第10話 裕美

文字数 10,411文字

キーンコーンカーンコーン。
「…はい、じゃあ今日はここまで!」
素っ気なく言い放ち先生が部屋から出て行くと、各々それぞれの生徒達が片づけ始め、バラバラに部屋を出て行った。私はふと、この前お母さんに買ってもらった、淡いピンクのベルトで、時計本体が気持ち小さめの文字盤に目を落とした。夜九時を少し過ぎた所だった。
 さて、私も早く帰るか…。
建物から外に出ると、御茶ノ水という所謂都心部の筈なのに、雑居ビルが多いせいなのか、そしてそのビルに人のいる気配があまり無いせいなのか、寂しい雰囲気だった。街灯の数も少なく、辺りは私の住む近所と変わらないくらい暗かった。最もそれも選んだ理由の一つだったから、別に文句どころかむしろ有り難かったくらいだ。
 あの後お母さんにランドセルの中からクリアファイルを出し、その中に入れていた紙束の一枚、義一に先に言った塾のパンフレットを出して、通うならここが良いと話した。お母さんは何でそれを持ち歩いているのかは特に聞かず、私の主張をのんでくれたけど、表情はあからさまに曇っていた。やはりあの橋本とかいうお母さんの知り合いの子と同じ所に通わせたかったらしい。我ながら意地汚いなと思ったが、正直その様を見てほくそ笑んでいた。それからはすぐにお父さんにも話が通り、お父さんの方はうんともすんとも言わずに、ただ事務的に塾の登校手続きを手早く済ましただけだった。何やら最初に説明会やら、塾に入る前の学力を測るテストなどを受けたが、正直取り上げるまでも無いので割愛する。まぁ、そんなこんなで今私は、御茶ノ水の少し外れ、駅から子供の足で十分くらい歩く所に通っている。
 補足だが、いや私にとってはこっちが本論だけど、ピアノ教室の先生にこの事を相談したら、先生は私なんかより、当たり前っちゃあ当たり前だけど、お母さんの友達というのもあって、私の受験の話がいつ飛び出してくるか待ち構えていたらしい。まずお母さんが電話で軽く伝えて、次のレッスンの時に私からこの話を切り出した。私はお母さんに出された条件、両立出来なければ受験が終わるまでピアノを禁止にする事、それは本当に納得いかないしイヤだけれど、私は私なりに今まで以上に頑張るからという、聞かれてもいないのに決意表明に近い事を、静かに黙って聞いていた先生に対して宣誓した。
その途中から私は我慢していたのに、結局大粒の涙を流しながら、最後は涙声でグズグズになってしまった。先生は私の様子を見てギョッとしていたが、先生は優しく『大丈夫だから』と何度も呟きながら抱き締めてくれた。腕をほどき離れたので、一瞬先生の顔を見たら、私の思い過ごしかも知れないけれど泣いていたように見えた。
 話は変わるが、自分でもビックリなのはこの様な事だ。正直自分で言うのも変だが、私は私の事をもっと冷静で、ヒロが言う様に冷たい冷めた女の子だと思っていた。同級生の女の子が、私からしたら大した事でも無いのに、大袈裟に声を上げて周りの目も気にせずに泣きじゃくる様を見て、心の底からバカにしていた。そんな私が義一と再会してから半年経たないというのに、何度も泣いているような気がする。尤も義一との会話の中では、あまりに私の心の奥底を騒つかせるような話ばかりしていたので、自意識無意識どちらかどうかは別にして、今まで”良い子ちゃん”を演じて生きてきたその中で、押し込めてきた感情なりなんなりが刺激され、溢れ出してきてしまうことの結果で泣いてしまうのだった。それとやっぱり繋がりがあるのか、こうしてピアノに関しても、何か大事なものを侮辱されたと感じたり、守ろうとして気持ちが高ぶる時にも、気づくと泣いてしまうのだった。変な話前よりも、良くも悪くも余計に”感じやすく”なっていると自覚していた。
 
