第17話 花火大会

文字数 45,581文字

「おっそーい!」
裕美は私にジト目を送ってきながら苦情を言った。
今日は八月の初旬。雲一つないピーカン照りの真夏日だ。裕美のマンション前に来ている。裕美は白地に英語の書かれたTシャツに、膝より気持ち短い花柄のスカートを穿いていた。キャップを被っていたが、少し伸びた髪がのぞいていた。小学校の頃と比べるとだいぶ伸びていた。尤も”ショートレイヤー”と飛ばれるような、前髪を長めにとって、長い部分と短い部分の段差を付けたスタイルだった。元々可愛い系だった裕美に、よく似合っていた。対する私は、ギンガムチェックのバルン袖に白のサロペットを合わせたのを着ていた。ゆったり目の服だった。それにいつもの、小学校時代から愛用している麦わら帽をしていた。
私は時計を見ると、待ち合わせの五分前、昼の一時前だった。
「…予定より早いくらいじゃないの?」
と私もジト目を返して言った。すると裕美はほっぺを膨らましながら答えた。
「あのねぇー、私みたいな可憐な女の子を炎天下にいつまでも待たせたら、そのうち天罰が下るからね?」
「…何が”可憐な女の子”よ。私と比べ物にならないくらいに体育会系のクセに」
「ヴっ…それを姫に言われたら、何も言い返せないわ」
「誰が姫よ、誰が」
このような一連の儀礼(?)を済ますと、顔を見合わせ笑い合い、早速絵里のいる図書館へと向かった。絵里と会う約束をしていたのだった。いつだったか…そうそう、もう覚えられていないかも知れないが、初めて私と義一と絵里とでファミレスに行った時と、状況としては同じだった。どういうことかというと、絵里は今日仕事で図書館にいるというより、あの時と同じで、ただ整理しに寄っているだけだった。つまり休みというわけで、この日がたまたま三人共暇な日だったから、絵里の整理が終わり次第久しぶりにお家にお邪魔することになっていた。話じゃ一時頃には大方片付いているという話だった。
「…焼けたわねぇ」
私は露わになった裕美の腕を見ながら言った。褐色色に万遍なく焼けていた。健康的な色だ。
「…そういうアンタは変わらず真っ白ね?」
裕美も私の腕を見ながら言った。そして私と自分の腕を重ね合わせた。確かに自分でも不健康に思える程真っ白だった。
「…そうねぇ、ほとんど部屋でピアノを弾くか、読書するかしかしてなかったからねぇ」
「…ずるいなぁー」
裕美は両手を頭の後ろに回しながら、ため息交じりに言った。
「何がずるいのよ?あなたの方が夏を満喫してるじゃない?」
「…まぁ海に行ったりしたけど」
前に小学校時代の友達と、久し振りに集まって海に行ってきたことを教えてくれていた。
裕美はなぜかブー垂れながら返してきた。
「…そりゃそうだけどさぁ、アンタの肌ってモデルの人みたいにきめ細やかで、真っ白って言っても”キレイな”白さじゃない?透明感のある」
恐らく裕美は口調は腹立たしげだが、褒めてくれている事はわかっていたが、正直モデルも芸能人も、ましてや服装にすら同年代と比べると興味が無いせいで、何一つピンと来なかった。
「…よく言ってる意味が分からないんだけど?」
「…はぁ、もういいわよ」
裕美は心底呆れたといった感じで、苦笑交じりに言った。私は一人首を傾げていた。
その後図書館に向かう途中、裕美の海に行った話になった。
「…でね?友達の水着姿を見たんだけど、みんな線が細くて女の子らしかったの」
「…へぇー」
私は相変わらず、裕美の”女子トーク”に馴染めずにいた。それには構わず裕美は先を話した。
「…でもほら、私ってさぁ」
裕美はテンションを下げて、自分の方から腕にかけて手で摩りながら言った。
「肩幅あるし、腕も筋肉付いてるから太めじゃない?だから友達と隣にいると、少しだけ恥ずかしい…いや、恥ずかしいわけでは無いけど…うん、そうだったのよ」
何だか最後の方は、裕美にしては珍しく歯切れ悪く話していた。私はやはり意味が分からなかったので、当然のように疑問をぶつけてみた。
「…ふーん、それって何が恥ずかしいの?」
「…出た」
裕美はあからさまに眉を顰めて見せながら言った。勿論冗談だった。
「またアンタの”なんでなんで攻撃”が」
すっかり裕美とヒロの間で、この名称が定着してしまっていた。私はこれが学園の藤花、律、紫にまで広まらないことを祈るばかりだった。…が恐らく時間の問題だろう。私も”なんで”を自粛しなくてはいけないわけだけど、ボロが出るのは分かりきっていた。
「だっていいじゃない?あなたが水泳を頑張って出来た結果なんだから。誇りに思うことこそあっても、恥じる必要なんて微塵もないじゃない?」
私がそう言うと、裕美は苦笑交じりにうなじ辺りをさすっていた。どうやら照れているらしい。
「…アンタはホント、そんな恥ずい事を臆面も無く言えるよねぇ?感心するわ」
「…褒めてるのそれ?」
「褒めてる褒めてる」
裕美は今度はニヤケながら答えた。私はイマイチ合点が行かなかったが、今度は私が裕美の様に、肩から腕にかけて摩りながら言った。
「私もピアノの特訓の成果が出てきたのか、肩幅と腕回りが逞しくなってきたのよねぇ」
「…ほーう、どれどれ」
裕美は手で望遠鏡を模して、そこから私の腕を覗き込んできた。そしてすぐに目を外すと、なんとも言えない、微妙と言いたげな顔をしてきた。
「…今まで気付かなかったけど、アンタって確かに肩幅は意外とあるわねぇ。…腕はそうでもないけど」
「え?…そーう?」
私は自分の腕を見つめながら、渋々返した。
「結構筋肉付いたと思うんだけどなぁ…」
「…ぷっ」
私が不満げでいるのが可笑しかったのか、裕美は隣で吹き出していた。
「…アンタやっぱり変わっているわ。普通の年頃の女子なら、むしろ喜ぶところだと思うけれど」
「…うーん、分からない」
私は大げさに腕を組み、首を傾げてみせた。それを見て尚更愉快といった調子で言った。
「まぁアンタはそのままでいてよ!そうでなきゃツマラナイもの」
「…何よそれぇ。私はあなたを楽しませる為に、大きくなったんじゃないのよ?」
「あははは!」
「いや、『あははは』じゃ無しに」
…こんな雑談をしながら、焼けるアスファルトの匂いを嗅ぎつつ、日陰の少ない図書館までの道を歩いて行った。

丁度中間地点、後五分のところまで来たところで不意に後ろから、自転車のベルをけたたましく鳴らしながら近づいて来る者がいた。裕美は思わず振り返っていたが、私は振り返らなかった。存在するだけで騒がしい人間は、私の周りにそうはいなかったからだ。
「…よっ!お二人さん」
「久しぶり!ヒロ君!」
裕美が明るく声を掛けていた。裕美が立ち止まったので、私も立ち止まらざるを得なかった。そして振り向き、苦々しげな表情で挨拶した。
「久しぶりね、ヒロ」
ヒロは真っ白な野球のユニフォームを着ていた。肌が褐色どころか真っ黒に焼けていたので、そのコントラストが映えていた。そのユニフォームの胸元に地元の中学校の文字が、ローマ字で書かれていた。自転車の籠の中には収まりきっていない黒のスポーツバッグとグローブ、背中にはバッドの入ったケースを下げていた。
ヒロは入学した地元中学の野球部に入っていた。そして小学時代に所属していた野球チームにも在籍していた。二足の草鞋だ。中々話を聞いてる限りではキツそうだが、本人は持ち前の能天気っぷりで、『周りが笑おうとも、己の限界に挑戦するんだ!』と息巻いていた。聞いた時直ぐに、律のことを思い起こしていた。前にも言ったように、律も子供の頃から在籍している地元のバレーボールクラブを継続しつつ、学園の部活にも入っていたからだ。私の周りには、根性の座った体育会系が揃っていた。当の本人は文化系だというのにだ。不思議な縁もあるもんだと、他人事のように感心していたのを思い出す。ついでといっては何だが、小五までは私の方が背が高かったのに、中学に入ってとうとう抜かれてしまった。…まぁそれだけだ。
「あなたはこれから練習?この暑い中」
私は大袈裟に手で団扇の真似事をして、パタパタして見せながら聞いた。するとヒロも私の真似をして、パタパタさせながら答えた。
「おうよ!これからこのクソ暑い中練習さ。今日は学校の方のな。…お前らはこれからどこに行くんだよ?」
「私達?私達はこれから図書館に行くところよ」
「…えぇー」
ヒロは私の言葉を聞くと、大仰に上体を仰け反らせて、目を半目にしながら見るからに引いて見せた。 そして一度空を見上げて、視線を私達に戻してから言った。
「こんないい天気だってのに、お前らは図書館なんて退屈な所で過ごすのかよぉ?せっかくの夏休みなんだし、もっと有意義に過ごそうぜ?」
「…あなた、”有意義”なんて日本語、いつの間に覚えたの?」
私はヒロの嫌味を無視して、心の底から感心した風に返した。ヒロは野球帽を取り、苦笑交じりに頭を掻くばかりだった。と、先程からクスクス笑っている裕美の方に視線を移すと、不思議そうな顔で聞いていた。
「…まぁ、本の虫であるインドア派の琴音は分かるけど、なんでバリバリ体育系の裕美まで一緒に行くんだよ?…あっ!アレか?」
ヒロは上体を倒し、裕美に顔を近づけながら言った。
「…琴音に何か脅されているのか?…あっ!いてててて!」
私が横からすかさず耳を引っ張ると、ヒロは大袈裟に痛がって見せて裕美から離れた。裕美はヒロが近づいて来た瞬間ビクッとしていたが、離れると息を整えて、落ち着きを取り戻してから笑顔で答えた。
「…ふぅ。…あっ、いやいや、違うよ!私も図書館に用があって行くの!…それに」
裕美は私に視線を流しながら言った。
「私が琴音に脅される心配なんてないわ!」
「そうか?なら良いけどよ」
「…どうそれに反応したら良いのよ?」
皆一様の反応を示した後、炎天下の中仲良さげに笑いあったのだった。

