第19話 社交(表)

文字数 24,120文字

「…さぁ、中に入って」
お母さんは玄関脇の上部にあるブレーカーを触りながら言った。
「うん」
私は玄関で靴を脱ぐと、用意されていたスリッパを履いた。とその時、電気が入ったのか明かりが点いて、周囲の様子が良く見えた。
ここは地元の駅前の再開発時に出来た、まだ新築と言っていいほどのマンションだ。そう、前にお父さん達に話して貰ったそのマンションだ。十五階建ての十階の角部屋だ。オートロックで、廊下を歩くとすぐに突き当たりがあり、そこには扉付きの物置があった。そこで右に曲がり、トイレを右側に見つつ行くとリビングだった。入ってすぐ右側は、カウンター付きのキッチンだった。そのカウンターにはシンクとコンロが設置されており、そこからリビングが見渡せた。LDKは合わせて十二畳ほどらしい。何もまだ無いせいもあるだろうが、私一人で暮らすには広すぎる様に感じた。二つ洋室があったが、そのうちの一つの壁はウォールドアと言って、可動式の壁だった。もしもっとリビングを広く使いたかったら、壁を収納する事が出来た。それぞれ広さが約六畳と約五畳で、五畳の方の壁が収納出来る方だ。クローゼットも完備されている。
私はそれぞれ浴室なども見てから、最後にベランダに出た。出て見ると目の前は拓けていた。周りには高い建物も無く、都心のビル群まで見えていた。絵里のマンションとはまた違った見晴らしの良さだった。
「どう?琴音。初めて来た感想は?」
後ろから声がしたので振り向くと、お母さんは窓のヘリに手を掛けながら、笑顔だった。
「…うん、何も文句なんか無いんだけど」
私はベランダの壁を背にしながら、少し辿辿しげに答えた。
「…こんなに綺麗で広い部屋に、私一人で住んでいいのかなぁ?」
「…まぁそれは、お母さんも思うんだけどねぇー」
お母さんは言いながらベランダに出て来た。そして私のそばに立つと、外の景色を眺めながら続けた。
「でもまぁそれだけ貴方のお父さんは、こんなに良い部屋を用意するくらいに、娘を愛しているってことじゃない?」
お母さんは悪戯っぽくそう言うと、私を見て微笑んだ。私は何も言わずに、微笑み返すだけだった。
今日は休日の土曜日。普段は土曜日も学校があるので暇が無かったが、今日がたまたま休みだということで、急遽今朝お母さんに誘われて、ここまで足を伸ばしたという訳だ。
「…じゃあそろそろ帰りましょうか?」
「うん」
私とお母さんはマンションのエントランスを出ると、そのまま自宅へと直帰した。
その道中、お母さんは私の姿をジリジリと舐め回すように見てから聞いてきた。
「…琴音、今日この後何があるか忘れてないわよね?」
「うん。勿論」
私は短く気負いもなく答えた。
「…そっか」
お母さんは満足そうに返した。
そう。今日の本当の予定はこの後にあった。マンションを見に行くのは、ただのお母さんの思いつきだったが、その後の予定は随分前から決まっていた。
予定を告げられたのは約二週間前、十月に入ったばかりの土曜日だ。お父さんは私が小五の時に、病院の院長になった訳だが、それからは土曜日になると外に出る事が殆どになった。本人曰く、接待を受けに行くという事だった。一総合病院の院長ともなると、医者医学関係のみならず、中には地元から出馬している国会議員とも食事したりしなくてはいけないらしい。お父さんがそれをどう思っているかはともかく、私には話を聞くだけで、面倒な上に疲れそうだというのが素直な感想だった。ひっきりなしになんの職に就いているかくらいしか、分からない素性の人達と、和かに会話しなくちゃいけないなんて、想像するだけで辟易した。そうした矢先、この日の土曜日は珍しくお父さんが接待から早く帰って来た。夜の八時をすぎたくらいだ。私はその時防音された練習部屋で、グランドピアノを弾いていたが、内線のチャイムが鳴ったので、一度休んで出てみると、お父さんが話があると言うんで、部屋を出て行ったのだった。
「おかえりー。早かったね?」
私はお父さんが食卓の前に座っていたので、その向かいの椅子を引いて座った。
「あぁ。…なんか今日は興が削がれてね」
「はい、どうぞ」
お母さんはお父さんに瓶ビールを注いだ。
「ねぇ、私はー?」
と私が聞くと、お母さんは
「貴方が自分で出しなさーい」
と意地悪くニヤケながら答えた。
「はーい」
私はワザとテンション低めに答えると、冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出し、グラスに注いでからまた席についた。
それからしばらくはお母さんも入れて、他愛の無い雑談をしていたが、ふとお父さんは私の顔をマジマジと見てきた。
「なーに、お父さん?急に私の顔をジロジロ見たりして?…何か顔についてる?」
私はほっぺや口周りを触りながら聞いた。するとお父さんはハッとした表情をすると、首を横に振りながら答えた。
「…ん?あ、あぁいや、何でもない。…なぁ、琴音」
「え?何?」
私は冷茶の入ったグラスを両手で包むようにしながら聞いた。お父さんはほんの一瞬躊躇いの表情を浮かべていたが、気を取り直したのか私の目をまっすぐ見てきながら聞いてきた。
「…なぁ琴音。…再来週の土曜日、空けられるか?」
「え?再来週?…えぇーっとぉ…」
私は聞かれるがままに、頭の中のスケジュール帳を調べた。
「…特に何も無かったと思うけど」
本当は義一の家に遊びに行こうかと思っていたことは、当然伏せといた。
お父さんは私の返事を聞くと、幾分か安心したような表情を浮かべていた。
「じゃあ琴音…」
お父さんは続けた。
「再来週の土曜日、空けといてくれるか?」
「え?え、えぇ、別にいいけど…何で?」
私は冷茶を一口飲むと返した。お父さんもビールを一口飲むと、少し陽気な様子で答えた。
「いや何、俺が今日も含めて会っている連中にね、お前の事を色々話したんだよ。…お、そんなに怪訝な目で見ないでくれよ?悪い意味じゃ無かったんだから。…でな、前に浴衣の写真を撮らせてくれたろ?」
お父さんはそう言うと、おもむろにポケットからスマホを取り出した。そして何やら操作をすると、私にモニターを見せてきた。そこには紫の浴衣を着て、髪型もばっちし決めてる私の姿が写っていた。それを数秒間見せた後、前触れも無くまたそれをポケットにしまいながら続けた。
「これを仲間内に見えたらさぁ、今度機会があったらぜひ連れてきて欲しいって言うんだよ。…他の奴らには、そう頼まれたからって『ハイそうですか』と娘を見せびらかすことは無いんだが、俺の信用している連中だから、是非紹介してあげたいんだよ。…ダメかな?」
「…」
私は急にこんなことを言われたというのもあったが、その他にも連鎖的に考える材料が湧いてきたのを処理しなければならなかったので、しばらく黙り込む他なかった。
何度も話して恐縮だが、前々からお父さんに抱いていた疑問…いや強目に言って”不信感”の様なものは、時が経つにつれ薄れるどころか、膨れていくばかりだった。理由は言うまでも無いだろう。それを私は意識的に見ないように、感じないようにしてきた。普段は無口で表情の変化が乏しいけれど、その一つ一つのお父さんの言動振る舞いから、私への”愛情”を感じ取ろうと意識して過ごしていた。実際間違ってはいないと思う。
