第11話 図書館 絵里さん家 忠告

文字数 43,940文字

その週の土曜日、学校から家に帰って軽く着替えてから、塾用に今は使っているいつものトートバッグを持って図書館へ向かった。正面玄関前の時計の下で裕美と待ち合わせていた。図書館の建物全貌が見えてきて、時計の下の方を見ると、裕美がいるのが見えた。この間のような可愛らしい格好をしていたし、他には人の姿が見えなかったのも相まって、遠くからでも裕美だと分かった。何となく私は手を振ったが応答がない。何やら手元を見ている。
スマホでも見ているのかしら?
近づいて見ると、どうやら見ているのはスマホじゃなく本のようだった。数メートルくらいまで近づいたのにまだ気づかない。よほど集中しているようだった。私は少し駆け足で近寄り、肩にポンと手で叩いてから話しかけた。
「…裕美、何読んでるの?」
「わっ!…あぁ、琴音ちゃんかぁー…びっくりさせないでよ」
「ごめんごめん。でもあなたの予想外にいいリアクションにこっちもビックリしたんだから、これでおあいこにしてよ?」
「何よそれー…まぁいいわ」
裕美は苦笑いで私に応えながら、手元の本を閉じた。表紙をみると、どうやら塾の教科書のようだった。今日私も持ってきていた奴だ。裕美が持っている本に視線を向けながら聞いた。
「へぇー、私が来るまでずっと勉強していたの?」
「え?あ、うん」
裕美は参考書の表紙と裏表紙を交互にひっくり返し見ながら答えた。
「勉強ってほどじゃないけど、暇だったからね。ペラペラめくっていただけ」
「へぇ…とか言っちゃってー。実は先に予習して私よりも先に行こうとしていたなー?」
「ば、バレたかぁ」
私が腰に手を当てて、ワザとジト目で問い詰めるように聞くと、裕美は口でわざわざ『ギクッ』と言うと、胸辺りを抑えながら苦しそうに悶えて見せていた。一頻りやった後二人で笑い合った。
「…さて、行きましょう」
「そうね」

中に入ると今日は初めから受付に絵里が座っていた。昨日のうちに、今日図書館に行く事を伝えてあったからだ。絵里は私の姿を認めると、それまで真面目な事務的な顔つきで目の前のパソコンを睨んでいたのに、パァッと笑顔になってわざわざ立ち上がり、受付の席から出てきて急に私に抱きついてきた。
「琴音ちゃーん、久し振りー」
「いやいや、先週会ったばかりだから」
絵里が顔を私の顔に摺り寄せようとしてきたので、私は両手で絵里の顔を遠のけようともがいていた。私達のそんなしょうもない様子を見て、裕美はただただ唖然とするばかりだった。当然の反応だ。
「もーう、絵里さんいいでしょ?」
「えぇー、まだまだ…おや?」
絵里は今初めて裕美の存在に気づいたかのような反応を示して、ようやく私から離れた。唖然としている裕美に構わず、絵里は自己紹介を始めた。
「あぁ、あなたが話に聞いてた琴音ちゃんの友達ね?私は山瀬絵里。この図書館で司書をしているの。あなたは?」
「…あっ、あ、はい」
裕美はようやく落ち着きを取り戻し、気を取り直すように答えた。
「私は高遠裕美って言います。琴音ちゃんとは同じ塾に通っていて、学校もおんなじです」
ここまで言うと裕美は絵里に向かって頭を下げながら
「今日はよろしく御願いします」
と言った。今度は絵里の方がキョトンとしていたが、すぐに笑顔になって応じた。
「ははは。別に私は何もお構いなんて出来ないけど、まぁゆっくりしていってよ。…琴音ちゃん」
「え?」
絵里は顔を私に向けていたが、視線は裕美に流しながら言った。
「何よー。琴音ちゃんから話を聞いた感じじゃ、中々のお転婆娘かと思っていたのに、すごく礼儀正しいじゃないの。どっかの誰かさんとは違って」
「あっ、いや、そうでもないですよ」
と裕美は少し照れ臭そうに絵里に向かって言った。
…こんなところもヒロに似ているのよねぇ
と一人ニヤケていたが、一人除け者にして二人が笑顔を交わしていたので、少し意地悪してやろうと私はその”誰かさん”の真似をして、少し剥れて見せながら割り込んだ。
「ちょっとお二人さん?もういいかな?そろそろ”誰かさん”は勉強したいんだけれど?」
「あぁ、はいはい。ごめんなさいねぇ。じゃあ二人とも受付の方に来て」
絵里はサラッと私の嫌味を聞き流し、私達二人を受付に案内した。
「さてっと…琴音ちゃんはもうカード持っているから…裕美ちゃん?」
「は、はい」
「裕美ちゃんは…って裕美ちゃんて呼んでも良いかな?」
と絵里が聞くと、裕美は自然な笑顔で答えた。
「はい、大丈夫です。好きに呼んで下さい」
「そう?ありがとう。じゃあウチは区立だからそんなに厳しくないんだけれど、一応この紙に名前と住所を…」
裕美が絵里に教えられるまま会員証を作っている間
絵里さん…私に対して呼び方がどうの聞いてきたっけ?…あっ、あぁ聞いてたか。
などとあまりに暇だったので、どうでも良い事を頭の中で自問自答していた。
「よし、これでオッケー」
と絵里は裕美にカードを渡しながら言った。
「ありがとうございます」
「じゃあ裕美ちゃん、次からウチに来る時はそれを忘れないでね?忘れたら向こうのエリアには行けないから」
と言うと、絵里はここで切って、向こうの書庫で本の整理をしている別の司書さんの方をチラッと見ながら小声で裕美の耳元で囁いた。
「…でももし忘れちゃっても、私が受付にいる時は中に入れてあげる。…本は流石に貸せないけどね?」
「ほらほら絵里さん、悪い顔してるよ」
絵里が言い終わると、ウインクしてニヤニヤ笑っていたので、私はわざと他の司書さんに聞こえるように言った。
「シーーーーーっ」
絵里は慌てて口に指を当てて、静かにするようにジェスチャーした。でも顔はニヤケっぱなしだ。本当にいたずら小僧みたいだ。
 私はその様子を見て大袈裟にため息ついて見せたが、隣で裕美はクスクス音量が出ないように控えめに笑っていた。


「いやー、琴音ちゃんの言ってた通りだね」
「え?何が?」
私達はテーブルを挟んで向かい合いながら座り、各々カバンから教科書と筆記用具をテーブルの上に出していたところだった。ここは毎度毎度のお気に入りの席だ。
 裕美は大人しく受付に座って仕事に戻っている絵里の姿を見ながら
「ほら、あの司書さん。私もうろ覚えだったけど、昔確かに琴音ちゃんが言ってたように、先生に連れられてここに来た時見たような気はしていたけど、その時はいかにもな感じだったから、実際話すまで正直信じられなかったの。でもあんなに明るくて気さくな人でも司書になれるんだね?」
と、最後は嫌味なのか本音なのか分かりづらい事を言ったので、私は思わず吹き出しそうになったが、すぐに冷静を取り戻して
「…ふふ、確かにそうね。でもそれを本人に言っちゃダメよ?私みたいに絡まれちゃうんだから」
チラッと絵里の方を見ながら答えた。裕美は少しテーブルの上に身を乗り出すようにしながら
「…琴音ちゃんとあの司書さん、すっごく仲良さそうに見えたけど、友達なの?」
と、いかにも興味津々と言った顔つきで目をキラキラさせながら聞いて来た。
「ほら裕美、行儀悪いわよ」
私は裕美のおでこを軽くデコピンして言った。裕美は痛くもないだろうに大袈裟におでこを摩りながら席についた。でもまだ聞きたそうな顔をしているので、気乗りのしない表情を作りながら仕方無しに答えた。
「…そうね。友達といえば友達ね」
「えぇー、何その含みのある言い方」
裕美はほっぺを膨らませながら言った。私は澄まし顔で塾の教科書とノートを広げながら
「さっ、勉強しなくちゃ。…そんな顔しないでよ。後で時間があれば話してあげるから」
と返した。
「きっと、きっとだよ?」
と裕美も教科書とノートを広げながら渋々言った。
「はいはい、さて始めよう?」
何でこの子が私なんかのことについて、こんなに興味や関心を抱けるのか不思議でならなかったが、考えてみれば普段の私の”なんでちゃん”と大差ない事に気付いて、バツが悪い思いをして一人苦笑いをするのだった。

「…んーん、疲れた」
伸びをしながら時計を見ると、いつの間にか五時十五分前になっていた。窓の外を見ると、すっかりありとあらゆるものがオレンジ色に染められ、温かな色合いを発していた。図書館の周りに植えられている銀杏の、もう少しで完全に黄色に変わろうとしている葉っぱが、夕陽に照らされて、黄色どころか黄金に輝いて見えた。そろそろ閉館の時刻だ。
「あーあ、そろそろ終わりかな…あっ!」
と、裕美も顔を上げて私と同じように伸びをし時計を見ると、大声にならない程度だったが声を上げた。
「こんな時間になるまで集中していたんだ…びっくりしたわ」
「え?家ではこれくらいしてるんじゃないの?」
と私は意外そうに聞いた。何しろさっきははぐらかされたが、私を待っている間、その短い時間も使って教科書を、話しかけられるまで気付かないくらいに、集中して読み込んでいたくらいだ。それだけでも私よりも”本気”なのがわかった。
 裕美は手に持ったペンを左右に振りながら答えた。
「いやまぁ…家ではそりゃしてるけどさー…大体友達と勉強しようってなって、まず勉強したことがないもん。琴音ちゃんはどう?」
「私は…」
前の仲良しグループの子たちとの事を思い出した。大抵その内の誰かの家に行き、勉強道具を広げるところまではいくが、すぐにおしゃべりが始まりその日はそれで終わるという、あまりに不毛な時間を使うことがほとんどだった。
「…確かにそうね」
「でっしょー?」
と言うと、裕美は今度はペンのお尻を顎に当てながら、つまんなそうな表情で私を見ながら言った。
「私も最初は集中していたんだけど、琴音ちゃんと二人でいるって珍しいから、ついつい話しかけたくなってチラチラ顔を見ていたんだけど、琴音ちゃんったらすごく集中して勉強してるんだもん。私の視線に気付かないくらいに」
ここまで言うと、裕美はまた大袈裟に胸に手を当てて、いかにショックだったかを表現して見せながら言った。
「あぁ…琴音ちゃんにとって私は、いてもいなくてもどうでもいい、虫ケラ程度の存在なんだと考えたら、さみしくなっちゃった」
いやいや、あんたさっき待ち合わせの時、私に気付かなかったでしょう…
と心の中で突っ込んだが、とりあえずそれは言わずに適当に宥める事にした。
「はいはい、気付いてあげれなくてゴメンね。でも勉強しに来てる訳だし、お互い集中出来たってことは、万々歳じゃないの」
「もーう、そんな正論を今言っちゃあダメでしょ?」
と大袈裟に剥れて見せながら返してきた。
「そんな無茶苦茶な」
と私が苦笑いで答えていると、不意に私の隣に座る人がいた。絵里だった。
「二人ともー。勉強は捗ってる?」
「うん、まぁまぁね」
「はい!」
「そっか」
絵里は私と裕美のノートを軽く見比べるように交互に見ながら返した。そしておもむろに私の教科書を手に取るとペラペラページをめくりながら
「いやー、懐かしいなぁ。私もやったわぁ…」
としみじみ言った。私はそれを聞いて、意地悪く笑いながら聞いた。
「絵里さん、それってどれくらい前のこと?」
「うーん?琴音ちゃん、それってどう言う意味かなー?」
絵里はジト目を使いながら私の方を見て批難めいた口調で返した。裕美はさっきと同様に私達の様子を見てクスクス笑っている。
「ところで…」
ひと段落ついたところで、絵里が私に教科書を返してきながら聞いてきた。
「二人とも、どこか志望校とか決まってるの?漠然とでも」
「うーん…私は今ん所特にはないね…裕美は?」
「うん、まだそこまでは考えてないかな?」
「ふーん、そうなんだ。…でも」
絵里はテーブルの上に置かれた教科書の表紙を眺めながら続けた。
「あなた達の教科書、表紙に”特進”って書かれているけど、これって凄いんでしょ?」
「いやぁ、どうなんだろう…」
私がボソッと言うのを無視して絵里は続けた。
「だったら結構上の学校を狙えるんじゃない?二人とも凄いねー。 …特に」
絵里は私に身体をグイグイ寄せてきながら
「琴音ちゃーん、勉強なんて興味無い風にしていたのに、ちゃっかり出来るんじゃーん」
とニヤケ面を晒しながら話しかけてきた。私はされるがままに寄られながら
「いやー…何かの手違いで、そんなクラスに入れられちゃったみたいだけど」
とツンと澄まして淡々と返した。
「いやいや琴音ちゃん、そんな運で入れるクラスじゃないから!他の皆んなが聞いたら、殺意を向けられるよ?」
裕美はまた本気とも冗談とも取れる調子で私に注意してきた。顔は苦笑い気味だ。
「そうよー?今のは『私って努力しなくても、なんでも出来ちゃうの』発言にしか聞こえないからね?…裕美ちゃん」
絵里は椅子に真っ直ぐ座り直すと、向かいの裕美に向かって優しく微笑みながら言った。
「見ての通り、色んな意味で危なっかしいから、初対面のあなたに頼むようで悪いけど、そのー…まぁ色々とフォローをよろしくね?」
「え?は、はい」
「例えば…」
絵里は急に私のほっぺに手を軽く当てながら
「こんなに可愛いのに、フリじゃなくて心の底から素で気付いてない所とか」
と最後は裕美の方を向いて悪戯っぽく笑いながら言った。すると裕美も一瞬ハッとした表情を見せたが、その後すぐ悪戯っぽく笑い返して
「あははは!そうですね、わかりました!」
と返事をしていた。私は一人ムスッとしながら
「…もーう、二人して何の話をしているのよ?」
いつまでもホッペから離そうとしないので、軽く手を払いながら言うと、絵里と裕美は顔を見合わせて
「ほら、これだもんなー」
「気を付けないとですね!」
と苦笑を浮かべながらお互い同じように首を横に振っていた。
「二人してヤな感じねぇ…っていうか絵里さん」
これ以上私の話になるのを避ける意味でも絵里に話を振った。
「私達とおしゃべりしてていいの?サボりじゃない」
「えー、ヒドイこと言うなぁ…いいのよ、ほら!」
絵里が指差した方には時計が掛かっていて、時刻は五時五分前を指していた。
「もう閉館時間だからね」

