないでよ」
裕美は凍えて寒がっているように、両手を交差させて自分の両肩をさすりながら、大袈裟に怯えて見せた。私は苦笑いを浮かべて
「もーう、ヒロと同じことを言わないでよー」
「ははは、ゴメンゴメン!」
ヒロと似ているということを試しに仄めかしてみたが、裕美は今朝のような意味深な反応を示さなかった。
校門から十分ちょっと歩くと、土手の前まで来た。今日は平日の火曜日というのもあって、人影は疎らだった。もう十一月だから寒くないかと若干不安だったが、この日に限っていえば、風はそよそよ吹くだけで、空には目立って大きな雲も無く、陽射しは燦々と降り注ぎ、中々心地いい秋晴れの日だった。
私は裕美を連れて、義一が度々考え込みに来る、あの土手の斜面まで来た。私は何も言わずその場に尻餅ついた。裕美は服が汚れるのを気にしたのか、少しばかり躊躇していた。確かにこういう日に限って、いやいつもそうだが、可愛い服を着ていた。地べたに座るの?と言いたげだ。しかし私が躊躇いも無くストンと座ったのを見て、諦めがついたのか、あと下はジーンズを履いていたのも手伝って、私のすぐ横に同じように座った。二人して目の前を流れる川を眺めていた。
「…風が気持ちいいね」
裕美はさっきまで土手に来るのも、地べたに座るのも嫌がっていたのに、今ではすっかり満喫していた。一度障害を乗り越えたら、あとはいつまでもネチネチ引き摺らない、そんなサッパリした性格も裕美の美点だった。
「…ね?気持ちいいもんでしょ?」
と私はバタンと斜面に、仰向けに寝っ転がりながら言った。流石に私には倣わず、裕美は両膝を抱えながら答えた。
「ふふふ、そうね!…琴音ちゃんは、よく此処に来るの?」
裕美は私の事を見下ろしながら聞いた。
「えぇ。…ピアノのレッスンの後、ここまでわざわざ来て、しばらく佇んでいるのが好きなの」
義一の事は話さなかったが、嘘は言っていない。
「へぇ…」
裕美はまた川の方へ視線を戻しながら言った。
「中々乙な事をしているのね?…」
と言うとまたこっちに顔を向けた。顔は今から悪戯を仕掛けてきそうな表情だ。
「アンタ…本当に小学生?」
「…あなたもね?普通”乙”なんて言葉、日常会話で使わないわよ?」
「…誰かさんの影響かもね?」
「…ふふふ」
「あははは!」
私達は一瞬間を置いた後、お互いその姿勢のまま笑いあった。

「さてと…何で土手に来たんだっけ?」
私は惚けて言ってみせた。裕美は私にジト目を流しながら、不満げに答えた。
「…ふふ、ちょっとー、勘弁してよぉ。私に何か聞きたいことがあったんじゃないのぉ?」
裕美は最後まで固い表情を保てず、結局最後はニヤケながら非難してきた。私も思わず吹き出してから、平謝りして、それから質問することにした。
「いやね?やっぱり気になるじゃない?そのー…自分の夢を語ると、えぇっとー…ダサいだっけ?今考えてみてもよく分からないのよ」
「よく分からないって言われてもなぁ…昨日言ったまんまだし…やっぱり琴音ちゃんは」
裕美は未だ寝っころがっている私の方を、両膝に自分の顔の片側を乗せながら笑顔で言った。
「普通の子とは違うね。少し…いや、大分変わっている」
言われたこの時、私は苦笑いを浮かべていた。だが、正直色んな意味でがっかりしていた。早合点していたのだ。久しぶりに幼稚園の頃、先生やお母さんに失望されたのを思い出していた。確かにまだそんなに付き合いが長いわけでもないのに、あまりに急に”私”を曝け出しすぎたのかもしれない。最近、義一に始まり、絵里さんという、言い方が難しいが、どちらかと言えば”普通”に属する人に受け入れられたという出来事が、根拠のない自信をいつの間にか私に植え付けてしまっていた様だった。
「変わってる」と言われたこの瞬間、頭の中をこんな考えが巡り巡って、悪い方悪い方へと泥沼に向かうように気分が落ち込んでいくのが、自分の事なのに客観的に感じられた。
正直疎遠気味になった、昔の仲良しグループの女子達に、現時点でどう思われようと、どうでもよくなっていたが、今裕美にまで離れられたら、正直自分が真っ直ぐ立っていられる自信が全く無かった。ということにこの時気付いたのだった。
「…ちょっとー、それは言い過ぎじゃない?傷つくわぁ」
今まで考えていた事を悟られない様に、私はワザと大袈裟に不満げに見せて言った。裕美は当然冗談だと思っているので
「いやぁ、変わっているよー」
と繰り返し言った。私はここでも早合点してガッカリしていたが、裕美はその先を続けた。私に微笑みながら。
「…まぁ、変わっているからこそ”面白い”んだけどねぇー」
「…え?」
私は思わず上体を起こすと、裕美の顔を凝視した。裕美は構わず続けた。
「琴音ちゃんは面白いよ。今まで私の周りに全くいなかったタイプだもん。そりゃたまにキッツいこと言うなぁって思う事もあったけど、他の子と一緒に居ては得られない…うーん、感情っていうのかな?なんか私の中に湧きあがる様な気がするんだ。…また繰り返すのは馬鹿バカしいんだけど、クラスで私の周りに集まって来る同級生達、…まぁ悪い人は居ないんだけど、その分というか…みんな同じ反応しかしないから”ツマラナイ”のよ。で、繰り返すようだけど琴音ちゃん、アンタは私が付き合ってきた人の中で、とびっっきり面白い人なの!予想外な反応しかしない点でね!…ってあれ?」