だからこそ生意気な様だが、今まで全編生意気だと自覚しているから見逃してくれとは言わないが、あえて言わせてもらえれば提案された時、この機会を利用すればお父さんの本質的な中身を見極められるのではないかと思った。先程言った”不信感”…。ここまで強めに言っといて、急に弱気なことを言うようだが私としては、お父さんはコレぐらいだろうと見定めた”レベル”よりも、”上”である事を心より望んでいた。まぁ勿論身内というのもあるし、何より当然”肉親”という点で、計るための”基準”は贔屓目に甘めに設けていた。もっと素直に単純に言えば、普段は品行方正、亭主関白、一家の大黒柱、本人が自覚してるかはともかく、反対意見を許さない、周りの人を一つ下に見たような物言いなど例をあげればきりが無いが、そこまでプライドを高く持つお父さんの、外での姿を見てみたかった。
私は以上のような事をグルグル考えた挙句、お父さんの目をまっすぐ見ると、あえて明るい調子で乗り気なフリして言った。
「…うん。せっかくの招待だし、行ってみるよ!」
最後に満面の笑みも付け加えた。お父さんは私の返事を聞くと、久しぶりに見るような柔和な笑みを浮かべて、短く「ありがとう」とだけ言った。私も笑顔のまま頷いただけだった。

「心配しなくて良いからね?」
私とお母さんは自宅すぐ近くの、信号機の前で停まった。信号は赤だった。お母さんはマンションからここまで、どんな人がその場に来るのかをずっと説明してきた。
「私も何度かお邪魔しているけど、皆さん偉い先生達ばかりなのに、陽気に親切にお話下さってくれたから。…だから琴音、何も緊張しなくて良いのよ?」
お母さんは笑顔で私に話しかけてきたが、目の奥にはしっかりと不安の色が見えていた。
「…もーう、お母さんったら!この何日間で、それで何回目よ?大丈夫!…分かってるから」
私は苦笑交じりに答えるだけだった。お母さんは笑顔は崩さなかったが、目の奥にも変化は無かった。ちょうど信号が変わったので、そのまま微妙な空気感のまま帰宅した。
自室に入ったのは午後の三時ちょっと前だった。話では五時くらいに迎えの車が来るようだったので、初めはピアノの練習をしようかとも思ったが、やはり中途半端になってしまうと思い直し、結局は義一から借りた本を読んで過ごした。

四時頃になると私は軽くシャワーを浴び、前日に用意した外行きの服を身に付けた。それはレースのワンピースだった。やや光沢のある白いシャンタン生地の上に黒のレース生地を合わせた、大人っぽいドレスだ。地が白だったので、黒の花柄のレースがよく映えていた。このワンピースはノースリーブだったので、その上には黒のポンチョを羽織った。これは先週くらいにお母さんの行きつけの、フォーマル服専門店のような所で買ったものだった。着替えると自室を出て、下に降りて居間に行った。行くとそこには、さっき私達が帰ってきた時にはいなかったお父さんが、紺のスーツに幾何学模様が施されたネクタイを締め、ソファーに座って何かの雑誌を読んでいた。お父さんは私の姿を見て何かを言いかけたが、すぐに私はお母さんに背中を押されて、パウダールームへと連れて行かれた。そこでお母さんに髪型をセットされた。尤も今日の服装に合わせてだったので、コテで軽くウェーブをかけただけだった。そして改めて居間に戻ってきて、お父さんに姿を見せた。私はサービスに一回転して見せた。回るとスカートの裾がふわりと広がった。お父さんは前屈みになってその様子を見ていたが、ふと笑みを浮かべて私の姿を褒めてくれた。そして浴衣の時と同じ様に、様々な角度から真剣な眼差しで、携帯で写真を何枚も取るのだった。

ピンポーン。
それまで親子三人で談笑していたが、不意にインターフォンが鳴った。お母さんはいそいそと応対に出る。時計を見ると、丁度五時だった。
「…はい、では今出ますね?」
お母さんはそう言うと切り、私に出る準備をする様に言った。尤も準備も何も終わっていたので、ハンカチやスマホ、化粧品などの入った普段学生鞄にも入れているポーチの入ったミニバッグを提げて、玄関でリボンとレースの付いたフォーマルシューズを履いて、お父さんと共に外に出た。玄関から外の通りまでの約十メートルほどの距離、そこには道代わりにレンガが敷き詰められていたが、その脇の駐車スペースに見知らぬ車が停まっていた。その運転席脇に一人の男が立っていた。歳は三十台後半くらいだろう、どこかで見覚えがありそうだったが思い出せずにいた。よく見ると、運転席には誰かが座っているのが見えた。どうやら女性の様だった。男はお父さんを見ると、パァッと笑みを浮かべたかと思うと、一度大きくお辞儀をして、それから話しかけてきた。
「いやぁ、望月先生!お待たせして申し訳ありませんでした」
そう言われたお父さんは、左手首の時計をチラッと見ると、静かな調子で返した。
「…いやいや、五時丁度じゃないか。時間通りだよ」
「あっ、そうでしたか!…ではでは早速、どうぞお乗り下さい」
「うん」
男が後部座席のドアを開けたので、お父さんは短く返事をすると車に乗り込んだ。私は少し戸惑っていると、男は私に満面の笑みを浮かべながら、優しい調子で声をかけてきた。後部ドアを手で抑えたままだった。
「さあさあ”お嬢様”。遠慮せずにお乗り下さい!」
「…え?…あっ、は、はい!」
私は一瞬”お嬢様”と言われて、自分の事とは認識出来ず、また”色々な”思いが胸に去来したが、ふと背中をお母さんに軽く押されたので、誘われるままに車に乗り込んだ。最後に男が車の前方を回り込み、助手席に座ると、運転席の女性は淡々と発進させた。後ろを振り向くと、お母さんがこちらに手を振っていた。私も、見えるかどうか分からなかったが、一応振り返したのだった。

「今日はいつものしゃぶしゃぶ屋ですよ」
助手席から男は後ろを振り返らずに、お父さんに向けて言った。
今私達の乗った車は、土手に沿って走る高速道路の下の道を走っていた。土曜日の夕方だからか、普段は大型トラックがひっきりなしに走っていたが、今日はガラガラに空いていた。お気付きの人もいるだろうが、この通りは義一の家に行く道だった。実際すぐ近くを通ったので、思わずその方向を見てしまったが、幸いにも隣のお父さんには気付かれなかったようだ。男とのお喋りに夢中になっていたからかも知れない。
「…またか。味は悪くはないんだが、如何せん毎度の事では流石に飽きてくる」
お父さんはため息混じりに返した。
「あははは!確かにそうですが、まぁ普通は食べたくても簡単には行けないところなんですから、文句を言ったらバチが当たると言うもんですよ?」
男はあくまで陽気に返してきていた。お父さんはまた一度大きくため息をつくと、今度は運転席に座る女性に話しかけた。
「いやぁ奥さん、毎度毎度すみませんねぇ。いつもこうして送って貰っちゃって」