「…あっ!そっか!」
ヒロはまた下らないことを思いついた表情を浮かべた。そして裕美にニヤケながら言った。
「…なるほど、あまりに暑いから図書館に涼みに行くんだな?」
「へ?」
裕美は呆れを通り越したキョトン顔だ。ヒロは構わず続けた。
「そうだろ?だってじゃなきゃ、お前が進んで図書館に行く訳がないもんな?」
「…ねぇ琴音?」
ヒロが一人愉快になっているのに対し、裕美は無表情で私に顔を向けて来た。
「…私も耳を引っ張っても良い?」
「…思いっきりやってあげて頂戴」
私は意地悪くニヤケながら言った。すると裕美は言った割には、初めは少し遠慮がちにしていた。
それもそうだろう。普通同い年の男子の耳を、引っ張る経験はそうは無いからだ。というよりも耳に限らず、そもそも体の一部に触る事自体が無い。抵抗あって然るべしだろう。逆に言えば平気な私は、ヒロに対して男女という関係を超えるほど、近付き過ぎてるとも言えた。それを証拠に、仮にヒロ以外の男子の耳を触れと言われても、平気で触るような情景を思い浮かべられなかったからだ。
しかしすぐに裕美はオドオドしながらヒロの耳を触って、横に強目に引っ張った。
「いてててて!」
ヒロはまた大袈裟に痛がりながら、横に倒れそうにしていた。
「私だって琴音と同じ学校に通っているんだから、同じ扱いしてよねぇ?」
「わ、わかった!わかったからもう離してくれー!」
「あははは!」
私は一人愉快にそのやり取りを見て、笑うのだった。
「…いってぇー。…これだから体育会系のゴリラ女は」
一連のやりとりが終わり、ヒロは耳たぶを摩りながらボソッと言った。
「ん?何か言った?」
裕美は無表情で、右手で何かを摘むような形を作った。
「い、いいえ、なんでもありません」
ヒロは怯えて見せながら、耳全体を手でガードした。私はさっきから笑いっぱなしだ。
「…はぁーあ、じゃあ私達もう行くから」
「あっ、そうね。じゃあまたね、ヒロくん」
私達はそのまま行こうとすると、ヒロは今まで跨いでいた自転車から降りて、手で押しつつ、何も言わずそのまま後を付いて来た。
「…何で付いてくんのよ?」
私はすかさず後ろを振り向き、ヒロに文句を言った。が、言われた本人はヘラヘラしている。
「俺もたまには図書館寄ってみようと思ってよ!」
「ヒロくん、時間は大丈夫なの?」
裕美が当然の疑問を投げかけた。ヒロはしてもいないのに、腕時計を見るフリをしながら答えた。
「おう!練習は二時からなんだけれどよぉ。家にいてもつまんないから、早めに出て、グランドで自主練でもしてようかと思ってたんだけどさ。さっき自分で言ってて、図書館に行くのも悪くねぇと思ってよ」
「…あなた、涼みに行くだけなのね」
私は蔑みの目でヒロを見ながら、トーンを低めに言った。ヒロは相変わらずヘラヘラしている。
「まぁ、良いじゃねぇか!どっちにしろ、方向は同じなんだからよ?」
「…はぁ、勝手にしなさい」
私は根負けして、ヒロの同行を許す羽目になった。…小学時代もそうだが、夏休みによくコイツと遭遇している気がする。…そういう運のない星の元に生まれたのかしら?
こうして三人で、夏休みの過ごし方を含む雑談をしながら歩くと、あっという間に図書館に着いた。 ここは昔から変わらない見た目で、本物かイミテーションか分からない、赤レンガ風な外壁が、太陽の光を目が眩むほどに反射していた。周りに遮蔽物が無いせいで、日当たりが良過ぎた。冬場だったらありがたいのだけど。
早速私を先頭に正面玄関から中に入った。自動ドアが空いた瞬間、中の冷気が火照った素肌に纏わり付くように吹き付け、今まで熱気の中を歩いて来たせいか、体感温度は実際よりもひんやり低く感じた。ここに夏場来る時は、この一瞬が幸せに感じる一時だった。
私の後に続き裕美、ヒロの順に中に入った。ヒロは早速帽子を脱ぎ、坊主頭を晒して、手でパタパタと顔に向けて扇ぎながら、大袈裟に深呼吸をして見せた。
「…おぉー、すっずしいー!たまには来て見るもんだな?」
「シッ!声が大きい」
私は早速指を口に当てて、ヒロを制した。あまりにも想定内過ぎるリアクションに、呆れるばかりだった。ヒロはこれまた大仰に両手で手を塞いで見せた。息苦しそうなのもセットだ。私はそれを無視して、絵里の姿を探した。が、姿は見えなかった。
私と裕美は会員証を持って来ていたので、奥の専用ブースに行けたが、なんせ今回は余計な邪魔者が居たせいで行けなかった。…いや、私はコイツを無視して中に行こうとしたが、何も言わずとも察したらしく、裕美が私の腕を軽く触りながら、懇願の視線を送ってきた。私は予想外のリアクションをされたので、受け入れる他になかった。
一般向けに開放しているブースの、窓に面した五人がけのテーブルに座った。ヒロは大きなスポーツカバンを床に置き、何も言われなくとも裕美の横に座った。これは私とヒロの習慣のようなもので、まず二人でテーブルに座る時は向かい合って座っていた。…まぁ習慣ってほどのことじゃなく、当たり前と言えば当たり前の事だけれど。
ヒロが隣に座ったと同時に、急に裕美は立ち上がり、私とヒロの分を含む図書館から無料で提供されていた麦茶を取りに行った。言ってくれれば、私が行っても良かったのに。
なんて事を考えていると、器用に三つの紙コップを持って戻ってきた。そして丁寧に私とヒロの正面に置いていった。
「おっ、サンキュー!」
「ありがとう」
「いーえ」
裕美は笑顔だったが、何処かぎこちなくヒロの隣に戻った。そしてそれぞれ麦茶を飲んだ。
それからまた、ここに来るまで話していた雑談の続きを始めたが、不意にヒロが意味がわからないといった顔で、私達に聞いてきた。
「…ん?あれ、お前らってここに本を読みに来たんじゃないのか?さっきからお喋りばかりして」
「あぁ、それは…」
と裕美が言いかけたが、私も同時に言ったので一瞬お互いの顔を見合わせた。でもすぐ裕美が私に譲ってくれたことが分かったので、そのまま答えることにした。
「…あなたが図々しくここまで付いて来るとは思っていなかったから、話すつもりが無かったんだけど…まぁいっか?実はね、今ここで人と待ち合わせているの。でね、その人とお喋りする事があるから、来たのよ」
「え?誰だよ、その人って…あっ!」
ヒロが何かに気付いて、目を見開いた所を見たのを最後に、目の前が真っ暗になった。目の周りに手のひらの生暖かな温もりを感じた。何も言わずともすぐ分かる。
「…絵里さん、いつから私達の挨拶が相手の目を隠すことになったの?」
「あっちゃー…バレたか」
そう言うのと同時に手を私から外して、私の隣に座って来た。当然絵里だった 。
絵里はいつの間にか、自分の分の麦茶を用意していたらしい。わざわざ私に目隠しをするために、お茶を隣のテーブルに置いていたらしかった。それはまたご苦労な事だった。こんなくだらない事で。
今日は首元がザックリ空いた、肩の上部まで見えるほどのワインレッドの半袖カットソーに、紺色のパンツを履いていた。
絵里は座ると麦茶を一口飲んでから、裕美にも挨拶をした。
「裕美ちゃーん、久しぶりー。元気にしてた?」
「はい、ボチボチと」
裕美は明るく答えた。
「そっかぁ、ボチボチかぁ…うん、ボチボチ、程よくが一番だね!…ところで」
絵里は視線を横にずらして、なぜか落ち着きの無い様子を見せているヒロに向けながら聞いてきた。
「そこの如何にもな野球少年は誰かな?…あっ!もしかしてー…」
裕美が語尾を伸ばしながら視線を送ってきたので、私は半目でジロっと見返しながら、静かに答えた。
「…絵里さん、いくら寛容な私でも、怒る時は怒るんだよ?」
「え?いつあなたが寛容な時があったの?」
絵里は冗談で返してきたが、つまらなそうだった。私は私で、当人は恋バナが苦手なくせに、すぐ性懲りも無くそっちに絡めて来る絵里に呆れていた。
そんな私を尻目に、今度は裕美に聞いていた。
「なーんだ、ツマンナイ…じゃあ、裕美ちゃんだ」
「…え?何がですか?」
裕美はテーブルの上で、紙コップを両手で包むようにしていたが、絵里の質問の意図に気付いてない様子だった。絵里が畳み掛けた。
「だーかーらー…彼って裕美ちゃんの彼氏?」
「…へ?」
「ぶっ!」
裕美は間の抜けた声を漏らし、その隣でヒロが吹き出していた。私は何だかんだニヤケながら、一連の流れを見守っていた。
「え、絵里さん!急に何言い出すんですか!?」
「裕美ちゃん、シーーーっ」
絵里は裕美の抗議には取り合わず、裕美の口元に指を当てて制した。裕美はすぐに大人しく言う事を聞いた。
「急に何言うんですか?」
裕美は小声だったが、それでも頑張って大きな声を出している感じだった。
「そ、そうですよ。コイツらと俺とはそのー…何なんだ、俺たちは?」
ヒロは自分から答えようとしていたのに、わからなかったらしい。私に救いを求めてきた。
私はヤレヤレと首を横に振りながら、教えてあげた。
「あのねぇ…まぁ、いわゆる幼馴染ってヤツじゃ無いかしら?」
「あっ!そうそう!それそれ!」
ヒロは一人合点がいったと、私に指をさしてきながら言った。私はその指を腕ごと無言で退かした。
「へぇー…幼馴染ねぇ。…えぇっと、君の名前は…」
「あっ!自分は森田昌弘って言います!第二中で野球部に所属しています!」
ヒロは珍しく場を弁えた挨拶をした。絵里はヒロの礼儀正しさに一瞬きょとんとしていたが、すぐに明るい笑顔になって、私に話しかけた。
「結構良い子みたいじゃなーい?あなたと裕美ちゃんとの会話を聞く限り、べらんめぇ口調だったけど、礼儀正しいし」
「…外面が良いだけのカメレオン男よ」
「おいおい、余計なことを言うなよぉ」
ヒロが不満げに口を尖らせながら言った。ヒロ以外のその場にいた私達は、小さく笑いあったのだった。
でもこの時、私はあることに気づいていた。それは、絵里が裕美とヒロを見比べて、口元はにやけながらも、目元は柔らかく緩ませていたのを。ただ何故か後になっても、絵里に直接なんであの時、あんな表情で二人を見ていたのかは聞けなかった。

「さてと!じゃあ早速打ち合わせをしますか?」
「うん」
「さんせーい!」
絵里の問いかけに、私と裕美が答えた。
そばでヒロが居心地悪そうにしていたので、言ってあげた。
「ここからは女だけの話なんだから、あなたはもう帰って良いよ?」
「言い方ひでぇなぁ…あっ!すみません、今何時ですか?」
「え?今?そうねぇ…」
ヒロがわざわざ腕時計をしている私を無視して、絵里に時間を聞いていた。絵里は図書館内の、壁に掛けてある時計を首を伸ばすように見た。
「今は大体一時四十分くらいだけど」
「え!?あっ、ヤッベェ」
ヒロは途端に慌ただしく荷物を整頓し背負うと、急に立ち上がった。そして私と裕美を交互に見てから言った。
「じゃあ二人共、またな!また連絡するぜ!」
「ハイハイ」
「うん」
ヒロのテンションとは裏腹に、私と裕美はあくまで冷静に返した。
「じゃあ、えっとぉ…失礼します!」
絵里に対して何か言いかけたが、口をつぐむと慌てて出て行こうとした。が、何を思ったのか、絵里がヒロを呼び止めた。
「…あっ、そうだ!ちょっと良い?」
「は、はい?」
ヒロは出口付近でこちらを振り向き、絵里の元に戻った。
「な、何すか?」
「いや、大したことじゃ無いんだけど…」
絵里は俯き言葉を一度溜めたが、すぐに顔をあげてヒロを直視し、何事かとオドオドしているヒロに向かって、笑顔を向けながら聞いた。
「私も琴音ちゃんや裕美ちゃんみたく、君のことをヒロくんって呼んでいい?」
「へ?」
「え?」
「ん?」
あまりにも意外な問いかけに、ヒロ、裕美、そして私は声を漏らすだけだった。が、時間に追われていたのもあってか、ヒロはすぐに笑顔を返しながら答えた。
「あ、あぁ、全然構わないですよ!好きに呼んでください!」
その返答に満足したのか、絵里は一度大きく頷くと、顔中に申し訳なさを表しながら言った。
「ごめんねぇー、こんなことで呼び止めちゃって。…じゃあ、いってらっしゃい!」
「え?あ、はい、いって…きます?」
急に送り出されたヒロは、最後に謎の疑問形で返して、そのまま一目散に外へと出て行った。

ヒロの姿が見えなくなった後、早速私は絵里に聞いてみた。
「…今のって、何の意味があったの?」
「え?えぇっとねぇ…」
絵里は何故か裕美に視線を流しつつ、私の問いに答えた。
「まぁ特に意味が無いっちゃあ無いんだけど…あなた達二人が仲良くしている子とは、私も仲良くしたいからね。それで呼び方から入ろうとしたってわけ」
私は納得いくようないかないような、何とも言えないモヤモヤ感は否めなかったが、今までの絵里のやり方、私や絵里にいきなり下の名前で呼び、自分の名前も歳上だというのに下の名前で馴れ馴れしく呼ばせたりした経緯があったので、今の所は額面通りに受け取った。裕美を見ると、どうやら私と同じような感覚を持ち、そう結論に達したようだった。
そんな私達の心中を推し量らないまま、絵里は呑気に私の耳元に顔を近づけて、ボソッと聞いてきた。
「…ねぇ、随分前にギーさんとこに一緒に遊びに行ったって子は、あの子のこと?」
「…え?」
私は、よくそんな昔のこと覚えてるもんだと感心しながらも、またよからぬ誤解を受けそうな気がしたので、なるべく素っ気なく答えた。
「え、えぇ、そうよ」
「…そっか」
何故か私の返答を聞くと、意味深ともとれる優しい微笑を顔に湛えながら、短く息を吐くように言った。
「…もしもーし?」
とその時、向かいに座る裕美が半目で私と絵里を見ながら、無表情の声音で話しかけてきた。
「二人して何の内緒話をしているの?」
「いやいや別に大したことじゃないよ」
「そうそう、くだらない事を絵里さんが言いかけたから、文句を言ったってだけだから」
「あっ!何それぇー、ひっどーい」
「ふーん…まぁいっか」
裕美の大人な引き際の良さで、この場は上手く収まった。

「…で、やっと本題だけど」
絵里が新たにお代わりした麦茶を飲みつつ、切り出した。ヒロのせいで、何しにこうして図書館に来たのか忘れるところだった。
私達は会員証を使って、ゲートの内部に入っていた。そして普段は入らないが、いわゆる”パソコンルームへと案内された。ここはパソコン一台につき一部屋と区切られており、身長よりも高い壁で仕切られているので、個人情報などを気にせず気楽に利用出来るというので人気があった。
早速絵里が率先してパソコンの正面に座り、その脇を私と裕美で固めた。電源を入れて、ブラウザを開くと、一般的な検索エンジンのホーム画面が現れた。
「夏休み、何して遊ぼうか?」
絵里はキーボードに両手を置いたまま聞いてきた。私と裕美は上体を少し後ろにそらし、絵里の背中越しに顔を見合わせて、軽く頷きあってからまた上体を戻すと、まず私が口火を切った。
「…うーん、裕美とも色々と話したんだけれど、特にこれといって妙案は浮かばなかったのよねぇー…ね?」
「うん。思いつくことは思いつくんだけれど、どれも別に友達とすれば良いような事しか思いつかなかったから。…せっかく絵里さんと遊べるんだから、特別な事をしたいからねぇ」
と裕美は絵里の顔を覗き込み、無邪気な笑みを浮かべた。絵里は感無量といった表情を見せて、裕美の背中を矢鱈に摩りながら言った。
「…もーうっ!裕美ちゃんは本当に嬉しい事を言ってくれるんだからぁ」
「え、絵里さん、いたいいたい!」
そういう裕美の顔は、満更でもないようだった。私は特に気を止めず、ホーム画面の中に出ている”夏休み特集”と見出しを眺めていた。そして無線のマウスを手に持ち、そのままバーナーをクリックした。そこにはこれでもかってくらいに、夏休みのレジャー情報で溢れていた。二人も気づいて、何も言わずモニターを見つめていた。
「…どれも日帰りは厳しいなぁー」
いつの間にか絵里が私の(?)マウスを手に取り、率先してアレコレページを飛んでいたが、これといった情報には辿り着けていなかった。
「やっぱり遊ぶにしても、あなた達は中学に上がったばっかりだしねぇ。…親御さん達と話し合わなくちゃいけないけど、急に私みたいな何処の馬の骨とも分からない人に、すぐに信頼を寄せて預けてくれるとは到底思えないからなぁ…」
絵里はモニターを見つめながら、最後は独り言ともとれる調子でボソッと呟いた。
「…うーん、やっぱり難しいか…ん?」
私は絵里に賛同しかけたが、ふとそのページの上部に花火特集とデカデカな見出しが目に付いた。そこでハッとした。そして今更そこに気付くとは、私も何とも呑気でぼーっとした人間だなぁーっと一人自分に呆れながら、絵里に声をかけた。
「…ねぇ?別にどこか遠くに遠出しなくても良いんじゃない?例えばコレとか」
私は言いながらさっき見た見出しを直接モニターに指差しながら言った。それを聞いた絵里と裕美は、その”花火特集”に顔を近づけた。そして裕美は絵里の顔越しに私を見ると、明るい笑顔で話しかけてきた。
「…うん、良いわね!それにアンタが言ってるのって、毎年近所でやってる花火大会のことでしょ?」
「そう、その通り!」
私も笑顔で返した。
「確かにこの花火大会なら近所だし、母さん達の許しもいらない。それに絵里さんとって事考えても理にかなっているわね。何せこの花火大会は規模が小さいけど、その分地元民のお祭り感があるものね!」
「どう、絵里さん?小五からの約束が、漸く果たせそうよ」
「え?そうなの?」
裕美が聞いてきたが、私は軽く頷くだけで絵里の返答を待った。絵里は少し顎に手を当てて考えていたが、何か覚悟を決めたように目を見開くと、私と裕美を交互に見て、そしてモニターに目を戻しながら明るい調子で答えた。
「…そうねっ!私としては特別な夏休みの思い出を作りたかったから、何処か行けるなら遠出をして見たかったけれど、現実を見るとそれが一番良い案かもね!」
と最後に私を、いつもの悪戯っ子のような笑みで見てきた。正直私は気づいていた。何故絵里が逡巡していたのかを。絵里は口では遠出したいなんて無責任な事を言っていたが、それはブラフだった。いつもはすぐにおちゃらけて見せる絵里だったが、私達子供に対して持つ責任感は人一倍あった。何度も言ったが、何度言っても言い足りないので敢えてまた言うと、絵里はいつでも私の事を考えてくれていた。
だから私と義一、今回のことで言えば私と絵里が地元で遊び、それを誰かお父さんの病院関係者か、患者、はたまたただの知り合いですら見られたら、そこから巷間伝わって両親の耳に入り、要らぬ詮索が私に及ぶとも限らない 。そこまで考えての”遠出”発言だったのに、繰り返すようだが私は気づいていた。でも私も、地元の花火大会に行こうと言ったのは、確かに小五からの約束もあったが、もう一つの考えがあったからだ。
「でね、絵里さん。一つお願いがあるんだけれど」
「え?何よ琴音ちゃん?」
「それはね…」
私は一度溜めてから、少し控えめに言った。
「…その花火大会を、絵里さんのマンションから見たいの」
「…へ?」
想定外の提案だったのか、絵里は鳩が豆鉄砲をくらったような表情を見せた。
そう。絵里のマンションだったら、地元の人から見られる心配は限りなく少なかった。見られるにしても、絵里のマンションまでの話だ。後はずっと絵里のマンションにいれば良いのだから、大丈夫だろうという寸法だった。肝心の花火も大丈夫そうだった。この地元の花火大会は河川敷で行われていたが、絵里の部屋は角部屋で、二方向に向いていたベランダの一つが、土手の方を真正面に向いていた。絵里のマンションの周りには高い建物もなく、前にそこから外を覗くと、川に沿って走る高速道路が見えるほどに見晴らしが良かった。
それにベランダ自体も、絵里の部屋にあるテーブルを仮に出したとしても、まだ余裕があるほどのスペースがあった。絵里自身は前に、花火を見ずに音だけを聞いていたなんて言っていたが、見ようと思えば、こんなに良い物件は地元民と雖もそうは無かった。
「…だめ…かな?」
私は上目遣いに駄目押しをした。ふと裕美を見ると、私と同じようにしていた。思いは同じ様だった。
「…私も出来たら、絵里さん家から…見たいなぁ」
「…はぁ、あなた達には負けるわ」
絵里は最大限に苦笑いを見せて、ため息混じりに言った。でもその後すぐに、満面の笑みを浮かべながら続けた。
「私の所なんかで良ければ、歓迎するよ」
「ヤッタァーー!」
裕美は思わず立ち上がり、喜びを体全体で表現した。絵里は窘めようとして手を伸ばしていたが、すぐにその手を引っ込めると、苦笑まじりに裕美の様子を眺めていたのだった。

