第9話 師友

文字数 29,074文字

あれから同じ週の土曜日、私は義一の家の前にいた。午前で終わる学校から、直接来た形だ。相変わらずこの辺りは民家も少ないこともあって、人通りが無いに等しく寂しかった。時折側の高速道路を大型トラックが通るたびに、地響きにも似た音が鳴るだけだった。でも、何だかいつもここに来る時は、一度家の前で立ち止まり、一息付かなきゃインターホンを鳴らせなかったから、人の目を気にしなくても良い点で、ある意味助かっていた。ここに来る旨は、予めメールで話していたから義一が驚く心配は無かったが、理由までは伝えてなかった。
「…さて」
ジーーーー。毎度のごとくブザーの音にも似た、味気の無い無機質な音がボタンを押してる分だけ鳴り続いていた。
「…あ、琴音ちゃん?どうぞ入って」
と、ブツッと音が切れると同時に義一の声が聞こえた。
「うん」
と私も短く返事をすると、ガラガラ音を立てながら、引き戸式のドアを開けて中に入った。玄関で靴を脱ぎ、そのまま直進して、書庫兼書斎の部屋へと向かった。
 中に入ると、義一はあの重厚感のある書斎机の前に座り何やら書類を整理していた。が、私が入ってきたのに気づいたか、ふと顔を上げて、微笑みを湛えながらこちらに向いた。珍しく眼鏡を掛けていた。
「やぁ、ようこそいらっしゃい」
「うん、おじゃまします」
「あ、そこに掛けて掛けて」
と義一が指差したそこには、夏休みの宿題をした、小洒落た椅子とテーブルが、この間と変わらずそのまま置いてあった。薦められるままに座ると、義一も立ち上がり私の向かい側に座った。私は先ほどまで義一が座っていた、書斎机の方を見ながら
「今義一さん、私が来るまで何してたの?」
と聞くと、いつもの頭を掻く癖をしながら
「あぁ、あれ?あれはね、ちょっと人に頼まれてねぇ…ちょっと見てみる?」
「あ、うん」
「よっと…」
ゆっくりと義一は立ち上がると、書斎机に近づき、上においていた書類の何枚かを手に取り、またこちらに戻ってきた。
「これなんだけどね…」
と手渡された物を受け取ると、何やら何十枚あるかと思われる厚さのレポート用紙が、見た事ない大きなホチキスの芯で止められていて、一番上の、表紙なのだろう題名が書いてあったが、日本語で書かれているはずなのに意味が理解できない言葉で書かれていた。
「これって…?」
と表紙と、それから何枚かイタズラに捲りながら聞いた。
「それはね…」
と義一はまた、私の向かいに座りながら答えた。
「ある知り合いに、これを読んでおくように頼まれてね。まぁ仕方無く、それを読み込んでいたところなんだ」
「ふーん…これって義一さんの仕事なの?」
と私は持っているのに疲れて、紙の束を置きながら聞いた。義一はそれを受け取り、また立ち上がって書斎机に戻しながら
「うーん…どうかなぁ?仕事って程じゃないけど…まぁ、頼みごとは断れない、損な性格をしているからね」
と、最後の方は苦笑いを浮かべながら答えて、また私の前に座った。
「…それって、八月に少しの間会えなかったのと関係ある?」
と聞くと、義一はわかりやすく表情で嬉しさを表現しながら答えた。
「さっすが、琴音ちゃん。すぐに察してくれるから有難いよ」
「でも、理由を詳しくは教えてくれないんだね?」
と私は少しブー垂れた顔を作って言った。そうなのだ。あれから何度かそれとなしに、メールなどで聞いてみたが、いつもはぐらかされて教えてもらえずにいた。初めの頃はそんなにでも無かったのに、ここまで勿体振られると、嫌でも気になってしまうのが人の性だ。
 義一はいかにも申し訳なさそうな顔つきで
「うん、ゴメンね?絶対内緒って訳じゃないんだけど…前も言った通り、僕が琴音ちゃんに話す時かと判断したら、ちゃんと教えるって誓うから」
と言うので
「やれやれ、しょうがないな。今の所は我慢してあげるよ。私も大人だからね」
と首を横に振りながらも笑顔で応じた。
「ははは、ありがとね、琴音ちゃん。あっ、忘れていた。ちょっと待ってて?今飲み物取ってくるよ。いつもの紅茶でいい?」
「うん、早くしてね?」
「はいはい」
と義一は居間の方へ行ってしまった。しばらくしていつもの紅茶セット、そしてそれを乗せたお盆を持って戻って来た。それをテーブルの上に置き、座りながら横目でチラッと私の脇に置いてあるランドセルを見ながら
「そういえば、もう夏休みは終わっているんだね?」
と聞くので私もランドセルを見ながら答えた。
「うん、今週から。みんな日焼けしてたりして、結構変わっていたよ」
「そうかー。琴音ちゃんは随分白いまんまだね」
と今度は私の、ノースリーブのシャツから出ている腕を見ながら言った。私は自分の体なのに、初めて触るかのように腕を撫でながら
「うん、まぁほとんど家の中でピアノを弾いていたからねー。…あっ、でも外に一切出なかった訳じゃ無かったのに…うーん、不思議だね」
と私は腕を組み考え込んでしまったので、その様子を見た義一は笑いながら
「いやいや、そんな深く考えないでもいいよ。僕も深い意味を込めて聞いた訳じゃないんだしさ?…そういえば」
と紅茶を一口啜ると、義一が続けて聞いてきた。
「今日、学校から直接来たってことだよね?お母さんにはなんて伝えたの?」
「うん、今日はねー…」
とここで私は腰に手を当て、胸を張り
「今日はそのまま友達と遊んでくるってだけ言ったの。でも、安心して?何も疑われなかったから。何せ私は、普段何にも問題を起こさない、”良いこ”でいるお陰で、こうして直接家に帰らなくても、あまり深く聞かれずに済むの。だから義一さんは、私の日頃の行いの良さに感謝してね?」
と、わざと誇らしげに答えた。義一はまた満面の笑みで言った。
「へぇー、そっか。それは有り難いねぇー。今こうして僕の所に内緒で来るような、本当は悪い子なのに」
「あーーっ、それを言うんだ?」
「ははは」
「…ふふ」
二人顔を見合わせて一頻り笑いあった後、義一は少し真顔に戻って、また紅茶を一口啜ってから切り出した。
「…そういえばメールで言ってたけど、何か話したい事があって僕の所に来たんだよね?一体何かな?」
「え?…あぁ、うん…」
と私も、まだ表面の熱いカップを両手で包むように持ち、それを一口飲み置いてから、無言でランドセルを取り、開けて、中から例のパンフレットの束を出して、テーブルの上に置いた。
 実は今日義一に見てもらうために、家から纏めてランドセルに入れて来たのだった。今日があまり授業が無い土曜日なのが幸いした。
 義一は私が何も言わずに出した紙の束を、腕を伸ばして取り、一枚一枚丁寧に読んでいった。一通り見たのか、テーブルを使ってトントンと束を纏めると、それを私の側に戻して、それから話しかけてきた。
「…これはどうやら、受験向けの学習塾のコマーシャルみたいだけど、これがどうかしたの?」
「うん…あのね?」
私は今までの経緯を話した。両親、特にお母さんが私に中学受験をさせたがっている事、ピアノを続けられるか聞いたら、両立ができるかどうかと言う事、それでカッとなって初めてお母さんと口論しちゃった事。で結局私が折れて、このまま流れで塾に通うことになりそうな事を。今まで黙って目を瞑り、私の話を聞いていた義一だったが、一通り話し終えたのを確認して、また紅茶を一口啜ってから、私に話しかけた。
「…なるほど?話は大体わかったよ。…で、それで僕に実際琴音ちゃんが聞きたい事というのは何なのかな?」
「あ、うん…」
ジッと見つめる義一から一度視線を逸らし、俯きながら私の中で何度も言葉を反芻し、意を決したようにそのままの体勢でゆっくり話し始めた。
「あ、あのね?何で私が周りに歩調を合わせて、全然興味のない、皆んなが言うところの”勉強”をしなくちゃ、いけないのかな?って…い、いや、もちろん、お母さん達が言ってることは子供ながらにわかるの。私に意地悪したくて言ってるんじゃないのも。…でも、私自身のことなのに…好きなピアノを我慢してまで、塾に通わなくちゃいけないなんて、そんなの…」
と、ここまで言うと顔を上げて、変わらずこちらに真っ直ぐな視線を投げかけてくる義一の目をまともに見ながら
「私は納得いかない。好きだとハッキリ自分で言えるピアノを我慢して、中学に入るためってだけで勉強をしなくちゃいけないなんて。この近所にも中学はあるのに。…周りの意図はともかく、訳もわからないまま受験勉強をこれからしなくちゃいけないなんて、他の子には出来ても私には…出来ない」
と最後は消え入るような声で、やっと吐き出すかのように言い切った。義一は私が話している間、小さく相槌を打っていた。話し終えると義一は腕を組み少し考え込んでいたが、腕をほどき紅茶に口をつけると、優しい口調で切り出した。
