第23話 社交(裏)上

文字数 50,369文字

十一月最終土曜日。私は聡との約束通り、裕美達と少しお喋りしてから家に帰って来た。三時丁度といったところだ。朝は両親と共に朝食をとったが、私が学校に行ってる間に出てしまったようで、家には人の気配がなかった。
あの後駅前で聡と別れたわけだが、その間際に連絡先を交換していた。しかし今日まで一度も連絡は取り合っていなかった。こっちから一々連絡取るのもなんだと思ったから、そのままにしていたら当日になってしまった。
私は本当に聡が来るのか、一抹の不安というか、若干疑いつつも制服から普段着に着替えて待っていた。
上は無地のTシャツ、下は細身のジーパンに着替えた丁度その頃、スマホの液晶が光った。見てみると聡からだった。電話だったので早速通話に切り替えた。
「…もしもし、おじさん?」
私がそう問いかけると、電話の向こうで聡の音割れする程に明るい声が聞こえてきた。
「おぉ、琴音か?今もう家にいるか?」
「えぇ、それで今普段着でいるけど…私は何か、準備とかしないで良いの?」
「準備ぃー?あははは!いらんいらん!荷物だとかも特にいらんぞ。まぁ…お前も女の子だから、何かしら持ち物はあるのかも知れんが、特にそれ以外は何も持たなくて良いから」
「そう?分かった。じゃあ家で待ってるから」
「おう。俺も今から車で行く」
ブツッ
聡はそう言うと、返答を待たずに切ってしまった。やれやれと時計を見ると、時刻は三時四十五分を指していた。私は夏休みに紫と買い物に行った時に買った黒のミニバッグを取り出し、中にハンカチやスマホ、メモ帳に筆記用具など最低限の物を入れた。そうそう、腕時計も忘れずに。
ピンポーン。
入れ終えると丁度その時インターフォンが鳴った。自室の部屋の壁に備え付けてある、外部カメラを見てみると、そこには画面一杯に聡の顔が映し出されていた。私は外部マイクのボタンを押すと、
「…あ、おじさん。今行くよ」
とだけ言うと、身支度を済ませて玄関へと向かった。
近所をぶらつく時用の、履き潰されたスニーカーを履いて外に出た。するとすぐ目の前に聡が大股広げて立ちはだかっていた。
「…よっ!久しぶり!」
聡は私の顔を見ると、途端に笑顔を作って、右腕を軽く上げながら声をかけてきた。
「…久しぶりってほどじゃないでしょ?」
と私は苦笑まじりに返しながら、ふと聡の背後に視線を流した。
そこは駐車スペースだったが、ウチの車以外の見た事のない車が停められていた。それは軽自動車で、色は白だったが、少々年季が入っているのかところどころ生傷が見え、色も全体的にくすんで見えた。
私の視線に気付いたのか、聡は後ろを振り向くと、口調明るめに言った。
「…あぁ、アレか?そう、アレが俺の愛車よ。今からアレに乗って行くんだ」
「…そう」
私は、今だに今日何をするのか何も言われず仕舞いだったので、問いただしたい気満々だったが、雰囲気的に、聞いてもおチャラ化されて終わるのは目に見えていたので、この時も聞かずに置いた。
久しぶりに会ったおじさんだったが、私は不思議と聡に対して、強めの信頼を持っていたようだった。やはり…我ながら単純だと笑うしかないが、聡が義一に対して好意的であるというのが大きいようだった。私の中ではすっかり、相手のことを判断する上で、義一の事をどう評価しているのかが、かなりの比重を占めていた。そしてその判断は今の所、まだサンプルは異様に少ないが、間違ってはいないようだった。
聡は私の姿をチラッと見ると、口調に表情つけないまま、軽い調子で言った。
「うんうん、ラフな格好で出て来たな?それで良い。…変に着飾って出て来たら、先方の方が困っちまうからよ」
そう言うと、聡は何も言わないままに車に乗り込もうとした。
「…え、誰かと会う訳?っていうか本当にこれから何処に行…」
「ほら琴音ー。いつまでボサッと突っ立ってんだよ?早く行くぞー?」
私がそう言いかけると、聡は運転席に座りつつ、ドアを開けっ放しにして片足を外に出しながら、私に呑気な調子で声を掛けてきた。
…しょうがないなぁー。
私は首を大きく横に数回振ると、いつの間にか開けられていた助手席の方へと回って、乗り込んだ。
私がドアを閉めると、相変わらず気の抜ける調子を崩さないまま言った。
「よし、ドアを閉めたか?シートベルト締めて…そうそう。では、しゅっぱーつ!」
聡が急に右腕を、天井に当たらない程度に上げて声を上げたので、私も控えめに腕を上げつつ続いた。
「…しゅっぱーつ…」

聡の車の中は外見ほどには汚れていなかったが、タバコの匂いで満たされていた。いわゆる”オヤジ”の匂いだ。顔には出していなかった筈だが、聡は車を発進させながら声を掛けてきた。
「はははは!”少々”汚くて悪いな。何せ普段は俺しか使わんし乗らんから、碌に掃除してないんだよ」
「…ふふ、何も言ってないじゃない?」
私は自分でも不思議なくらいに、そう言う聡が微笑ましく感じて、目の前のフロントガラスを見ながらだったが笑顔で返した。聡は、ただ豪快に笑い返すだけだった。
車は家の敷地内を出ると、土手の方への道をゆっくり行った。土手の麓に辿り着くと、土手に沿って走る高速道路の下を走った。その間、聡は何かと学校の話を聞きたがったが、私は外の景色に気を取られて、生返事しか出来なかった。正直聡に話を持ちかけられた時、すぐに頭を一つの考えが過ぎったが、敢えて口にしないで置いた。が、今、車が辿っているこの道のり、もう間違いようが無かった。今向かっているのは…。

「…よし、ちょっとここに寄ってくぞ?」
聡はそう言うと車を路肩に停めた。そしてエンジンを切ると、一足先に車外に出るのだった。
私も反対側から車を降りると、目の前には見慣れた塀があった。車と塀の隙間を、体を横にしながら出ると、そこにはこれまた、見慣れた玄関があった。もう分かるだろう。そう、義一の家だった。
ジーーーーーっ
聡はイタズラに玄関脇のベルを長押ししていた。その分ずっと鳴りっぱなしだった。
と、その時、扉の向こうで声がした。
「…相変わらず喧しいな、聡兄さんは…今開けるよ」
ガララララ。
大きな音を立てて引き戸が開けられると、そこには義一が、いつものラフな姿で立っていた。髪はいつもの様に纏めていて、メガネをしていた。
義一は最初は、呑気に笑顔を浮かべつつ手を振る聡を見ていたが、すぐにその後ろにいる私に気付くと、いつだかの絵里と図書館で、出会した時の表情を浮かべていた。懐かしい反応だった。
「…ってあれ?琴音ちゃん?」
「…義一さん、こんにちは」
義一が目を見開いたまま声をかけてきたので、私も何だか変に気まずくなりながらも応えた。
聡一人が二人の様子を見て、ヘラヘラ笑うのだった。

「…聡兄さん、どういうこと?」
義一はひとまず私と聡を中に招き入れた。今私達は玄関スペースの上がり框に腰掛けている。靴は履いたままだ。義一は履いていたサンダルを脱ぐと、取次ぎから見下ろすように聡に聞いた。
「…僕、何も聞いてないんだけど?」
口調は心底呆れ気味で、ため息つきながら話している感じだ。
聡は体を捻るようにして、顔を義一に向けながら答えた。先程から変わらずニヤケ面だ。
「どうもこうも…こういう事さ!まぁ、お前にも確かに言ってなかったな」
「…”も”?」
義一はそう呟くと、私の方に視線を流した。私は隣に座る聡に視線を流しつつ、同じ様に溜息交じりに答えた。
「…そうなの。私も何も聞かされないままに、ここに連れてこられたのよ」
「ふーん…っていや、それだけじゃなくて他にも色々と聞きたいことが…」
「ほーら、義一?」
義一がまだ何か色々と言いかけていたが、聡が強引に横槍を入れて遮った。
義一が非難の視線を向けていたが、聡は構わず自分の腕時計を指でトントンと叩いた。
「その話はくわーーしく道中で琴音が話してくれるから、お前は今はとっとと支度を済ませてきてくれ」
「…はぁー、分かったよ。琴音ちゃん、ちょっと待ってて貰える?」
「え?あ、あぁ、うん、もちろん」
「…じゃあ、待ってて」
義一は一瞬力無く私に笑顔を向けると、どこか奥へと消えていった。そして数分もしないうちにまた戻ってきた。”支度”を済ませたはずだったが、見た目に変化は見られなかった。…いや、足元を見ると靴下を履いていた。メガネもしたままだった。
…ん?
私は思わず突っ込みたくなったが、また聡の豪快な声に先を越されてしまった。
「…相変わらずお前の格好は、見栄えが変わらねぇなぁー…まぁ、俺も人のこと言えた筋合はねぇけど…よし、役者は揃った!ほら、さっさと行くぞ!」
そう言い終えると、聡はズンズンと外に出て行ってしまった。
私と義一は顔を見合わせると、共に苦笑いを向け合い、義一が靴を履くまで待って、ゆっくりと立ち上がり、二人で外に出たのだった。この時もあの小五の夏、三人でファミレスに行くまでの事を思い出したのは言うまでもない。

「よし、みんな乗り込んだな?じゃあ、しゅっぱーつ!」
「し、しゅっぱーつ…」
聡の号令に、私と義一が小さい声で応えると、車はゆっくりと発進して、元来た道を戻るのだった。私と義一は後部座席に座っていた。発進するのと同時に、義一が聡に話かけた。
「…あまりに急な事が多すぎて、何から聞けば良いのか途方に暮れているんだけど…」
「…私も」
私も力無くか細い声で、義一に続いた。聡はバックミラーを使って、後部座席の私達二人をチラッと見てから、心から愉快だと言わんばかりに陽気に答えた。
「あははは!二人して驚いたろ?いやぁ、良かった。二人があまりに達観していて、どんな事にも動じませんって顔つきで普段いるもんだから、ひと泡食わせてやりたかったのよ。いやぁー、良かった、良かった」
「…ぷっ、なんだよそれはー…っていや、だから一体全体どうなってるんだよ、この状況は?」
「まぁまぁ、これから三、四十分車を走らせるんだから、その間に色々と聞けば良いじゃないか?時間はまだあるぜ?」
「…は?」
義一が短く声を漏らすと、丁度車は信号で停まった。右側に土手が見えているが、聡は右ウィンカーを点滅させていた。左に曲がれば私の家だった。
「…あれ?左に行くんじゃないのか?琴音ちゃんちは左だよ?」
義一はそのウィンカーを見た瞬間、少し驚きを隠せない調子で聡に聞いた。
聡は聡で、その質問自体が意外だと言わんばかりに、驚いて見せつつ答えた。
「…は?いや、何で琴音の家に向かわなきゃいけないんだよ?」
「…え?だって、まずは琴音ちゃんを家に届けるんじゃないのか?」
「…いーやー?」
聡は、まだ信号が赤なのを良い事に、後ろを振り返りつつ、ニヤニヤしながら答えた。
「…琴音もあそこに連れて行ってやろうと思ってな?」
「え?今なんて…うわっ!」
義一は思わず身を乗り出しながら聞きなおそうとしたが、その時信号が青に変わったので、おそらくワザとだろう、聡が急発進してみせたので、義一は途端に座席の背もたれに戻されてしまった。
車は土手の斜面に沿うような坂道を上がり、登り切ると、川に架かる橋をそのまま渡って行くのだった。もう完全に家とは反対方面へ向かっていた。
「…琴音ちゃんを、あそこに連れて行くって?」
身を乗り出すのは危険だと判断したのか、義一は背もたれに、ちゃんと背中をくっつけながら聞いた。
「あそこって?」
私はすかさず聞いてみたが、その質問は取り上げられず、聡は前を向きつつ陽気に答えた。
「あぁ、そうさ。今日は栄一達が家にいねぇしな」
「…あ、あぁ、そういえばそうだったね」
義一は私に顔を向けながら言った。私はそれにただ小さく頷いただけだった。
そう。元々今日は義一の家に行くつもりだったから、予め両親がいない旨を伝えてあったのだ。これに関しては、寝耳に水では無かっただろう。ただ、直前に私は『行けるかどうか分からない。”意味がわからない用事”が入っちゃって』とだけメールを送っていた。義一は当然色々と心配してくれたが、私が何も心配いらないと言うと、一応は納得してくれていたみたいだった。今こうして、その”意味がわからない用事”に、一緒に遭遇しているという訳だった。義一も直ぐに察したか、私に苦笑まじりに聞いてきたのだった。
「…あぁ、これかぁ。前に言ってた”意味が分からない用事”っていうのは」
「うん、そうだよ」
「…へ?…あぁ、あはははは!」
運転中の聡は、当然ながら正面を見つつも、いつもの様に豪快に笑って見せた。
「意味が分からない用事かぁー、そりゃちげぇねぇ、あははは!」
「お、おい、聡兄さん!運転しっかり頼むよ?」
「大丈夫だって、心配すんな」
義一の言葉を他所に、鼻歌交じりに運転をしていた。
「…はぁ、というか君達、いつの間にそんなに親しくなってたんだい?僕の知る限り、父さんの法事以来会ってなかったでしょ?」
「え?…あぁ、そういえば」
忘れていた。丁度一週間前の事であったし、この間もメールのやり取りはしていたが、すっかり聡の事を言うのを度忘れしていた。
「…それはね、義一さん」
私はこれまでの事を話した。土手でたまたま会ったこと、その後あのファミレスに行って、そこで色々と話をした事。細かいことは端折りつつ言った。
話を黙って聞いていた義一は、私の説明を聞き終えると、それなりに察したのか「ありがとう、琴音ちゃん」と私に言うと、今度は聡に向かって言った。
「大体流れは分かったけど…でもだからって、琴音ちゃんをあそこに連れて行くのはどうかなぁー…。まだ早すぎやしないかな?」
「んー…そうか?」
聡は一瞬考えて見せたが、すぐに義一に返した。
「まぁ確かに、お前があそこに行ったのは、確か…高校生になったばかりだったよな?俺が今みたいに連れて行った。…それと比べると、確かにまだ中一って事を考えると早い気がしないでも無いが…」
とここまで言うと、聡はまた、バックミラー越しに義一を見つつ続けた。
「…お前も分かってるんだろ?俺はいつもお前の口から聞いてて、お前が琴音の事を高く買っているってのは、よく分かっているんだよ。お前は人を見る目がピカイチだからなぁ…それに身内だからって、メガネを曇らす様な奴でも無いことも分かっているから、そのお前が言うんだから間違いないと思ったんだよ」
「…そんな見え透いたお世辞を言われてもなぁ」
そう言う義一は、顔を窓の外に向けていたが、声のトーンを聞く限り、満更でもなさそうだった。私も色んな意味で照れ臭かった。
そんな私達二人の事を、見ずとも分かっていたのだろう、聡はまた愉快に笑いつつ言った。