裕美はここまで言うと、急に恥ずかしくなったのか、顔を真っ赤に赤らめながら続けた。顔が赤いのは夕陽のせいでは無かった。
「…もーう!琴音ちゃんがそんなだから、いつの間にかこんな恥ずい事を喋っちゃったじゃーん!いつもなら絶対に言わないのに、もう最悪ー!」
裕美は私から顔を背けて、反対側に向けてしまって動かさなかった。
私は今のを聞いて、まず最初に絵里のことを思い浮かべた。二人が話しているのを見て、直感的に二人が似ているとは思っていたが、まさかここまで親和性があるとは思わなかった。という理屈は置いといて、勿論素直に、裕美が私の事をそう形容してくれたことが嬉しかった。私が他人に対して隠し通そうとしてきた本来の”私”。それを誰もが”変”と一言で片してしまうのを、裕美は面白がってくれていた。
正直この時私は、そっぽを向いている裕美に、自分でもよく理由が分からなかったが、無性に抱きつきたかった。でも流石にそこまで恥ずい事は、裕美の言葉じゃないけど出来なかった。
代わりにただ一言ボソッと言っただけだった。
「…裕美、ありがとう」
「だーかーらー!」
裕美は勢いよく私に振り向くと、不満を顔全面に示しながら言った。
「そういう恥ずいのはナシだって!…もういいでしょ!この話は終わりー!」
裕美が強引に話を終わらせたので、私も微笑みながら従った。
「で?何の話だっけ?…あぁダサいがどうのって」
「そうそう。でもまぁそれは分かったわ。理解は出来ないけど」
と私は一人勝手に打ち切った。
「またこの子は…そんなややこしい言い回しして」
裕美は文句を言っていたが、顔は笑顔だった。私も笑顔を返していたが、今度は唐突に裕美の方から私に質問してきた。
「私ばっかりズルイよ。今度は私の番ね?」
「何よ?」
裕美はさっきみたいに、顔を膝に当てながら聞いた。
「…琴音ちゃんの将来の夢は何?」
「…え?」
私が聞き返すと、裕美は背筋を伸ばして私と視線の高さを同じにしてから続けた。
「だって、私だけ将来の夢、お医者さんになりたいって喋ったのに、琴音ちゃんだけ話してくれないのは不公平よ」
「不公平って、あのねぇ…でも、言われてみればそうか」
私は裕美の言い分に納得して、初めて考えてみた。というのも、正直自分の事なのに一切考えてみたことが無かったからだ。いつも周りの事象に対して疑問を感じ追いかけるだけで、肝心要の己自身をほったらかしにしていた。だから受験についても、未だに同い年の子達と比べて、何も考えていないに等しかった。
でもいくら考えても、というより今急に考えてみても何も思いつかなかった。周りについて疑問に感じて興味を持っても、それはポジティブな興味というより、ネガティブな所からスタートしているが為、自分なりに結論が出ると、途端にその事について興味を失くしてしまう。遊び飽きるまでそのオモチャで遊んで、仕組みが分かったらもう遊ばなくなるのに似ていた。飽きたらもう一切手をつけない。ある意味幼稚性とも言えた。
ピアノは数少ない、飽きないどころか、やればやるほど奥深く、なかなか抜け出せない底なし沼のような魅力で私の心を掴んで離さなかったものだった。『その事について知れば知るほど、分からなくなる』最近義一に借りた本の中で、詩人のゲーテが言っていた。私の好きな言葉の一つだ。まさに私にとってのピアノそのものだった。前に一度言った通り、人前で弾くのは心の底から嫌だった。繰り返しになるが、自分の体を人前に、動物園のお猿さんのように晒すくらいなら、冗談じゃなく死んだほうがマシとさえ思っていた。だから、ピアノはやり続けたくても、職業としてはそれでは成り立たないので、いわゆる”将来の夢”からは除外せざるを得なかった。
とまぁ、こんな感じのことをウンウン唸りながら考えていた。が、ふと一つの考えが浮かんだ。裕美は私の顔の変化を読み取ったのか、私に改めて質問してきた。
「…あっ、何?何か見つかった?」
裕美は目を輝かせて、興味津々具合を顔中で示しながら言った。
「えぇ。…でもあなたの言う将来の夢とは違うかもだけど」
「もーう!勿体ぶるの禁止ー!早く教えて?」
裕美が急かすので、笑顔の表情そのままに答えた。
「…先に言っとくけど、将来の夢…つまり将来就きたい仕事が今はないの」
「え?じゃあ…」
「いえ、最後まで聞いて?」
「う、うん…」
裕美は訳わからないって顔で私を見ていた。私は構わず続けた。
「私はねぇ…将来こうなりたい人ならいるわ」
「…え?」
裕美はますます訳わからないって顔を深めて私を見た。頭の上に実際にハテナマークが見えるようだった。
「…それって、将来の仕事には関係ないの?」
「うーん…どうだろう?今の世の中では無いかな?」
「えぇー…じゃあ未来にはあるの?」
「多分…無いと思う」
「何それぇー。じゃあ過去にはあったって言うの?」
