第16話 夏のアレコレ

文字数 26,219文字

「へぇー、そんなに歌の上手い子がいるんだ」
「はい。”アヴェ・マリア”を、それはもう綺麗に歌い上げていましたよ」
私は卵と砂糖を入れたボールを手に持ち、掻き混ぜていた。今日は夏休み入ってからの最初の土曜日。ピアノのレッスンの日だ。今は昼の中休み。先生と一緒にキッチンに立って、こうして相変わらずお菓子作りにも勤しんでいる。レパートリーも大分増えた。
先生は冷蔵庫から牛乳を取り出し、ボールの中に適量を流し入れた。
「ふーん、すごい子もいるのねぇ。しかも琴音ちゃんのお眼鏡にかなうほどのね」
そう言うと、また冷蔵庫に牛乳を戻した。私はまた掻き混ぜつつ、苦笑まじりに返した。
「イヤイヤ先生、私はそんな大層な眼鏡はかけてませんよ」
「うふふ。相変わらずの言い回しの旨さね?」
先生はクスクス笑いながら、冷蔵庫から今度はマグカップを二つ取り出した。これは予め作っといたもので、底にはキャラメルソースが溜まっていた。それを私の作業する脇に置いた。この時ふと、正面にある大きめな鏡が目に付いた。こうして見ると、仲のいい姉妹のようだった。先生も絵里と同じくらい、ベビーフェイスのせいか、実年齢よりもはるかに下に見えた。年齢は絵里よりも二つ年上だったはずだけど。ただ一つ絵里と根本的に違う所は、背丈だ。絵里は平均的、いや平均よりは若干高めの160ちょっとくらいだったが、先生は私よりも10センチほど高い、175もあった。だから尚更鏡に映る二人の姿が、姉妹に見えたのだった。肩幅は若干あったが、目は二重の少しタレ目気味、顔の一つ一つのパーツが小ぶりで、和系美人の典型みたいな顔付きで、スラっとしているモデル体型だった。因みに髪型は、胸のトップにかかるほどの、前髪ありのストレートヘアーだった。中休み時は下ろしているが、レッスン時は後ろで縛ってアップさせていた。こうしたルックスは、女の私から見ても男がほっておかないだろうと見受けられるけど、話を聞く限りでは、交際人数は片手で数える程もいないらしい。ずっと手首を痛めて引退するまでは、ピアノ一筋に生きてきた、典型的な芸術家肌だったらしく、今更どう異性と接していいのか分からないと、いつだったかお母さんを交えた食事会で、顔を真っ赤にしながら答えていた。お節介焼きな性格のお母さんが、何人か紹介してきたようだが、いずれも丁寧に、しかし頑固に断り続けたらしい。
そんなこんなで先生は、私のお爺ちゃんの持ち家を借りながら、悠々自適な独身ライフを満喫している訳だ。
「…よし!後はチンして終わり!」
先生はマグカップにボール内の液体を淵より少し下くらいまで流し込むと、それをレンジに入れて、スイッチを入れた。勘のいい人ならもうお気づきかもしれないが、今日作っているのは、マグカップを容器にしたプリンだ。バニラエッセンスの香りが、微かにあたりに漂っていた。その間先生と一緒に身の回りの片付けをした。
チン!
音がしたので先生が、五本指が使える鍋つかみの様な厚手の手袋をはめて、レンジからマグカップを取り出した。そしてそれにアルミホイルを被せ、布巾でそれぞれ包んだ。
先生は腰に手を当てて、鼻で息を短く吐くと言い放った。
「…うん!後は十分くらい待ったら出来上がり!」

私と先生はマグカップを持ちながら、中に出来上がったプリンをスプーンで掬いながら食べていた。味自体は変哲の無いプリンだったが、先生と一緒に自分の手で作ったという事実が、味に何層ものコーティングを施し、美味しさを何倍にも増加させていた。一口に言えば、手作りは失敗しない限り、何よりも美味しいということだ。
先生は食べながら午後の課題について、私に軽く確認を取った。最近は他のピアノ教室でやる様な、一般的な練習曲は全て弾ききってしまったので、先生自ら私のために、幾つも自作の練習曲を作曲してくれていた。この時点で二十曲以上はあったと思う。指の使い方、アクセントの付け方、ペダルの使い方などなど、先生の考える、ピアノを弾く上で大事なエッセンスが、ふんだんに盛り込まれていた。最近は課題曲を弾く前に、指の準備体操として、この練習曲をいくつか弾くところから始めるのが、日課になっていた。先生に怒られた記憶はほぼほぼ無いが、私が弾くすぐ脇で、私の手元を穴が空くほど、何も言わず見つめてくるその熱視線は、口で言われる以上の何かがあった。良い意味での緊張感が流れていた。でも一旦休憩に入ると、これ以上無いほど私に優しくしてくれた。このオンオフの切り替えの良さが、私には心地良かった。
「ねぇ、琴音ちゃん?」
「はい?」
私はスプーンを咥えながら答えた。先生は手元にある自作の楽譜を見ながら続けた。
「今度機会があったら、その子の歌っているのを聞いて見たいなぁ。そんなにあなたが褒めちぎるんだから」
「ふふふ、そうですね。私も実際に見て頂きたいです」
「じゃあ、いつかその教会に行って見ましょう」
先生は優しく微笑みながら言った。私も微笑み返して、またプリンを食べ始めた。
この夏休み中のレッスンの次の日、日曜日に二人で電車に乗り四ツ谷まで行った。先生も藤花の歌声に聞き惚れ、それからは信者でも無いのに、藤花が独唱すると予め分かる時に限って、たまに私と一緒に教会まで聞きに行くことになる。これはまた別の話だ。

「じゃあ、さようなら」
「えぇ、気をつけて帰ってね」
いつも通り玄関を出た所まで見送ってくれる先生に手を振り、私は寄り道せずそのまま帰った。もし時間がある様だったら、義一の家に寄ることも考えていたが、思った以上に今日は課題に手こずり、時間が遅くなってしまったので、また別の日に行くことにした。こうして義一のことを考えると、いつもあの小学五年生の夏休みを思い出していた。

「ただいま」
「おかえりなさーい」
私は玄関で靴を脱ぎながら挨拶した。姿は見えないが、お母さんの声が聞こえた。居間に行くと、ちょうど夕食の準備に取り掛かっている所だった。私は食器棚からグラスを取り、冷蔵庫から麦茶を出して中に注いだ。私は何気なく、お母さんの料理をしている手元を見ていた。詳しいことはよく分からないが、それでもお母さんの料理の腕は、並の主婦とは一線を画している事ぐらいはわかった。まな板の周りにあらかじめ処理した材料が、小降のボールにそれぞれ綺麗に並べられていた。まるでテレビで見る料理番組の様だった。手間の様だが、スムーズにことを運ぶための手間なので、結果的にはこの方が合理的に早く済ますことが出来るらしかった。
お母さんは私の視線に気づいて、チラッと私を見てまた手元に視線を戻し、明るく笑いながら話しかけてきた。
「…なーに?そんなにお腹が空いた?」
「え?いやまぁ…それもあるけど」
私は手元の麦茶を、一口飲んでから言った。
「やっぱりお母さんは料理上手だなぁって」
素直に衒うことなく、感想を言った。お母さんは手元に目を落としながらも、嬉しそうにハニカミながら返した。
「なーに、急に?そんな褒めてもお小遣いは増やさないわよー?」
「いやいや!そんなつもりで言ったんじゃ無いよ!」
「あははは!冗談よ」
私がムキになって返すのを、お母さんはサラリと流したが、ふと手元を止めて私の方を向くと聞いてきた。
「そういえば琴音、あなた今日も沙恵さんのトコでお菓子を作ったの?」
「うん、今日はプリンを作ったの。しかもマグカップの中に」
「へぇー、洒落てるわねぇ。今度私にも教えて?」
「うん、いいよ」
