第30話(休題)オーソドックス 六月号より抜粋

文字数 9,188文字


石橋(一応確認すると、マサさんの事)
「…てなわけでよ、世間的には”人形の家”は、フェミニズム運動の勃興と共に語られるんだが、どーも世間一般に言われてる”フェミニズム”とは、この作品が直接的に関係してる様には思えないんだよ」
神谷「なるほどねぇー…あ、そうだ。少しコレについて話し合ってみようか。中々に面白い議題だよ」
望月(言うまでもなく義一の事)
「そうですね。珍しくこの面子の中にいて、積極的に声を出してくれた事ですし」
石橋「うるせぇ」
中山(フルネームは中山武史。三十八歳。京都の国立大学で准教授をしている。政治思想が専門。それ以上はここでは紹介出来ないが、追々物語に直接出てくる事になる。)
「私も構いませんよ。人形の家かぁ…。懐かしいね」
神谷「よし、決まりだ。折角だから、石橋さん、人形の家の粗筋を読者のために話してくれるかな?」
石橋「あぁ、いいよ。主人公の女ノーラは、弁護士ヘルメルの奥さんだった。ノーラは無邪気に人間を信じるたちで、貧しい者に対して何かを分け与えずにはいられない様な気質の持ち主だった。そんなノーラに対してヘルメルは”大切に”扱っていた。まるで猫を可愛がるかのように。同じ人間に対しての愛情とは少し違った質を感じながらも、ノーラは気付いてないフリしながら日々を過ごしていた。
そんなある日、夫の部下クロクスタが家に訪れてきた。こいつは馴れ馴れしい態度を取ったとかで、もうじき解雇になる予定だった。それを取り消して貰うように嘆願にきた。ノーラは勿論断ろうとするんだが、この部下は彼女の弱みを握っていた。それは昔病魔に侵されていた夫のために金銭が不足して、苦肉の策にこの部下にお金を借りたんだが、その際に借用証書を偽造してしまったんだ。もしコレを夫にバラされたら、猫可愛がりとはいえ悠々自適な生活を送っていたのに、全てが破滅してしまうと恐れたノーラは、夫に解雇を取り消すように頼む。でも夫の意思は固く、部下を解雇してしまった。約束通りというか、元部下は暴露する手紙を元上司に送った。事実を知った夫は激怒した。もしコレが外に漏れたら、自分の評判まで落としてしまうんじゃないかと思ったからだ。…もうこの時点で話が長くなってしまったが、ここで少し省略すると、元部下はある事がきっかけで改心し、捏造の証拠だった借用証書を送る。つまり、コレで元部下が強請ってくる心配は無くなったというわけだ。心配のタネが無くなった途端、激怒していた夫がコロッとまた態度を変えて、以前のようにノーラを可愛がろうとしてきた。でもこの時ノーラは、夫が自分を対等な人間とは見ていなくて、まるで意思を持たない”人形”くらいにしか考えていない事に改めて思い知らされ絶望し、自分は人形から人間にならなくてはと強く想い、子供が三人もいたにも関わらず、夫の制止を振り切って家を出る。…とまぁ、頼まれたからとはいえ、長々と話してしまったが、粗筋としてはこんなもんだよ」
神谷「いや、ありがとう。流石脚本家、あれ程の作品の粗筋を、うまいこと纏めてくれた。…さて、それこそ十九世紀以来、この作品を通して、幾度も幾度も幾人も幾人もが議論を交わしてきた訳だが、最近では珍しいから、むしろ我々で過去の人の様に議論して見ようじゃないか。さっき石橋さんが言った様に、この作品はフェミニズムに絡めて話される事が多いけど、まずは一般的なフェミニズムっていうのを話してくれるかな?」
石橋「あぁ。んーそうだなぁ…まぁ今までの女というのは男から抑圧を受けてきた…それから解放される為に運動しようって事だとは思うんだが、ある意味”人形の家”の”一側面”は捉えているから、そういう判断になってる…というのは分かるんだけれどもよ」
神谷「うん、中々の難しい問いかけに答えてくれてありがとう。そう、私もうる覚えだが、確かに今石橋さんが言った様に、一側面は捉えている。ただ…今ふと何故あなたが世間の人形の家に対する認識と、自分の感覚がズレてると感じたのか、思い付いたことがあるんだが…というのもね、実際作者のイプセン自身が、そもそもそんな考えの元に書いたのかが疑問だからではないのかな?」
石橋「んー…?…あぁ、そうかもしれんね」
神谷「同意してくれたところで、では少し他の人にも話を振ってみよう。望月君、君は”人形の家”を読んだ事があるよね?」
