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文字数 2,839文字
死を思うようになったのがいつ頃からだったか、はっきりとは覚えていない。
特別、そう思うようになったきっかけや決定打があったわけではないのだ。何が原因だと断言することもできないが、日々の小さな何かが積み重なって、少しずつひびが入って、ゆるんで、傾いて。気がついたら必死で踏ん張って立っていたはずの足元もぼろぼろと崩れて、体調も気持ちのバランスも保つことが難しくなった。
幼い頃に母を病で亡くして、いつの間にか父もいなくなって、姉とふたりきりになった。それから、静かに静かに暮らしてきた。
父が帰ってこなくなって最初の一週間が経った頃の、姉の横顔が忘れられない。
涙はなく、怒りも見せず、その他感情すべてを心の奥底に閉じ込めて、あらゆるものを押し殺したかのような顔だった。しかしそこに絶望はなく、瞳には強い光が宿っていた。あれは覚悟をした顔だったのだと今ならわかる。その覚悟の通り、姉は自分の学業を疎かにせず、そして弟である内海の世話も立派にやり遂げてみせた。
そんな強い姉がいるからこそ、内海は大した理由もないのに徐々に弱っていく自分が嫌になった。
姉が通わせてくれた高校を無事に卒業して、それより先は自分自身の力で生きていくのだと就職をした。在学中のアルバイトで貯めた少しのお金で一人暮らしも始めた。その職場だって、暮らし始めた町だって、決して悪いところではなかった。だがそれでも何故か朝になると体は動かず、なんとか重い体を無理矢理に動かして働いて、家に帰るとまた動けなくなって、それなのに眠れなくて。眠れてなんかいないのにまた朝がやってきて、その繰り返しになった。
特別つらいことなんてないのに。悲しいことも苦しいことも、きっと人並み程度にしか訪れていないはずなのに。もっともっとつらい目に遭っている人も、困っている人もいるはずなのに。自分はまだまだ何も苦労なんてしていない。こんなふうにおかしくなってしまうのが姉なのだというのなら納得ができるのに、姉は強く逞しく、まぶしい。彼女はけっして折れなかった。
ずっとふたりで寄り添い合って暮らしてきたが、内海には弱音のひとつも吐かなかった。星のような人だと思った。静かに、しかし強く鋭く輝き、そこに在り続ける。太陽のまとわりつくような熱ではなく、さらりと涼やかにあたりを照らしてくれる。空の高いところにいて、いつだって内海を導いてくれた。
だが星の光もかき消すほどの夜の闇はずしりと重くのしかかり、朝になれば体に絡みつく。また日々が始まる。それでも、今日もまた生きていかなくては。その繰り返しだ。
そうしているうちにふっと、ああもういいやと思ったのだ。父はふらりと消えた。自分も同じようにしてもいいだろう。姉もきっと、もう弟のことなど気にしなくてよくなるのだから楽になるに違いない。
いなくなってしまうのも悪くない選択だ。いつの間にか、自然とそう思うようになった。
実行に移したのはこれが初めてだ。それが小旅行のようになるとは思いもしなかったが。
到着したバスプールからはすぐ大きな駅が見えた。駅にならガイドブックもあるだろう。観光客向けのパンフレットや観光案内所もあるかもしれない。そう思って、内海は駅へと向かった。
案の定駅構内にはそれらしいものがある。しかしそれらに載っている山となると大仰すぎるというか。大々的に観光地化を進め人を呼び込もうとしている土地では簡単には死ねなさそうだと思った。
もっと適当な、もっとこじんまりとした山でいい。山岳を攻めるだとかそんなことをしたいわけではない。適当に、ちょっと切り立った崖のように高いところからでも落ちることができるのならそれでいい。
観光案内所の外壁に貼られた地図を見る。名だたる名山ではない、高さもなさそうで地味そうな山、と言うか森というか、なんだってよくて、それでできれば近場で、──もうなんかここでいいや。地図に記された土地の名前を覚え、そこに向かうバスでも教えてもらおうかと内海は案内所に入った。
山に向かうバスはすぐに発車予定だという。目的地までは大体三十分ほど。思いつきで行動すると全部が適当になるものだなと思った。
都心からバスで三十分となればまだまだ街中だが、地方だと違うのだろう。それからすぐにやってきたバスに乗って、目的地へ向かった。