「いーえ、先生!」
”奥さん”と呼ばれた女性は、前方から視線を逸らさないまま、バックミラーでお父さんをチラッと見つつ返した。
「構いませんわ!先生のような人に、ウチの人が良くして下さっているんですもの」
「いやいや、私こそ助かっているんですよ?」
お父さんと女性が社交辞令的なやりとりをしている間、私は窓の外を流れる景色を眺めていたが、ふと視線を感じたので見てみると、助手席から上体ごと後ろに向かせて、男が私に微笑みかけてきていた。私が何も言わず見つめ返していると、男は笑顔のまま声をかけてきた。
「琴音ちゃんだよね?僕のこと覚えているかなぁ?昔にあった事があるんだけれど」
男は自分に向けて人差し指を指しながら、人好きのする笑顔で聞いた。
私は先程まで”お嬢様”と呼んできたのを”琴音ちゃん”と馴れ馴れしく変えてきた事には無視して、改めて男の顔をじっと見た。第一印象もそうだったが、確かに何処かで見た事のある感覚があった。が、やはりいくら考えても思い出せなかった。
私は黙って首を横に振ると、男は見るからに肩を落として落ち込んで見せた。すると女性が若干呆れ気味に、男に声をかけた。
「…あなた、そりゃ覚えてないわよ。だって最後に会ったの、彼女がまだ幼稚園か小学校に上がるかぐらいだったもの。ねっ、先生?」
「あぁ、言われてみればそうだねぇ」
お父さんは私に、柔らかな視線を向けつつ言った。
「琴音、お前は当然覚えていないだろうが、この二人はね、お前が俺の病院で生まれたばかりの時に、たまたまその時出勤していて、赤ん坊だったお前を抱きかかえたりしたんだよ。…かなり長い付き合いだろう?」
お父さんは珍しく、悪戯っぽい笑顔を見せた。私は話の内容よりも、お父さんのその笑顔が義一にそっくりなのに驚いた。でもすぐに兄弟だからと納得したが、それを踏まえても良く似ていた。と、私は考えていたが、助手席の男に一応話を振ってみることにした。
「…じゃあオジサンは、お医者さんなの?」
「…え?」
男は呆気に取られていたが、すぐに明るい笑い声を上げると、さも面白げに答えた。
「あははは!やっぱり覚えていないよねぇ?…そうだよ。君のお父さんのお父さんが院長をしている時から、あの病院に勤めているんだ。因みに君が幼稚園児の時、僕が診察したこともあるんだよー?僕は内科医だからね」
「…へぇ」
そう言われて、また記憶の海の中を攫って見たが、何も引っかかるものが無かった。男は構わず続けた。
「で、この車を運転している彼女は、僕の妻でね。あの病院で看護婦をしていたんだ。今は辞めてしまっているけどね?」
「…あなた、今はもう看護婦なんて言ったらダメなのよ?看護師って言わなきゃ」
女性は注意するように言ったが、口調自体は冗談風だった。男はやれやれといった調子で、頭を掻いていた。そんなこんなの話をしていると、車は大きな駐車場に入った。どうやら目的地に着いたようだった。


車から降りてお店を見てみると、それはたまにお父さんの運転する車で前を通るお店だった。このお店は、都内をぐるっと回る幹線道路脇に構えていた。建物は昔ながらの日本家屋を模して作られていた。見た目だけで言えば、趣が無いとは言えない、いかにも料亭風な雰囲気を醸しだしていた。
私がボーッと建物を眺めている間、お父さんは女性に対してお礼を述べていた。
「…琴音ちゃん」
急に話しかけられたので振り返ると、男がにこやかに近づいてきて、私の隣に並んだ。
「君も昔何度かここに来たんだけれど、覚えてない?」
さっきから覚えてるかどうか聞いてくるの、鬱陶しいな…
と私は何故かいつもニコニコしているこの男に反感を覚えていた。だがその感情はおくびにも出さずに、淡々と答えた。
「…はい、覚えていません」
「…そっか」
男はそう言うと、ふと私の背中に軽く手を当てた。私は急だったのと、嫌悪感を感じてビクッとしたが、男は構わず笑顔を向けてきながら言った。
「じゃあ今日また新しく、楽しい思い出が出来ると良いね!」
そう言うと、まだ車の前で談笑しているお父さん達の方へと行ってしまった。私は大きく溜息
「はい」
私は外向き用に、『うん』ではなく『はい』と返事をし、深々と頭を下げてお礼を言った。女性は少々恐縮していたが、お父さんに”私”の礼儀正しさを褒めちぎっていた。そして改めてお父さんに挨拶すると、軽く男に飲みすぎない様忠告して、私に笑顔で手を振ってから車に乗り込み、元来た道を戻って行った。
軽く三人で見送った後、男が笑顔でお店の方を見ながら言った。
「…では先生方、そろそろ参りましょう」

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。」
玄関にかけてある暖簾を潜ると、着物姿の女性が数人私達を出迎えてきた。その中の一人、お年を召した品の漂う初老の女性が、お父さんに静かな笑みを浮かべながら話しかけていた。
「今日もわざわざ当店に御足を運びいただき、有難うございます先生」
この店の女将なのだろう、腰を低くし行く手を手で指し示しながら言った。
「先生の所からは、遠くございましょう?」
「いや、女将さん。大した事はないよ。…精々二、三十分程なものだ」
お父さんは威厳を示すかの様に、淡々と低い声で答えた。
「そうで御座いますか。皆様方は今か今かと、先生方のお着きをお待ちしておられます」
「そうか。…まぁ今日は少し遅れたな」
そう言うとお父さんは、後ろから黙ってついてくる私を、微笑みつつチラッと見た。隣を歩いていた女将もこちらに振り返ると、何も言わず柔和な笑顔を向けてきた。私は黙って、軽く会釈しただけだった。
大分建物の奥まった所まで案内された。玄関入ってから少しの間は、言い方がいいのか悪いのか分からないが、一般的なレストランと内装と雰囲気が変わらない様な、アットホームで庶民的なエリアが続いた。が、少し裏に入るとガラリと雰囲気は一変して、オレンジ色の暗めな照明が特徴的な廊下を歩いて行った。壁は中学生の教養の無い私にはよく分からなかったが、何やら表面が和紙の様な見た目の、いかにも品がある様な趣向が凝らされていた。これも言い方がどうかと思うが、このエリアには始終、高級な線香のような匂いが立ち込めていた。
廊下の突き当たりに着くと、女将は振り返り、そこにある引戸を指しながら静かに言った。
「今日のお部屋はこちらで御座います。ではどうぞ御緩りとお過ごし下さいませ」
そして静かにゆっくりと開けたのだった。

まずお父さんが入り、後ろから促されて私も中に入り、その後ろから男が続いた。
中に入ってすぐ目の前には、ふすまが閉められていた。脇には下駄箱があり、すでにそこには何足もの靴で埋め尽くされていた。お父さんが何も言わず靴を脱ぎ始めたので、私も倣って靴を脱いだ。そして下駄箱の空いてるスペースにしまった。
お父さんは襖に手をかけると、私の方を振り返りながら微笑みつつ言った。
「じゃあ開けるけど、良い子にしてるんだぞ?」
「うん…じゃなくて、はい」
と私も悪戯っぽく舌を出して見せながら答えた。お父さんは一瞬満面の笑みを見せたかと思うと、すぐに真顔に表情を戻し、襖をゆっくりと開けた。