「…なるほどね。琴音ちゃんの言い分はよーく分かった。そして僕に聞きたい事もね。…うーん、琴音ちゃん?」
「…?何?」
「琴音ちゃんは僕にこう聞きたいんじゃないかな?”何で勉強をしなくちゃいけないのか?”ってね。…勿論、”受験勉強”に限らず」
「…」
まさに図星だった。私が言いたいことをズバリ言ってくれたのも嬉しかったが、それを言い辛いのを察して、率先して言ってくれてるという気遣いも感じ、それまた嬉しさもひとしおだった。
「…うん、その通り」
弱々しくだが、ちゃんと視線を外さずに答えた。すると義一は視線を周りの本達に移して、何かを探すように泳がせていたが、また私に戻すと、優しく微笑みながら聞いてきた。
「…琴音ちゃんは、何で人は勉強しなきゃいけないと思う?」
「え?…それは…」
私は口籠った。今聞かれた義一からの質問は、私の方から聞こうとしていたものだった。いつもだったら聞きっ放しだったが、でも今回は違う。夏休みのあの時、絵里に言われたことを思い出し、私なりの考えを纏めてから、義一に聞こうとこの日まで考えた。が、これといった固まった考えは結局浮かばず、今日を迎えてしまった。
 義一が話しだす様子が無かったので、ボソボソと、小さな声で普段周りで聞かれる有り体な事を答えた。
「…私も今義一さんに話すまで考えたけど、結局分からなかった。自分でも納得いく答えを探したけど見つからなかった。…周りから聞かされるのは『勉強の理由?それは将来苦労しないために今からするんだ』って類いのものだけだったの。でもそんな答えは、微塵も納得いかない。だってその後の話を聞くと、仕事がどうの何だのと、お金がどうのとしか理由を言わないんだもん…私がピアノを弾くのが好きだという気持ちは、お金では計れないもん…」
と最後の方は、頭の中渦巻く無数の言葉の端々を、何とか捕まえてそれを喋っている状態だったが、そんな支離滅裂なまとまりの無い私の言葉を、義一は途中で横槍入れる事もなく、黙って聞いてくれていた。
 義一はしばらく黙ったままだったが、さっきと変わらぬ微笑みを絶やさずに切り出した。
「…うん、難しいよね?いや、よくそこまで琴音ちゃんのその歳で、大人でも裸足で逃げ出す疑問に立ち向かって考えたのは賞賛に値するよ。冷やかしでも何でもなくてね?今琴音ちゃんが言ったように、確かに大人はそうやって子供を諭すんだろう。でも、これは琴音ちゃんだけじゃなく、いや琴音ちゃん程意識的じゃ無いにしても、子供というのは直感で大人のそういうセリフの端々にある、嘘くさい偽善の匂いに敏感に反応するもんだと思うね」
「…じゃあ義一さん」
と先程よりは元気を取り戻し、意志の強さを表す様に語気を若干強めながら聞いた。
「義一さんは何で”勉強をしなきゃいけないと思う?」
「…」
義一はしばらく目を瞑り考えていたが、これは何を言おうか分からずにいるのではなく、この事を私に話そうかどうしようかと、どちらかと言えばそっちで悩んでいるように見えた。と、急に目を開けると、さっきまでの微笑みとは少し変わって、照れ臭そうに頭を掻きながら答えた。
「…いやー、ダメだな。どうしてもこう言わずにはおれない。…琴音ちゃん?前に土手で、”暇”について話したの覚えてる?」
「…え?あ、あぁ、うん…はっきりと覚えているよ」
私は胸の中で、二人土手の斜面に座り、夕焼けを見ながら会話した情景を思い出しながら答えた。
「あの時みたいな話になっちゃうけど、つまらなくても我慢して聞いてね?」
「つまらないなんて…あの時もすごく楽しく聞いてたよ!」
と、本論からはそれてると感じながらも、義一が変に自虐気味に言ったので、私もよく分からないままムキになって言った。少しばかり元気になった私の様子を見て、また優しく微笑みながら話を続けた。
「そうかい?ありがとう琴音ちゃん。勇気をもらったよ。…あの時は確か、アリストテレスを持ち出して話したと思うけど…また人を持ち出してもいいかな?」
「え?う、うん」
「さて…」
義一はおもむろに立ち上がり、部屋の壁三面にギッシリ収められた本棚の一つに近寄り、指で背紙を一つ一つ触っていっていたが、一つの本の前で止めるとそれを引き出し、手に持ってこちらに戻ってきた。そしてそれをテーブルの上に置いた。
「??」
私はその本を手に取り、よく分からないまま中を覗くと、全文が英語で書かれていて、何一つとして分からなかった。ただ、本自体が持つ重厚感などから、この間の土手での難しい話が来るんだと、覚悟だけはした。
「これは…?」
と私が本を置きながら恐る恐る聞くと、義一は微笑んだままでその本を手に取り、少しハニカミ気味に答えた。
「いや、これはね?別に威圧したくて取って来たんじゃなくて、今の琴音ちゃんの、非常に難しいんだけれど、でもとても大事な質問に、簡潔に答えてくれてそうな人の本を出しただけなんだ」
義一はおもむろにペラペラページをめくりながら話した。私は黙ってその様子を見ていたが、御構い無しに
「この人はね?今から何十年も前に活躍していた女性の経済学者なんだけれどね?…あぁ、あった、あった」
と聞いてもないのに著者の説明をしたかと思うと、あるページで捲るのを止めて、私に視線を向けながら話した。
「でこの人は、イギリスのケンブリッジ大学というところで先生をしていたんだ。これはこの人が、前の大戦後すぐインドに行って講演した時が一番最初だったみたいなんだけれど、その後自分の勤めている大学で、入学して来た学生達に言ったセリフだって言うんだけどね…」
「うん、分かったから、その先生が何て言ったの?」
相変わらず前振りが長い義一の話に、思わず食い気味に私は先を促した。義一はそれには取り合わず、少しかしこまりながら言った。
「それはね、こうだったんだ。『経済学を学ぶ目的は、経済問題に対する出来合いの対処法を得るためではなく、そのようなものを受け売りして経済を語る者にだまされないようにするためである』とね」
「?…ってことはつまり?」
「うん、元もこうもなく要約するとね?『君達が大学に入ってこれから経済学を勉強する理由は、経済学の中身をあれこれ学ぶためというより、君達より先にその世界にいて教えを振りまいている先生たちに”騙されない”ためだ』ってことさ。分かるかい?」
「うーん…あっなるほど!」
と、今まで聞いてて、何で義一がこの話をし出したのか分からなかったが、今になってようやく合点がいった。義一も察したのか、何も言わず微笑んでいる。まるで私の言葉を待つように黙ったままでいたので、ゆっくり話を切り出した。
「要はその先生は、生徒達にその、経済学だっけ?それを学ぼうとしている人達に、何でその勉強をしなくちゃいけないのかを話した訳だね?」
と言うと、義一は何度かゆっくりと頷き
「そう、その通りだね」
と短く返して同意した。私は視線を義一が取ってきた本に目を落としながら
「で、義一さんがわざわざその人の言葉を引用したのは、私が聞きたかった”勉強”する理由にも繋がるからだったのね?」
と言うと、義一はワザとらしく腕を組み考えて見せたが、すぐに明るい口調で答えた。
「…そう!その通り!さすが琴音ちゃん、察しの良さもピカイチだね。そう、つまり僕が言いたかったことは、この人の言葉を借りれば『子供が勉強しなくちゃいけない理由とは、周りの大人達が言うことに容易に騙されないためだ』ということになるね。…これでどうかな?琴音ちゃん?」
と義一が聞いてきたが、すぐには答えられなかった。なぜなら、余りにすんなり義一の言葉が頭に入ってきて、ついさっきまで頭の中がモヤモヤしていたのが、今のこの会話ですっかりなくなってしまっていたからだ。晴れやかな気分だった。でも言われてすぐに同意するのも、納得したようには思われないんじゃないかと、今思えばいらない配慮をしてしまっただけだった。
 私は答えた。
「…うん、私なりにハッキリ納得した。義一さんは私に『周りの大人達に騙されるのが嫌なら、勉強しなさい』って言いたいのね?」
「まぁ、そういうことだね。…ただ」
と義一は答えたが、またハニカミ頭を掻きながら
「”勉強”そのものはそうなんだけれど、”受験勉強”それ自体は、正直僕にも答えられないよ…それはゴメンね?」
と謝ってきた。確かに受験勉強については、納得いかないままだったが、少なくとも、いや大分勉強についてのある種の違和感、それから来る嫌悪感は緩和されていた。なので、私は笑顔で首を横に振りながら
「いいのいいの!少なくとも義一さんは根本のところを解決してくれたんだから!その…ありがとう!」
と恥じらいも臆することも無く素直にお礼を言った。
「そんな大げさだよぉ…でも、どういたしまして」