望月(他の号でもそうだが、何度も自分の名字が出てくるたびにドキッとしてしまう)
「はい、もちろんです」
神谷「流石だね。では、今までの私と石橋さんの会話から感じ思った事でもいいし、何か全く別の視点からでも良いから話してくれるかな?」
望月「はい。そうですねぇ…まぁ今までの話と関連してるかは分からないのですが、フェミニズムについて考える前に、もう少し”人形の家”について、いやもっと言えば、今先生が言われた様に、作者であるイプセンがどの様な視点で書こうとしたのか、ここを掘り下げてみたいと思うんです」
神谷「続けて?」
望月「はい。今石橋さんが粗筋を述べてくれたので、僕は少し具体的な所…つまり本文の中身を精査して見るところから始めたいと思います。私も先生の様にうろ覚えだったんですが、つい最近、石橋さんと懇意な間柄である”とある女優”さんから、同じ話を聞きまして(笑)それで久し振りに興味を持ち、たまたまつい最近読み直した所だったんです。まさか、こうしてそれについて議論する事になるとは思いませんでしたが…。まぁそれはともかく、『お前は妻であり母なんだ。幼い子供もいるのに自分の都合のためだけに好きな事をしてはいけない』だとか、そういった世間的常識を持って必死に夫は説得しようとするのですが、夫のそんな本性に気づいたノーラは、一切聞き耳を持とうとしませんでした。何かにつけて『自分は独り立ちしなくてはならない』だとか、『誰の指図も受けない。自分自身と世界を知る為には、自分一人で考えなくてはならないのです。今までの常識だとか、書物に書いてある事などは、今の私には何の標準にもなり得ません』と言ってました。このノーラの頑なな態度は、今までのしがらみに対する、急激な反動と取れるわけです。とても単純なものです。恐ろしいほどに。こうして180度反対に触れたという事は、それだけ何んだかんだ夫に対して信頼が厚かった証拠だとも言えるわけですけど、今物語中でノーラが話したセリフを聞いての通り、繰り返しますが、ただの今までに対しての反動であって、そこには何も思想なり理念なりが一切ありません。『自分自身を知りたい』『世界がどうなっているのか知りたい』などと大仰な事を何度も繰り返し話してましたが、それは何処かでそう述べている自分自身の言説に対して自信がない現れとも取れます。…っと、何が言いたいのかというと、まず、このノーラを通してイプセンが描きたかったのは、分かりやすいところで言えば、フランス革命から始まる近代の混乱ではなかったのか?…という点なんです」
神谷「なるほど。いや、ありがとう。ではそこから考えてみようか。確かに今君が話してくれたから、また少し昔に読んだ記憶が蘇ってきたけど、そうだね、主人公のノーラは今までの価値観が真逆に触れてしまった、そして何かから逃げる様に家を出る…。これは此れ迄我々が何度も議論したりしてきた事の裏付けになる事例だと思うね。どういう事かというと、思想を持ってない、もしくは失ってしまった人間というのは、何か一つの大きなショックを与えられると、途端に不安になり、不安定になり、何とか倒れかけている自分を立て直そうとすると、加減を司る価値観を持っていないものだから、こうして真反対に倒れる事になるんだよね。で、その倒れてしまった状態、今望月君が言ってくれた様に、これはイプセンが世の中の情勢を、その鋭い感性によって具に観察し、ノーラという近代の鬼っ子を生み出した…と言える訳だね。どうかな、石橋さんは今までの議論を聞いて?」
石橋「おう、別にこれといった反論はねぇよ。納得いく話だ」
中山「ついでに私もです」
神谷「それは良かった。という事は、何もイプセンは女性の社会進出という、今現代で言われている様な皮相的な事を描いた訳ではない事が、少なくともこの場においては共有出来たという訳だね」
望月「ついでにと言っては何ですが、ある事を思い出したので、今の議論に裏付けする形で、ここでもう一つ具体例を述べたいと思います。それは、イプセンの代表的なもう一つの戯曲”民衆の敵”の事です。これも読者のために少しばかり粗筋を述べる事を許して頂きたいですが…」
神谷「ふふ、いいよ続けて?」