 ついでだからこのピアノの先生、今まで軽くしか触れなかったが、少しだけ踏み込んで話そうと思う。名前は君塚沙恵。歳は三十三歳だった筈。私もそこまで詳しかった訳じゃないし、先生自身があまり自分の過去のことを話さなかったから、はっきりとは言えないけれど、お母さんから聞いた話では、一応ソロで活躍していたピアニストだったらしい。この”ソロ”の意味は、どこか楽団に所属していなくても、コンサート会場を自分の名前だけで一杯に出来ると言う意味だ。そんな彼女だったが、二十代の後半、まだまだこれから、芸において油に油が乗るかという時期に、手首を怪我してしまったらしい。日常生活には支障がないレベルだったらしいが、繊細で正確な動きを求められる”ピアニスト”としては生きていけなくなってしまっていた。自殺まで考えたらしいが、共通の友人にお母さんがいて、彼女の今までの経緯と、これから生きるための目標を失い自暴自棄になってる旨を聞くと『あなた、私の近所で教室開きなさいよ? お義父さんが亡くなって、幾つか遊ばせてある持ち家の一つ、誰も借り手がいなくて困っていたのよ。あなたみたいな才能ある女の人がそれをフイにして生きるなんていけないわ!そうだ、それが良いわ!そうしましょう!』と半ば強引に彼女にそこでピアノ教室を開かせたらしかった。 お母さんらしいエピソードとも言える。それはともかくこの話を聞いた時すぐにハッと気付いた。なるほど、私がピアノを習い出した時と思い切りかぶっていたからだ。つまり、先生の第一号の”弟子”は私と言うことになる。 不肖の弟子だ。学ぶにつれて、私の熱心ぶりを認めてくれたのだろう、先生は私にそれとなくコンクールに出てみないかと打診をするようになった。私は勿論大の大人が、しかも私の数少ない好きな尊敬する大人の人が期待してくれるのは、子供ながらにとても嬉しかったし、この頃は全然自覚していなかったけれど、好きなピアノを、しかもその先生に認められたとあっては、感動も一入だった。でも私は何かにつけて、はぐらかして断った。これはただ単純に人前に自分を晒すのに、この頃から大いに抵抗があったからだ。先生は私が断るたび、少し寂しそうな表情を浮かべながらも笑顔で気にしなくて良いと言ってくれていた。今思えば、先生の事があんなに好きだったんだから、一度くらいコンクールに出てみてもよかったかも知れない。でも今となっては後の祭りだ。

 話がとても大きく逸れたが、結局放課後は塾とピアノのレッスンに費やされる様になり、学校の友達とブラブラ寄り道が出来なくなってしまった。でも幸か不幸か二学期の始業式以来、いつも一緒にいた女の子達とは疎遠になったとまでは言わなくても、放課後に遊ぶ約束を自然としなくなるくらいになっていた。学校でおしゃべりするだけだ。だからある意味すき間が塾で埋まり、結果オーライと言えばそうだった。

 今私は周りとぱっと見見分けのつかない雑居ビルの中から、同年代の子たちに紛れて外に出た。相変わらず目の前の大通りは車が引っ切り無しに通っていたが、人通りは疎らだった。今は十月上旬、すっかり秋空になって夜の九時ともなると、風が吹くたび若干肌寒かった。でも暑がりな私にとって、今までいた熱気の溜まった部屋から出てからのこの空気は、とても心地よかった。
一人静かに若干賑わう最寄りの駅まで向かっていると、急に後ろから声をかけられた。
「あ、あのー…」
「はい?」
と振り向くと、知らない女の子がそこに立っていた。今いる通りはまだ駅前ではなかったので、辺りは薄暗く中々相手の顔を判別するには難しい条件下だったが、少しの間見ていると段々どこかで見たことある様な気がしてきた。あくまで気がした程度だったが。鼻は少し低めだったが、目がクリクリッとパッチリしていて、全体的に”小動物”っぽい雰囲気を醸し出していた。綺麗系かカワイイ系かで聞かれたら、間違いなく後者に票が集まるだろう。髪の毛は男の子がするような短髪だったが、女の私から見ても可愛らしかった。服装を見てみても、私も同じ女の子だというのによく分からなかったが、上は薄ピンクのセーターを着ていて、下は赤チェックのハーフパンツに黒のニーハイソックスを履いていた。いかにも”カワイイ”といった服装だ。私は塾に行くだけだからと、上は似た様なもんだったが、下はピチッとしたジーンズを履いていただけだった。シンプルにして地味だ。
 私がジッと黙って見つめていたので女の子は少したじろいだが、あえて明るくしようと努めるように、笑顔で話しかけてきた。
「あっ、あの!…望月さんだよね?」