「あははは!まぁ、そう言うなよぉ。これはある意味、琴音からのお願いでもあるんだから…な、琴音?」
バックミラー越しに、今度は私を見ながら言った。
「…へ?」
義一も聡の言葉に、短く気の抜ける様な声を発すると、隣に座る私の顔を見た。
急に振られた上に、中々小っ恥ずかしいネタだったので、少しの間モジモジしてしまったが、こういう時に見逃してくれない事は分かっていたので、観念して義一の方を向きながら、若干辿々しく言った。
「…う、うん。そのー…何だろう、まぁ、おじさんにこう聞かれたのよ。『義一の事を知りたくないか?』って。…それで…ね?私は…ただ『知りたい』って答えたの。…だって!」
徐々に日が沈むにつれて、車内もだんだん薄暗くなる中、相手の顔がはっきりとは見辛くなってきていたが、こちらに真っ直ぐな、射竦める様な視線を向けてくる義一の顔半分には、フロントガラスから差し込んでくる陽光が当たり、周りが暗い分、余計に浮き立たせていた。
その視線にせっつかれる様に、思わず昂りながら続けた。
「だって義一さん、私に今まで色んな事を教えてくれたりしたけど、肝心の自分の事は話してくれて無かったじゃない?私から聞くのも何だと思って、あなたが話してくれるのを待っていたけれど、いつまで経っても話してくれない…。毎年あの夏休みの時だって」
私は話しながら、ふと思い出した事を重ねて言った。
「何日か会えない時があったよね?それも義一さんが、他のことは色々話してくれるあなたが言わないのだから、今の所は聞かないでおこうと、ここまで先延ばしにしてきたの。…でもダメ。…これは堪え性のない私のせいでもあるけれど、でも変に勿体ぶって話してくれないんだから、”なんでちゃん”としては、これ以上は見て見ぬ振りが出来ないの!…勿論、義一さんが私の事を大事に思ってくれているのは、すごく分かっているつもり。…そんなあなたが、私に話そうと中々してくれないって事は、私のためを想っての事とも思わなくは無い…。これはもしかしたら、義一さんにとって”大事な場所”を土足で上がる真似になるかもとも思ったけど…」
ここまで言うと、視線を今度は運転している聡の背中に向けた。
「おじさんにそんな風に聞かれた時、私は思わず即答しちゃったの。…だって!」
私はまた顔を義一に向け直すと、そのまま先を続けた。
「だっておじさんの言う通りにすれば、もしかしたら、もっとあなたに近づけると思ったから!…そのー…」
ここで私は急にテンションを落としながら、
「…何処かに行くとは聞いてなかったけど、それでも私は、このまま二人について行くよ」
と言い終えた。その後はホンの数秒くらいだろうが、車内は静まり返った。車の走行音だけが聞こえていた。私は、夢中になって捲し立てていたせいで、途中から、聡がそばにいたことを失念してしまっていた。それに気付くと途端に恥ずかしくなり、余計に何も言えなくなってしまった。先ほどと同じ様に、私が話している間黙って聞いていた義一だったが、話終えた私の言葉を吟味する様に目を瞑っていた。が、ゆっくりと目を開けると、私に柔和な笑みを向けてきた。それは薄暗い車内でもはっきり分かる程だった。
「…琴音ちゃん、ありがとう。そこまで僕に興味を持ってくれて。…変に自虐的だって、普段の様に突っ込まないでね?これは本心からなんだから。…いや、普段も本心からなんだけれども」
義一は照れ臭そうに笑った。
「…でも、そっかぁ。…確かに八月のアレは、君に話した事が無かったね?」
「…あぁ、アレかぁ」
運転していた聡も、静かに呟いた。
義一はまた柔らかい笑みに戻り続けた。
「別に隠すつもりは無かったんだよ。…ただ、さっきも僕が言った様に、君が知るには少し早すぎる様な気がしたからなんだ。…僕の関わっている”人達”に会うのはね?」
「…人達?」
私は反射的に突っ込んだ。義一はそれに大きく縦に頷くだけだった。
「僕としては、まだ若い君が僕たちの様な集まりに関わると、本格的に”普通の”女の子に戻れなくなってしまうんじゃ無いかって恐れていたんだ…。おっと、そう睨まないでくれよ?…うん、僕だって君が生半可な気持ちで、僕と深く関わろうとしてるんじゃ無いって事は、これでも分かっているつもりなんだ。…ただ僕が、ビビリなだけなのさ。…君があまりに真っ直ぐに、僕に純真な想いをぶつけて来るもんだからね…。前にお寺で言ったことを、君のことだから覚えているだろうけど、あの時言ったいわゆる”大人の一般論”、僕自身も嫌悪しながら、知らず知らずに同類に陥ってしまってたんだね。…僕は今だに君の事を、”普通の女の子”と同じだと、型に嵌めて見てしまっていたのかも知れない。…僕の進む道に巻き込んで、万が一僕ら側にも、普通の側にも戻れなくなってしまって、どっちつかずになってしまったら、どう責任を取ればいいんだなんて考えてしまっていたんだ。でも今…」
義一は表情そのままに、私の肩にそっと手を置いた。私は少しビクッとしてしまった。それには触れずに、義一は続けた。
「琴音ちゃん、君が今述べた事を聞いて、漸く僕も腹を括れたよ。『琴音ちゃんは、一人の”自律”した人間』。…これは君にも直接言ったけど、この言葉に嘘は一滴も含まれてはいないし、それは今だに変わらない。ただ自分で言ってて、本質の部分で分かってなかったみたいだ。もし本当に、君を自律してると思うんだったら、僕がわざわざ責任を負おうとするのは、ある意味君への侮辱だったかも知れないね。だってそれは、君が自分で決めた事に責任を負えないんだと、暗に認めた事になるから…。君が望むなら、僕らの集まりだって何だって、勿体付けずに、試しに連れて行ってあげれば良かったんだ。もし気に食わなかったりして合わなかったら、後は近づけない様にしてあげればいいだけなんだから」
「義一さん…」
私は、何か返すべきだと思い言葉を探したが、今の心情に合う様な言葉は、あいにく持ち合わせていなかった。それを知ってか知らずか、私に思いっきり目を瞑るほどの笑みを見せると、今度は聡に向かって、
「…さて、聡兄さん。話はまとまったんだから、後はとっとと”お店”に行こうよ」
と明るい調子で話しかけた。すると聡は、先程の私と義一の様に、呆れた調子で苦笑交じりに返してきた。
「…まったく、調子が良いもんだぜ。お前らのイチャイチャ具合を、この狭い空間で見せつけられる俺の身にもなってくれ」
「…っ!い、いやいや!イチャイチャなんて…」
「…ぷっ、あははは!」
私は反射的に聡に反論しようとしたが、隣で呑気に義一が笑うので、私もすぐに諦め、一緒になって笑うのだった。気づけば聡も、一緒になって笑っていた。
「…あっ、そういえば」
ひとしきり笑い合った後、義一は私の方を向きながら聞いてきた。
「琴音ちゃん、昔は聡兄さんの事、”聡おじさん”って呼んでなかった?今日聞いてたら、”おじさん”とだけ呼んでたね?」
…本当によくまぁ、そんなくだらない事まで覚えているもんだなぁ。
などと、呆れるとも感心とも取れる感想を持った。 もっともこの時は、私自身も覚えていたということに、気づいてはいなかったが。
「…よく覚えてるねぇ、そんな昔のこと」
私は呆れ口調だったが、見えるか分からないまでも、笑顔で答える事にした。
「”聡おじさん”だと、何だか普通に会話する上では、かなり言い辛かったから”おじさん”って呼ぶ事にしたんだ」
「…ふふ、なるほどねぇ」
「何だよぉー、そんなクダラナイ理由だったのか?」
聡も運転席から話に加わってきた。
「もっとなんか理由があるのかと思ってたのによ」
「…ふふ」
「…ん?何?」
ふと、隣でクスッと義一が笑うので、私も微笑みつつ聞いた。
「どうしたの?」
「…え?…いや、何でもないよ」
義一は答えてくれず、もうすっかり暗くなった車内で私に、微笑んでくれてるだろう気配を漂わせるだけだった。私はこの時、ある事を思い出し、微笑み返したのだった。
義一の微笑みと、私が微笑んだ理由が、同じだったら良いのだけれど…。

この様な会話をしている間、車は暫く繁華街、都心部を走っていたが、会話にひと段落がつき、車外を見てみると、明かりの少ない路地を走っている様だった。何だか地元と雰囲気が似ていた。良くも悪くも何も無い、閑静な住宅地の様だった。チラッとスマホのモニターを見ると、時刻は五時半を過ぎるところだった。義一の家から四、五十分来た計算になる。都内の様だが、一般道をこんなに長く行く様な経験はまだ無かった。
そうこうしているうちに、聡の運転する車は、ある駐車場へと滑り込んだ。
エンジンを切り、聡がドアを開けたので車内ランプが点き、薄オレンジの柔らかい光が辺りを包んだ。
「…よし、二人共降りてくれ」
「うん」
私と義一は同様に返事をすると、お互いに近いドアを開けて外に出た。一応持ってきたミニバッグを忘れずに。
外に出ると、何の変哲もない駐車場だった。パッと見はコインパーキングに見えた。車の周りを見てみると、私達の以外に四、五台ほど停まっていた。尤もその台数で満車の様だった。無理すれば、他に何台か止められそうだったが、駐車を安易にするためか、スペースを示す白線が台数分しか書かれていなかった。どの車も線からはみ出る事なく、綺麗に停まっていた。
私は何故か気になったので、他の車の側まで近づき見てみると、正直車の知識はまるで無かったが、外車なのだけは分かった。駐車場に備え付けてある、一つだけの灯に照らされたその車達は、どれも黒か、黒と見間違えるほどの青だったりして、どれも何だか高級感が溢れていた。
「…おーーい、琴音ーー。いつまでそんな所にいるんだ?そろそろ行くぞーー?」
聡が駐車場の外に出て、義一と並んで立っていた。二人して私に手を振っている。
「うーーん、今行くーー」
私も間延び気味に返すと、そそくさと二人の元へ早歩きで近寄った。
「…よし、じゃあ行くか」
聡はそう言うと、街灯少ない路地を先頭切って歩いて行った。その後を、私と義一は追うのだった。
車の中からは気付かなかったが、ここは住宅地のど真ん中に位置しているような場所だった。当時は当然分からないし、気にもしていなかったが、駐車場までの道は一方通行だったようで、道の幅自体も、車が一台通ると、歩行者と自転車はかなりストレスを感じるくらいだった。聡の軽ならまだしも、あそこに停まっていた他の車では、ここまで来るのに神経を使うだろうと予想された。
…このような事に思いを馳せつつ、すぐに二人のどちらかに「ここはどこなの?」と聞こうと思ったが、そんな短い質問さえ出来ずに終わった。何故なら聡が歩き始めてから一分もしないうちに足を止めたからだ。すぐ後ろを歩いていた私と義一も、同じ様に足を止めた。
聡の視線の先を見ると、そこには古びた喫茶店が建っていた。いわゆる”純喫茶”と呼ばれていた形式のものだった。正面から見ると、この間お父さん達と行ったお寿司屋さんくらいのサイズだった。要は、幅がとても狭かった。三メートル程しか無かった様に見える。でもそれだけだったら、ただの小ぢんまりとした喫茶店だったが、ここは少し様子が変だった。中が見えるはずの大きな窓が一つあったが、真っ暗だった事だ。いや、それだけじゃなく、外観も正直、営業しているのかどうか疑わしい程寂れていた。そもそも看板も出ていない。少し迫り出した雨よけには、当時の名残なのか、店名らしきアルファベットが書かれていたが、時の流れに侵食されて、すっかり掠れてしまい、一文字も読めなかった。
とまぁ、軽く外観を眺めていたのだが、第一印象としては、…何だかレトロ好きの物好きがお金を叩いて、取り敢えず昭和の香りを残そうとしている風だった。まるで展示するかのように美しく保存されている無用の長物…いわゆる”トマソン”にしか見えなかった。そんな感想を覚えるくらいだから、内部に人がいる様な気配は感じなかった。

カランカラン。
聡がこれまたレトロ感溢れる磨りガラスが取り付けてあるドアを引くと、牛の首につける様なカウベルの音と共に開いた。聡が中に入るのを見て、私は少々得体の知れない感に気圧されて続けて入るのを渋っていると、背中をそっと押された。振り向くとそこには義一の微笑みがあった。義一は何も言わずに頷くと、またさらに優しく背中を押した。私はやっと安心出来たのか、促されるままに建物の中へと入って行った。
中に入った第一印象は、”一応ちゃんとしたお店なんだ”というものだった。これまた絵に描いたような、レトロなバーといった感じだった。店内には何処からか、小粋なジャズが流れていた。勿論私はお酒が飲めないので、実際には見たことがなかったが、絵里に借りて見た昔の映画でしょっちゅう見た事があった。だから変な言い方をすれば、”見慣れて”はいたが、どうも現実感が無かった。まるで映画のセットの中に、紛れ込んでしまったかの様な錯覚に陥った。
店内は比べるのはどうかと思ったが、あの寿司屋と大まかには似ていた。尤も内装の配置という点でだ。入ってすぐ左手にはカウンターがあり、イスが幾つか並んでいた。十とちょっとといったところだろう。テーブルも二つばかりあり、四人掛けらしく、椅子が四つ置かれてあった。計八つだ。カウンターとテーブル席両方共、誰も座っていなかった。カウンター内には、”それ風な”制服(?)を着た男女がいた。歳はいくつほどだろう、五十代と見られる男性が、何やら手元を見ながら作業をしていた。清潔感のあるカラーシャツに、黒の蝶ネクタイを締め、黒のカマーベストを羽織っていた。下には典型的な同色のソムリエエプロンを身につけていた。もう一人の女性の方も、着ている服自体は、側から見てると全く同じに見えた。ネクタイを締めていないというだけだった。恐らく男性と同じくらいの歳だと思うが、動きやこの店の雰囲気と相まって、年齢不詳な、いい意味で妖しい雰囲気を身に纏っていた。二人共、酸いも甘いもかみ分ける、人生の達人風であった。カウンター内の壁には棚が設置されており、所狭しとお酒のボトルが置かれていた。洋酒から日本酒、東西問わず揃えてある様だった。