私はそんなつもりはなかったが、裕美としては考え得る答えとは掛け離れていたらしく、また私の答えが要領を得ないと感じたのか、焦ったそうに聞き続けてくる。
「うーん…」
この時私は、義一の書斎の本達のことを思い浮かべていた。
「…そうね。過去には幾らかあったかも」
「あったかもって?」
「…簡単に言えば、その職業はほぼこの世から消え去っているんだもの」
私は対岸の方、太陽との逆光で真っ黒に遠くで聳え立つ、ビル群を見つめながら答えた。
「…えぇー、訳わかんなーい」
裕美は今まで表情で表していた感情を、ようやく言葉に翻訳して口から出した。私は顔を見なかったが、ブー垂れていたことだろう。と、裕美は両手を後ろにして土手に手をつき、真上を見上げながら、しょうがないといった調子で言った。
「…まぁ、それでいいわ!琴音ちゃんがこういうことで、ふざけて茶化して私をからかうような真似をする、軽薄な人じゃ無いことはよくわかっているからね!」
裕美は私に顔をくしゃっとした、愛嬌のある満面の笑顔を向けた。私は何も言わず、同じような笑顔を返すだけだった。そろそろ日が暮れる。
「さぁってと!」
私はおもむろに立ち上がると、伸びをしながら裕美に話しかけた。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか?」
「ふふふ、そうだね」
私達はお互いに身体中、特にお尻辺りをはたき合って埃を払い、二人仲良く並んで家に帰る事にした。空は薄っすら暗くなって、宵の明星が西天に輝いているのが見えたが、まだ遠くの区役所からアナウンスが聞こえないところをみると、まだ五時にはなっていないようだった。
「そういえば、絵里さん…あの司書さんがいる図書館に、今週の土曜日勉強しに行こうと思うんだけど、裕美はどうする?」
「え?今週の土曜かぁ…」
裕美は視線を上にして、何か頭の中のスケジュール帳を見ている風だったが、私に視線を戻すと、両手を顔の前で合わせて、目をギュッと瞑りながら応えた。
「…ごめん!今週も習い事で忙しくて行けないわ。また今度誘ってよ」
「えぇ、それは構わないけど…」
おっと、忘れるところだった。
私は自分に課した使命を思い出し、それを裕美にぶつけて見る事にした。
「今までそういえば聞いた事なかったけど…あなたの習い事ってなんなの?」
「え?」
裕美は大袈裟に仰け反り、驚いて見せた。今私達がいる通りが、人気がなくて助かった。
私は仕返しとばかりに、裕美に詰め寄った。
「ほらー、あなたは私がピアノをしてるって知っているじゃない?でも私は知らない。これって”不公平”なんじゃないかなー?」
と私がニヤケながら言うと、裕美は照れ臭そうにいつもの癖をしながら返した。
「まぁそうねぇ…不公平かぁ。こんなに早く”ブーメラン”が帰ってくるとは思わなかったわ」
「ふふ」
私は一人笑っていたが、今度は裕美もニヤケながら私に顔を近づけてきてから言った。
「ほんっっとに私の事を知らないのね?」
とだけ言うと、裕美はゆっくりと歩き始めた。私も慌てて合わせて歩いた。
「何?それってどういう意味?」
私が質問すると、裕美は笑顔を絶やさぬままに返してきた。
「そのまんまの意味よ。…そうねぇ」
裕美は今度は顎に人差し指を当てて、トントンと何度か叩いていた。と、何か思いついたのか私の方へ向き直り、笑顔で話し出した。
「ヒント!…私がなぜ琴音ちゃんを知っていたか?」
「ヒ、ヒント?っていうか、いつ問題出したのよ?」
と不平を述べたが、もちろん裕美の真意をそれなりに察したので、そのまま考えてみた。すぐに結論は出た。
「…あなたが言うには、私が目立っていて、それに合唱コンクールで私がピアノを弾いたってことよね?」
「そのとおーり!」
裕美はまたまた大袈裟に反応して見せた。
「…ん?つまり、どういうこと?」
と私が未だ分からずにいると
「ブッブー、時間切れー、タイムアップ!残念でした!」
と裕美はさっきと同じテンションで言い放った。私は膨れながら言った。
「何よー?じゃあ一体なんだって言うの?」
私が不満を露わに返したが、裕美はさっきまでのテンションとは打って変わって、頭を何度もゆっくり左右に振りながら答えた。
「やれやれ…この姫は下界のことなんぞ興味を示されないんだからなぁ」
「ちょっと、どう言う意味よ?それにその”姫”って言うの、固定化しようとしないでよ」
と言う私の抗議は、裕美の耳には一切届かないようだった。
「あのね…自分で言うのが恥ずかしいから、色々とヒントを出したんだから、そろそろ察してくれてもいいんじゃない?」
「え?あ、うん。ご、ごめんなさい?」
裕美がジト目でまた顔を近づけてきながら言ったので、私は訳もわからぬまま一応謝った。すると裕美は、それで一応満足したのか、人懐っこい笑顔に戻って話し始めた。
「しょうがないなぁ…去年の十二月!全校生徒の出る朝の朝礼!…それでも分からない?」
「…朝礼?十二月?うーん…」
何かあったっけ?…あぁ、なんか誰かが体育館の壇上に上がって、校長先生から表彰されてたっけ?あの時のことを言いたいのかな?