急に私の名字を言ってきたので、今度は私がたじろぎ余計に相手の顔をマジマジと見た。見覚えがある程度には感じてきたが、やはり思い出せない。
「えーっと…」
と私がいつまでも思い出さないのにやきもきしていたが
「もーう…まぁしょうがないか。喋るのは初めてだもんね?望月さんと同じ塾の…」
「え?…あぁー」
ようやく思い出した。塾のクラスで一緒の子だ。私の行ってる塾は、最初に受ける実力テストの結果で、いくつか作られているクラスに割り当てられる仕組みだった。勿論その後の成績次第で上がったり下がったりした。
「良かったー。やっと思い出してくれた」
「…」
でも正直変に思った。何でこの子私の名字を知っているんだろう?いや、授業が始まる前に軽く出席を先生が取るから、知ろうと思えば容易に知れるけど、よっぽどその人に興味がなければ覚えてなんか無いはずだった。何しろクラスの中では、同じ学校の友達同士だったらいざ知らず、まず塾に来て友達を作ろうとしている人は、少なくとも私が見る限りいなかった。
皆お互い干渉せずにいる感じだった。それはそれで私も心地よかったが。
「ちょっと、望月さん?」
「…え?」
「もーう、いつまでボーッとしてるの?こんな狭い道で立ち止まっていたら皆んなの邪魔でしょ?早く駅に行こう?」
「あ、あぁ…うん」
ごく当たり前な正論を言われたので、言われるがままに、何故か名も知らない女の子と一緒に帰ることになった。進行方向を向きながら横目でチラッと横顔を見た。カワイイ格好をしている割には、いわゆるガーリーな雰囲気は纏っていなかった。横から見ても中々意志の強そうな目力の強さが伺えた。口をまっすぐ横に真一文字にしているところからも分かる。身長は私よりも幾らか低かった。平均的と言えるぐらいだ。
 黙ってあれこれ分析したが、これ以上は埒が明かないと、ある種の勇気を振り絞って話しかけた。
「で、えーっと…」
「裕美よ」
「え?」
聞き返すと裕美と名乗る女の子は歩きながら私の方へ顔を向けると、悪戯っぽく笑いながら
「え?じゃなくて、裕美よ裕美。私の名前。高遠裕美」
と急に自己紹介をしてきた。私も思わず名前を名乗った。
「あ、私は望月…望月琴音」
「うん、知ってる」
とだけ言うとまた視線を進行方向に戻した。今度は私が顔を高遠さんに向けて聞いた。
「知ってる?…知っているってどう言う意味?」
「だって…同じ学校だもん」
高遠さんはまた悪戯っぽく笑いながらこちらに顔を向けて答えた。
「え?…そうなの?」
こんな子ウチの学校にいたかしら?
丁度大きな通りを渡る駅前の横断歩道の前で立ち止まった。ようやく周囲が明るくなったので、ハッキリとその輪郭が露わになった。さっき分析した時と印象は変わらなかったが、やはり見覚えがない。
「あっ、ほら望月さん!信号青だよ」
「あ、あぁ…うん」
どんどん先に歩いて行く高遠さんの後を理由もなくついていった。

 帰宅ラッシュなのもあるのだろうか、帰りの電車は身動きが取れない程の鮨詰め状態で、碌に会話も出来ない状態が続いたが、ようやく地元の駅に着いて外に出ると、やっと一息が付けた。
改札を出ると、高遠さんは大きく伸びをしながら言った。
「うーーーーん、やっと自由になれた!やっぱり帰りの電車のアレには中々慣れないよね?」
「う、うん。そうだね」
「望月さんて、ここからどっち方面?」
「私は…あっち」
私は素直に帰る道の方向を指差した。
「あっ、おんなじだー。じゃあ途中まで一緒に帰ろ?」
「え、えぇ…」
戸惑う私を尻目に、裕美はどんどん構わず先へと歩を進めて行った。私も仕方ないなと、それでも従順に付いて行った。先程の通りみたいに薄暗い路地を歩いていた。裕美は軽く今日の塾の授業について話しかけていたが、聞かない訳にもいかないので話を打切り、聞いてみることにした。
「で、そろそろ教えてくれない?」
「ん?何を?」
高遠さんは先ほどと同じ笑みを浮かべながら返した。
「いや…こう言ってはなんだけど…悪いけど私、高遠さんのこと見たことないんだけど…」
と言うと、高遠さんはさも意外だって表情を作り、その後大きく肩を落として見せながら言った。
