─1─
文字数 2,450文字
今日がいいよ。今日にしよう。
耳元できゃらきゃらと笑う声が聞こえた気がした。その声が軽やかに、やわらかに、そう言った気がした。そうだね今日がいい。今日にしよう。内海満弦 は己の命を絶つ日を決めた。
内海は少し迷った末、パスケースと財布と家の鍵を掴んで家の外に出た。薄暗く空気の冷えた玄関から一歩外に出ると、ふんわりとした日差しと、その陽の光であたためられたぬるい香りが体を包み込む。扉を閉めた後、目を閉じてその空気をすうと吸った。春の空気は好きだ。乾いたアスファルトと濡れた土の香りが混ざって、気怠そうに世界に漂っている。
履き潰したアイボリーのキャンバススニーカーはやさしく内海を外の世界に運び出してくれた。空はペールブルー、実に穏やかな日和だ。こんな日に街を騒がすのは少々しのびない。それと賠償金が発生するだろうから、できれば線路に飛び込んだりなどはしたくない。どこか高いところから飛び降りたり、賃貸アパートである自室で最期を迎えるのもきっと同じことだ。自分がいなくなった後、ひとり取り残してしまう姉に迷惑はかけられない。
ならば海と山、どちらに行こう。ほとほとと歩きながら思案する。ふと視線を落とすと、道の端にはたんぽぽが咲いていた。その他にも小さな水色の小花や紫色の小花が咲いていて、きっと山にならもっとたくさんの花が咲いているのだろうと思った。ならば山にしよう。春の花々に見送られて生涯を閉じるのも悪いものではない。
さて、ではどうするか。スマートフォンは家に置いてきてしまった。近場の山というものもわからない。とりあえず山ならどこだっていい。最後なのだし、少しくらい遠くへ行ったっていいだろう。自殺の名所、と言われても今まで実際に行動に移そうと思ったことなどないのだから、そんなものも知りはしなかった。
とにかく、ここから離れられたらそれでいい。長距離バスにでも乗ってしまおうか。財布なら持ってきた。途中で旅行者向けのガイドブックでも買えば、自力で行けそうな山やら谷やらくらいなら載っているのではないだろうか。
そのくらいの軽い気持ちの気ままさで、内海は最寄り駅に向かった。それからターミナル駅まで電車を乗り継ぐ。本日は土曜、時刻は十時を過ぎた頃。車内にはこれから休日を満喫するのであろう人々が多く乗っている。空気は朗らかで、浮かない顔をしている者はいない。皆、いい休日になればいいなとぼんやり思った。いい日になればいい。自分も今日はいい一日を過ごして、それで気持ちが満たされた状態で終わりを迎えたい。そんな日が、そんな人生があったっていい。
電車に揺られて一時間もせずにターミナル駅に到着する。改札を抜けて、駅の裏手にあるバスプールに向かった。
乗車案内窓口でバスの時間を尋ねる。本日出る予定の高速バスを数本教えてもらい、その中から適当にひとつのバスチケットを買う。少し北に向かうことにした。特に思い入れがある場所でもないが、思い切りよく遠くのチケットを買わないあたりの踏ん切りの甘さに自嘲する。それでも、いいのだ。バスだって乗っている時間が長すぎては体が痛くなるだろう。と、これから身投げをするつもりなのに体のことを労わってしまったことにもまた少し口元がゆるむ。
チケットを買ったバスが出るまで、三時間ほど。手元には時間を潰せるものはない。かといって時間が来るまでぶらつこうという気持ちにもならなかった。ぼんやり、ただぼんやりと、通路を行き交う人々や次々に滑り込んできてはすぐぬるりと発車するバスを何台も、待合室の中でじっと座って見送った。
ようやくやってきたバスに乗り込んで、席に座る。乗客はまばらだ。バスの車内では外の音が遮断され、空間そのものの音が少しくぐもったように聞こえるのが不思議だった。バスなどしばらく乗っていない。電車とは違う独特の雰囲気がなんだかおもしろかった。