「じゃあ気を付けて帰りなよ?二人とも」
絵里はわざわざ正面玄関の外まで私達二人を送り出しに出て来てくれた。
「絵里さんはまだ帰らないの?」
と私が聞くと、絵里さんは親指を後ろ方向に向けながら
「一緒に帰りたい所だけど、簡単な片付けをしていかなきゃいけないから、今日はこのまま帰ってね」
と如何にも嫌そうな感情を顔一面に表しながら答えた。
「うん、わかった。じゃあ、またね」
「うん、またね!…裕美ちゃんもいつでも来てね?琴音ちゃんの友達だったらいつでも歓迎するよ」
「はい、また来ますね!」
私と裕美二人は仲良く並んで歩いて、図書館が見えなくなる曲がり角で立ち止まり振り返ると、まだ絵里の姿が見えたので、示し合せる事もなく二人で大きく手を振った。遠くで絵里も子供みたいに大きく振りかえしていた。

「…いやー、楽しかったね!」
隣を歩いていた裕美が満面の笑みで話しかけてきた。私は何のことか当然分かっていたけど
「え?ただ勉強をしていたのに楽しかったの?よっぽど勉強が好きなのね?」
とワザと見当違いなことを返した。それを知ってか知らずか、裕美はほっぺを膨らませながら言った。
「ちーがーうーよ!あの司書さんのこと!」
「あっ、そっち?」
「そっちしかないでしょう!もーう!」
裕美はいつまでも私がしらばっくれるので、埒があかないのにやきもきしていたが、すぐに察して笑顔に戻って続けた。
「こんな私みたいな子供にも、何て言うのかなぁ…同じ目線になってくれるというか…うん!」
ここまで言うと私に顔を向けて、とびきりの笑顔で言い切った。
「すっかりあのお姉さんのファンになっちゃったよ!」
「へぇー、そう?」
私は気のない感じで返した。それが若干不満だったのか、少し膨れながら言った。
「もーう、琴音ちゃんはあの人の友達で近くにいるから分からないんだよ!あの素敵さが!」
あまりにも自分だけが分かっていると言いたげだったので、不思議と何故か『私の方が長く付き合っているんだから、そんな事ぐらいよく知ってる』と言い返したくなる衝動に駆られたが、なんか悔しかったので言わなかった。裕美は続けた。
「それによく見るとすっごい美人だし…はぁー、将来あんな女の人になりたいな」
この短い時間の中で、どこまでこの子は絵里に心酔してるのかと、正直かなり引いていたが、まぁちょっと考えてみれば分かるような気がしなくもなかった。二人ともタイプが似てたからだ。これとは別のことを返した。
「そうね、良く見ればね?」
と少し意地悪く言うと、裕美は少し言いづらそうに答えた。
「うっ!…うん、だってぇ…」
「あの髪型だもんね?」
なかなか煮え切らない裕美に変わって、私がズバッと代わりに言った。するともう遠慮しないで良いと判断したのか、何故かマジメな顔つきで私に続いた。
「ね!?だよね!?何であのお姉さん、あんなに美人なのに頭の上にキノコを乗せているんだろう?」
「…ふふ」
裕美の突然の比喩に思わず吹き出してしまった。さて、訳を知っている私が教えてあげようかどうしようか考えた。私が何も言わずに、絵里に直接聞いてみるよう言えば、裕美と絵里が仲良くなって、私に対する絵里の”可愛がり”が減るんじゃないかと一瞬検討したが、考えるうちに癪だけどだんだん胸がモヤモヤしてきたので、その案は諦めることにした。かといい、私から話すのはもっと違うと考えていると
「…琴音ちゃん?どうしたの?急に黙ったりして?」
と裕美が私の顔を覗き込みながら、心配半分怪訝半分な表情で聞いてきた。
「あ、いや、何でもないの。…そうねぇ」
「え?何?訳を知ってるの?」
裕美はまた目を輝かせながら私に詰め寄った。どうしようかと今まで考えていたが、ふと今思い付いたことを口にした。
「…まぁ”大人の事情”よ。大人には色々とあるの」
とあくまで冷たく澄まし顔でサラッと答えた。
「えぇー…琴音ちゃんだって私と同じ子供じゃん!」
裕美は不貞腐れながら私に抗議してきた。それには構わず
「ほら、大人というのはアレコレと詮索しないものなのよ?」
と私は義一と絵里が聞いたら吹き出しそうなセリフを吐いた。裕美は当然そういう裏のことは知らないので
「チェッ!まぁ、いいわ。言ってることは分かるからね」
とまだ不貞腐れながらも、最後は笑顔で返した。

「じゃあ、またねーっ!」
「えぇ、また」
私達二人は裕美のマンションの前で別れた。

「はははは!やっぱり私の髪型って奇異に映るのね?」
「頭にキノコを乗っけてるって言ってたよ」
「ふふ。中々センスある言い方じゃない?気に入ったわ」
「私も思わず吹き出しちゃった」
「あ、そういえば…」
「ん?何?」
「うーん…あっ!前ファミレスでギーさんが言ってた友達って、あの子のことだったの?」
「え?…あぁ、いやいや、裕美じゃなくて、また別の子」
「ふーん、女の子?」
「いいえ、男の子よ」
「ふーん…あっ、もし」
「違うから」
「ふふ。もーう!その感情殺した声で被せ気味に返さないでよー。まだ何も」
「言わなくても分かるから。違うからね?」
「あははは!そう怒らないでよぉ…あ、そういえば」
コンコン
私はベッドに座り、絵里と電話をしていたが、不意にドアがノックされた。私は慌てて小声で
「ちょっとごめん!少し待ってて」
と言うと、返事も聞かずに枕の下にスマホを隠して、落ち着きを取り戻しながら声を出した。
「はーい」
「開けるわよ」
と言いながらドアを半分だけ開けてきた。お母さんだ。
「そろそろ夕飯が出来るから、早く下りてらっしゃい?」
「うん、すぐ行く」
と笑顔で答えると、お母さんは満足げにドアを閉めて行った。すぐ外で階段を降りる音がする。私はドアに近づき、いなくなったのを確認すると、急いでベッドに飛び乗った。そして枕の下を弄りスマホを手に取ると、通話はもう切れていた。その代わりメールが一通来ていた。
「琴音ちゃん、もし良かったら来月辺りの土曜日空いてないかな?私の方は結構休むのに融通が利きそうなんだ。どこかに行く訳じゃないけど、私の家に来てみない?前に軽く約束したでしょ?受験の事とか何か相談乗れれば乗りたいし。友達として。まぁ余計なお世話かも知れないけどね?笑 とにかく深く考えなくていいから、少し頭の隅に入れといてよ?裕美ちゃんも都合が付けば呼んでいいし。あ、メールが長くなったね?じゃあおやすみ」
うん、本当に長いわ。
私は苦笑いを浮かべながら文面を速読した。私は慌てて了承の返信をすると、部屋を出て一階の居間へと向かった。

 十一月の第一土曜日、私は駅ビルの正面出口前で待っていた。前みたいに学校から一度家に帰り簡単に着替えて、前日に色々と入れた例のトートバッグを下げてここに来たという状況だ。左腕の時計を見た。一時半を指していた。今ちょうど待ち合わせ時間だ。
 おそらく図書館の方から来るものと漠然と考えていたから、そっちの方ばかり見ていたが、中々姿が見えなかった。と、突然目の前が真っ暗になった。誰かに両手で目を覆われているようだった。正直分かり切っていたが、ノッてあげることにした。
「え?誰?」
「さーて、誰でしょー?」
私は少し考えるフリして、ワザとらしくハッとして見せながら答えた。
「あっ!わかった!義一さんでしょ!」
「えぇー、何でよぉ」
手を外しながら声の主は非難めいた声を後ろから投げかけて来た。振り向くと絵里が、不満を隠そうともせず膨れっ面でそこに立っていた。
「あれぇ?絵里さんだったの?全く気付かなかったわ」
私はワザとしつこく、ニヤケながらふざけて見せた。
「あのねぇ、いくら何でも男の声と私の声は間違えないでしょうに」
と絵里はますます不満を露わにして言うので
「ふふふ、ごめんなさい。冗談よ」
と私はとびきりの笑顔で宥めた。絵里はフッと顔の表情を緩めると、すぐにいつもの笑顔を見せた。
「もーう…ってあれ?」
絵里は周りを見渡しながら言った。
「裕美ちゃんは?裕美ちゃんは来れなかったの?」
「え?あぁ、裕美は…」
私も絵里に倣って、意味もなく周りを見渡しながら答えた。
「聞いてみたんだけど、今日は塾じゃない習い事があるとかで無理だったみたい」
「あら、そう?それは残念ね」
と絵里は私に視線を戻してから返した。
「うん、でもそれは四時くらいに終わるとか言ってて、最後にちょろっと顔出すくらいは出来るって言ってたけど、私が『そこまで無理しなくていいよ。また今度にしよ?』みたいな事を言ったのよ」
「へぇー…じゃあ、しょうがないわね…ところで」
絵里は急に身を屈めて、私を下から見上げると、意地悪く笑いながら
「何で琴音ちゃんは、裕美ちゃんにわざわざそんな事を言ったの?」
と聞いてきた。変なところで勘が良い人だ。女の勘ってやつか?男にそれを使えばいいのに…
などと余計な事を一瞬考えたが、すぐに訳を言うか言うまいか迷った。単純に小っ恥ずかしかった。
「ねぇねぇ、何で?」
絵里は”誰か”のモノマネをしているのだろうか、しつこく聞いてくる。はぁ…
私はそっぽを向きながら
「…それは折角だし、まず私が…そのー…一人で行ってみたかったからね。…と、友達として」
と出来たかどうかはともかく、なるべく感情を表に出さずにそっけなく答えた。するとその直後に、絵里は背後から私に勢いよく抱きついてきた。
「んーーーーーっ!琴音ちゃんって、やっっぱり可愛いーーー!」
「ちょ、ちょっと絵里さん!やめてよ!こんなところで…」
実際どうかは知らなかったが、私達の周りを通り過ぎていく人達に見られて、笑われている気がして、とても恥ずかしかったが、絵里さんは全く気にならないらしい。御構い無しだ。
「はーあ!満足した!」
私から離れた絵里の顔は、言葉の通り、とても満足げだった。
「そ、それは、良かったね…」
「ん?あれ?何でそんなに疲れてるの?顔も若干赤いし」
「な、何でもない」
まったくこの人は…。義一さんの事色々言うけど、絵里さんもかなりの変わり者だよね…まぁ今更だけど。
「?」
私の様子を見て、心の底から不思議そうにしていたが、勝手に一人で気を取り直して切り出した。
「さて、琴音ちゃん。早速私ん家に行こう!ほら…」
絵里はワザと身振りを大きくしながら、どんどん先を歩いて行った。
「さっさと付いて来て?レッツゴー!」
「お、おー…」
私は小声で一応答えてからトボトボと後を追いかけて行った。


