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文字数 4,141文字

「トシエちゃーん、来たよ~」
 通夜の日から二週間ほど経過した日。内海と崎は午前中から遺品整理に来てほしいと言われた家を訪れていた。
 青い屋根の、平屋の古い小さな家だった。家の外にはプランターがたくさん並んでいるが、その中のものは手入れができていないのか枯れているものや雑草が多く生えているものが多かった。
 崎は玄関の呼び鈴を押した後に戸をがらがらと開けて、大きな声で依頼主を呼ぶ。数秒置いて、
一室の引き戸が開き、中から腰の曲がった白髪の老婆が出てきた。
「いっちゃん、来てくれてありがとうねえ。お友達さんもありがとう。お名前は?」
「内海です。内海満弦。適当に呼んでもらって大丈夫です」
「俺はミミちゃんって呼んでるよ。でも結構みんな、いっちゃんに合わせてみっちゃんって呼んでるかも」
 崎が補足をする。町の人の手伝いに行くと、崎の言うとおり崎の「いっちゃん」という呼び方に合わせてみっちゃんと呼ばれることが多い。トシエと呼ばれた老婆はにこやかにゆっくり、二三度頷いた。
「それじゃあみっちゃんといっちゃん、どうぞお、中に入ってくださいな」
「はーい。トシエちゃん、シゲさんにお線香あげてもいい?」
「あら、いいのお?」
「うん、シゲさんに来たよーってご挨拶して、シゲさんの持ち物、整理するよって話したい」
「わざわざ悪いわねえ」
「いいのいいの。これ、御仏前にお供えしてもいいかな」
 崎は、片手に持っていた紙袋をがさりと鳴らして軽く持ち上げて示す。中には箱菓子が入っている。昨日のうちに用意したものだ。
「あら、本当に悪いわねえ、気を遣わせちゃったわ」
「全然。気持ちだけだけど」
「ありがとうねえ」
 トシエのが礼を言う穏やかな声を聞き、内海はなんだか切ない気持ちになった。他に遺品整理を手伝ってくれる家族もいないという、ひとりきりになってしまった老婆だ。やさしくやわらかにありがとうと、共に過ごした夫の荷物を片付けに来た人間に言うのだ。その声がやさしければやさしいほど、なんだか胸がきゅうと締め付けられるような心地になる。
 崎はというとあまり普段と調子は変わらない。内海はトシエとも、亡くなったシゲという人とも面識がなかった。それでも、人がひとりいなくなった家の空気に少し心が重くなったような気分でいるのだ。きっと元から交流のあった崎はもっとだろう。伴侶を亡くしたばかりのトシエの手前、いつも通りに振る舞わなくてはと努めているのかもしれないが、無理に明るくしようともせずに自然に話す態度になんだかこちらも救われるような、それでもそれもまた少し切ないような気持ちになった。
「それじゃあお邪魔します~」
「お邪魔します」
線香のにおいに満ちた家の中、ふたりは足を踏み入れた。


「まずは服からいこうかしら。まだ着られるものも多いんだけど、おじいさんの服なんて売ったりしても着る人がいないものねえ。タンスのこっち側、全部捨てちゃってもいいわ」
 仏壇に供え物を置いて、内海と崎が手を合わせてから、トシエは先ほど出てきた部屋の奥へふたりを招き入れた。寝室らしいその部屋には大きな洋服ダンスがふたつ置かれている。そのうちのひとつを撫でながらトシエが言った。
「全部? いいの? シゲさんのお気に入りのものとかとっておかなくていい?」
「いいのよお。まとめて一気に捨ててしまいましょ。あとはねえ、布団と靴と、本と、それくらいかしら。趣味らしい趣味もない人だったから、物もそう多くないかもしれないわ」
「そっかあ」
 トシエが緑色のゴミ袋を広げ、崎と内海に持たせる。トシエは部屋中を見回すと、そうねえと呟いた。
「タンスの中のものは捨てちゃっていいけど、他のいるものといらないものは私が仕分けるから、いらないって言ったものはどんどん捨てていってちょうだい」
「りょうかい~」
 ゴミ袋をがさりと開きながら崎が返事をする。内海も真似をして袋を開き、すぐに片付けに取り掛かった。
 タンスの中には着古したレトロなデザインの洋服から、パジャマや肌着、お出かけ着と思われる洒落たもの、礼服やスーツ、なんでも入っていた。
 肌着から順にゴミ袋に入れていると、その手を止めた崎がトシエに声をかけた。
「……このタンスの中の服って、トシエちゃんがさ、シゲさんにあげたものとか、思い出のものもあるんじゃないの? いいの? 俺らが全部捨てちゃって。トシエちゃん、ひとつずつ見なくていい?」
「あらあ、いいのよお。せっかくわざわざ来てもらってるんだもの。パパッと早く済ませちゃいたいでしょう。気にしなくていいのよ、残しても私が着られるわけじゃないものね」
「……そーお?」
「ええ、いいのよ」
 ありがとうねえ、とまた言われた言葉に、内海はなんだかうっかり涙目になってしまった。本来ならばゆっくり時間をかけて思い出に浸りたいだろうに、自分たちが来たせいでその時間も取れずに強制的に思い出を排除するようなかたちになってしまった。本人が依頼してきたとはいえ、本当にこれでよかったのだろうか。
 隣の崎は、少し黙ってからまた作業を開始した。しかし、タンスの中から凝ったデザインのものや、気に入っていたのかたくさん着た形跡はあるが大事に手入れされているものなどを見つけるたびにトシエににこやかに声をかける。
 これおしゃれだね、この服シゲさんよく着てたよね。さっき手編みのセーターあったよ、もしかしてトシエちゃんが編んであげたんじゃないの、など。するとその都度、トシエは思いで話をしてくれた。それから、やっぱりそれは捨てないで、とトシエが言う服がいつくかあった。
 やはり勝手に捨てるべきではないものばかりだったのかと思い、こうしてトシエに声をかけた崎に感心する。ここに手伝いに来ていたのが自分だけだったらどうしていただろう。このように気遣ってあげられただろうか。余計に感傷的にさせるのも心苦しくなって、何も言わずに捨てていただろうか。とにかく、崎がいてくれてよかった。何も知らない自分だけが処分していいものではなかったのだ。老夫婦との交流があり、気遣いのできる人物が隣にいることを心の中でありがたく思った。