ぼんやりと、薄水色のフィルムがかけられた窓から外を眺めていると、ほどなくしてバスが発車した。車窓から見える景色がゆるやかに流れていく。何度も利用した駅を外から眺め、何度も歩いた道を見下ろす。これがこの景色を見る最後の機会になるのだと思うと、ここも、そして家の最寄りまでの景色ももっと見ておくべきだったかと思った。じわり、じわりと感慨深さが滲んでくる。これから行く場所は知らない土地だ。不安は、少しだけあった。辿り着いた土地でもこの見慣れた景色の面影を探してしまうのだろうか。座席の背もたれに身を預け、ほうとため息ともとれない息をついた。きっと大丈夫。すべてうまくいく。そう自分に言い聞かせ、膝の上で握り合わせた両手で自らの指を撫でた。
見慣れた街から街の外れへ、それから初めて訪れた高速道路へ。窓の外を見るともなく見ているうちに、気が付いたら寝入ってしまっていた。どうやら車内での居眠りというには深く眠っていたらしく、目的地までもう少しのところだった。バスの前方に表示されているデジタル時計によれば現在は十六時の少し手前。もうそんな時間だったのか、と驚いているうちにバスは高速を下りて一般道に入った。ぽつりぽつりと民家がある田舎道。それから少し走って、少しずつ景色が栄えてきて。都会のような高層ビルはないが、それなりに賑やかな街並みの中をバスが通ってゆく。
このバスに乗ったバスプールと比べると随分小規模で、そしてレトロささえ感じられるバスプールに車体がゆっくりと入り、屋根と時刻表のポールがある一画に着くと、ぷしゅう、と音を立ててバスが停車した。乗客たちがのっそりと立ち上がり、出口に向かう。内海はその様子を眺め、この人たちはどこに向かうのだろうかとその背を見送り、それから一番最後にバスを降りた。
見知らぬ土地でも、春の空気は変わらなかった。
胸いっぱいにそれを吸い込んで、一歩、足を踏み出す。ほかでもない、死へ向かう旅路を。
ぬるく、おだやかな風が静かに吹いて、背中を押してくれたような気がした。
耳元できゃらきゃらと笑う声が聞こえた気がした。その声が軽やかに、やわらかに、そう言った気がした。そうだね今日がいい。今日にしよう。
内海は少し迷った末、パスケースと財布と家の鍵を掴んで家の外に出た。薄暗く空気の冷えた玄関から一歩外に出ると、ふんわりとした日差しと、その陽の光であたためられたぬるい香りが体を包み込む。扉を閉めた後、目を閉じてその空気をすうと吸った。春の空気は好きだ。乾いたアスファルトと濡れた土の香りが混ざって、気怠そうに世界に漂っている。
履き潰したアイボリーのキャンバススニーカーはやさしく内海を外の世界に運び出してくれた。空はペールブルー、実に穏やかな日和だ。こんな日に街を騒がすのは少々しのびない。それと賠償金が発生するだろうから、できれば線路に飛び込んだりなどはしたくない。どこか高いところから飛び降りたり、賃貸アパートである自室で最期を迎えるのもきっと同じことだ。自分がいなくなった後、ひとり取り残してしまう姉に迷惑はかけられない。
ならば海と山、どちらに行こう。ほとほとと歩きながら思案する。ふと視線を落とすと、道の端にはたんぽぽが咲いていた。その他にも小さな水色の小花や紫色の小花が咲いていて、きっと山にならもっとたくさんの花が咲いているのだろうと思った。ならば山にしよう。春の花々に見送られて生涯を閉じるのも悪いものではない。
さて、ではどうするか。スマートフォンは家に置いてきてしまった。近場の山というものもわからない。とりあえず山ならどこだっていい。最後なのだし、少しくらい遠くへ行ったっていいだろう。自殺の名所、と言われても今まで実際に行動に移そうと思ったことなどないのだから、そんなものも知りはしなかった。
とにかく、ここから離れられたらそれでいい。長距離バスにでも乗ってしまおうか。財布なら持ってきた。途中で旅行者向けのガイドブックでも買えば、自力で行けそうな山やら谷やらくらいなら載っているのではないだろうか。