そう。元々は義一の家でおやつを食べる為に、先生に教えて貰ったのが始まりだったが、当然といえば当然で、先生がお母さんにお菓子作りをしている事を話したらしく、早速その晩にお母さんに根掘り葉掘り聞かれたのだった。当然義一の件は隠したが、どうもお母さんも先生と同じ様に、私が誰か好きな人が出来て、その人の為にお菓子作りを習い出したと考えた様だった。義一のことを勘繰られなかったのはよかったが、好きな人云々という恋愛がらみの事は、正直言って対処するのが面倒だった。だがまぁ、秘密を守る為にはこれぐらいの犠牲はしょうがないと、開き直ることにしていた。それ以来、先生に教えて貰ったお菓子を、私一人で作って見せたり、また二人一緒に作ったりした。お父さんにも食べて貰った。お父さんは実は甘いものが、義一と違って苦手だったが、愛娘の作った物、またそんなに量が無かったのが救いで、全部食べてくれたのだった。繰り返す様だが、元々義一との為に習い始めた事だったが、結果的には私達家族の団欒に、ひとつの新たなスパイスとして盛り込まれ、家族間の絆が深まっていくのを感じた。
「…あっ、そうだわ!」
お母さんはまた料理にしながら、私に話しかけてきた。私は一度自室に戻り、荷物を置いてまた居間に戻り、食卓テーブルにお皿を置いている所だった。
「何?どうしたの?」
「あ、いや…そうねぇ」
お母さんは後ろを振り向き、私の方を見ながら答えた。
「今日はお父さん早く帰って来るから、その時に話すわ」
「…?うん、分かった」
私達はそれぞれ、また自分達の作業に戻った。

「じゃあ、いただきます」
「いただきまーす」
いつも通りお父さんの号令と共に、夕食を摂り始めた。今日の献立は、鰤の照り焼き、金平ごぼうと揚げ出し豆腐、大根の味噌汁といった物だった。和食一色だ。前々からそうだったが、ここ最近顕著になっていた。お母さんはこの頃すっかり和食に凝っていた。、でも誰も文句は言わなかった。なぜなら単純に美味しかったからだ。
私とお父さんは口数少なめに、黙々食べていたが、相変わらずお母さんが率先して話していた。
いつもお父さんが家で一緒に食べられる訳ではないので、大体三人一緒に食べる時は、お母さんは今まで話していなかった何日分かの話のネタを、一気にこの時に話す様にしていた。 我が母の事ながら、止めどなく、しかも順序立てて次から次へと話をしていく様を見る度に、毎度毎度驚かされていた。よくもまぁ、そんなに細かい事を覚えているもんだという事だ。何処かにネタを書き留めている様な気配は無いのに、素直に心から感心していた。
あらかた話し終えたのか、暫く食事に集中していたが、「あっ!」と不意に声を上げると、お父さんにまた話しかけ始めた。
「そういえばあなた、そろそろあの事を琴音に話す時かしら?」
「ん?…あぁ、アレか」
「アレ?」
私は二人の顔を交互に見ながら言った。お父さんが何か言いかけたが、お母さんが先に私に答えた。
「えぇ…あなたにはまだ話した事が無かったと思うけど、実はあなたには、高校に入るか入らないかくらいの時に、一人暮らしをしてもらおうと思っているの」
「…え?一人暮らし?」
私は全く想定していない話が飛んできたので、何も考えられないままに、ただ言われた事を繰り返した。お母さんは私の戸惑いを知ってか知らずか、話を続けた。
「えぇ、一人暮らし。私達望月家はね、お父さん、お爺ちゃん、そのもっと前々から子供達に、ある一定の年齢を迎えたら、一人暮らしをさせる習わしになっているのよ。…ね、あなた?」
「…あぁ」
お父さんはご飯とおかずを食べ終え、味噌汁をゆっくり味わうように啜っていた。そしてそのお碗をテーブルの上におくと、静かな眼差しを私に向けてきながら、口調も緩やかに話し始めた。
「爺さんやそのまたもっと前は、どのくらいの年齢でしていたのか、実はよく分かっていないんだが、少なくとも私は高校に上がると同時に一人暮らしをさせられたんだ」
「へ、へぇー…」
じゃあ義一さんも?と思わず聞きそうになったが、既の所で止まる事が出来た。しかしホッとしたのも束の間、今現時点でいきなり大きな問題が持ち上がっていたので、それどころでは無かった。私は当然の疑問をぶつけた。
「…え?じゃあ私、高校生になったらどこか住むところを探さなきゃいけないの?…学費は?光熱費とか食費とかは?…ま、まさか…どこか仕事に出なくちゃいけないの?」
私は矢継ぎ早に、思いつくまま疑問を二人に飛ばした。後になって思えば、やはりと言うか当たり前というか、流石の私も混乱していたのだろう。
お父さんとお母さんは静かに私の質問を聞いていたが、二人はそのまま顔を見合わせると、まずお母さんがクスッと笑顔を漏らした。普段仏頂面のお父さんまでも、その後静かに目を瞑りながら微笑んでいた。私がその様子を見て、不満げに膨れていると、お母さんが笑顔で話しかけてきた。
「あははは。いやぁ、琴音ゴメンね?いきなりこんな話をしちゃって。流石のあなたでも困惑したわよねぇ?…んーん、違うのよ。ちゃんと説明するわね?」
お母さんは大袈裟にゴホンと、咳払い一つしてから話し出した。
「あなた、駅前が大分様変わりしたのを知っているでしょう?」
「え?う、うん。…大分前からだったけど」
私は昔の事を思い出していた。私の地元は、私が小学校低学年くらいまで駅前でも、寂れていた。特徴的だったのは、駅前に大きな工場が建っていたことだった。稼働してるのかしてないのか、そもそも何の工場だか分からないままでいた。それが何時頃からか、急にその工場が解体されて、後に残った膨大な跡地にショッピングモールや、大型スーパー、そして今時のデザインのマンションが何棟か建設されたのだった。以前軽く話した、お母さんが駅前で買い物云々の話は、この新しく出来たスーパーで買い物するという意味だった。全部出来たのが二年くらい前だったと思う。義一と再開した時と被っていた。
「そう!でね?あそこのマンションが出来た時にお父さんがね、一室マンションを買ったのよ」
「…え?えぇーーー!そうなの?」
私は思わず声を上げた。まぁマンションを買ったという話を、わざわざ年端の行かぬ娘に話す事でもないとは思うけど、これまた予想外の事実を話されて仰天してしまった。お父さんは何も言わず、私に優しい視線を向けてくるばかりだった。お母さんは続けた。
「うふふ、ビックリしたでしょ?ビックリついでにもっとビックリさせるとね…」
お母さんはまた一度わざわざ区切った。
「…そのマンションを買ったのは琴音、あなたが高校生になった時に住む場所を確保するためだったのよ!」
「…へ?」
流石の私も、もう声を上げて驚かなかった。人間本気で驚くと、声さえ上げられず、間抜けな力の抜ける言葉を発することしか出来ないことを、この時に知った。
「じ、じゃあ私はあそこのマンションに、高校生になったら一人で住むのね?」
私はまだ心が落ち着かず、たどたどしく話すのがやっとだった。と、今まで黙っていたお父さんが、いつの間にかお母さんに出されていた、湯飲みに入ったお茶をズズズと音を立てて啜ると、私を見ながら静かに話した。
「…今お母さんが話した通りだ。琴音、お前は高校に上がったら、あのマンションに一人で暮らすことになる。私もそうした。…尤も当然私が子供の頃だから同じ所ではないが、私の父が既に持っていた持ち家の一つ、マンションを与えられて、そこで大学卒業するまで暮らしたんだ。勿論、お金の心配はしなくて良い。光熱費やら食費は全部、お小遣いも含めて後で新しく作る口座に振り込むから。学費も当然だ。だから琴音…」
お父さんはこれまたいつの間にか片付けられて、何も残っていないテーブルの上に両肘をつき、私の方へ身体を若干乗り出すようにしながら、語りかけた。
「お前は高校までの約三年間、一人で炊事洗濯その他の家事、まとめて出来るように、お母さんに一から色々教えて貰うんだ。なぁ、母さん?」
お父さんはまた一度姿勢良く座り直してから、台所で食器を洗っているお母さんに話しかけた。お母さんは一度水道を止め、タオルで手を拭き、こちらに振り向いてから返事した。
「えぇ、その通りよ。私がみっちり叩き込んであげるから、覚悟しなさいよぉー?」
最後に両手を腰に当てて、上体を前に少し倒し、意地悪く笑いながら私に話しかけてきた。