と義一も戸惑いつつも笑顔で答えた。と、ここであることを思いついたので、私は悪戯っぽく笑いながら
「でもその”周りの大人達”には、義一さんも入っちゃってるのかなー?」
と冗談めかして言った。私はてっきり同じように冗談が返ってくるかと思っていた。でも、義一は微笑んだままだったが、目の奥に真剣さを宿しながら答えた。
「…うん、そうだよ?だから琴音ちゃん、僕とか誰とか関係なしに、嘘を言われた時、素直に騙されないように、どこか言われたところに引っ掛かるところがあれば、そこに噛み付けるように、僕からは繰り返しになるけれど、その為に琴音ちゃんには今まで話してきた意味での”勉強”をしっかりして欲しいな…」
「…う、うん…私も騙されるのは嫌だから、しっかり勉強するよ…」
最後の方は笑顔も隠れて、余りに真剣味を帯びて言うので、私はその様子に驚きながらも、なるべく真摯な態度で返した。義一は数秒そのままジッと私を見ていたが、ふっとまた笑顔に戻って言った。
「…よし!あっ紅茶がもう冷めてるね。ちょっとお代わり取ってくるよ」
「う、うん。お願い」
「お待たせ」
「あ、うん。ありがとう」
義一は持って返ってきたポットから紅茶を二つのカップに注ぎ入れ、二人して何も言わず一口取り敢えず静かに啜った。と、私の視線がパンフレットに行っていたのに気づいたのか、一度カップを置き、その中の一枚を手に取りながら聞いてきた。
「で、琴音ちゃんは、とりあえず”イヤイヤ”でも、ここだったら我慢して行ってあげるという目星は付けてるの?」
「…ふふ、何その考えられる限りの含みをもたせ過ぎて、胸焼けしそうになるような言い方は?そうね…」
と私は義一がお代わりを取りに行ってる五分くらいの間に、嫌々ながらも何とか許容できそうと感じた一枚を手に取った。そして表紙を義一に見せながら答えた。
「ここなんだけど、御茶ノ水にあるみたいでね?ここに載ってる地図を見ると、程よく駅から離れていて、あまり周りが騒がしくなさそうなの。ほら、私って人混み苦手じゃない?まぁ、それだけの理由なんだけど」
「へぇー、どれどれ…」
と私から手渡されたパンフレットをマジマジと見つめ、何やら精査をしている風だった。紙に目を通したまま
「いやー、しかし、さっきあんな話をしといて何だけど、”普通”のこれから受験するって子供の塾選びとは、思えない選択基準だね?」
といかにも呆れたといった口調でボヤいた。最もそれは、私にだけでは無く義一自身に含めてなのはわかっていた。なので
「えぇー、そうかな?私みたいな”普通”の子を捕まえて、その言い草はないんじゃない?」
とワザと膨れて見せながら返した。その反応を見て、義一は笑っていたが、ハッとした表情を作って
「…あっ、さてはまだ、何でこの塾を選んだのか理由があるんだね?」
と言った後、意地悪く悪巧みをしでかしそうな顔つきで聞いてきた。バレてはしょうがない。
「さすが義一さん、不気味過ぎるくらいの名推理だよ。それはね…」
とここで私は、義一を見習って勿体振るように一口紅茶を啜ってから答えた。
「ほら、さっき言ったでしょ?この紙の山は、お母さんがなんか知り合いのオバサンから貰ったって。そのオバサンの所にも、私と同い年の子がいるみたいなんだけど、私はせめて、その子が通っている塾だけには行きたくないのよ。…それがひ弱な力を持たない女の子が、今の所唯一理不尽な大人に対抗できる手段なの!」
と最後の方は、わざと口角を右側だけ上に気持ち持ち上げながらニヤリとして言った。私が正解を言い終えると、義一もウンウン頷きながらも、さっき顔に浮かべた意地悪な表情は崩さないままに
「ははは、なるほどねー。まぁ、琴音ちゃんがひ弱かどうかは若干クエスチョンマークがつくけれども、ははぁー、考えたね?でもよくその子が通っている塾がわかったね?」
と聞いてきたので、待ってましたとばかりに私は胸を張りながら
「それはだねぇ義一くん、私がいかにもその子に興味があるように、それとなくどこに通っているのか聞き出したのだよー」
と、思い返すと中々イタイ感じで答えた。さっきの会話でふっきれたのか、我ながら妙なテンションだ。義一は私のイタさには、優しく目を瞑ってくれたのか、変に乗っかってくることも無く普通に話した。
「そうかそうか!まぁでも、さっきの琴音ちゃんの口ぶりだと、兄さんは琴音ちゃんの意志を尊重するみたいなことを言ってたみたいだし、目論見は成功するだろうねぇ。…まぁ、お母さんはガッカリするかもだけど…」
とここで私達は視線を合わせると、一瞬見つめあった後クスクスと笑いあったのだった。

「それにしてもなぁ…」
と義一は大きく伸びをしながら言った。
「これも感覚の鋭い琴音ちゃんには慎重に言わなきゃならないけど…」
「え?何?長い前フリは今は要らないよ?」
と我ながら突き放したように思わず言った。それには構わず義一は続けた。
「いや、何、前に言った通り僕と琴音ちゃんが似てるとした上で言うんだけど、僕が琴音ちゃんの立場だったら、お母さんと口論した後で、『…分かった』なんて言えないよ。しかも一番大事にしている事をある意味貶されたわけだからねぇ」
「もーう、やっぱり長くなった。何が言いたいの?」
何と無く先が読めたが、褒めてくれようとしてるのがすぐに分かったので、言わなくてもいいチャチャを思わず入れてしまった。その気持ちを知ってか知らずか、ここであの柔らかい微笑みに表情を変えて静かに言った。
「いや…本当にしみじみ…琴音ちゃんて”優しい”なぁって思ってね。もちろん僕が思う本当の意味でね」
「もーう、義一さんは大袈裟…あっ」
そうだ、絵里さんとの約束まだ済ましていなかった!
私はそのワードが義一の口から飛び出した時、ほぼ同時に絵里さんの姿を思い浮かべた。
「…あのー、義一さん?」
「ん?何かな?」
義一はちょうど紅茶に口をつけようとしていた所だった。そのまま飲まずにカップを降ろして、興味津々な表情を浮かべながら聞いてきた。私はさっき質問に答えてもらったばかりというのもあって、少し躊躇ったが、絵里さんとのこともあるからと、よくわからない義理を一身に引き受けた心持ちで、思い切って質問した。
「い、いや義一さんが言うところの…そのー…”優しい”って何かな?」
「えぇー、”優しい”ねぇ…」
「うん」
私はさっきまでゆったり座るため、テーブルから少し離れて座っていたが、中腰になり、イスを近づけながら言った。
「だっていつも私のこと…自分で言うのは恥ずかしいけど…いつも優しい子だって言ってくれるじゃない?あ、いや、別に嫌じゃないの!うん、嫌じゃないんだけれど…いつも言ってもらうと、『その”優しい”ってことは一体なんだろう?みんな、義一さんも含めて、何をもって”優しい”と考えてるんだろう?私のどこを見て判断しているんだろう?』って疑問が膨れちゃって、言われても何だか素直に喜べないの」
これは本心だった。何も絵里と話した時に初めて疑問に感じたわけじゃ無く、その前から幾度となく私は周りの大人、同級生に至るまで”優しい”と言われ続けてきた。こう言うと自意識過剰な痛々しい奴に聞こえるかもしれないけど。でも言われる度に状況が違ったりしても言われる、また状況が同じなのに言われない、この二つが同一人物からだったりすると”なんでちゃん”としては、我ながら面倒だと思っても、気にならずには居れなかった。絵里に言われてから
「…私なりにも考えて見たんだけれどね?」
「うん、言ってみて?」
「うん…考えれば考えるほどわからなくなっちゃった。ほら、似たような言葉に”良い人”って言うのがあるでしょ?これは感覚でしか言えないんだけれど、”良い人”と”優しい人”…どっちも良いことのように思うんだけど、何か根本が決定的に違うと思うんだよねぇ…どうなのかな?」
と、今言える限りの事は話した。持ち物を全部吐き出した感覚だ。私なりに何度も考えて、答えは出なかったけれど、やりきった感はあった。気持ちは楽だった。
義一は先程”勉強”についての話をしていた時のように、腕を組み目を瞑り聞いていたが、私が話し終えるとさっき飲まなかった紅茶を一口啜ると、これまた明るい笑顔になりながら答えた。
「…いやー、本当に琴音ちゃんは偉いね。”優しい”とは何かを単純に考えてもわからなかった時に、近い言葉をみつけて、そこから視点を変えて考察をしてみる…大人でも中々出来る事じゃないよ?素晴らしい!」
と一人でヤケにテンションを上げて言ってきたが、私はため息交じりに苦笑いしながら言った。
「あのねぇ、義一さん?それって多分褒めてくれてるんだろうけど…分かりづらい!少なくとも小学生の私には。いや、私は義一さんの人となりが分かっているから良いけど、普通の小学生に言ったらキョトンとされて、無反応に終わるからね?」