店内は薄暗い明かりで満たされており、天井にぶら下がるシーリングファンはゆっくりと回転していた。そこに一緒に付いている数個の光源からは、柔らかなオレンジ色、つまり電光色の光を発していた。壁にもいくつか、アンティーク調のランプが掛けられていた。どれも朝顔を模した様な、同じ型をしていた。そこからも、天井からのと同じ色の光を発していた。この空間の光源はそんなものだった。なるべく最小限に抑えようとする意図が見えていた。が、これは勿論、節約がどうのとは全く関係が無い。店内の雰囲気を壊さない様にという、ある種の気遣いの結果だった。見ようによっては暗く感じるかも知れないが、初めて来た私でも、今くらいの薄暗さが”程良い”ということは分かる気がした。
奥には店の幅程の赤いカーテンが引かれており、『関係者以外立ち入り禁止』と書かれたボードが掛けられていた。中の特徴としては、そのくらいだろうか。
「…いらっしゃい」
聡がカウンターに近付くと、中で作業していた男は一旦手を止めて、顔を上げチラッと見ながら声を掛けていた。渋い声で、落ち着いた口調だ。
「おう。今日も世話になるぜ」
「ゆっくりしていってね」
女性も柔らかな口調で聡に声を掛けた。物腰はゆったりだったが、音楽の掛かる店内でもはっきりと響く声質だったので、私の耳にも聞こえた。聡は「おう」と微笑みつつ答えていた。
「…あら、義一さんもいらっしゃい」
女性は今度は義一を認めると、微笑みつつ言った。
「うん」
義一は側から見ると、かなり素っ気なく見える様な短い返事をした。が、その後二人がお互いに微笑み合っていたので、そういう態度が許容出来る程度には親しいことが分かった。
「…って、あら?」
女性は義一の後ろにいた私を見ると、若干声を明るめに調子を上げながら言った。
「後ろにいる可愛らしいお嬢さんは、どなた?」
「あぁ、この子はね…」
義一は軽く私の紹介をしてくれた。その言葉の中には、お父さんの事などは含まれていなかった。主にあの”宝箱”での、二人のやり取りについてだった。
と、今まで静かにグラスを拭いていた男性が、手を止めて私と義一の方に向きながら話しかけてきた。
「…義一さん、いいのかい?そんなお嬢さんを、この場に連れて来て?」
「…」
私はなんだかこの場に居るのがいけないと、暗に言われた気がして少し萎縮してしまった。
すると、今度は聡が男性に向かって底抜けに明るく笑いながら答えた。
「あははは!心配ないって。…俺がコイツを連れて来たんだから」
聡は何だか自信ありげだ。私はそれを聞いて、なんの根拠になるんだと単純に思ったが、男性は少々違ったようだ。
「…まぁ、その子を受け入れるかは他の方々が決める事だから、私からは何も言わないがね」
男性は渋い声で淡々と言った。聡は男性に無言で、悪戯っぽく笑うだけだった。
「はいはい、みんな、こんな所で立ち話もなんだから、三人共早くあっちに行って」
女性はまた落ち着いたトーンで、店の奥のカーテンを指し示しながら言った。あの”立入禁止”のボードが掛けられている所だ。
「あぁ、そうだな。じゃあ早速失礼するよ」
「うん。じゃあ行こうか、琴音ちゃん?」
「…う、うん」
聡が口火を切ると、義一が私に声を掛けてきたので、私はまだこの店内の雰囲気になれないままに、辿々しく返した。
聡はツカツカとカーテンのそばまで寄ると、ゆっくりとカーテンを横にズラした。そこには磨りガラスの両開きタイプのドアが現れた。ガラス越しに内部の明かりが漏れてきていた。こちらと灯の種類は同じな様だった。聡が両手を扉に掛けると、そのまま押しながら前に出た。扉は大きく開け放たれて、聡は振り返る事なく中へ入ってしまった。扉が自然に閉まろうとしたので、義一が片方のドアを抑えて、私を視線で中に入るように促した。私は厚意に甘えて義一より先に入った。
そこには広い空間が広がっていた。内装や灯りは向こうと変わらなかったが、何だか急に拓けた所に出たので、別の建物かと錯覚するほどだった。そこには長テーブルが二つと、ワインレッドのソファーがぐるっとそれを囲むように設置されていた。もし満席だったら、二、三十人は座れそうな程だった。天井にはスピーカーがぶら下がっており、そこからは向こうでも流れていたジャズが流れてきていた。あと、部屋の隅の方に、グランドピアノが置かれていた。蓋は閉められたままになっていた。…いや、ついついピアノに目が行ってしまったが、他にもドラムなり何なりと、多種多様な楽器とアンプ類も置かれていた。
その様な空間の中で、テーブルの一つの方に固まって、既に男女数人が座っており、にこやかに談笑していた。
「よっ!みなさん、お揃いで」
聡は人懐っこい笑みを浮かべながら、一群に近づいて行った。ソファーに座った人々は、聡に各々会釈なり挨拶なりしていた。
と、聡はソファーの一番奥に座った、年配の老人に顔を向けると、深々とお辞儀して見せた。
「…先生、今晩は。今日はお早いですね?」
普段のキャラとはまた違う、控えめな調子で挨拶した。すると老人は柔和な笑みを浮かべると、口調をはっきりに応えた。
「まぁね。…今日は久しぶりに、君から義一君以来の新しい人を紹介して貰えるっていうんで、早めに来たんだ。…あっ、義一君」
「先生、今晩は。お元気そうで、何よりです」
声を掛けられた義一も、聡と同じように深々と頭を下げてから挨拶した。
老人は綺麗に剃り上げられた頭を掻きつつ、苦笑いを浮かべながら応えた。
「…何が元気なものかね?今日も体が痺れてるってんで、漢方治療を受けてからきたっていうのに」
「それでもこうして、お酒の席に出て来るというのは、元気な証拠ですよ」
聡はニヤケながら返した。老人はバツが悪そうに、また頭を掻くだけだった。義一も笑っている。老人は小柄だった。座っているので詳しくは分からなかったが、それでも隣に座る男性よりも、ひとまわりか小さく見えた。老人だからというだけではあるまい。ジャケットを身に付け、ネクタイを締めてはいたが、フォーマルな服装では無かった。いかにも普段着だという風に着こなしていた。年のせいか皺が深く刻まれていたが、目鼻立ちがくっきりしていて、若かった頃はモテたであろう顔立ちをしていた。
と、老人はふと、私の方に視線を流した。そして興味深げにジロジロ見てきながら、ボソッと聞いてきた。
「…で、そこに控えめに立っている可愛いお嬢さんは、どこのどなたかな?」
「あぁ、そうでした」
義一はそっと、私の背中を押して来たので、それにつられて何歩か前に出た。老人以外に、この場にいた他の人々にもジロジロ好奇の視線を向けられていた。私の一挙一動を見逃すまいとしているかの様だった。
「…琴音ちゃん、自己紹介して貰えるかな?」
義一が微笑みながらそう聞いてきたので、私はこくんと頷くと、ソファーに座る顔顔を見渡してから、自己紹介した。
「…私の名前は、望月琴音と言います。…えぇーっと…今晩は」
私は他に何を言えばいいのか分からなかったので、間を埋めるように取り敢えず挨拶をした。
「…へぇー、じゃああなた、義一君の娘?」
私の挨拶を聞いた直後、老人よりも少し離れた位置に座っていた、少しふっくらとした小柄な女性が、立っている私と義一を見比べつつ聞いてきた。
隣にいた義一は一瞬ポカーンと呆けていたが、すぐに大きく首を横に振り、苦笑まじりに答えていた。
「いやいやいやいや、違うよ美保子さん。この子は僕の姪っ子、僕の兄さんの一人娘さ」
「へぇー、姪っ子なの」
「…なーんだ、美保子さん。聞いてなかったのか?」
老人はテーブルに肘をつきながら、意地悪くニヤケつつ言った。
「聞いてませんよぉー。聡君は『誰か連れて来る』としか。…ねっ、百合子ちゃん?」
「…えぇ」
”美保子”と老人に呼ばれた女性は、隣に座る女性に声を掛けると、”百合子ちゃん”と呼ばれた女性は、チラッと私の事を見て、静かにオドオドしながら答えていた。
薄暗い照明の中でもはっきり分かる程に、美人だった。目はずっと薄めがちで鼻は小ぶり、透き通るほどの色白具合、いわゆる薄幸美人といった印象だった。彼女も座っていたので、はっきりと断言は出来ないが、おそらく私と同じくらいの背丈だろう。でも、身に纏っているオーラというのか、何だか実際の背丈以上に”大きく”見えた。口調も物静かで、態度もどこかオドオドしているので、普通は目立たない筈だったが、最初この部屋に入ってまず目に付いたのが彼女だった。でもこの時、何故こんなに彼女に目が奪われたのかすぐに分かった。それは彼女の身に纏っているオーラが、絵里に借りて見ている、白黒映画時代の女優達と全く同じだったからだ。
「えぇ、聞いてない筈です」
聡は横から入るように、老人に話しかけた。
「何故なら義一の姪っ子だというのは、先生にしか教えてないからです」
「あぁ、そうなのかい?なら仕方ないね」
「…そろそろさ」
老人が頷きながら答えていると、老人と薄幸美人の間に挟まれるように座っていた、黒シャツを、胸元のボタンをいくつか開けてだらしなく着ている男が、黒縁メガネをクイッと持ち上げつつ言った。歳はおそらく還暦を過ぎたところだろうが、妙に若々しい格好をしていた。
「そんな所に立ってないで、座ったらどうだい?」
「あぁ、そうだね。三人共、好きな所に、楽に座ってくれ」
「はい」
促されるままに、既に座っていた面々と向かい合うようにしながら、老人に近い方から、聡、義一、そして私の順に座った。私の向かいには、”美保子さん”と呼ばれていた小柄の膨よかな女性と、”百合子ちゃん”と呼ばれていた美人さんが座っていて、美保子はニコニコ笑いながら、百合子は無表情のままにこちらを見てきていた。
「…さてと」
私達が座ったのを確認すると、黒シャツはテーブルの上の卓上ベルをチリンと鳴らした。するとすぐに、先程私達が通った扉が開かれ、そこからカウンターにいた女性が笑顔で入ってきた。
「どうしました、先生方?」
「あぁ、とりあえず、さっき注文した飲み物を、そろそろ持ってきて貰おうかな?ねぇ、神谷さん?」
黒シャツの男は、老人に”神谷さん”と呼びながらお伺いを立てた。
「そうだねぇ。…じゃあマダム、今来た三人にも注文取ってくれるかい?」
「はい、分かりました。…はい、どうぞ」
マダムは後ろにずっと持っていたのだろう、メニューを開いて、こちらが見やすいように反転させながら渡してきた。聡がそれを受け取った。メニューの表紙は茶色の革張りだったが、何も書かれていなかった。
聡、義一とすぐに注文が決まり、最後は私の番となった。義一から渡されたメニューを見ると、お店の雰囲気で察せられたことだったが、載っているのはお酒の名前ばかりだった。
私がそれでも何とか、ノンアルコールのものを探していると、義一も察したのか、ゆっくりと私からメニューを取り上げつつ言った。
「…あっ、そうか。琴音ちゃん、ゴメンね?…マダムさん」
注文をずっと待っているマダムに振り返りつつ、申し訳無さそうに言った。マダムも『あっ』という表情を浮かべると、私に苦笑まじりに軽くお辞儀をしながら言った。
「…あっ、そうか、ゴメンねお嬢ちゃん。全部お酒のこのメニューじゃ、飲めるものないよね?今、”昼間”のメニューを取ってくるから、少しの間待ってて?」
「…え?」
マダムの言葉を聞いた面々は、私の顔を見つつ、驚きの声を漏らしていた。
「あ、はい」
私はそんな周りの反応を無視しつつそう答えると、マダムはニコッと笑いつつ早歩きで部屋を出て行った。そして一分とかからぬうちに、別のメニューを持ってきた。手渡されたメニューの表紙は抹茶色一色で、赤字で”数寄屋”と書かれていた。開いて見ると、飲み物は勿論のこと、サンドウィッチなどの軽食までが載っていた。本当によく見る喫茶店のメニューのようだった。色々ある中で、結局無難なアイスティーを頼むことにした。様々な種類のホットティーがあったが、周りがみんなお酒なのを考えて、自分だけが湯気の立つ飲み物では変だろうと、妙な気遣いをした結果でもあった。
「…はい、かしこまりました。ではみなさん、少しばかり待っていてね?」
マダムは私からメニューを受け取り、そう言うと、また一度笑みを浮かべてから部屋を出て行った。
マダムが出ていくのを見計らったかの様に、美保子が私に話しかけてきた。
「…あれ?あなた、お酒はダメな人?」
「…はい?」
あまりに想定外の質問が飛んで来たので、失礼ながらも気の抜けた返事をしてしまった。
「…ぷっ」
隣に座った義一は吹き出したかと思うと、少し愉快そうに、私の代わりに答えるのだった。
「いやいやいや。美保子さん、何を勘違いしてるか知らないけど、この子、琴音ちゃんはまだ中学一年生なんだよ」
「…え?」
また一同が私を一斉に凝視した。老人と聡だけはニヤケていたが、それ以外は呆け顔だ。
「…はぁー、見えないわね」
美保子は私に視線を向けながら、体を隣の百合子に寄せつつ言った。
「…えぇ」
話しかけられた百合子も、私を凝視しながら短く返していた。
「…ふーん、今時こんな子も、まだ居るんだなぁ」
黒シャツの男も、遠慮なく私に疑惑の視線を向けてきつつボヤいていた。
「…へぇー」
隣の方からふと声が聞こえたので、少し上体を前に倒して見ると、老人と聡の間に座っていた、ロマンスグレーの髪を真ん中で分けた、目が始終ぎょろぎょろ泳いでいるような、パッと見近寄りがたい雰囲気を持った男性がコチラを、これまた遠慮なく凝視してきていた。恐らく六十は越えているのだろうが、正直年齢不詳だった。さらに異様に映ったのは、この中で唯一の和服、着物を着ていたからだった。部屋に入って来たときは、ソファーの背もたれに体の大部分が隠れていたし、何だか初対面で周りをジロジロ見渡すのもなんだと思い、よく見ていなかったから気づかなかった。私は軽く会釈すると、また元どおりの体勢に戻した。
…ここまで聞いてくれた人は察してくれていると思うが、この集まりはかなり奇妙奇天烈なものだった。まず誰一人として、”普通”の雰囲気を持っている人がいなかった。
義一とはまた違った、得体のしれない異様な雰囲気を身に纏っていた。それぞれの主張激しいオーラが、この部屋の中で見えない形で鬩ぎ合っているかのようだった。でも場の雰囲気がピリピリしているわけでもなく、むしろこの場を流れる空気はかなり緩やかなものだった。 ”普通”の人から見たらどうかは知らないが、義一で慣れているせいか、居心地の良さのようなものを感じていた。少なくとも、お父さんに連れられて行った社交の場よりかは、比べ物にもならないほどだった。