「う、うん」
そんな冗談ぽく言われても、まだ動揺しっ放しな私はそう答える他なかった。
「でも母さん、何でまたこのタイミングで、その話を琴音にしたんだい?」
お父さんがそう問うと、お母さんは今度は、悪戯っぽく笑いながら返した。
「いえね、最近ほら、沙恵さんの所でこの子、お菓子作りを教わっているじゃない?それを見て、何も先延ばしにしなくても、この子自身に興味があるのなら、こういうことは早めが良いかと思って、思い切って話してみたのよ」
「なるほどなぁ」
お父さんは顎に手を当てて、ウンウン頷きながら納得していた。
確かにお菓子作りをしてみて初めて気づいたが、私は料理全般に興味や関心があったようだった。だから今日も、ついついお母さんの手元をジッと見つめてしまったのだった。
「…どうだ、琴音」
お父さんは、先程と変わらぬ静かな調子で、しかし目の奥に柔らかな光を宿しながら聞いた。
「まだ中学に入ったばかりのお前に、無理をさせてしまうようで、本当は乗り気ではないんだが…もしお前が自分の意思で求めるのなら、どうだ?…やってみるか?」
「…」
私は考えた。…が、お父さんとお母さんの話ぶりからして、これは既定だというのは分かりきっていた。仮に嫌だと言っても、そう簡単には覆らないだろう。でも、そもそもそんな心配は無用だった。初めて聞いた時しつこいようだが、そりゃ驚き慌てふためいたが、同時に心の何処かでワクワクした自分もいた。
私一人でどこまでやれるのか。勿論、私の心配していた”お金”の問題は結局お父さん達に依存する訳だから、いわゆる”自立”には程遠かったが、それでもそれ以外では一人で全部やらなくてはならない。私は幼い頃からそうだったが、義一と深く付き合うようになって、余計に『”自分”とは何者なのか?』『一体自分に何が出来るのか?』という自己意識が、自分で言うのも何だが、同年代の子たちと比べて抜きん出ているように感じていた。それを具体的に実証できる、またとない機会。誤解を恐れずにいえば、一般家庭に生まれていたら、このような機会には恵まれなかっただろう。仮にお金に余裕があっても、わざわざ新築と言って良いマンションを、お父さんは言ってなかったけど明らかに意図としては、子供の自立心を育むためだけに買い与えるような、そんな発想には他の家庭じゃ至らなかっただろう。
今までは面子しか気にしない、お金で測った薄っぺらで、汚れた価値基準しか持っていないように見えたこの家系、その中で唯一純粋で綺麗な、真面目に誠実にまっすぐ生きようと足掻きもがいている義一を、蔑ろにする様なこの家系をこの歳で既に憎み切っていたが、現金な言い方で、私が最も忌み嫌う価値観の一つを孕むことだけど、今回初めてこの『望月家』に生まれて、良かったと思えた。ほんの少しだが。
私は少し間を置いたが、心は決まっていた。
「…うん、私やってみる」
「…そうか」
お父さんはそれだけ言うと中腰で立ち上がり、腕を伸ばし、向かいに座る私の頭を優しく撫でた。気付くとお母さんも洗い物を終えて隣に座り、私を優しく抱き寄せるのだった。私もそれに応じた。


「へぇー、中々楽しそうだねぇー」
義一はスマホの画面を見ながら、向かいに座る私に言った。今日は七月最後の金曜日。相変わらずお母さんには”図書館”に行くと言って、家を出ていた。
今のところまだ疑われる要素は無かった。何故なら、まだ見せてと言われた事が無かったが、借りてきた本を見せてと言われたとしても、義一の家から借りた本をそのまま見せれば良かったからだ。何せ中にはボロボロの本も多数あったので、如何にもな代物だらけだった。古本の中には、戦後すぐの図書館から買い取ったものもあったりで、ページの一番最後にその判子が押してあるのもあった。お母さんの性格的に、そこまで事細やかに調べる事が無いことは、十年以上娘をやってるので、だいたい予測が出来た。
忘れている人もいるだろうが一応話しておくと、合鍵の隠し場所も心配いらなかった。小学校時代、塾に行くまでは中々苦心していた。結局ずっと筆箱の中に入れていた。しかし塾に通うようになって、お外に行く用の財布を買って貰った事により、その中にしまうことに成功した。いくつもポケットが付いていたからだ。そもそもお金以外に入れないだろうと思い込んで、他に何か入れてるだろうとは、夢にも思わない事が分かっていた。これも普段から、両親を細かく観察し分析してきた事の成果故だった。億劫だった塾通いも、こんな所で貢献していた。怪我の功名だ。
それでも当然慢心する事なく、警戒は怠らなかった。最近はお母さんが日舞の稽古に行く時を、なるべく見計らうようにしていた。何故ならお母さんの稽古先が目黒にあるので、どうしたって片道一時間くらいはかかる距離に行く。行ったり来たりの移動時間、稽古の時間、終わった後の仲間との団欒時間を全て足すと、少なくとも六時までは帰って来ない計算になるからだ。ただ一つ難点なのは、お母さんが稽古に行く日取りが、固まっていない事だった。今日は金曜日だが、毎週金曜日に稽古がある訳では無い。たまたまだ。お母さんの話では、先生の都合でズレてしまうらしかった。その稽古場には他の先生もいるらしかったが、お母さんはどうしてもその先生に教わりたいようだった。
前に絵里に言われてから、かなり私なりに事細かく計画を練るようになった。策士策に溺れるようでは元もこうも無いので、しつこいようだが、油断することだけは意識して避けるようにしていた。いつもお母さんの稽古に合わせている訳では無い。それでは変に思われて、疑われるリスクが高まるからだ。とまぁ、ざっとこんな所だ。
アレコレ策を練るのは楽しかったが、何処かでやはり罪悪感が無いかと問われれば、正直あるというのが本音だった。でも今の所は止めるつもりはない。

今私はいつも通り義一の”宝箱”の中で、あのテーブルに座り、向かい合いながら紅茶を飲んでいる。初めて飲んでからずっと同じ”ダージリン”だ。義一は他にも色々飲ませたかったらしいが、この頃の私としては、少ない時間を義一と沢山お話ししたかったという気持ちが強すぎて、勿論気遣いは嬉しかったけど、種類を気にするほどには、まだ興味が無かった。
義一の見た目も変わらない。相変わらず髪を切りに行くのが億劫らしかった。伸ばしかけの前髪を、敢えて後れ毛として残すポニーテールだ。ぴっちり纏めてない分、アンニュイな印象を与えていた。ある意味義一の性格を表しているようで、私個人の感想を言えば、大変似合っていると思う。でも義一には言わなかった。何となくだけど、見た目の事を言われるのはそんなに好きではなさそうだったからだ。私もそれぐらいの気遣いは出来る。
また私の前では、眼鏡でいる事が多くなった。元々そんなに目が良くないようだった。でも外にいる時は、本を読んだりメモをつけたりする以外は、裸眼でいるのが普通だった。何で外でだけ眼鏡をしないのか聞くと、義一は『見え過ぎると、世の中や他人の汚いところや欠点ばかりに気が付いて、それらが何故そうなのか、何故そうするのかが気になってしょうがなくなっちゃうから』だと、照れ臭そうに答えてくれた。何だか難しくてややこしい、義一らしい答えと言えた。一応理屈の通った、理路整然とした納得のいく答えだった。種類は丸みを帯びた逆台形型で正方形型に近い、いわゆる”ウェリントン型”というヤツだった。
余談だが義一は、この型の眼鏡をいくつか色違いを含めて持っていたが、全部絵里と一緒に買いに行った時の物らしい。あまりに眼鏡を粗雑に扱うのを見て、絵里は毎年義一の誕生日になると、家の外へと連れ出し、都心の繁華街にある絵里の行きつけのメガネショップまで、買いに行くみたいだった。義一の持ってる全ての眼鏡が、絵里からのプレゼントだった。私は初めてその話を聞いた時、理由は言わないが、何だか気持ちがほっこりした。光景が目に浮かぶようだった。 尤も眼鏡をプレゼントした後は、せっかく都心まで足を伸ばしたんだからと、義一に夕飯を奢って貰うまでがセットらしかった。二人らしい、オチのあるエピソードだった。