望月「ありがとうございます。それはこうでした。ノルウェーの田舎町で温泉が発見されて、(一応念のために言っておくと、イプセンはノルウェーの人です)町の人々は観光による町興しを目論みます。しかしこの時開業医を営んでいた主人公の男は、自分の義理の父が経営している製革所からの廃液が、浴場を汚染しているのに気づきます。主人公は兄である町長に源泉の使用を止める様に言いますが、目先の利益を優先する為に却下され、それでもめげずに現実を訴える為に開かれた町民集会でも、彼の意見は抹殺されてしまいます。彼のその様な昔由来の道徳的な倫理観や正義感は、善悪問わずに利益最優先思考に冒された民衆にとっては敵でしかなかった…。そうして彼とその家族は次第に孤立していく…って話でした。何故今この話を引いたか、そしてそこから何を言いたいかというと、イプセンはノーラの様な近代的な今までにいなかった”新人類”の出現を、勿論具体的には言及していませんが、少なくとも両手を上げて歓迎などはしていなかった…いやもしろ懐疑的だったと言えるんじゃなかって事なんです。一つの事実として、人形の家を書き上げた後、詳しくは忘れましたが確かすぐに”民衆の敵”の制作に取り掛かっていたはずです。何せ、人形の家の三年後には、民衆の敵を発表していたのですから。…これを言うと、色々な方面から反論が予想されますけど、少なくとも私個人の認識では、この民衆の敵を書いていた時のイプセンの精神性は”保守的”だったと言っても過言ではないと思います。…どうでしょうか?」
中山「なるほどね。確かに民衆の敵、私も大昔に読んだ事があったけど、言われてみれば”保守的”と言えなくもないな」
神谷「私も今望月君が話してくれた事に同意するよ。”保守”の点もね。二人はどうかな?」
中山「私は賛成です」
石橋「どうかなって言われてもなぁ…。保守かどうかなんて、門外漢の俺には判断出来ないけど、少なくとも先生がそう言うんなら、俺も取り敢えず賛意を示すよ。何せこう見えても、俺は先生の事を”信用”しているからな。それは置いといて、俺に分かるところで言えば、今望月が話した事、俺なりに纏めれば”人形の家”のノーラと、”民衆の敵”の主人公の男とでは、性格が真逆という事だよな?そこから推測出来るのは、百歩譲って世間の言う通り人形の家がフェミニズム運動の旗振り役になったとしても、それは作者のイプセンの狙った点では全く無いって事で、今少し自覚したのは、俺の違和感の正体の一つがそれだろうって事だ。反論があるかって問われたなら、勿論俺は”無い”に一票投じるぜ」
望月「ありがとうございます(笑)」
神谷「さて、また一同で同意が出来たところで、折角だしもう少し議論を深めてみたいと思う。とその前に…まだ時間はあるよね?」
望月「えぇっと…はい、残り二人が来るまでまだ少しばかりあります」
神谷「そうかい?では少し良いかな…?今石橋さんがある種の本質的な所に触れた…。それは、作者の意図とは違うところで、物語の一面が大きく解釈されて膨らまされて、その解釈が流布されて影響を及ぼした。勿論再三議論してきた様に、解釈を受け入れる下地が世間にあった事は異論を待たないだろう。さて、ノーラには思想も確固たる価値観も流れ出してしまって無くなってしまった…そんな事を話し合った訳だが、ただ一つだけ、恐らく現実にノーラがいたら、こんな反論をしてくることが予想される。それは『私は要は自由になりたかったの。自由を愛する…それこそが私の価値観よ』てな調子のものだ。さて、こんな反論をされたら、君たちならどう返す?」
望月「そうですねぇー…今出された議題は”自由とは何か?”とも言えると思うんですけど…まぁそこまで広げると、限られた時間ではとてもじゃ無いけど語り尽くせないので、ここは一つ、いつも先生が引用されている福沢諭吉の言葉を借りつつ答えようかと思います。『ノーラ、君は自由が好きだ、愛してるだなんて言うが、君は本当に自由というものを知っているのかい?知らない?それを知る為にも家を出ていくと言うんだね?でも待って欲しい。君は少なくとも自由は”良いもの”だという考えを持っていて、だからこそそれを手に入れんが為に行動しようとしているんだろ?だったら、自由が”どう良いものなのか”くらいの目星を立ててなければオカシイじゃないか?…正直に言おう。僕は君が自由がなんたるか、知れる訳がないと思ってるんだよ。少なくとも今のまま家を出てしまえばね。もし夫の鼻につく偽善にも我慢し、毎日繰り返しの刺激の少ない家事をし続ける家庭に戻るならば、それなら君は自由というものを、それが何かという答えが出るかはともかくとして、少なくとも自由にはいられるんだ。…意味が分からないって顔してるね?