しばらくして、部屋に男性とマダムが、トレイを乗せたカートを押しながら入ってきた。そこには多種多様な飲み物が乗っていた。まず男性とマダムが手分けして、各々の前にコースターを置いた。そして男性がトレイから、一番奥に座っている老人から順に、グラスに入った日本酒を、老人の右隣に座るロマンスグレーの男性、黒シャツの男性という順に置いていった。それを見たマダムは、美保子、百合子の順に、まず空のグラスを置き、カートの上からワインボトルを取り出すと、コルクを手慣れた手つきで開け、グラスに注ぎ入れたのだった。私は当然よく分からなかったが、その洗練された動きに見惚れて、事の次第を見つめていた。と、私の視線に気付いたマダムは、ボトルの口を整えながら微笑みかけていた。ふと隣を見ると、聡と義一の前には、既に冷えたビールジョッキが置かれていた。
「…はい、えぇーっと…琴音ちゃん、だよね?はい!どうぞー」
マダムは私の前にアイスティーを置きながら言った。
「あ、はい。有難うございます」
私が辞令的に頭を軽く下げると、マダムは一瞬キョトンとしていたが、途端に笑顔になり、首を横に振ってから、トレイの上を整理している男性に視線を流しつつ言った。
「うふふふ。お礼なら、あそこに居るマスターに言ってね?今の時間はお酒以外は出した事がないから、急だったんで準備してなかったんだけど、こうして作ってくれたんだからね」
マダムは最後にウィンクをくれた。このマダム…、見た目や口調のトーンなどから判断するに、冗談を言いそうにない感じだったが、意外におチャラけたキャラクターのようだった。
私は笑顔で頷くと、マスターの方に振り返り、微笑みつつ「有り難うございます。頂きます」と感謝の意を伝えた。マスターはこくんと小さく頷いただけだった。目元も変化は無かったが、ふと口元を見ると、若干口角が上に向いているようだった。どうやら微笑んでくれてるみたいだった。個人的な事で言えば、何だか律のことを思い出して、こんな所で感情を表に出さない人の感情の動きの察し方が生きるとは、思ってもみなかったので、一人で愉快な気持ちになっていた。

「…えぇー、ではみんな」
老人は着座のまま、手にグラスを持ちつつ、一同を見渡しつつ声を掛けた。
「今晩もよく集まってくれた。…まぁ、約一名まだ来てないようだが、あいつが遅れて来るのは、いつもの事だろう。いや、そんな事は置いといて、いつもなら何も言わず乾杯するのだが…」
老人はここまで言うと、ジッと私のことを見てきた。顔には微笑を湛えている。他のみんなも、釣られるようにしてこちらを見てきた。義一と聡までもだ。皆それぞれの思いを顔に出していた。老人は続けた。
「久しぶりに新しい人が来てくれたと言うんで、何か一言言おうと思ったが、何を言うんだったかなぁ…」
「…先生よぉ?」
老人が言い淀んでいると、黒シャツの男性が呆れ声を出しながら口を挟んだ。
「あんまり長いと、酒が不味くなっちまうぞ?」
「そうですよ、先生」
聡も乗っかった。老人は二人に一瞥を投げたが、不意に悪戯小僧宜しくニヤケ顔になった。
「…まぁ、そうだな。…では、新しい訪問者が、新しい同士になってくれる事を祈って…乾杯」
「かんぱーい」
老人の挨拶と共に、各人隣にいた人とグラスやジョッキを軽くぶつけ合った。私は義一と聡とぶつけ合ったが、ふと向かいに気配を感じたのでそちらを見ると、美保子がこちらに笑顔を向けてきながら、ワイングラスを差し出してきていた。遅れて百合子も、身を乗り出す様にして同じ様にグラスを向けてきていた。顔には微笑を湛えている。私は少し照れ臭くなったが、二人の好意に甘える様にしてグラスを当てた。それからは流れ作業の様にこなしていった。ふと背後に気配を感じたので、振り返り見ると、ロマンスグレーの男性がこちらを見下ろす様にして、何も言わずにジッと見つめていた。流石の私もびっくりして戸惑ったが、手に持ったグラスをゆっくりとした手つきで向けてきたので、私も笑顔を意識しつつ軽く当てた。
男性は満足そうに初めて目を細めると、何も言わずに席に戻って行った。
「…お嬢ちゃん、俺ともだ」
急に話しかけられたので、声の方を見ると、黒シャツの男性だった。私が部屋に来た時から、この男性は苦虫をかみ潰した様な表情で見てきたので、てっきり初対面から理由なく嫌われていたのかと思ったが、どうやらこの人の素の表情がそれらしい。これが分かるまで少し時間が掛かった。男性はわざわざ立ち上がると、バランスを保つため、テーブルに左手をつき、右手に持ったグラスをこちらに、目一杯腕を伸ばして向けてきた。私もその場で立ち上がり、グラスを同じ様に目一杯伸ばしてぶつけた。男性はニヤッと笑うと、満足そうに目を瞑りながら座った。私も同じく座ろうと思ったが、まだ奥の老人としていないことに気付き、義一と聡の前を失礼して、近寄って行った。
老人は丁度、美保子と百合子と順に乾杯していたところだった。そして二人が去った時を同じくして、私が老人の側まで寄った所だった。
老人は私に人懐っこい笑顔を向けながら、声を掛けてきた。
「…ようこそ、我々の集まりに」
と言いながら、グラスを軽く前に突き出してきたので、何て返せばいいのか迷ったが、
「…は、はい。…宜しくお願いします」
と言うと、コンっとガラスを当てたのだった。老人は何も言わずに、笑顔を絶やさずこちらを見つめてきていた。私は足元を注意する様に、下を見ながら元の席に戻るのだった。

「…さて」
老人は私が座ったのを確認すると、一同を見渡しつつ話しかけた。
「さっきも言ったが、今日は久し振りに新しい人を迎えたんだから、彼女に自己紹介をしていこうじゃないか。…誰からいこうか?」
「…それなら」
黒シャツの男性が私を見つつ言った。
「やはり、新顔からするのが筋でしょう?さっきは義一君の姪っ子としか、分からなかったし」
「ん、そうか…琴音ちゃん」
老人は柔和な笑みを浮かべつつ、私に声をかけてきた。
「そういう訳だから、一応君から自己紹介して貰えるかな?」
「は、はい。…えぇっとー」
私は一度軽く咳払いをしてから、着座の上で言った。 尤も、内容をわざわざここで話すほどの事はない。先程のマスターとマダムに義一が説明したような事を、少しだけ補足して紹介しただけだったからだ。
私が話している間、義一や聡まで含んで、一同が耳を澄ませて黙って聞いていた。ただ好奇な視線は一様に向けられていたが。
私が言い終え、その場で座ったまま軽く頭を下げると、早速向かいに座る美保子が、真ん丸な顔に笑顔を湛えながら話しかけてこようとしたが、老人にピタッと遮られた。
「…美保子さん、質問は我々が自己紹介してからにしよう。夜はまだまだ長いんだから」
老人は笑顔だ。
「…はーい」
美保子は頭の後ろに両腕を回しつつ、間延び気味に答えた。
そんな様子には気を止めずに、老人はまた一同を軽く見渡しながら言った。
「…さて、琴音ちゃんが若いにも関わらず、理路整然とした自己紹介をしてくれた訳だけれども、我々の中では誰からしようか?…あ、義一君と聡君は必要無いよね?」
「はい」
義一がすかさず答えた。
「…じゃあ、レディーファーストでいいんじゃないかな?」
黒シャツの男性が左隣に固まって座る、美保子と百合子を見つつ言った。
美保子は男にジト目を流しつつ、口調も不満げに返した。
「…ふん、なーにが”レディーファースト”ですか?都合の良い時だけ、そう言うんですからねぇー…まぁいっか!じゃあ百合子ちゃん、私からでいい?」
「…えぇ、構わないわ」
百合子は消え入りそうな声で応えた。それとは反対に、美保子は笑顔で大きく頷くと、向かいの私へ向きながら、陽気な調子で自己紹介をした。
「…ゴホンっ。私の名前は岸田美保子っていうの。”美保子”って呼んでね?」
「は、はい、美保子さん」
私は勢いに戸惑いつつ返した。初めて見た時から感じていたが、背丈は私より十センチ以上低そうに見えるのに、ふっくらしてるのもあるのだろうが、迫り来る様な威圧感があった。本人は始終笑顔でいるにも関わらずだ。口調の荒い黒シャツよりも、断然迫力があった。
私が名前を呼ぶと、「あははは!ヨロシクねぇー!」と、美保子は目の前にいる私に、まるで船を見送るかの様に大きく手を振っていた。
「美保子さんはね?」
ふと、隣に座る義一が話しかけてきた。
「今日はたまたま日本にいたから、この集まりに来れたんだ。…うーんっとねぇー…」
義一はここで一度区切ると、腕を組みつつ言い澱んでいた。…が、すぐに私と美保子を見比べる様にしてから、先を続けた。
「美保子さんはね、シカゴとニューヨークで活動している、ジャズシンガーなんだ」
「へぇー」
私は途端に美保子に興味を持ち、熱い視線を彼女に送った。
見つめられたのに照れたのか、美保子は少し決まりが悪そうにしつつ言った。
「…まぁねー。琴音ちゃん、あそこに楽器が色々とあるでしょ?」
美保子は私に顔を向けつつ、視線だけ先程話した部屋の奥に流した。
「あそこでね、興が乗ってきた時なんかは歌ったりするんだよ。…まぁ、この集まりで、私の歌う曲を演奏出来る人がいないから、私がヘボピアノを弾きつつ歌うんだ」
「へぇー」
私はいつだかの様に、簡単な相槌だけを打った。関心無いように見られないために、スパイスとして、笑顔だけは絶やさない様にした。
と、ここで、不意に義一が、私の背中に軽く手を触れると、美保子に向かって意気揚々と話しかけた。
「…そうだ!さっき琴音ちゃんは言わなかったけど、この子、めちゃくちゃピアノが上手いんだよ。ストレッチのいる様な協奏曲でもなんでも、軽々と弾きこなしちゃうんだから」
「ちょ、ちょっと義一さん!」
私は慌てて義一を窘めたが、遅かった。美保子の顔に、興味の色が強く出てきたからだ。
「へぇーー!…義一みたいな”粋人”が、身内とはいえ、そこまで褒めちぎるんだから、上手いんでしょうねぇー」
そう言う美保子の目は、どこか品定めをする様でもあったが、その目を途端に細めつつ、明るい笑顔を浮かべながら言った。
「じゃあさ!別に今日じゃなくても良いけど、お互いに興が乗った時に、あそこで二人で演奏しましょう?楽譜もあるし、協奏曲が弾けるくらいなら、簡単に一目でイケると思うし。きっと楽しいわよー?」
「…は、はい。…考えときます」
そう応じる私は、顔は正面に向けつつ、視線だけ隣の義一に向けていた。勿論非難めいた視線だ。肝心の当人は”気付かないフリ”をしていた。視線に気付いても、悪戯っぽく笑うだけだった。
「あははは!うん、考えといてねぇー!…さて次は」
美保子は、右隣に座る、チビチビと赤ワインを飲んでいた百合子に、ニヤニヤしながら声をかけた。
「お待ちかねの、百合子の番ね?」
「…誰が待ちかねてたのよ?…まぁ、いいや」
百合子は薄めがちの目を私に向けてきながら、自己紹介を始めた。
「…えぇっと…私は百合子、小林百合子っていうの。…うん、私の事はどうとでも呼んでくれて構わないのだけど、…うん、じゃあ美保子さんみたいに下の名前で呼んでね」
「…はい、拍手ーー!」
百合子が言い終えるのと同時に、美保子がそう言いながら、笑顔で拍手をし出したので、私を含む一同は、戸惑いつつも拍手をした。
「はいはい、お疲れーー!…琴音ちゃん、この子はね?」
美保子は百合子の肩に腕を回しつつ、声をかけてきた。当の百合子は、気にする風でもなく、またチビチビとワインを飲むのだった。
「実はね、こう見えて…っていうか、ある意味見たまんまかな?百合子ちゃんはねぇ…女優をしてるの」
「…へ?女優さんなの?」
私は思わず声を上げると、マジマジと改めて百合子の顔を見た。
…なるほど。先程見た目の印象は話したと思うが、女優をしているというのは至極納得出来ることだった。繰り返し言えば、百合子が身に纏っているオーラが、映画全盛期時代に活躍した、往年の大女優達と似通っていたからだ。よく見ると、目元には程よく涙袋が有り、それがまた色気にアクセントを入れていた。
前にも言ったが、私は正直、昔からだが全くテレビを見ないせいか、今時の流行りのタレントを誰一人として知らなかった。…あるとしても、紫などから雑誌を見せて貰ったりするだけで、その雑誌に載ってる人物の動いてる所を見たことが無かった。でも一つだけ確実に言えることがあった。それは、見せて貰った男女問わないタレント達には、どれもピンと来なかったことだ。色々異論はあろうけど、言わせてもらえれば、絵里に見せて貰った往年の女優達のプロマイドと比べると、あまりにも貧相なオーラしか纏っていなかった。…いや、そんなのでも纏っているのがマシなくらいだった。大半はそこら辺にいる”素人”と、見分けが付かない”一般人”ばかりだった。こう見えても私は、少しは空気が読めるから、紫達の会話に合わせていたけど、正直何でわざわざお金を出してまで、”素人”のやる事を、見たり聞いたりするのか不思議でしょうがなかった。
…いや、話を戻そう。変に通ぶって恥ずかしい限りだが、恥を忍んで言わせて頂ければ、百合子は今時のどんな女優と比べても、”良い意味”で異色だった。私は初めて、”今生きている”女優に対して興味を持った。
「…琴音ちゃん、悪いんだけど…」
百合子は、この薄暗い明かりの下でも分かる程に、ほんのりホッペを赤らめつつ言った。
「…そんなに見つめられたら、流石の私も照れて困るわ」
「…あっ、ごめんなさい」
と私が素直に謝ると、百合子は口元をフッと緩ませた。演技では無い、自然な”微笑”だった。
私はドキッとした。勿論その色気満載の微笑に対してだったが、もう一つ理由があった。
それは義一の事だった。前に絵里が話してくれた義一のタイプ、”色気のある女性”、百合子がズバリそれじゃないかと思ったからだ。余計な気を回していることは重々承知だったが、私は恐る恐る、チラッと義一の方を見た。義一は、百合子と美保子の方を、微笑ましげに見ていたが、それは普段と変わらぬものだった。
私が一人頭を軽く振っていると、ふと黒シャツが話しかけてきた。
「…お嬢ちゃん、コイツを侮っちゃあいけねぇぜ?今の姿だけを見てな」
「…え?い、いやぁ、私は…」
急に何を言い出すんだろうと、私がドギマギしていると、
「…ちょっとマサさん?琴音ちゃんはそんな事、一言も言ってませんけどー?」
と美保子が、間に挟まっていた百合子越しに、男に声を掛けた。さっきと同じジト目だ。
だが”マサさん”と呼ばれた男は、美保子を相手にせず、そのまま私に話を続けた。
「コイツをお嬢ちゃんは知らねぇかなぁ?いっ時は、端役だがテレビドラマを中心に出たり、CMにも出てたりしてたんだけどよ?」
…端役?百合子さんが?こんなに存在感を持ってるのに?
