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文字数 3,777文字

 崎の提案を受け、一緒に仕事をすると決めてから、その後の行動は早かった。主に崎がである。
 退職代行をすると言ったその言葉の通り、内海の退職届の類をちゃちゃっとパソコンで作成し、それから保険関係の手続きのごく簡易的な手順書まで作った。今すぐできることは少ないとかで、会社からの書類が届いてからやることをまとめておこうとのことだった。
 そこまでする必要があるのかと問うと、「俺が責任もってミミちゃんのこと引き受けなきゃなのにやること忘れそうだから」と返答があった。適当な奴だが、適当なりに真面目さが垣間見えるのもつくづく変な男だと思った。
 都内に借りているアパートはひとまずそのままにしておくことになった。もしこの田舎での暮らしが肌に合わなくて、都会に帰りたいと思ったときに行く場所がないのも厳しいだろうとの考えの上でのことだった。ひとまず家賃はそのまま内海の銀行口座から引き落としになるが、崎は「その分は雇い主として株で稼ぐからご心配なく」だのと信憑性のないことをのたまっていた。
 現実味のないことばかりが立て続けに起こる、というか自分でその道を選んでいる。そのこと自体に現実感がなくて。自分ではない誰かの人生の映像を見ているような気分だった。
 それでも。新しい人生を歩むことになったのだ。それもかなりのスロースタートのスローライフになるだろう。なにもかもを一新してまるで別人のように生きる、それは当然不安も大きかったが、崎出帆のようなよくわからない人間がそれなりに暮らせていたというのだから、きっとなんとかなるのだろうと思った。案ずるより産むが易し。きっと大丈夫。内海は自分自身にそう言い聞かせた。

 ここで生活をする、と決めてからその日のうち、最初にしたことは買い出しだ。着の身着のままこの町まで来てしまったので、まず服がない。それに町の人たちに声を掛けられて農作業の手伝いに行くにも、作業着となりそうなものも用意しなければならなかった。 
 崎の軽トラックに乗せられて向かったのは、全国チェーンの衣料品の量販店だった。誰でもどこでもいつでも着られそうなシンプルイズベストな洋服を売っている店だ。
 家着と外出着を合わせて上下それぞれ、ひとまず五着ずつ。それに下着や靴下やインナーを追加して、お手頃価格なはずの店でもなかなかの値段になる。内海は会計時にクレジットカードを取り出したが、崎が「まあまあここは雇い主がね、グランドニュースタートなお祝い」と称しすべて支払ってくれた。この男なかなかに羽振りがいい。もしかしたら本当に株などで儲かっているのだろうか。
 その後はアウトドア向け、というかいわゆるドカタの職についている人などがよく仕事着などを買い求める店に訪れた。畑仕事を手伝うならばひとまずはアウターを一枚と帽子と汚れてもいい靴を買った方がいいとのことだった。言われるがままにそれらと手袋を買い物かごに入れるが、畑仕事などしたことがない。これでいいのかすらわからないまま店内をうろつき、気が付いたらそれも一式崎が購入していた。
 次は日用品だ、となったがもう一から十まで揃えるのが面倒で。シャンプートリートメント、ボディソープ、洗顔料、すべて共用にしてしまうかということで話がまとまった。崎はその辺に抵抗はまったくもっていないらしい。内海はさすがにすべてを共用にするのはと一度渋ったが、結局は面倒くささが勝ち、ひとまずはそれでいこうと了承した。ここまでのものを共有するとなると本当に家族になるようだ、と少し思った。
 あとはひげ剃りとフェイスタオル、バスタオル、風呂の中で使うボディタオル、それくらいをざっと買って、生活していく上で足りないものがあれば買い足すということになった。
 新生活というものは何かと物入りだという印象があったが、すでに人が暮らしている家に転がり込むということもあって、本当に身の回りのものしか揃えなかった。手軽で助かったのか、もっと念入りに買うべきだったのか。答えはわからないが、まあなんとかなるだろう。こうして、新たな暮らしへの内海の買い出しはざっくりと終了した。