先ほどの長距離バスとは雰囲気がまったく違っていて、空気が明るくのどかだ。買い物帰りなのか白いビニール袋から長ねぎがはみ出た高齢の女性や、イヤホンをつけたまま乗り込んでくるセーラー服の女の子、小声でおしゃべりを続ける小学生の一団など、客層もまったく違う。皆これからこのバスに乗って家に帰るのだろう。その帰る場所のそばで生涯を閉じさせてもらうことに少しばかり罪悪感が芽生える。嫌だろうな。家がある地域で死なれたら。
しかしまあ、死んでしまえばこっちのものだ。誰がどう思うかなど、その頃にはもう知ることはできないのだから。ここまで来たのだ、開き直ってしまってもいいだろう。
乗客はひとり、またひとりと順番に下りてゆく。バスが進むにつれて景色はどんどんとさびれたものになっていった。街中から住宅地、それからぽつりぽつりとたまに民家がある程度にまで様子が変わっていく。
最後の乗客が下りて、座席にいるのは自分だけになる。バスの中には低く唸るようなエンジン音だけが響いていた。窓の外を見ると鬱蒼とした山道があちこちにいくつも見える。もう、ここでいいか。このままバスに乗っていても最終的にどんな場所に、向かうかわからない。目的地にした場所だって自分の望んだ通りの場所かはわからない。それなら、今見えている山道を上った方がよさそうだった。時間ももう夕方に差し掛かっていて、もう少しすると日が暮れてしまいそうだ。
ならば今、まだ十分明るいうちに移動した方がいいだろう。内海はバスの停車ボタンを押した。押されると同時にバス中のあちこちにあるボタンからピンポンと高く音が鳴る。それがなぜかそれぞれ微妙に音の高さがずれていて、ひどい不協和音になった。薄暗く、こちらに這い寄るようにして伸びている山道の不気味さに加えてそのひどい音とで、一気に空気が不穏になったような心地になる。
ボタンを押してからそれほど経たずに、バスは錆びついたひとつのバス停の前に停車した。内海ひとりだけを取り残して、バスは重たい音を上げてすぐに走り去っていく。
外は少しだけ肌寒い。本格的な登山やトレッキングをするつもりはなかったため適当なTシャツに薄手のマウンテンパーカー、それにジーンズだけの軽装で来てしまったが、大丈夫だろうか。山はこれよりもきっと寒いはず。
しかしまあ、どうせ死ぬのだし。少し寒いくらいなんだというのか。すぐに気温などわからなくなる。
行かなくては、日が落ちる前に。内海は、山道のざあざあと音を立てていざなうように揺れる木々に向かって歩き出した。
特別、そう思うようになったきっかけや決定打があったわけではないのだ。何が原因だと断言することもできないが、日々の小さな何かが積み重なって、少しずつひびが入って、ゆるんで、傾いて。気がついたら必死で踏ん張って立っていたはずの足元もぼろぼろと崩れて、体調も気持ちのバランスも保つことが難しくなった。
幼い頃に母を病で亡くして、いつの間にか父もいなくなって、姉とふたりきりになった。それから、静かに静かに暮らしてきた。
父が帰ってこなくなって最初の一週間が経った頃の、姉の横顔が忘れられない。
涙はなく、怒りも見せず、その他感情すべてを心の奥底に閉じ込めて、あらゆるものを押し殺したかのような顔だった。しかしそこに絶望はなく、瞳には強い光が宿っていた。あれは覚悟をした顔だったのだと今ならわかる。その覚悟の通り、姉は自分の学業を疎かにせず、そして弟である内海の世話も立派にやり遂げてみせた。
そんな強い姉がいるからこそ、内海は大した理由もないのに徐々に弱っていく自分が嫌になった。
姉が通わせてくれた高校を無事に卒業して、それより先は自分自身の力で生きていくのだと就職をした。在学中のアルバイトで貯めた少しのお金で一人暮らしも始めた。その職場だって、暮らし始めた町だって、決して悪いところではなかった。だがそれでも何故か朝になると体は動かず、なんとか重い体を無理矢理に動かして働いて、家に帰るとまた動けなくなって、それなのに眠れなくて。眠れてなんかいないのにまた朝がやってきて、その繰り返しになった。
特別つらいことなんてないのに。悲しいことも苦しいことも、きっと人並み程度にしか訪れていないはずなのに。もっともっとつらい目に遭っている人も、困っている人もいるはずなのに。自分はまだまだ何も苦労なんてしていない。こんなふうにおかしくなってしまうのが姉なのだというのなら納得ができるのに、姉は強く逞しく、まぶしい。彼女はけっして折れなかった。
ずっとふたりで寄り添い合って暮らしてきたが、内海には弱音のひとつも吐かなかった。星のような人だと思った。静かに、しかし強く鋭く輝き、そこに在り続ける。太陽のまとわりつくような熱ではなく、さらりと涼やかにあたりを照らしてくれる。空の高いところにいて、いつだって内海を導いてくれた。