私は信じられないと、”マサさん”には目をくれず、百合子の方に視線を向けた。当の百合子は、私と視線が合うと、少し照れ臭そうに苦笑するだけだった。
私はマサさんに視線を戻しつつ、ボソッと言った。
「…そうだったんですか?もし見た事があったら、百合子さんの事は忘れられないと思いますけど」
「…!ちょ、ちょっと、琴音ちゃん!」
と、急に聞き覚えのない大きな声がしたので、思わずその方を見ると、何と百合子だった。
…いや、”何と”と思うのが間違いなのだろう。当たり前だ、何せ彼女は女優なのだから、今までの会話してた様な声量じゃ、流石にいくら上質なオーラを持っていても、演技にならないだろう。
百合子は戸惑いの表情を浮かべていたが、面白い程に、急に先程までの薄幸な表情に戻ると、
「…そう言ってくれて嬉しいんだけど、目の前で衒いもなく言われると…照れるわ」
と言いつつ、最後には朗らかな笑みを見せた。今度は私の方がどう反応をしたら良いのかと困っていると、
「…あははは!しょうがないよ、マサさん」
と、義一の明るい笑い声に、空気を切られてしまった。まぁ助かったから良しとした。
「ん?どういう事だよ?」
「それはねぇ…」
義一は先を言う前に、『自分で言うかい?』的な視線を向けてきた。すぐに察した私は、何も言わずに頭を横に振るだけだった。
そんな私の様子を見て、義一は一度私に微笑みかけると、マサさんに向き直り先を続けてた。
「だってそもそも、琴音ちゃんは全くテレビを見ないんだよ。いつもピアノの練習をしているか、そうじゃなきゃ僕の所から借りた本を読んだり、白黒時代を含む古い映画を見たりしてるんだから」
「…へぇー」
と反応したのは、何と聡を除く全員だった。そして一同がまた、私に視線を集中させた。私は訳が分からず、縮こまる他に無かった。
「そうなんだぁー…変わってるねぇ」
美保子があっけらかんとした調子で言った。
「…えぇ、私達も他人のことを言えないけど」
続けて百合子も、私に微笑みかけてきながら言った。
「…なるほどなぁー。でも、そっかぁ」
マサは腕組みつつ、うんうん頷いていたが、腕を解くと先程の体勢に戻してから続けた。
「それなら百合子のことを知らなくて当然だなぁ。…しつこい様だが、舞台上でのコイツは凄いぞ?」
マサはそう言うと、隣に座る百合子の肩に腕を回した。百合子は拒むのでもなく、そのままにしている。
私はこの様子を見た時も若干ギョッとしたが、それ以前からマサの百合子に対する態度に違和を感じていた。ここまで聞いてくれた人なら分かると思うが、マサの百合子に対する態度が、あまりに近い様に見えたからだ。”コイツ”呼ばわりをしていたり、また当の百合子が、それを難なく受け入れている様だった。これを見て、この二人に何かあるんじゃないかと、邪推しない方が無理ってもんだ。
そんな考えが頭を過ぎっていたが、そんなの関係なしに、マサは話を続けた。
「その変貌ぶりには、共演者や演出者、終いにゃ脚本、監督までもが度胆を抜かれるんだから」
マサは顎をさすりながら、しみじみと言った。
「お嬢ちゃんは分かるかなー…舞台前に稽古をするんだが、そん時に”本読み”ってのをやるんだ。コイツがそうさなぁー…なぁ、俺達が初めて会ったのって、お前が幾つの時だっけか?」
「え?…あ、はい…そうですねぇー」
不意に声を掛けられた百合子は、人差し指を顎に当てつつ、視線を天井に流しながら考えていたが、
「…確かアレが私の初舞台でしたから、十五歳くらいだったと思いますねぇ…今からもう二十五年前にもなりますか」
と、マサに視線を戻してから答えた。
…え?二十五年前?…って事は…。
私はまた、百合子の容姿をジロジロ眺めてしまった。そしてポロっと、思ったことをつい口走ってしまった。
「…あれ?って事は、百合子さんって今、…丁度四十歳なの?」
「…え?」
私の言葉に反応した百合子は、私の前で初めて大きく目を見開いた。やはり、私の見立て通り、見開いた目はとても大きかった。
いや、そんな事はともかく、私自身も言ってしまった直後に、後悔した。いくら私でも、女性に年齢の話を、不躾に聞いて良い事じゃないのは、世間の常識として知っていたからだ。
私は百合子の視線に耐えられなくなって、スッと逸らすと、気付けば一同が私にことを凝視していた。義一と聡までもだ。私は目のやり場に困り、終いには軽く俯いてしまったが、その直後、向かいの席からクスクス笑い声が聞こえてきた。私がその笑いの主を見ようと顔を上げると、何とその主は百合子だった。そしてそれを合図にするかの様に、その場の一同もクスクスと笑い出すのだった。私一人が、何事かと呆けていた。
百合子は軽く握った手の甲を、口元に軽く当てながら、少し顔を逸らし気味に笑っていた。
と、私の視線に気付いた百合子は、私に初めて柔和な笑顔を見せてきながら言った。
「…ふふふ、そうよ、今年で四十になったの。結構おばさんでしょ?」
「…え?あ、い、いえ!全然!全くそうは見えませんよ!」
私はまさかの反応にしどろもどろだった。よく近所のおばさんなどが、この手の返しをしていたが、それは自虐に見せかけた、上辺だけの事で、その言葉からは、本心では無いと言うメッセージが見え隠れしていたが、百合子さんのそれは違っていた。あくまで自然体だった。嫌味も衒いもなかった。
「…ふふ、ありがとう」
百合子は両目を静かに細めつつ、笑顔で言った。
「…ふふ、そうねぇ」
隣でにこやかに、私達二人のやりとりを見ていた美保子が口を開いた。
「百合子ちゃんも今年で四十かぁー…。私も歳を取るわけだわ」
「…ふふ、まぁ美保子さんと私はそんなに歳が違わないけどね?確か…四つ上でしょ?」
百合子はまた、私の見たことの無い、悪戯っぽい表情を浮かべながら美保子に言った。
「そうよぉー?」
そう答えた美保子は、何故かふくよかな胸を大きく前にせり出させながら、誇らしげにしていた。
「もうね、やーーっと四十代に成れたから、ここ数年嬉しくて楽しくてしょうが無いのよ!思った通り、今が一番充実してるしね」
「ふふふ、美保子さん昔から言ってたものね?」
「…え?どういうこと?」
私はまた、ふと思った疑問を、そのまま口から滑らせてしまった。しかもほぼ初対面の相手に対して、タメ口でだ。…我ながら、締まりの無い口で辟易とする。呆れるしかないが、言ってしまったものはしょうがない、”なんでちゃん”をコントロールしきれていない私は、取り敢えず空気を読まずに質問をぶつける他無いのだ。またあくまで直感だったが、普段の”普通”の人付き合いと違って、この場なら”なんでちゃん”でいても、許されそうな雰囲気を感じた。普段何とか抑えられているのも、私の意志の力が強いと言うよりかは、周りの環境に影響されているからなのだと、この頃くらいから自覚し始めていた。
そんな事はともかく、先ほどの例もあったので、変に萎縮することも無いだろうと、質問後も二人の顔を直視していた。
すると、美保子と百合子は一度顔を見合わせると、ニコッと一度笑い合い、また私に顔を向けると、笑顔のまま美保子が私に語りかけてきた。二人共、タメ口の私の馴れ馴れしさに、嫌な顔を一つ見せなかった。
「…ふふ、それはねー、こういうことなの。…これは私の持論なんだけどね?」
「うん」
私は気持ち前に体を倒しながら聞いた。美保子は一度ワインで口を濡らすと、先を続けた。
「同じ芸をしている琴音ちゃんにも、良かったら参考にして貰いたいけど…こうなの。結論から言うとね?芸というのは恐らく、四十を越えだしてからやっと円熟してくる様なものだと思うの。これは私や琴音ちゃんに関係してる音楽だけじゃなく、絵画や彫刻…それに演劇にしてもね?」
そう言うと、美保子はまた先程のように、百合子の肩に腕を回した。百合子は笑顔でチラッと美保子の顔を見ると、味わうようにワインを飲んでいた。
美保子はゆっくりと百合子から離れると、また先を続けた。
「もちろんね、四十というのは、あくまで参考ではあるんだよ?まぁ付け加えればね、大体遅くても十代のうちから芸事を始めたとして、その一芸を毎日毎日鍛錬を欠かさず積んでこれたとしたら、初めて四十になって円熟期に入れるって思うの。…あっ、勿論、円熟期に入ったからって、もう鍛錬しなくて良いという訳じゃなくて、今まで通り、日々休まずに続けなくちゃいけないんだけど、前よりかは充実感を感じられるようになってるから、以前よりかは苦痛じゃなくなってるのよ」
美保子はそう言い切ると、私に一度ウィンクをして見せてから、ワインを一口飲んだ。
「…なるほど。…美保子さんの言いたい事は、初めて聞いたのに素直に理解出来たけど、それでも他に何か裏付けがあるんでしょ?」
私も美保子に倣って、アイスティーをストローからチビっと啜ってから聞いた。もうすっかり調子に乗って、タメ口が常習化していた。
「…ふふ」
美保子はプッと軽く吹き出してから、クスクス笑うと言った。
「琴音ちゃん、あなた、まだ中学に入りたての年齢なのに、随分小難しく、ややこしい言い回しをするんだねぇ。まるで…」
美保子はチラッと、視線を義一に逸らしながら言った。
「どっかの誰かさんみたいだわ」
そう言われた当人は、愉快げにニヤケているだけだった。
これ以上からかってても意味無いと、一方的に打ち切ると、美保子はまた視線を私に戻し、先程の問いに答えた。
「えぇっと…そうそう、裏付けがあるかって質問だったよね?…うんっ!勿論、あるよー」
美保子はとても楽しそうにしていた。
「まぁさっきも言ったように、全てに当てはまるわけでは無いけどね、少なくとも二十世紀に入ってから活躍した偉人達は大体ね、三十代までを四苦八苦しながらもがき苦しみ抜いて、それで四十になってから、深みのある作品を作り上げていたのよ。それこそ、琴音ちゃんの浸かっているクラシックでも、また私のいるジャズ界でも、…まぁジャンル分けなんかする事自体、私は大反対なんだけど、まぁ総じてそんな感じなのよね」
「へぇー…あっ!」
私は美保子の話に納得しかけたが、ふとある事実を思い出したので、そのことについて意見を聞いて見ることにした。
「でも美保子さん?」
「ん?何かな、琴音ちゃん?」
私が質問してきたのを、心から歓迎するかのように、笑顔で返してきた。
私はカバンからメモ帳を出したい欲求に駆られたが、少し不躾だと思い、頭の中で必死に整理しつつ聞いた。
「えぇっと…うん、さっきも言ったように、美保子さんの意見には、概ね賛成なんだけど…そうそう、ジャンル分けをして、徒にその間に溝を作ることに対する意見にもね」
「…ふふ、私の意見に、あなたの意見を加えてくれて有難う」
美保子は興味が湧いてくるのを、隠そうともしないで、表情柔らかく先を促した。
「う、うん。…私は何となく理由は分かってはいるんだけど、ただ言葉にして説明出来ないの。…それはね、例えばモーツアルトがいるでしょう?確かモーツアルトは三十五歳で亡くなってるよね?美保子さんの説にはちゃんと”二十世紀では”って入っているから、”十八世紀”に生きていたモーツァルトを持ち出すのは厳密には当然違うんだけれど、これは一つの興味として、もし美保子さんが、『四十に入る前に、彼があれ程の曲を生み出せたのは何故だ?』って仮に聞かれたとしたら、なんて答える?」
私の質問している間、気付くと一同が私達二人の様子を静かに見守っていた。話を途中で切られた形のマサさんまでもが、興味深げに、時折頷いたりしながら聞いていた。
質問を聞き終えると、てっきり少しは悩むのかと思っていたが、美保子は途端にニヤニヤしつつも、私に感嘆の意を示してきながら言った。
「…へぇー、流石、義一君と聡君が連れて来ただけの事はあるねぇ。この歳で、キチンと自分の感じた疑問点を、己の持ってる知識で補い整理してから、改めて相手に疑問をぶつけるなんて、しかも歳の離れた相手に堂々とやれるとは…中々出来る事じゃないよ?」
「…」
私は不意に褒められたので、少し照れつつ、軽く俯きながらうなじ辺りを手で撫でていた。直接は見ていなかったが、この場にいたみんなも、軽く頷いたりしながら、美保子の意見に同意の意を示しているのが、気配で感じられた。
照れている私を他所に、美保子はそのまま私の質問に答えるのだった。
「…うん、確かに、分かりやすいところで言えば、モーツァルト。…彼は確かに三十五で亡くなっているよね?でも、琴音ちゃんは言わなかったけど、あれ程のクオリティーの高い曲を、この世に送り出している。…今あなたが補足してくれたけど、あえてまた言えば、確かに私は二十世紀に限定して言ったわ。…勿論これは、今、つまり二十一世紀にも当てはまるって事。では、それ以前は?十九世紀の所謂”ロマン派”の時代、十八世紀の、モーツァルトや、それだけじゃなく、ハイドン、ベートーヴェンなどが活躍していた”ウィーン古典派”の時代…当然もっと順に遡っていけば、大バッハまでの”バロック”、それ以前にもどんどん遡れるわけだけれど、これ以上はキリがないから割愛するとして、…そうねぇ、…琴音ちゃん?」
美保子はツラツラと以上の事を言いながら、思い出すように顔を斜め上に上げていた。
間に挟んで、今の話を聞いていた私の感想を言えば、素直に感心していた。
美保子自身が言っていた、ジャンル分けをする事自体に疑問を持っている事、それをただの”疑問”で終わらせるような真似はせず、口先だけではなく、ジャズの世界に身を置きつつも、己の信念通りに他ジャンルの方面にも、しっかりと視野を広げていたからだ。これは口で言うほど簡単な事ではない。私としては、普段は何と無く意識に上らないレベルで感じていた疑問を、今日こうして明らかにされた、これだけでも大収穫だったが、合ってるかどうかは分からない…いや、そもそも”答え”があるのかすら疑わしい大問題を、普段から不断に悩み続けているからこそ、こうして私からの急な質問にも、途端に返す事が出来る、その美保子の、有言実行な姿勢を垣間見れたのにも感心していた。
私はそんな想いを心に秘めつつも、真っ直ぐな視線を美保子に送っていた。
美保子は不意に、右手でピースサインを作って見せつつ、先を続けた。
「…この話をする上で、二つ大事な論点があると思うの…って、そうだ、先生?」
これから核心部に入ろうって時に、美保子は急に話を打ち切ると、老人の方を見ながら、若干苦笑まじりに聞いた。
「…そういえば、すいませーん。今ってただの自己紹介をしましょうって事でしたよね?…琴音ちゃんのせいにするのも何だけど…」
美保子は私に、悪戯をした後のような、気恥ずかしそうな笑みを向けていた。
そしてまた老人に顔を向き直しつつ、続けた。
「この子があまりにも的確で、痒い所に手が届く様な質問をしてくれたものだから、空気を読まずに持論を展開してしまいました。…しかも、まだ途中なんですが…どうしましょ?」
美保子はそう言い終えると、控えめに舌をベーっと出して見せた。
美保子からの言い訳を聞いた老人は、すぐに笑顔になりながら、愉快だという調子で返した。
「いやいやいやいや、美保子さん。確かに今は自己紹介って話だったし、美保子さんの芸談は、これまでも何度か興味深く聞かせて貰っていたけど、最近は聞いてなかったから、これを機会に、そのまま話を続けてくれるかい?」
「あ、はい…でもー」
美保子は老人にそう言われ、ホッとした様な表情を浮かめていたが、
「先生を含めて、まだマサさんと、勲さんの紹介がまだなのに…」
と、マサさんと、着物の男に視線を向けつつ言った。
「…俺?あぁ、俺はまだ良いよ。というより、俺の話が途中で切られた形になっちまったが、面白い話を聞かせて貰っているからよ、ここまで来たら最後まで話してくれ。…なっ、勲さん?」
「…うん、二人共」