「え?そうかい?でもまぁ琴音ちゃんが分かればそれで良いでしょ?」
「いや、私自身も理解が難しいんだけど…あっいや、違うよ!こんな話じゃなくて」
微妙なノリツッコミみたいなのをかましながら、慌てて軌道修正を試みた。
「義一さんの意見を聞きたいの!」
「そうだねぇ…これまた難しい議題だけれど…」
とさっきまでオフザケモードだったのに、スイッチを切り替えるが如く、一瞬にして”先生モード”に切り替わった。ちなみにこの時思いついた名称だ。
 義一は無言で立ち上がると書斎机に向かい、その上にあるペン置き付きのメモ用紙台から数枚メモ用紙を取り、あとボールペンを持って戻ってきた。そして何やら書き始めたので覗き込んでみると、そこには”優しい”という字と”良い人”という字が書かれていた。二つの字の下には、幾らかスペースが開けられていた。
 私が黙って見ていると、そこまで書いた義一は顔を見上げて、こっちが質問することを見通したのか、聞かれる前に話し始めた。
「これかい?これはねぇ、せっかく琴音ちゃんが論点を出してくれたから、見に見える形で整理するためにこうして書いたんだ」
「ふーん、なるほど」
「あ、これはね、結構使える方法でね?他の人と話す時も、すごく入り組んだ、大事な話なんだけど頭だけで整理するのが難しい時なんかは、アナログだけど手でこうして書くと、相手の言ったことも残しておけるし、そのとき思った考えをメモしておくと、後で頑張って思い出そうとしなくても見返せば済むから楽なんだ」
「なるほどね。言われてみれば当たり前なんだけど、実際やろうと思いつくかは別だもんね」
「そう。まぁその会話の場に書けるものがあるかどうかによっちゃうんだけど。だから僕は外出る時はいつでもペンとメモ帳は欠かせないんだ。…ってまた話が逸れちゃったな。まず何から話そうか…うん、まずいきなり本質、ある種結論めいた意見を言おうかな」
義一はそう言うと、”優しい”の周りをボールペンで雑に丸で囲った。私は黙って見てる。義一は囲った”優しい”の上をボールペンで軽くトントン叩きながら話し出した。
「琴音ちゃん、この優しいという漢字、試しに…」
と義一は丸で囲った”優しい”の下に”優”と書いた。
「これにもし下に…」
と今度は、”優”の下に”れている”と書いた。
「こう書くと、これはなんて読む?」
私は考えるまでもなく即答した。
「これは”優れている”だね?」
「その通り。意味は何かな?」
「意味はそうだね…他の人よりも力が抜きん出ているとか、能力があるとかかな?」
と答えたが、中々義一の言いたいところがはっきり見えて来ないので
「ねぇ義一さん。話が見えて来ないんだけれど…」
と焦ったそうに聞くと、義一は手で大きく宥めるようにジェスチャーをしながら笑顔で答えた。
「まぁまぁ。回りくどくて面倒なように聞こえるかも知れないけれど、こういった難しくて大事な問題は、一つ一つ慎重に吟味しかつ分析しなければ、ほんの数度見る角度が違うだけで、モノの見方がガラッと変わってしまう恐れがあるんだ。だから臆病なほどに慎重を重ねるのはとても良いことなんだよ?それに、『急がば回れ』とも言うしね?」
と最後はウィンクをしながら悪戯っぽく笑った。
「これを見て分かるように、”優しい”の”優”には、”優れている”と言う意味が含まれていることがわかるね?」
「う、うん」
「じゃあ”優しい”と”優れている”には、何か密接な繋がりがあるように思えないかな?」
「うん、それは確かにそう思う…あっ!」
と途中で義一が言いたいことが分かった気がしたので、途中までで打ち切った。
「あぁ、そっか…義一さんはこう言いたいのね?『優しい人とは優れている人のことだ』って?」
と言うと、義一は少しの間私の言葉を何度も噛み砕きながら咀嚼し味わっているようだった。と、カッと目を開けたかと思うと、いつものあの微笑みで私をまっすぐ見ながら答えた。
「…なるほど。幼くしてそうやって纏められるのは、それでこそ”琴音ちゃん”って感じだねぇ。うん、それで正解と言いたいところだけれど、これは世間的に縷々言われている括弧付きの『常識』の罠に落ちることになるから、そこだけ慎重に行こう」
「?う、うん」
 括弧付きだの何だのと、普段聞き慣れない単語が次々に飛び出してきて、私の頭は徐々に混乱してきていたが、それはそれ、私が聞いた質問に真面目に答えてくれている義一に対して真摯に応じたい、途中で投げ出すことなく理解しようとするのを止めちゃいけないと、子供ながらに必死について行こうとしていた。
 また、さっきや、いやその前からも、義一の会話における前フリの長さを、しょっちゅうからかったりしていたが、ちゃんと心の中では、義一の言う事に無駄な部分が無いことは分かっていた。私が普通の大人には答えられない、自分で言うのも何だが、難題をふっかけているからこそ、それを真面目に答えようとすれば、長くなってしまうのは当然だと当時はこれでも弁えていたつもりだった。義一は続けた。
「琴音ちゃんは今、『優しい人とは優れている人のことだ』って話したよね?僕の結論もこれにかなり似ている、いや同じと言っても良いぐらいなんだけれど、少しだけもうちょっと掘り下げてみよう。…多分君も薄々感づいていると思うけど、世の中一般に似たような事が言われているよね?それは…『優しい人は強い』と言うやつさ」
「あぁ、うん。それは色んな所で聞かれるセリフだね。でも…」
と私は途中で止めて、腕を組み首を傾げながらまた続けた。
「さっき私が言ったのと、今義一さんが言ったセリフの間…似ているようだけど全然違く見えるのよねぇ…」
と言いながら私はペンを取り、メモ用紙の空白に『優しい人とは優れている人のことだ』と『優しい人は強い』を縦に並べて書いた。義一はその様子を見て、ただ静かに微笑んでいる。
私は書き終えると、その字の辺りをペンでコツコツ叩きながら言った。
「…うーん、いや違いはすぐにわかるんだけど…でも”優れている”っていうのはこっちの”強い”ってのと同じに考えて、別に構わないと思うし…何だろう、後は順番が逆って事だけど…」
「おっ!」
私がまだ言い終えるかどうかのところで、今まで黙っていた義一が、突然極端に言えば、心の底から感嘆したかのような声をあげた。それに私が驚いていると、義一はまた頭を掻きながら詫びるように言った。
「あ、あぁゴメンね?ついつい、琴音ちゃんが自分の意思でペンを持って書き出して、そして僕と同じ考えに近づいてきたもんだから、嬉しくて思わず声を出しちゃった」
私は自分への賞賛は聞き流したが、ある一文だけ耳に止まった。
「…ということは、順番が大事なのね?」
と言うと、義一は向かい側から腕を伸ばし私の頭を撫でながら微笑んで返した。
「そう、その通り!よく出来ました。まぁ、あくまで僕基準でって意味だから、良いかどうかは分からないけど。…それはともかくそうだね、うん、今琴音ちゃんが言ったように、同じ単語しか無いのに、順番が違うだけで意味合いも違ってきちゃうってことなんだ」
「それはつまり?」
「つまりね?どっちに比重が寄っているかってことなんだ。…あ、いや、分かりづらいかな?」
と聞いてきたので私は少し考えたが、黙ってペンを持ち『優しい人とは優れている人のことだ』の文章の”優れている”、『強い人ほど優しい』の”優しい”を、また丸で囲ってから答えた。
「つまり私が言ったセリフでは”優れている”のが理由になっているけど、世の中の言い方だと”優しい”のが理由に来てるってことだね?」
「御名答!」
義一はもう嬉しくってしょうがないと言った調子で返した。
「ちょっと…いや、大分かな?言葉遊びとも取られかねないことを続けてしまったかも知れないけど、でもこれは”本気で真面目”な遊びだから有意義だと思うよ。…そう言い訳してからあと少しだけ続けると、そう、世の中的には『優しいから強い』、で僕達がさっき話したことで言えば『優れているから優しい』となるね。…ここで確認しておきたいんだけど、琴音ちゃんはこの二つのどっちが筋が通っているかな?これは僕のことは一切考えずに素直に答えてね」
と聞いてきたので、私なりに当然考えは決まっていたからすぐ答えてもよかったけれど、わざわざと言うこともないが、やはり頭の片隅に絵里のことを思い出して、なるべく誠実に答えようと考えを巡らした。
「…私は義一さんと同じく『優れているから優しい』に一票かな?…まぁ、まだ私は選挙権無いけど」
と答えると、義一は一瞬吹き出したが、すぐに立ち直り話した。
「そ、そうかい?それは光栄だけれど、じゃあ逆に、何で世間一般の意見には一票入れなかったんだい?」