開くとまず聴覚が刺激された。閉まっている時は気付かなかったが、内部はガヤガヤ騒がしかった。その場には声からして老若男女がいたようだが、それぞれ近くの人と思い思いに好き勝手くっちゃべっていたようだった。しかしお父さんが中に足を踏みいれると、途端にざわつきが止んだ。お父さんが入り口付近で仁王立していたので、私はその脇から何とか中に入り込んだ。そこには総勢十六名程のスーツなどを着込んだフォーマルな面々が、コップだけ置かれた長テーブルの両脇を固めるように、八対八で座布団に座っていた。ここは畳の部屋だった。まだ張り替えたばかりらしく、料理がまだ出てないせいもあってか、気分の落ち着くようない草の香りがしていた。皆一斉にお父さんを見ていた。中には私の存在に気づいた人達もいて、こちらに向けて笑みを浮かべていた。私は何だか気恥ずかしくなって、視線を逸らした。
と、掛け軸のある壁側のそばに座っていた、恐らく五十から六十くらいの年齢と思われる男が立ち上がると、お父さんの側まで寄って来た。男はお父さんに一礼すると、先ほどの女将みたいな仕草をしながら言った。
「先生、お待ちしていました。どうぞ彼方へ」
「ん」
お父さんは返事とも取れない言葉を発すると、促された方向に足を進めた。お父さんがそばを通る度に、近くの面々は『先生』とそれぞれ各様に挨拶を投げかけていた。その度にお父さんは『ん』とだけ短く返すのだった。そして掛け軸の真ん前に座った。私はどうすれば良いのかとまごついていると、男は私に微笑みかけながら、お父さんの方を指し示した。
「先生のお嬢様。お嬢様も先生の横にお座り下さい」
「は、はい」
私達を迎えに来た男と同じ様な、慇懃に畏まった態度に戸惑いつつ、促されるままお父さんの側へと向かった。
その途中、その場にいた全員は私の一挙一動を見守っていた。私は気持ち足早にお父さんの隣に座った。 テンパっていたので座ってから気づいたが、今座っている場所はこの場にいる全員が見渡せる場所で、後ろに掛け軸があったり床の間がある点を見ると、よく考えなくても上座ということが分かった。私はますます恐縮しかけたが、していてもしょうがないと開き直り、顔を上げて真っ正面から人々の顔を直視した。先程私達と共にここまで来た男は、お父さんから一番遠くの末席に座っている。お父さんを招き入れた男は、私のすぐ近くに座った。私はこの様な”大人の慣習”なるものには疎かったし、そもそも興味が無いのだが、上座に座るお父さんのそばに座るという事は、このおじさんともおじいさんとも取れる男が、なかなかの地位にいる事は容易に察せられた。男はお父さんと話していたが、たまに私の方にも視線を向けてきた。私は取り敢えず気付かぬふりをしていた。
長く感じたが、恐らく私が座ってから数分しか経っていなかっただろう。ふと襖が開くと、先程の女将が入り口付近の外から、お伺いをする様に手を付きつつ聞いた。
「そろそろお食事をお運びしても、よろしいでしょうか?」
「はい、お願いします」
入り口付近に座っていた末席の男が、和かな調子で答えていた。女将は深くお辞儀をすると襖はそのままに、一度引っ込んだかと思うと、後から後から着物姿の女給達が料理を運び込んで来た。気付けばテーブルの上は料理で埋め尽くされていた。今末席に座っているあの男の話では、しゃぶしゃぶのお店という話だったが、しゃぶしゃぶは出て来なかった。懐石料理だ。
猪口、八寸、向付、蓋物諸々種類が多過ぎて、何から手を付けたらいいのか分からない程だった。どれが何なのかも、ほとんど分からなかった。唯一わかったのは、桜鱒の燻製焼きと鯛御飯くらいなものだった。給仕の女性達が料理を運び終えると、次は大きな瓶に入ったビールと、升に入った日本酒などを運び入れて、それぞれの人々の前に丁寧に置いていった。お父さんには女将自ら、ビールを運んできてコップに注いでいた。終わると女将は私に微笑みながら聞いてきた。
「お嬢様、お嬢様は何を御飲まれになりますか?」
いつの間に用意していたのか、飲み物のメニュー表を手渡してきた。私は軽く会釈しながら、おずおずと受け取り中身を見た。一つも写真は載っていなかった。ただ筆で書いた様な名前だけが、ズラッと羅列されているだけだった。お父さんが見守る中悩んだ挙句、焙じ茶を頼むことにした。女将は少し意外だという表情を示したが、すぐに笑顔に戻ると大きく頷き、了承の意を伝えて立ち上がり行ってしまった。すぐに別の給仕の女性が、大層な焼き物の急須と湯飲みを持ってきた。そして私の目の前で仰々しく淹れるのだった。
全員に料理と飲み物が行き届いたのを確認すると、お父さんはその場で立ち上がり、ビールの入ったコップを手に持ち言った。
「では皆、今日もよく集まってくれた。口上を述べるのは抜きにして、早速音頭を取らせてもらう。コップを持ったか?…では、カンパーイ!」
「カンパーイ!」
お父さんの合図と共に、各一人一人は隣や向かいに座る人と、グラスなり何なりを軽くぶつけ合っていた。私は一人静かに、湯飲みに入った焙じ茶を啜るのだった。普段飲んでいるよりも、濃いめの薫りがした。味も若干渋めだ。如何にも良い物のようだった。
隣に座るお父さんの元には、会の出席者がひっきりなしに乾杯しに来ていた。何やらお父さんを褒め称えるような辞令を述べていた。私は冷ややかな視線を向けつつ、目の前の豪華な懐石料理に、舌鼓を打っていた。
「…名前は、琴音ちゃんだよね?」
私のすぐ側に座っていた、お父さんを招き入れた男が話しかけてきた。私は一度箸を置くと、微笑みを意識しながら答えた。
「は、はい。琴音といいます」
「よかったぁ、合っていた。今は幾つになるの?」
男は人好きのする様な笑みを浮かべつつ、尚聞いてきた。
「今は中学一年生で、今年で十三歳になります」
「ほぉー、大きくなったねぇ。…ねぇ、院長?」
「ん?あぁ」
お父さんは挨拶を一通り終えて、やっと目の前の食事に手を付けるところだった。私をチラッと見てから答えた。
「そうだな。君がこの子を見たのは、生まれたばかりの赤ん坊だった頃か?」
お父さんがそう聞くと、男が苦笑まじりに顔を横に振りながら答えた。
「いえいえ。あれは確か…お嬢さんがまだ幼稚園に入るか入らないかの時に、奥様と一緒にこの場に来られて以来ですよ」
「…あぁ、そうだったな。忘れていたよ」
「琴音ちゃん。私のことは覚えているかな?」
男は先程と表情を変えずに、興味津々といった顔つきで聞いてきた。正直そう聞かれると思っていたので、思い出そうとしていたのだが、やはりこの人も見覚えがなかった。寧ろここまで一緒に来た、今は末席で周りの人とお喋りしている男を、何故見覚えがある程度には認識出来ていたのかを、今この時に自覚していた。土曜日にお父さんを毎回迎えに来ていたのだろう、たまたま私が家にいる時に、玄関口であの男が待っているのを、興味が無いなりにチラ見したその姿が、脳裏のどこかに残っていたからなのだろうと納得した。
「…すみません」