「じゃあこの日はせっかくだから、みんなで浴衣を着ない?」
「あっ、良いですねぇー!」
「うん、良いんじゃない?」
私達はネットで花火特集を次々渡り見ながら話していた。
「…あ、でも…」
私はふと、絵里に向かって不安点を指摘した。
「絵里さんって、浴衣持っているの?」
当然の疑問だ。まだ仲良くなって数年だが、絵里の行動範囲的に浴衣を着る機会など無さそうだったからだ。
絵里は不満げな表情を見せて、口を尖らせながら言った。
「なーに、それ?私がまるで浴衣を着る事なんてあり得ない、ガサツな女だとでも言いたいの?」
「え?あぁ、いやいや、”そこまで”は考えてなかったよ」
点々の所をワザと強調しながら答えた。
「…ちょっとぉー、全面的に否定してよぉー」
絵里は文句たらたらだが、口元はにやけていた。そして胸を張り、腰に手を当てながら堂々と言った。
「ちゃんとこう見えても”女”だからねぇー。…うーん」
「?」
途中から急に唸り出したので、私と裕美は揃って頭の上にハテナマークを浮かべた。
「どうしたんですか?」
「…まぁいっか…この二人になら…」
裕美が思わず心配げに聞いていた。これは恐らく、今になって絵里の家が使えなくなったのかを心配する風だった。そんな裕美の心配を他所に、絵里はボソボソ独り言を言っていたが、ふと何か決心した様子で、私達二人を見てから答えた。
「…よし!じゃあ二人共、後は私の家にいつ来るか時間を決めよう!」
「あ、う、うん…」
急にハイテンションな絵里に押されて、それからは雪崩式に次々とことが決まっていった。
待ち合わせ時間は五時半頃に決まった。花火大会の開始時間は夜の七時半だったから、早めの時間帯だった。提案してきたのは絵里だった。訳を当然尋ねたが、悪巧みしている様な笑みを浮かべるだけで、教えてくれなかった。まぁ当日になってからのお楽しみにしよう。
「さてと後は…あっ!」
絵里はパソコンの電源を落としながら、私達二人を見て言った。
「もし誰か誘いたい人がいたら、各人一人まで誘っても良いよぉ」
「…え?」
「ふふ、もしも”誰か”がいればの話だけどねぇ?」
絵里はネットリとしたイヤラシイ口調で言いながら、何故か最後は裕美に視線を流していた。こちらからは見えなかったが、絵里の目から何か察したのか、裕美は少し顔を赤らめて、口調もたどたどしく答えた。
「…は、はい…絵里さんがそう言うなら、”誰か”連れて来ます」
「…ん!よろしい!」
絵里は反対に底抜けに明るく返していた。二人だけに分かる空気感が辺りに漂い、私が付け入る隙が無い感じだった。
仕方がないので、私は私で誰かいないか考えて見た。
うーん…誰かって言われてもなぁ。ヒロは喧しくてイヤだし、なんか絵里さんに鼻の下伸ばしていたし…アイツは論外でしょ?…学園の子達も、絵里さんに紹介して見たいっていうのはあるんだけど…OBだしねぇー…でもさっき裕美が言った様に、これは私達三人が同じ地元にいるからって理由で決めたんだから、今更あの子達の中から呼ぶっていうのもねぇー…そもそも一人だし。全員がダメじゃ意味無いよねぇ…うーん誰か…あっ!
私はふと、一人の最重要人物を思いついた。裕美がどう反応するか、裕美と出会う事でどんな化学反応が起き、私の身の回りにどんな変化を及ぼすのか不安が残っていたけど、こうしたタイミングで話が湧いた事に、何か意味があるんじゃないかとこの時に思った。
「…うん、私も決めた」
淡々と言うと、絵里と裕美が勢いよく私の方を向いてきた。裕美の顔は興味津々といった感じだ。目の中がキラキラしていた。絵里はというと、裕美とは反対に呆気にとられていた。失礼な話、私は別に気にしないが、私が誰か連れて来る様な人がいるとは、思っても見なかったと言いたげだった。
「…えっ!琴音、アンタ花火大会に一緒に行きたい様な人がいたの?」
「…ごめん、琴音ちゃん。まさかそういう人がいないと思って、敢えてあなたには振らなかったわ」
絵里は心底驚いている様子だった。
「えぇ!誰々?私の知っている人?」
絵里を他所に、裕美が早速質問攻めしてきた。想定範囲内だ。
「…いーえ、知らない人よ」
私は意味有り気に、短く返した。裕美は何故か私の返答に、心なしかホッとしていた様だった。ついでに絵里もホッとしている様子だった。何故か。
そうしたのも束の間、裕美は顎に人差し指を当て、考えて見せながら聞いた。
「えぇー、私の知らない人ぉ?…うーん、誰なんだろう?じゃあ…歳上?それとも年下?」
「…えーっとねぇー…」
私は絵里に視線を流しながら、一瞬口元をニヤケさせた。絵里は先程から、私に対して怪訝な表情を向けてくる。何か分かる様なわからない様なって風だ。
「…歳上よ」
「えぇーー!歳上?」
「しっ!…裕美、声がデカイわ」
「あっ…ごめん」
裕美は大袈裟に口元を両手で塞いだ。でも目元は緩んでいる。なんだか楽しそうだ。それに引き換え絵里の様子は違った。先程の半目で私を見ていた時とは違い、今は何かに気付いたのか、目を大きく開かせていた。そして今度は絵里が聞いてきた。恐る恐るだ。
「…ねぇ琴音ちゃん、私からも質問していい?」
「えぇ、もちろん!」
私はキャラに似合わず、”キャピキャピ”しながら応えた。絵里はそんな私の様子を突っ込む余裕が無いらしい。トーンをそのままに聞いてきた。
「その人って…男性なんだよね?」
「えぇ、一応ね?」
絵里は肩を落として、溜息をついた。裕美は今何が起きているのか分からず、戸惑っている感じだ。絵里は力無く、最後の質問を投げかけてきた。
「…それって、裕美ちゃんは知らなくても…私は知ってる人?」
「…」
私はすぐには答えなかった。わざと数秒ほど溜めた。絵里の肩越しに、裕美の好奇心に満ちた顔が見えていた。私は大きく頷くと、満面の笑顔で答えた。
「…えぇ、もしかしたら私よりもね!」
「…」
「へぇー、そうなんだー。誰だろう?…あっ!もしかして図書館の人とか?」
無言で固まる絵里を置いて、裕美は何故かテンション高く、呑気に的外れな推理を繰り広げていた。私は笑顔のまま裕美に返した。
「違う違う、そうじゃないわ。…まぁ、その日になってからのお楽しみよ」
「えぇー」
「えぇーーーー」
裕美と絵里が同時に声を上げた。勿論二人の意味合いは違っていたが。
絵里は苦虫を潰した様な表情を、顔中に広げながら、私に言ってきた。
「…どうしても呼んじゃうのぉー?」
「…えぇ」
私は先程からニヤケっぱなしだ。
「そもそも約束してたでしょ?”そのこと”も」
「…あれは約束というより、あなたの一方的な希望だったと思うんだけど…」
絵里は相変わらずネチネチ言ってたが、状況が好転しないことを悟ると、大きく溜息をついて見せて、大息つきながら観念したかの様に言った。
「…もーう、わかったわよ。あなたが呼びたいんなら、どうぞお呼びになって?」
「…ふふ、ありがとう」
「…?」
私は和かに、対照的に苦笑いな絵里の様子を、何の話か飲み込めない裕美が二人の様子を交互に見比べて、首をかしげるのだった。

「私ちょっと買い物してから帰るから、ここでね?」
私達は図書館を出て、帰宅の途についていた。ここは図書館と駅との中間時点。右に曲がれば駅への道で、左は私と裕美の家方面だ。本当はこの後絵里の家に寄る予定だったが、思いの外図書館に長居をしてしまい、次回へ持ち越しとなった。
「えぇ、分かったわ」
「じゃあね、絵里さん!次は花火の日に!」
そして私達はお互い手を振りながら別れた。しばらく絵里の歩く後ろ姿を眺めてから、私と裕美は帰ることにした。
「花火楽しみねぇー」
裕美は如何にも楽しみだといった調子で、口調明るく言った。
「えぇ、そうね」
「…琴音にしては、いい提案だったじゃない」
裕美は上体を前に倒し頭を低くして、下から私の顔を覗き込む様にしながら、ニヤケつつ言った。
「”しては”は余計よ」
私も文句で返したが、顔は笑顔だ。と、ここで早速裕美に質問をぶつけてみた。
「…ところで裕美、あなたが連れてくる人って誰のことなの?」
「え?」
裕美は声を上げると、何やらモジモジしだした。
この時は何故こんな反応をしたのか分かっていなかったが、後々になって考えてみると、然もありなんだった。何せ絵里との会話の流れで呼ぶ人を決めたんで、どう考えてもその人に対して、何かしらの特別な感情を抱いているのは丸わかりだったからだ。…まぁ、丸わかりと言っても、私は丸分からなかった訳だけど。
「うーん…」
裕美は唸りつつ俯いて、言うか言うまいか悩んでいたが、途端に顔を上げると、私を向いて答えた。顔は意地悪い笑顔だったが、若干顔は赤かった。熱射病というわけではない。
「…内緒っ!あんたがさっき言った様に、当日になってからのお楽しみよ!」
「…えぇー、何よそれー。教えなさいよぉー」
私は答えてくれないことを知りつつ、聞いた。裕美もそれを知っているので、ワザと私から顔を逸らして、声の表情を殺しながら間伸び気味に返した。
「…ふふ、教えなーい」