「…誰かが、なんか朝礼で表彰されてたような…」
「私」
「…え?」
裕美を見ると、自分の顔に指を差しながらアピールしていた。
「え?じゃなくて私よ、わ・た・し!もーう、そりゃ私を知らない訳だわー」
裕美は先程と同じく何度も首を左右に振りながら言った。
「あっ、そうだったの。へぇー…で、なんで表彰されてたの?」
「…もーう!」
裕美は短髪の頭の側面をゴシゴシと乱暴に掻いて見せたが、ふと掻くのを止めて、苦笑いを浮かべながら私に答えた。
「それはそうね。私が壇上に上がったことも知らなかったぐらいだもん、中身を知ってる訳ないか。あれはね…」
裕美は一瞬口籠もったが、絞り出すように言い切った。
「…去年のその時、私東京都の東部ブロック水泳大会で、女子十歳の部で”最優秀選手賞”っていうのを貰ったの」
「…へ?…えぇーーー!」
私は我ながら大きなリアクションだと思ったが、正直心の底から驚いたのだから仕方がない。思わず大きな声を出してしまった。人通りが無くてよかった。
裕美は妙に恥ずかしがっていたが、私の反応を見て、満足そうにしながら続きを話した。
「だから私が何の習い事をしてるかっていう問題の正解は、”水泳”でしたー」
「へぇー…水泳だったんだ」
私は感心していたが、ふと今更ながら気付いた。裕美は絵里の髪型を見て、愛着が湧く意味も含めて”キノコ”と称していたが、裕美の頭もそれに擬えれば”イガグリ頭”だった。それほどに短髪だったが、それが妙に、初めて見た時からだからかも知れないが、裕美によく似合って見えた。
でもそうか…短髪なのは水泳の為なのか。
他の水泳をしている女子がどうかまでは知らなかったが、私の中でこの二つを合わせると、キレイにパズルが合わさるようにシックリと嵌った。
「なるほどねぇ…っていうか凄いじゃない!」
私は裕美の肩をポンポンと何度か軽く叩きながら言った。
「要は都大会で優勝したようなものでしょ?何で言ってくれなかったの?」
と私が熱っぽく聞くと、今まで私が興奮しているのを見たことが無かったせいか、裕美は私をポカンと間の抜けた表情で見つめていたが、我に返り苦笑まじりに、言いづらそうに答えた。
「い、いやー…だってぇー…。今更去年の事を持ち出して言うのはダサいし、恥ずかしいじゃない?なんか昔のことを引き摺って偉ぶるみたいで、そんなの嫌でしょ?だから去年表彰されたけど、自分からは絶対に言ってやるもんかって、変に意固地になっていたの」
言い終えた裕美は、汚い話、何かを吐瀉した後のような顔つきでいた。私の方は、裕美の意外な一面、もちろん水泳をしていて、しかも優勝するほどだというのにも驚いたが、何より裕美の考え方に強い共感を覚えていた。
「…あなたの言う事はわかるけど、でも水泳をしてるって事くらい、教えてくれてもいいんじゃない?」
と私が言うと、裕美はバツが悪いというような表情を見せて、相変わらず言いづらそうに答えた。
「うーん…何て言うのかなぁ?…今だに同級生には『水泳頑張って!』みたいな、事あるごとに口先だけの応援を言ってくれる人が結構いるのね?…ちょっと嫌な言い方しちゃったかもだけど。琴音ちゃん相手だから隠さず言うけど、中には『まだ水泳頑張ってるの?』みたいな声をかけてくる人もいるのね?本人は悪気が無い…いや、”悪気すら無い”って言った方が正しいかも。…とにかく、私が何かにつけて冗談で『私は目立つし、顔が知られていて有名』みたいな事を言ったと思うけど、理由としてはこれだったの。ねっ?ある意味琴音ちゃんと共通点があったでしょ?」
「え、えぇ…」
私はそれよりも、意外と言っちゃあ悪いと思うけど、裕美が自分のことを私が思う以上に客観的に見れていることに感動していた。
「でもね…」
裕美は続けた。
「琴音ちゃん、今日も含めて昨日の電車の中とか…んーん、初めて会話をした時にも薄々感じていたけど、アンタと話す時には自分を全部晒してもいいんじゃないかって思えたの。他のみんなみたいに、クラスの中心にいる”自分”を演じなくても良いってね?」
「え?じゃあ尚更…」
私はすかさず間にツッコミを入れた。
「そう思ってくれたんなら、さっさと話してくれれば良かったのに」
と言うと、裕美は少し何故か寂しそうな顔をして答えた。
「…うん、その通りなんだけど、さっき話したでしょ?この水泳の話をすると、何も分からない、何も分かろうとしない人達が寄ってくるだけって。…そんな話を琴音ちゃんとは…んー、何となく…し辛かった…のかな?」
「裕美…」
と私が言いかけると、裕美は途端にまた顔を真っ赤にして、アタフタしながら
「…ほらー!また恥ずい事を喋っちゃったじゃーん!今日はこんなのばっか!」
と言うと、またソッポを向いてしまった。私は微笑んでその様子を見ていた。

「じゃあ、今週だけじゃなく先週の土曜も無理だったのは…」
「そう。私が所属する水泳クラブに行ってたの」
私達はまた帰宅の途についていた。裕美は何の気もなしに答えていたが、心なしか表情が晴れやかに見えた。ついさっきあんな話をしていたからだろうか。
「でね?」
裕美はもう私が聞かなくても、自分から話してくれていた。
「さっき私は去年、十歳の部で最優秀賞を貰ったって言ったでしょ?」
「えぇ」
「今年も大会に勿論出るつもりなんだけど、私達って今十一歳じゃない?だから去年の部は当然出れないから、また別のに出るの。それはね…」
裕美はここで一度溜めてから、また続きを話した。
「女子十一歳から十二歳の平泳ぎに出るのよ。…だから」
裕美は私をチラッと見て、すぐに進行方向に目をずらした。
「もう大会がすぐそこだから、今必死に最後の追い込みをしているの。…来年は受験だから、小学生最後になりそうだしね?」
裕美はそう言うと、照れ隠しなのか、大きく伸びをして見せた。
「…ねぇ?」
「んー?何?」
「その大会っていつなの?」
「えーっと…今月末の日曜日だけど?」
「…えぇーー!もうすぐそこじゃない!」
「だから言ってるでしょ?」
裕美は私が興奮しているのを、戸惑いながら苦笑いを浮かべていた。
今月末の日曜日かぁ…うん、よしっ!