私達は線路に沿って走っている道を横に並びながら歩いた。この道は一方通行で、駅に向かって行く車しかなかったから、前だけに注意していれば気楽に歩けた。車自体そんなに来ない道だった。
 絵里は今日は上に黒のニットカーディガンに、下は緑がかったグレーのミモレ丈スカートを穿いていた。前にも思ったが、サバサバしている割には、結構服装に凝っている印象を持った。勝手に決めつけて悪いけど、キャラ的に服装なんかどうでもいいとするタイプかと思っていた。裕美みたいな子が憧れるのも分かる気がした。私は軽くボタンで前を止めるタイプのグレーのセーターに、下は細めのジーンズだった。
 絵里は私の方を見て、ジロジロ舐め回すように顔と一緒に視線を動かしながら、話しかけてきた。
「今日はなかなか大人しい格好をしているね?」
「うん、学校から帰って早く出てきたから、大体そのまんまなの」
「ふーん、そっか!なんか焦らせちゃったみたいでごめんね」
「いいよ、別に」
私の答えにただ笑顔を示したが、ふと今思いついたように切り出してきた。
「そういえば、今日は何てお母さんに行って出て来たの?」
「ん?それはねぇ、まぁ友達と図書館で勉強してくるって言って来たの」
と最後にトートバッグを見ながら答えた。図書館以外は間違っていない。
絵里は少し真剣な顔をして考えていたが、そのままの表情で私の方を見ながら言った。
「ふーん…琴音ちゃん?ついこないだギーさんとも話したんだけれど、ギーさんと会う時もそんな事を言って家を出てるんだね?」
「う、うん、そうだけど…」
さっきから真面目モードの絵里に対して、若干気圧されながらも答えた。この時は何で急にマジになっているのか分かっていなかった。しばらくそのままま絵里は私の顔をジッと見ていたが、フッと急に優しく笑うと、進行方向を向いて明るく言った。
「…まぁ、いっか!後で詳しくは私の家で聞くよ」
「う、うん、分かった」
 それからは他愛のない話、学校の話とか、ピアノの話とか、そういった話をしているうちに、絵里の住むマンションに辿り着いた。
 何と言うか、何とも言えない、何処にでもある、よく見るようなマンションだった。さっきの駅前からは、大体徒歩十分くらいで、図書館までも大体徒歩十分くらい、そんでもって図書館から駅までも十分くらい。何が言いたいかというと、このとき思ったのは、この三つを線で繋ぐと正三角形が出来上がるという、しょうもない事だった。それだけだ。
 そんな事を建物を見上げながら考えていると
「おーい!琴音ちゃん!こっちこっち!」
いつの間にか開けていたのだろう、オートロックを開けて中のエントランスに入っていた絵里が、私に向かって手を振っていた。私は慌てて絵里の元に駆け寄った。
入ってすぐのエレベーターに乗ると、絵里は縦に並んだ数字の羅列の中の”6”を押した。そして着くと、まず心地良い風が、エレベーターからまだ出ていない私達に吹いてきた。外に出て左に出て見ると、周りに高い建物が無いせいか、階自体は高く無いのに遠くまで見渡せた。さっきいた駅がチラッと見えている。図書館は見つけられなかった。
「琴音ちゃん、そんなとこにいないで早くおいで」
絵里は廊下の一番奥に立ち、既に鍵は開けたのか、ドアを開けて手でその状態を保ちながら、私に声を掛けた。
「うん、今行く…じゃあお邪魔しまーす」
「はい、どーぞ」
玄関に入ると、何か甘い香りが立ち込めていた。とても落ち着く良い匂いだ。私が鼻をスンスン鳴らすもんだから、絵里が笑顔で話しかけてきた。
「良い匂いでしょ?これね、お花のラベンダーの匂いなの。私この匂い好きなんだー」
「うん、私もこの匂い好き」
「そう?それは良かった」
靴を脱ぎ、用意してもらったスリッパを履き、二、三個ドアが面した少しばかりの廊下を進みドアを開けると、リビングに出た。キッチンもすぐそこに見える。腰くらいの高さの棚で区切られていた。ここにも薄っすらとラベンダーの香りが充満していた。
部屋はいたってシンプルだった。真っ白な壁には時計が一つあるだけで、リビングには本棚とテレビ、向かいに二人がけソファー、その間に真っ黒のコーヒーテーブル、義一のあの書斎にあるのと同じサイズのテーブルと、椅子が二つあった。床には真っ赤な絨毯が敷いてあった。もう一つ部屋があるようだったが、ドアが閉まっていた。 角部屋のお陰か色んな方向から陽の光が注ぎ込み、電気を点けてなくても十分明るかった。ガサツなイメージとは裏腹に、至る所がかなり几帳面に片付けられていた。一人暮らしの大人の女性の家に先生を除いて初めて来たが、何処もこんな感じなのだろうか?偉そうだけど、子供ながらに中々好みな感じだった。
 お構いなしに気兼ねなくジロジロと部屋を見渡していると
「琴音ちゃん、そんなトコで突っ立ってないで、そこにでも座っていてよ」
と絵里がキッチンで何かゴソゴソしながら苦笑いを浮かべて、こちらに声を掛けてきた。
「はーい」
絵里は今度は冷蔵庫から紙箱を取り出し、私が座った椅子の前のテーブルに置いた。そしてフォークを乗せたお皿二つに、紅茶を入れたカップを二つ持って来た。
「ギーさんから、琴音ちゃんが紅茶が好きだって聞いたから淹れたけど、良かったかな?」
「うん、ありがとう」
私の返事を聞くと、絵里はただ笑顔を見せて向かいに座った。そして徐に紙箱を開けた。中には色んな種類の小ぶりなケーキが入っていた。
「わぁ、すごいね」
「でしょ?」
二人して立ち上がり、中を一緒に覗き込んでいた。
「ここね、駅前にあるケーキ屋さんなんだけど、たまにここで買ってくるのよ。で、琴音ちゃんにも食べてみて欲しくてどうしようかと思ってたんだけど、これなら好き嫌いがあってもどれかはイケるかなって買って来たの」
「へぇー、ありがとう!どれも私好みだよ!うーん…あっ、選んでも良い?」
「ふふ、お好きなのどうぞ?」
絵里は早速紅茶に手をつけている。私は悩んだ挙句、モンブランとイチゴのショートケーキを貰った。絵里はチョコレートケーキとチーズケーキだ。お皿にお互い盛り付けると、絵里は笑顔で私に向き、フォークを横にして、両手で”いただきます”をする時のポーズを作り、親指でそれを持った。私もそれに倣った。私が真似したのを確認すると、絵里は明るく号令をかけた。
「よし!じゃあ、早速いただこうか?いただきまーす!」
「いただきます」

「うーん、やっぱり美味しいなぁ。琴音ちゃんのはどう?」
絵里はチーズケーキを食べ終えると、紅茶を一口啜り、私に聞いてきた。
「うん、これ、本当に美味しい」
私もショートケーキを食べ終えたところで、紅茶に手をつけた。
「そう?良かったー。しかしこれって、本当に”女子会”みたいね?琴音ちゃんは女子会ってする?」
と聞いてきた絵里は、早速チョコレートケーキに手を出している。私はカップをテーブルに戻しながら、苦笑混じりに答えた。
「絵里さん…私を幾つだと思っているの?まだ小五だよ?そんなのやるわけないじゃない」
「あっ、あぁー、そっかー。まだ小五だもんねぇ。あまりに世間の小五とかけ離れているから、ついつい錯覚しちゃうのよ。大人び過ぎているからかな?」
「え?…そうかなー…老け顔って事?」
と私は自分の顔を左手で撫でながら返した。すると絵里は満面の笑みになって、私が触っている反対のホッペを軽くつねりながら
「あははは!そうじゃないよ。そうだなぁ…”大人の色気”っていうのかなぁ。女で年上の私から見ても、羨ましいくらい、もう既に琴音ちゃんはそれを身につけちゃっているんだなぁ」
と言うので、私は絵里の手を払い、目の前のもう一つ、モンブランに手をつけながら返した。
「またそんな訳のわかんないことを言ってー…色気か…色気って何だろうね?」
自然とモンブランを口に含みながら疑問が口から飛び出した。あっ!と思う前に絵里が意地悪く笑いながら、素早く反応を示した。
「おっ?出た出た、琴音ちゃんのクセが。じゃあ、分かっているだろうけど逆に聞くね?色気って何だろう?」
「えー…」
と一瞬考えて見せたが、今回は前とは訳が違う。私も意地悪く笑いながら返した。
「…って、こればかりは私には無理よ。だって…」
ここで私は両手の人差し指を、両方のほっぺに当てながら戯けて続けた。
「まだまだか弱い、小五の女の子だもん!」
私の迫真の、痛々しいぶりっ子振りを目の当たりにした絵里は、冗談じゃなく呆然としていたが、急にプッと吹き出すと、ニヤケながら言った。
「はは、琴音ちゃんもそうやって冗談でもぶりっ子が出来るんだねぇ。いや、御見逸れいたしやした」
と最後は深々とお辞儀をした。私はただでさえ恥ずかしいのを我慢してやって見せたのに、仰々しくやられると、恥ずかしさは倍増だった。私は慌てて
「いやいや、絵里さん!顔をあげてよ。流石の私も恥ずかしすぎる!」
と抗議すると、少し顔をあげ、ニヤッと私にも分かるように見せてから、改めて体勢を元に戻した。そしてやれやれといった調子で
「はぁーあ、まっ、琴音ちゃんのぶりっ子が見れたから、今回はこれぐらいにしとくか!」
と言い終えると、紅茶を一口啜った。
「なーんか、そうすれば私がすんなり許すだろうという目算があるように感じて、子供特有の小賢しさを見せられた感は否めないけど…」
最後に私にジト目を送りながら言った。
「えぇー?そんな事ないよぉ。心外だなー」
と私は思いっきり棒読みでセリフを読むように、淡々と視線をわざと逸らしながら答えた。少し間が空いたが、私が視線を戻すと、丁度絵里と目があい、そこでまた無言で一瞬見つめあったが、お互いに吹き出して笑いあったのだった。

「さてと…色気ねー」
チョコレートケーキを食べ終えた絵里は、カップを手にしながら呟いた。
「あらためて聞かれると…分からないわねぇ…まったく」
絵里はここで一口紅茶を啜ると、カップをテーブルに戻し、そして私に恨みがましい視線を送ってきながら言った。
「また人が困るようなことを意地悪く見つけて、質問してくるんだもんなー…この困ったちゃんめっ!」
「ふふ、ごめんなさい」
他の人に言われたら私は本気にして傷ついただろうが、私と絵里の間には、これを冗談だといちいち言わなくても分かる絆のようなものが醸成されていた。
「でもまぁ、これは絵里さん自身に聞きたいことでもあったの…子供の私から見ても、漠然とだけど、色気があるように感じるし…意外だけど」
と最後の方はボソッと小さく、でも嫌味と分かるように言った。
「ちょっと?聞こえているわよ?…まったく誰に似てそんな、人を巧みに小馬鹿に出来る技術を身につけたんだか…あっ!」
絵里は苦笑いで不平を述べていたが、急に何かを思い出したようにハッとした表情になった。私がその変化を見逃すはずがなかった。
「え?何?何を思い出したの?」
と身を乗り出すように、向かいに座る絵里に近付き聞いた。絵里は少々照れ臭そうにしていたが、私が引く気がない、そもそもそんなキャラじゃないことを思い出したのか、観念したかのように話し出した。
「あー…いやー…ね?…ギーさん関連だから、あまりこの手の話で出したくないんだけど」
「え?何で出したくないの?」
正直私は照れ臭そうに義一の名前をいう絵里の様子を見てすぐに察したが、敢えてズルく詳しく聞き出そうとした。
「ま、まぁいいじゃない!でもそっか…余計に深い意味があるように思わせちゃうよね…よし、じゃあ言うね!」
何やら途中はボソボソ言っていたが、自分自身を奮い立たせるように語気を若干強めて言い放った。
「…あれは、そう…私とギーさんがまだ大学生だった頃の話なんだけど」
「うん」
「私が何かの授業が終わって、友達…前に言った、離れていったのじゃなくて、その後新たに出来た友達ね?この頭にした後の」
絵里は笑顔で自分の頭のキノコに触った。
「…で、その友達と次の授業がある教室まで、十五分くらい時間があったからゆっくり移動していたんだけれど、散歩の意味も含めて、普段人が通らない建物の裏を通って行こうとしたのね?そしたら何やら人の気配がしたの」
「その人っていうのが…」
「そう、ギーさん!…で、声をかけようとしたら、どうも一人じゃないようだったの」
「誰がいたの?」
「遠くから見てたんだけど、すぐに誰か分かったの。それは…私から離れていった友達の一人だったのよ」
「え?えぇー…何でまた?」
と私が心の底から不思議がっていると、絵里は私に優しく微笑みかけてから、続きを話した