二十二日、花火大会当日。いつも通りというか、毎度の様に裕美のマンション前で待ち合わせをした。
今日この日を迎えるに当たって、ある意味一番舞い上がっていたのは、お母さんだった。本当は一緒に付いて来たがったが、私が何とか説き伏せた。中々押しの強い人だったが、無理やり意地でも空気を読まずにやる程の勝手な人では無かったので、最後はすぐに退いてくれた。まぁ私が何とか諦めさせる理由はいくつもあるが、本当の理由はおいおい分かることだろう。尤もお母さんの気持ちを考えると、私なりに胸がチクっとしない訳でもなかった。 お母さんは自分が着物を好きなのもあって、娘と揃って着てどこかに出掛けるのを喜びとしていた。小学生の頃など、裕美と出会うまで毎年、何故かヒロも一緒に花火大会に行ったものだった。その度に着物浴衣を新調して、着付けて行くのだった。私も毎年その時くらいにしか着る機会が無かったので、口にはせずとも楽しみにはしていた。でも受験があった。これはお母さんが仕向けた事だから同情の余地は無かったが、その受験が終わっての二年ぶりの花火大会。お母さん自身も受験中は着付けず見にも行かなかったから、もしかしたら今年の花火大会は楽しみにしていたのかも知れない。でもそれと同時に、同年代の友達と出かけると言うのを聞いたお母さんの顔は、寂しそうなのと同時に嬉しそうだった。口では言っていなかったけど。”親の心子知らず”とはよく言うけれど、子供は子供なりに親の事に気を遣っているって事を、この場を借りて言っておきたい。…まぁ括弧付きでだけど。
話が逸れた。こんなところまで義一に似てきてしまった。それはさておき、恐らくそんな私の推測も外れてはいなかったのだろう、折角友達と花火見に行くんだからと、出かける一時間以上前に着付けてもらった。髪型までばっちしだ。浴衣は青みのある紫色地に、水色の流水模様だ。珍しいピンクの紫陽花があしらわれていた。帯は僅かに燻んだ黄緑色に葡萄蔦模様が入っていた。髪は全てお母さんにして貰ったからよく分からなかったが、要は三つ編みをいくつか作り、ゴムで縛っては軽く引っ張り崩す、この繰り返しで作り上げられていった。アップに纏めているので、普段は肩甲骨まである後ろ髪を、そのまま流しているだけだったので、首元がかなり涼しかった。それが私のこの髪型に対する感想だった。お母さんには素直に感謝を告げて、たまたま居間にいたお父さんにも姿を見せた。最近になって益々表情が変わらなくなったお父さんだったが、自分で言うのも恥ずかしいけど、娘の浴衣姿を見ると、口元は真横一文字だったが、目を大きく見開き、上から下までを何度も往復させて見ていた。そして一度大きく頷くと、写真を撮っていいかを聞いてきたので、私は快く了承した。
お父さんは食卓に座っていたが、わざわざ立ち上がり、こっちが恥ずかしいくらいに真剣な表情で何度も携帯で写真を撮ってきた。これが私のお父さんだった。 そしていつだったか、そう、裕美の大会に初めて見に行った時に持っていたミニバッグを持ち、下駄を履いて待ち合わせ場所へと急いだ。
着くまえに既にエントランス前で、私と同じ様なミニバッグを両手で腿の前で持ち、他所を向いて待ちぼうけている着物姿の少女が見えた。裕美だった。
私は気づかれない様にそおっと近寄り、肩を軽くトンっと叩いた。
「…お待たせ、裕美!」
「…あぁっ、琴音ー!」
裕美は一瞬ビクッとしていたが、私と認めるとすぐにテンション高めに返してきた。
裕美もすっかり花火仕様になっていた。約束通り浴衣だった。濃いオレンジ色地に、赤く細いラインが入っていた。満開の鉄線の花が、白と黄色の二色で飾られていた。帯はシンプルな濃い青色だった。髪は私ほど長く無いので、簡易的にアップに纏めていた。
まず私達はお互いの浴衣姿を目で堪能した。一通り見渡した後、まず裕美の方から口火を切った。
「…いやぁ、さっすが姫!浴衣でも何でも、似合っちゃうんだもんなぁー」
「…褒めてくれてる様だから、今だけ姫は許してあげる」
私の事というより、何だかお母さんを褒められた気がして、寧ろそれが嬉しかった。…別に良い子ちゃんぶっている訳ではない。
「そういうあなたも、似合っているわよ?浴衣着てるだけで、しおらしく見えるもの」
「…それは褒めてるのぉ?」
裕美は私にジト目を向けてきた。私はあっけらかんと返すだけだった。
「…そうよぉー?ありがたく受け取りなさい」
「…やっぱり姫様じゃない?」
「何か言った?」
「べっつにぃー」
いつものこのやり取りを終えると、意味もなくどちらが先ともなく笑いあったのだった。
何で毎度のことで笑いあえるのかと、冷めた目線で見ないで欲しい。何かが転がればそれだけで笑ってしまうほどには幼くなくても、この時期の私達としては、気の合う人と馴れ合うだけで、満たされた気になるもんなのだ。自分でいうのも何だが、私みたいな理屈屋でもだ。…まぁ単純にこのお祭り気分に、酔っていただけとも言える。
一頻り終えてから、私達二人は早速絵里のマンションへと向かった。

途中地元としては賑わっている繁華街を通った。いつもそれなりに人通りは多かったが、この日ばかりは雰囲気から違っていた。
警察に交通規制がなされていて、車道を堂々と歩けた。 普段からの仲良しなのだろう、男女が普段着で大会開始の二時間以上前だというのに、既にハイテンションに騒いでいた。この車道、そのまま進めば土手に出る道だったが、ずっと先まで屋台が出ていた。やはり地元開催、日頃は夏祭りらしい祭りをしない地域だったので、ここぞとばかりに一斉に盛り上がるのだ。出ている屋台は全て、普段は地元の飲食店を営んでいる人達が、お店の商品を屋台形式にアレンジして提供しているのだ。だから”たこ焼き”だとかそういう”屋台メニュー”が皆無な分、それぞれ特色が出ていて他には無い持ち味が出ていた。
そんないつもと違う地元の雰囲気を味わいながら、屋台を眺めつつ歩いていた。私は何度も履いているから慣れていたが、裕美は履き慣れていないせいか、下駄からたまに変な音をさせながら歩いていた。
「…やっぱり普段履かないと、違和感あるわよね?」
私は裕美の足元を見ながら言った。すると裕美も私の足元を見ながら返した。
「うん…アンタは平気そうね?」
「まあね。お母さんと何度か揃って、着物と一緒に履いてたし」
「やっぱりお嬢様は違うわぁー」
裕美は顔を上げると、しみじみ空中に向かって吐いた。
「…姫もだけど、お嬢様ってのもやめてよねぇ」
私は口を尖らせながら不平を述べた。まぁ聞き流されるのがオチだけど。
さて、ここまで私の話を聞いてくれた人の中で、ずっとどこかしっくり来なかった点があったかも知れない。それは『将来医者になりたい裕美は、私のお父さんが病院の院長をしている事を知っているのか?』と言う事だ。これはいつか話したいと思っていたが、私の話し下手なのも含めて、中々話せる時を逃してしまっていた。それを今述べることを許して欲しい。今裕美が私に対して軽口を言った事によって、偶々チャンスが巡って来た。これを利用させて頂く。
結論から言えば、知っている。それも小学六年の夏休み。そう、丁度去年のことだ。覚えておられるだろうか?私と裕美、そしてお母さん達と四人で、近場の海沿いの温泉地に一泊旅行をしたことを。泊まった宿で夜の事、あの時にお母さん達が当然の会話として、お互いの夫の職業について話したのだった。そしてその場に私と裕美がいた。ついでと言っては何だが、そこで裕美のお父さんが広告代理店に勤めているのを知った。職業柄定時に帰ることは出来ず、夕飯を共にすることも少ないらしかった。尤もそれは私達も同じなので、そこでお母さん達は意気投合していた。私達を他所に、盛り上がっているので退屈していると、裕美が私を宿の廊下にある休憩所の様なところへ連れ出した。言われるままについて行った。その休憩所は名ばかりで、向かい合う様に置かれた肘掛付きの椅子が二つ、すぐそばに自販機が一台あるだけだった。人気もなく、ひどく寂しかったのを覚えている。私と裕美は向かい合って座った。しばらく…と言っても一分あるか無いかだとは思うが沈黙が流れた。私はわざわざ連れ出したのだから、裕美の方から何か言うだろうと出方を待っていた。と、裕美は私を静かな表情で見ながら切り出した。
「…アンタの父さんって、お医者さんだったのねぇ?しかも病院の院長さん」
この時初めて『あっ!』と思った。本当は裕美に医者になりたいと言われた時に、言うべきことだった。ただ私としては、他人に自分の父親が医者、しかも病院の院長をしている事を、なるべくなら話したく無かった。言えば言うほど私に対する見方にバイアスが掛かって、余計なイメージが付くのを恐れていた。それに昔、義一に話してもらった”子供の頃に大人を信用出来なくなった”話が、ずっと脳裏に焼き付いていたのも大きかった。だからいくら裕美相手でも、すぐには言い出せずにいた。でも、こんな話をしても多分理解されないだろうと、端から諦めていたらここまで伸ばしてしまい、益々言い出しづらい状況になってしまっていた。そのツケが回って来た感があった。
「え、えぇ…ごめん、裕美!…でもね」
私が慌てて言い訳をしようとすると、裕美は下を向きながら右腕を前に大きく突き出し、こちらに手のひらを見せる様にした。私を制するポーズだ。私はおとなしく言いかけた言葉を飲み込み、そのまま黙り、裕美の反応を待った。すごく長く感じた。裕美にひどく失望されているだろうと想像していた。自分が裕美の立場だったら、騙されたと思ってもおかしく無いだろう。裕美としては恥ずかしい気持ちを押し込めて、意を決して私に話した将来の夢。聞いた私の父親が、その夢である医者だという事を話さずにいたというのは、そういう事だと解釈されて不思議じゃない。私は一人で後悔の念に駆られていると、不意に裕美が顔を上げた。私はその顔を見て驚いてしまった。
何故なら裕美は顔いっぱいに微笑を湛えていたからだ。
私が呆然としているのには構わず、優しい口調で話し始めた。
「…琴音、アンタってやっぱり良い奴なんだね」
私は益々混乱した。責められこそすれ、まさかの賞賛の言葉だったからだ。裕美は続けた。
「アンタは余計な事では口が回るのに、こういった相手の深層に触れるようなことは一切口にしないんだからね。…私が夢だと言った時、言い出しづらかったでしょ?」
「…え、えぇ」
根本的な理由では無かったが、かなり正鵠を射ていた。一々口にせずともここまで分かってくれている事に、不謹慎かもしれないが感心し、そして感動していた。
私の短い返答を聞くと、目を細めて益々柔らかく笑いながら言った。
「他の人の場合は知らないけど、私はさっきアンタの母さんの話を聞いて、何故かすぐにアンタの気遣いを感じたのよ。『あぁ、この子は私が下手すると、嫉妬してくるのを恐れたんじゃないか?』とね。それに…」
裕美は言いかけながら椅子ごと前に出て、上体を屈めて私の顔を覗き込みながら続けた。顔はニヤケていた。
「『医者の娘であるにも関わらず、特に夢がない割には医者にもなりたくないのに、そんなの本人に言えない』ってね!」
最後は明るく言い切ると、満面の笑みを浮かべた。
私は呆然したままだったが、何故か不意に泣きそうになってしまった。理由は様々考えられたが、どれも違って見えた。理由はともあれ、涙が出そうなのだけが確かだった。
裕美は私のそんな様子を見て、裕美なりに色々と察したのか、今度は苦笑い気味に言った。
「…ちょっとぉ、何泣きそうになっているのよ?むしろ私は感謝してるんだから、素直に受け取りなさい?」
「…誰が泣いているって?」
私は説得力ない言葉を吐きながら、目を擦った。裕美は畳み掛けるように意地悪く言ったのだった。
「…ふふ。アンタによ、”お嬢様”」
この時初めて”お嬢様”呼びをされた。もっともこれは裕美の中でしっくり来なかったようだ。この時以来一度も言われたことが無いように思う。”姫”の方が気に入ったようだった。
とまぁただ回想を述べるつもりが、やけに事細やかに話してしまったが、この時だろうか…本当にこの”裕美”という新たに出来た友達との繋がりを、大事にしていこうと決意したのは。
もちろんこれまでも話したように、私の”性質”に対して面白がってくれた事、初めて大会を見に行った時に見せた、好きなものに対して真摯に向き合っている事、それ以外にもいくつもあったが、今述べた出来事、これが最後の決め手となって”本気”でそう思えるようになった。
…これでようやく本編に戻れる。お待たせしました。

「だってアンタはお嬢様じゃない?よっ!この院長令嬢!」
「…終いには怒るよ?」
私は低い声で凄んで見せた。すると裕美は私の肩を軽く叩きながら、明るく返した。
「あははは!冗談だって冗談!怒っちゃあいやーよ?」
裕美はいつにも増してぶりっ子ぶってくる。私は力が抜けるように大きく溜息をついた。
「…もーう、分かったわよ。もうこの話はおしまい」
「うん!」
それから私達はまた和かに絵里のウチへと急いだのだった。