私は軽く頭を垂れながら、口調を落として答えた。すると男は愉快だというように大声で笑いながら返した。
「それはそうだよね!覚えていたら凄いもんねー。…あれから私の見た目も大分変わってしまったし」
男は薄くなった関係で、短く刈り上げられた頭を摩りながら言った。私はリアクションに困って、ただ愛想笑いをしていると、お父さんはお椀を手に持ちご飯を食べながら言った。
「この人はね琴音、ウチの病院で内科部長をしているんだ。こう見えて、病院の中では偉い部類の人なんだよ」
「…へぇ」
「こう見えてっていうのは、余計ですよ院長ー…。そう、今院長から紹介預かりました、内科部長をさせて頂いている新井誠一といいます。えーっと…あぁ、あった。よろしくね?」
新井と自己紹介した男は、おもむろに財布を取り出すと中から名刺を取り出し、私に差し出して来た。そんな経験が無かったから、私は受け取るものかどうか迷っていると、お父さんが笑顔で受け取るように言ったので、まごつきながら名刺を受け取った。そして取り敢えずテーブルの空きスペースに置いといた。
「一緒に来た男がいるだろう?アイツの上司が新井さんなんだ」
「へぇー」
私は興味が湧かないせいか、へぇとしか答えようが無かった。そんな気の無い返事を私がしているのにも関わらず、新井さんは気を悪くしたような素振りを見せず、相変わらず終始ニコニコしているだけだった。もしかしたら気づいていないだけかも知れない。
それからはお父さんの近くに座っていた、これまた新井さんと同い年くらいに見える、ロマンスグレーの髪型が目立った男とも話した。男の名前は村上信雄。こちらは外科部長らしい。新井さんは典型的な中年太りをしていたが、村上さんはスラッとしていた。どこかお父さんと雰囲気も含めて似ていた。
この人からも何故か名刺を頂いたので、新井さんの名刺の上に重ねた。その後暫くは私を其方退けで、病院の内部の話を延々としていた。私はまた黙々と食事を摂ったのだった。
出席者が粗方食べ終わったのを見計らったかの様に、先ほどの女将たちが部屋に入って来た。手元のおぼんには食後のデザートが乗っていた。黒糖シャーベットだった。全ての人の前に配膳されたので、すぐまた退がるのかと思ったが、年の若そうな給仕だけが部屋から出て、女将だけが残った。そしてツカツカとこちらの方へ歩み寄り、お父さんの側に座ると、一度畳に指を付き深く頭を垂れながら聞いた。
「…先生方、今日も当店を御利用下さいまして有難う御座います。…本日の御食事は如何だったでしょうか?」
「あぁ、相変わらず美味しかったよ」
お父さんは女将の方を見ながら、優しい口調で返した。
「勿体無いお言葉、有難う御座います」
女将は顔を上げると、満足げな笑みを浮かべた。
その後の十五分ほどは、グダグダとあちこちでまだお喋りが続いていた。先ほどは食事中ともあって、私と話さなかった面々が色々と話しかけてきた。あまりにも杓子定規なやり取りだったので、話すまでも無いから割愛するが、要は今日集まった面々は、お父さんの病院の勤務医と、提携している他の病院の関係者の集まりだという事だった。どの人もまず私の容姿を無闇矢鱈に褒めてきてから、頻りに受験の話を振ってきた。どの人も私の通っている学園の事をすでに知っており、何かと学園の事を褒めてきた。後は頻りにお父さんの病院での手腕を讃えるばかりだった。…正直言って表面的過ぎる会話ばかりで辟易した。退屈のあまり、あくびをしない様にするのがやっとだった。…あと眉間に皺を寄せたり、ジト目で相手を見ることも。

「またのご来店を、お待ちしております」
玄関口で女将がそう送った。その後ろには今日給仕してくれた女性達が勢揃いで並んでいた。女将が大きくお辞儀をすると、ワンテンポ遅れて給仕達も、深くお辞儀をしたのだった。
「では院長、私はこれで」
「あぁ、今日はお疲れ様」
「じゃあまたね、琴音ちゃん。また今度ゆっくりと話しましょう」
お父さんにだけでなく、私にも面々が挨拶をしてきた。結局この場にいた全員から名刺を受け取ってしまった。私は名刺を手に持ちながら、一人一人の社交辞令に笑顔で丁寧に対応した。
久しぶりに猫を被り続けたせいか、ひどく疲れてしまっていた。料亭特有の、堅苦しい雰囲気のせいでは無かった。
この時からふと、懐かしい感覚を憶えていた。あの小五の夏休み明け、クラスメイト達と会話した時に生じた違和感。あの後家に帰って、お母さんと初めて口論をした時にも感じたモノだ。どこまでも深くどす黒い、得体の知れないナニカ。やたらに胸に重くのし掛かってきたアレだ。あれからここ暫くは鳴りを潜めていたが、今日この日になって急にまた、顔を覗かせて来ていた。しかしまだあの時ほどに、息苦しくなるほどでは無かったが、小さいながらも存在感を示してきていた。
そんな感覚を味わいつつも、私は無視して挨拶が終わると、お父さんの側に寄った。
正直先程も言った様に、疲れ果てたのでもう家に帰りたかった。
お父さんの側には私達を迎えに来たあの男が、携帯で何処かに電話を掛けていた。
「お父さん」
私が声を掛けると、お父さんは私に笑いかけながら応えた。
「お、琴音。少し待っていてくれ。今コイツがタクシーを呼んでいるから」
「タクシーで帰るの?」
私は意外な調子で返した。さっきの女性が迎えに来るものと、何と無く思っていたからだ。
お父さんは首を横に振りつつ、まだ電話をしている男に目を向けながら言った。
「ん?あ、いや、これからもう一軒目に行くところでな。そこにも出来れば琴音、お前にも付き合って欲しいんだが…」
お父さんはここで先を言うのを止めたが、いかにも同意を促してきていた。私はさっきも言った通り疲れていたので、アラが出て墓穴が出る前に帰りたかったが、乗り掛かった船、ここまで来たら最後まで行こうと決心した。
「…私は別に構わないよ?私が邪魔にならなければだけど」
私は悪戯っぽく笑いながら答えた。お父さんは私の返答に気を良くしたのか、微笑みつつ何かを言おうとしていたが、途中で横槍が入った。
「邪魔だなんて、そんな事は無いよぉ。僕等としては喜ばしいくらいさ!ねっ、先生?」
いつの間にか電話が終わったのか、男は私の側に寄りつつ無邪気な笑みを浮かべながら言った。
「勿論だ。…同意してくれて有難う、琴音」
「う、うん」
ここまで感謝の意を向けられると、今更退く事は出来なかった。
「で、竹下、タクシーは捕まったのか?」
お父さんは男に聞いた。竹下と呼ばれた男は、胸を張って自信ありげに返した。
「えぇ!休日の夕方なんでどうかと思いましたが、意外にすぐに捕まりました!」
「…そうか、よかった」
「ねぇ、お父さん?」
私は駐車場にまだ残っている、会の出席者達を見渡しながら聞いた。
「他の方々も、一緒に移動するの?」
「ん?あぁ、違うよ」
お父さんは”竹下”さんの方を見ながら答えた。
「あの人らはここでサヨナラさ。ここからはコイツと一緒に行くよ」
すると竹下さんはワザとらしくウンザリ気味に、お父さんに言った。
「そういや先生。…今日は橋本の奴も来るそうですよ?」
「別にいいじゃないか、彼が来ても。久しぶりだし」