「それはね…」
私はすっかり温くなった紅茶を飲み干して一息つけてから答えた。
「うーん…”優しい”が理由になっていることかな?何と無くだけれど。”強さ”や”優れている”とかいうのは、他の人が聞けば反論があるんだろうけど、簡単に言えば分かりやすいと思うのね?」
「うんうん、それで?」
「うん、さっき私が自分で言ったように、比較的簡単に言えちゃうの。だって力とか能力とか、他の人が出来て自分は出来ないとか、良くも悪くもはっきりと実感として認識出来ちゃう…これも私なりにだけど。溝がはっきり見えると言うか…それに比べて優しいっていうのは、今までみたいに考えなくたって、かなり曖昧だよね?だからこそこうして悩んでいるんだけど。そんな人によってマチマチな不確かなものを、理由の一番地に持ってくるのは、その後の話がバラバラにバラけちゃうと思うの。…だから…かな?」
何とか筋道立てて話したつもりだったが、やはり上手くは言えなかった。でも、言いたい事はキチンと言えた感覚はあった。
 義一は例によって、目を瞑り腕を組みながら聞いていた。私が話し終えても暫く黙っていたが、ゆっくりと目を開けるとまた柔和な笑みを浮かべて話した。
「…いや、よく難しい話をまとめて話してくれたね?…これ以上言うとシツコイって嫌われるかもだから言わないほうが良いのかもしれないけれど、でも言わずには居れないな。偉い、偉いし凄いよ琴音ちゃん。よくそこまで辿り着いたね?…あ、そうだね。いや、全く僕も同意見さ。それに付け加えるなら、世の中の人は漠然と優しいという言葉を手放しに”良い言葉”として乱用している節があるんだねぇ。だから取り敢えず『あなたは優しい』と言っておけば、その場は和やかに過ごせるという、いわゆる潤滑剤程度にしか思ってないようなんだ。だから…」
とまで言うと、また義一は腕を伸ばし私の頭を労わるように撫でながら
「琴音ちゃん、君みたいに感じやすい子は、その時その時によって違う意味で話される言葉に振り回されて傷付いちゃうんだね…」
と言うと、義一がおもむろにペンを持ち、最初に書いた”良い人”を今度は丸で囲みながら話を続けた。
「この”良い人”って言い方もね、曲者で混乱の元なんだよねぇ…琴音ちゃん、せっかく答えてもらってすぐで悪いんだけど、この”良い人”って何だろうね?」
と聞いてきた。私は書かれた”良い人”をジッと黙って見つめていたが
「…うーん、ある意味”優しい”よりも、いざ考えてみると難しいかも。…まぁ、今までの話からすれば、”優”と”良”だから優しい方が上なのかなって漠然と思うけれど」
と返すと、義一は少し目を見開いていたが、すぐに笑顔に戻って言った。
「…なるほどー。応用が効いてるね。それもとても面白い意見だよ。ただそれだけだと”良い人”と言うのは”優しい人”よりも少し劣る人ってことになっちゃうね?これはかなり分かりづらいと思うけど」
「うん、私もこれはちょっと…ていうか、かなり言葉が足りない気がする」
「うん…これも琴音ちゃんが提示してくれたと思うんだけど、”良い人”と”優しい人”の違い…これは僕の憶測だけれど、琴音ちゃんは過去に同じ人からこの二つを言われたから、深く疑問に思っているんじゃないかな?」
その通りだった。一番最初の所では義一に話さなかったが、今言われたような事が大きな一因であるのは間違いなかった。
「…そう、その通り。私のことを見て、同じ状況下でも『君は優しい子だ』とか『君は良い子ね』とか表現する。その人は私の事をよく見てくれてると思うんだけれど、その人ですらこうして雑に言葉を私に投げかける…その時はいつも、『この人本当に私の事見ているのかな?』って思っちゃってたの」
と言いながら私の頭の中には色んな人々の顔がチラついていたが、その中に両親もいた。
 私は自分で言いながら段々落ち込んでいき、終いには危うく泣きそうになるのを堪えながら
「だから、だからこそ、さっきも言ったけど、周りが私に投げかけてくる言葉の意味を、自分が納得する形で知りたいと思うのは…変なのかなぁ…」
と最後まで、自嘲気味ではあったが笑顔を保って言ったつもりだった。でも最後は結局涙声になってしまっていた。私が涙が溢れる前に照れ臭そうに目をこすっている間、義一は黙っていたが、こっちが落ち着いたのを見計らったかのように、語りかけてきた。顔には静かとしか言いようのないモノを帯せながら。
「…変なんかじゃない、変なんかじゃないよ。ちょっと話が逸れちゃうかもしれないけど、僕はこう思うんだ」
「…」
「どーう考えても、何度も自問自答してみても、おかしいとしか思えない事を、ひたすら疑い、答えはないかも知れない、無駄に終わるかも知れなくても、真理を追求しようとしている人に対して、『変わっている』と一言で済ましちゃう程、非情な事はない。余りにその人に対して失礼極まる。…ある元野球選手が言ってたんだけどね?その人は実力がピカイチで、羨望の的だったんだけど、あまりに歯に衣着せぬ物言いをしていたせいで一方で煙たがられていたんだ。その人がインタビュアーから『周りから変わっているって言われてる事について、何か一言ありますか?』って聞かれたんだ。そしたらその人は笑いながらこう答えたんだ。『俺の事を変わっているって思う方が変わっているんじゃないか?だって、俺は自分のやりたい事のために、ただひたすら他の人よりも努力をし続けて生きてきただけ。そんな俺自身を俺は真っ当だと思っている。その真っ当な奴を見て変わっていると思う方が、変わっている奴だと俺は思う』とね。…だから、琴音ちゃん」
と今日何度目になるか、また私の頭を撫でながら続けた。
「前にも同じような事を言ったかも知れないけれど、周りに変だと思われようと気にする事はないよ?勿論常日頃から、人が遊んだり怠けている間も、三倍、四倍、五倍と努力し続けなければいけないけどね?この努力というのも難しい。他人は努力を、ただ時間をかける、やりたくないけど他人に言われて頼まれた事を処理していく事と勘違いしているけれど、それは全然違う。こればかりは譲れないから僕の口から言わせて貰うけど、努力というのは、やれるかどうか分からない、でもそれがもし出来たなら善い事のはずだと自分なりに確信が持てる、そんな無理難題の課題をまず見つけて、それを己自身に課し、それを”死ぬまで”やり続ける事だと僕は思うんだ。身体的、肉体の衰えは別にしてね。だからそれで言うと、”努力した”って言葉は偽りでしかない。だって”終わっている”時点で努力してないのと同じだからだよ…って」
義一はここまで言い終えると、また頭をポリポリ掻きながら苦笑混じりに言った。
「いけない、また一人で話しすぎちゃった。…絵里にも注意されたばかりなのに。まぁ僕が言いたいのは、もし自分で自分がそんな人間だと思えたなら、周りが自分をどう称しようと構わず気にしないでねってこと。さっきの元野球選手じゃないけど、『真面目に妥協しないで生きてる私を変に見えるのなら、変に見えちゃうくらい手を抜いて惰性に怠けて生きている自分自身を反省したらどうだ』くらいの気持ちでいようよってことさ。…いやー、また琴音ちゃんに長いって言われちゃうなぁ」
と最後に戯けながら義一は言ったが、今まで黙って聞いていた私は静かに
「…言わない、言うわけないよ」
と短く、でも心からの偽りのない微笑みを浮かべながら返した。義一もそれに応えるように黙って笑顔で頷いた。
「…さて、僕の悪い癖で話があっち行ったりこっち行ったりしちゃっているけど、何だっけ…」
と言いながらメモ用紙に視線を流すと、明るい声を上げながら続けた。
「あぁ!そうだった!”良い人”の話だったねー。ほら琴音ちゃん、メモしておくと便利でしょう?」
「…ふふ、そうね」
と私はクスクス笑いながら返した。調子が戻ってきていた。

「で、”良い人”ねぇ…」
義一は一度丸で囲ったのを、上から何度もなぞりながら呟いた。
「琴音ちゃんの言う通り、根本から違う意味なのを大半の人が一緒くたに考えちゃうから、良く言って混乱が起きてると思うんだよ」
「良く言ってっていうのは、”もし考えての事ならば”って意味ね?」
と意地悪く笑いながら私は聞いたが、義一は同じような笑みを浮かべるだけだった。
「で、つまり何が言いたいの?」
「うん、これも人の言葉からの引用なんだけど」
「うんうん」
私が先を促すと、義一は何かを思い出すように顔を上げ、天井を見つめた。少しして、といっても数秒ほどで顔を私に向けなおし、”教師モード”の顔になって切り出した。
「僕の大好きな落語家がいるんだけど…あ、落語はわかるかな?」
「え?あ、うん。着物着て、扇子持って、お噺をする人達のことでしょ?」