いつも通り大きく話が逸れたが、遅ればせながら今義一と何をしていたかと言うと、普段ならまず借りていた本を返し、その感想を私が言う所から始まるが、今日は夏休み始まってから初めての訪問ということもあって、一学期の思い出話をしていた所だった。
勿論入学してからも暇を見つけて、月に平均三、四回くらいの頻度でここに来ていたが、前にも話した通り、本を返し、感想を言い、義一の意見を聞き、たまにピアノを頼まれるままに弾いたりすると、何だかんだ学校の話をする時間が無かった。…いや正直に言えば、先程も言ったように義一に会うと、他の人とは話せない故溜まりに溜まった話のタネが、一気に口の先から次から次へと迸っていって、すべて吐き出すことに終始してしまう。勿論新たに始まった学園生活の事も、話そうと思って会いに行くのに、いざ義一と会うと忘却してしまうのだった。貯め込んでいたネタを、一気に話してしまう所は、私もお母さんに似ているのかも知れない。帰り道で一人冷静な時に、はたと思い出すまでがテンプレートだ。会わない時も連絡は取り合っているから、どうにか出来そうだと思われるかも知れないけど、画像を送ろうにも義一は”ガラケー”持ちだ。それ故に、画像ファイルを見る事が叶わなかった。こればかりは義一がスマホにしてくれないと、どうしようもない。私の制服姿を見せようとして、絵里とピアノの先生には写真を撮って送ったが、義一には何とか暇を見つけて、わざわざその姿を見せるためだけに学校帰りに直接行った。
だから今日こうして、お母さんの稽古日と上手く重なったから、忘れないうちに着いて直ぐスマホを取り出して、義一に見せているという現況だ。
四月の研修会という名の、クラスメイトとの親睦旅行、六月の球技大会の時撮った写真を見せた。義一は慣れない調子で、スマホを操作しながらスライドしていっていた。何枚か五人全員で写真を撮ったが、その中の一つ、洋上のサービスエリアで撮った写真を私に見せながら、話しかけてきた。
「みんな可愛い女の子ばかりだねぇ」
義一は微笑ましげに言った。
「…なーんか、誤解を招く言い方だなぁ」
私はワザと意地悪く笑いながら返した。義一は何も言わず、照れ臭そうに苦笑を返すだけだった。
それからは椅子を義一の隣に運び、隣り合って一緒に見た。 義一が一枚一枚質問してくるのを、私も一々丁寧に説明するのだった。
藤花の写真はどれも満面の笑みを浮かべて、動かずとも天真爛漫さが表れていた。前に初めて藤花の歌声を聞いた後、直ぐに義一にも教えたが、歌だけではなく普段の話し声もアニメのような、キラキラした高めの声だということを話した。
律はどれもパッと見無表情だったが、これは直接会って見ている私だから気付いたが、眉間のシワの寄り具合、眉毛や口角の微妙な上がり下がり具合、これらを注意して見ていると、思った以上に感情が顔に出ているのが分かってきた。その事も義一に話した。低くて威厳の感じる、宝塚の男役みたいな声をしている事も。義一は写真の律を見て、妙に納得していた。
紫の写真は、どれも快活そうな笑顔を浮かべていた。中々目元が緩むほどには笑っていなかったが、義一に言われる前に色々フォローを入れた。性格のキツそうな見た目だけど、かなり率先して冗談を言うし、私達が逆に冗談を言うと的確なツッコミで返してくる事も。そしてその能力を買われて、私たちの間でのツッコミ役になっている事も話した。悪口でも何でもなく特にそれ以外に、目を見張るような能力がある訳ではないけれど、紫がいてくれるお陰で、他の四人が纏まれる事も。当然と言えば当然だが、まず初めに義一が食いついてきたのが”紫”の名前だった。”紫”と書いて”ゆかり”と読むのは相当珍しかったからだ。義一は『紫なんて、中々風流な名前だね』と呑気な感想をくれた。
さて、最後に裕美だ。勿論義一は裕美の存在を知っていた。私が何かにつけて、小学生時代に話していたからだ。水泳の都大会で、優勝するような強豪だという事も話していた。
…少しばかり話が逸れるようだが、ここでしか話せる場所がなさそうなので、この場を借りて五月の都大会の結果について言っておこうと思う。当然この試合を私は観に行った。もちろん応援を兼ねてだ。勿論というか、この時も一緒にヒロが来ていた。ヒロは地元の公立中学に入り、野球部に所属していた。元々スポーツ刈りで短かったが、久し振りに会ったヒロの頭は、丸坊主になっていた。 会場に着くまでは、キャップを被っていたから分からなかった。でも中に入り観客席に座ると帽子を脱いだので、そこで初めて知った。何かヒロは私に喋りかけていたが、私は呆然とヒロの頭を見つめていた。そして何故か無性にその頭を撫でたい衝動に襲われた。そして遂に我慢出来ず欲望のままに、突然私はヒロの頭を撫で回し始めてしまった。ヒロは最初ビックリして、私の手を払いのけようとしていたが、次第に辞める気配がないことを悟ったのか、最後は私にされるがままになっていた。ヒロは無表情でいたが、顔は若干赤みを帯びていた。確かにこんな公衆の面前で、女子の私に良い様に弄くり回されるのは、男子のヒロとしてはプライドが傷つく事だったろうと、当時の私は思っていた。心の中では、いくらヒロ相手とはいえやり過ぎたと反省していたが、実際には平謝りをしただけだった。
…いや、ヒロのことは今はどうでも良い。それよりも裕美の話だ。結果を言ってしまうと、三位に終わった。レースが終わり、メダルを受賞されると、裕美はそのまま奥へと帰って行った。当初の予定では、今いる観客席に着替えた裕美が来ることになっていたから、少しの間待っていたが、私はいてもたってもいられなくなって、ヒロにそのまま待つように言うと、一目散にロッカールームへと急いだ。前回と同じようにパスを貰っていたので、それを使ってロッカールームへと向かうと、その途中で裕美と合流した。裕美は既に着替え終えていて、まだ水気を含み湿った短髪が、通路の灯りを反射し、艶やかに煌いていた。裕美はすぐに私に気付いて、明るい笑顔で手を振りながら近づいて来た。私は思いがけず元気な様子の裕美に呆気に取られながらも、同じ様に手を振り返した。でもこんなに明るく振る舞っていても、心はすごく落ち込んでいると思うと、何だかテンションが同じ様には上がらなかった。裕美も察したのか、私の肩に手を置くと、苦笑交じりに声を掛けてきた。『なーんで私じゃなく、アンタがそんなにしょげてるのよ?』『だ、だって…』私はこういう時に、なんて声をかければいいのか分からずにウジウジしていると、裕美は肩をポンポンと二度軽く叩いてから言った。『…いいのよ、私は今回の結果に納得してるんだから!ちょっと言い訳になっちゃうけど、前回の大会が終わってから、受験があったりで全然泳げて無かったからねぇ。大会に出れるのかも疑問だったけど、それが何とか決勝まで漕ぎ着けて、しかも三位なんていうメダルを受け取れる位置までいけたってのは、とても喜ばしいことなのよ?だから今私は寧ろ嬉しいの!だから一緒に喜んでくれない?』『裕美…』私は少しはホッとしたが、それでも額面通りには受け取れなかった。裕美は私の気持ちを察したのか、肩に置いた手をそのまま腕に沿って下ろして、手の所まで来るとそのまま私の手を握り、握手する様な形を取った。そしてそのまま顔には柔らかい笑顔を浮かべて、私に語った。『私だって三位の成績に甘んじる気は毛頭無いわよ?今回は準備不足が響いたけど、次回までに練習をこなして、次こそは優勝に返り咲いて見せるんだから!』そう言い切る裕美の目は、メラメラ燃える炎を宿し、既に未来に焦点が定まっていた。