 結局はやはり勝手に捨てていいものとの区別がつかず、三人でゆっくりと仕分けをしながら整理をすることになった。ひとつひとつを確認しながら作業をし、合間合間にトシエから思いで話を聞く。時折、トシエが言葉を詰まらせ目に涙を浮かべることもあった。崎はその背中を撫で、内海は黙って見守った。
 ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて思い出と決別をしていく。この家を訪れたのは午前だったが、昼食を挟んで午後までじっくり時間をかけて整理をした。捨てると決めたものを袋に詰め、ゴミ捨て場に運ぶために崎の軽トラックに積み込む。
「……捨てられなかったもの、結構あったわねえ」
 寂しそうに笑うトシエの背を、崎がゆっくりさすった。
「全部大事なものだから。捨てなくっていいんだよ。また、何かあったらすぐ電話して。家の電話で出なかったら俺の携帯にかけてもいいからさ。……大丈夫? 俺たち、夜まで一緒にいようか?」
「大丈夫よお。時間かけさせちゃってごめんねえ。これ、よかったらふたりで食べてちょうだいね」
 そう言うとトシエは玄関の横に置いていたダンボール箱を運ぼうとした。中には結構ものが詰まっている。トシエが運ぶには重いだろうと、内海がすぐそちら側に近寄った。
「お葬式でもらったんだけど、私一人じゃ食べ切れないから。よかったらもらっていってくれると助かるわ」
 ダンボールの中には缶詰やフルーツ、缶ジュースやコーヒー、ビールなどがたくさん入っていた。
「トシエちゃん、いいの? 缶詰とか長持ちするよ、俺らもらっちゃっていいの?」
「いいのよお。たいしたお礼もできないんだもの。私、お酒もジュースも飲まないしねえ。それくらいしか渡せないけれど。もらってちょうだい」
「……じゃあ、もらうね。ありがとうね」
「ありがとうございます」
 もらったダンボールを内海が荷台に積み込む。それから、トシエに挨拶をしてふたりで小さな家を後にした。


 帰り道の車内、普段ならば減らず口が止まらない崎だが、今日は静かだった。左手でハンドルを握り、右手は窓辺に肘をかけて頬杖をついている。
「……ちょっとだけ山寄っていい? 陽が落ちる前まで」
「いいよ」
「ありがと」
 そう短く会話があった後、崎はトラックを山のほうへと走らせた。
 車を停めて少し歩いて、やってきたのは崎と初めて会った場所だった。夕焼けで空が赤く染まり始めた景色を眺め、転がっている丸太に崎が腰を下ろす。その隣、少しだけ距離をあけて内海も丸太の上に座った。
 静かに、静かにただ夕焼けを眺める。木々の葉の音、鳥の声、それだけが響くなか、崎が小さく声を発した。
「……ここさ、じいちゃんのお気に入りの場所だったの」
「そっか」
「じいちゃんいなくなってからも、ちょっとしんどいかもってときは俺ひとりでここ来てさ。こうしてぼんやり景色見てから帰るの」
 季節は夏が訪れたが、夕暮れ時の山の空気は冷えている。肌寒いとまではいかないが、肌にあたる風は涼やかで心地いい。
「じいちゃんのお気に入りの場所だし、俺はここに花畑作りたいんだよね」
「……ここって崎んちの土地なの?」
「いや、違う。持ち主わかんないや。他に誰かがいたの見たことないし。持ち主らしい持ち主はいないんじゃないかな」
「勝手に花植えていいのかよ」
「不法投棄するより花植えて自然豊かにした方がいいでしょ。ミミちゃんもなんか植えてよ」
「気が向いたらな」
「あーそれ植える気ないでしょ」
 あはは、と力なく笑ったあと、崎はまた景色を眺め始めた。
「トシエちゃんひとりで大丈夫かな」
「……また会いに行ってあげよう」
「そうだなあ」
 太陽は赤々と燃え、遠くに見える山々の向こう側にゆっくりゆっくりと沈んでいく。数瞬ごとに変わっていく空の色を眺めながら、内海は黙って崎のそばにいた。
「じいちゃんに会いてえなあ」
「ここはシゲさんじゃないのかよ」
「はは、どっちにも会いたいよ」
 ず、と鼻をすする音が聞こえた。内海は何も言わず、崎の顔も見ず、黙って背中を一度だけさすってやった。
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登場人物紹介

◆内海 満弦《うつみ みつる》

男性。いろいろなことに疲れてしまった。

◆崎 出帆 《さき いずほ》

男性。山で不法投棄と証拠隠滅を図る。

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