「えぇー…私自分で言っちゃあなんだけど、結構目立つと思うから、見た事ないって言われると、なんだかショックだなぁ」
「あ、いや…」
そう、それがまた謎を呼んでいた。本人は半分冗談で言っていたが、確かに目立ちそうではあった。何しろ見た目がショートヘアーなのに、女らしさを失わない可愛らしさだけじゃなく、喋り方を聞いてみても、いかにも快活な明るい女の子といった感じで、私は彼女と初めて会話した時、真っ先にあのヒロを思い浮かべていた。二人ともいわゆる”ムードメイカー”気質だった。「…ごめん」
と一応謝ると、高遠さんはすぐに無邪気な笑顔に戻って返した。
「冗談冗談!でもそっかー、運動会とかで目立っていたつもりだったから意外だったよ。色んな人が私に声を掛けてくれるしね。まぁでも、同じように目立つ人からすれば気にならないのかも知れないなぁ」
「…え?誰が?誰のこと言ってるの?」
と聞くと、高遠さんは足を止め、顔を私の顔に近づけ、人差し指を私の鼻先のすぐそばまで近づけながら
「望月さん、あなたよ、あ・な・た!もーう!」
と言い終えるとまた歩き出した。私は慌てて追いかけながら聞いた。
「え?私?何でよ?全然人前に出るような事はしないでいたのに、目立つはずないでしょ?」
と追いついて隣を歩きながら言うと、高遠さんは苦笑いを浮かべながら首を横に振り、やれやれといった調子で返した。
「はぁ…あのね?これは私だったから、ただ呆れられるだけで済むだろうけど、他の同級生の女の子に言ってみなさい?すごい嫉妬に会っちゃうから」
「そんなこと言われても…あぁ、一度合唱コンクールでピアノを弾いたけど、あれで悪目立ちしちゃったのかな?」
途中から高遠さんのことを忘れて考え込んでしまうと、高遠さんは一度大きく吹き出し、笑いながら言った。
「あははは!悪目立ちって。望月さんてこんなに面白い人だったんだね?」
「え?そ、そう?」
「うん。…まぁ今望月さんが言ったようにあの時の、地域の学校共同主催のコンクール。あの時の望月さん、綺麗なお姫様みたいなドレスを着て、しかもサラッとピアノを上手に弾いちゃうもんだから、アレでファンは激増したとは思うけど」
「い、いや、ファンって…」
私の弱々しい反論には耳を貸さずに、高遠さんは続けた。
「そんなことがなかったって、普段から登下校の時、男子たちからチラチラ見られているのに…あんたは気付かなかったの?」
「うーん…どうかな?」
私は急に馴れ馴れしく”あんた”と言われた事は一切気にせず、頭の中が少し混乱になりながらも、馬鹿正直に普段の学校の情景を思い浮かべていた。
「とにかく!」
高遠さんは私がウジウジと考えながら出している、ジメジメとした空気を払拭するように声を出した。
「だから私は望月さんの事を知っていたの。でもクラスも違うし、話すこともないだろうなぁって思っていたら、まさか同じ塾に、しかも地元じゃないのにそこで会うなんて、これは運命だろうって思い込んじゃったから、思わず今日勇気を振り絞って声を掛けたって訳!」
と語尾を強く言い切ると、高遠さんはいつも登校の時前を通るマンション前で足を一度止めた。そして前触れも無く、一気にマンションの正面玄関前まで駆けて行った。
「じゃあ、またね望月さん!次は学校で会いましょー!」
と、ポカーンとしている私に向かって大きく手を振り、オートロックの鍵を開けて振り返ることなく中へと消えていった。私は見られてもいないのに小さく手を振り返していた。
「…何だったのよ、あの子は」
 
「あっ、おはよう!」
「…高遠さん」
翌朝通学路を歩いていると、高遠さんが自宅のマンションの前から私に声を掛けてきて、反応を見る前に駆け寄ってきた。
「おはよう」
「何?元気がないね?朝は弱い方?」
「いえ…普通だと思うけれど」
私達は二人並びながら仲良さげに学校へと向かった。
「昨日は望月さんに声を掛けれたってんで、すぐに眠れなかったよ」
「…大袈裟ね…」
私は若干、いや大いに引き気味に返した。その様子を高遠さんは気にする気配がない。
「あ、そうだ!」
と、高遠さんは今何かを思いついたように、これまた大袈裟に声を出して見せた。
「何?」