とまぁ、以上が裕美のゴールデンウィークに於ける大会のあらましだ。この事は、今回初めて義一に話した。義一は興味深げに熱心に聞いていた。義一は裕美に対して、私の口を通してだけど、それなりに印象が良いようだった。私は裕美の事を義一が気に入っている事実が、無性に嬉しかった。いっその事、義一と裕美を会わせてみようか?そう考えたのは、一度や二度じゃない。小学校以来、中学に入学してからも何度も考えてみた。もう既にヒロには知られている…。今更もう一人、裕美に知られたところで変わらないんじゃないか?ヒロにだけ知られて、裕美には知らせないというのも如何なものかと葛藤する自分がいた。板挟み状態のままそんなこんなで、とりあえずこの時までこの問題には、手を付けずにいた。
義一は裕美という友達が出来た事を話すと、心から喜んでくれた。…いや、この事に限らず、まず私が誰かの話をすると、それだけで喜んでくれてたと思う。その理由は漠然とは理解していたつもりだったけど、はっきりと分かるのはもっと後になっての事だ。

「…うん、ありがとう」
義一は微笑みながら、隣に座る私にスマホを返してきた。それから義一は紅茶のお代わりを取りに行ったので、その間に私は椅子を元の位置に戻した。何だか二人しかいないのに、いつまでも隣り合って座るのが、気恥ずかしかったからだ。叔父さん相手に恥ずかしがっても、詮無い事だけれど。
義一は紅茶の入ったポットを持って戻ってきた。椅子の位置が変わった事には触れず、私の向かいに座ると、空のカップに紅茶を注ぎ入れた。少し渋めの豊かな茶葉の香りが、湯気と共にあたりに充満していった。
お互いに一口ずつ啜ると、私から話を振る事にした。勿論話題は、お父さん達と話した事だった。
「ねぇ、義一さん」
「ん?何だい?」
「あのね、…」
私はこの間の夕飯時、お父さん達と話した会話の中身を、事細やかに話した。義一はカップをテーブルの上に置いていたが、取っ手に指をかけたまま聞いていた。
「でね?義一さんは…」
私は当夜の話を終えると、そのまま続けて義一に聞いてみる事にした。
「お父さんと同じように、高校生になってから一人暮らしをした?どこか部屋を借りて」
義一は一瞬天井を見上げて、何か思い出そうとしていたが、すぐ視線を私に戻し、柔らかな笑みを浮かべながら答えた。
「うん。僕も兄さんと同じように、高校生から一人暮らしを始めたよ。理由も兄さんが言ったままでね」
義一は言い終えると目を瞑り、紅茶をじっくり味わうように啜っていた。
「へぇー、義一さんもしたんだぁー…生活力無さそうなのに」
私は意地悪く笑いながら言った。義一は何故か照れて、頭を掻いている。
「ひどいこと言うなぁー。…でもその通りだから、反論できないや」
「ふふふ」
「でも琴音ちゃん、見てよ?」
義一は突然両腕を広げて見せた。顔は得意満面だ。
「今こうして僕は、ここで一人で生活しているじゃないか?という事は僕だって、一人で暮らしていけるって事だよ」
「…三十過ぎた大の大人が、そんな事で自慢げに言わないでよ」
私が先程から表情を変えずに言うと、義一は今度は右手を頭の後ろに回して、いかにも参ったといった表情を浮かべた。私はその様を見て、クスクス笑うのだった。

「でも義一さんは、どこで暮らしていたの?」
「僕?僕はねぇ…」
義一は書斎をぐるっと見渡してから、答えた。
「僕は高校生からずっと、この家に住んでいるんだ」
「え?高校生からここにずっと?」
「うん、そう」
私は改めて、義一に倣って同じ様に見渡した。
義一はここに、ずっと一人で住んでいたのか…。
何故か感慨深くなり、しみじみと見渡していた。義一はそんな私の様子を微笑んで見つめながら、話を続けた。
「だからこの家とは十五年以上…いや、そろそろ二十年近くになるのかな?」
「やっぱりこの家にしたのは…」
「そうだよー。前にも言ったように、父さんに子供の頃から連れて来てもらっていたからね。父さんに一人暮らしの旨を、急に言われた時に真っ先に思いついたのが、この家だったんだ。父さんは、兄さんが琴音ちゃんにしたように、既にどこかに用意してたみたいなんだけど、僕がここを指定したのにビックリしていたねぇ…」
義一は今度は、天井を一度見上げて、そしてまた顔を私に戻すと、表情は微笑んだまま先を続けた。
「父さんも僕が書斎を含めたこの家を、気に入っていたのは頭に入っていただろうけど、まさか住みたがるとは思わなかったみたいでね?何せ僕が子供の頃には既にボロかったから」
「この家って、建ってからどのくらいになるの?」
「うーん、どうだったかなぁ?確か…この家を買ったのが、戦後すぐくらいって言ってたかな?」
「え!?じゃあこの家って、建ってから七十年近く経ってるの?」
私は驚きの声を上げながら、また辺りを見渡した。確かにボロ屋だとは思っていたが、まさかそんなに経ってるものだとは、思ってもみなかった。
義一は私の反応を面白そうに見ていたが、明るい笑顔のまま答えた。
「いやいやいや。流石にそこまでは経ってないよ」
「え?だって、さっき…」
「うん。だから僕が住むって言うんで、一度大規模にリフォームをしたんだ」
「あっ、なーるほどぉ」
私は納得して、紅茶を一口啜った。義一は続けた。
「父さん自身、いつかこの物置代わりのボロ屋を改装しなきゃって思っていたらしくて、そこで僕が住むなんて言ったもんだから、いい機会だと快くリフォームしたんだ」
「…え?でも…」
流石の私もすぐには言い出せなかったが、どうしても突っ込まずには居れなかった。
「その割には…ボロいまんまなんだけど…?」
と私が言うと、言われた直後は私の事をきょとんとした表情で見て来たが、すぐに満面の笑みになり、面白そうに答えた。
「あははは!君ならそう言うと思ったよ。まぁタネを明かすとね、僕がワガママを言ったんだよ。…なるべく見た目は変えないでってね」
「へぇ、なるほどぉ。でも、何でまた?」
「うん。僕はこの家の外見が好きだったんだ。それは今もね。いわゆるこの家は”日本家屋”と呼ばれる形式だけれど、今時こんな風情のある家は、一から建てようとしたら大変なんだよ。職人も少なくなって来てるしね。当時はそこまで考えていた訳じゃないけど、腕の良い職人のいるうちに、リフォームして貰って良かったよ」
義一はずっとニコニコしている。
「見た目はボロのままだけど、この部屋だって実は壁の中に遮音材をふんだんに挟んでいてね、ピアノをいくら弾いても外に漏れるのはほんの僅かに抑えられてるんだよ」
「ふーん…」
私は義一の後ろにある、蓋の閉められたアップライトピアノを、チラッと見た。
「だから見た目はボロく古臭くても、中身はしっかりと見えない所で改善されているから、他の家とは変わらないくらい耐久力があるし、天災が起きても他の建屋程には持ちこたえるよ」
ここでまた義一が妙に自信満々に言うので、私は思わず吹き出しながら返した。
「ふふ、じゃあ安心ね?一人で寂しく家に潰される心配もないね」
私が冗談交じりに言うと、義一も私に笑顔を返した。ただこの時、一瞬義一の顔に影が差したのを、当時の私には察し切れなかった。
それからはいつも通りの流れになった。私はカバンから借りた本を取り出した。お父さんにプレゼントされた、カバーを付けたままだ。義一の目の前でカバーをそっと慎重に外した。それぐらい表紙がボロボロだからだ。義一はその様子を、紅茶を飲みながら微笑まし気にただ見ていた。そして手渡した後、本の内容について話し合った。因みにこの時の議題は、アルフォンス・ドーデの “最後の授業”だった。読んだ事がある人はそれで良いが、もし読んだことがない人は、興味を持ったら是非手に取って見て欲しい。
「琴音ちゃんは、読んでみて何処が印象深かった?」
義一はペラペラページを捲りながら聞いてきた。私は視線を若干上に向けて、思い出しながら話した。