「どうぞー」
オートロック前のインターフォンから、絵里の陽気な声が聞こえた。そして目の前の自動ドアが開き、誘われるままに絵里の部屋へと向かった。
ピンポーン。
チャイムを押して待っていると、すぐにガチャッとシリンダーの作動音と共に玄関が開けられた。
「いらっしゃーい!入って入って!」
絵里が満面の笑みで迎え入れてくれた。
「お邪魔しまーす!」
私と裕美は下駄を脱ぎ、用意された畳地のサンダルを履いて中に入った。
絵里もすっかり浴衣に着替えていた。白い生成り地に、淡い紫と黄色の朝顔が染められていた。帯は黒に献上柄の単衣帯だった。全体的にスッキリした印象を与えたが、それが寧ろ着ている本人の、色香を際立たせる効果を生み出していた。
私達は絵里の後をついて行ったが、その後ろ姿は背筋を真っ直ぐにしながら、歩き方にも品が溢れていた。この時になって初めて気付きハッとなったが、確かに普段から絵里の立居振舞いはどこか、色香のようなものが漂っていた。今も昔も髪型はきのこ頭のままだったが、それでも女性らしさが漂っていたのは、こういう所作からかも知れない。普段の竹を割ったような言動のせいで、中々感じられなかったが、今改めてヒシヒシと感じ取れたのだった。
そして同時にこの時思い出したのは、お母さんの事だった。着物では無いが、浴衣を着た絵里を見て初めて気づいた。
リビングへのドアを開けると、いつものテーブルの上には飲み物や食器、グラスなどが所狭しと置かれていた。
「じゃあとりあえずそこに座ってて?」
絵里は私達に声をかけると、慣れた手つきでたすきをかけていた。そして台所で何やら作業をしている。
私はその一連の動作を見ていたが、見れば見るほどそれは、普段から着物などを来慣れていないと出来ない動きを見せていた。これは普段お母さんを見ている私だからこそ、気づけたことかも知れない。呉服屋の娘として生まれ、物心ついた頃から家の中で着物を着ていたからこそ身に付いた所作を、絵里も完全にマスターしているように見えた。
私は早速その事について聞いてみようと思ったが、まだ忙しそうに作業をしていたので、何気なく部屋を見渡した。先程から何か違和感があったからだ。
と、やっと違和感の正体が分かった。普段私達が来た時にいつも閉められているドアが、今日ばかりは開けられていたからだ。私は思わず立ち上がり、何事かと視線を送ってくる裕美は無視して、その開いているドアに向かって行った。そして中に入ると、ビックリした。
五畳ほどの部屋だったが、中には桐で出来た天井スレスレぐらいの大きさの着物箪笥があったからだ。そしてそのすぐ脇、西日の入った窓の近くには撞木、別の言い方では反物掛け、それに別の浴衣が掛けてあった。その部屋にはベッドがあり、寝室としても使われているようだったが、幅が一メートル近くありそうな姿見もあり、どちらかというと寝室よりも衣装部屋と言った方が適切な気がする程に、着物関係で埋め尽くされていた。
「…うわぁー」
結局私に続いた裕美が、私の背後から部屋を覗きながら感嘆の声を上げた。
「凄いねぇ、浴衣とかそんなのばっかり」
裕美はベッドの上を見ながら言った。確かにそれには触れなかったが、そこには着物や帯以外に白足袋、和装肌着、舞扇と手拭いが置かれていた。これらは全てお母さんも持っているものだった。正直この部屋は細かい所はともかく、あまりにも自宅のお母さんの部屋に酷似していた。
まさか…
「…ちょっとぉ、あまり一人暮らしの女性の部屋をジロジロ見ないでよぉ」
声を掛けられたので振り返ると、絵里がドアのヘリに手をかけながら、意地悪い笑みを浮かべつつそこに立っていた。
「…絵里さん、これって…」
私は構わず部屋を一度見渡してから、質問を投げかけた。すると絵里はほっぺを掻きながら、少し照れ臭そうに部屋の中に入り、ベッドの上の物を整理し出しつつ答えた。
「…あーあ、とうとうバレちゃったか…。まぁ今日はそもそも、初めからバラすつもりだったけど。…琴音ちゃんならもう気づいているよね?前にお母さんの話を聞かせてくれたし。…そう、これらは全て日舞の為の道具だよ。この部屋にある全てがね」
「…え?日舞ってあの…日本舞踊のことですか?」
裕美がいつの間にか部屋の中に入り、腰を曲げて整理している絵里の背後に立ち、聞いていた。絵里は振り向かずそのままの姿勢で淡々と整理していたが、口調明るく返した。
「そうだよー。…あまり普段のキャラじゃないから、自分で説明するのは恥ずかしいんだけれど…二人共?」
絵里は上体を起こすと、腰をトントンと叩きながら私達に言った。
「この片付けはすぐに終わるから、あのテーブルで待っててくれる?」
私達は言われた通りに座って待っていた。ドアは開けっ放だったので、絵里の姿が見えていた。二人してその様子を見ていたが、ものの一、二分で片付け終えたのかこちらに戻って来た。そして椅子に座る前に、冷蔵庫からスポーツドリンクの入ったペットボトルを取り出すと、それを持って私たちの元へと来た。そして空いてる椅子に座り、テーブルの上のグラスに注ぎながら、ようやく話し始めた。
「いやーごめんねぇ?自分から早めの時間帯に約束したのに、今日実は午前中用事が出来ちゃって、慌てて帰ってきて整理していたら間に合わなかったんだ。普段はあんなに散らかってはいないのよ?」
絵里は今は閉められたドアの方を見ながら言った。そんな事は初めてここに来た時から分かっている。表向きはガサツな性格風であるけれど、部屋を見れば全てが几帳面に、部屋のサイズに合わせた収納術を屈指して整理されている点を見れば、普段から綺麗にしている事は丸分かりだった。そんな事よりも突っ込む所は、数多にあった。
「…もしかして、私達を早めの時間帯に呼んだのって、あれを見せるためだったの?」
私も絵里に合わせてドアの方を見た。裕美も黙って見ている。裕美はまたほっぺを掻きつつ、決まり悪そうに答えた。
「…まぁそういうことかなぁ。…予定では綺麗なところを見せるつもりだったけど」
絵里は苦笑をしている。
「いつもここに来ても見せてくれなかったのに、今日見せてくれる気になったのは、皆んなして浴衣を着る事になったからなのね?」
私は昼間にやっている、刑事ドラマの主人公になった気分で問い質していた。絵里は笑顔で頷きながら答えた。
「…まぁそんなところよ。隠しているつもりはなかったんだけど、普段私の話にはならないし、ならないのに自分から話すのも、さっき言った様に恥ずかしいしね…言えなかったんだぁ」
私はふと、裕美に対して自分の父親のことを話せなかった時の事を思い起こしていた。まぁ、中身の質は違っていたけど。
「でもそう、今あなたが言った通り、今日だったら二人に話せるいい機会かなって思って、それで身勝手で悪いけど、二人を早めにここに呼んだの。…これを逃すとまたいつになるか分かったもんじゃないからね」
「なるほどー」
今まで黙って話を聞いていた裕美が、ようやく口を開いた。
「でも日舞って良いですねぇー。なんか”The 大人の女性”って趣味じゃないですか?琴音の母さんも習っているしで、私憧れてるんですよ」
「ふふ、ありがとう」
目を輝かせながら言う裕美に、笑顔で返していた。
「でもね…」
絵里はふと、少し顔を曇らせながら言った。
「私の場合はねぇ…習い事ではないのよ」
「え?どう言う意味?」
今度は私が聞いた。
「習い事じゃないんだったら、何だっていうの?」
「…うーん」
絵里は唸りつつ視線を私達から逸らした。まだここまで来て言い兼ねていたようだった。が、私達に再び視線を戻すと、一度短く息を吐き、意を決したように先を続けた。
「…私、実は日本舞踊の名取なのよ」
「…な、名取?」
「…え?へぇーーー!」
裕美はよく分かっていないようだったが、私はすぐに分かったので、素直に驚いた。もちろん流石に学習したので、声は抑え気味にだ。
「意外だった?」
絵里さんは私の驚きようを、満足げに見ながら言った。私は自分でもわかるくらいに、目を見開きながら返した。
「そりゃそうよ。だって普段図書館司書をしている人が、日舞の名取だなんて思いもつかないもの」
「…ねぇねぇ、名取って何なの?」
一人取り残されて、置いてけぼりを食らったように感じたのか、裕美は一人半目で私と絵里を交互に見ながら聞いてきた。絵里は視線で聞いてきたが、私は横に首を振ったので、絵里が微笑みながら裕美に説明した。
「名取っていうのはね、…あっ!その前に、日舞にはいくつか流派があるんだけれど、そのトップに君臨する家元という人に舞を見てもらって、その技芸がある程度のレベルに達していると認められると、その流儀固有の名前をもらう事…うーん、分かりやすく言うと芸名だね。それをもらえた人の事を名取と言うの」
「へぇー!すっごく本格的なんだね!」
裕美は何というか、呑気な解釈をして意味を飲み込んだようだった。絵里は笑顔で頷いている。
「まぁ本格的っちゃあ、本格的だね。…まぁもう気付いているだろうけど、敢えて私から説明すれば、実は私の実家が目黒で日舞の稽古場を開いていて、私の父が名取の上、つまり師範をしているのよ。つまり私の実家は日舞を生業としているの」
「へぇーー」
今度は私と裕美同時に声をあげた。
絵里さんが日舞の名取?しかも両親が師範?…はぁー、人は普段の見かけに寄らないんだなぁー…
などと考えていたが、ふと絵里が言った事に引っかかった。
…ん?目黒?目黒って確か…
そんな偶然があるのかと、私は思いついた考えを払拭するように、一人頭を横に振っていた。
裕美はそれからは、何かと絵里を質問責めにしていた。
「はぁー。…でも目黒って凄いですねぇ!絵里さんって本当は良いところのお嬢様じゃないですか?」
「や、やめてよぉ裕美ちゃーん!そんな言い方するのぉー。…もーう、こんな勘違いされるから、言わないでいたのにー」
なんて会話をしていた。私は水をかけるように、少し気になる事を聞く事にした。
「…てことは、絵里さんは今でも日舞を舞ったり、教えたりしてるの?」
「え?えぇ、親に頼まれたら補助役として今でも、目黒の実家に行ってるよ。親とは言っても、日舞においては師匠だからね。日舞関係で頼まれたら、素直に従うのよ。…本当はまだあくまでも名取だから、師範になってからでないと正式には教えれないんだけれどね。…まぁ、バイト感覚よ」
絵里はまた照れ臭そうに言った。
「ふーん…そっか」
正直そのままお母さんのことを聞こうとも思ったけど、別に聞かなくても良いと思った。色んな理由はあったけど、流石に空気が読めない私でも、このまま機の向くままに質問していけば、すでに場に満ちている祭の雰囲気を壊しかねなかったので、自粛する事にした。

「さてと…」
絵里がおもむろに時計を見た。時刻は六時半になるところだった。
外はまだ薄っすらと、陽光の残影が西の空に辛うじて残っていたが、空の九割がたが夜の様相を呈していた。天気は予報通り快晴のままだった。
「そういえば裕美ちゃん?」
絵里は時計から視線を外すと、裕美に話しかけた。
「あなたが誘った人って、いつ頃来るの?…いやそもそも、ここの場所知っているのかな?」
「えぇっとぉ…」
裕美はミニバッグからスマホを取り出すと、何やら確認をしていた。そして画面に視線を落としたまま答えた。
「…あぁ、はい!大体分かるみたいです。…ただ流石に細かくは知らないので、近くまで来たら連絡してと言ってあります」
「そう?なら良いけど。…で、琴音ちゃん?」
「何?」
先程まで和かに話していたのに、絵里はふと眉間にシワ寄せながら嫌々そうに言った。
「…ところで彼奴は…いつ来るって?」
「え?えぇっとねぇ」
私はその様子を、さも愉快げに見ながら大きな笑顔で返した。
「確か七時には行くって言ってたよ?」
「…はぁー、…あっそ」
絵里は素っ気なく返したが、ふと胸元をチラッと見た。浴衣の状態を確認したかのようだった。
「…ふふ、なーに?やっぱり気になる?」
私は途端に悪戯っぽく笑みを浮かべながら、ねちっこく言った。裕美は私が何を言い出したのか分からない風でいたが、当の本人、絵里はすぐに察したのか顔を赤らめて慌てて訂正した。
「んなっ!?な、何をい、言ってるのよ!?何とも思うわけ無いじゃない?」
「あははは!ごめんなさい」
「…もーう」
絵里は自分を奮い立たせるように、スクッと立ち上がると明るく声を上げた。
「じゃあ二人共!野郎二人が来る前に、準備を済ませちゃおう!」
「はーい!」
私と裕美は同時に手を挙げて賛成の意を示した。