「ふふ、さすがの聡明な琴音ちゃんでも分からないか…要はね?ギーさんが私の元友達から告白されていたの」
「え?…えぇーーーーー!」
私は自分でもビックリなくらい大きな声を出した。絵里は笑いながらも私の口を手で押さえながら言った。
「シーーーっ!琴音ちゃん、他の人もここには住んでるから、大声は無しでね?」
「あっ、うん…ごめんなさい」
私が口を押さえられながら謝ると、絵里はまた椅子に座って紅茶に口つけてから続けた。
「ははは、まぁ琴音ちゃんが驚くのも無理はないよ。なんせ私と琴音ちゃんはアヤツの生態を嫌という程知ってるからねぇ。とてもじゃないけど女にモテるとは思えないよねぇ?あんな屁理屈ばっかり言う”理性の怪物”なんて」
「あ、いや、そんな…」
私は無意識に自分でも意味がわからないまま、義一のことをフォローしようとしたが、それは受け入れられなかった。絵里はわざと無視して先を続けた。
「で、その時私は一緒にいた友達に、先に行って席を確保しておくように頼んで教室に向かわせたの。私はそうねぇ…十数メートルくらいは離れていたかな?物陰から興味津々って感じで見守ることにしたの…いや、ただの野次馬ね?」
絵里は悪戯っぽく笑って見せた。
「まぁまぁ距離があったから、何を会話してるのかまでは分からなかったけど、雰囲気的に告白なのは分かったからジッと見てたの。そうね…私の位置からは彼女の顔は見えたけど、ギーさんはこっちを背にしていたから、表情までは分からなかったね。…でね?少しすると、彼女の方がギーさんに急に詰め寄り何か捲し立てていてね。私はその時『あぁ、ギーさん、また何かよく分からない理屈を言って、相手を怒らせちゃったんじゃないでしょうね?』って一人頭を抱えてたの」
私も話を聞いていて、その情景は見てもいないのに、はっきりと浮かぶようだった。
「最後の方は彼女は半泣きでね、最後に何か捨て台詞を吐いて走ってどこかへ行ってしまったの。ギーさんは追いかけようともせずに、頭をポリポリ掻いているだけだったわ。私はやれやれと溜息をついて、静かにギーさんの背後に忍び寄って、手が届く距離まで近づくと声を掛けたの。『…はぁ、何やってんのよギーさん?』急に声を背後から掛けられたもんだから、ギーさんは素早く振り向いてこっちを見たけど、私とすぐにわかると、向こうも大きく溜息をついて言ったわ。『なーんだ、絵里かい?驚かさないでくれよ?』」
絵里がまた前みたいに、特徴をよく捉えた義一のモノマネをしだした。
「『今の子なんだったの?』って私は、ギーさんの抗議には一切耳を貸さずに聞いたの。そしたらギーさんはこうやって頭を掻きながら言ったわ。『いやー…見られてたのか。…どこから見てた?』って、私が覗き見してた事には文句を言わずに質問してきたの。後で思ったんだけど、これって普段からギーさんが私のことを、よく覗き見している趣味の悪い女だって思っているって事だよね?心外だなぁ」
絵里は納得いかないって顔で言った。私はただ、同意ともなんとも言えない感じで、ただ微笑むだけだった。
「ふふ」
「そこは否定してよー…まぁいいや。で、私は『あそこから見てただけだから、声までは聞こえなかったけど、多分…最初から?』って言いながら隠れていた物陰を指差したの。ギーさんもそっちを見ながら『ふーん』って素っ気なく返すだけだったわ。で、なかなか自分から話す様子を見せなかったから、私からギーさんに、肩に腕を回しながらニヤケ面で聞いたの。『そんなことよりさー…ギーさん、隅に置けないねぇ。あんな美人に言い寄られるなんて』この時敢えて、彼女が私の元友達とは言わなかったわ。『で、どうしたの?あの子、なんか最後は怒って帰っちゃった様に見えたけど?』って離れてから聞いたら、最初腕を組んで考えていたけれど、いかにも仕方ないなぁって顔しながら頭掻きつつ教えてくれたの。『いやー…最初はゴメンって断ったんだよ?そもそもあの子の事知らなかったし。そのことも言いながらね。僕なりに何も知らない相手に対して、変に受け入れず誠実に断るのが一応義務かなって思って言ったんだけど』ここまで言うと私の事を見てきてね、ニヤって笑って言ったの。『…どっかのモテモテの誰かさんの真似をしてね』って。私はその嫌味を華麗に無視したわ!」
絵里は手で飛んでいる虫を払うような動きを見せてから、ここで一息ついて絵里は紅茶を飲んだ。
「でね、続きを聞こうとしたらここでチャイムが鳴っちゃったの。授業開始のね?正直無視してその先聞こうとしたんだけれど、ギーさんがパタッと会話を止めてね、これでお終い!って言うのよ」
「えぇー…まさか本当にこれで…?」
と私もずっと黙って聞いている間にモンブランを食べ終え、両手でカップを包むように持ち、紅茶を一口啜りながら聞いた。すると絵里は、大げさに人差し指を胸の前で上に向けるように立てて、口でチッチッチッと言いながら、それを左右に揺らし、そしていつもの悪戯っ子な表情を浮かべて言った。
「いやいやいやいや!この絵里さんが易々このまま引き下がる訳ないでしょ?ちゃんとその後待ち合わせの約束を無理矢理させて、大学近所の喫茶店に入って根掘り葉掘り聞いたわ」
ここまで言い終えた絵里は、すごく誇らしげだ。
「で改めて聞いたわ。『で?結局どんな相手を怒らせる悪い事を言っちゃったの?どうせ今回もギーさんの至らなさの所為に決まっているんだから!』ってズバッと聞いたの。そしたらギーさん、こうやって頭を掻きながら『おいおい、”も”って何だよ”も”って』って苦笑いしてたわ。当然そんな抗議は無視して続きを促したの。ギーさんはやっと話し始めたわ。『いや、何も言ってないと思うんだけどね…ただずっとおんなじ問答が続いて、ふとあの子が急に”じゃあ望月さんのタイプってどんな人なんですか!?”って結構強めに聞いてきたんだ』って言うの。私それを聞いて、あの子…私と友達だった頃は軽薄なチャラい印象だったけど、結構この手の恋愛ものは素直じゃない”なんて、今更かつての友達に対して感心してたんだけど、私はその事も言わないで黙っていたの。ギーさんはそのまま続けたわ。『急に聞かれて困ったんだけどね…まぁ…”色気”…かなぁ?色気がある女性が好きって答えたんだ』って言うの」
「あっ…あぁー」
途中だったけど、私は胸の前で一度パンと両手を叩いて、合点がいったように見せた。
「やっとここで”色気”が出てくるのね?」
と私が言うと、絵里が私に人差し指で指しながら答えた。
「そう!その通り!エクセレーント!」
何故英語?なんてくだらない疑問が一瞬浮かんだが、それをすぐに打ち消して、
「前置きの長さは義一さんと良い勝負ね?」
と意地悪く言うと、絵里は頭を掻く義一のモノマネをしながら続けた。
「えぇー、勘弁してよー…。で、それでね?ギーさんが続けて言うのはね、こうだったの。『”色気?”って、自分から聞いてきたくせにキョトンとしてるんだ』『まぁ、普通の大学生がタイプにあげる第一候補には来ないだろうからね』『そうかなぁ?咄嗟に言った割には自分で納得いってるんだけど…するとね”私はどうですか?私は色気がありませんか?”って言うんだよ』ギーさんは困り果てた顔をしていたわ。私も話を聞いてて、なかなか告白して断られた相手に、ここまで食い下がるのは凄いなぁって単純に感心してたの。もっと違う形だったら、仲良く出来たかもなぁ…なんて思いながらね?で、私が『なんてそれで答えたの?』って聞いたの。そしたらギーさん、これが普通って感じで返してきたのよ…」
絵里は苦笑いだったが、何とも言えないもっと色んな感情が入り混じってそうな笑顔だった。
「『え?…君?そうだなー…うん、無いね』」
「え?えぇー…」
絵里の精巧な義一のモノマネ越しに、そのセリフを聞いたが、いくらこの手の話に疎い私にだって、この返答が酷いことは分かっていた。
「そのたった一言だけ?無いって?」
私が確認するように聞き返すと、絵里は苦笑を解かずにそのまま続けた。
「ね?なかなかでしょ?その時の私も思わずしかめっ面しちゃったもん!”えぇー”って感じで。でもそんなの気にするタマじゃないから、ギーさんは構わず続けたの。『僕がそう言うと、あの子は何を言われたのか分からない感じでいるから、まぁいいやと思ってそのまま続けたんだ。だから君は僕のタイプじゃ無いから、ごめんって。そしたら急に激昂してきて何か喚き立てていたけど、よく聞き取れないままどっかに行っちゃったんだ…で、終わり』って軽く閉められちゃったの。もうね、言うまでも無いけど、心底呆れ返ってね、まぁでも友達だから忠告しなきゃって思って、言ってあげたの」
絵里は足を組み、肘をつき、顎を手の上に乗せて、ジト目で私の方を見てきた。おそらく今ここが、義一と入った喫茶店、という設定なのだろう。
「『ギーさん…友達として一つ忠告しておくね?』『何かな?』『…夜道背後には気をつけるんだね…そのうち刺されるから』ってね!」
途中までは声を低くし、ドスを効かせた声質で話していたが、最後の最後で明るく調子を上げて言い切った。私は黙っていたが、最後の調子が上がる所で、直後に吹き出してしまった。
「…ふふ。ホントだね!よくその人に何かされなかったなって思うよ」
と言うと、絵里はまた元のように座り直し、カップを手にしながら返した。
「でっしょー?正直ね、こんな話はまだいくつかあるのよ?ひっどいでしょー?しかも本人は、微塵も悪気が無いんだからねぇ…悪質極まりないのよ」
「ははは!」
「はぁー…あれ?何でこの話をしてたんだっけ?」
「え?えぇっと…」
私も一瞬何でか理由を忘れかけていたが、すぐに思い出して言った。
「ほ、ほら!”色気”についてだよ!」
「あっ!あぁ、そうだった、そうだった!失敬失敬!」
絵里は片手でゴメンとジェスチャーをしながら謝った。
「そうそう、でね、琴音ちゃんじゃ無いけど気になるじゃない?ギーさんの考える”色気とは”って」
「ふーん…気になるんだー」
私は意味深に笑いながら絵里をジッと見た。絵里は一瞬ハテナを浮かべたが、ハッとすると急にアタフタしながら答えた。顔は若干赤みが差していた。
「ち、違う違う!あんなに好いてくれていた相手に対して、手酷い仕打ちをする程の理由が知りたかっただけだから!」
「ふふふ、ごめんなさい?」
私が頭をわざわざ下げて謝ると、絵里もようやく落ち着きを取り戻し、続きを話し始めた。
「『ギーさんはそう言ったけど、あの子の何処を見て色気がないと思ったの?』って聞きながらその時私の脳裏には、あの子の服装が浮かんでいたの。あ、そうそう、ちょうど今ぐらいの時期でね…あぁ今気付いたけど、もうすぐクリスマスだから…だからか…」
「もしもーし、絵里さーん?」
私は身を乗り出して、急に何やら考え込みだし、ブツブツ言っている絵里の顔の前に手を出して、ヒラヒラして見せた。絵里はハッとすると、照れ笑いを浮かべながら続きを話した。
「あ、あぁ、ゴメンゴメン!また外れちゃうところだった。で、私は聞きながらあの子の服装を思い浮かべてたんだけど、中々派手な格好をしていてね?上はそこそこ厚めのセーターを着ていたと思うんだけど、下はショートパンツに、なんかタイツ的な物を履いていたのよ。男共としては垂涎物だったと思うよ?まぁ、私は男じゃないからイマイチ分からないけどね?で、あの子もスタイルが良かったから、素直に言って似合っていたの。私の連んでいたグループの中でも一番可愛かったわねー…。おっと、話を戻すと、ギーさんはどう答えようかってな感じで考え込んでいたけど、しばらくしたら答えたの。『うーん…何処って…まぁ一言でいえば、”空っぽ”な事かな』って答えたの」
「…空っぽ」
私はそう呟くと、手元の空になったカップの中をチラッと見た。絵里はそれを見るとすぐに察して
「あぁ、もう紅茶ない?お代わりいる?」
「あ、うん。良ければ」
「はは、遠慮しないでよ!ちょっと淹れてくるね?」
絵里は自分の分と私のを持ってキッチンに行った。そしてすぐに戻ってきた。
「はい、どうぞ。今淹れたてだから気を付けて飲んでね?」
「うん、いただきます」
私達はお互いふーふー息を吹きかけてから、一口紅茶を啜った。絵里はカップを置くと、はぁッと短く息を吐いて、満足げな表情を浮かべてから、前置きおかずに話を続けた。
「で、えーっと…そうそう!空っぽな所って答えたのよ。私も頭にクエスチョンマークが浮かんでいたんだけど、取り敢えず『空っぽ?』とだけ、さも意味が分からんていう意思表示だけは示したの。それが通じたのか、ギーさんは話を続けたの。『空っぽっていうのはね…うーん…喩えが難しいんだけれど、逆に言えば、中身が色々と詰まっていたら、その中身の片鱗が見え隠れしている…ってことかな?』なんて言うの。琴音ちゃんならわかる?」
急に私に話を振ってきた。振られたからにはそれなりに考えてみたが
「…うーん、分かるような分からないような…」
と最後は苦笑いで返した。絵里も同じく苦笑いだ。
「よく分からないよね?まぁ、聞いたのは私だから、当時それなりに考えてみたけど、サッパリだったから素直に聞いたわ。『…ん?益々意味不明なんだけど?…これって”色気”についての話だよね?』って。そしたらギーさんも私とは別の意味で益々俯き考え込んじゃってねー…まぁ普通の人ならここで呆れて帰っちゃう人もいるかも知れないけど、下手に付き合いがあるせいで、これは相手に対して真摯に誤解がなるべくないように、慎重になっているためだって事がよくよく分かっているからね、黙ってギーさんが考えている間、私も黙って外の景色を見たりしていたの。でもまぁ数分くらいだったと思うけど。暫くしてギーさんは、顔をあげて話始めたわ。『…まぁこれが分かりやすいかどうかはともかく…昔から言われている言葉を使えば、”秘めているものがある”ってことかな…これでどう?』なんて言うの。これはどう?」
また私に振ってきた。
「うーん…さっきよりは分かるかなー…何となくだけど」
「うん、私もそうだったの。『秘めてるものねぇ…あっ!じゃあ、さっき言ってた中身がどうのってこういうこと?』って聞くと、ようやくギーさんは笑顔になって『そう』とだけ短く答えたの。でもすぐ私は疑問が沸いたから聞いたわ。『…えっ、でもさっき片鱗が見えかくれしてるとか何とか言ってなかった?』『うん、言ったよ』『それって…秘めれてないじゃん』って素直に感じたことを聞いたの」
「確かに…秘めてるものって言ってたのに、なんか矛盾してるね」
と私が言うと、絵里も強くウンウン頷いて同意の意を示した。
「それだけ聞くとそう思うよね?でもここでギーさん先生が仰ったの」
絵里は人差し指を立てて、天井に向け、目を閉じながら言った。
「『イヤイヤ、秘めてるのかどうかは、その片鱗を見せてくれなきゃ分からないじゃないか』ってね」
「あぁ、なるほど」
「『元々空っぽだったら何も滲み出てくる訳ないし、逆に中身があると、いくら隠し秘めようとしても、どっかしらから漏れ出てしまうものだからね』ってね、言うのよ。それを聞いてそれなりには納得したけど、一応聞いてみたの。『…じゃあ今言ったのが、ギーさんにとっての”色気”の元なのね?』『そう、まさしくね。だから…さっきの絵里の反応を見て、ようやく悪い事をした気がしてきたんだけれど…』」
「遅ーい!」
と私は、この場にもいないし時間軸もずれている昔の義一に対して、思わずツッコミを入れてしまった。絵里は満面の笑みだ。
「で、ギーさんの続きを言うと『まぁまたあの子に悪い事を言うようだけれど…何も感じなかった。まぁ彼女に限らず、また男女を問わず、何かを僕が感じ取れるような人には中々出会えないんだけれどね?…あっ!』なんか急に何かを思いついたみたいで、ここで声を上げたの。私はびっくりして『な、なに?』とだけ言うと、ギーさんは笑顔で、でもどこか悔しそうに答えたの。『あぁー…あ、いやね?もう一つこんな言葉があったなって』『どんな?』『…秘密を着飾る事で女は綺麗になるってヤツ』ってニコニコしながら言うの。私はそれを聞いて、それ自体には納得したけれど…」
とここまで喋ると、絵里はジト目になって言った。
「こんな表情を作ってね、言ってあげたの。『言いたいことは分かるけど、それってある意味地雷だからね?』『え?どういう意味?』って聞いてきたから、答えてあげたの。『あまり男が女についてあれこれ言うのは、煙たがれるものなのよ。”女とはこういうもんだ”みたいなね。例えそれが的を射た意見だとしてもね。まぁ私は気にしないで、納得いけば受け入れるけど』ってね」
「あぁー…確かに…あっ!」
私はここで初めてさっき絵里が言った言葉を理解した。
「これがさっき絵里さんが言っていた”理屈っぽい男は嫌われる”ってヤツね?」
と聞くと、
「その通り!また一段大人の女への階段を上がったね?」
と絵里は笑顔で若干ふざけ気味に返した。
「まぁ、琴音ちゃんには理解出来ても、あの朴念仁は理解出来なかったみたいだけどねぇ。まぁ”怪物くん”だから仕方ないけど…あぁ、そうだ!」
絵里は紅茶を一口飲みながら落ち着きかけていたが、急に立ち上がると、テレビの方へと歩いて行った。そしてそテレビの両脇に設置してある縦長のタワーラックを開けると、中から大判の本を一冊取り出し、それを持って戻ってきた。そして私にそれを手渡すと
「琴音ちゃん、悪いけどそれちょっと持ってて?テーブルの上を片付けちゃうから」
と言った。
「う、うん、わかった」
とだけ返事する私を尻目に、絵里は手際よくケーキの入っていた紙箱、お皿をキッチンの流しの方へ持っていき、箱はゴミ箱、お皿は洗い桶に入れて水を溜めた。慣れてる感じだ。
 私はその姿を見ていたばかりに、手渡された手元の本の存在を忘れていた。絵里は手をタオルで拭いてからまた戻ってきた。そして向かいに座りながら、私が手渡されたままの状態でいるのを見て
「なーんだ、まだ見てないの?もう見ちゃったと思ったよ」
と微笑みながら言った。私は言われて初めて手元の本を見た。A4判くらいの大きなサイズだ。表紙を見ると、英語で書かれていて、イマイチ分からなかったが、表紙には美人な女性が載っていた。ただし白黒写真だった。
「これって…?」
顔を上げて本をテーブルに置き、向かいに座る絵里に聞くと、絵里は本を置いたままページをおもむろに開きながら答えた。
「これはねぇ…昔の映画スター達の写真を集めた、いわゆる写真集だね」
「へぇー…」
絵里がペラペラページを捲るのを、身を乗り出しながら覗き込んだ。一つもカラーのものは無い。出てる女優の写真は全て白黒だ。中々見る機会が無かったので興味津々に見ていると、絵里は微笑みながら、私がまっすぐ見えるようにひっくり返しながら言った。
「どう?見たことないでしょ?私だってリアルタイムには見たことないスターばっかりだもん。中には戦前から戦後にかけて活躍した女優も多いのよ?」