「そうねぇ…色んなエピソードが語られていて、どれも面白かったけどやっぱり…」
正確に言うと義一に借りた本の正式名は、“風車小屋だより、及び月曜物語”という短編集だった。だから色んなエピソードと言った訳だが、その中の一つ、”最後の授業”について軽くあらすじだけを、話の都合上述べさせて頂こう。現在のフランス北東部、アルザス地方の話だ。場所柄時代によって、ドイツ領になったり、フランス領になったりしていた。この小説内での今日、現実にあった普仏戦争によってこの地方がフランス領からドイツ領へと変わり、主人公の僕の先生、アメル先生がフランス語で最後の授業をするという話だ。
「やっぱり義一さんも薦めてた最後の授業かなぁ。…主人公と、アメル先生の思いが、たった十五ページの短編なのに、凄く胸を打ってくるのよねぇ。何度も戦果を受けている地域なのに、時間が経つとすぐに過去にあった事を忘れてしまう…。今も、この小説の書かれた十九世紀も変わらないなぁって、改めて感じたよ。主人公が遅刻して来て、普段だったら物で叩かれたりするのに、この日は 叩かれなかった。先生は明日も”普段”が来るんだったら叱るところなんだけど、もうフランス語で授業が出来なくなるというんで、こう言うのよね。『明日からはドイツ語でしか授業が出来なくなりました。だから今日はどうか一生懸命授業を聞いて下さい』って。いつもは言う事を聞かず騒がしい生徒達も、この時ばかりは真面目に聞くのよね。勉強嫌いの主人公も、心の中でプロイセンに対して毒突きながら、今まで大嫌いだった教科書や聖書を宝のように見るのよ。先生は先生で、今までもっと大切に時間を使って授業すれば良かったと、ある意味後悔を述べていたわ」
「うん、そうだね」
「…あっ、ちょっと良い?」
私は義一から本を受け取ると、ページを捲り覚えていた箇所をそのままに読んだ。
「先生がいかにフランス語が、どんなに美しい言語かを述べた後に言うのよねぇ。それが一番印象に残っているの。『こんなに素晴らしいフランス語を僕達が守り続け、決して忘れてはならない。何故なら民族が奴隷になった時、国語さえしっかり守っていれば、自分達の牢獄の鍵を握っているようなものなのだから…』。このセリフをまた、明日に旅たつ先生が言うっていうのが…悲しいよねぇ」
義一は黙って私のことを見ながら聞いていた。と、話が終わったと気づくと、優しく微笑みながら言った。
「…うん、僕もそのセリフが印象深いし、大好きなんだ。で、琴音ちゃん、君のことだから、何で僕がその本を読んでご覧と薦めたのかも、分かっているよね?」
そうなのだ。義一は決して意味なく私に本を貸してはこない。何かしら深い意図を持って貸してくるのだ。
私は少しワザと間を空けて、それから答えた。
「…うん、何となく。今世の中的には、又聞きでしかないけど、これから先、私が大学生になるくらいには、日本語で授業をするのを止めて、英語で授業をしようって話が出ているでしょ?いや既に小学校の時、私の周りに英会話教室に通っている子が何人もいたもの。これからもっと英語偏重が進むのは目に見えてる。…で、この話に擦り合わせてみると、この小説の中では、自国の言葉というのがいかに大事で、国語で授業が出来ないのがどれ程の屈辱的なことなのかを、何度も繰り返し書いてあるよね?でも今の日本は、自ら進んで、戦争に負けた訳じゃない、負けたのだって何十年も昔のことなのに、自国の国語を何も考えずに平気で捨てようとしている…どれ程それが、取り返しのつかないことかも気づかず…なんか自分で話していて、ムカつきが止まらないんだけど」
「あははは!」
義一は仏頂面で肩を落とす私を見ると、何とも底抜けな笑い声を上げた。私はその笑いが、同意の意ということを知っていたから、そのまま義一が話し出すのを待った。
「いや、笑ってゴメンゴメン。あまりに僕と考えが同じで嬉しくてねぇ、言い回しも含めて笑っちゃったんだ。…そうだね、まさに君が言った通りだよ。まぁ琴音ちゃんはちゃんとそこまで分かっているから、そういう意味で楽しく読めたかもしれないね。でも他の人は読んでもそこまで何も感じず、読み飛ばしちゃうんだろうけど。僕が子供の頃…うーん、小学生か中学生の頃の国語の教科書に、この話が載ってたんだけど」
「え?そうなの?気付かなかった…」
私は今回初めて読んだ様に感じた事を、恥ずかしく思った。もし覚えていたら、もう少し義一と共感出来たと思ったからだ。テンションが下がったのを見て察したか、義一は
首を振りながら返した。
「いやいや、さっき言いかけたけど、僕の知り合いに学校の先生をしている人がいてね?たまたまドーデの話をしていて、懐かしいなって言ったらその人に教えて貰ったんだ。今の教科書には“最後の授業”が載ってないってね」
「…なーんだ、私が忘れてたって訳じゃないのね?脅かさないでよー」
私が思いっきりブー垂れて見せると、義一は愉快そうに返してきた。
「あはは。僕はまだ何も言って無かったと思うけど?…まぁいいや!それで理由は何でか聞いたら、その人もよく分からなかったみたいだけど、推測としては、ナショナリズム…うーん、分かりやすく言うと民族自決的思想に染まりかねないから、削除されたってことみたいなんだけれど」
「えぇー…そんなのが理由になるの?寧ろ民族自決なんていいことじゃないの」
私は思わず身を乗り出し、義一に詰め寄る様にして聞いた。義一は苦笑いだ。
「僕もそう思うんだけどねぇ…前にも君に言ったけど、今の日本は、昔からといえばそうなんだけれど、何も自分で考えたくない人でいっぱいだって話はしたよね?その弊害がこんなところにも出てるんだ…分かるよね?」
聞かれたので、私は正しく座り直して即答した。何度もこの話は聞いていたからだ。
「うん。…何も考えたくないのに民族“自決”…自決なんて考えないと出来ないんだから、したがる訳ないよね」
「ご名答」
微笑みながら言ったが、義一の顔はどこか寂しげだ。
「そう、だから何かを考えるように促進する様な本とかを、意識的に遠くに置こうとするんだねぇ…滅びていくにも関わらず…」
義一は静かに言うと紅茶を一口啜った。先生モードだ。
「そういえば、琴音ちゃんはもう中学生なんだね?」
「え?え、えぇ勿論」
ごく当たり前の事実を確認されたので、少し戸惑い気味に答えた。何を言われるのか、さっぱり分からなかったからだ。義一は続けた。
「…今まで君に色んな本を貸してきたけど、何か共通点があるのに気付いたかな?」
そう急に聞かれたので、私は今初めて何か理由がある事を知った。さっき私は知ってる様に言ったけど、それは一冊一冊の話であって、全体的に共通項があるとは考えても見なかった。
私は取り敢えず、前に本人から言われた事を繰り返した。
「前に義一さんは、十九世紀の作家を私ぐらいの歳には読んでたからって、薦めてくれたわよね?…」
私は先程の本を取り、解説に書いてある紹介文を確認して続けた。
「この本だって十九世紀に書かれた物だし…他にも日本人作家、私の読んだ事の無かった荷風とか、それ以外のその辺りの時代に活躍した作家達のも沢山借りた。…まぁそれだけじゃなく今ではゲーテだとか、はたまたシェイクスピアまで借りたし…あっ!それを言うなら鴨長明とか日本の古典も借りたけど…」
私はそこまで言うと本を置き、紅茶を啜りながら視線を落とした。今まで借りてきた本をさらっとなぞれば、何か共通点が見つかるかと思ったが、特に何も見つからなかった。ただ国内外問わず、我ながらかなりの本を借りて読んだという事実を確認しただけだった。義一の反応を待った。ふと顔を上げると、義一と視線が合った。何だか気持ち嬉しそうにしていた。そのままの表情で義一は話し始めた。