”勲さん”と呼ばれた着物の男性は、少し前に乗り出しながら、私と美保子さんを交互に見つつ言った。
「…そのまま話を続けて」
そう短く言うと、また元の体勢に戻った。
「…という訳だから、二人共、そのまま議論を続けてよ」
老人は両隣の男性陣を見てから、陽気な調子で言った。
美保子は少し恐縮しつつも、笑顔で軽く、老人やマサさん、勲さんに会釈をしてから、私に改めて顔を戻すと、先を続けた。
「ではお言葉に甘えて。…ゴホン、では琴音ちゃん、あなたに質問されたから、私なりの考えを披露するとね、さっきの続きだけれど、二つの視点から考えられると思うのね?」
「うん」
私は早く先を聞きたい一心で、余計な相槌は打つまいと、短く返したのだった。
美保子は続けた。
「まず一番分かりやすい点から。…琴音ちゃんは既に先程の口ぶりから見ると、もう知ってるみたいだけど、敢えて確認の為に言えば、モーツァルトはもう…それこそ、物心がつく前からチェンバロを弾き始めていたよね?」
「うん」
「それが確か三歳くらい…で、五歳の頃にして、初めて作曲までしていた…」
「…うん、アンダンテ Cメジャーだったよね?…この時は確か、お父さんが楽譜に起こしたはずだけど」
「…」
私がそう言うと、美保子は大きく目を見開いて、こちらを凝視してきた。大袈裟でもなんでもなく、心底驚いている様子だった。
そして美保子は、ため息交じりに私に声をかけた。
「…いやいや、琴音ちゃん、あなたは本当に心から音楽が好きなんだねぇー。…知識の量だけでは測れないけれども、それでもこうした何気無い会話の中で、パッとそういう知識を思い出せるというのは、誤魔化しようのない証拠だと思うよ」
「え、あ、い、いやいや!…美保子さん、私のことはどうでも良いから、早く先を続けて?」
私は相変わらず、褒められることに耐性がまるで出来ていなかったので、早く逃れたいが為に、無理やり話を戻す様に仕向けた。
美保子は、そんな私のあたふたしている様子を微笑ましく見てから、また先を続けた。
「あははは。…うん、でね、まずこの幼少期から才能を徐々に開かせて言った訳だけれども、…これは琴音ちゃんも知ってる様に、一重に、ザルツブルクの宮廷作曲家で、かつヴァイオリニストだった、父、レオポルト・モーツァルトの教育のお陰でもあった訳だよ」
「…うん、我が子アマデウスの為に、ヴァイオリン奏法って名前の理論書を書いているくらいだもの」
私はまた、美保子にあれこれ言われるだろう事を恐れていたが、知っているだけの知識は全部話してしまいたいという悪い癖が抑えられず、ついつい又、口を挟んでしまった。
ここでまた、私の事を話させて頂くと、今言ったレオポルトの本、実は私は既に読んだ事があった。勿論それは、師匠経由でだ。
先程、美保子に感心したという文脈で、芸談がどうのという話をしたと思うが、当然師匠とも、それこそ数え切れない程に芸談をした事はあった。あの昼の中休みの時にだ。ただ師匠との会話というのは、いわゆる”音楽”に限定されたもので、”芸”そのもの、本質に関してというものでは無かった。でもここで慌てて付け加えさせて貰えれば、何も師匠が細かい些細な問題ばかりに目がいく様な、近視眼的な人間と言いたいわけでは無い。師匠がこうした、本質的な話をしてこなかったのは、私が思うに、まず基本的な技術を身に付けなければならない間は、そういった話をするには時期尚早と考えての事だと推測している。
それはともかく、受験が終わった辺りから、私は意識的に、ピアノのレッスンに益々打ち込み出した訳だが、あらかたの課題曲を弾き終えたくらいから、師匠がこの様な本を貸してくれる様になっていった。つまり、繰り返して言えば、師匠が私に貸し与えてくれていたのだ。ただ、まだ未熟の私には、エッセイや日記、書簡なら兎も角、古来から受け継がれてきた様な、珠玉の芸の極致が記されているような本を読み切るのは難しすぎたので、それらについては師匠が色々と優しく解きほぐす様な、事細やかで分かりやすい注釈の書かれたメモ用紙を、ページの間々に挟んで入れてくれていた。お陰で何とか読破することが出来たのだ。
因みに、レオポルトのだけではなく、これまでも、大バッハの次男坊…実際は三男らしいが、”ベルリン、ハンブルクのバッハ”と称される、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの『正しいクラヴィーア奏法』、かのフリードリッヒ大王のフルート教師として有名な、ヨハン ヨアヒム クヴァンツの『フルート奏法』、バロック期のフランスの作曲家、フランソワ・クープランの『クラブサン奏法』を読み終えていた。今は進行形で、一気に時代が遡り、アリストテレスの門弟であった、アリストクセノスの『ハルモニア原論』を、勿論師匠の注釈付きで読んでいる所だった。
当たり前の事を繰り返すようだが、これらの本は、全て師匠の蔵書だった。私への注釈もそうだったが、それ以前から、ページの余白に、師匠のものらしき書き込みがあちこちに散見された。つまり、師匠も修行時代に、今私が読んでいる本を、丹念に読み込んでいたという訳だ。そんな努力の跡に対し、師匠は「汚くてごめんね?」と照れ臭そうに笑いながら言っていたが、私としては、尊敬する師匠がこんだけ努力をしたんだというのを、肌身に感じることが出来て、見る度にヤル気を湧き上がらせてくれていた。
と、ここまで話が長くて恐縮だが、中にはこうおっしゃる方もいると思う。『何でピアノを弾いているお前が、他ジャンルの本をそんなに読む必要があるんだ?もっと他に、やることがあるんじゃないか』と。こういった意見は一般論としてあろうけれども、ここまでの話を慎重に聞いてくれた方には、私がどう返したいかは、簡単に推測できると思う。
そう、それは美保子との話にも関連してくる訳だが、つまりこうだ。『そもそもジャンル分けをすること自体が、馬鹿らしい。一つの事だけを、他の事には一切目をくれずにやろうとすれば、必ずどこかで限界が来る。深く掘り下げて行こうとする為には、道具がいる。その道具というのは、掘り下げて行こうとするモノ自体ではない。その他の、一見何の関係も無いような、他ジャンルの中にこそ、転がっているものだ』という事だ。これは、私が若干脚色しているが、この言葉は実は、師匠が以前に私に話してくれたことだった。ある意味、師匠が話してくれた、唯一と言っていい”本質的な芸”についての話とも言える。
と、ここで、初めて聞いた人には、反発を買うかも知れない。『そんなこと言ったって、”広く浅く”よりも、”狭く深く”がいいに決まっている。限界が有ろうと無かろうと、”専門家””スペシャリスト”でなければ、いかんじゃないか』と、私の話を理解せぬまま、ツッコミを入れてくる方もいようと思う。ではこの話は、ある戦後日本を代表する哲学者の言葉を引用して、失礼しようと思う。
『広く浅い知識がなければ、深く一つのことを知れない』


話を戻そう。美保子もしつこく何度も言及することも無いかと思ったのか、私に一度大きく笑うと、そのまま先を続けた。
「うんうん、そう、その通り!だからモーツアルトは、お父さんからの英才教育の元、メキメキと実力を蓄えていった訳よね?勿論、彼自身に才能がなければ、無理な話だけれど。…まぁ、一つ目についての結論めいたことを言えば、古の偉人達というのは、大方、英才教育を受けてきたか、そうでなきゃ、大バッハと同時代のヘンデル、時代が後だけどワーグナーみたいに、己自身を教師に見立てて、妥協をしないで独学で努力し続けてきた訳だけど、だからこそ早い時期に円熟に達することが出来たと言えると思うの。…一つ目の理由としては、これで終わりだけれど、取り敢えずは納得してくれたかな?」
美保子がそう聞いてきたので、私はすぐに大きく頷いてから、
「うん、それに関しては、異論は無いよ」
と笑みを浮かべつつ返した。美保子は私の反応に、満足そうに微笑んでいた。
「それで、もう一つというのは何なの?」
私はすかさず、質問を続けた。
すると、美保子の方でも待ってましたと言わんばかりに、即座に答えてきたのだった。
「うん、もう一つというのはねぇ…当然全ての話は繋がっているから、一つ目の理由と関連しているのだけれど、それはねぇ…一口に言ってしまえば、”時代”という事になると思うの」
「時代…」
「そう、時代…」
美保子はここで、話っぱなしで乾いた喉を潤すように、ワインを一口啜ると、先を続けた。
「十九世紀までというのは、琴音ちゃんも義一君から借りた本なんかで知ってると思うけど、ずっと当時の人々のすぐ側には、いつでも”死”が横たわっていたよね?まず生まれて来るまでが命懸けだし、生まれてからも、今と違って劣悪な環境下で、幼い頃に命を落とすなんてことは、ざらにあった訳でしょ?モーツァルトは確か、七番目の末っ子だったはずだけど、上の兄弟の五人は幼児期に亡くなってしまって、残ったのは姉一人だった。…そんな中、人々はいつでも、嫌でも死を意識しながら、生きていかなければならなかった」
…前に義一さんや、絵里さんと話したのと同じ話だ。
私はその時の情景を思い出しながら、美保子の話を聞いていた。
「察しの良いあなたなら、もう、私が何が言いたいか分かると思うけど、つまりこういう事なの」
とここで言葉を切ると、一度溜めて見せてから、静かに先を述べた。
「…確かに今、特に二十世紀以降の大戦後の世界は、大きな戦争もなく、途上国などでは餓死や何やらと問題は山積みだけれど、先進国は命の危険という意味では緩和されているよね?でもね、そのお陰で、誰も普段の生活の中で、死を認識出来なくなっちゃっているの。…するとどうなると思う?」
「…死を普段から考えない人は、何か一つのことに対して、真摯に努力しなくなっちゃうと思う。…だって、別に”今”何か必死に努力しようとしなくても、明日になったらやれば良いや…いや、明日やらなくても来週、いや来年、いやもっと先って、呑気に惰性に”ただ”生きてく他に無くなっちゃうから。…だって、まさか明日死ぬなんて、その人達は思っても見ないんだから」
話を振られたと思ったので、私はすかさず、過去での義一と絵里との話を思い出しつつ、私見を織り交ぜながら、慎重にゆっくりと言葉を紡いだ。その間、一同は真剣な面持ちで、私の事を凝視していた。どちらかというと、見守っていると言うより、品定めをしているような視線だった。当然向けられた私としては、居心地が決して良くはなかったが、それでも何とか言いきった。
それからほんの数秒だろうか、スピーカーから鳴っていたジャズの音色が、遠のくような錯覚に陥っていたが、フッと表情を和らげたかと思うと、美保子が口を切った。
「…ふふ、まさしくその通り。よくその歳で、そこまで死のことを認識し、考えられたね」
「え、あ、いやぁ…」
私一人では無い、この場で言えば、義一との会話のお陰だと返したかったが、ふと覗き見るように義一を見ると、義一の方もこちらを見てきたが、その顔は何も言わなくて良いよと言いたげな、柔和な微笑を浮かべていた。周りを見渡すと、一同が一人残らず私に、義一と同じような優しい微笑みを送ってくれていた。
「そう、いや、今の世に生きていたって、死を認識して生きていく事は可能だけれど、それはかなりの労力を要する。…外からの要因に頼れれば、それが一番楽で良い方法なのだけれど、そうもいかないとすれば、自分で自分を追い込む他に無くなる。…でもこれは、口でいうのは簡単だけれど、いざやろうとすると、とても一筋縄では行かない。…だって、外的なものだったら、耐え切れなくなったら逃げれば済む話だけれど、内的要因、つまり自分からは、どうやったって逃げる事は出来ない」
「うん…」
私は囁くように、同意の声を出した。
「…でもまぁ」
美保子は、先程までの緊張感あふれる声のトーンを変えて、あっけらかんとした、自己紹介をしていた時のような口調に、途端に戻すと、苦笑まじりに言った。
「それを呪っても仕方ないしねぇー…、そんな世の中に生まれてしまったんだから、取り敢えず嫌々ながらも、己を自ら追い込みつつ、技芸を磨いていくしか無いんだよねぇー」
「…はい、私もそうしたいと思っています」
私は真剣さを見せようと、後で少し小賢しかったかと思ったが、丁寧語を使いつつ、美保子の顔を真っ直ぐ見て返した。
そんな私の様子を見て、美保子も、ついでに視界に入っていた百合子の目も大きく見開かれていたが、二人ともほぼ同時に目元を緩ませたかと思うと、美保子が微笑を浮かべつつ言った。
「…ふふ、まぁ取り敢えず、『何故昔の、名の残る偉人の成熟が早くて、現代の芸を志す者の成熟が遅いか?』問題は、これで一応収束を見たという事で…琴音ちゃん含めて、みんなも良いかな?」
美保子はそう話を結ぶと、一同を一通り見渡した。
すると、今まで美保子の隣で、黙って聞いていた百合子が、微笑を湛えつつ発言した。
「…ふふ、久しぶりとは言え、美保子さんの芸についての認識は、枝葉の違いはあっても、本質的な、根っこの部分では、この集まりに来るような人たちの間では、共通の認識だと思うよ?…今回初めて来た琴音ちゃんが、賛同してくれるかどうか 、それに掛かってるんじゃないかな?」
百合子はそう言うと、私の方を向いて、ニコッと柔らかく微笑んできたのだった。
百合子は先程来ずっと、声を上げるほどではないにしても、笑顔を見せることが多くなっていた。尤も、ずっと”芸”についての話題が続いていたからかも分からない。
私はそんな百合子の様子を見て、美保子ほど多弁では無いにしても、心の奥には、芸に対する情熱の炎を、密やかに燃え上がらせているのを感じ取れた。
「…そうだな」
百合子に続くように、今度はマサさんが声を立てた。
「ここに集まる奴等ってのは、各々身を置いている世界は違っても、”芸”と言う点においては同じにしてるからな。…あ、そうそう」
マサさんは大袈裟にハッとして見せると、私に悪戯っぽい笑みを向けてきながら言った。
「申し遅れたな。俺の名前は石橋正良。たまに映画を撮ったりしているが、本業は脚本家だ。今までを見てればわかるだろうが、俺は人から”マサさん”って呼ばれている。…だからお嬢ちゃん、お前も俺の事を、マサさんって呼んでくれな?外でなら良いんだが、この空間で、”石橋さん”とかみたいに、他人行儀に言われると、違和感しか感じないからさ。よろしく頼むよ」
「は、はい。…マサさん」
急に馴れ馴れしく言うのもなんだと思ったが、本人立っての希望とあれば仕方ない。私はそう呼ぶと、今まで不機嫌そうな表情だったのが、クシャッと顔のシワを寄せるような、好々爺の笑みを一瞬見せてきた。
そしてその後すぐに不機嫌そうな表情に戻したが、正直やっと、マサの雰囲気に慣れてきた。先程も言ったが、どこか他人を値踏みするかのような視線を、ずっと向けてきていたので、初対面の人に向けるようなものかと、正直内心イライラしていたが、こうして向こうが心を開いてくれると、中々にあのべらんめぇ口調が、こちらの緊張を緩ませるのに貢献しているのに気づいた。
「…あれ?って事は…」
私は不意にある事に気付き、顔はマサさんに向けたまま、視線を百合子に向けつつ聞いた。
「百合子さんと、マサさんって何か関係が?」
「…ん?」
マサは一瞬あっけに取られたような反応を示したが、ふと隣に座る百合子の方を向いた。百合子の方でもキョトンと私の方を見ていたが、ほぼ同時にマサの方を向いたので、二人は向かい合う形になった。と、不意にマサがクスッと笑うと、私に顔を戻しつつ答えた。百合子も微笑ましげに私を見てきていた。
「あははは!まぁ、普通に考えて、同じ場に、脚本家と役者が居れば、何か関係があるように思うのは当然の事だな。俺と百合子の関係?…そりゃぁ勿論、あり、あり大有りだよ。…さっき、俺がコイツの事を話していた時、初めて見た時の印象を話しただろ?」