と答えると、義一はこれまた何とも言えない微妙な表情になり、苦笑いしながら、説明しようか迷っているようだったが、一度軽く息を吐いてから続けた。
「まぁ、本論じゃないから今はそれでも良いかな?その人は、僕が思うだけじゃなくて、ファンの間からすれば、今生きてる落語家の中で類を見ない、実力ナンバーワンの呼び声高い、まぁそんな人がいるんだけどね?でもまぁ、この人も普通の人が言いにくい事をズバッと率直に言っちゃうもんだから、好き嫌いのはっきり別れる落語家なんだ」
「へぇ、その人はさっきの野球の人と同じみたいな人なんだね?」
「そう、その通り。で、この人が舞台で色々、琴音ちゃんが言うところの”お噺”をする前に話すんだけど、その中でちょうど”良い人”とは何かについて喋ってたんだ」
「ふーん、で何て言ってたの?」
「それはね…」
とここまで言うと、義一は眉間にシワを寄せて、その人のモノマネなのか、少しダミ声を出しながら続けた。
「『良い人ってのは簡単に言えば、誰かにとって”都合の”良い人って意味だろう。あの人良い人だなぁって思うってのは、あの人は自分に対して不快な思いをさせないし、気分良くしてくれる、いてくれるだけで”都合がいい”。ただそれだけのモンだろう?』ってね」
言い終えると、無理してダミ声を出したからか、紅茶を一口啜って一息ついていた。私はその間、今の話を簡単に自分の中で咀嚼してから話した。
「なるほどねぇ。じゃあ、その落語家さんが言いたかったのは”良い人”って言葉は、”都合の良い人”の略ってわけね?」
「そう、そういう事を言いたかったようだね。これはさっきまでの”優しい”とは何かよりも、格段に簡単に理解出来ると思うし、僕自身反論はないんだけど、琴音ちゃん、君はどうかな?」
「うん。なんかやけにスッと喉を水が通ったみたいに飲み込めちゃった」
私は喉の辺りを軽く触りながら答えた。
「あまりに単純だから、何か裏を探して反論できれば良いんだけど」
と言うと、義一はクスクス笑いながら返した。
「いやぁ、小学生なのに一々例えを出してくるのは面白いな。…あっ、そう睨まないでよ?褒めてるんだから。じゃあ、少なくとも僕らの間では同意が出来たようだから先に進めると、いよいよこの問題のクライマックスが近づいているみたいだね」
義一は言いながら、メモに書いてある”良い人”の前に(都合の)と、丸括弧にわざわざ入れながら書き入れた。
「ここであと一歩だけ踏み込んで見たいんだけど…良いかな?」
「うん」
私は義一が書いた(都合の)を、ペンで意味なく丸で囲みながら答えた。その様子を微笑ましげに見ながら義一は続けた。
「ある意味これが今回の本質的な所だと思うけど…琴音ちゃん?今まで話してきた事を考えてみて、果たして”優しい人”と良い人”、どっちを目指せばいいのかな?」
「それは…」
ほんの一瞬溜めたが、迷いがある筈もなく
「当然”優しい人”だよ!」
と答えた。すると義一はメモに書いてある、もう丸で囲い過ぎて汚くなっている”優しい”に今度はアンダーラインを引いた。そしてまたペンで数回コツコツ叩くと
「うん、琴音ちゃんだったらそう言うと思った。でも、何で”優しい人”を選んだのかな?何で”良い人”は嫌なんだろう?」
と聞いてきた。何となくそんな質問が来るかとは思っていたけれど、いざ返すとなると、言葉にするのはとても難しかった。今更だけどよくまぁ義一さんは、私のどこを買ってくれてたのか今でもハッキリとは分からないけれど、今までのこの難しい話を小学五年生に向かってしてたなぁって思う。
私は暫く考えた末に、何とか答えた。
「うーん…私個人の感覚だけで言えば、ただの好みの問題かもしれないけど、私は誰かを、周りを気持ち良くしてあげるだけの存在になるくらいなら、煙たがれても、周りの人より優れた人間になりたい…って…事、かなぁ?さっき義一さんが例えに出した、元野球選手や落語家さんみたいに」
最後の方は自信なさそうに話し切った。自信が無かったのはそうだが、なんか上から目線のような、大きな事を言ってしまったような居辛さを感じていたから、余計にはっきりと言えなかったのかも知れない。
 義一はと言うと、最後まで聞く前にすでに顔中に微笑みを湛えて、私をじっと見つめていた。あっ、理由を追加すれば、これも影響あったかもしれない。
 義一は私の話を聞き終えると、ワザとだと思うが、少しだけ間を置いてから話し始めた。
「…いやぁ、これを他人、特に兄さんが聞いたら怒り狂うかもしれないけど、ここまで僕と考えが同じだと、僕としてはこんなに嬉しいことはないなぁ。…って一人で感動してる場合じゃないや。なるほど、そっか。すっごく生意気な事を言えば、琴音ちゃん、さっき僕が出した二人、ついでにおまけで僕も入れさせてもらうと、この四人含む今生きている人間の少数とその他大勢の人間は、そこで結構タイプが鮮明に分かれると思うんだ。つまり”優しい人”を目指すか”良い人”を目指すかでね?…琴音ちゃん」
と、さっきまで微笑んでいたのに、ここで義一はいつだかの真面目な、静かな表情になり、真っ直ぐに私の目を見つめてから続けた。
「琴音ちゃんが話してくれたから言い易いんだけど…今の話にまた補足を入れさせて貰えればね?こうも言えると思うんだ。”優しい人”は”良い人”にならない。そして”良い人”は”優しい人”にはなれない。…琴音ちゃんはどう思うかな?」
義一の話を注意深く聞いていたが、特に疑問は無かったので
「…うん、そうだと思う」
と比較的すんなり答えた。義一は一度笑顔になると、また真顔に戻って続けた。
「多分僕の言い方にも気付いた上で答えてくれたとは思うけど、一応念のために言えば、優しい人は”敢えて”良い人には”ならない”し、良い人は”そもそも”優しい人には”なれない”という言い方を、僕は暗にしたよね?…そう、もっとこれを掘り進めてみるとこうなる。”優しい人”は周りの人を敢えて快適にはしないし、良い人は周りの人を快適にすることしか出来ない。…さっきから繰り返しているだけみたいだけど、我慢して付いて来てね?」
「うん、大丈夫。いらない心配だよ」
と一々聞いてくるのを注意する意味でも、ワザとつっけんどんに言った。義一は続けた。
「ははは、余計なお世話だったね?じゃあお言葉に甘えて…今まで一般論を言ってきたから、今度は具体論を言おうかな?…」
義一は立ち上がり、先ほど持ってきた女性経済学者の本を手に持つと、元あった場所に戻した。そして、これまたさっきと同じ様に本の背紙を指でなぞりながら、また何か別の本を探している様だったが、ある本の前で止めてそれをまた引き抜き、それを手に持って戻ってきた。
 今度はテーブルの上にはおかず、直接そのままページをペラペラめくり、そしてピタッと止まったかと思うと話し始めた。
「しつこい様だけど、また昔の人の言葉で悪いね?この人はプラトンと言ってね、前に話したアリストテレスの先生なんだけど、その人が書いた本の中で今までの話について分かりやすい例えを使っているから、ちょっと借用するね?」
「うん」
「これはプラトンのまた先生、ソクラテスって人が会話していたのをプラトンがまとめたものなんだけど…ややこしいけど付いてきてね?中身さえ頭に入れてくれたら、それで良いから。そのソクラテスが議論するんだけど、相手は当時口が達者で、人々に人気があった演説家だったんだ。で、この人が何でも知ってるといった風な口振りで言い回るもんだから、大勢が今で言う所の”信者”になっていくんだね。その信者の一人がソクラテスの友達で、是非とも紹介したいと二人を会わせるんだ。何でも知ってるって言うから、ソクラテスはその人にアレコレ質問するんだけど、その返答にまたソクラテスが質問する…すると段々相手は答えに窮する様になっていったんだ」
ここまで聞いてた私は、ふと、まるでどこかの誰かさんの話みたいだなぁと、妙な親近感を感じた。
「結局答えられないことが分かると、今度はソクラテスが『何で分かりもしない事を分かったように言い回るんだ?』って聞いたんだ。そしたらその演説家は『別に良いじゃないか。だって俺が喋ると、みんな気持ちが良くなって良い気分になるんだから。それでみんな俺の事を慕ってくれるんだから、良い事をしているに違いない』って半ば開き直りながら答えたんだ」
「えぇー…それまた随分乱暴だなぁ」
と話が途中だったが、思わず声を挟んでしまった。義一は何も言わず微笑んで一度頷いただけだった。
「そこでソクラテスは…」
とここで義一は字で真っ黒に埋められたメモ用紙をひっくり返すと、上部に”医者”と”料理人”と書き込んだ。私は黙って見ている。義一は
「この二つの例を持ち出したんだ」
と言うと、真顔から苦笑いに表情を変えながら