「…いやぁ、良く覚えていてくれたね?嬉しいよ。確かに僕はそう言った。この間君がいくら借りて読んだかと単純計算して見たんだ。最初に借りたのが、君がまだ小五で、確か九月の終わり辺りだったと記憶しているけど、毎月僕の所に三度から四度来てたよね?で毎回多い時で三冊くらい借りていってたから少なくとも…」
義一はそこでワザと溜めてから言い放った。
「なんと二百冊の本を読んだ事になるんだよ」
「へ?…へぇーーーー!」
私は自分の事なのに、他人事の様に驚いた。確かに沢山読んだ気はしていたが、そこまでとは想像していなかった。驚きを隠せない私を他所に、義一は笑顔で先を話した。
「でね?話を戻すと、その二百冊…まだこれから先、同じ共通の本を貸してあげたいと思ってるんだけど…見つけるのは難しいよね?」
義一が悪戯っぽく笑うので、私は逆に意地悪くニヤケながら答えた。
「そりゃあね?二百冊を今急に思い返しても、精々分かるのは、全部が最後の大戦以前のモノって位だけだよ」
「あはは!それが分かるだけ上出来だよ、上出来!」
先程チラッと見せた先生モードは影を潜めていた。が、ここでまた先生モードに戻ると、静かに話し始めた。
「そろそろ勿体ぶらずにタネを明かすとね?タネって程大層な事じゃないんだけど、共通点っていうのは…文章って事なんだ」
「…?」
何を当たり前のことを…という表情で、黙って義一を見つめた。義一は一人愉快そうにしながら言った。
「あははは!そんなの当たり前じゃないかって思ってるね?うん、僕は敢えてある言葉を省いて言ったんだ。…ふふ、後出しジャンケンみたいな事しないでって顔だね?ゴメンゴメン!いつもあまりにすぐ察せられちゃうから、たまには意地悪く言葉少なめに言いたくなっちゃうんだ。許してね?…その省いた言葉を足して、改めて言うと…上質な文章と内容って事なんだ」
「…上質な文章と内容…」
私は義一の言葉を、ただおうむ返しをした。…うーん。意味は分かるし、言いたい事も分かる気がするけど、言葉にしようとすると困ってしまった。
そんな私の心中を察したか、義一は優しく微笑みながら解説した。
「…あまりに抽象的すぎて、中々意味を掴むのが難しいよね?でも今から話すことを聞いたら、合点がいくかも知れないよ?僕と琴音ちゃんが同じ考えならね?…じゃあ説明してみるとね、少し脱線しちゃうんだけど…」
義一が語尾を伸ばしながら私の顔を伺ってきたので、私は苦笑混じりに答えた。
「…義一さんが脱線するのはいつものことでしょ?いいから先を話して?」
義一は返事を聞くと、頭を掻きながら話を続けた。
「あはは、ありがとう琴音ちゃん。じゃあ遠慮なく話すとね…偉そうに言うと教育についてという話になるんだ」
「うん」
私は構わず話して欲しいという意思表示のつもりで、短く相槌を打った。
「というのはね、今の教育があまりにもガタガタだからなんだ。…お粗末とでも言うべきか。あるアメリカの教育学の先生がこんな事を言ってたんだ。『最近有名大学を卒業した社会人で、面白い奴らがいなくなった。中学高校時代から進学競争をしていく中で、一点の差で一喜一憂していくうちに、酷く打算的に動き回る様になっている。試験でいくら良い点を取ろうが、創造力、思考力には何の関係もない。道徳性を身に付けないから、価値判断能力が無いに等しい』ってね?後もう一つ言っていたんだけど…」
「それは?」
私は義一が話し始めた時に、カバンから一枚一枚切れるメモ用紙を取り出し、ペンでメモを取っていた。義一に教わった中の一つ、議論をする上での技術だった。今では私も、何かあるとすぐにメモを取る習慣が身についていた。義一は続けた。
「それはね、こうだった。『1960年代の学生達は、自分が何をやりたいのか分からないけど、“idea of goodness”つまり“真善美”、自分に何が可能かを試すために入学してきた。でも最近入学してくる学生達というのは、人から”successful ”に、つまり“成功者”に見られているかどうかを気にする。基準はあくまで他人。そんな輩が卒業して、括弧付きのエリートとして政治の中枢に入り込んでいく。ペラペラペラペラ口が回るけど、その時その時良い事だろうと悪い事だろうとそんな価値基準はどうでも良くて、いかに自分の支持が増えるかどうかという考えで、発言をコロコロ平気で変える。しかもタチが悪い事に、本人は上手く状況に適応して立ち回ってる気になっている。勿論本人は罪悪感など微塵も感じていない。結論としては、何が善かという価値基準を一切持たない偽善者が世に蔓延っている』と嘆いていたんだ」
義一はここまで言い切ると、落ち着く様に紅茶を啜った。私はウンウン頷きながらメモを取っていた。それを見返しながら義一に話しかけた。
「…なるほど。いや、その先生の意見は本当に心から同意するけど、それと“上質な文章と内容”がどう繋がるの?」
「ふふ、そうだねぇ…。君が同意してくれたから、話しやすいんだけど…」
義一は持っていたカップを置くと、また話し始めた。
「さっき紹介した先生の意見、要は僕と琴音ちゃんが話した事に結びつけると、こうなると思うんだ。何でそんな上部ばかりを気にする、空っぽな個人が増えているのか?それはね?…一口に言えば教養というものを一切身に付けていないからなんだ」
「教養…」
私は呟きながら、紙に新たに書き込んだ。
「そう、“教養”。この先生の言葉に僕が付け加えるなら、道徳的価値基準が無ければ、どこに向かっていけば良いのか、目標とすべきゴールを定められないって事なんだ。今の時代、確かに技術は進歩して便利な世の中ではあるんだけど、何のために進歩をしているのか、本当に必要なモノを作り出し生み出しているのか、基準が無いために矢鱈めたらにデタラメしているんじゃないかと思うんだ」
「…なるほど」
私はメモをつけ終えると、それを見ながら返した。
「道徳って今まで何だろうと思ってたけど、こんな意味合いがあるんだねぇ」
「そう、一例としてね」
義一は私の反応に嬉しそうに返した。
「昔十九世紀にフランスで外交官をしていて、保守思想家でもあったトクヴィルって人は、道徳、つまり伝統についてこう言ったんだ。『もし伝統を手放してしまうことがあったなら、それは真っ暗な夜道をランプを持たずに彷徨う事に等しい』ってね」
「…あっ!ちょっと待って」
私は相変わらずメモを取っていたが、疑問点を見つけたので突っ込む事にした。
「軽く流されそうになったけど、何で道徳と伝統を同じように扱ったの?」
私がそう聞くと、義一は思惑通りにことが進んで嬉しいといった調子で、笑顔を顔に浮かべていた。
「…やっぱり!君なら突っ込んでくれると思っていたよ。これは道徳とは何かって話になるね…よっと」
義一はおもむろに立ち上がると、書斎机から同じようにメモ用紙を持って来て、そこに“道徳”と、その英訳“moral”と書いた。そしてその下に“mores”と“morale”を書いた。私はその様子をジッと固唾を飲んで見ていた。正直まだ何が書かれているのか、そしてそれがどう関係しているのかサッパリだったが、いつも義一の話には知的好奇心をくすぐられるナニカがあった。
この時も小難しい話なのに、ワクワクが止まらなかった。
「これは勿論琴音ちゃんを見縊ってるんじゃないと、誤解しないで聞いてくれると思うけど、道徳というのは、中々大人ですら表面的なことしか述べられないから、先に僕なりの意見を話させてもらうね?…僕のいつもの癖で語源からたどるのを許して欲しい。ここに書いた”moral"と“mores”と“morale”。これは全部関連語なんだ。moralは言うまでもなく道徳のことだよね?」
「うん」
「で、このmoresという言葉の意味は”習俗、習慣”の意味なんだ」
「へぇー…あっ!」
私はこの時点で気付いて思わず声を上げた。義一も私の様子を見て、察したのに気づいた様に微笑ましげにこちらを見てきたが、そこには特に言及せず先を続けた。