「はえー…そんな昔の…」
私はペラペラ一枚一枚注意深くページを捲りながらシミジミ言った。夢中になって見ていたが、やはり疑問があったので聞いてみた。
「…で?いや、すごく面白く見てるけれど、これが今までの話とどういう関係があるの?」
「ふ、ふ、ふー、それはねぇ…」
絵里は勿体ぶって得意満面に焦らした。と、ちょうど私が見ていた写真の女優を指差しながら言った。
「ほら、よーく見て考えてみて?今までの話との関連が見えてこない?」
「うーん…あっ、なるほど!」
私は少しだけ考えたが、すぐに思い至った。
「話の流れ的にだけど、ここに載ってる女優達が所謂”色気”のある女って事?」
と言うと、絵里は柔和な笑みを浮かべて、身を乗り出しページを覗き込むようにしながら返した。
「…まぁ、そう言うことになるかな?…実はこれをアナタに見せたのも、ギーさんが具体例として教えてきたからなんだ」
「へ?…へぇー…」
私は尚更ここに載っている女優達に興味が湧いた。
へぇー…あの義一さんが思う、色気ある女性がコレねぇ…
私がマジマジと見ていると、その様子を微笑ましく見ながら、絵里は静かに話し始めた。
「…あれからね、ギーさんもちゃんと説明出来なかったと思ったのか、不完全燃焼だったのか、私にその週だったかな?…私に何本か映画を貸してくれたの。その中の一つが…」
絵里はペラペラページを捲るとある所で止めて、手を大きく広げて、ページが移らないようにしながら押さえて見せた。
「この女優が出ていた映画なんだけど、クリスティー原作の裁判物でね?その中でこの人が本当に名演をしていてさぁ…罪に問われた愛する男を救うために、色々と裏で工作する役だったんだけど…知ってる?」
私は話を聞きながら、写真の余白に簡単な説明文が載っていたので読んでいた。代表的な出演作が羅列されていて、その中の一つに、前に読んだ事のあるクリスティーの作品名が出ていた。
「…うん、これなら本で読んだことあるよ。劇の奴みたいだけど」
視線を本に落としながら言うと、絵里は驚き混じりに、嬉しそうな声で返した。
「…はぁー、駄目元で聞いてみたんだけれど…戯曲まで読んでいるなんて、琴音ちゃんの守備範囲広すぎでしょ」
「い、いや、そんなでもないよ」
一向に私は顔を上げなかったが、絵里の表情は容易に想像出来た。
「でね、この人は…まぁ琴音ちゃんが分かる前提で話すけど、元々ドイツ人でね?本当の理由はよく分かっていないんだけれど、当時の政治体制から逃げるように、アメリカに亡命した人なんだ」
「はぁ…中々暗い人生を歩んだ人なんだね」
私は当時の魅せ方なのだろう、絶妙にボカシ気味の女優の顔をジッと見ながら言った。「そうだね…って別に暗い話をしたかったんじゃなくてね?まぁ話を戻すと、この女優さんも含めて、貸してくれた映画に出ていた女優達に、確かに”色気”の様なものを感じたの。でね?何も言われなかったけど、私に貸したってことは、どこにその色気の秘密があるのか、見つけられるもんなら見つけてみろって事かと思ってね?…私も一応女だし、なんか試されてるようでムカついたけど、こうなったら見つけだして”怪物君”の鼻を明かしてやろうと、躍起になったの。…まんまと術中にハマったわけね」
絵里は自嘲気味に笑いながら言った。
「何かなー?って色々細かく見ていたら、当たり前だけど今の人と違うところがいくつも見つかったの。まず見ての通り白黒でしょ?…あはは、そんなつまんなそうな顔しないでよ?冗談よ。…あと服装。今の人みたいに肌を露出させる様な服は限りなく少ない…今、琴音ちゃんが写真で見た通りにね?うん…ギーさんに簡単に同意するのは嫌なんだけど、でも少し分かったの。確かにギーさんに告白したあの子には悪いけど、あの子に限った事じゃないけど、変に露出度の高い今時の女よりも、露出させてない服を着ているこの女優達の方が”色気”があると感じたの。…でなんだけど、琴音ちゃん?」
「え?」
私は話を振られるとは思っていなかったので、ふと顔を上げた。目の前には笑顔をこちらに向けている絵里の顔があった。
「さて、琴音ちゃん。いつまでも私の話を聞いてないで、琴音ちゃんの意見も聞きたいなぁ」
小五の私に”色気”の事なんて分からないって、さっき言ったのに…逃してはくれなかったか…
と軽く心の中で毒づいたが、まぁ私がきっかけだった事も忘れていなかったので、ノル事にした。
「…もーう、さっき知らないっ!って言ったのに、まだ小五の女の子に聞く気でいるんだからなぁ…まぁいいや!絵里さんが私に色気があるって言ってくれたから、そこにもヒントがあるんでしょ?」
一応問いかけたつもりだったが、絵里は面白そうに笑うだけだったので、先を続けた。
「うーん…何だろう?この女優さん達と私の共通項…ねぇ?」
色々とさっきの義一と絵里との会話も含めて考えてみた。でも正直それらを合わせてみても、何かこれといった答えは出そうにも無かった。
中身が詰まっている?…いや、そもそも私の中身は詰まっているのか?…私を置いといても、この女優達の中に何が詰まっているというの?
ずっと同じところをぐるぐる回っていたが、ふとフザけたブザーの音で無理やり終わらされてしまった。
「…ブッブー!時間切れです。残念でした」
絵里は唇を大きく前に突き出してブザーの音真似をした。悪戯っぽく笑っている。
「…何それー。時間制限あったの?」
私は不満を大いに顔中で表現して見せながら不平を言った。苦笑いだ。
「はいはい、文句を言わない!まぁ琴音ちゃんは写真を見ただけだからね…答えられたら凄すぎるよ!…はいそこー、そんな顔しないでくださーい」
私は後出しジャンケンされた心持ちで、膨れて見せていた。絵里はその様子を見て、少しの間微笑んでいたが、表情そのままに質問を投げかけてきた。
「ふふ…琴音ちゃん、でも分からないなりに考えてみたんでしょ?それを聞かせてくれないかな?」
「え?あ、うん…大した事じゃないけど」
私は先ほど考えた事をそっくりそのまま話した。ずっと同じところを堂々巡りしていた事も。絵里は面白そうに聞いていたが、私が話し終えると、また顔面に微笑をたたえながら切り出した。
「…うん!答えは出なかったみたいだけど、方向性としては正しいよ、あくまで私基準でね?さっすがー!…じゃあ、そうだなぁ…何から言うか…そうだね、その中身の事だけれど、やっぱりさっきみたいに、軽くでも暗い話をしなくちゃいけないんだけど、良いかな?」
「うん、それで解明出来るなら」
「よしっ!その中身の正体からだけど…やっぱり暗い当時の時代背景に起因しているのよ。学校で習ったか、何かの本で読んだかも知れないけど、この本に載っている女優達が生きてた時代は所謂”激動の時代”でね?戦争がひっきりなしにあったり、価値観の真逆同士が平気で殺しあうような時代だったの。愛する人が目の前で簡単に死んでいく…明日は我が身ってね。いつもそばに”死”があった…」
「…」
絵里が低くドスを利かして話すので、思わず私は生唾を飲むのも躊躇うほどに聞き入っていた。
「…て言っても、当然私には実感としては感じられないんだけれど、でも少しでも想像力働かして、その当時の悲惨さを理解しようとすれば、少しでも接近できる。前置きが長くなったけど、何でこの女優達の中に”中身”が詰まっていたのか?それはね…」
絵里は芝居掛かって一度話を止めてから、吐き出すように言った。
「いつ何時でも気を抜かずに”真面目に”生きていたからだと思うの」
「…真面目に」
私はただ無意識にふと呟いた。絵里はコクッと一度頷くと続けた。
「うん。…当然私も”今の時代”に生きているから、これを言うとバカみたいに思われちゃうかもだけど、でもまぁ一言でいえば、今の日本にいる限り、真面目に生きなくても生きていけちゃうんだよ。必死に何か大きな力、運命って言っても良いかも知れない、それに抗おうとしないでも、銃弾が飛び交うような事もないし、目の前で人殺しがあるわけでもない…貧困で喘いでいる人がいるとしても、そんなの大昔から変わっていない。いや、今の方が格段にましなのは確か。…言いたいこと分かるかな?」
「…うん」
私はずっと聞いてきた中で、頭に浮かんだ事をそのまま話した。
「…要するに、いつ死ぬかも知れない、いつもそばに”死”があったからこそ、”生きる”事に対して貪欲になって、必死に色んなものを自分の中に取り込もうとした…って事で良いのかな?」
最後の方は自信なさげに答えたが、間違ってはいないという、根拠のない自信はあった。
 絵里は私の答えを聞くと、真顔で私の顔をジッと見ていたが、フッと緊張を解くように柔和な笑顔を見せてから話した。
「…そう、その通りだね。そうでもしなくちゃ明日、いや、その日にも死んでしまうという恐怖があったんだろうから。…だから意識してなくても皆んな必死に”生きていた”。でも、しつこいようだけど、今日本に生きてる人、まぁ言ってしまえば”大人達”は、そんな必死にならなくても、給料をもらえれば、ふざけていても生きていける。でも、ただ毎年毎年、ただ惰性で生きていると、いつまで経っても歳を重ねても”中身”は空っぽのまま。…言いたいこと分かるね?」
「うん」
「いつまで経っても中身が空のまんまだから、中身が”詰まらない”…そう、つまらない人間としか生きていけなくなっちゃうの。…あっ!」
ここで区切ると、絵里は少し気まずそうな表情で、苦笑混じりに言った。
「別にシャレじゃないからね?」
「…ふふ、分かっているよ」
私はただ和かに答えた。
「えーっと…何だっけ?…あぁ、そうそう!だからようやく結論だけど」
絵里は今開いている、さっき話したドイツ人の女優をトントンと軽く叩きながら言った。
「”色気”とは、この女優達みたいに必死になって生きようと足掻く中で、身に付けたあらゆるモノの片鱗が、隠しきれずに滲み出てきたもの”…って事でどうかな?」
絵里は最後に少し、今まで真面目に話した事を恥ずかしがるかの様に、おどけて見せながら言い終えた。私は何も疑問が浮かばない事に至福を感じて、今の絵里の言葉を噛み締めていた。清々しい気分だった。…ただ、すぐにちょっと意地悪な考えが浮かんだ。それを敢えて口にしてみる事にした。
「…うん、凄く心の底から納得いったよ。気持ち良いくらいに。…でもちょっと良いかな?」
「ん?なによ?」
絵里は私の返事に気を良くして、満面の笑みを浮かべていたが、私の質問風のセリフに、少しだけ警戒心を表した。
「気を悪くしないで欲しんだけれど…」
「なによ?焦れったいなぁ。私達の仲でしょ?遠慮なく言ってよ」
「うん、じゃあ…」
私は一息置いてから続けた。
「…あくまで感覚なんだけれど…話し振りがまるで義一さんみたいね?」
私は短くそう言うと、絵里の反応を黙って待った。絵里も黙ったままホッペを掻いていたが、すぐに苦笑いを浮かべて、やれやれといった調子で返した。
「…やっぱりバレたか。あっ、いや、気なんか悪くしないよー?もーう、琴音ちゃんは本当に”気にしい”なんだから」
絵里は優しく私に微笑みかけた。
「普段はあんなに平気で毒を吐くのにね」
「あ、いや」
私はしどろもどろだ。絵里は今度は明るい調子で言葉を続けた。
「いやー、やっぱり分かるんだね?流石だわ。何で分かったの?」
「あー…うん。義一さんに私の疑問を答えてもらった後の感覚に…うーん、近いから?…としか言いようが無いんだけれど…」
「ふーん…そっか」
私のあまりに抽象的な返答に対して、絵里は何も疑問を持たない感じでこちらに優しく微笑んでいるだけだった。と、絵里はおもむろに両手を上へ向けて伸びをしてから、話し始めた。
「そう!さっき言った様にね、映画を見てアレコレ考えたんだけれど、結局私もあやふやにしか考えが纏まらなかったんだ。で、次の機会にギーさんに会った時、そのまま話したんだよ。そしたらギーさんは私の話に同意してくれてね。それを今私が話していたそのまま、言葉に出来なかったことを、こうしてまとめてくれたんだ」
とここまで言うと、絵里はいつもの意地悪い笑顔を浮かべて言った。
「たまにはあの”理性の怪物”も役に立つよね?」
「…ふふ」
私と絵里は顔を突き合わせて、笑い合った。
「だからまぁ…言い訳みたいになるけど、私の考えも多分に入っていることをお忘れなく!」
と絵里は、なんかよく分からない決めポーズをしながら言った。私はただ”ハイハイ”と笑顔で手をヒラヒラとさせるだけだった。
絵里は笑顔のまま本を手元に引き寄せ、ページをゆっくりと捲りながら
「まぁ、それからね?ギーさんの影響って言いたく無いけど、事実として、こんな写真集を買ってしまうくらいに、昔の映画にハマってしまってねぇ…」
と言うと、今度は顔を上げてテレビの方、この本を取り出したラックの方を見ながら続けた。
「映画もあそこにあるけど、昔の映画のDVDをいっぱい買い漁って見るのが、一番の趣味になっちゃったんだ」
「へぇー…これって絵里さんの私物なんだ」
「うん、これはね?確かギーさんも同じのを持っていたよ。DVDもほとんど被っているけどね…七百本くらい」
「な、七百!?」
私は思わず立ち上がり、テレビ横のラックを覗きに行った。見てみると確かに、天井ギリギリの高さのラックの中に、ギッシリとDVDが隙間なく埋め尽くされていた。
「はぇー…凄いね」
と私は感嘆を漏らすと、紅茶を飲みながら私の様子を見ていた絵里が、意地悪くまた笑いながら付け足した。
「そこにあるのは七百だけど、ギーさんは恐らく千本以上は軽くあるよ」
「せ、千本!?…うーん、想像つかないな」
私は呆然と絵里の方を見ながら返した。絵里はただ笑顔でまた紅茶を啜った。
「はぁー、義一さんて何者なんだろう?」
と椅子に座りながら思わず思ったことを口にしてしまった。一瞬間が空いたが、私自身がしまったと思った頃には、絵里は爆笑していた。
「あははは!いやー、本当だね?何か色んなことに興味を持ち過ぎていて、逆に捉えどころがないよねぇー。…たまに宇宙人じゃないかと思うときあるもん!」
「…ふふ」
私は吹き出しつつも、紅茶を静かに一口啜った。
「いや、ほんとほんと!今更琴音ちゃんに言うまでも無いと思うけど、あの通り、まるで他の人とはかけ離れてズレてるもんねぇ。同じ同世代とはとても思えないよ」
私はただただ笑顔で返していたが、ふとまだ一つ納得いかない事があったので、改めて聞いてみることにした。
「…そういえば、さっきの話の発端なんだけど」
「え?何だったっけ?」
絵里は本を丁度ラックに仕舞おうとしている所だった。私が声を出したので、顔だけこちらに向けてきた。
「うん…自分で言うのは恥ずかしいんだけれど、私のことを色気があるって絵里さんが言ったことなんだけど…」
「うんうん、言った言った!それがどうかしたの?」
絵里はまた席に座ろうとしたが、お互いのカップがからなのに気づくと、私に目線でどうするか聞いてきたので、私は黙って絵里の方にカップを押し出して頭を軽く下げた。絵里は笑顔で頷き返し、私のも持ってキッチンに行き、紅茶を淹れ直して戻ってきた。
「はい琴音ちゃん、お待たせ。…で、何だっけ?」
絵里がフーフーと紅茶に息を吹き掛けながら聞いてきたので、私は暑いカップの周りを軽く両手で火傷しない程度に包みながら話した。
「…うん、大した事がないといえば、大した事じゃないんだけど…今までの話からすると、私にはやっぱり、色気は無いんじゃないかな?だって…」
ここで私は少し俯き加減で続けた。
「私に”中身”があるとは、到底思えないんだもん…」
言い終えてから少しの間沈黙が続いたが、ふと私の頭の上に何かが軽く乗せられた。顔を上げると、絵里が微笑みながら私の頭に手を優しく置いていた。そして私と目が合うと、そのまま私の頭を撫でて言った。
「…琴音ちゃん、アナタは中身が無いどころか、あまりにも色んなものをその歳で詰め込み過ぎているよ。まぁ、だからこそ、色んなことに気づいて気を遣えるのかもしれないけれどね?…さっきの私とギーさんの論に補足を加えるとね?中身の片鱗が見えるだけじゃダメなの。変に自らこれだけいっぱい持ち物があるんだって言い出したら、途端にこの場合で言う所の”色気”は失われちゃう…これはわかるね?」
まだ頭に手が乗っかったままだったが、払うこともせずそのまま、私はただ黙って頷いた。絵里はそっと頭から手を離すと、話を続けた。
「そう、いっぱい持ち物があるんだけれど、それを曝け出すのを極端までに怖がって、何とか必死に隠し通そうとして、それでも叶わず漏れ出てしまうもの…さっきの話をさらに細かく言うと、そういうことになると思うのよねぇ」
「…それは分かるけど、それと私の関係が…」
と、ゆっくり顔を上げながら絵里の方を見ると、さっきと変わらない柔らかな笑みをこっちに向けていた。
「まぁ、今はわからなくてもいいかな?…これから先、私が一々言わなくてもアナタはきっと、自然と自分のことを常に客観的に省みながら生きていくんだろう。そうすれば、自ずと自分の中身がどれだけ詰まっているのか、きっと分かるから」
「…」
私が黙っていると、今度は絵里は私の肩に優しく手を触れて、続きを話した。
「この自分を省みるっていうのはね、口でいうほど簡単じゃないよ?琴音ちゃんに言うのも何だけどね。ちゃんと今の時点でしているから。…でもね」
絵里はここで私の肩から手を離した。
「大抵の人は、私も入れて良いと思うけど、なかなか自分自身を真っ正面から見つめる事が出来ない。すぐに至らない自分にぶち当たることになるのが目に見えてるから。自分に失望するのを怖がっちゃう。琴音ちゃんや、…まぁギーさんも含めて、アナタ達みたいなタイプは、至らぬ己を直視して、何処が足りないのか?どうすれば足りるようになるのか?絶望しながらも努力を怠らないで勇敢にも突き進む。…私みたいな人が端から見るとそう見えるの。でも普通の人は足りない事を知ると、途端に全てが虚しくなって、何やってもしょうがないと、やる前から何かにつけて言い訳を見つけて諦めてやめちゃうのよ。…まっ!私が言いたいのはね?」
急に絵里は、今までの重苦しい空気を払拭するように、わざと明るい声を上げて言った。
「琴音ちゃんもギーさんも、あまりにも自分を過小評価し過ぎてるって事!一歩間違えれば嫌味にうつるほどにね?だからあの時…」
絵里が今度は何時もの悪戯っ子な表情でニヤケながら身を乗り出し、私に顔を近づけて言った。
「自分の事をあまりにも不用意に評価を低く見積もっているから、相手からの率直な好意を素直に受け止められないのよねぇ」
私もつられて笑いながら
「ふふ、そうだね。そうだったかも知れないよ」
と返した。しばらく二人で義一のことを思い浮かべながら笑いあったのだった。