お父さんは苦笑交じりに答えた。と、竹下は何故か私をチラッと見てから、お父さんに表情を崩さず返した。
「…まぁ、今日久しぶりに顔を出してくる理由は分かっているんですけど」
「…ふふ」
「…?」
竹下とお父さんが笑いあっている中、私一人で首を傾げているとその時、駐車場に一台のワゴン車が入ってきた。どうやらタクシーが来た様だった。

「では先生、お疲れ様でした!」
「あぁ。みんなもお疲れ様」
お父さんは窓を開けて、挨拶してくる面々に返事をしていた。そしてドライバーに合図すると、ゆっくりとお店を後にしたのだった。
来たタクシーは、パッと見ではタクシーと分からなかった。辛うじて助手席の上部辺りに、小さなエンブレムがあるお陰で認識出来る程度だった。黒塗りのワゴン車だった。運転手を覗いて、最大六人乗れるサイズだった。助手席には竹下さんが座り、後部座席の一列目に私とお父さんが座った。
タクシーは行きの道とはまた別の、いわゆる表通りを走っていた。この道は私にも馴染みのある道だった。
私は外の景色を見ながら、お父さんに聞いた。
「…あれ?このままだと、お家に着いちゃうんじゃない?」
「ん?…あぁ、そうそう」
お父さんは私の方を見ながら答えた。すっかり外は暗くなり、車内は外を走る車のヘッドライトや、テールライトの白や赤の光に照らされているだけだった。私とお父さんの目の前の、緑色の光を発している電光時計は、七時十五分前を示していた。
薄暗い車内ではお父さんの表情までは、はっきり見えず分からなかったが、口調は明るく答えた。
「まぁ、着いてからのお楽しみだよ」

それから十分ほどした後、タクシーが停まった。どうやら着いたようだ。助手席の竹下さんが料金を払っている間、私とお父さんは車外に出た。そこは馴染み深い所だった。
地元の駅前だった。タクシー乗り場で降ろされたのだった。
お父さんは竹下さんを待たずに、スタスタと歩いて行ってしまった。私は少しタクシーの方を見ていたが、すぐにその後を追った。
駅前といっても普段は歩かない裏路地を歩いていた。この駅前は、表向きは整理されてる風だったが、ちょっと横道に入ると、途端に昭和ながらのゴチャゴチャした、昔ながらの居酒屋などが犇めく地区になっていた。まだお酒と縁のない私には、この辺りには用事もなく、地元といってもまず近寄らないので、知らない街に来た感覚に陥っていた。
だいぶ奥まった所まで来たが、ふと一軒のお店の前で足を止めた。パッと見た時の第一印象は、小さなお店というものだった。何せ目の前のドアの一回り分くらいしか、建物の幅が無かったからだ。そのドアの前に掛けられている暖簾には、平仮名で”きく”と書かれていた。周りのお店がこれでもかって程に、ケバケバしく多種多様な色合いのネオンで飾っている中、地味な店構えではあったが、それが逆にこの界隈では目立っていた。
お父さんは何も言わず、いつも通りと言った感じで店内に入って行った。私も続いて中に入った。
まず匂いが鼻腔を刺激した。お酢の匂いと魚介の匂いだ。店内は縦に細長かった。入って左手にカウンターがあり、座ったら足が届かない位に高めな椅子が、十二、三個並んでいた。一人の男性がチビチビとお酒を飲んでいる。カウンターの前には透明なケースがあり、その中には色んな魚の切り身なり、貝なりが入っていた。少し曇っているところを見ると、内部は程よく冷えているようだった。カウンターの向かいには六人掛けのテーブルが三つ程あり、その内の二つにはサラリーマン風のお客さんが座っていた。ここまで引っ張る必要は無かったが、察しの通りここはお寿司屋さんだった。
「あっ、先生いらっしゃい!」
「いらっしゃい先生!」
カウンターの中で作業をしていた、五十代と見られる男女が、明るい声を上げてお父さん達を笑顔で迎え入れた。
「あぁ、今日も世話になるよ」
お父さんは慣れた調子で返していた。とその時、私達が入って来たのに気づいたカウンターの男は、こちらの方に人懐っこい笑顔で話しかけてきた。
「あぁ!遅いですよ先生ー。もう先に始めていますよ?」
男はそう言うと、お猪口を手に持ち、こちらに見せながら言った。
「おいおい、もう呑んでいるのか?」
お父さんは苦笑いを浮かべながら、男の横に座った。私もその隣に座った。気付かなかったが遅れていた竹下さんも追いついた様で、私の隣に座った。
皆が座り終えると、それを見計らったかの様にご主人が、小皿に入ったお通しを出してきた。タコワサだった。
「…さてとっ!先生方、今日は食事どうします?」
ご主人はパンッといい音を鳴らして手を打つと、お父さんに聞いてきた。
「いやぁ大将、悪いけど今日はもう済ませてきたから、お酒を飲ませておくれ」
お父さんは苦笑いを浮かべながら答えた。すると大将と呼ばれた男は眉を潜めながら、不満げな表情で言った。だが、口調は柔らかかった。
「えぇー、先生、そりゃ無いよぉー…まぁ、しょーがないねぇー。じゃあどうぞ、何か注文をして下さい!次はちゃんと食べに来て下さいよぉ?」
言い終えると、大将はクシャッとした笑顔を見せていた。
「あははは。分かったよ。代わりにツマミを頼むから、今日の所は許してくれ」
お父さんも笑顔で大将に対応していた。
「って、あらぁ」
おカミさんは私を見ると、妙に明るい表情で笑顔を作りながら言った。
「今日はまた随分可愛いお客様がいるのねぇ?」
「あ、あの…」
私が答えに困っていると、隣に座ったお父さんが代わりに答えた。
「こいつね、俺の娘なんだ。今年中学に入ったばかりだよ」
お父さんは、やたらに砕けた調子で答えた。おカミさんは私達一人一人の前に、後ろからおしぼりとお茶、先程のお通し、それにお箸を置きながら返した。
「あらぁー、そうなんですかぁ?随分可愛いお嬢様をお持ちで。お名前は?」
「ほら、琴音。自己紹介をしなさい」
「う、うん…いや、はい」
私は危うく猫をかぶるのを忘れかけたが、何とか感覚を思い出しつつ答えた。
「私は望月琴音と言います」
私はそう短く自己紹介をすると、頭をぺこりと下げた。今日だけで何度自分の名前を言ったのだろうか。
「あっらぁー、礼儀までしっかりしていて。先生に似てお利口さんなのねぇー?それに随分大人っぽいわぁー。色気があるものー。入ってきた時、先生んトコの女医さんかと勘違いしたわぁ」
おカミさんは先程からだが、やけに甘ったるい口調でお父さんに媚びるように言った。
お父さんも合わせると言うほどではないが、物腰柔らかげに返した。
「いやー、こいつはまだまだだよ。まぁ他の同年代の子たちと比べたら大分ませてるけど、大人っぽいってだけで、まだまだ大人じゃなく子供だよ」
「あったりまえですよ先生ー。それを言っちゃあ、お終いですよ?」
「そうかぁ?あははは」
お父さんとおカミさんは、愉快に笑い合っていた。その様子を見ていた他の医者たちも笑っている。私だけ聞こえないフリしながら、苛立ちを隠すように俯き加減に、出された安っぽいお茶を啜っていた。