そのくらいの軽い気持ちの気ままさで、内海は最寄り駅に向かった。それからターミナル駅まで電車を乗り継ぐ。本日は土曜、時刻は十時を過ぎた頃。車内にはこれから休日を満喫するのであろう人々が多く乗っている。空気は朗らかで、浮かない顔をしている者はいない。皆、いい休日になればいいなとぼんやり思った。いい日になればいい。自分も今日はいい一日を過ごして、それで気持ちが満たされた状態で終わりを迎えたい。そんな日が、そんな人生があったっていい。
電車に揺られて一時間もせずにターミナル駅に到着する。改札を抜けて、駅の裏手にあるバスプールに向かった。
乗車案内窓口でバスの時間を尋ねる。本日出る予定の高速バスを数本教えてもらい、その中から適当にひとつのバスチケットを買う。少し北に向かうことにした。特に思い入れがある場所でもないが、思い切りよく遠くのチケットを買わないあたりの踏ん切りの甘さに自嘲する。それでも、いいのだ。バスだって乗っている時間が長すぎては体が痛くなるだろう。と、これから身投げをするつもりなのに体のことを労わってしまったことにもまた少し口元がゆるむ。
チケットを買ったバスが出るまで、三時間ほど。手元には時間を潰せるものはない。かといって時間が来るまでぶらつこうという気持ちにもならなかった。ぼんやり、ただぼんやりと、通路を行き交う人々や次々に滑り込んできてはすぐぬるりと発車するバスを何台も、待合室の中でじっと座って見送った。
ようやくやってきたバスに乗り込んで、席に座る。乗客はまばらだ。バスの車内では外の音が遮断され、空間そのものの音が少しくぐもったように聞こえるのが不思議だった。バスなどしばらく乗っていない。電車とは違う独特の雰囲気がなんだかおもしろかった。
ぼんやりと、薄水色のフィルムがかけられた窓から外を眺めていると、ほどなくしてバスが発車した。車窓から見える景色がゆるやかに流れていく。何度も利用した駅を外から眺め、何度も歩いた道を見下ろす。これがこの景色を見る最後の機会になるのだと思うと、ここも、そして家の最寄りまでの景色ももっと見ておくべきだったかと思った。じわり、じわりと感慨深さが滲んでくる。これから行く場所は知らない土地だ。不安は、少しだけあった。辿り着いた土地でもこの見慣れた景色の面影を探してしまうのだろうか。座席の背もたれに身を預け、ほうとため息ともとれない息をついた。きっと大丈夫。すべてうまくいく。そう自分に言い聞かせ、膝の上で握り合わせた両手で自らの指を撫でた。
見慣れた街から街の外れへ、それから初めて訪れた高速道路へ。窓の外を見るともなく見ているうちに、気が付いたら寝入ってしまっていた。どうやら車内での居眠りというには深く眠っていたらしく、目的地までもう少しのところだった。バスの前方に表示されているデジタル時計によれば現在は十六時の少し手前。もうそんな時間だったのか、と驚いているうちにバスは高速を下りて一般道に入った。ぽつりぽつりと民家がある田舎道。それから少し走って、少しずつ景色が栄えてきて。都会のような高層ビルはないが、それなりに賑やかな街並みの中をバスが通ってゆく。
このバスに乗ったバスプールと比べると随分小規模で、そしてレトロささえ感じられるバスプールに車体がゆっくりと入り、屋根と時刻表のポールがある一画に着くと、ぷしゅう、と音を立ててバスが停車した。乗客たちがのっそりと立ち上がり、出口に向かう。内海はその様子を眺め、この人たちはどこに向かうのだろうかとその背を見送り、それから一番最後にバスを降りた。
見知らぬ土地でも、春の空気は変わらなかった。
胸いっぱいにそれを吸い込んで、一歩、足を踏み出す。ほかでもない、死へ向かう旅路を。
ぬるく、おだやかな風が静かに吹いて、背中を押してくれたような気がした。