「んーんっと…あっ!」
絵里がふと時計を見たので私も見ると、時刻は三時を十五分ばかり過ぎた所だった。
「いつの間にか結構時間が経っていたねぇ?琴音ちゃんと話していると、あまりに楽しくてあっという間に時間が過ぎちゃうよ!」
「絵里さんは…本当に大袈裟ね」
私は苦笑いをしながら紅茶を啜った。
「まだ時間大丈夫だったよね?」
「うん、まだまだ大丈夫」
と答えると、絵里はテーブルの脇に私が置いたトートバッグを見ながら言った。
「じゃあ、良かったら塾のやつ見せて貰おうかな?持ってきてるんでしょ?」
「あ、うん。持ってきているよ」
私はバッグを膝の上に引っ張り上げ、塾から配られた、所謂学校が纏められて紹介されている冊子を引っ張り出した。そしてそれをテーブルの上に置いた。
 私が足元にトートバッグを下ろしている間、絵里は何も言わずに冊子を手に取り、ペラペラと1ページずつ捲っていっていた。
「見てみたいって言うから持ってきたけど」
と私も向かい側から絵里の手元を覗き込みながら言った。絵里は視線を落としたまま返事した。
「うん、ありがとう!…ふーん、こんなに学校があるのねぇ。…でも所々赤いマジックで学校名の所を丸で囲っているけれど、これは何?」
「あ、それはねぇ」
私は身を乗り出す姿勢のまま答えた。
「お母さんが私に勧めてきた学校なの。…全部女子校なんだけど」
「へぇ…お母さんがねぇ…はい」
一通り見終わったのか、私が見やすいように向きを直して戻してきた。私がそのまま何の気もなしに見ていると、絵里がやれやれといった調子で話しかけてきた。
「見事なまでに丸してあるのは、難関校ばかりだねぇ。まぁ、琴音ちゃんのクラスだったら期待するのは分からなくもないけど」
「いや、だからあれは何かのてち…」
「いや、そういうのはいいから」
私がまだ言いかけていたのに、ピシャリと真顔で話を区切られた。モノマネらしいが、一体誰のモノマネだろう?
「で、前に教えてくれたけど、今度模試があるんだって?」
「あ、うん、来月十二月の頭辺り。初めて受けるんだけど、志望校をいくつか挙げなくちゃいけないみたいで、この中からいくつか選ばないといけないの。受付締め切りは今月末辺りなんだけど」
「ふーん…なるほどねぇ」
絵里は一口紅茶を啜ってから
「で、琴音ちゃん。アナタはもう志望校は絞り込めたの?」
と聞いてきた。私は顔を上げると大きく顔を横に振りながら答えた。
「いや、全く。自分の事だけど、正直どこでもいいかなって感じなの。だってそもそも、絵里さんにも言った通り、全く受験なんてやる気がないんだもん」
「あははは、確かに言ってたね」
時は遡るが、ピアノの先生に話した後、絵里にも受験する事になったと報告を入れていた。だから図書館で勉強していても、驚かれなかったのだ。流石に絵里に報告した時には落ち着いて、泣いてしまうような失態を演じる事はなかった。
「で、これは言ってなかったけど…そのー…」
一瞬逡巡したが、ある意味その為に来た様なものだったので、思い切って言った。
「絵里さん、確か前に私立の女子校に行ってたって話してたよね?だからそのー…参考までに話を聞かせて欲しいんだけど?」
最後は特に狙った訳じゃなかったけど、上目遣いで聞いた。絵里はほっぺを掻きながら、若干照れ気味に答えた。
「…いやぁ、琴音ちゃんみたいな美少女に上目遣いで言われたら、仮にイヤだとしても答えざるを得ないじゃない!もーう…ギーさんと揃いも揃って天然タラシなんだからー」
「いやいや!そんなつもりじゃ…」
「ふふ、冗談よ冗談!…私の学校ねぇ…あんましキャラと違うから、引くかも知れないけど…ちょっとかして貰える?」
「あ、うん」
絵里は最後に何やらブツブツ言っていたが、私から冊子をまた受け取ると、ペラペラとページを捲っていった。そしてある所で止めると、冊子を開いたまま私に手渡してきた。
「そこよ」
見てみるとそこはお母さんが特に重要だという意味で、二重丸で囲っている学校だった。ページには学校の正門と、女子校生何人かが制服姿で写真に写っていた。濃い紺色のセーラー服で、胸元と後襟に赤い錨の刺繍が施されていた。左胸には校章がつけられていた。全体的にシックに纏められた、品のある感じだった。簡易的な地図も載っていたので見ると、そこは四ツ谷駅の目の前にある様な、好立地な場所にある様だった。難易度のところを見ると”難関校”とだけデカデカと書いてあった。
 私が黙ってマジマジと説明文を読んでいると、構わず絵里が話しかけてきた。
「いやぁ…懐かしいな。私が通っていた頃と大差ないよ」
「ねぇ?ここに”都内屈指のお嬢様校”って書いてあるんだけど?」
私はわざと含みを持たせた笑みを浮かべながら、絵里に言った。絵里は苦笑いでほっぺを掻きながら返した。
「もーう!それってどういう意味?私がお嬢様校に通ってちゃいけないって訳?…はい、そうです。キャラじゃないのにここに通っていました」
急に絵里が態度を変えて、どっかのお偉方の謝罪会見風に言ったので、私は思わず吹き出しながら言った。
「…ふふ、ごめんなさい?そこまでは考えていなかったわ。…へぇー、ここに絵里さんがねぇ」
私はしみじみと、急に愛着が湧いた様な気がしながら、その学校の写真を見ていた。絵里も身を乗り出し、覗き込みながら言った。
「まぁでも、なかなか良かったよ?周りからはお嬢様校って、私がいた頃も言われていたけれど、私が見る限り変にお高く止まっている人はいなかったと思うし、…これは過去の思い出を美化し過ぎかも知れないけれど…」
と言うと、絵里は顔を上げた。丁度私の目が合った。そのまま逸らさず絵里は微笑みながら続けた。
「この頃…ここでの六年間が一番今まで生きていて楽しかったなぁ…」
最後に視線をどこか遠くへ流しながら、あまりにしみじみ言うので、私はまた冊子に目を落として、説明文をジッと見つめた。
「…そんなに良かったんだ?」
「うん!良かったよー?…部活にも入ってねぇ…」
絵里の顔はすっかり思い出に没入しているかの様な、柔らかな表情だった。
「へぇ、部活に入っていたんだ。何部だったの?」
と当然の疑問として聞くと、絵里はなぜか照れ臭そうにほっぺを掻きながら答えた。
「うーん…中学に入ったばかりの時はテニス部に入ったりしてたんだけど…」
「入ったり?」
「うん。…でもなんか長続きしなくてね?それから何個か部活に入ったんだけど直ぐに辞めちゃったんだ」
「えぇー…」
「でもね?」
そう言う絵里はまだ何か気恥ずかしそうだ。
「アレは中二の頃だったかなぁ…」
「え?じゃあ、一年でいくつも部活を変えたの?」
と、疑問に思ったことをそのまま何も考えずに口にしてしまった。絵里は意地悪く笑い、私のほっぺを軽くつねりながら言った。
「ツッコミ禁止ー」
手を離すと絵里は、私が大げさにほっぺを撫でるのを無視して続きを話し始めた。
「でね?その中二の時に…今だによく分からないんだけれど、一人で廊下を歩いていたら、急に先輩に声をかけられたの」
「へぇ、なんで?」
「それがね、いきなり一言『あなた、私たちの部活に入らない?』ってね」
「その人は知ってる人なの?」
「うーん…私は知っていたけれど、先輩は私の事当時は知らなかったと思うなぁ」
「え?絵里さんは知ってたんだ?」
と聞くと、当時を思い出したのか、明るい笑顔で返してきた。
「うん。あれは入学してすぐだったなぁ…。入学したばかりの私達に、先輩達が色々と催し物をしてくれたのよ。まぁ、『今から始まる学園生活では、こんなに楽しいことがいっぱいありますよー』みたいなね?色んな部活から、その特色に沿ったアピールをしてたんだけど、その中の一つに演劇があったの」
「へぇー、劇?」
「そう!何の劇だったか、そこまでは覚えてないんだけど、まぁ短い劇だったね。まぁ何しろアピールする為だけだから、限られた時間の中では本格的なのは無理なんだけれど。…でね、その先輩が主役で出ていたんだけれど、凄かったんだぁ…」
絵里はまた遠い目をしている。
「コメディだったんだけれど、変な事をオーバーにするみたいなのじゃなくて、自然にしているはずなのに、見ているこっちが飲み込まれていってね?気づくと先輩が何かする度に笑ってしまってたの。正直今時演劇を見る機会ってそんなにないでしょ?私の子供の頃もそうだったから、初めて目の当たりにしたんだけれど、感動しちゃったの!…コメディなのにね」
「そんなに感動したんなら、何で初めから演劇に入らなかったの?」
私は当然の疑問だとして、紅茶を啜りながら何気無く聞いた。絵里はまた照れ隠しにする、ほっぺを掻く癖をしながら答えた。
「うーん…感動はしたんだけれど、私がやるもんじゃないなって思ったのよ。…だって入ったら、あの先輩と舞台に立つのよ?無理でしょ?」
無理でしょ言われても…
実際に見た事ない私には、何とも言えなかったが、絵里の口調からは当時の感動がリアルタイムに感じられる様だった。
「じゃあ、廊下で話しかけられた時は…」
「勿論、緊張したねぇ…まさか話すことになるとは思わなかったもん。…私の話しぶりでわかると思うけど、もうなんて言うか…テレビに出てくるスターに、しかも向こうからわざわざ話しかけてくれちゃったって感じだったのよ。…もっとも、そんなファンになる様な芸能人はいなかったけど」
「私もいない」
一瞬沈黙が流れたが、すぐにお互い顔を突き合わせてクスクス笑いあった。
「話戻すと、…まぁ急に話しかけられたかと思えば、急に勧誘してきてね?いくら図太い私でもアタフタしちゃって、一度断ったんだけど、中々押しの強い人でね?いつまでも引き下がってくれなかったから、結局、一度部室に伺いますって言って、実際行って、気づけばそのまま部員になってたの」
「はぁ…随分いい加減なのね?」
「あははは!確かに、入部届けを書いた記憶も無いから、もしかしたら先輩が勝手に書いて出したのかも…いやー、面白かったなぁ」
「…ねぇ?」
「ん?」
「その時の写真とか無いの?劇に絵里さんが出てるのとか…」
と私が聞くと、絵里は平静を装っていたが、徐々に耳は見るからに赤くなっていった。でも本人はあくまで澄まし顔で返した。
「…え、えーっと…あったかなぁ…探せばどこかにあるとは思うんだけど…」
煮え切らない返事だ。ここで引き下がる私ではない。
「ここにある事はあるの?じゃあ待っているから、探して見てよ?」
私が追い打ちをかけると、両手を合わせてゴメンとジェスチャーをしながら、参った調子で応えた。
「…琴音ちゃん、ゴメン!もう少し心の準備が整うまで待って?…別に黒歴史なわけじゃないけど、最近私も見てないのに、急に、しかも琴音ちゃんと見るのは…恥ずかし過ぎるから」
今まで見た事のない程、絵里が可愛らしく恥ずかしがっている様を見て、意地悪な言い方だけど、何だか得した様な気になって、この場は勘弁してあげる気になった。
「…ふふ、分かったよ。今日は勘弁してあげる。…次来た時には見せてね?」
と私は満面の笑みで言った。絵里は苦笑いしながら応えた。
「ははは…分かったわ、約束する。その代わり…」
と今度は絵里が満面の笑みになって言った。
「今度琴音ちゃんが弾くピアノを聴かせてね?」
「勿論!構わないわ」
「…あははは!」
「ふふふ」
特に理由もなかっただろうけど、何だか可笑しくてまた二人で笑いあったのだった。