「ここからようやく本題だからね?おまたせ」
と言ったので、私は先を促す意味でも右手を前に出し、無言で縦にヒラヒラ振った。義一は許可を得たと察したか、そのまま先を話し始めた。
「どういうことかと言うとね?この二つはある種共通点があるんだ。何か分かるかな?」
「え?うーん…何だろう?…もしかしてナゾナゾ?」
と聞くと、義一は今度は子供のように無邪気に笑いながら
「いやいやいや、違う違う。でもそうだね、ナゾナゾみたいだよね?あっ、捉えようではナゾナゾに見なくも…」
「義一さん、さきさき!」
「あ、あぁ、ごめんごめん。えーっと…それで…あぁ!そうそう!この二つの共通点はね?…二つとも他者に何かを”与える”ってことなんだ」
私は義一の話を聞いて、少しの間考え込んだ。義一もワザと私の答えを待つように先を話さなかった。ようやく纏まったので切り出した。
「…あぁ、なるほど。医者は病気を治すものを与えて、料理人はそのまま料理を与えるってことね?」
「そう!それにまた補足をすると、医者はお薬を出すし、料理人は料理を出す。で、ソクラテスは演説家に向かって『あなたはこの二つで言う所の”料理人だ”って言ったのさ」
「…ん?それってどう言う意味?」
どう考えても繋がらなかったので、素直にすぐ聞き返した。義一は話すのが楽しいといった調子で返した。
「ははは、これだけ聞いても、流石の琴音ちゃんも分からないよね?そりゃそうだ。じゃあ説明するね?結論から言えばソクラテスはその演説家に対してこう言いたかったんだ。『確かにあなたは美味しい料理を出す料理人みたいに相手の人々を心地良くしてあげているんだろう。でもその人達は美味しい物を食べ過ぎて、体を壊しているじゃないか』とね」
「…あっ、あぁー、なるほどぉ」
と思わず私は急に納得したせいか、一人ボソッと声が漏れた。義一は満足そうに笑いながら続けた。
「こう言うのを聞くと、今も昔も変わらないんだなぁってつくづく思うよね?まぁ料理人自体が悪者にされちゃってる気はあるけど。
 で、自分は…あっ、いや、自分がそうありたいのは”医者”の方だと言ったんだ。つまり『医者は患者の為に苦くて美味しくない、決して患者が望まないものを処方してくる。でもその時には辛くても、将来には体を元気にしてくれる薬な訳だから、結果的に人のためになっているじゃないか』って言ったんだ」
「良薬口に苦しだね?」
と私は悪戯っぽく笑いながら言った。義一もそれに応えるように笑いながら
「そう、その通り!で、いつも通り前口上が長くなったけど…」
と言うと、義一はテーブルに肘をつき、手で顔を支えるような体勢になると
「この話…何で僕が今したのか、分かるかな?」
と聞いてきた。私はちょうど目の前にあるメモ帳に、あれかこれかと書き込みながら整理を始めた。書くのに夢中になっていたから分からなかったが、おそらく先程のように義一はこちらに微笑みをくれていたことだろう。しばらくしてハッとし、顔を勢いよく上げると
「簡単にこの例えに沿って言えば、”医者”は優しい人で”料理人”は良い人ってことね?」
と私は答えた。それを聞いて義一はまた芝居じみた、腕を組み考え込んでるふりをしたが、目を見開くと、心から嬉しそうに笑いながら返した。
「その通り!大正解!いやー、長い道のりだったけど…よく出来ました!
まとめて言うと、良い人というのはその時には場を明るくしたりして皆んなを気持ち良くし快適にしてくれるけれど、後には何も残してくれない。優しい人というのはその時には相手にとって耳が痛い事をズカズカと言うから煙たがれて敬遠されてしまうけど、もしその人がどこかで言われた事を覚えていたら、後々助かることもある。…まぁそういうことだね」
と一口紅茶を飲もうとしていたが、すっかり冷めていたらしい。義一は立ち上がると
「また紅茶のお代わりを取ってくるけど、琴音ちゃんはどう?」
ポットを持ち上げながら聞いてきたので、私は聞かれて初めて意識をし出した。そして小声で
「あ、うん…それは嬉しいんだけど…その間トイレ行っていいかな?」
とモジモジしながら答えた。義一は手に持ったポットをチラッと見ると、一人合点がいった様子で
「あ、あぁ、ゴメンゴメン!僕の話が長過ぎたのと、紅茶ばかり飲んでいるからそれはそうなるよね。早く行っておいで」
「う、うん。じゃあ借ります」
「僕はその間に淹れておくよ」

トイレを済まし書斎に戻ると、ちょうど義一がポットから紅茶を注いでいる所だった。義一はこちらを見ずに
「あ、おかえりー。今淹れた所だから丁度美味しいんじゃないかな?」
「うん、ありがとう」
と椅子に座りながら返した。ふと時計を見ると四時を少し過ぎた所だった。自分としては濃密な時間を過ごした感覚だったが、確かにここに大体一時半くらいに来たはずだから、それはそれなりに時間が経つもんだと一人納得した。
 二人して一口づつ啜ると、義一から話を振ってきた。
「でまぁ長々と話をしてきたわけだけど、どうかな?何となくでもヒントくらいにはなったかな?」
「うん。話は正直難しかったから、どこまで分かっているのか聞かれたら困るかも知れないけど、今言えるのは、感覚的にしか言えないけど、すっっっごく気分がサッパリしてるってこと!」
最後の方は俯き目一杯溜めてから顔を上げて答えた。義一は黙っていたが、頷き笑顔で紅茶を啜っていた。暫くそうしていたが、ふとまた”教師モード”の顔付きになって、静かに話し始めた。
「…まぁ今まで延々と話してきたけど、これはまた繰り返しになるけど、どうしてもこれは僕の琴音ちゃんに対する一番のお願いだから何度でも言わせてもらうね?」
「う、うん」
義一が急にまたあのモードになったので、飲みかけていた紅茶の入ったカップをテーブルに戻した。
「琴音ちゃんが自分で言った”優しい人になりたい”という言葉、僕はとても嬉しかった反面、やっぱりちょっと心がチクリとしたんだ。君のことだから、あの夏の夕暮れ二人で会話したこと、あれに限らず色んな事について話し合ったけど、全部が共通してるのが分かっていると思う」
「…」
「前にも同じような事言ったけど、もし本当に”優しい人”になろうとするにはこの世はあまりにも生き辛い。…特に今の世はね。…何しろ殆どの人達は”良い人”であろうとする。何故なら嫌な言い方をすれば、何も考えなくても葛藤しなくても、取り敢えずその場をやり過ごせるから。良い人でいれば嫌われないで済むからね。…結局そのままみんなで仲良く揃ってダメになっていくとしても、誰もが良い人であろうとするから、ズルズル沈み込んでいくんだ」
ここまで言うと一口また紅茶を啜り、話を続けた。
「今生きている人間の、ほんのごく一部、今まで話してきた意味での優しい人達、この人達は今に限った話じゃなく、いつの時代も嫌われようとも声を上げたりして戦い続けてきた。…それは敗北の歴史。耳障りな、嫌なことばかり言う優しい人達を煙たがり、闇にみんなで追いやった後、言ってた通りの結末になって誰もが不幸になっても”良い人達”は”優しい人達”に対して反省をしない。ずっと同じことの繰り返し。…今の世の中が余計に辛いって言ったのはね、琴音ちゃん?…今日の話で言えば、今は優しい人達と良い人達が一緒くたになって、生きているってことなんだ。
昔はそうじゃなかった。昔は優しい人達と良い人達が別れて暮らしていた。だから優しい人達は、昔から人数は少なかったけど、少ない人達で固まって議論をし合い、世の中のためにできる事を良い人達の目を気にせずに出来たんだ。それが今は全部が一緒になっちゃった」
義一はさっきのメモ用紙をまた裏返しにして、真っ黒に字で埋め尽くされた面をペンで軽く叩きながら
「君が持った疑問…優しい人と良い人の違い。普通の人はそんな疑問を持つことなく意味を分けずに使っている。でも琴音ちゃんみたいな人はそれをおかしいと思う。実際今まで見てきた通り違うからだ。でもそれを言うと数の少ない”優しい人達”が追放されてしまう。数の暴力の前ではいくら訴えても無力だからね」
ここまで言うと短く息を吐いて、また紅茶を一口啜った。私は黙って俯いている。
「だから琴音ちゃん…」
と義一は腕を伸ばし、向かいに座る私の頭に優しく手を乗せて、口調も穏やかに言った。
「さっきも言ったけど、琴音ちゃん…君が”優しい人”になろうとするのは心から嬉しい、喜ばしい事なんだけれど、これも前に言ったかも知れないけど、その決意を持ったまま生きようとすれば、間違いなく君は苦しんで深く傷ついてしまう…無力感に苛まれて絶望してしまうだろう。それでもまっすぐ立ち続けなければいけない…これは口にするほど簡単じゃない。僕にはどうすることも出来ない…琴音ちゃん?」