「…それって、関係者以外の人も見に行って良いの?」
「え?…あー、うん、多分大丈夫だったと思うけど?」
それを聞いて、私は決意を固めた。
「…私、その大会観に行っても良いかな?」
「…え?」
戸惑いを隠せない裕美を他所に、私は畳み掛けるように言った。
「だって、そんな話を聞いちゃったら、俄然興味が湧いてくるじゃない!しかも小学生最後って言うし!…ねぇ、ダメかな?」
こう言っている間、私は勝手に裕美と自分を重ね合わせて見ていた。最も私は先生に薦められながらも、何度も話しているあの理由で、結局一度も小学生のうちにコンクールには出なかった。これも言ったと思うけど、若干先生の事を思うと、一度くらい出れば良かったと、極端に言えば後悔していたとも言えなくもなかった。
それを目の前にいる裕美は、ジャンルは違えど必死に自分の好きな事に全力で努力をして、しっかり結果を残し、それに慢心せず、こうして今また大会に向けて頑張っている。身勝手だけれど、今更何言うかと思うかもしれないけど、私はこの目で裕美の泳いでいる姿を見たいと、心の底から欲していた。
「…いやぁ…うーん」
中々裕美が煮え切らないので、私はダメ押しで詰め寄り、まっすぐ強い視線を裕美に向けながら頼んだ。
「…裕美、お願い」
「ーーーーーーっ!」
裕美は私があまりに近くに寄ってきたので、両手を前に出し、どうどうと私を宥めるように押し出した。それでもなお、私が見つめるのを止めないでいると、裕美は俯き大きく溜息つきながら答えた。
「…はぁー、わかったよ!琴音ちゃん、是非観に来てちょうだい」
「裕美、本当に良いのね?」
私が重ね重ね念を押すように聞くと、裕美は苦笑交じりに返した。
「本当も本当!それに姫にあんな顔で頼まれたら、女の私でも折れずにはいられないからね」
「ふふ、ありがとう」
裕美が言った軽口は無視して、素直に礼を言った。

それから色々水泳についてのアレコレを裕美に質問攻めしながら聞いた。最初の方は参っていたようだが、やはり好きな水泳、しかも私が自分で言うのは何だけど、熱心に興味を示して聞いてくるので、途中からは裕美自ら聞いていない事まで詳しく話してくれた。
ふと頭には、義一に野球について熱く語っていたヒロの姿がよぎっていた。

また私は一つのことを改めて再認識した。私は誰かが本気で好きだというものを語るその話が、ジャンルを問わず好きだということだ。大抵の人は、自分でアレコレ好きだと言っても、色々聞き出そうとすると、口を噤むものだ。あまり多くを語らない、言挙げしないのが美徳だという、我々日本人の本能的な点に由来するのかも知れない。だから私はある意味日本人らしくないのかも知れない。それでも私は繰り返すようだけど、この子供の頃からそういった話を聞くのが大好きだった。
私の個人的な考えで言えば、本当に本気で好きな物、好きな事があるとして、それについて色々訊かれたら、周りが引こうとも、止めに入って来ようとも、堰を切ったように、いかに自分がその事についてどれだけ好きかを話し続けちゃうもんだと思う。周りを気にしないくらい盲目的になる、これが本気で好きだと自ら言えることの条件だろう。

「じゃあ、また明日ね」
「えぇ、また明日」
私達は裕美のマンション前まで来ると、そこで二人でお互い笑顔で手を振りながら別れようとした。私が背を向けて自宅へ帰ろうと歩を進めると、背後から絵里が声をかけてきた。
「琴音ちゃーん!」
「え?何?」
私が振り返って裕美を見ると、裕美との距離はまだ数メートル離れていただけだった。まだマンションの敷地内だった。裕美はわざわざ私の元まで走り寄ってきて、私に話しかけた。
「言い忘れていたわ。その大会ね?去年も応援に来てくれた人が一人だけいるの。その人も今年来てくれるみたいなんだけど…良いよね?」
「えぇ、もちろん!仮に嫌だとしても、私がダメとか言う権利なんかないわよ」
私は少し苦笑気味に、でも笑顔で返事した。裕美はホッとしたような表情だ。
「そう?良かったぁ」
「で?その人はどんな人なの?」
と聞くと、裕美はニヤッと意地悪く笑いながら答えた。
「それはねぇ…」


「よう!遅かったな」
十一月の最後の週の日曜日の昼前、私が地元の駅前の待ち合わせ場所に着くと、ヒロが腕を組んでむすっとした表情で迎えてきた。上は無地のTシャツと下はジーパン、手ぶらで来ていた。私は前にお母さんから貰ったオレンジ色のミニボストンを持って、上は白と黒のストライプ柄の厚めなカーディガン、下は暗いワインレッドのロングスカートを穿いていた。
私もむすっとした顔を返しながら言った。
「…はぁ、本当にあなただったとは」
「それはこっちのセリフだぜ」
私達が二人で軽口を言い合っていると、その後ろで一緒に来ていた私のお母さんとヒロのお母さんが、笑顔ではしゃぎながらお喋りをしていた。
「あら、久しぶりね瑠美さーん!」
「久しぶりー」
「早速で悪いけど、今日はお願いね?」
ヒロのお母さんは私のことをチラチラ見ながら、お母さんに向かって言った。
「えぇ、任せといて!私も久し振りにヒロ君と一緒にいれて嬉しいわ」
同じ様に私の事を見ながら答えていた。
あの後お母さんに今日の事を言うと、最初は意外そうな顔で、私の顔を凝視していたが、すぐ後パァっと笑顔を咲かせながら、食い気味に根掘り葉掘り裕美について聞いてきた。説明すればするほど、お母さんは裕美に会ってもないのに、好感を持つ様だった。そして、ヒロのことも説明した。一緒に観に行くという旨だ。すると早速お母さんはヒロの家に電話して、今日の事を聞き出していた。丁度というか、ヒロのお母さんは去年はヒロに付き添って大会を見に行った様だが、今年はどうしても外せない用事があったとかで、仕方ないから他の信用できる親戚か誰かに付き添いを頼むつもりだったらしい。するとお母さんが率先して”子守”の役回りを引き受けたのだった。