では説明しよう。昔福沢諭吉がこんな事を言ったんだ。『自由とは、不自由の際より生じる』とね。どういう意味かと言うと、自由というのは、不自由の中にいて、その限界のところまでいかないと認識出来ないって事なんだ。仮に生まれた時から自由な空間にいたとしたら、いくら周りが『君は自由なんだ』って言ったって、本人からしたらずっとそうだったんだから、何も実感なんか湧かないだろう?つまり、自由というのは、雁字搦めの身動きが取れない様なのでは困るけど、ある程度確立した、もしくはされた枠組みの中でしか実現しないって事なんだ。君みたいに、『何でも自分一人でやるんだ』『人の考えなんか一切入れないで、自分の頭だけで考えて行動するんだ』なんて事をした日には、結局如何ともし難い不完全な”自分”にぶつかり、何も無い荒野の真ん中で呆然として立ち尽くす事しか出来ないだろう…。そんな未来が君はお望みなのかい?』と。…あ、いやー、ついついまた長話をしてしまいました。よく読者の方から『一人で話しすぎ』『一々クドイ』とお叱りを頂くのに」
神谷「ははは。それは君だけでなく私もだよ。でもありがとう、少なくとも私は異論なんて無いよ。…同意ばかりで読者はつまらないだろうがね。また聞くけど、君たち二人はどうかな?」
中山「私も退屈な意見で申し訳ありませんが、同意です(笑)」
石橋「…っと、すまんすまん!ついつい義一…あ、いや、望月の話が面白くて、今書いている脚本の参考にとメモしていた所だったから…。で、何だっけ?…あぁ、それはよ、こうしてメモしてるくらいだから分かるだろ?勿論同意だよ」
神谷「それは良かった。浜岡さん、これだけでも結構字が埋まったんじゃない?(フルネームは浜岡洋次郎。文芸批評家にして、地元鎌倉の小さな博物館の館長をしている。雑誌”オーソドックス”の編集長兼、毎号の対談の字起こしをしている。この人も追々物語に軽く入ってくる事になる)…ふふ、まだだって?まだこの後二人ばかり来るから、彼らのために紙を残してあげた方が良いのかも知れないな…え?少しページを増やしても構わない?…ふふ、こういった所が、大手の雑誌には無い融通の利く所だよね。今のこの会話も載るんだろう?」
石橋「…え?あ、そうか、じゃあ俺の言葉も名前付きで載るんだな…。参ったなぁ、関係者に見られたらどうしよ…。まぁいっか、成るように成るだろう!」
神谷「…ふふ、じゃあ折角だし、今我々の中で一番発言の少なかった中山くん、今までの議論に関連しても良いし、しなくても良いから、何か発言を求めたいんだけれど」
中山「私ですか?そうですねぇー…まぁ私は政治思想が専門なんで、ふと今までの話を聞いてて、ある事を思い出したんです。それはある種、フェミニズム…この場合で言うと”女性の社会進出”にも関係してくるのですが」
神谷「あぁ、その話がまだ途中だったね」
中山「そうです(笑)最近訳あって、先程のイプセンに対する見方と同じ様に、これまた色々と見方が別れる人ですが、少なくとも我々の中では”保守思想家”と看做しているオスヴァルト・シュペングラー の書いた”西洋の没落”を読み返していたんですけれどね、その中で面白い事を再発見したんですよ。シュペングラーは当時二十世紀に入ったばかりの当時も、少子化問題にヨーロッパが直面していたというんで、それに伴う人口減少を没落の徴候の一つに数えてました。ここで手前味噌ですが、私見を述べさせて頂くと、当時のヨーロッパの出生率の低下の原因の一つに、識字率の上昇に伴う結婚年齢の上昇が考えられると思います。そしてそれは、百年後の今でも変わらずに起きている事ですよね?」
一同「確かに」
中山「ここでシュペングラーが…まぁここに集まりの皆さんもご存知の通り、あのような人物ですから、かなり大胆な説を言ったんですけど、彼によれば、『そもそも文明化した人間というのは、子供を産まなくなるものなのである。文明化した人間は、覚醒存在(知性)が肥大化し、現存在(自然)が弱体化しているために、出産という自然的なものが衰えるのだ』と言うんですよね。そしてその延長で『個人としては生きようとするが、型として、群れとしては最早生きようとは欲しない』とも論じていました」
望月「それはさっきのノーラにも通ずるね?」
中山「そう、その通り!で、またシュペングラーを持ち出して恐縮だけれど、彼はこうも言っていた。『子供が生まれないというのは、単に子供が不可能になったばかりでなく、特に極度にまで強化された知性が、最早子供の存在理由を見出さないからである』とね」