「でもだからかぁ…」
一頻り笑いあった後、私がふと気づいたことを言った。
「ん?何が?」
「絵里さんがさっきとか、今まで会話した中で、義一さんとの思い出を話している時、妙にモノマネが上手いなぁと思っていたの。セリフも、勿論実際に私は見てないから断言出来ないけど、疑問に思わせない程細かく演じ分けていて、当時は寸分違わずこうだったんだろうなぁって、信じ込ませられる程の演技力、聞きながら本当はビックリしてたの。良く特徴を捉えてるなぁって。でも今日、その演技力の原因が解明されたわ」
「解明って…大袈裟ねぇ」
絵里は紅茶を啜りながら引いて見せたが、口元が気持ちばかりニヤケているので、満更でもないのが丸わかりだ。そこら辺は演劇人らしくない。
「でも褒めてくれてるみたいだから、お礼を言うね?有難う」
「どういたしまして」
「でもまぁ」
絵里は改めて冊子に目を落としながら話した。
「私からの紹介はこんな感じ。変わっていなければ、私は胸を張ってオススメするよ。でも、最終的に決めるのは当然の事だけど、琴音ちゃん自身だからね?私の意見は参考程度に留めておいてよ?」
「うん、分かった。色々参考になったよ、有難う」
「いえいえ、どういたしまして…あぁ」
絵里が何気なく時計を見て、ため息交じりに声を漏らしたので、私も見ると四時を少しばかり過ぎた所だった。
「…ところで琴音ちゃん、アナタ何時まで時間大丈夫なの?」
「えぇっと…」
私は瞬時にここから家までのおおよそ掛かる時間と、図書館から家までの時間を比べて計算を求めた。
「うーん…図書館が閉まるのが五時だから…うん、最大五時まで大丈夫だよ」
私はさっきまでの明るい雰囲気のまま、少しおどけて見せながら言ったが、絵里はふと考え込み、しばらく難しい顔をしていたが、私の方を真面目な顔つきで向くと、静かに話しかけてきた。
「…そうだ琴音ちゃん、覚えている?今日ここまで歩いている途中、私が話しかけた事」
「え?…あっ、う、うん」
私は絵里が義一と私のことについて何か言いかけたのを思い出した。ついでにその時も絵里が今みたいな表情をしていたのも。
「…それなんだけれど…これはアナタ達二人の問題だから、私が横槍入れる筋合いがあるのかどうかわからない…でも、これも参考程度にでも聞いて」
絵里は一息つくと、頭の中で言いたいことを整理するかのように、目を瞑り黙っていたが、静かに目を開けると、ゆっくりと話し始めた。
「…前にファミレスで三人お茶をしたでしょ?あの後ギーさんと会った時にお話ししてね、そのー…二人で琴音ちゃんの両親にバレないように会ってるって話を聞いてね?私…ちょっとギーさんに怒っちゃったの」
「…え?」
「口ではやっぱり、琴音ちゃんを傷つけたくないとかなんとか言ってたけど…でもやっぱりそんなの上手くいきっこないもの。あの人に言ったわ。『ギーさん、アナタ琴音ちゃんに自分に正直に生きなさいって言ったんでしょ?それをまた嘘を吐かせるような真似をさせて…アナタ一体琴音ちゃんをどうしようとしてるの?』って…。怒鳴ったわけじゃないけれど、私は静かに怒りを露わにしながら聞いたわ。それでも黙っているから、畳み掛けるようにまた言ったの。『今はまだなんとかなるかも知れない…でも今のままを長く続ければ続けるほど、バレた時にあの子が受けるショックは計り知れないのよ?』ってね」
「い、いやっ、私は!」
私は反論しようとしたが、絵里が黙って射すくめるような視線を送ってきたので、黙る他なかった。
「でもこんだけ言っても、ギーさんは静かに言うだけだったわ。『…でも、これはあの子が全て分かった上で決めた事なんだ…あの子は考え無しにこんなことをするような女の子じゃないよ?…それは絵里、君も分かっているだろう?』ってね」
ここまで言うと、途端に絵里が目元に涙を溜めたので、私はまた初めて見る絵里の姿に唖然としながら、黙って話の続きを待った。
「…そんなの、ギーさんに言われなくたって分かっている。…勿論ギーさんがどういうつもりで言っているのかも分かっている。…でも」
絵里は目を一度擦って、一度溜めてから続けた。
「私も譲れない!…こんなこと本人の前で言うのもおかしな話なんだけれど…」
絵里はまだ涙目だったが、ここで少し柔和な笑みを見せた。
「不思議と初めて見た時からアナタが気になってしょうがなかった。…こんなにおしゃべりする前からね?…前に先生に連れられて、クラスのみんなと図書館に来ていた時、最初は可愛い子がいるなぁ程度だった。アナタはいつもみんなの中心にいたね?…あっ、何も言わないで?ただの私の印象なんだから。…アナタはその中で皆んなに笑顔を振りまいていたわ。はたから見てると、凄く本人も楽しんでるように見えた。
…でもその周りに笑顔を振りまく中で一瞬見せた素の表情…あんなに大勢に囲まれていたのに見せた寂しそうな表情…あれが忘れられないの。…見られてるの気付いてなかったでしょ?」
「う、うん…」
「あの時の印象も、…こんなにいっぱいお喋りするようになってからの印象も、ちっとも変わらない。向こうが透けて見える程に透明感のある、精巧に綺麗に彫られたガラス細工…。全く汚れていなくて、光を乱反射して目を奪う程に綺麗なのに、どこか軽くでもぶつけてしまえば割れてしまうんじゃないかって程に見える脆さ…。あまりに文学的に過ぎるかもしれないけれど、こうとしか言いようが無いんだから許してね?そんな印象をずっと持っていたら、今はギーさん繋がりでここまで親しくなった。…私んちに遊びに来るぐらいにね?」
絵里は軽く部屋を見渡した。
「”なんでちゃん”だっていう、意外な一面も知れた。…これもギーさんから聞いたけど、アナタが自分のこの性質に悩んでいるって聞いた。…いやその性質故に、周りの人間とのズレに悩んでいるって聞いた。…それを聞いた時、どうにか微力だとしても、琴音ちゃん、アナタの力になりたいと心から思ったの。余計なお世話だとしてもね?…しつこいようだけど、疑問でも何でも、傷つくことを恐れずそのまま真っ正面からぶつかって行く琴音ちゃん…それは本当に素敵なことであり、アナタの長所でもある。…でも、壊れやすいガラス細工なのも知っている。…勝手に思い込みで言って悪いけどね」
「…いや、うん」
私が肯定とも否定とも取れる返事をすると、絵里は苦笑いを浮かべながらそのまま続けた。
「…いやぁ、こういう話をするのは苦手なくせに、長々と取り留めの無い事喋っちゃった。…上手く言えないけど、これだけは覚えておいて?私…それにギーさんも、アナタが傷つくところだけは見たくない。これは少なくとも私達が共通してアナタに持っている感情なの。…だから」
「…うん、よく分かったよ」
私は静かに、でも柔らかい笑みを顔中に浮かべながら言った。
私は嬉しかった。まぁ、あまりにも不用意に私のことを目の前で褒めちぎるから、どういう目線で聞けばいいのか戸惑っていたけど、不器用ながら、アレコレ私の事を本当に、本心から心配してくれてるのがヒシヒシと、言葉の端々から痛いほど感じ取れた。こっちまで涙で潤みそうになったほどだ。
言いたい事、感謝の言葉が頭の中を駆け巡っていたが、今私が言えるのはただ一言だった。
「…ありがとう」
「…琴音ちゃん」
絵里はまた少し瞳を潤ませていた。
私もつられて目が潤んだが、正直な気持ちとして感謝と共に、申し訳なかった。義一にしてもそうだが、絵里も私に対して過剰に入れ込みすぎていると、ただ冷静に思っていた。二人が私の事を、何の裏もなく褒めてくれるのは、勿論素直に嬉しい。大好きな二人だから尚更だ。嬉しいけど、どうしても私が私に対して思う事とのギャップがあまりにも大きくあると感じていた。私は然程、いや微塵も自分の事を買っていない。義一と絵里、二人が私に話してくれる”私”の事。どれも素敵で、出来るならそうなりたいとは思うけど、今の私がそうかと言うと、全然かけ離れていると言わざるを得ない。だから、繰り返すようだけど、私が二人の中の”私”じゃないことに対して、申し訳なかった。
そんな事を考えながらも、素直に感謝の気持ちで一杯なのを、少しでも伝わって欲しくて、出来る限りの相応しい笑顔で絵里を見つめた。絵里はまた目を一度擦ると、明るい調子で言った。
「ごめんごめん!私のせいで変に湿っぽくなっちゃった。…あっ!あと一つ具体的な忠告をしたいんだけど、聞いてくれる?」
「うん、聞かせて?」
「うん、それはね…」
絵里は一度ゴホンと咳払いしてから話した。
「なるべくやっぱりギーさんとは、外で会わない方がいいと思うの。…今更だけど。ファミレスに一緒に行った時は事情を知らなかったから、あんな人通りの多い所に行っちゃったけど、あんな地元民が集まる所とかに行ったら、誰に見られてあの高慢ちき…あっ違う、ギーさんのお兄さん…」
「…誤魔化すの下手すぎだから」
私はすかさず絵里にツッコんだ。絵里はただ悪戯っぽく笑っている。
「まぁ琴音ちゃんのお父さん、この近所では一番大きい病院の院長なだけあって、顔が利くからね。患者さんでも何でも、見られて話されたら終わりだからね?」
まさに反論の余地など無い正論だった。こういうことは最初に気付いてなくてはいけなかったのに、義一とお話するのに夢中のあまり、守備の面を疎かにしていた。あんなに口でも、心の中でも義一との繋がりを大切にしたいと思っていたはずなのに、余りにも浅はかな自分の考えの甘さにがっかりする他なかった。
「…いや、本当だね」
と私は自嘲気味に笑みを浮かべながらボソッと言った。絵里はすぐに察したのか
「いやいやいや、琴音ちゃんが悪いんじゃないよ!」
とアタフタしながらフォローをしてくれた。
「…まぁ琴音ちゃんの落ち度がゼロとは言わないけど…」
とここで絵里は、顔は私に向けたまま、視線を斜め上へと向けながら、呆れ気味に喋った。
「それよりもギーさんよ、ギーさん!約束約束言うんだったら、それを守る為にはどうすればいいか、最大限のことを大人が進んで対策練らないといけないのに、こういうところで抜けてるんだからっ!…だから琴音ちゃん?」
斜め上にいたのであろう、義一から視線を私に戻すと、意地悪く笑いながら言った。
「大の大人のはずの人があんなのだから、アナタがしっかりと手綱を締めないといけないよ?こういう常識的な事では当てにならないんだから」
「ふふ、分かっているわ」
私も笑顔で返した。絵里は満足げに頷いていたが、ふとまた柔らかな微笑を浮かべながら言った。
「…もう私はこの事について、二人のことについて何も言わない。…ギーさんというよりも、琴音ちゃん、アナタを信じているからね。これ以上ネチネチ言うと、アナタに対して信用していないと言っているに等しいから」
「…うん、ありがとう」
私はさっきのように、自然に心のままに返事した。それを聞くと、また満足げに頷いていたが
「やるからには、全力で秘密を守り抜こうね?」
と悪戯っ子の表情でニヤケながら言った。私も同じような表情を作って応えた。
「勿論よ!」
また二人して顔を突き合わせると、示し合せる事もなく同時に笑い合ったのだった。