「じゃあ、よろしくー」
ヒロのお母さんは去り際に私とヒロの頭を優しく撫でてから、どこかへ行ってしまった。
「…さて!行きましょうか」

私達は早速電車に乗り、二、三度乗り換えて、いわゆる湾岸エリアにある大きな水泳競技場に着いた。会場前の辺りは既に多くの人でごった返していた。
早速裕美から貰ったパスを係員に見せて中に入り観客席に着くと、見たことのない様な大きなプールがデンとあり、すでにその中を何人かが泳いでいた。大会自体はもう始まっていた様だった。裕美が出る部はまだだった。
「…はぁ、初めて来たけど、こんな感じなのね」
私がボソッと言うと、隣に座ったヒロが何故か誇らしそうに話しかけてきた。
「だろ?俺は去年もここに来たんだぜ!」
「…なんであなたが自慢げなのよ?」
「お待たせー」
お母さんが何処かにある自販機から私達二人の分の飲み物を買って戻ってきた。私は焙じ茶、ヒロはコーラーだ。
「ありがとう、おばさん!…おいおい」
ヒロは丁度私が飲もうとしているところを、苦々しげに見ながら言った。
「お前は相変わらずそんな苦い物を飲んでんのかよ?渋すぎ」
「あなたが子供舌なだけでしょ?」
「…そういやよぉ?」
ヒロはコーラーを、炭酸だというのにグビグビ飲むと、一息ついて私に話しかけた。
「お前スポーツ見るの興味なかったんじゃないのか?」
「…え?」
私は掲示板に表示されている、ローマ字表記の”HIROMI TAKATOO"をジッと見ていたので、急に振られて何言われてるのか分からなかった。
「何て?」
「だからよぉ…」
ヒロは何故か言いにくそうだ。何か納得いかないといった調子で続けた。
「今回高遠にお前が来るって聞いてよ、すっっごく意外だったんだわ」
「うーん…話が見えてこないんだけど?」
「だーかーらー!」
ますますヒロは不機嫌になるばかりだ。お母さんは隣で微笑ましげに私達のやり取りを見ている。
「…俺の試合には一度も見に来てねぇじゃんか」
「…あっ、そういえばそうね」
私はとぼけて見せた。
「そういえばって…お前なぁ…」
「あははは!ごめんなさいね、ヒロ君?ウチの娘がこんなんで」
堪えきれなくなったのか、お母さんは吹き出し、ヒロに笑顔を向けながら”何故か”謝っていた。ヒロは途端にお母さんに対して恐縮していた。私は無視して視線を掲示板に戻した。

そんなくだらないやり取りをした後、久し振りなせいか、お母さんはやたらとヒロに話しかけていた。ヒロも”外面良く”返事したりしている。私は黙ってお茶を飲みながら、今か今かと待っていた。
しばらくするとアナウンスが流れた。裕美が出る試合だ。アナウンスがあった後少し間が空いた後、ラップタオルや巻きタオルを巻いたままの女の子達がぞろぞろプールサイドに入って来た。目を凝らして見ると、グレーの地味めなラップタオルを身に付けている裕美がいた。
「おーい!高遠ー!頑張れー!」
隣でヒロは急に立ち上がると大声で叫んだ。出場者の親御さんやらなにやらが、ヒロの事を見て笑っていたが、その後ヒロに続く様に各々が十人十色な声援を掛けていた。
…なるほど、こういう時はこいつの底抜けの騒がしさが役に立つのか。
妙に感心しながらも、特に私はノらず、ジッと座席に座って裕美を見つめていた。各々がタオルを脱いで、競泳水着姿になると、腕を伸ばしたり準備体操をしていた。裕美を少しも視線を逸らさず見ていたが、裕美は会場の歓声など聞こえてないかの様に黙々と準備をしていた。只の準備なのに、私はすでにその姿に見惚れていた。
アナウンスでスタートの体勢をとる様に言われると、裕美含む数名の女子が数字の書かれた飛び込み台の上に立ち、飛び込む体勢を取り、スタートの合図を待った。私まで緊張感が伝わって、いつの間にか両手をキツく握りしめていた。少しの間、さっきまでの喧騒とは裏腹に、会場はシーンと静まり返っていた。
すると、なにやら機械音が聞こえて…

突然だが、ここで話を区切るのを許して欲しい。正直本論とは逸れてきているし、それに何より…このまま話すと裕美の頑張りを、”私の話”の味付け程度の扱いにしかねない。…それは私としては耐えられない事だ。そのー…大切な友達として。もし機会がある様なら、何処かで別に裕美自身の話を、私の知る限りに置いて、改めて話そうと思う。
ただこれだけだと中途半端だから、一つ、ヒントになるかならないかという補足を一つ言わせて頂くと、試合が終わり、裕美から貰ったパスのお陰で、関係者以外入れないロッカールームに入れたので、男子のヒロには外で待って貰って、私とお母さんで会いに行った。丁度プールサイドから帰ってきた裕美とロッカールームの外の廊下で出くわした。水泳キャップを取ったひろみの頭は、短髪のせいか、アチコチに無造作にピョンピョン跳ねて爆発していた。試合が終わったばかりなので、身体中から水が滴っていた。
裕美は私の姿を認めると
「…琴音ちゃーん!」
と大きな声で私の名前を呼んだ。最初は笑顔だけだったが、見る見るうちに目元に涙が溜まっていき、遂にダムが決壊した様にタラタラと両眼から止め処なく流れ出した。でも相変わらず笑顔のままだったので、言い方がいいかどうか分からないが、泣いてるのか笑っているのか判断しずらいクシャクシャな顔だった。
「…裕美、頑張ったわね」
私はこういう時、どんな言葉を掛ければいいのか皆目検討がつかなかったので、色々短時間で考えた挙句、結局月並みだけど、その様なことを言って優しく微笑みかけた。