マサはまた、馴れ馴れしく百合子の肩に手を置いた。百合子は、いつもの事だと、一顧だにしない。
「うん」
「その舞台の脚本を、俺が手掛けていたんだが、要はコイツの初舞台に俺が深く関わっていたって事だ。それ以来、何故か付かず離れずの関係が続いていてな、お互いの都合が合う時には、舞台でも映画でも、ドラマでも一緒に仕事をする機会が増えていったんだ。…コイツの話を信用すると、もう二十五年の付き合いになる訳だ」
そう言い終えると、マサは百合子に笑顔を向けつつ、肩をポンポンと叩いていた。百合子は何も言わず、やらせるままにしていたが、顔はこれまた、柔和な笑顔だった。もしかしたら、二人は心の中で、今まで一緒にしてきた仕事を、思い返していたのかもしれない。
…だから初めの時、舞台だとか、本読みがどうとか言ってたのねぇ。
私は一人納得しつつ、それは口に出さずに置いた。
「…さて、折角自己紹介の流れに戻ってきたのだから、順番的に勲さん、次はアンタの番だよ」
「…そうだね」
勲さんはボソッとそう答えると、少し前のめりになりつつ、聡と義一越しに私の方を向きながら言った。
「…僕の名前は、川島勲。…しがない物書きをしています。呼び方は、何でもいいよ…よろしく」
勲はそう短く言うと、またソファーの背もたれに凭れかかる様にして座った。
「…は、はい、よろしくお願いします」
思ったよりも短く終わったので、今までと違う意味で戸惑いつつ、私からも返した。
「…勲さんはね」
やれやれといった調子で、先程まで一言も喋らず大人しかった聡が、不意に私の方を向きつつ、話しかけてきた。
「自分で”しがない物書き”って言ってたけど、要はこの人は、小説家なんだ。…この人、昔に大きな賞を獲って文壇に踊り出たんだけど、その賞はな…」
聡が言ったその賞は、とても有名なものだった。明治の文豪の名前が冠された賞だった。昔から続く賞だったが、今だに若手の小説家にとっての憧れとなっていた。
「…でな、この先生、本名の川島勲名義で書いているんだが、お前は知らないか?」
「…え?えぇっと…」
私は一応思い出そうとする”フリ”をしていたが、そもそも思い出せる訳が無かった。それは…
「…ごめんなさい。…だって、私って、物心ついた時から、義一さんと再会するまでは、お父さんに買ってもらった”世界文学全集”と”日本文学全集”を読んでいただけだったし、再会後は、義一さんから、これまた古い本ばかりを借りて読んでただけだから…すみません、存じ上げてませんでした」
最後の方は、本人を前にして何て言えば分からなかったが故の、苦しい言い方だった。
勲は、私が『ごめんなさい』と言った時から、また身を乗り出すようにしつつ、顔だけを私に向けてきていた。そしてあのぎょろぎょろした目付きで、私の言葉を注意深く聞いていたのだった。何も考えずに勲の様子を見たら、私の発言に対して怒っているかの様に見えただろう。実際、私も、怒っているとまではいかないまでも、不機嫌にはなっているかもくらいには思っていた。
私が言い終えてからも、体勢を変えずに、目を見開きつつ私を凝視してきていたが、フッと目元を緩ませたかと思うと、話しかけてきた。
「…ふふ、それでは知らなくて当然だね。…うんうん、いや、それで正しいと思うよ?…勿論、僕の本を読んだことがない、いや、僕の名前すら知らないというのは、寂しい限りだけれど」
「…ご、ごめんなさい」
私が慌てて、また非礼を詫びると、勲は首をゆっくりと横に振って、柔らかな笑みを浮かべつつ言った。
「いやいや、さっきも言った通り、構わないんだ。…そうか、義一君に薦められてねぇ…」
勲は一瞬、義一の方に視線を流してから、また私に戻した。
「…うんうん、流石は義一君と言いたいところだけれど、それについて行く、ちゃんと読み込んで行こうとする、琴音ちゃん、君も今時の子としては、色んな意味で並外れているね」
「…え?あ、いや、そんな…」
マサの時もそうだったが、まさか私を褒めてくる様には見えなかった御仁に言われると、どうしたって戸惑わずには居れなかった。
自分で言うのは馬鹿馬鹿しいが、義一含むその周りの人達は総じて、私のことを褒めてくれていたが、まるで慣れる気配は無かった。
他の人なら、もしかしたら不用意に素直に喜ぶのかも知れないが、これで何度目になるか、私は自身に対して、微塵も評価していなかったから、褒められれば褒められるほど、居た堪れない気持ちになるのだった。
私の照れている姿をどう見たか、勲はそのまま何気無く言葉を続けた。
「…うん、他の子達が出来るかどうかは兎も角、早い時期、そう、大体小学生の間には、所謂古典文学に触れて置くのが、とても大事なんだ」
…前に義一さんが話してくれた事と、同じ内容だ。
「…あ、先生」
勲はここで言葉を止めると、ふと、隣に座る老人に目を移し、少し申し訳無さげに言うのだった。
「…先生、また少し話しがそれてしまいますが、どうしましょう?」
問われた老人は、すぐに顔中に微笑を湛えると、口調もそれに合わせるが如くに言った。
「あぁ、構わんよ?こうして、話がどんどん逸れていく…これも、我々らしいからね」
そう言い終えると、明るい笑い声を発するのだった。それに釣られる様に、一同もクスクスと笑うのだった。私まで釣られた。
勲は老人に感謝の意を伝えると、私にまた向き直り、先を続けた。
「せっかくなんでも吸収出来る時期に、今時の、内容薄くて分かりやすい、大して読解力の無い読者を相手にしている様な、所謂”大衆文学”、そればかりをいくら読んだって、上質な”センス”を培うことが出来ない」
「上質なセンス…」
私は、それが大事なキーワードだと察したので、改めて自分の口で呟いてみたのだった。そして、これ以上は、頭だけで整理するのは難しくなりそうだと判断した私は、おもむろにカバンから、メモ帳と筆記用具を取り出して、今言った様なワードを書き出していった。ここで慌てて言い訳をさせて頂く。今が初めてではなく、先程も散々パラ、美保子と芸談をしていたのに、その時にはメモを取らなかったのは何故かという事だ。これに対する答えは簡単だ。美保子と話した内容は、常日頃から、私が考えていたことでもあったからだ。勿論、その中身には、師匠や義一との会話で出た事も、織り交ぜていた。なので、美保子の話し方にも助けられた部分があったのだろうが、私はただ、頭の中で整理した考えを、相手に合わせて披瀝しつつ、深めていけば良かっただけなので、そこまでメモの必要性を感じられなかったからだ。…いや、それでも、メモを取っても良かった、むしろ正直に言えば取りたい気もあったが、それは前にも言った通り、いきなり初対面の方々の前で、いきなりメモを取り出すのもなんだと思ったからだ。しかし今回は、そうもいかなそうだった。
勲が触れた内容、これは何度か義一と話していた事ではあったが、彼は小説家、私と義一とは、また違った視点を見せてくれるんじゃ無いかと思い、遂にメモを取ろうと決心したのだった。
ふと、中々勲が話を進めてくれないので、顔を上げると、勲だけではなく一同が、一斉に私の手元を、黙って見てきていた。私はそんな周りの状況にギョッとしたが、それとは反対に、一同は私と目が合うと、それぞれ各様の微笑みを浮かべるのだった。
そしてその後、ますます私を仰天させる事が起きた。勲が着物の胸元、その内側から、表紙が和紙で繕わられたメモ帳を取り出したのだ。私が呆気に取られているのを無視して、また胸元を弄り、ペンを取り出した。そして、私に一度笑みを浮かべると、何かを軽くメモりつつ先を続けた。
「そう、上質なセンス。だから、琴音ちゃん、君がさっきチラッと言った、子供向けの文学全集を、和洋問わずに読んだり、義一君の蔵書を読んだりするというのは、とても大事な事なんだ。それら上質な文章を読むことによって、読解力が身に付き、もっと難しい本に出くわしたとしても、恐れ怯えず、また読み違える事が少なく済ませる事が出来るんだ。…だから」
勲はまた、ギョロギョロした目つきを和らげて言った。
「僕の書いた小説を読む暇があるなら、そういった古典を読む方が、よっぽど君の人間形成に役に立つのだから、それで構わないって事さ」
そう言い終えた勲の表情は、今日一番の柔らかさだった。私は、そんな勲に合わせて微笑み返したが、ふと、やはり気になってしまったので、触れざるを得なく、質問せざるを得なかった。
私は顔を、メモ帳に落としながら聞いた。
「…勲さん、さっきから出ているキーワード…”上質なセンス”…そのー…センスって何ですかね?」
私は最初、勲のことを何て呼びかければいいのか迷ってしまった。本人が自己紹介の時、何でもいいと言ったからだった。なので仕方なく、一同が揃っていってる呼び方に、私も合わせる事にしたのだった。
勲は少しばかり腕を組み、考えて見せたが、義一含む他の方々は、私と勲を交互に見つつ、とても愉快だと言いたげな笑みを浮かべていた。今更だが、この場に集まる人達というのは、こういった話が大好きなようだった。
勲は漸く腕を解くと、先程出したメモ帳に、何かを軽く書き付けてから、私に話しかけた。
「センスねぇ…あ、いや、先程の、美保子さんと君の会話を聞いていて、恐らくこの話題に、食らいついてくれるんじゃ無いかと思っていたんだ。試す様な真似してゴメンよ?…うん、そうだねぇ…琴音ちゃん、君は”センス”を、どう捉えてるかな?」
「…そうですねぇ」
私は急に話を振られたが、特に慌てることは無かった。今更説明する必要もないだろうが、一応言えば、絵里のおかげで、何か質問する時には、予め、考えたり調べたりしていたからだ。そして、試行錯誤をしても納得いく結論が出ない時には、それを義一を含む、誰かに質問して、議論の材料にと、ストックをしていたのだった。丁度”センス”は、そのストックしていたモノの一つだった。
「…私は先程紹介して頂いた通り、芸の道を志している者ですが、まずぶつかる疑問の一つが、コレだったんです。…センス。…これは言葉として存在している限りは、”意味”が当然ある訳ですよね?私達がこうして会話出来るのも、その言葉一つ一つについて、共通の意味を理解しているという前提があるから、成立する訳ですけど…、この”センス”に限らないけど、何だかこの手の話になると、途端に、『それは人それぞれだから』だとか、それで議論を打ち切られちゃうんです。…あ、いや」
私はここまで話したが、ふと、勲の質問からずれてきていることに気付き、少し恥ずかしくなって、打ち切ってしまった。
「…すみません。話が段々逸れて、答えるつもりが、ただの愚痴になってしまいました」
そう私が照れながら言うと、勲は静かな声で優しげに声をかけてきた。
「…イヤイヤ、興味深いから、続けて?…ねぇ、先生?」
「あぁ、そうだね」
勲に話しかけられた老人は、先程から変わらない、人懐っこい笑みを崩す事なく、私に向けていた。
「琴音ちゃん、そのまま先を話して?」
と老人が先を促すので、一度他の人々を見渡してから、静かに話を続けた。
「は、はい。えぇーっと…あ、そうそう、いつも議論をそこで打ち切られちゃってたんですけど、でも、そんなの全く納得出来なかったんです。…だって、”センス”というのも、言葉である限り、例外なく、他の人と共有している…いや、すべき意味があるはずなのに、それを『人それぞれ』だなんて言っちゃうと、何だか…すごく虚しくなる気がするんです」
「虚しくなるねぇ…。琴音ちゃん、そこら辺を、もっと詳しくお願い出来るかな?」
老人が、私に声をかけてきた。表情はさっきと変わらなかったが、よく見ると、目の奥にだけ、真剣な鋭さを宿していた。それを見た私は、生半可な言葉は許されないと感じ、少し頭の中で思考を吟味しつつ、促されるままに続けた。
「はい…。えぇっと…だって、みんなで共通の言葉を話して、理屈だけではなく、感情のやり取りも、言葉を中心にやりとりしている…その話している言葉の解釈を、根っこの本質的な意味を話し合おうというのに、それすら放棄されてしまうと、…うーん、上手く言えないけど…それじゃあ、私達が普段話している事って何なんだろうって思っちゃうんです。…人それぞれと言ってしまえば、何言っても無意味じゃないかって…はい」
流石の私も、勲さんと話していたつもりだったから、急に、老人に話し掛けられて、しかも、虚しさの要因を尋ねられるとは思っても見なかったから、こればかりは一発本番で答えざるを得なかった。中々難しい質問だったけれど、私が何気なく言った”虚しさ”こそ、今の議題の本質的な部分だと気づいた。何とか返した後、それに気づいた瞬間、パッと、視線を老人に向けた。相変わらず目の奥に、鋭い眼光を宿していた。一同から”先生”と呼ばれていたこの男性、パッと見は笑顔の絶えない好々爺の典型みたいな御仁だったが、中々に鋭いなと、素直に感嘆していた。と同時に、どこか義一と似た雰囲気も、今更ながら感じたのだった。
老人は、静かに日本酒で唇を濡らすと、表情そのままに話しかけてきた。
「ふんふん…なるほどねぇ…。いやいや琴音ちゃん、君くらいの年齢で、こんな概念的な問題に関心持てるのは、並大抵の事ではないよ?…まぁ、本人としては照れるだろうから、賞賛はこの辺りにして…うん、君の意見に訂正するところは無いと思うけど、少し付け加えてみてもいいかね?」
「は、はい、お願いします」
私は何故か、少し緊張していたが、とても心地良かった。この感覚も、義一と二人で議論している時に、酷似していた。
老人はふと、テーブルの上に置いてあったナプキンを何枚か取ると、いつのまに出していたのか、ペンで何かを書いたかと思うと、視線をそこに落としつつ、口を開いた。
「その虚しさだけど…何から言えばいいかなぁ…琴音ちゃん、少しばかり難しくなってしまうけど、構わないかね?」
「えぇ、もちろん、一向に構いません」
私は力強く頷きつつ返した。
老人は一瞬、くしゃっとした様な、愛嬌のある笑みを作ったかと思うと、またすぐに表情を戻して続けた。
「ありがとう。ではお言葉に甘えて…その”虚しさ”についてだけど、いま君が言った様なことは、昔の偉人達も同じ様に悩んで、苦しんでいたんだよ」
「…」
老人は、私が話についてくる意思があるのかを、確かめる様に、ここで一呼吸を置いたが、私は、そんなの言うまでもない、早く先を続けてと言わんばかりに、何も言わずジッと、真剣な視線を送った。
察してくれたのか、一度ニコッとして見せてから先を続けた。
「チラッと聞いただけだけれど、君は義一君の蔵書を、沢山読み込んでいるらしいから、話すのが楽なんだけど、そんな君なら分かるだろう?…昔…特に十九世紀に生きた、いわゆる知識人だけでなく、芸術家から何から、”共有していたはずの価値観”を失い、途方に暮れていたというのを」
「…はい」
老人に、意見を求められた様な気がしたので、私は義一から借りた、数多の本達を思い出しつつ答えた。
「十九世紀の初頭に生まれたという意味で、フランスでは”レミゼラブル”のユゴー、アメリカではポー、ロシアで言えば、西欧化とスラブの間に厳然と存在した矛盾と葛藤した、ゴーゴリに始まり、言うまでもなく、ドストエフスキー、トルストイ…いや、もう、名前を挙げたらキリがないけど、みんな総じて、その当時の人々が、頭で理解していたかどうかは兎も角、どの人の書く作品も、その時代の世相を浮き彫りにした様な作品だらけですよね?」
私は途中から、『これだけ本を沢山読んでます』自慢と、受け取られかねないくらいに、読書遍歴を披露しそうになったのを、なんとかギリギリの所で押し留めた。