「でね?あと一つのmorale。これは士気やる気って意味なんだ。これらを繋げて言うとね?」
義一は紙に書いたこれらの単語を、矢印で円環させて言った。
「道徳とはその国民の歴史に培われた習俗習慣、今までの話に絡めれば伝統も入れて良いと思うけど、それらの中に具体的にでは無くとも、少なくとも方向を指し示されてるモノと言えると思うんだよ。で、この道徳が無いと目標が示されないばかりに、士気やる気が湧いてこないとも言える。人間何か目標が無いのに、活力豊かに走り続けるなんて不可能だからね。例え抽象的でアヤフヤな物だとしても、目標は必要不可欠だから。…今までの話が全部連関しているのが、君なら分かるよね?」
「うん、分かるよ」
私は義一のメモを見ながら答えた。相変わらず義一の話を聞くと、頭の中が綺麗に整頓されていく感覚に陥る。清々しい晴れやかな気分だ。
義一は私の返答に、それ以上は何も聞かず、ただ笑顔で頷くだけだった。
「…でも面白いなぁー言葉って。前々から義一さんがそうやるのを見て聞いてきたけど、私達普段何気無く言葉を話しているけど、こういう話を聞くと何も知らないで話してたんだって気付かされるよ。ドーデの話じゃ無いけど、やっぱり言葉って大切なんだねぇ」
私がしみじみ言ったのを聞いた義一は、また知的好奇心に満ちた無邪気な笑顔を見せて、私の言葉の後を続ける様に話した。
「…なんかいつも通り、どんどん主題から離れて行っちゃうけど、大事な話だから今の話に補足すると…そう!今君が言った通りだよ。何しろ言葉というのは大昔から使われてきて、しかも色んな当時の人間たちの思いが込められているわけだからね。それを今生きる僕たちが、蔑ろにして良い資格なんか有りはしない。少なくともそんな不遜な真似は、僕は出来ないね」
そう言い切った義一の表情はあくまで穏やかだったが、目の奥には静かな苛立ちが見て取れた。静かに怒っていた。しかし、ふと気まずそうな苦笑いを浮かべて、今度は本に軽く手を乗せながらまた話し始めた。
「ここで漸くスタート地点に戻ってきた。…何で琴音ちゃんに、僕なりの共通点、”上質な文章と内容”の本を読んで貰っていたか。…今までの話を含めながら言えばね?…いや、まず僕の琴音ちゃんに対する願いから言った方が良いかな…」
トントン。
話し途中で不意に考え事に耽り出したので、私は何も言わずペンでテーブルを叩いた。義一は途端にハッとし、呆れ顔の私に照れ臭そうに笑いながら、先を続けた。
「…あっ、ゴメンゴメン。また思考の海にダイブしちゃってたよ。えーっと…うん、まず君に願う事は今のことで言えばただ一つ、それは…今の空虚な教育に毒されないでって事。理由はさっきアメリカの先生を引き合いに出したから分かるよね?」
「…うん」
「あまりに非生産的で打算的なクダラナイ人間…いや、人間と呼ぶのもおぞましい、今生きる大多数のナニカになってしまうのは、見るに忍びないんだ。…たとえキツくともね」
「…」
私は両手をテーブルの上で軽く組ませながら、静かに、真剣に義一の話を聞いていた。
「これ以上はしつこいってきっと言われるし、しつこく聞くと君の事を”自律”した一人の”人間”として見てないことになってしまうから言わないけど、覚悟を持って生きていくとしたら、今まで話した”道徳”を身に付けなければならない…でもね?」
先生モードの義一の目は、パッと見静かで表情がなさそうだったが、どこか眼光が鋭く何物よりも熱く感じた。
「これも今まで話した事だけれど、今生きてる人間達、つまり大人達に子供に道徳を教えられる様なのは、残念ながら一人もいない。…僕を含んでね」
「…」
私は正直慌てて訂正を入れたかったが、義一が受け入れてくれなそうだったので止めた。
「…で、辛うじて代わりになってくれそうなのが、過去の本達…つまりは”古典”というわけさ」
義一はいつだったか前にもした様に、壁一面の本を見渡しながら言った。
「…前にも同じ事を話していたね?」
私も同じ様に見渡しながら言った。当然これは嫌味などでは無かった。心情からいえば、一切ブレずに同じ事を言っているのを、大袈裟に言えば賞賛している意味合いだった。
義一はそれを知ってか知らずか何も突っ込まず、ただ目元を緩めて見つめてくるだけだった。余計な事と知りつつ、敢えて義一の心を代弁すれば『僕の言葉をここまで真面目に聞いてくれて、しかも約三年前の話を覚えてくれてるなんて…』と変なところで卑屈だから、思っていたに違いなかった。
義一はそのままの表情で続けた。
「そう、結局全部繋がっているからね。…だから古典の時代、一生懸命に生きなければ生き残れなかった時代、その時代に書かれた文章や内容には大袈裟じゃなく、何か生命の力強さの様なものが沢山含まれている。…生きるためのヒントがね。大昔に書かれたはずなのに、今読んでも新鮮さを失っていない。まるで今生きてる人が書いたかのように。…僕の個人的な見解だけど、そんな上質な本、特に十九世紀に書かれた本を中心に、最低でも十代のうちに読んでおくことが大事だと思うんだ。今の空虚が蔓延している”空気”に毒されないためにね。だから…」
「私にそれらの本を読ませたのね?」
私は淡々と口を挟んで答えた。目元を緩ませながら。
「まるで義一さん、あなたがそうしてきたように…」
私がまた小学校時代の話を引っ張り出したので、なるべく変えないようにしていたみたいだが、義一の表情は喜びに満ちていた。
「…そうだね。参考までに僕と同じ意見の人を捕捉的に入れるとね、その人はこう言ってたんだ。小学校までは”国語”を中心に、中学校は”歴史”を中心に、高校まで行くと”思想”を中心に学ぶべきだってね。勿論中学に入ったら国語をやめても良いなんてことじゃなくて、国語を続けた上で歴史を学ぶみたいに、段々重層的に積み上げていくイメージなんだけどね。…僕はここまで厳密にしなくても良いとは思うけど、ただ考え方自体には賛成なんだ」
「…なるほど、義一さんが言いたかったのは私が中学生になったんだから、そろそろ次のステップ、歴史の本を中心に読んで見たらどうって事ね?」
私は得意満面に言い切った。ここまで長い前置きを話されて、間違いようがなかったからだ。義一も満足げにウンウン頷いている。
「だから今日からは、歴史の本も一緒に借りて見てよ?…もし良かったらだけど」
と義一は若干挑戦的な視線を向けてきながら言った。そんな真似をしなくても、私の心、決意はとっくに固まっている。
「勿論!遠慮なく借りていくわ。…ただ」
「ただ?何かな?」
義一が不思議そうに聞いてきた。私は溜めてから、ニヤケつつ言い切った。
「…ちゃんと今度は、何故歴史が大事かを教えてね?」
義一は何事かと構えていた様だったが、私の言葉を聞くと途端に笑顔で返した。
「…あはは!うん、勿論!」
それからほんの一瞬そのまま見つめあったが、どちらが先とも言えないくらいに同時に吹き出し、笑いあったのだった。
この日はまだ時間があったので、久しぶりにたっぷりとピアノを弾こうとカバーを外した。義一は私が準備している間に、新たに紅茶を入れ直し、ピアノの側にテーブルごと近づけた。私が飲みやすいようにだ。これも毎度のルーティンだ。この日はショパンの協奏曲ホ短調の第一から第三楽章の、ピアノが盛り上がる所を弾いて見せた。義一用の短縮バージョンだ。当然義一はこれらの元を知っていたが、私なりの編成を面白がりながら聞いてくれて、褒めてくれた。いつも褒めてくれるから、逆に不安になる事もあったが、素直に嬉しいので受け入れるように努めるのまでが日課だ。
細かい話はともかく弾き終えると約束通り、新たな小説と一緒に歴史の本を借りて帰った。当然ながら、いつもよりもカバンがズッシリと重かった。でも心は晴れやかのまま家路を急いだのだった。
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