それから十五分ぐらいは慌ただしかった。時間指定で注文していたのだろう、宅配のピザなり何なりいわゆるオードブルが来たりして、それを受け取り、用意したお皿に盛り付けたりすると、あっという間に七時になった。
「…おっそいなぁ」
裕美はさっきから何度もスマホを確認している。
「何裕美ちゃん、まだその人と連絡つかないの?」
絵里も心配そうに声を掛けていた。
「…はい。今から十分前に家を出たみたいな事を言っていたんですけど…私っ!」
裕美は玄関の方を見ながら、居ても立っても居られないといった調子で言った。
「ちょっと下に行って、待っていようかなぁ?」
「…まぁまぁ裕美」
私は呑気に窓を全開にしたベランダの外で、手すりに手を掛けながら振り返り言った。
「連絡は来てたんでしょ?だったらもう少し待ってみてからで良いんじゃない?」
「で、でも…」
よっぽど気になるのか、私の軽薄な慰めも何の足しにもならなかったようだ。と、その時。
ピンポーン。
これはエントランスのチャイムだ。絵里がインターフォンに近付くと、外部との音声を繋いだ。小さな画面に映し出されている光景を見て「げっ!」と言った。と、スピーカーからは、それに反応する様に、耳慣れた声が聞こえてきた。
「…おいおい、聞こえているよ?」
何とも呑気な調子だ。絵里の側に近寄った裕美は、その位置からは見えないらしく、焦ったそうにしていたが、聞こえる声が違ったせいか、落胆の色を隠さなかった。
その様子をチラッと見た絵里も、少し気の毒そうに裕美を見ていたが、とりあえず今目の前の問題を片すことにしたようだ。
「…はぁ、そんなところにいても他の人の邪魔になるから、早く上がって来て?」
そう言うと、オートロックの解除ボタンを押した。するとその人は何か悪巧みをしているかの様に言った。
「ありがとう。…あっ、そういえば、たまたま近所で知り合いに会ったから、ついでに一緒に連れて行くね?」
「…へ?あっ!ちょっと!」
絵里が慌てて呼びかけたが虚しく、既にその人の姿は消えていた。
「…何だって言うのよ、まったく…」
絵里は静かになったインターフォンに一人毒づいていた。
数分すると、玄関のチャイムが鳴った。絵里は力無く応答したのだった。
「…空いているわよ。歓迎しないけど、招待してあげるわ」
「あはは」
モニターの向こうから笑い声がしたかと思うと、玄関の方でドアの開く音がした。そしてワイワイ靴を脱ぐ音がしたかと思うと、ズンズン廊下を進みこのリビングに入って来た。
ここまで引っ張る必要は無かったかもしれないが、予想通りだろう、そこには浴衣姿の義一が立っていた。髪の毛をいつも通りに纏めていたが、服装のせいかいつもと違って見え、むしろ今の方が似合っていた。パッと見グレーの浴衣だったがよく見ると、千鳥柄になっていた。それに真っ黒の帯を締めていた。
私は思わずベランダから室内に戻り、義一に挨拶しようとすると、その後ろからこれまた見慣れた坊主頭が現れた。
これも言わずとも分かるだろう。ヒロだった。ヒロは白い生地に何か英字がプリントされた半袖Tシャツに、下は膝より下くらいの長さのジーンズを履いていた。何やら居心地悪そうに部屋をキョロキョロしていた。
「ヒロくん、よく来たね!」
裕美が嬉しそうにヒロに駆け寄り挨拶をした。ヒロも何か挨拶を返していた。
「ようこそヒロくん!ゆっくりして行ってね?」
絵里もヒロに優しい言葉を掛けた。
「あ、はい!今日はよろしくお願いします!」
ヒロは頭を深々と下げていた。
「あははは!そんなに畏まらないでよ?今日は花火大会なんだから!」
絵里はそう言うと、ヒロの背中を軽く叩いた。ヒロは頭を掻きながら笑っていた。
その間私は裕美に近づき、耳元に顔を近づけ聞いた。
「…何でヒロがここに居るのよ?」
「え?」
裕美はキョトン顔で私を見てきた。
「当然でしょ?私とアンタ共通の友達を呼ぶとしたら、ヒロくんしかいないじゃない?」
裕美は不思議そうに首を傾げながら答えた。声が聞こえたのか、絵里に構われていたヒロが、こちらを向いて笑顔で頷いている。
「…はぁ、まぁ今日はお祭りみたいなものだからね。ああいう能天気な男が一人くらい居た方が盛り上がるのかも」
「おーい、聞こえているぞ?」
ヒロが目を細めながら抗議してきた。
「あったりまえでしょ?聞こえる様に言っているんだから」
「まぁまぁ」
こんな私達の様子を、義一と絵里は揃って微笑ましげに見ていた。
「そういえば義一さん」
私は今度はリビングの入り口付近の、立ちっぱでいる義一に声を掛けた。
「何でヒロと一緒に来たの?まさか待ち合わせて?」
私としてはとても不思議だった。何故なら初めてヒロと義一の家に行った以来、ヒロはそれから私と一緒に一、二度くらいしか会ってなかったはずだったからだ。それもたまたま出会した形だけだ。とても連絡先を交換出来るほど、仲良くなっていたとは思えなかった。
義一は視線をヒロに向けながら、愉快な調子で答えた。
「いやいや、まさか!僕は君に誘われてこの近所まで来たんだけど、なんかどこかで見たことのある顔に出くわしたんだ。誰だっけなぁって思い出していたら、すっかり大きくなって逞しくなったヒロくんだったから、久しぶりに見たと嬉しくなって、思わず声をかけたのさ。ねぇ、ヒロくん?」
声をかけられたヒロは、苦笑まじりに答えた。
「ちょっと早めに来すぎちゃったからよぉ、少しこの辺りで待っていようと思ったすぐ後に、お前の叔父さんに急に背後から声を掛けられたんだ。そりゃーもう、驚いたのなんのって!まさか誰かに声を掛けられるとは思わねぇからさぁ。この近所には友達も住んでいないしよ。近所まで来たら裕美が連絡してって言ってくれてたから、裕美でもないだろうしってんで…表通りはあの通りのお祭り騒ぎだけどよ、ちょっと裏に入ると何処も暗いだろ?だから慌てて身構えちまったよぉー…叔父さん」
ヒロは腰に手を当てると、やれやれと首を横に振りつつ言った。
「今度からは気配を消して、後ろから声を掛けないでくれよ?さっきも言ったけど」
「あははは!ごめんよ」
義一は一人で愉快といった調子で答えた。
「…え?叔父さん?」
さっきまでヒロの側にいたが、いつの間にか私の横に立っていた裕美が、義一の方を見ながら言った。
「そうよ。私のお父さんの弟。つまり私の叔父さんなの!」
私は祭りの雰囲気もあってか、若干テンション高めに答えた。紹介された義一は裕美に向かって会釈をした。
「あぁ、君が裕美ちゃんだね?いつも琴音ちゃんから話を聞いてるよ。これからも仲良くしてあげてね?」
「あっ、はい!分かりました!」
裕美は咄嗟のことだったので、ドギマギしつつも元気に答えていた。義一は満足そうに頷いている。
「…義一さん、そんな叔父さんらしいセリフは似合わないよ」
私はすかさずニヤケながら突っ込んだ。と、その後すぐ私に乗っかる形で、絵里もジト目を流しながら言った。
「そうよギーさん。あんまり慣れない事をすると、すぐにメッキが剥げるんだから止した方が身の為よ?」
「おいおい、あんまりな事を言うなよぉー…まぁ実際そうだけど」
「…ふふふ」
いつもの義一と絵里のやり取りに、思わず私が吹き出すと、義一と裕美も顔を見合わせ笑い出した。何の事だか説明不足すぎて訳が分からなかっただろうが、雰囲気のなせる技で、裕美とヒロも顔を見合わせると笑い出すのだった。

「ちょっとぉー、ギーさん。それはこっち!」
「え?じゃあこれは?」
「もーう!それはあっちだって言ってたでしょう?」
義一と絵里は最後の準備に追われていた。私と裕美はテレビに向かっている二人掛けのソファーに座り、その様子を見ていた。ヒロは早速ベランダに出て、河原の方を眺めていた。
「…ねぇ?」
「うん?」
裕美が二人の様子を眺めながら聞いてきた。
「何?」
「あのさぁ…」
裕美は私の耳元で囁く様に言った。
「あの二人って、付き合ってるの?」
「え?」
私は思わず間の抜けた声を出した。変わらず準備に四苦八苦している二人の様子を眺めつつ、私も裕美の耳元に近付き小声で答えた。
「…いーや、付き合ってはいないみたいだけど…お似合いよね?」
「あっ、そうなの?…ふーん、でもあんたの言う通り、お似合いね」
裕美はクスクス笑いながら、焦ったそうに眉間にシワを寄せ文句を言う絵里と、それを涼しい顔で軽く躱し続ける義一を見ていた。
「それにアンタの叔父さん…カッコいいしね?絵里さんみたいな美人にも、見劣りしないし」
「…ダメよぉ、狙っちゃあ?私としては、絵里さんと一緒になって貰いたいんだから」
私は義一の事を、中身ではなく容姿とはいえ、褒められて嬉しいのを抑えながら、半分冗談のつもりで返した。が、反応が無いので裕美の顔を見ると、笑ってはいたが真剣味を帯びていた。そして静かな調子で、でもにこやかに答えた。
「…あはは、心配しないでよ!私もアンタと同じ気持ちなんだから!…まぁ今日初めて見たんだけど」
「…ふふ、初めて見てそこまで分かるのは、あなた、案外男を見る目があるわよ」
私は軽く隣に座る裕美の肩を、ポンポン叩いた。が、裕美はあんまり嬉しくなさそうだった。
「…はぁ、そのセリフを他の女子なりに言われたら、どんなに励みになる事やら…。恋愛経験なく、初恋もまだで、こんな場に絵里さんの事があるとは言っても、自分の叔父さんを連れて来ちゃう様な女の子に言われても…正直微妙よ」
「なによぉー」
私は不満げに言ったが、口元のニヤケを抑えられなかった。終いにはまた、裕美と二人でクスクス笑い合うのだった。

そろそろ七時半になろうという時、私達全員はベランダにいた。いつものテーブルを外に出し、その上に宅配で来たオードブルの盛り合わせなり全てを乗せた。お皿や箸フォークも完備だ。そして人数分のグラスに飲み物を注いだ。大人チームの義一絵里ペアはお酒だった。義一はビール、絵里はレモンサワーだった。対して私達子供チーム。私はこの日はサイダーにした。裕美はオレンジの炭酸水、ヒロはコーラーだった。
各々グラスを持って、たまに会話を交わしながら、今か今かと開始を待った。
今まで何度もこの地元の花火大会は見てきたが、過去に一緒に過ごした人々、その時間には申し訳ないが、この年が一番ワクワクしていた。予定を組んだその日からだ。今までこれ程の高揚感は無かった。あまり表に感情を出すのが恥ずかしいタチのせいで、素直に表に出せないから、下手するとつまらなそうに見えてたかも知れないが、心の底ではこの場にいる誰よりも楽しみにしていた自負があった。まぁ尤もこの場には、一々私の説明を要する人間は、一人もいなかったけど。
それはさておき、ふと隣の他のマンションが見えたので、見て見ると、どの部屋の住民もベランダに出ているのだろう、部屋から漏れる明かりを背に黒い人影が、それぞれのベランダで蠢いていた。その各各所で、各々のスタイルで花火大会を今か今かと待っているのだろう。
さっきからずっと手元のスマホを覗いていた絵里が「あっ!」と声を出したかと思えば、目の前河原の辺りから、ヒューっと音がして、その後大きな音と共に大輪の花が、遮る物ない夜空に煌々と咲いて花火大会の開始を告げた。

この花火大会は約一時間ばかりの”火花”のショーだ。始めにオーソドックスな花火が上がり、その後に”和火”という徳川家康公から始まる、オレンジ色の炭の火の粉の花火が上がった。私は子供の頃から、他の花火の煌びやかな多種多様のよりも、オレンジ一色、でも何だか心の安らぐ優しい光を放つ”和火”が好きだった。今述べた様な蘊蓄を知ってから、ますます好きになったのは言うまでもない。その”伝統ゾーン”が終わると、次は夜空一面を薄紅色に染め上げる様な、桜をイメージした”千輪”が打ち上がった。ある程度距離のある私達のベランダまで、薄紅色に染め上げた。もちろん私も感動したが、他の女性陣、ヒロも含めて此処一番に盛り上がった。そして次は”糸柳先鋒”。これは一度打ち上がって爆発した後も、しばらく光を失わないまま落ちていくので、その様が柳に見えるという、中々風流な花火だった。これもシンプルかつオレンジ色の花火だったから、私好みだった。次が最後の”黄金の枝垂れ桜”。これまた名前は風流だが、ラストというのもあって、ありったけの花火を立て続けに打ち上げるという物だった。最後を飾るに相応しい賑やかさだった。話じゃ四千発を一気に打ち上げていたらしい。驚きの数だった。
…何故そんなに詳しいのかと疑問に思う人もいるだろう。私はこんな性格なので、表には出せないが、さっきも言った様に楽しみにしていた…いや、し過ぎていたので、毎年毎年こんなことを一度もしたことは無かったが、事前に何が打ち上がるのかを調べたり、その名前を覚えたりしたからだった。花火の歴史まで調べてしまった。その結果が今述べた通りだ。
別に当日ドヤ顔で知識を披瀝する事なんかはしない。ただ胸にそれらを秘めて、一人楽しむだけだった。
今述べた通り一つ一つにテーマがあり、それぞれの花火が終わると五分から十分ほどの中休みがあった。その間に河原組はトイレに行ったり談笑したりするのだ。
今回の私達も同じだった。終わるたびに各々近くの人と感想を言い合い、食事をしたり飲んだりするのだった。ベランダは花火が上がらない時は、せいぜい弱々しい月の光しか光源がなく、背後からさす部屋の明かりでは辺りを照らすには無理があったが、その程良い暗さが私達の間の壁を取っ払い、気持ちを素直にさせてくれてる様だった。それぞれこの間は、心のままに会話を楽しんでいた様に思う。義一と絵里、裕美とヒロ時々私、大笑いして騒ぎこそしなかったが、笑顔が絶えることは無かった。最高に充実感を味わっていた。