「これはいきなりでどうかと思うけど…」
「何よ?」
私が聞くと、高遠さんはさっきまでの快活な態度から急変して、照れ臭そうにホッペを掻きながら辿々しく言った。
「…昨日の今日だけど…望月さんの事、琴音ちゃんって呼んでいいかな?」
「え?」
「あ、いや…嫌ならいいんだけど…ほら、私達の名字って長いじゃない?”たかとお”と”もちづき”って四文字だし…下の名前だったらお互い”ひろみ”と”ことね”三文字でしょ?だったら短い方がいいかなって…舌を噛まずに済むし」
と最後に高遠さんは舌をめいいっぱい出して見せて、それを指差しながら言った。私は何言われるんだろうと気構えていたが、ただの名前の呼び方、しかもその理由の阿呆らしさ加減に、私は小さく吹き出し、笑顔になりながら答えた。
「…ふふ。何を言い出すかと思えばそんなこと?」
「…えぇー、そんなことって…かなり重要だと思うけど」
高遠さんは膨れて見せていた。
「ごめんなさい?…そうねー…良いよ!」
「本当!?」
高遠さんは嬉しさを顔中で表現しながら聞いてきた。
「本当よ。あなたのその、そう呼びたい理由にやられたわ」
と私も笑顔で答えた。
「じゃあ私のことも”裕美”って呼んでね?」
「うん、分かったよ裕美」
「うん!琴音ちゃん」
 今考えて見ても不思議だけど、昨日までは、向こうは私のことを知っていたみたいだけど、話した事のなかった者同士、普通に考えれば急に仲良くなる事は無いんだろうけれど、この頃の年代のせいなのか、気軽に下の名前で呼び合うようになっていた。まぁ尤も、私自身は呼び方について、そもそもそこまで抵抗がなかった。何しろ叔父さんを義一さんって下の名前で呼んだり、頼まれたからとはいえ年上の女性に絵里さんと、これまた下の名前で呼んだりと、そういうある種、特殊な私の性質にも依るところがあったんだと思う。それに裕美、私から見てもあまりにも他人との距離の取り方が、上手いとはお世辞にも言えず、ある意味下手に見えた。他の例を知らなかったから断言出来ないが、少なくとも私に対する態度はかなり人を選ぶと思う。
でも、これも後になって気づいた事だが、こういう遠慮なくグイグイ踏み込んで来るタイプの方が私には合ってるように思えた。クラスメイトや、仲良しグループの子達、勿論それなりに楽しく過ごしていたが、何処かみんな私に、自覚があるかはともかく、遠慮しているように感じていた。何か壊れ物を扱うように。私は私で、しつこいようだが、大人しい普通の女の子を演じていたつもりだったから、そもそもこっちが心を開かず余所余所しいんだから、そうなるのも無理はないと納得していた。それが今度のはコレだ。今まで周りにいなかったタイプだった。…いや、ヒロがいるから二人目か。女の子では初めてだった。

 それからは昨日の塾から出された宿題の話などをしていたが、ふと急に背負っていたランドセルを強く数回叩かれた。こんな事をするお猿さんは奴しかいない。ヒロだ。
「よっ琴音!今日も冷めてるかぁ…って、おぉ!」
と私に声を掛けたかと思うと、隣を歩いていた裕美に視線を移して、さも意外そうに言った。
「これまた意外な組み合わせだなぁ。高遠じゃんか」
「おはよう、森田くん!」
ヒロの方を見ると、テンションを上げながら裕美は挨拶をした。
「何?二人共知り合い?」
と私が二人の顔を見ながら聞いた。裕美が答えようとする前に、ヒロが割り込むような形で答えた。
「おう!同じクラスだぜ!なっ?」
「うん!」
裕美も笑顔で明るく答えた。
「ふーん、そうなんだ」
「そういうお前らは何なんだよ?」
と今度はヒロが私達二人を見ながら聞いてきた。
「二人は同じクラスになった事ないだろ?それに仮に同じクラスでも、片や暑苦しくて、片や凍えるほど冷たい…そもそも接点がある無し以前に、仲良くなる理由がないだろ?」
「ちょっと!どういう意味?」
私達二人はほぼ同時に、ほぼ同じ内容でヒロに非難した。二人は顔を見合わせて一瞬キョトンとしたが、すぐにクスクスと笑い合った。ひとしきり笑うと裕美が答えた。
「私達同じ塾に通っているの。そこで初めて会話してね、それで仲良くなったの。ねっ、琴音ちゃん?」
「あ、うん。そうだね。そんなところ」