だが星の光もかき消すほどの夜の闇はずしりと重くのしかかり、朝になれば体に絡みつく。また日々が始まる。それでも、今日もまた生きていかなくては。その繰り返しだ。
そうしているうちにふっと、ああもういいやと思ったのだ。父はふらりと消えた。自分も同じようにしてもいいだろう。姉もきっと、もう弟のことなど気にしなくてよくなるのだから楽になるに違いない。
いなくなってしまうのも悪くない選択だ。いつの間にか、自然とそう思うようになった。
実行に移したのはこれが初めてだ。それが小旅行のようになるとは思いもしなかったが。
到着したバスプールからはすぐ大きな駅が見えた。駅にならガイドブックもあるだろう。観光客向けのパンフレットや観光案内所もあるかもしれない。そう思って、内海は駅へと向かった。
案の定駅構内にはそれらしいものがある。しかしそれらに載っている山となると大仰すぎるというか。大々的に観光地化を進め人を呼び込もうとしている土地では簡単には死ねなさそうだと思った。
もっと適当な、もっとこじんまりとした山でいい。山岳を攻めるだとかそんなことをしたいわけではない。適当に、ちょっと切り立った崖のように高いところからでも落ちることができるのならそれでいい。
観光案内所の外壁に貼られた地図を見る。名だたる名山ではない、高さもなさそうで地味そうな山、と言うか森というか、なんだってよくて、それでできれば近場で、──もうなんかここでいいや。地図に記された土地の名前を覚え、そこに向かうバスでも教えてもらおうかと内海は案内所に入った。
山に向かうバスはすぐに発車予定だという。目的地までは大体三十分ほど。思いつきで行動すると全部が適当になるものだなと思った。
都心からバスで三十分となればまだまだ街中だが、地方だと違うのだろう。それからすぐにやってきたバスに乗って、目的地へ向かった。
先ほどの長距離バスとは雰囲気がまったく違っていて、空気が明るくのどかだ。買い物帰りなのか白いビニール袋から長ねぎがはみ出た高齢の女性や、イヤホンをつけたまま乗り込んでくるセーラー服の女の子、小声でおしゃべりを続ける小学生の一団など、客層もまったく違う。皆これからこのバスに乗って家に帰るのだろう。その帰る場所のそばで生涯を閉じさせてもらうことに少しばかり罪悪感が芽生える。嫌だろうな。家がある地域で死なれたら。
しかしまあ、死んでしまえばこっちのものだ。誰がどう思うかなど、その頃にはもう知ることはできないのだから。ここまで来たのだ、開き直ってしまってもいいだろう。
乗客はひとり、またひとりと順番に下りてゆく。バスが進むにつれて景色はどんどんとさびれたものになっていった。街中から住宅地、それからぽつりぽつりとたまに民家がある程度にまで様子が変わっていく。
最後の乗客が下りて、座席にいるのは自分だけになる。バスの中には低く唸るようなエンジン音だけが響いていた。窓の外を見ると鬱蒼とした山道があちこちにいくつも見える。もう、ここでいいか。このままバスに乗っていても最終的にどんな場所に、向かうかわからない。目的地にした場所だって自分の望んだ通りの場所かはわからない。それなら、今見えている山道を上った方がよさそうだった。時間ももう夕方に差し掛かっていて、もう少しすると日が暮れてしまいそうだ。
ならば今、まだ十分明るいうちに移動した方がいいだろう。内海はバスの停車ボタンを押した。押されると同時にバス中のあちこちにあるボタンからピンポンと高く音が鳴る。それがなぜかそれぞれ微妙に音の高さがずれていて、ひどい不協和音になった。薄暗く、こちらに這い寄るようにして伸びている山道の不気味さに加えてそのひどい音とで、一気に空気が不穏になったような心地になる。
ボタンを押してからそれほど経たずに、バスは錆びついたひとつのバス停の前に停車した。内海ひとりだけを取り残して、バスは重たい音を上げてすぐに走り去っていく。
外は少しだけ肌寒い。本格的な登山やトレッキングをするつもりはなかったため適当なTシャツに薄手のマウンテンパーカー、それにジーンズだけの軽装で来てしまったが、大丈夫だろうか。山はこれよりもきっと寒いはず。
しかしまあ、どうせ死ぬのだし。少し寒いくらいなんだというのか。すぐに気温などわからなくなる。
行かなくては、日が落ちる前に。内海は、山道のざあざあと音を立てていざなうように揺れる木々に向かって歩き出した。