八時半を少し過ぎた頃、花火大会は空に硝煙の雲を残しつつ幕を閉じた。
ちょうど私達の食事も終わり、一度テーブルを部屋に戻したりと、今度は私達子供チームも加わり片付けを手伝った。ものの五分ほどで終わったので、私達子供はベランダのへりに手を掛けて、残りの飲み物を手に持ちながら、すっかり真っ暗になった花火の上がった辺りを漠然と眺めながら、しばらく雑談した。予定では九時に解散だったから、後二十分ほどあった。義一と絵里は椅子をベランダに出し座って、手にお酒の残りを持ちながら、そちらはそちらで談笑をしていた。
「いやー、楽しかったね!こんなに楽しいのは、今年が初めてだよ!」
裕美は興奮冷めやらぬといった調子で言った。私も全く同じ気持ちだったので大きく頷いた。
立ち位置としては部屋の中から見たとして、右端にヒロ、裕美、私の順に立ち、私の左に絵里、そして義一が座っていた。
「確かになぁー。俺もこんなにじっくり観たのは初めてかもしんねぇ」
ヒロはグビッとコーラーを飲むと言った。
「いやー正直裕美に誘われた時、どうなることかと思っていたんだけどよ?いざ今日になったら、ただただ楽しくて、むしろ早く終わりそうになっちまうもんだから、『まだ終わらないでくれー!』って、心の中で叫んだぜ!」
「あははは!」
裕美は頷きながら笑い声をあげていた。私も癪だけど、ヒロと是また全く同じことを考えていたので、サイダーに口つけながら頷いた。
「…でもよー」
ふと先程までのテンションとは裏腹に、ヒロは私達の方を見ると、マジマジと姿を眺めてきた。顔の左半分が部屋の明かりで浮かび上がっていた。目は半目気味だ。
「…お前らが浴衣で来るならよぉー…俺も母ちゃんに何か頼むんだったぜ」
そう言うと、私の向こうで談笑している義一と絵里の方を見ていた。確かにこの場で普段着はヒロだけだった。
私はそれには取り合わず、見えているかは無視して、意地悪くニヤケながら裕美の肩に手を置き、裕美の顔のそばに自分の顔を寄せながら言った。裕美は急に私が寄ったので、ビクッとした後、私の顔をまじまじと見ていた。
「…あなた、こんなに可愛いい女の子が二人も揃って浴衣を着ているのに、口から出てくるセリフがそれなの?ねぇ、裕美?」
「え!?…あ、あぁ、うん…」
裕美は何故かドギマギしながら答えた。そして気持ち俯き加減にヒロを見ていた。私の位置からは、裕美の表情は窺い知れ無かった。
この時の私は、いきなり話題を振ったので、それでタジタジになっているものとばかり思っていた。我ながら本当に、恋愛偏差値が低かったなと、今になって反省する。
ヒロは私と裕美を暫くの間見比べていたが、ヒロはニヤニヤしながら答えた。
「…俺は琴音のよりか、裕美、お前のが綺麗に見えるな」
「…え?」
裕美はボソッと短く声を漏らすのがやっとといった感じだった。この時まだ私は、裕美の肩に手を置いていたので、見る見るうちに体全体に力が入っていくのが分かった。同時に浴衣越しにもわかるほど、体温が上がっていくのが分かった。
当時の私はそれには気に留めず、ヒロにその訳を聞くことにした。
「なーんで私じゃなく裕美なの?確かに裕美も似合っていて可愛いけど、私のも紫陽花があって可愛いでしょうに」
私は裕美から手を離すと、その場で一回クルッと回った。両肘を軽く曲げ、指で袖を軽く摘み、膝を軽く曲げて可愛子ぶって見せた。
そんな私のぶりっこぶりに対して、ヒロは冷ややかな目を向けてきながら答えた。
「…そんなこと言われてもよぉ…見えねぇんだよ」
「…何が?」
と聞き返すと、ヒロは私を指差しながら続けた。
「…お前が言った模様がどうの、暗すぎて分からねぇんだよ。…暗い色過ぎて」
「…は?」
私と、今度は裕美までもが同じ反応を示した。構わずヒロはその指先を裕美に今度は向けると、続けて言った。
「それに引き換え裕美のは、こんなに暗くてもちゃーんと何の柄かが分かるほどに、明るい生地じゃねぇか。濃いオレンジでよ。裕美、それって名前は分からねぇけど、花弁が五つあるだろう?」
「え?…あ、あぁ、うん…そうだね」
裕美は先程までの様子とは打って変わって、冷静も冷静に、いや冷めきった調子で答えていた。その変化に気付かないヒロは、一人明るくそのままの調子で続けた。
「ほらな?だから琴音みたいな見辛い辛気臭い物よりも、裕美みたいな明るい、暗くても模様まで分かる様なのが、俺好みだよ。…ってあれ?どうしたんだよ、二人共?」
私と裕美は力が抜けたように、ダラーっと棒立ちになっていた。そして二人で顔を見合わせると、示し合わせたわけでは無いが二人同時に大きく溜息を吐いた。
「…ダメだわこいつは。中学に入っても、何にも成長していない」
「…はぁーあ。なんだか一気に気が抜けちゃったなぁ」
「な、なんだよぉー」
ヒロは決まり悪そうに、片方の眉だけを持ち上げつつ言った。その本気で困っている様子が面白かったので、私と裕美は顔を見合わせて、くすくすと笑うのだった。
それからは、裕美が何故か四六時中身体に帯びせていた、ある種の緊張感が解れていったので、しっかり普段通りの二人に戻っていた。二人して仲良く、それぞれ自分の学校についてお喋りしだしたので、私は二人から離れて義一と絵里の元へと行った。
二人は呑気にお酒を飲みながら、相変わらず談笑を楽しんでいた。
「二人共、楽しそうね?」
私はベランダの壁に寄りかかりながら言った。
「お?琴音ちゃんじゃーん!今日は楽しかった?」
絵里は酎ハイの入ったグラスを私に向けてきながら、陽気な調子で言った。普段から明るく陽気だったが、こんなに語尾を伸ばすように、ゆったりした口調で話すのは初めて聞いた。ほろ酔いしているようだった。
考えてみれば、二人がお酒を飲んでいるのを見るのは、この時が初めてだった。
「…うん、思っていたよりもね」
私はそう答えると、手に持ったすっかりヌルい、サイダーをチビっと飲んだ。我ながら素直じゃなくて、可愛く無い。
「あははは!素直じゃないんだからなぁー。どっかの偏屈のように」
絵里は上体をかがめると、隣にいる義一の顔を覗き込むように言った。表情までは分からなかったが、恐らくニヤケていただろう。
「おいおい、一体誰が偏屈なのさ?」
義一は手に持ったビールを一口ちょっと舐める様に飲んでから答えた。義一はこの暗さもあるかも知れないが、隣に座る絵里と違い、全くの素面に見えた。絵里の顔は若干赤みを帯び、目元もトローンと緩んでいたが、義一はなんら変化が無かった。敢えて違いを言えば、声のトーンが気持ち普段よりも高めなくらいだった。
「ところで…」
義一も絵里と同じくらいに少し屈んで、両腕を膝の上に置き、両手を軽く組ませながら私を見て言った。
「今日は、僕を誘ってくれて有難うね?久しぶりに、この花火大会を楽しんだよ」
「ふふふ、どーいたしまして!」
私は見えてるか分からなかったが、とびきりの笑顔で返した。
「…ほーんと、琴音ちゃんに感謝なさいよねぇー?こーんなに浴衣美女が一遍に集まるところに居れたんだから」
絵里は薄眼を使って、義一のことを見た。言われた義一は私の向こうにいる、ヒロと談笑をしている裕美を見て、そして視線を私に向けると、優しく微笑みながら、柔らかい口調で言った。
「…うん、琴音ちゃん。…その紫の浴衣、すっごく良く似合っているよ」
「…あ、ありがとう」
私にとっては、形式的にはただの叔父さんなのに、そんな言葉を掛けられただけで、自分でも顔が火照って行くのが分かった。私はその恥ずかしさを誤魔化すために、無理やり絵里の方を見ながら聞いた。
「わ、私のことよりもさ!ほ、ほら、絵里さんは?絵里さん!流石に日舞の名取なだけあって、すっごく似合っているじゃない?」
「ち、ちょっとぉ、琴音ちゃん?」
酔いが回っていたのか、少しぼーっとしていた絵里だったが、途端にシャンとなって、私を慌てて制した。そんな絵里の様子を他所に、義一は隣の絵里を舐め回す様に、顎に手を当てながら見ていた。
視線に気づいた絵里がふと、隣の義一の様子を見ると、慌てて胸元を隠す様なポーズをとり、少し気持ち離れながら見ていた。表情は恐らく、思いっきり引いて見せていたことだろう。
「うーん…」
義一は大袈裟に唸って見せていたが、顎から手を離すと、私に微笑み掛けてきながら言った。
「…そりゃそうだよ。僕は琴音ちゃんよりも、絵里との付き合いが長いからねぇ…」
そこまで言うと今度は大きく上体を屈めて、下から絵里の顔を覗き込む様にして言った。義一の顔は、薄暗がりの中でも分かる程に真顔だった。
「絵里に着物や浴衣が似合っているなんて、初めて出逢ったぐらいから知っているんだから、今更僕の口からいう事なんて無いよ」
そう言い終えると、なんでも無い調子でまたビールをチビっと呑んだ。
話を聞いた私は、顔がボッと熱くなった。なんて台詞を真顔で何気なく言うんだこの人は…。
私はそっと絵里の顔を覗いてみると、案の定、義一の方を見る体勢のまま固まっていた。
と、ハッとした表情になると、義一から顔を逸らして、椅子の肘掛けに右肘を置き、顎を手に乗せていた。口元も若干隠していた。顔はこの暗がりの中でも分かる程、真っ赤だった。
「…コレだからこの”天然誑し”は…」
視線は鋭くどこか別の方を向けながら、ボソッと恨みったらしく言った。恐らく義一には聞こえていなかっただろう。幸か不幸か私だけが、絵里の渾身の愚痴を聞いた。私は思わず、一人でクスッと小さく笑うのだった。

そうこうしている間に九時になった。絵里の号令と共に、花火大会観覧会は御開きとなった。
最後の後片付けを少し手伝ってから、絵里を含めた全員でマンションの外へと出た。流石に時間が経ったせいか、裏道とはいえここに来た時は、すぐそこまで賑わいを感じられる程だったのに、すっかり普段の閑静な住宅街へと戻っていた。
絵里以外の私達はマンション前の道に出て、一度振り返り挨拶をした。絵里も笑顔で手を振っていた。さて、そろそろ行こうかという時に、ふと肩を抑えられた。絵里だった。
私は何事かと目を見開いたが、絵里は構わず私の耳元に顔を近づけると、ボソッと言った。
「…琴音ちゃん、今日みたいな心臓に悪い事は控えてね?ビックリするから」
「…ふふふ、分かったわ」
私も小声で、全く分かってない調子で意地悪く笑いながら答えた。それを見て絵里も笑っている。
「…? おーい、琴音ちゃーん!行くよー?」
義一が他のみんなと、十数メートル離れた所から声をかけていた。
「うーん!今行くー!…じゃあ、またね絵里さん!…そのー」
私は一瞬躊躇ったが、やはりハッキリ言ったほうが良いと思ったので、思い切って言った。
「…今日は”本当は”楽しかった。…そのー…ありがとう」
「琴音ちゃん…」
「じゃあね!」
私は恥ずかしくなって、義一たちの元へと駆け出そうとしたその時、
「…私こそありがとう」
と背後からボソッと声が聞こえた。私はまた後ろを振り向いたが、絵里は笑顔で私に、胸の前で小さく手を振っているだけだった。…気のせいかしら?
私は少し訝ったが、気を取り直して笑顔で大きく手を振り返した。そして今度は振り返らず、皆んなの元へと駆けて行った。
義一とは大通りの手前で別れた。そしてすぐに駅近に住んでいるヒロとも別れた。
最後に裕美に向かって「今日は俺を誘ってくれてありがとう!」とぶっきらぼうに言うと、返事を聞かないまま駆け出してしまった。裕美はポカン顔で、手だけ振っていたが、徐々に顔に喜びが溢れてくるのが、はたから見てても分かった。まぁなにはともあれ、裕美自身が良かったなら、それで良かった。

私と裕美だけの帰り道。裕美はミニバッグをプラプラ揺らしながら、機嫌が良さそうに歩いていた。
「…いやー、楽しかったね琴音!この夏一番の思い出になったよ!」
「…ふふ、それは良かったわ。…私もね」
「ふふ」
今歩いている道は街灯も少なく、絵里の近所よりも閑静だった。道路に向かった窓のある家な一つもなく、高い塀に囲まれた家が多いせいで、余計に暗さが増していた。
「…それに珍しいものも見れたしね?」
裕美は私の前に回ると、後ろ歩きをしながら言った。
「珍しいもの?…何かしら?」
全く思い当たる節がなかったので、素直に聞き直した。裕美はクスッと笑うと、また私の隣に戻って来ながら言った。
「それはねぇー…アンタがあんなに人と楽しそうに話している姿よ!…あの叔父さんとね」
「…え?」
私は裕美が不意に義一の事を触れたので、瞬時に身構えた。何を言うのか、また何を言われるのかが怖かったからだ。そんな私の胸の内を知る由も無い裕美は、私の隣で明るい調子で言った。
「アンタが私とヒロくんから離れて、絵里さんたちの方へ行ってから、ちょくちょく様子を伺っていたんだけれど、凄く楽しげな表情で話しているのが見えたのよ。ほら、アンタはベランダの壁を背にしていたから、部屋の明かりが直で当たっていたじゃない?それでハッキリと見えたのよ。…なんか初めてアンタの底抜けの笑顔を見た気がしたよ」
「そ、そう?」
気付かなかった。そうか、裕美の方でも私のことを見ていたのか。
「…それ程あの叔父さんの事、好きなんだねぇ」
「んな!?何言って…ケホケホ」
裕美がしみじみと唐突に言うので、私は慌てる余りに噎せてしまった。裕美は苦笑いで私の背中をさすった。
「ちょっとぉー、大丈夫ー?なに噎せてんのよぉ?」
「あ、あなたが突然妙なことを言うからでしょう…」
私は息絶え絶えに返した。裕美は何の事か分からないといった表情を浮かべていたが、すぐにハッとして、顔中に満遍なく笑顔を作りながら、今度は私の背中をバシバシ叩きつつ言った。
「…あ、あぁ!なるほどー…あはははは!ちょっとぉー、琴音ー?そんな意味の訳無いじゃなーい。ライクよ、ラ・イ・ク!ラブな訳ないでしょー!もーう、おっかしー」
裕美のツボに入ったのか、大きな笑い声を上げ続けていた。閑静な住宅街に裕美の笑い声が反響して聞こえる様だった。
私はムスッとして見せていたが、ふと、今の内に話しておくべきだろうと思い至り、電柱に掛けられた街灯の下まで来たところで、私はふと立ち止まり、いつまでも笑っている裕美を呼び止めた。道路に楕円形の光の影が出来ている。その中心に立っていた。
「…あのね、裕美?ちょっと良い?」
「な、何よいきなり…」
急に真剣な面持ちになった私の表情に気圧されたか、裕美は途端に笑いを止め、不思議を露わに言った。
私は一度深く息を吐くと、ゆっくりと話し始めた。
「…この事はヒロと絵里さん以外に、誰も教えていないんだけど…あなたを信用して今から話そうと思う…のだけど、裕美、あなた、今から私が話す事を誰にも話さないと誓える?」
「な、何よ?藪から棒に…それって紫達にもって事?」
私は返答しなかったが、真顔で大きく頷くだけだった。裕美にはそれだけで、どれだけ大事な事を話されるのか認識した様だった。裕美は裕美で、さっきまでとは裏腹に、真剣な面持ちで答えた。
「…分かったわ。アンタがそこまで言うなら、他言はしない。…友達だもの」
裕美は恥ずかしさを押し殺しながら、最後のセリフを吐いた。
普段から友達だの友情だのという美辞麗句を、口にするのを”恥ずい”と嫌悪している裕美が、自らの口から覚悟を示すために恥ずい言葉を吐いたのだ。私にはそれだけで充分だった。
「…じゃあ、言うわね?実は…」
私はほとんど全てのことを話した。お父さんが義一の事を、憎むくらいに嫌っている事。でもこんな”なんでちゃん”の私を、その質問を含めて真正面から受け止めてくれたのは、義一だけだったってこと。だからどんなにお父さんが嫌がろうとも、私には義一が何よりも必要なこと。知識面だけではなく、精神面での支えにもなっている事。
ナドナドを大体…そう、十分少々かけて話したと思う。裕美は真剣な表情を変えず、間に茶々を入れる事無く、最後まで真摯に聞いてくれた。勿論、何で義一が嫌われているのかまでは、言わなかった。
…小学二年生の春休み、あの法事の晩、お父さんがお母さんに義一の事で怒りに任せて捲し立てていた晩。あの事がある種のトラウマとなって、中学に入った今でも鮮明に覚えていたが、何度も考えてる内に、お父さんが口にした事以外に大きな別の理由があるんじゃないかと、最近は思い始めていた。この問題は義一にすら話せない、という事は誰にも話せない問題、私自身で結論を出さなければいけない問題だった。そういう理由もあり、ヒロに話さなかったときとはまた別に増えた理由で、そこには触れなかった。
「…って事なの」
私が話し終えると、辺りはまた静まり返った。あるのは絶えず頭上から注がれる街灯の灯りと、目には見えずとも微かに秋の虫の鳴き声が、微かに何処からか聞こえていた。まだ八月だというのに、気の早い虫もいたもんだと、言いたい事を言い切ってスッキリした私は、変に呑気な事を考えていた。
「…うん。叔父さんとアンタ達家族の話は分かったけど」
裕美は言葉を慎重に選ぶように、ゆっくりと話し始めた。
「…で、その話を私に聞かせて、アンタは私にどうして欲しいの?」
裕美は真っ直ぐな視線を投げかけていた。そこには建前など許さない、本気の目だった。
私もその目に応えるべく、同じ視線を返しながら言った。
「…私が頼む事自体は、単純な事。…さっきも言ったけど、この話を誰にも言わないで欲しいの…”絶対に”。…私こんなんだから、この話をしちゃったアナタに対して、色々と相談する事があるかもしれないけど…お願い、誰にも言わないで?…お願い」
私は最後は力無くボソッと言い終えるのがやっとだった。ただ手だけは力強く、浴衣をギュッと握り締めていた。顔を伏せていたので見えなかったが、裕美は静かに私をジッと見ていたようだった。痛いくらいに視線を感じた。
「…琴音、顔を上げて?」
裕美は柔らかな調子で、話しかけた。雑音がほとんどない通りのせいか、小さな声だったが、私の耳にクッキリとした輪郭の言葉が届いた。
言う通りに顔をあげると、そこには柔らかな笑みを浮かべた裕美の姿があった。私と目が合うと、一度大きく息を吐いてから、言い掛けた。
「…琴音。…そんなに大事な話を、私なんかに話してくれて有難う」
裕美はクシャッとした笑顔を見せた。声は心なしか涙声のようだった。少し掠れている。
「…え?」
私は思いがけない言葉に声が漏れた。そんな私の声は、裕美以上に掠れていた。
「…そんな大きな話を、まさかこんな立ち話形式に話されるとは、思っても見なかったけど」
「…ごめんなさい。今しかないと思って…」
私はまた俯き加減に言った。そんな私を見ると、裕美は明るい調子で返してきた。
「…もーう!責めてる訳じゃないんだから、落ち込むのはナシにしてよ?…ほーんと、このお姫様は感じやすいんだから」
「…姫じゃないわ」
私は顔を上げると、ボソッとだが何とか突っ込めた。裕美は私のツッコミには何も返さず、悪戯っぽく笑うだけだった。私もようやく笑みで返せた。
「それはともかく…」
裕美はおもむろに歩き始めた。私も後をついていく。
「…わかったよ。アンタのことは誰にも言わない」
「…ありがとう」
私は裕美の隣に着くと、なるべく柔らかい口調を意識して返した。裕美は私の方を向くと、明るい笑顔を作りながら頷いた。
「…でもアンタって、やっぱり勇気があるなぁー」
「…え?」
裕美が急に放った言葉に理解が出来なく、間の抜けた声を出してしまった。裕美は一度私を向いてから、また進行方向に視線を戻して言った。
「…だって、私にはアンタみたいに、言っちゃあ悪いけど他人に対して、そこまで腹を割って話せないもの。…いやー、私が空っぽだからそれを誰かに知られたくないから、何も持っていない癖に隠そうとしちゃうのかも」
「そ、そんな事…」
『そんな事無いよ』と言いかけたが、口にしたらただ気を遣って、社交辞令的に取られかねない程に軽く聞こえるのを恐れて、言うのを止めた。
その代わり私は、絵里とあのマンションで、”色気”について話した事を思い出していた。
「…アンタはやっぱり、私と同い年なのに、色んなものをその体に詰め込んでいるんだろうねぇ」
裕美は私に優しい視線を投げかけながら言った。そして私の反応を見る前に、また視線を戻すと、ボソッと呆れた調子で言った。
「…だから…は琴音の事…」
「…え?何?私が何なの?」
私は正直自分の名前を言ったことしか分からなかったので、聞き直した。だが裕美は眉をひそめながら笑うだけで、答えてはくれなかった。
「…んーん、何でもないよ!私もアンタに負けないように、色々とこの身体に詰め込んでいかなきゃなぁって思っただけ!」
裕美は私の前にまた回り込むと、立ち止まり、さっきみたいにクシャッとした満面の笑顔を見せた。
「…何よそれぇ?意味が分からないわ」
私は言いながら、人差し指で裕美のおでこを軽く小突いた。
「イッタァー!」
裕美は私の隣に戻ると、オデコを大袈裟に撫でて見せていた。私は笑いながら、今度は自分の肩を裕美の肩に軽く当ててから言った。
「大袈裟なのよ、あなたは」
「なにをー…えいっ!」
裕美もお返しと、私に肩を当ててきた。数回繰り返すと、どちらからともなく止めて、お互いを労わるように笑い合ったのだった。
後は元通りに普段の私達に戻った。そして裕美のマンション前に着いたので、挨拶して別れることにした。
「じゃあ裕美、今日は色々と楽しかったわね?」
「…えぇ、色々とね?」
私と裕美は顔を見交わすと、またクスクスと笑い合った。
「…じゃあ、おやすみなさい」
「うん、おや…あっ!」
私が自宅への道を進もうとすると、裕美が声をあげたので、思わず振り返って聞いた。
「え?何?どうしたの?」
「あっ…え?あ、い、いやぁ…何でもないっ!おやすみなさい!」
裕美は誤魔化すように笑顔で大きく手を振ると、逃げるようにマンション内へ消えて行った。
「…何なのよ、まったく」
私は苦笑交じりに独り言ちると、気を取り直して家路を急いだ。