目の前に立てかけられたメニューを見ると、私が飲める飲み物がジュースくらいしか無かったので、仕方なくそこに書かれていたオレンジジュースを頼むことにした。他の三人は来慣れた調子で、次々にお酒とツマミを頼んでいった。おカミさんは注文を手書きでメモると、カウンター内にいる大将にその紙を渡していた。
飲み物を待つ間ふと後ろを見ると、先程までテーブル席にいたサラリーマン風の人達が居なくなってた。店内には大将とお上さん以外、私達だけとなっていた。ふと、ガラガラと音を立てながらドアが横に開いたので、他のお客さんかと思って見ていたら、いつの間に外に行っていたのか、大将が暖簾を下げている所だった。ふと私と目が合った。ほんの数秒ほど見つめ合ってしまったが、忽ち先程にも見せたクシャッとした笑顔を浮かべて、聞いてもないのに私に話しかけてきた。
「お嬢ちゃん、これはねぇ、店じまいというのを見せるために仕舞うんだ」
そんな事は知っている。何故私達がまだ中に居るのに仕舞うのかを、どうせなら聞きたかったのに…。というような事は、私からは聞かなかった。何故か”なんでちゃん”の私でも、積極的に聞く気が起きなかったのだ。これはそばにお父さんが居ることとは、根本的なところでは違う気がした。
そんな私の心中を、察したのかどうなのか分からないが、大将は暖簾を畳みながら続けた。
「いつも先生達が来るとな?こうしてお店を閉めちゃうのよ。先生達にはお世話になってるんでな、こうして来て貰った時には、貸切状態にしてしまうのよ」
「でもその分、御足は弾んでいるだろう?」
お父さんはタコワサを食べながら、大将に陽気な調子で返していた。私の位置からはお父さんの表情が見えなかったが、恐らく意地悪い笑みを浮かべていたことだろう。
大将は「違えねぇ!」と言うと、ガハハハと大きく笑いながら畳んだ暖簾を持って、お店の裏へと消えて行った。と同時に、おカミさんが私達のテーブルに注文した飲み物の各品を運んできた。他の皆んなはいつも同じ物なのだろう、確認せずとも勝手にドンドン置いていった。最後に私の目の前にオレンジジュースをおくと、「ごゆっくりー」と語尾を伸ばしながら言いつつ、大将の入った勝手口の中へと消えて行った。
「さてと、では改めて…」
お父さんは自分の頼んだ日本酒を、升ごと手に持つと、その中のグラスを器用に別の手で持ち上げながら言った。上手い事やろうとしていたみたいだが、テーブルの上にお酒が少し滴っていた。と、お父さんの合図と共に、他のお医者達も各々のお酒の入ったグラスを手に持ち出したので、私も真似てオレンジジュースのグラスを持った。そんな私の様子を視線を流しつつ見たお父さんは、一度フッと短く息を吐くと、先程のしゃぶしゃぶ屋ではしなかったような、明るい口調で声を上げた。
「では…カンパーイ!」
「カンパーイ!!」
各々は隣にいた人と、思い思いにグラスをぶつけ合っていた。前のお店とは違い、皆んな遠慮無しに、大きな音を立てていた。
おっして各々奇異に飲み干す者もいれば、チビッと唇を湿らす程度に留めたりと、様々な形でお酒を飲んだ。私はストローで軽く啜った。
「…ふーう、生き返った」
お父さんは大きく息を吐くと、やれやれといった調子でシミジミ言った。
「協会のお金で食べるから、あんな堅苦しい所でも進んで行くが、やはり俺達としてはこの店ぐらいが似合っているなぁ」
すると私の左隣の竹下さんが、私越しにお父さんに声を掛けた。
「そうですよー。あんなとこ、タダ飯だから行くんです。何が悲しくて知らない人達や、年寄り達と食事しなきゃいけないんですかぁ?」
「お酒を注いだりしなきゃだしな」
お父さんの向こうに座っていた男が、上体を仰け反らせながら、竹下さんに対してニヤケながら言った。言われた竹下さんは、眉間に皺を寄せ、不満げに見せながら返した。
「お前…今日もズル休みしたろー?今日も俺一人で大変だったんだから」
「お前が馬鹿正直に出てくれるお陰で、俺が出ないで済んでるよ、ありがとう」
男は意地悪い笑みを浮かべながら言った。
「…ったくー、しょうがないんだからなぁ」
「あははは…あっ、そういえば」
お父さんは愉快そうに笑いながら、私の方をチラッと見てから男の方を見た。
「琴音、まだこいつの事紹介してなかったよな?」
「う、うん」
お父さんがここに来てから、ヤケに砕けた調子でいたので、私も猫をかぶるのを若干緩めていた。
「…え、俺ですか?」
男はお通しを食べながら聞き返した。
「俺でも、琴音ちゃんとは初対面じゃないっすよ?ねっ、琴音ちゃん?」
「え?…えぇっと」
私はキザな笑顔を向けてくる男を凝視したが、何となく見たことがある気がするだけで、見当はつかなかった。
すると、すぐにお父さんが助け舟を出してくれた。
「…あのなぁ、何年前だと思ってるんだよ?まだこいつが低学年の頃だぞ?」
お父さんが呆れ口調で言うと、男はさも不満げな顔つきを見せつつ返していた。
「えぇー、だって俺が憶えているのに、琴音ちゃんが憶えてないのは不公平っすよぉ」
「子供と何張り合ってるんだよ?…琴音、こいつが言うように初対面じゃないんだ。こいつが昔勤めていた内科医院でな、お前は予防注射を打って貰ったことがあったんだ」
「へぇー…」
私はお父さんの向こうで、自分の腕に注射を打つジェスチャーをしている男を改めて見たが、何と無く言われてみれば、そんな事もあったかなぁ程度の感想しか起きなかった。
そんな私に構わず、お父さんは紹介を続けた。
「まぁその一度しか打って貰ったことがないから、憶えていないのも無理はない。基本的にお前は、ウチの病院で予防接種を受けていたからな。…まぁ俺が院長になってから、コイツを元いた医院から引っ張ってきたから、実質まだ新入りなんだよ」
そう言うと、お父さんは男の肩に腕を回した。男も楽しげに返していた。
「…二人って、仲良しなんだね?」
私はボソッと、素直な印象を述べた。料亭にいたどの面々よりも、仲睦まじげだったからだ。
するとお父さんは、家では滅多に見せない満面の笑みを浮かべながら、そのままの体勢で答えた。
「…そう見えるか?あははは!そうかそうか!…まぁ仲は良いな。何故ならこいつと、そいつは俺の大学時代の後輩だからさ」
お父さんは私の隣で、チビチビお酒を飲んでいる竹下さんに指差しながら言った。私が振り向き見ると、竹下さんは口にグラスを付けながら笑顔で私に頷いた。
「…へぇー」
私はまたお父さんに向き直りながら言った。
「ちょっと先輩?」
男はお父さんの肩を、指先でトントンと軽く叩きながら話しかけた。
「俺のこと、まだ紹介終わってませんけど?」
そう言うと、お父さんは面倒臭そうな表情を浮かべながら言い切った。
「後は面倒だから、お前が自分で自己紹介しろ」
「そんなぁー…まぁ、いっか!」
男は少しだけ椅子を後ろに引くと、体ごと私の方に向けて、胸を張りつつ自信ありげに言った。
「俺の名前は橋本真司。君のお父さんトコに勤めている内科医だよ。そこにいる竹下と同じさ。…今度は忘れないでくれよ?」
橋本と名乗る男は、最後にキザなウィンクをかまして来ながら言った。
…橋本?どこかで聞いた名前だな…あっ、そうか!