私の言葉を聞くと、裕美は私の元に駆け寄ってきて、そのまま私に抱きついてきた。若干私の方が身長が高いせいか、私の胸に顔を埋める形になった。私はまたこういう時どうすればいいのか知らなかったが、知らなくとも無意識に、でも恐る恐るそーっと裕美の背中に腕を回し、私も抱きしめ返した。まだ水分を多分に含んだ競泳水着越しにも分かる程、裕美は小刻みに震えていた。私はなにも言わず優しく背中をさするだけだった。
しばらくして私達二人は離れた。と、裕美が私の服を見て「あっ!」と言ったので、私も自分の胸元を見て見ると、考えなくても当たり前だが、まだ水着姿の裕美と抱き合ったせいで、私の服の上が水浸しになっていた。下のワインレッドのロングスカートも、まぁ…いわゆる”おもらし”でもしたかの様になっていた。近くでずっと私達の一連の様子を、黙って微笑みながら見守っていたお母さんも「あっ!」とだけ声を漏らした。
裕美はさっきまでとはまた違った、申し訳なさを顔中に浮かべながら私を見ていたが、私はスカートを大袈裟に広げて、無言で裕美に濡れてる部分を見せつける様にしてから、パァッと渾身の満面の笑顔を浮かべて見せた。そんな笑顔でいる私の様子を見た途端、裕美もつられて同じ様に満面の笑みを返してきたのだった。お母さんも満足そうに笑っていた。

今話せるのはこんなところだ。裕美の試合の結果については…秘密だ。ご想像にお任せする。

それからは着替えた裕美に自分が所属する水泳クラブの面々を紹介してもらい、また気付かなかったが、裕美の後ろに先程から立っていた人が、実は裕美のお母さんだと教えてくれた。ビックリするくらい裕美にソックリだった。似ている点をあげるとキリがないほどだったが、まず最初に目についたのは、裕美と同じ様に頭を短髪にしていたことだった。普通お年を召した女の人には中々似合わない髪型だと思うが、しつこい様だけど裕美とそっくりなせいか、よく似合っていた。裕美と同じで体育会系なのだろう、スラッとしていて無駄な贅肉が削ぎ落とされているように見えた。
裕美のお母さんは私のことを裕美に紹介されると、急に私の両肩を掴み軽く揺すりながら「君が琴音ちゃんか!裕美が言ってたように、本当に可愛いね!いつも裕美から話を聞いてるよ」とテンション高めに話しかけてきた。「ちょっと母さーん!やめてよー!」と裕美が心底困ったといった調子で返していた。私とお母さんは顔を見合わせると、クスッと笑いあったのだった。
ヒロと合流して、そのままの流れで競技場近くのファミレスに入って、軽く雑談したりした。せっかくの大きな大会に参加した後だっていうのに、随分打ち上げが質素だと思われるかも知れないが、これは聞かなくてもクラブの人が教えてくれた。この人が裕美のコーチだった。大会の成績がどうなるか、当日にならないと分からないから、本格的な打ち上げはまた後日ちゃんとするんだそうだ。「あなたもどう?裕美の友達なら歓迎よ?」と誘って貰ったが、丁寧に断った。裕美の大事な”居場所”を土足で入り込む程には、さすがの私も厚顔無恥では無かった。
 地元の駅まで皆んな揃って帰った。駅前の時計を見ると五時をちょっと過ぎた辺りだった。そこで他のクラブの人とは別れた。お母さんは駅前のスーパーで買い物をしてから帰るというので、私と裕美と裕美のお母さん、そしてヒロとで帰ることになった。駅に近いところに住んでいるヒロとは、自宅である一軒家の前で別れて、残る三人で帰ることになった。
裕美のマンションが見えるところまで来たが、ふと裕美は立ち止まり、私の方を見て話しかけてきた。
「…琴音ちゃん、この後少し時間ある?」
「…え?えぇ、大丈夫よ」
「母さん」
裕美は私の返事を聞くとすぐにそのまま、今度は自分のお母さんに顔を向けると聞いた。
「…少し琴音ちゃんと、公園でお喋りしてっていい?」
裕美が指差した先には、遊具の無いこじんまりとした、公園と言うより猫の額ほどの広場があった。
「…えぇ、良いわよ?あまり遅くならないようにね?」
裕美のお母さんはそう言うと、今度は私に近寄り、先程みたいに私の肩を掴んで優しく微笑みながら言った。今度は揺らされなかった。
「じゃあね、琴音ちゃん!今度ウチに遊びにきなさいね?遠慮せずにいつでも良いから」
「…はい、必ず」
私も微笑み返しながら答えた。裕美のお母さんは満足そうに頷くと、私の肩から手を離し、そのまま何も言わずマンションの方へと行ってしまった。でも去って行くとき、振り返らずも手を振り続けていた。
「…なんか裕美のお母さんって、カッコイイね?」
素直な感想を裕美に言った。裕美はそれを聞くと、苦笑交じりに返した。
「…まぁ…ね?あの歳になってもカッコつけてるから」
裕美はそれから何も言わず公園の中に入って行った。私も後に続いた。
「…私ね、いつも水泳の練習後そのまま家に帰らず、一度このベンチに座ってボーッとしてるの」
裕美は二つしかないベンチの一つに座りながら言った。私も適当な距離を取って隣に座った。
「へぇ、そうなんだ?」
「うん。…水泳ってやっぱりすごく疲れるでしょ?大会前の練習なんか特にでね。でも終わってここに座ってボーッとしてると…」
裕美は言いながら真上を見上げた。そこにはベンチの裏に植わっている大きな木が、ベンチの上に屋根を作るように枝を縦横無尽に張り巡らしていた。この小さな公園は、その規模の割に大きな木が何本も植わっていた。幹の太さで予想するに、どれも樹齢が何年も経ってそうに思えた。
「気持ちいいのよ。程よい気だるさも手伝ってね。…まぁでも」
裕美は顔を戻し私の方を見ると、いたずらっぽく笑いながら続けた。