神谷「なるほど、いや、私も勿論彼の本は読んでいたんだけれども、歳のせいかそこまで覚えていなかった。いやー、面白い話を聞かせて貰ったよ。やはり望月君と中山君二人の話す論点が、最も面白いなぁ」
二人「ふふ、ありがとうございます」
神谷「さて、石橋さん、そんなつまんなそうな顔をしないでおくれよ?」
石橋「…え?いや、そんな顔はしてないよ。面白く聞かせて貰ってたさ」
神谷「そうかい?まぁいいや。これから少しアナタの前半の話に関わらせて話すから。と言うのもね、今中山君が話してくれた、シュペングラーの、少子化の原因を個人主義的な価値観の蔓延や教育水準の向上に帰する議論というのは、とかくフェミニストからの批判を招きやすいものなんだ。女性をかつての様に伝統的な共同体に束縛したり、あるいは女性に対する教育を不要としたりする事を是とする、前近代的な価値観を擁護しているように見えるからね」
中山「先生のおっしゃる通りです。で、また確認の為にまた彼の言葉を引用すると、案の定、彼は男性と女性は異なる本質を持つ存在と考えていました。『女性的なものは、宇宙的なものにより近い。それは土により深く結びついており、自然の大循環の中により直接に入り込んでいる。男性的なものは、より自由であり、より動物的であり、感覚に於いても理解に於いてもより覚醒的で、より緊張している』と書いています」
石橋「へぇー、まぁ小難しい言葉が並んでいたが、パッと見では男尊女卑に聞こえなくも無いな」
中山「はい、確かにここだけ聞いていると、そう捉えられても仕方ないと思います。当時もそう受け取る人が少なくなかったようですが、一つ先程触れた彼の言葉を思い出して頂きたいんです。そこから分かるのは、彼自身、覚醒存在(知性)を現存在(自然)より優位にあるべきものとは考えていなかったからです。何も彼は、ああいう名前の書物を記しましたが、それは別に没落を望んでいた訳では無かったんです。まぁ、この場でそのような補足は蛇足でしょうけど(笑)彼が言いたかったのは、知性偏重もダメだし、自然偏重もいけないという事です。敢えて言えば、彼は文化に偏重していたんです。文化とは、彼の言う知性と自然がバランス良く結合している状態とも言ってます。知性が自然に対して支配的になる事は、それこそ文明の没落を意味していたんです。…長々と一人で話して恐縮ですが、後もう少し辛抱下さい」
神谷「面白いから良いよ。そのまま続けて」
中山「ありがとうございます。したがって、フェミニストが怒るのはお門違いというものです。彼は現存在(自然)的なものを尊重していました。つまりそれは女性という事です。それが当時、そして今尚”男性的なもの”つまりは覚醒存在(知性)が優位を保っている…これを見る限り、前近代の方が”女性的”なものを尊重し、近代は”男性的なもの”を尊重しているのだから、どちらの時代の方が女性優位なのか…それらを含めて、もう少し考えなくてはいけないと思うんですが…どうでしょう?」
望月「んー…すぐに答えるのは憚られるけど、僕は中山さんの、過去の女性が本当に軽んじられてきたのかという疑問に対しては、賛成します」
神谷「うん、確かにこれについては、シュペングラーに限らず、古今東西の様々な人々が考え議論をしてきて、そして今尚し続けている訳だから、この場ですぐに答えるのは慎重を要するけど、今望月君が言った意味では、賛意を示しても良いと思うね」
石橋「…確かにな。…まぁ、今までの議論は、俺の個人的な悩み、世間のいわゆる”一般論”に対しての疑問が発端だった訳だが、俺自身気づかぬ間にその”一般論”に冒されていたらしい。何が言いたいかっていうと、理屈では今中山が言った事は納得するんだが、今すぐには素直に飲み込めないって事だ。これは括弧付きの常識に冒された俺の責任で、アンタは関係ない事だがね。取り敢えず、俺の漏らした愚痴から、ここまで色々と深く興味深く面白い話を聞けるとは思ってもみなかった。先生、そして若い二人、どうもありがとう」
若い二人「いえいえ、どういたしまして」
神谷「ふふ。…おっと、漸く来たね?さぁ、入って入って。既に場は暖まっているよ」


抜粋終わり
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