私は男の名前を聞いて、どこか懐かしい気持ちになったが、すぐに思い出した。そう、お母さんに私が受験するよう働きかけた、その女性の夫がこの人だった。こんな所で、こんな調子で出会う事になるとは思っても見なかった。
それからは大将とおカミさんが戻ってきて、注文していたツマミの品々を次々に出してきた。大トロの切り身の上に焼き塩と芽ネギを添えたモノや、スズキの切り身と純菜に土佐酢をかけたモノ、天然稚鮎の煮物などバリエーションが豊かだった。いわゆる”いつもの”というものらしい。
私達は出されたツマミを味わうように食べていたが、当然というか何というか、話の流れは自然と私の進学話に流れていった。
「先輩から聞いたけど、琴音ちゃん凄いねー。女子校御三家の一角に進学するなんて」
「…いえ」
私はストローでジュースを啜りながら返した。
「私自身は大した事ないです。学園は凄いのかもしれないけど」
我ながら捻くれた返答をしたもんだと思ったが、正直自分の通う学校で判断されるのは、我慢がならなかった。
橋本さんは予想外の反応をされたからなのか、目を丸くして私を見ていたが、すぐに和かな顔つきになった。
「中々面白い子だねぇ、琴音ちゃんは。普通こうやって言われたら、褒めてもらったんだから素直に喜ぶところだと思うんだけど、なんか嫌そうに応えるんだからな」
「…変わってるんだよ、こいつは」
お父さんはボソッと、カウンターの向こうを見ながら言った。顔までは見えなかったが、おそらく呆れ返った表情を浮かべていただろう。
この時の私は、そんなお父さんの小さな変化には気を止めなかった。先程もチラッと言ったが、普段の感情を出さないようにしているかの様な淡泊ではなく、自分の事を”私”ではなく”俺”と呼んだり、それに合わせて口調が乱暴粗雑になっている所とかに、気を取られていたからだ。…勿論普段でもたまに”俺”呼びはしていたが、それに伴って言葉遣いまで乱れることは無かった。それが今はこんな調子だ。要はお父さんは、少なくとも私の前では、家族だというのに猫をかぶっていた訳だった。本人が自覚しているかどうかは兎も角、普段は偉そうに尊大な態度を見せているだけに、今のお父さんが滑稽に見えて仕方なかった。
それからは竹下さん、橋本さんが、お父さんとの大学時代の話を聞かせてくれた。授業をサボって競馬場に行った話、流石のお父さんも気まずそうな顔を表した女遊びをした話など、しょうもない話を延々と聞かされた。私は話の内容というよりも、本来なら黒歴史と見られるエピソードを、嬉々として話すお父さんの後輩達自身の方に、興味というか疑問が湧いていた。
何故自信満々に誇らしげに話すのだろう?自分の失敗談を話して、教訓にするように言うなら分かるけど、そんな気配は微塵もなかった。
あらかた話が終わったのか、ふと橋本さんが、カウンターでまな板などを洗っていた大将に話しかけていた。
「…でさぁ、どうも株が今日も乱高下をしているんだよ」
「へぇー、そうなのかい?」
大将は、さも興味を示すように相槌を打っていた。
橋本さんは自分が株をやっていること、それでいくら儲けた損したという話を、寿司屋の大将に向けて延々と話していた。途中からお父さんと竹下さんも加わり、株の話から病院経営の話まで、話が広がっていた。たまに私にも話を振ってきたが、それは株とはこういうもんだとか、経営とはこういうもんだとか、そんな類の話を、私が分からないと高を括って講釈を垂れていた。
さっきまでおちゃらけていたかと思えば、変わって急に些末な話を飽きもせず、これまた延々と同じ内容を繰り返し話していた。大将も感心してるのか、ただのフリなのか分からなかったが、いちいち笑顔で対応していた。今初めてでは無かったが、最初のお店にいる時よりも、会話の内容の浅さに耳を塞ぎたくなる衝動に駆られていた。先程から存在感を増してきている、真っ黒で重たいナニカが、胸を圧迫して息苦しさを私に与えていた。一刻も早く、この場から逃げ出したかった。
「また来て下さいね、先生!」
「あぁ、また寄らせて貰うよ」
あれから一時間程して、この店ではお開きになった。そしてまた駅前のロータリーまで行くと、タクシー乗り場まで歩いた。駅前に立つポールの上の時計を見ると、丁度九時になる所だった。
「じゃあ俺達はもう少し呑んでいくから、お前はもう帰りなさい。ここからは一人で帰れるだろう?」
「え?…う、うん、勿論」
私は家まで伸びる通りを振り返りつつ答えた。
「じゃあ気を付けて帰れよ」
お父さんは、ポンと私の頭に手を乗せてから声をかけた。
「琴音ちゃん、今日は楽しかった!また今度ゆっくりお話ししようね!」
「またね、琴音ちゃん!」
竹下さんと橋本さんは私に向かって、呑気な笑顔を浮かべつつ大きく手を振っていた。お父さんも無表情で軽く手を上げている。…いや、もしかしたら笑顔だったかも知れないが、何だか無表情に見えた。私の感情によって、ある種のバイアスが掛かった結果なのだろう。
私は何とか笑顔を作りつつ、胸の前で小さく手を振り返すと、それからは一度も振り返らず家路を急いだ。
街灯の少ない道を、淡々と歩いていた。私以外に通行人はいなかった。少し心細かったが、今はそれが助かった。今の私の表情は、おそらく人に見せられたものでは無かっただろう。鏡を見てないから具体的には分からなかったが、おそらく眉間に深いシワを作り、目元をピクピクさせて、如何にもイラつきを抑えられない様相でいただろうからだ。近寄り難い雰囲気を出していただろう。それは一人で良かった点だったが、悪い点は周りに気をとられることが無かったせいで、どうしても今日の出来事を反芻しない訳にはいかず、その度に益々苛立ちが募るばかりだったことだった。
…私は今日、何をしていたんだろう?
こんなにおめかしして、ピアノの練習も碌にせず、義一さんから借りた本も読めないままに、客寄せパンダよろしくヌケヌケと人前に出て行って…。私の最も忌み嫌っていたことでは無いのか? 今回は致し方なかったとはいえ…。いや、そんな事は分かって行ったはずだ。こんな目に会う事は分かっていて行ったはずだ。…目的はなんだった?…そう、お父さんのことを見極めるために行ったんだ。…はぁ、今までもその片鱗が無かったとは言えなかったから、たとえ想像通りだとしても、ガッカリする事は無いと思っていたけど、ここまで酷いとは思っても見なかった。
義一さんが言ってた様に、その人を見る上で一番の尺度になるのは、その人が口先で偉そうに自分を良く見せようとする為だけの、上辺だけ着飾った話ぶりなどでは無い。どんな善き人を尊敬し、どんな善き人と付き合い、どんな善き書物に出逢って影響を受けているのかというのが、その人が何者なのかを測る上で大事な事だ。それで言えば、単刀直入に言ってしまえば、お父さんは…酷かった。お父さんの身の回りの人間達の話す内容、それに笑顔で対応するお父さん。社交辞令で対応するならまだしも、その会話に合わせる事が”分かっている”カッコいい大人とでも言いたげに、ウンウン頷いていたお父さん。それを見て益々増長した他の大人達の、内容空疎な金儲けの話を延々とし続けれる浅ましさ。そんな会話をする上での、恥じらいの無さ。…終いには寿司屋の大将に向かってまで、自分が成功者に見られたいが為に、株だの何だのと宣う馬鹿馬鹿しさ。…私のお父さんは、そんな連中と付き合うほどに下らなかったのか。…仕事上の付き合いだけではなく、自ら親しくしている連中までがその程度だというのに。
…そんな程度のクセに、義一さんをバカにし、卑しめ、無き者の様に扱うのか…。あれ程中身の詰まった人間を、空っぽな人間が馬鹿にするのか…。
私はふとここまで思いを巡らせていると、ほっぺを伝う暖かな液体に気づいた。涙だった。自分の父が下らなかった事実が分かった事へなのか、義一さんの事を想ってなのか、それとも両方なのか、涙の原因はハッキリしなかったが、次から次へと手間なく流れてくるのは事実だった。
胸の内のナニカは、今だにソコに存在感を示してはいたが、先程よりかは小さく纏まり、ほんの少し違和感を生じさせているだけだった。
我慢せずに、涙を流したお陰かも知れない。
私は怒りと哀しみの混じり合った、何とも表現し難い感情を胸に秘めながら、自宅へと足を進めるのだった。
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