呼び掛けられた気がしたので、私は顔を上げて義一の顔を見た。その顔はいつもの柔和な笑顔だ。
「この先その現実を聞かされても…それでもそう生きようと決めるのは君だよ?…その覚悟はあるかな?」
 私はまた俯いた。再会した時にも、その後からもずっと義一と会話してきて、私に対する不純物の混じっていない純粋な慈しみ、憐憫の情をヒシヒシと感じていた。それはどこにも疑いの余地などないものだった。それをまた今義一が私に話しかけている。思いつきで答えて良い訳が無い。訳が無いけど、そんなのは何度聞かれようとも結論は変わるどころか固まるばかりだ。
「…何度聞かれても同じよ?私は”良い人”でいるよりも、たとえ辛くても”優しい人”になりたいの」
私は顔を上げ、真っ直ぐ強く視線を逸らさず義一を見つめた。義一も同じように見つめ返した。暫くそのままの状態が続いた。辺りは古時計の動作音しかしていなかった。ふっと、義一は短く息を吐いたかと思うと、また柔和な表情に戻って言った。
「よくわかったよ、琴音ちゃん…ありがとう、真剣に真面目に答えてくれて」
そしてまた私の頭をそっと撫でた。
「当たり前でしょ?…それに」
私はその手を優しく払い、周りの本棚を見渡しながら
「時代時代では少なくても、こんなに”優しい人達”がいるんだからね」
としみじみ言った。義一も同じように見渡しながら返した。
「…そうだね」
「…義一さんも」
私は少し意地悪くニヤケながら言った。
「…えっ!?あっ…いやー…」
義一は何も答えずに、照れ臭そうに頭を掻くばかりだった。その様子を見て、私も静かにクスクス笑うのだった。

「そういえばさっき、気になることをボソッと言ったよね?」
一息ついて、また二人がいるこの空間には穏やかな空気が流れていた。
「え?何だろう?…何か言ったっけ?」
義一は先程出した本を棚に戻しながら返した。私はその後ろ姿を見ながら
「うん…絵里さんがどうのって」
と言うと、こちらに戻ってくる途中だった義一は、見るからに気まずそうな表情になり、また頭を掻きながら戻ってきた。
「絵里のことかぁー…聞き逃してはくれなかったね」
「うん、地獄耳ですから」
やれやれと座る義一を見ながら紅茶を飲み、澄まし顔で返した。
「まぁ、隠すことでもないんだけどねぇ…八月にほら、三人でファミレスに行ったでしょ?」
「うん」
「あの後絵里は興奮しっぱなしでね?あの日の晩、僕に電話をかけてきて、仕切りに僕が居ない時どんなに楽しく琴音ちゃんと会話したかについて語られたんだよ。で、その中で絵里に言われちゃったんだ。『ギーさん、あなた年齢だけで見れば琴音ちゃんよりも歳上なんだから、琴音ちゃんから話しやすいように気を遣ってあげなくちゃいけないじゃない』ってね」
「へぇー、そんなの気にしなくて良いのに」
と私は何でもないといった調子で返した。義一は苦笑いを浮かべた。
「はぁ…そうやって琴音ちゃんは大人で返すんだもんなぁー…歳上、しかもかなりの歳上なのに、益々立つ瀬がないよ。でも僕も絵里に返したんだけどね。『そういう君も、その話を聞く限りでは、かなり一方的に喋っていたようじゃないか?』ってね。そしたら絵里は口ごもっていたけど、最後は『確かに』って認めていたけど」
その時のことを思い出しているのか、とても得意な調子だった。
「…考えてみれば、おかしいと思っていたのよ」
「ん?何がだい?」
「それはね…」
私はテーブルに両肘をつき、両手でほっぺを覆うようにしながらニヤケて言った。
「最初の方で義一さん、私の事を優しいと言った後にわざわざ『僕が思う本当の意味でね』って言ってたでしょ?」
「あー、うん」
「あれって…私に質問させるために、わざわざ伏線を敷いていたんじゃない?だって、『本当の意味』なんて言われたら、”なんでちゃん”の私が何の意味か聞かないわけないもんね?」
義一はさっきから頭を掻きっぱなしだ。義一の名誉のために言えば、決して不潔だからというわけではない。
「いやー、改めて言われると中々どうして、恥ずかしいもんだね。…そう、琴音ちゃんの言う通りだよ。いやー、参ったな」
「ふふふ。でも私も義一さんに隠し事があったんだけれど、これも言っても大丈夫かな?」
「何だろう?」
「ファミレスで義一さんがいなかった時、絵里さんと私で約束していたの。義一さんに”優しいとはなにか”を聞くっていうね。結局今の今まで聞くの忘れていたから、結果オーライだったんだけど…あっ、もしかしてここまで計算尽くだった?」
と聞くと、義一は右手を大きく横に振りながら
「いやいやいや。それは僕も聞いてなかったからねぇ、これはたまたまだったよ。丁度いいと思ったのは確かだけど。…あぁ、でも、絵里と話してた時、仕切りに琴音ちゃんのことを”優しい””優しい”って連呼していたから、その影響があったのかも知れないなぁ。僕もそれに関しては言われる度に同意していたから」
「もーう、いいからそれは!」
「ははは」
「ふふ…あっ!」
と、時計を見たのも束の間、外から音量小さく童謡が流れてくるのが聞こえた。五時になった合図だ。鳴り終わるまで二人して黙っていたが、終わると義一が優しく微笑みながら切り出した。
「…もう五時だね。今日はもう帰ろうか、琴音ちゃん?」
「…うん、そうだね」
私は時計を見つめながら、名残惜しそうに声を思わず漏らしたように吐き出した。

「じゃあ気を付けて帰るんだよ?」
「うん」
玄関先でランドセルを背負いながら靴を履いている私の後ろから、義一が声をかけてきた。履き終わり立ち上がると玄関に手をかけた。しかし私はそこで手を止めた。
「ん?どうしたの、琴音ちゃん?」
と私の様子を見た義一が話しかけてきた。私の方は言うか言うまいか悩んでいたが、振り返らずそのままの体勢で
「…義一さん、今度あの書斎から本を借りてもいい?今日はパンフレットがあったりで無理だけど」
と目の前のドアを見つめながら言った。そして振り返り義一の顔をまっすぐ見ながら続けた。
「…私、さっきも言ったように”優しい人”になりたいから。…そのー…義一さんみたいに」
「…」
私の言葉に義一は今日一番の驚きの表情を浮かべていた。しかしすぐに、嬉しがっているような、戸惑っているような、何とも言えない笑顔を見せながら返した。
「…あ、あぁ、そうかい?それはもちろん構わないよ。いつでも本を借りる意味でもこの家に遊びに来てね?…ただ」
と今度は照れ臭そうにまた頭を掻きながら続けた。
「僕のようにって言ってくれるのは、も、もちろん気持ちは嬉しいんだけど、そのー…あまりお薦めはしないな。参考までにね?」
「ふふ…一応聞いとくわ」
「…あっ、一つだけ条件があるよ?」
「え?何?」
私が聞き返すと、義一は少し勿体ぶっていたが、廊下を振り返り、廊下の一番奥の書斎の方を向いてから、また私の方に向き直り、悪戯っぽい笑顔で言った。
「来た時に、ピアノを弾いてくれるかな?曲は何でもいいけど、琴音ちゃんのを聞いてみたいから」
「え?…うーん…うんっ!もちろんいいよ!喜んで」
思わぬ提案に私は少し戸惑ってしまったが、初めて書斎のアップライトを見た時から弾いてみたかったし、何より義一から聞きたいと言ってくれた事が嬉しくて、何でもないように冷静に返事するのが大変だった。義一は私の返事に満足そうに笑顔で頷くだけだった。
「じゃあ義一さん、またねー」
「うん、また…あっ」
私は返事を聞く前に勢いよく引き戸を開けると、たまに振り返りつつ、手を振りながら飛び出し帰って行った。義一もその様子にキョトンとしながらも、手だけはヒラヒラと振り返していた。

帰り道、ほとんど何も考えず無心のまま、でも足取りは軽く、夕焼けに染まる見慣れた通りを歩いた。頭は使い過ぎたせいかボーッとしていたが、心地よい疲労感を体全身で感じながら、気づけば自宅の玄関前に立っていた。
「ただいまー」
「あ、おかえりなさーい」
私が靴を脱いでいると、お母さんは居間からわざわざ出迎えに来た。向こうの部屋から今日の夕飯の匂いがここまで漂って来ていた。
「そろそろご飯が出来るから、早く手を洗って来なさいね?」
「はーい」
お母さんは私の返事を聞くと、またキッチンへと戻っていった。私も洗面台のある脱衣所に向かったが、途中で立ち止まり
「あっ、お母さん!」
と呼び止めた。
「ん?なーに?」
とお母さんは私の声に反応して、立ち止まりこちらに振り向いた。
「どうしたの、琴音?」
「私…」
「ん?」
私は一瞬躊躇ったが、一度短く息を吐くと、お母さんの顔をまっすぐ見ながらハッキリ話した。
「…私、決めたから」
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