「夏になると毛虫が落ちてこないかヒヤヒヤなんだけどね?」
「ふふ、そうなんだ」
今度は私が真上を見ながら答えた。もう冬が近いからか、枝しか無かったが、それでも密集具合が凄かった。空が見辛いほどだ。
「…今日は応援に来てくれてありがとうね?」
「え?…うん」
と私は短く答えた。
「私がせがんだんだしね」
「…いやー!」
裕美は急に照れる時のくせ、うなじ辺りを掻きながら恥ずかしそうに言った。
「最近ほんと琴音ちゃんといると、なんか妙に恥ずい事を平気でしちゃってる気がするなぁー」
「…?あっ!あぁ…」
私はニヤケながら先を続けた。
「私に抱きついて来た事?」
「わぁーーーー!やめてーーー!」
裕美は両耳を手で押さえて、大袈裟に反応をして見せていた。
「あははは!」
「あははじゃないよ、もーう!」
抗議をしてきた裕美の顔は笑顔だった。
「でも前にも言ったかもだけど、琴音ちゃんの前だと、恥ずい事を言ったりしたりしても、言うほど嫌じゃないんだよねぇ…なんでかな?」
「ふふ、私に聞かないでよ?」
私はまた笑顔で返したが、ふと両足をバタバタさせながら、別の話題、裕美が泳いでいるのを見て、その時感じた事を話すことにした。
「…いやー、でもあなたに嫉妬しちゃうなぁ」
「え?嫉妬?なんでまた」
裕美は座る位置を変えず、上体だけ私に近寄り、両手をベンチにつきながら聞いた。私は正面を向きながら続けた。
「えへへ…だって、こんなに一生懸命になれる事があるというのは、やっぱりズルイ…いや、素直に羨ましくて」
私は顔だけ裕美に向けた。笑顔だ。
「だから嫉妬しちゃう」
私は冗談交じりに言ったが、裕美は何やら真剣に考え込んでいるようだった。と、ハッとした表情になると、すぐ何とも言えない微妙だって顔を作りながら返した。
「…うーん。そう改めてハッキリ言われると、またまた恥ずいんだけど…でも琴音ちゃん」
裕美はここで表情を変え、微笑みながら続けた。
「アンタにはピアノがあるじゃない?」
こういう返答は予想していたので、私は包み隠さず今までのピアノ遍歴を披露した。何故薦められたのに、コンクールに出なかったのかも。
裕美は黙って聞いていたが、私が言い終えると途端に苦笑いを浮かべて返してきた。
「…ふふふふ。何だかこれぞ”琴音ちゃん”っていうエピソードだね?”らしい”感じだよ」
裕美は今度は少し表情を暗くしながら先を続けた。
「…でも私と何も変わらないと思うなぁ。私も初めは何だか人前に出たく無かったもん。…それに競技用とはいえ水着だしね?」
裕美はニヤッと笑って見せた。がすぐに表情を戻して続けた。
「ただ私は琴音ちゃんほど何も考えてなくて、ただ周りの人が私を褒めてくれて、また必要としてくれてるって事で、じゃあそれならって、流れみたいなものにただ乗っかっていただけかもしれないなぁ…って今初めて考えて、思いついた事を言ってるだけなんだけど」
言い終えると、裕美はまた照れ臭そうにしていた。
「そっか…まぁ」
私も照れ隠しに意地悪く笑いながら応えた。
「私もなんか変な影響受けちゃったよ。…コンクール一度くらい出とけばよかったなぁって」
「…ぷっ!あははは!…イヤイヤ、今からでも出れるでしょ?出てなかっただけで、今も変わらず努力し続けているんだから」
裕美も意地悪く笑い返してきたが、目の奥は優しい光を宿して私を見つめていた。
私も見つめ返して黙っていたが、お互いに恥ずかしくなり、誤魔化すように二人で笑いあった。
「…よし、じゃあ琴音ちゃんそろそろ帰ろうか?」
裕美は立ち上がり、両腕をめいいっぱい空に向けて大きく伸びをしながら言った。
「えぇ…ねぇ?」
私は腰を浮かそうとしたが、またストンと腰を落とし、裕美の事を見上げながら聞いた。
「ん?何?」
裕美はこちらを見下ろしながら、伸びの体勢のままに聞き返した。
「…何で私の名前を言う時”ちゃん付け”なの?」
「…え?」
裕美は予想外だったのか、両腕をストンと降ろして、私の顔をまじまじと見ながら聞き返した。
「だって私が”裕美”って呼び捨てなのに」
「えぇー…いやぁ…だってぇ」
裕美はまた私の隣に座り直した。そして、中腰になって先程よりもこっちに近付いて来てから続けた。
「なぁんか琴音ちゃんって…普段は凄く大人っぽいから”お姉ちゃん”って感じだけど、たまに弱々しく脆い感じに見える時があるから、印象強い”か弱さ”が目立って思わず”ちゃん付け”しちゃうんだよ」
と言い終えると、裕美は顔をクシャッとさせながら無邪気に笑った。
「何よその理由はー…。しかも本人を前にして」
私は苦笑い気味に非難をして見せた。すると裕美は私の肩に自分の肩を軽くぶつけて、頭をチョンとこれも軽く私の肩に当てながら返した。
「別にいいでしょー?アンタには何も隠し事をしなくても良いんだからぁ」
「…もーう」
私は苦笑いだったが、心の内がバレないように誤魔化すためでもあった。正直そう言ってくれて嬉しかった。
「…でもあなた、私の事を”琴音ちゃん”って呼ぶくせに、”アンタ”なんて言葉遣いはなんか…整合性が無いように感じるのだけど」
私は裕美を優しく押し返しながら言った。
「えぇー…まぁ言われてみればそうねぇ。…じゃあどうしよっかなぁ?」
「…ふふ、『どうしよっかなぁ』じゃなくて…」
私は柔らかく笑いながら、ひろみの顔を直視して言った。
「”琴音”って呼び捨てにしてよ」
「…うん、わかったよ”琴音”」
「ふふ…それで良いのよ裕美」
私達はお互いの名前を呼び合うと、一瞬黙って顔を見合わせたが、すぐその後さっきみたいに笑いあったのだった。
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