家に着いたのは九時半を少し過ぎたところだった。花火が終わったのが八時半過ぎくらいだったから、約一時間ばかり経っていた。でもお母さんからは、軽く遅い事を注意されただけだった。何故なら花火が終わった後、少し土手で話してから帰るかもと、予めに言っておいたからだ。それに地元の人は花火が終わっても、屋台がまだ出ていたりするので、すぐに帰ろうとはせずにグダグダとクダを巻いたりしていた。普段は夜になると真っ暗な土手も、花火が終わるとすぐに撤去作業が始まるというんで、その為の工事現場にある様な作業灯が、煌々と辺りを照らしているので、中高生くらいの子達はその間よく屯していた。
それらをよく知っていたので、少しお喋りしてくると言っても文句は言われなかった。それでも少し遅くはなったが。
お父さんは病院に出てると言うんで、私は早速浴衣を脱ぎ、風呂に入り、歯磨きなどの寝支度を済ませ、お母さんに挨拶をしてから自室に入った。風呂に入っていた時から、気持ちの良い疲れが全身を包んでいたので、余計な事はせず直接ベッドに入った。
ただ寝る前に、普段の習慣ってほどでもないが、スマホをチェックした。すると何件かメールが着ていた。絵里、義一、ヒロ、そして裕美の順番で着ていた。私は眠りそうなのを堪えて、着た順に見てみることにした。
まずは絵里と義一。何故二件を纏めたかというと、細かくは当然違っていたが、内容自体は同じだったからだ。『無事に家に着いたか?』『今日は楽しかったね』といった、大雑把に言えばそんな内容だった。私はまず二人に返信する事にした。私からも二件とも、同じ様な内容だ。『無事に帰って、今から寝る事』『今日は本当に楽しかった。またこんな感じで、みんなでまた遊びたいなぁ』といった内容だ。絵里にだけは、義一のことをサラッと滲ませておいた。
送った後に見たのはヒロからのだ。ヒロからのも大体二人と似通っていた。…が、一つだけ違っていた文章があった。その内容は…うーん、まぁいいか。それは私の浴衣姿を、褒める様な内容だった。何やら色々とぶっきら棒に書かれていたので、言わんとする所が掴めなかった。ただ一点だけ読んでいて、ニヤケた一文があった。そこには『馬子にも衣装』と書かれていた。私はすぐに、あの卒業式の情景を思い浮かべていた。勿論あの時だってワザと間違えていた訳だが、今回は正しい使い方(?)をしていたので、義一達に出したのと同じ様な文章を打った後、『今回は間違えず、よくできました』と付け加えた。はなまるのスタンプ付きだ。
最後は裕美だ。だが裕美のはメールでは無い。電話の着信だった。
私は横になりながら、早速電話をかけてみる事にした。
プルルルル、プルルルル。
何度か鳴っても出ないので、今日は諦めるかと切りかけたその時、ブツッと音がしたかと思うと、向こうから声が聞こえた。裕美の声だった。
「…あぁ、もしもし琴音ー?まだ起きていた?」
「…えぇ、一応ね。…もうベッドで横になっているけど」
「あぁー、そうなんだ?じゃあまた今度がいいかな?」
私は部屋の時計を見た。十時半になろうって刻だった。
「いえ、大丈夫よ。疲れてはいたけど、まだ眠れそうになかったもの」
「あははは!今日は楽しかったもんねぇー!私もあんなに大勢で集まってワイワイやるの、考えて見たら初めてだったよ!」
「ふふ、パーティーだったよね?」
「そう!パーティーだったよね!?…私初パーティだったからさぁー…ねぇ、アンタはした事あった?」
「え?パーティーの事?…うーん、極たまーにお父さんに連れられたことが…一、二度あったかなぁ?」
「あっ、そうなんだぁー。さっすが”お嬢様”は違うね!」
「だーかーらー、お嬢様じゃないって言ってるでしょ?」
「あははは!ごめんごめん!」
「もーう…」
「でもさ?…私にとっては初物尽くしで…今年の夏は忘れないと思うなぁ…」
「…えぇ、私も」
「またみんなで遊びたいわね?」
「そうねぇ…ところでさ?」
「ん?何?」
「いや『何?』じゃなくて、わざわざ電話してきたのは、何か私に用があったんじゃなかったの?」
私が聞くと、受話器の向こうでしばし沈黙が流れた。数秒してから裕美は、声の調子を少し落として言った。
「い、いやぁ…帰ってから風呂に入っていた時にね?今日の帰り、アンタと話したことを思い出していたんだけど、ふと絵里さんの事を思い出したの」
「…へぇ」
私もあの時に思い出していたが、アレはまだ裕美が絵里のマンションに行く前のことだったから、別のことを思い出しているんだろうとすぐに察した。
「ほら、アンタなら覚えていると思うけど…絵里さん、いつだったか言ってたじゃない?『大きくなると、一から恥ずい話しをするのが難しくなる。腹を割って相談の出来る友達が、出来にくくなる。だからあなた達二人はそんな恥ずい話をし合える、貴重な友達同士なんだから、今の関係を大切にしなさい』って」
「…うん、勿論覚えているよ」
「…うん」
と短く言った後、裕美は少し黙り込んだ。向こうで考えている様だった。私はジッと、小さなザーッという音を耳にして待っていた。しばらくして溜め息を吐く音が聞こえたかと思うと、変わらぬ調子で裕美の声が聞こえた。
「…さっき別れる時に言おうと思っていたんだけれど、面と向かってはなんか言えなくてさ…さっきも言った通り、アンタみたいにはまだ恥ずい事を素直に言えないのよ。…でも言わずにいたらモヤモヤしてくるし…もしかしたら明日になったら、忘れちゃうかもしれない…だから少し聞いてくれる?」
「…えぇ」
「…うん、ありがとう。…まぁここまで伸ばすほどの事じゃないんだけれど…アンタ、さっき話した中で端折ったでしょ?…叔父さんが何で嫌われているのか」
「…」
私が今度は黙り込んだ。先ほども言った様に、考えていた事だったからだ。まさかこんなすぐに指摘されるとは、思ってもみなかったから、度肝を抜かれただけだった。
私はすぐに落ち着きを取り戻すと、ゆっくりと、でもしっかりとした口調で返した。
「…うん、その通り。…でも勘違いしないで欲しいんだけれど、隠そうとしていた訳じゃないの。…まだ私の中で答えが出てないから、言えなかっただけ。…だからもし何かしらの答えが見つかったら、いの一番に言うから…それじゃダメ…かな?」
「…」
受話器の向こうは黙り込んだ。かすかに呼吸音が聞こえるだけだ。それだけでそこにまだ、裕美が居るのを感じられた。とその時、プッと息を吹き出す音がしたかと思うと、裕美は陽気な声で返してきた。
「本当にアンタは生真面目なんだから。…ダメも何もないよ。…私がわざわざこの話を振ったかっていうとね?…ほら、私もアンタにまだ話せていなかった事あったでしょ?…なんで面識の無かったアンタにワザワザ話しかけたのを」
「…えぇ、そういえばそうね」
「…ふふ、だからね?これである意味二人の立場はイーブンになったと思うの」
「…?…え、えぇ」
「だからね?…私の話もアンタの話も、前に桜の下で話した様に、お互いが大人に…うん、体だけじゃなく心も大人になった時に、その話をしようって約束したかったの。…どうかな?」
「…」
私はすぐには答えなかった。でも提案された瞬間、答えは自然と出ていた。裕美の言い回しなどを含めて、素敵な提案だと思った。
人それぞれ、赤の他人同士が仲良く一緒にいて、相手を気遣うことが増えれば増えるほど、良くも悪くも秘密が増えていくものだ。今はまだ二年以上の付き合いになったとはいえ、私達二人の関係は、まだまだ火傷するほど熱を持った、赤黒く光る鉄の様なものだ。少しの外的な要因衝撃に、鉄とはいえども容易に変形したり壊れたりする程脆い状態だ。
でもいつか必ずちゃんと熱が引いて、強い衝撃にもめげない程に練磨された鉄の様になった時、昔にやり過ごした宿題をこなそうという約束を誓い合うというのは、繰り返し言うようだけど素敵な事に思えた。
「…うん。勿論私は大賛成よ」
「…良かったぁー」
裕美は受話器越しにも分かるほど、安堵した様子で返した。
「…アンタはどう思っていたか知れないけど、あの桜の下での会話がずっと心に引っかかっていたのよ。…アンタに対して誠実に出来なかったんじゃないかってね」
「…ふふ、まだまだ柔いとはいっても、そこまで鉄は脆くはないわよ」
「…ん?鉄がどうしたって?」
「んーん!なんでもなーい!」
私は言うと、一人クスクス笑った。
「…?まぁ、いーや!…じゃあ二人で話せるように、お互いに早く大人になろうね?」
「…えぇ、お互いにね」
それから私達は明るく笑いあった後、軽く挨拶して電話を切った。私は先程までとは違って目が冴えてしまったが、ベッドから出る気は起きず、そのまま仰向けになり天井を無心で見つめていた。こうして、中学に入って最初の夏休みは幕を閉じた。
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