そこいらの恥ずべき人種に見られていないかと、内心ヒヤヒヤしていたが、老人はまた私にニコッと笑うと、その後を受ける様に続けた。
「…あぁ、その通りだね。途方に暮れつつも、それでもその時代に生まれてしまっている。…そんな疑いようの無い事実に、真っ向から、大した武器を持たないというのに、ドンキホーテよろしく、ガムシャラにぶつかって行って、そして当然の如く、当たって砕けた訳だね。…いや、そんな細々とした事を話したかった訳ではなく、昔から…特に、具体的に言えば、ルイ16世が処刑されることになった、あのフランス革命以降から、世の中にいわゆる”虚しさ”…言い換えると”虚無感”…もっと言えば、”ニヒリズム”が、欧州を中心にジワジワ広がって行ったんだよ」
「…」
私は、老人の話している事を、後で何か新たな疑問が生まれた時に質問しやすい様に、自分なりに解釈しつつメモを取っていたが、ふと顔を上げると、何と、この場にいる一同、聡を除く、美保子と百合子までが、いつの間にか各々メモ帳を取り出して、私と同じ様に何かを書き込んでいた。私は当然、唖然としたが、今はそんなことより、老人の話に頭が占められていたので、そんな些細な事に、わざわざ突っ込む気が起きなかった。
「人名で恐縮だが…」
老人は、また日本酒をチビっと舐めると、話を進めた。
「かの有名なニーチェの、これまた有名なセリフが思い出されるね?ニーチェは”ニヒリズム”の事を、こう表現していた。『近代人の、戸口に立つ不気味な訪問者』とね」
「…不気味な訪問者」
私は、当然ニーチェの名前は知っていたし、実際に、義一の”宝箱”の中でも、全集があるのを見た事があったが、まだ義一としては、私に貸すのは時期尚早と考えていたらしく、まだ実際に読んだことは無かった。義一と話している時でさえ、軽く名前が挙がる程度で、詳しくは聞いた事がなかったから、今老人が話す内容に、益々心が奪われていった。
老人は続けた。
「そう、まぁニーチェの名前を出したのは、分かりやすいからというだけだけれど、ニーチェに限らず、当時の”至極真っ当な”哲学者なり思想家は、この”ニヒリズム”に、どう立ち向かおうかと四苦八苦していた訳だね。…うーん」
老人は、ここで一度、自分のメモを覗き込みながら唸り出した。ほんの数秒間、それを見つつホッペを掻いていたが、ふと私に顔を向けると、苦笑まじりに言った。
「…いやはや、久しぶりに一から話そうと思うと、中々上手くいかないものだねぇ…そういえば」
老人はふと、隣に座る勲に顔を向けると、照れ臭そうにしながら言った。
「勲さん、すまんねぇ。…ついつい私の悪い癖で、その時に最も関心のある話題が出て来てしまうと、横から入り込んで、色々と議論をしたくなってしまうんだ」
「…イヤイヤ、先生」
勲は、ギョロつく目を、心から呆れた様子で細めつつ、口調も合わせる様にして返した。
「先生の、その感じは、いつもの事ですから、今更断らなくても大丈夫ですよ?」
「あははは」
勲がそう言うと、一同も呆れ顔ではあったが、明るく笑うのだった。
「いつも勉強になりますし」
と、今までずっと静かだった義一が、老人に尊敬の眼差しを向けながら言った。
そんな義一の言葉に、老人は照れて、益々バツが悪そうにしていたが、それを誤魔化すかのごとく私の顔を直視すると、話を続けた。
「いや、義一君ありがとう。…さて、琴音ちゃん、このニヒリズム、今までの我々の議論の中で、大まかにはどういうものなのか、ハッキリせずとも輪郭が見えてきた様に思うんだけれど、どうかな?」
老人はまた先程の、目の奥に鋭い光を宿しながら見つめてきたので、私は今までの話を吟味しつつ、また手元のメモ帳を見ながら慎重に言葉を吐き出すように言った。
「はい…私の疑問と、これまでの話を合わせてみると、私の言う虚しさ、…せ、先生の言われるニヒリズムというのは、私達が普段、此れという共通の価値観、…過去から紡がれて来た価値観を、”人それぞれ”といった風に、何も考えず、いとも容易く捨て去ってしまったから、民族同士で共有していたはずの、価値観を入れておく容器が空になって、何が良いのか悪いのか判断が出来なくなって、それで全てが虚しくなるんだと…思います。…あくまで私が、ですけど…」
私は途中、老人のことをどう呼べば良いのか迷い、逡巡した末、みんなが共通してしている”先生”呼びを、少しビクビクしながら使った。それから後は、自分でも驚くほどに、言葉がスラスラ流れる様に出てきた。これはひとえに、普段から義一と議論してきたお陰だった。内容自体も、何度も二人で話し合った内容だった。これだけ止め処なく、自信も少し持ちながら話せたのは、それだけ私の血肉になっている証拠だったので、話しながらも満足していた。その最中、チラッと義一の顔を覗き込んだが、向こうの方でも私のことを見てきていて、軽く目が合った。義一は、私が必死に言葉を紡いているのを、微笑ましげに見ていたのだった。
私が言い終えると、暫くシーンとしていた。スピーカーからも、いつからなのか、小粋なジャズが流れていたはずなのに、今では何も流れていなかった。これも数秒だったろうが、ひどく長く感じた。
老人の方を見てみると、彼は静かな視線を私に投げかけていた。わたしが向くまで、そうしていたのだろう。
と、私と視線が合うと、老人は、今までにまだ見せた事が無いような、柔和な笑みを私に向けて、次に、聡の方を向くと、少し意地悪くニヤケながら言った。
「…いやいや、聡君に君の事を話して貰って、一体どんな子だろうと、半分期待、そして半分は…本人を前にして言うのは失礼だが、忌憚なく言うと、警戒していたんだ。…いや、聡君、そんな苦々しい顔をしないでくれよ?…うん、君の事は心から信頼しているさ。何せ…」
老人は、ふと視線を義一に流しながら言った。
「義一君みたいな、今時珍しい、”誠実”な男を紹介してくれたんだからね」
「あ、え、い、いやいや先生!」
と、義一は、途端に周章狼狽して見せながら言った。
「もう先生!そういうのはナシですって!」
「あははは!照れるな、照れるな!」
「…ふふ」
義一がそう言うと、老人は豪快に笑いながら、日本酒をグイッと飲むのだった。と同時に、また一同は先程の様に、各々がそれぞれの形で笑うのだった。私も、普段からかう時に見せる狼狽具合とは、また一味違った様子を見れて、クスクスと思わず笑ってしまうのだった。義一は、私のそんな様子を見て、仕方ないなと言わんばかりに苦笑を浮かべ、あのいつもの癖、照れ隠しに頭をポリポリと掻くのだった。
「はぁーあ…さて」
老人は、場が一旦収まったのを見計らうと、表情を元に戻し、私に顔を向けてから話を続けた。
「…琴音ちゃん、ズバリ、今君が話してくれた通りだよ。…よくそこまで纏めれたねぇ…。あ、いや、照れないでくれよ?…ふふ、二人揃って照れ屋なんだからなぁ。…うん、今君が話してくれた見解に、少しだけ付け加えさせて貰えれば、こうなると思うんだ」
「はい」
私は、老人が言う様に、少し照れていたが、急に真面目モードになったので、慌ててメモ帳に書き込む準備をした。…まぁでも、別に気負っていたわけでは無い事を、念のために言っておく。心持ち自体はリラックスしていた。
「それはね…人々が、自覚あるかどうかは兎も角、自分が何か偉くなったと過信して、”絶対”なモノを信じない…何が”善い”のかなんて、人それぞれでいいじゃないかと吐き捨てる…人それぞれで良いと言うのは、『人の指図なんか、受けたくないよ。伝統?慣習?そんな七面倒な事に係りあいたくないよ。個人個人で好きにさせてよ』って事だよね?」
「あ、はい!その通りです!」
私は、我が意を得たりと、思わず声を上げた。
老人は私に微笑みつつ、先を続けた。
「でもね?…突き詰めても人間というのは結局、”社会的動物”で、どうしたって一人では生きていけない。…こんなのは、巷でも良く話されている事だよね。…でも、口ではそう言う癖に、片や言われるのは、”個人の自由が大事”だとか、もっと酷いのになると、”全てのしがらみを取っ払えば、人間性が解放されて、世の中がもっと良くなる”という、いわば”プロパガンダ”の様なモノまで流布されてしまっている。…あ、琴音ちゃん、プロパガンダって分かるかな?」
メモの途中だったが、話を振られたので、顔を上げると、何でもない調子で答えた。
「あ、はい。…えぇっと、”政治的宣伝文句”…で、合ってますか?」
「あぁ、その通りだね」
老人は、一瞬、クシャッとした様な笑顔を見せた。私も合わせる様に微笑んだ。
因みに、私が何故そんな事をすぐに答えられたかというと、こんなタネがあった。…覚えておられるだろうか?私が小学生の時、そう、私が受験戦争に巻き込まれそうになっている時期に、義一の家に赴いて、『何で勉強しなくちゃいけないか?』を聞いたのを。…あの時、義一は、ある女流経済学者の言葉を引用して見せてくれた訳だったが、あの後、別の日に、『こんな事も別に言ってたよ』と言いながら、また別の言葉を雑談の中で教えてくれたのだ。それは『あらゆる経済学者の学説というのは、プロパガンダだ。だから、それを聞く側は、そのつもりで用心しなければならない』というものだった。要は、特定の利益者に合わせて、高等数学を弄り返し、さもそれが”科学”かの様に振る舞うのが、”経済学”というものなのだ、との主張だった。…いや、この場で経済学批判をしたい訳ではない。話を戻そう。
その時に一緒に、プロパガンダの意味を教えて貰ったので、すぐに答えられたという事だ。
「…うん、でも、いくら文明が進んで、技術が進歩したとしても、その時代に生きている人類までもが、”善い”方に進歩してると見るのは、些か傲慢に過ぎると思うんだ。…私がこう言うと、中にはこう返す人もいる。『そんな事は分かってるんだ。偉そうに、自分だけわかった様に言うな』ってね」
老人は、お茶目にウィンクをして見せた。が、すぐに真顔に戻ると、先を続けた。
「でもね…それは”分かっている”んじゃない。ただ”知っている”だけなんだよ…知っている癖に、それを我が物として吸収し、血肉にしなければ、本当に理解した事にはならない」
「はい…それは分かります」
私はこの時、目に入る、口先だけ立派な、高邁な事をのたまう癖に、そう言う本人が実際に実行していない様な、”その他大勢”の大人達の姿を思い浮かべていた。
と、その時、老人はまた、おもむろに日本酒を飲もうとしていたが、どうやら空になっていたらしく、カタンとグラスをテーブルに置くと、腕時計を覗いた。すると、老人は大袈裟に目を見開きながら、驚いた様な口調で声を上げた。
「…って、ありゃありゃ…。いつの間にか、こんな時間になってしまったな。…まだ、食事を運んでくれていないところを見ると、マスター達…、私らが、あまりに議論に集中しているもんだから、空気を読んで待っていてくれているのかも知れないな」
私も思わず腕時計を覗いてみた。時刻は七時十五分を指していた。…確かに、これは驚いて不思議じゃなかった。何せ、私達三人がこの部屋に入ってから、少なくと一時間半以上は、飲み物を飲むだけで、後はずっと喋りっぱなしだったからだ。確かに、それなりに”深い”話を、のっけからしていたので、そこそこに時間は経っているのだろうなくらいには思っていたが、予想以上だった。
「そりゃそうでしょう」
と、今まで静かだったマサさんが、呆れ顔の呆れ口調で返した。
「いつも我々が話し出すと、止まらないんで、マスターはいつも、料理を作るタイミングを取り兼ねているんですから」
「…いやいや、面目無いなぁ」
老人は、綺麗に剃り上げられた頭を、撫でつつ照れ臭そうに笑っていた。それにつられる様に、一同も、近くの人と顔を見合わせつつ、微笑み合うのだった。ただ、私だけ、自覚は無かったが、恐らく一人ぶすっとした表情を浮かべていただろう。何せ、これからって時に、これで議論が終わりそうだったからだ。
そんな私から滲み出る、不平の雰囲気を察し取ったか、老人は少し前かがみになり、私に顔を近づける様な素振りを見せつつ、申し訳無さげだったが、笑顔で話しかけてきた。
「…ふふ、琴音ちゃん、そんなつまらなそうな顔をしないでくれよ?…勿論、この話は、これで終わりにするつもりは無いよ?ただ…」
老人は、空のグラスを弄びつつ言った。
「…君が言った”虚しさ”、そして私が言った”ニヒリズム”…これはね、君もどこかで理解しているとは思うけど、中々に、この短い時間で、一遍に片付けられる様な問題では無いんだ。…何せ、ここ二百年あまりにも亘って、全体の少数派、これが大問題だと認識してきた少数派が、何度も打ち破られてきて、それが今だに続いているんだからね。…それも、今では、昔以上に少数派になっているときている…」
「…」
老人は、最後の方は、まるで独り言の様にボソッと言ったが、私は聞き漏らさなかった。 …だが、老人が、あまりにも力無げな表情を、一瞬浮かべたので、何か言おうかと思ったが、そのまま黙っている事にした。
「…あ、いや、あははは!」
老人は、自分が暗い表情を浮かべていたのに気付いたか、無理して陽気になろうとするが如く、あのクシャッとした好々爺の表情を浮かべつつ言った。
「またまた話が逸れるところだった…。あ、いや、そもそも、最初の議題は、”虚しさについて”じゃなくて、”センスとは何か?”だったよね?いやはや…どうもいかんなぁー…この歳になっても、多弁症が治らないときている。…まだまだ、成熟には程遠いなぁ」
そう言い終えると、老人はまた頭を撫でるのだった。
「…ふふ、そう言えばそうでした」
と、私も吹き出しつつ、メモをチラッと見てから返した。
「いやぁ、むしろ謝るのは私の方です。私が、勲さんを始めとする、この場にいらっしゃる皆さんの厚意に甘えて、好き勝手に、思い付いたり疑問に思った事を喋ってしまった事が、根本の原因なんですから」
「…ふふ、そうだね」
と、私が言い終えるのを見計らった様に、これまた今まで静かだった義一が、私に意地悪な笑みを向けつつ言った。
「そういえば、今日は琴音ちゃん、初対面の面々の前だというのに、何の気兼ねもなく”なんでちゃん”を表に出していたね?」
「ちょ、ちょっと、義一さん…」
と、慌てて遮ろうとしたが、遅かった。
「え?何、その”なんでちゃん”っていうのは?」
「…妙に、可愛い言葉の響きね」
義一の発言を聞いた途端に、まず美保子がニヤニヤしながら、私の顔を覗き見つつ義一に聞き、そして隣の百合子は、初めて見た時の様に落ち着いた、目を半目にしながらの、憂いを秘めた様な目付きだったが、その奥の瞳には、しっかりと好奇心の光を見せていた。
私は、アタフタしながら、横目で軽く義一を睨んで見せてから、恥を忍んで、掻い摘んで仕方なく説明した。今回ばかりは諦めた。何せ、この発端は、私にあるのだから。
それに、何故か…と前置きするのはワザとらしいが、この場にいる面子には、他人に対して私が壁を作る、根本的な要因の”なんでちゃん”について、隠し立てをする必要を感じなかったのが大きかった。先程も似たような事を言ったかも知れないが、この場に集まる面々、どれも個性的で、それぞれの業界で頑張っているような、普通に考えたら相入れないところもあろうと思うけれども、どこか…そう、印象だけで言えば、皆んな共通して、義一と同じような”匂い”を醸し出していたからだった。いわゆる”普通”の人から見てどうかは分からないが、少なくとも、私にとっては、とても居心地の良い”場”であった。
説明もひと段落ついた頃、老人は私に一度笑顔を向けてから、一同を見渡し言い放った。
「取り敢えず今はこのくらいにして、ご飯にしようか?」
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