「本当に送らなくてもいいの?」
玄関先で靴を廊下に座りながら、履いている私の背後から、絵里が声を掛けてきた。
「大丈夫だよ!この辺りだって地元なんだから」
私は勢いよく立ち上がりながら答えた。 腕にしている時計を見ると、丁度五時を示していた。絵里はサンダルを履いて、エレベーターホールまでついて来てくれた。
「じゃあ気を付けてね?また連絡するから。またこの家も含めて場所問わず…いや、人気の少ない所で遊んだりお喋りしましょ?」
「うん!…」
その時丁度エレベータが到着した。私は乗り込むと、階数表示の”1”を押した。絵里は笑顔で手を振ってくれたが、ふと思いついて、”開”のボタンを押しながら意地悪く笑い言った。
「絵里さん、次来た時には昔の写真を見せてよね?」
「…ふふ、ハイハイ」
絵里は手を振り続けていたが、私の言葉を聞くと、苦笑いで短く返すだけだった。
「じゃあねー」
私は言い終えるのと同時に”開”のボタンを離し、すぐに”閉”のボタンを押した。ドアが閉まっても縦長の覗き窓があったので、絵里の姿がまだ見えていた。私もやっとそこで手を振り返した。エレベーターはゆっくりと下まで降りて行った。

マンションの正面玄関から出て空を見上げると、西日が赤々と燃えて、チラホラ見える雲に黒い影を作り、今まさに沈んで行こうとしている所だった。もう十一月。陽が沈む時間が、当然のこととは言え、夏と比べるとすっかり早くなった。時折吹く風が肌寒い。
さて、帰るか…。
 私は寄り道せず真っ直ぐ自宅へと向かった。その道中、何度も絵里との会話を思い出していた。そして絵里が私に見せてくれた”初めて”の数々。どれも観れて嬉しかったり、ビックリしたり、悲しかったりしたけど、どれ一つとして無駄な発見は無かった。そして本人にも伝えたが、やはりここまで私の事を想ってくれていたというのは、しつこいようだけど、何度言っても言い足りないくらいに嬉しかった。歳も一回り以上離れているのに、親身に赤の他人の私を気にかけてくれていた。そういう意味では、義一よりも想いを強く感じた。
 あの言葉の一つ一つを思い出すだけで、一人で外を歩いているのに思わず、思い出し泣きをしそうになるのをこらえるのが大変だった。かと言って思い出さないでいるのも嫌だった。この二つの間で葛藤しながら自宅玄関前に辿り着いた。鍵を開け、お母さんがいるのか確認しないまま挨拶をした。
「お母さん、ただいま」
 
「お帰りー」
私が居間を覗くと、お母さんは居間の食卓用に使っているテーブルの上に、雑誌を広げて見ていた。そばにはコーヒーの入ったカップが置かれている。私は自室に入り、荷物を置いてからまた居間に戻った。そしてお母さんの側を通り、キッチンに向かい、冷蔵庫から冷えた緑茶のペットボトルを取り出し、コップに注いで、それを持ってお母さんの向かい側に座った。
 私は冷茶を一口飲むと、お母さんに話しかけた。
「…それってまた日舞の雑誌?」
「え?えぇ、そうよー」
お母さんは顔を上げないまま、生返事をした。
中々珍しい、日本舞踊だけに特化した月刊紙だった。毎月お母さんは通販で取り寄せて、欠かさず読んでいる。私から見てもマニアックな雑誌だ。
 ここで本当に軽くだがお母さんについて触れておく。望月瑠美。歳はお父さんと同じ、この時は三十九歳だった。生まれは浅草橋にある、創業百年を超える有名な呉服問屋の末娘だ。典型的な箱入り娘、お嬢様だった。子供の頃は家の中では着物を着るのが義務だったらしい。普段は私の前では洋服を着ていたが、お家にお父さんの知り合いなど誰かを招き入れた時は、ピシッと綺麗に着物を身に付けて対応するのだった。お母さんの普段の振舞い、背筋がシャンと伸びていたり、ドタバタと動き回らず滑らかに流れるような動作など、どれもやはり子どもの頃から着物で過ごしていたのが、良いように作用しているようだった。
 両親の馴れ初めをさすがの”なんでちゃん”でも、直接聞くのは恥ずかしかったから聞けなかったけど、お母さんのお母さん、つまりお婆ちゃんから聞いた限りでは、これまた古風にお見合いだったらしい。お母さんは中学から、九段にある都内でも有名なお嬢様校に通っていたらしく、大学も付属していたので、そのままエスカレーター式に進学したようだった。そんなずっと女子校で、殆ど男っ気の無いのに心配したのか、今年に引退した前院長と、お母さんのお父さん、つまりお爺ちゃんが友達だったらしく、その繋がりでお見合いした流れだったようだ。何でも隠さず喋るお婆ちゃん、その話を聞いてる時そばにお母さんもいたが、恥ずかしそうにハニカミながら、視線を別の方へ流しているのが印象的だった。
話を少し戻すと、呉服屋の娘だから…とは関係ないだろうが、着物を着るという繋がりで、子どもの頃から日本舞踊を習っていたらしい。それを未だに熱心に続けている。趣味らしい趣味を持たないお母さんの、唯一の趣味と言えるのが日舞だった。

「ふーん…」
と私も向かい側から、文字が反対に見えるのも気にせず一緒に見ていたが、ふとお母さんが顔を上げて、私に話しかけてきた。
「…あっ、そういえば琴音」
「ん?何?」
と私も顔を上げてお母さんの顔を見た。お母さんは淡々と質問をしてきた。
「…あなた、今日はどこに行ってたの?」
「えっ?えぇ、もちろん図書館よ?」
突然の問いかけに、正直面を食らってしどろもどろになった。平静を装うのに精一杯だった。ついさっき絵里と会話したことが思い出された。まさか急にこんな早くピンチが訪れるとは思っても見なかった。
「な、何でそんなこと聞くの?」
私は内心ドキドキが止まらなかったが、そんな私を他所に、お母さんは普段と変わらぬ調子で話を続けた。
「いやね、私の友達の一人が今日の昼頃、駅前であなたと綺麗な女の人が一緒に話しているのを見たって言うのよ」
言われてすぐ『あっ』と思った。絵里が公衆の面前で私に抱きついてきたこと…やっぱり周りは見てたんだ…。
さっきとは違う意味でドキドキして、恥ずかしさの余り若干顔が赤らむのを感じながらも、冷静に答えた。
「あぁ、あの人ね?あの人は図書館の司書さんよ」
「え?司書さん?」
意外だったのか、お母さんはキョトンとした顔でこちらを見ている。
「そうよ。何かと私に親切にしてくれてね?向こうの昼休みと私の都合が合ったから、ついでだし一緒に行こうって話になって、それで駅前で待ち合わせしてたの」
咄嗟にその場の思い付きで、スラスラと言葉が後から後から流れるように出てきた。自分でもびっくりしたが、内容を見てもちゃんと筋が通っている様に思えた。
お母さんは一瞬怪訝そうな表情で私をジッと見ていたが、フッと普段の表情に戻ると
「…へぇー、今時珍しく子供と仲良く接する司書さんなのねぇ」
と少し感心してる様な調子で話した。私はホッとしたが、調子を変えると何か勘付かれると思い、なるべく変えずに話した。
「そうなの、まるでお姉ちゃんが出来たみたいでね」
これは本心だった。何か昔読んだ本の中の主人公が『詐欺師というのは八割から九割本当の事を言って、最後の一割で騙したいがため嘘をつく』と言っていたを思い出していた。
「ふーん、まぁあなたが言うならそうなんでしょうけど」
とここでお母さんは一度区切って、少し溜めてから先を続けた。
「その人はともかく、あまり赤の他人、大人の人と必要以上に仲良くするんじゃありませんよ?昔と違って物騒な世の中なんだから」
「うん、分かっているよ」
と私が答えると、お母さんは少し意地悪くニヤケながら、向かいに座る私に顔を近づけて言った。
「…まぁ中々他人に懐かないあなたが、そこまで親しくしているんだから、よっぽどその人は良い人なんでしょうね?」
と言い終えると、お母さんは立ち上がり、キッチンの方へ向かった。私はその背中に向かって、さも不満そうに返した。
「…なんかそれ、前にヒロにも同じ様なこと言われたよ。『お前は人嫌いで通っている』って」
「あははは!ヒロ君らしいわね」
お母さんはエプロンをしながら、私に相変わらず意地悪な笑みを送ってきた。
私はテーブルに上体だけうつ伏せになり、全身で不満げな態度を表していたが、ふと今何でわざわざ居間に降りてきたのかの理由を思い出した。
私は立ち上がり、キッチンで夕食の準備をしているお母さんに近寄った。
「…お母さん?」
「ん?なーに?」
お母さんは陽気な調子で、食材を切りながら応えた。
「側によると危ないわよ?」
「あのね、私…」
お母さんからの忠告を無視して、そのまま言葉を続けた。
「私、行きたい学校決まったから」
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