昨日初めて話したことは伏せた。
「ふーん、そっか…高遠、コイツかなり変わっているけど、根は悪い奴じゃないから仲良くしてやってくれよな?」
ヒロは誰目線なのか、偉そうに腕を組みながら裕美に話していた。裕美も大きく笑いながら
「あははは!分かったよ森田くん、任せといて!」
と元気に答えていた。黙って聞いていたが、私も我慢が出来なくなって言い返した。
「裕美、こちらこそヒロをお願いね?こんなお猿さんと同じクラスじゃ何かと大変だろうけど、こう見えてもしっかり躾はされてると思うから、危害はないと思う」
「おいおい」
とヒロは顔中に不満を滲ませながら抗議してきた。
「まるで俺を猿みたいに言うんじゃねぇよ」
「あら、違うの?」
私は澄まし顔で答えた。
「だって出会い頭に毎度毎度私のランドセルをバンバン叩いてくるもんだから、文明の言葉を使えないお猿さんだと、今の今まで思っていたわ。ごめんなさい」
と最後は深々と大袈裟にお辞儀をして謝って見せた。
「おいおい…」
「あははは!」
私達二人のやり取りを見ていた裕美は、大きく笑い声を上げていた。それを見てヒロは頭を掻き、私は釣られてクスクスと笑っていたのだった。
 
 それからというもの、すっかり何かにつけてこの三人で過ごす事が多くなった。仲良くしていた女の子達とも、クラスの中で軽く挨拶をするくらいで、それ以上親しくすることも無くなった。
 今振り返ってみると、少し何かボタンのかけ違いがあったら、ハブられたりとかイジメにまで発展しかねなかったように思う。当時は別にこれで疎遠になるならそれでいいと軽く考えていたが、思い返すと、私が連んでいた女の子達はある種のスクールカーストの上位者で、私のクラスでは目立つ方だった。
 子供のくせに、カーストだの何だの下らないと大人は思ったりするだろう。大人は確かに仕事場などで人付き合いに失敗して居づらくなっても、最悪そこを辞めればどうにかなる。勿論辞めたくても辞められぬ、大人なりの事情があったりして、容易に言ってはいけないかもしれないけど、ある程度は自由の利く立場にある。でも子供は、まだ大人の庇護の下でなければ生きていけない。それも”学校”なんていう、外には出られぬ”箱庭”で、朝から夕方までいつも同じ子供達と過ごさなければならない。その狭い社会の中で人付き合いに失敗した時、何か運よく、まぁ私のように、好きなもの、熱中出来るものが見つかれば、周りを気にせずそれに打ち込めば済む話ではある。
でもそんな運が良いのは、全体のうちのごく僅か。大抵は自覚あるかはともかく、誰かに嫌われてはいないか、どこかで自分の悪口を囁かれていないか、体があんなに小さくて経験も乏しいのに、日々あれこれ余計なことを考えて過ごしている子もいるのも事実だ。
 話を戻すと当時私は目立つとか何とか何も考えずに、周りに集まって来てくれる人達くらいの意識しか無かったが、もし彼らに逆恨みにでもあったらと思うと、口先では何でもないと言ってはいても、やっぱりそんな状況になったらと思うと背筋が寒くなる。
 私の中ではやっぱり”裕美”という友達が出来たのが大きかった。出会いは摩訶不思議というか、この時はまだ何で裕美が私に声をかけて来たのか、よく分からなかったし腑に落ちていなかったけど。
 私と全く真反対のタイプだ。ヒロの言葉を使うのは癪に障るけど、キャラを作らない時の私は端から見て、感情を表に出さず、話す言葉の節々に嫌味や毒を練り込まずには居られない、良く言って”冷静沈着”、悪く…いや普通に言ってただの”冷たい女”だった。それに比べて裕美は、一言で言えば”女版ヒロ”だった。明るくサッパリしていて、勢い満点な所なんかは特にそうだ。裏表ない長所も同じだった。ヒロは”暑苦しい女”と、鏡を見てみろと突っ込みたくなるようなことを言って裕美を称していたが、正直そう思う事が無きにしも非ずだったけど、でも私なりに言えば”温かい人”だった。この一言に尽きると思う。まぁヒロに対してと同じで、裕美にも絶対に言ってなんかあげないけど。
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