 それから今度は内海が使う部屋の掃除だ。居間から廊下を少し歩いた先の空き部屋を使わせてもらうことになったのだが、なにせずっと崎と祖父のふたりで暮らしていたため使わない部屋は掃除もせず閉め切っていた。家具などはないがそこかしこにほこりが積もっていて、それから少しかびたにおいがした。
 見るからに使えない部屋だというわけでもないので、夜になりかけの時間だったが窓を全開にし換気扇を回し、天井から欄間、鴨居まではたきをかけてほこりを落とすところからスタートした。それはもうくしゃみが止まらないほどだった。粗方落ちただろうというところで、一気に掃除機をかける。その後はぞうきんでさっと畳の上を水拭きした。畳は傷んではおらず、障子やふすまも色褪せてはいるが傷はないので張り替える必要はなさそうだ。
 畳が乾いてから、昨夜居間に敷いた布団を運んでくる。今日からはここで眠ることになる。六畳ほどの和室の中、家具も何もなかった空間に、布団と先ほど買い込んできた服だけが置かれている。
「ちょーっとものざみしいなあ」
「部屋もらえただけで十分だよ。ありがとう」
「テーブルとかテレビとか、ちょっとずつ揃えていくか」
「いいよ別に、寝られる場所があるだけで助かる。テレビなんかは居間にいけば観られるし」
「俺とチャンネル争奪戦になるかもよ」
「まあその時は俺が勝つけどね」
「家主に譲る気はないのか! 受けて立つぜ……」
 冗談めかして適当に話をして笑っている崎に適当に返事をしつつも、内心では申し訳なさもあった。手間と時間とお金を掛けさせてしまっている。しかしまあ、自分の命をもらうと言ったのはこの男なので。少しは甘えさせてもらうことにした。その分、仕事ではきっちり働いて役に立たなくては。密かに決心したが、きっとこの男は仕事になってもゆるゆるのへらへらなのだろう。自分がしっかりしなくては。内海はすっと背筋を伸ばした。

 それから、夕飯は崎が作った適当なうどんを食べて、順番に風呂にも入って。居間でテレビを観ながら崎と適当に話をしていたが、そろそろ夜も更けてきた。時計もスマートフォンもない内海に、明日の朝起こしに部屋行くよーと声をかけて崎が自室に戻っていった。崎の部屋は一番奥の部屋だ。
 内海も同じく自室に戻り、布団に入ったが。正直、眠れるかどうかわからなかった。
 しばらく不眠症状は続いていた。眠れても数時間。眠りは浅く少しのことで目が覚めてしまって、そうなると二度寝は不可能。これまで長い間悩まされてきたのだ。いくら今までの人生を切り捨てて新たな道を歩み始めたとはいえ、すぐに眠れるようになるとも思えなかった。
 まして、慣れない土地の慣れない家の慣れない部屋の慣れない布団だ。これで不眠症の人間がぐっすり眠れる方が不思議だろう。
 昨晩はというと朝まで爆睡ではあったが、酒に酔って潰れてしまっただけに過ぎない。今夜も酒を飲もう、という気持ちにもなれず、布団の中でただじっとしていることしかできなかった。
 時計がないため、どれほどの時間が経過したかもわからない。じっと、じっと耐えるだけ。眠気が来るのを待つだけ。その他は何もできないのだ。
目を閉じていても開けていても変わらない。部屋の電灯の豆電球をつけただけの暗い部屋で、どうにもできずに身を横たえるのみだった。
 ああ、明日八時にキヨさんという人の畑に行かなければならないのに。身支度をして朝食を取る時間を考えるともっと早くに起きなければならないのに。
 今夜も眠れないのかとため息をついたとき。部屋の入り口からかりかりとふすまを引っ掻くような音がした。それからきゅうんと何かが鳴く声。銀二郎だろうか。内海は布団から出て、ふすまを開けてやった。そうするとすぐに暗闇の中からするりと銀二郎が部屋の中に滑り込んできた。
 銀二郎は内海の脚にすり寄ると、そのまま布団の方に向かう。それから布団のかたわらに座り込んだ。
「ここで寝るのか?」
 尋ねてみても答えはない。だが豆電球に照らされて、しっぽが振られているのがわかった。
「……一緒に寝る?」
 内海は布団の中に再度体を収め、掛け布団をめくった。すると銀二郎は大人しくその中に入り込み、内海に寄り添うようにして体を横たえた。
 思わず笑ってしまう。随分と懐いてくれたものだ。犬と一緒に布団に入るなど、生まれて初めての出来事だった。
 銀二郎はふわふわで、そしてあたたかかった。布団の中でぽんぽんと頭を撫でると、薄暗い中でも気持ちよさそうに目を細めているようだった。
 なんだかこちらの心の中まであたためられるようで、内海もついつい微笑んでしまう。
「かわいいやつ」
 濡れた鼻をつんとつつくと、わふ、と軽く答えが返ってきたのもまたおもしろかった。
 このやさしいぬくもりと共になら眠れるだろうか。いや、眠れなくても、そばにいてくれるだけで十分心休まるだろう。内海は銀二郎の体の上に腕を通し、抱き寄せるようにした。抵抗なく銀二郎は引き寄せられてくれた。
「おやすみ、銀二郎」
 ふかふかの毛並みを撫でてやりながら、内海は目蓋を閉じた。
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登場人物紹介

◆内海 満弦《うつみ みつる》

男性。いろいろなことに疲れてしまった。

◆崎 出帆 《さき いずほ》

男性。山で不法投棄と証拠隠滅を図る。

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