ＫＩＫＯＵ－序章－
文字数 1,958文字
『休憩しましょ、休憩！ あっちにペンタゴン煎餅あるから！』
ぺちゃくちゃとおしゃべりを繰りひろげるおばさん集団の声に、奥村はたまらずフットペダルを踏んだ。ヘッドフォンから聞こえてくる姦しい話し声が停止される。
「こら、奥村。サボるなー」
ディスプレイの横から顔を出して、上原が見咎めてくる。部下の動向をチェックしながらも、手元にはちゃっかり茶菓子を用意している。今日のお供はペンタゴン煎餅。まさに今、自分が耳にした音声がそのまま具現化したようで、奥村は軽くめまいを覚えた。
「だって上原さん。座談会してたのに、急に休憩入りだしたんですよ、この音声」
奥村は口をとがらせた。【介護現場の座談会】という名の音声データを奥村に割りふったのは、女ボスである上原だ。
音声起稿の請負業務を行っている【KIKOU】には、さまざまな音声データが寄せられる。会議、裁判、ラジオ、隠し録り。それらを文字に起こすのが奥村をはじめとするスタッフの仕事なのだが、当然音声には当たり外れがある。音質の良し悪しもさることながら、発言している人間の滑舌、話者の人数などは正確性にかかわってくる。さくさくとタイピングできているときは気持ちいいが、何度聴いても聴きとれないときはヘッドフォンをたたきつけたくなる。
「座談会中座してるのに、レコーダー止めてくれないんですよ」
「いいよ、そこは無視して」
上原はペンタゴン煎餅をぼりぼりと噛みくだく。上司としてどうかと思うが、程よいところで見切りをつけるのもこの作業には必要なことだ。
「わかってるんですけど、もしかしてなんか重要なこと言ったりするかなーって思うと飛ばせなくて」
「素起こし案件じゃないだろ。無駄に時間かけるな」
冷静に口をはさんできたのは、スタッフの仁志だ。素起こしというのは一字一句落とさず、正確にすべて文字化する仕上げのことだ。意味のない相槌やため息なんかも文字に起こす。手間も時間もかかるので、割増料金となる。
「だいたいおまえ文句多いんだよ。集中しろ」
「だって、ただでさえおばちゃんって声似てんだぜ。聴きわけるだけでも大変なんだよ」
「そこも時間かけすぎるな。人数さえ間違ってなきゃいいだろ」
「でもさ、もう話し手・女性Ｊまで割りふっちゃった。６人の座談会って聞いてるのに」
「……どうにかＦまでにまとめろ」
仁志はあきれた表情で、再び作業に戻っていった。上原も電話にかかって、もう相手をしてくれない。ほかのスタッフも黙々とキーボードをたたいている。奥村もしぶしぶヘッドフォンを装着して、フットペダルを踏んだ。音声が再生される。不意打ちでおばちゃんたちの笑い声が鼓膜をつらぬいた。
奥村はげんなりして、見切りをつけて早送りをしようとした。
と、そのとき。
「え！」
皆、ヘッドフォンをしているにもかかわらず、奇声を上げた奥村のほうをにらんだ。当の本人はその視線に気づかず、必死にフットペダルを踏んで巻き戻しては再生を繰りかえしている。
「やば！」
「マジか！」
「うそだろ！」
一人興奮する奥村の後頭部を仁志が容赦なく引っぱたいた。「いだっ！」と奥村はうめき、ようやく周囲の冷たい空気を察した。
「奥村うるさいよー。なに？ おばちゃんたち、どっか行っちゃった？」
上原がのんびりとたしなめてくるが、奥村の興奮は静まらなかった。
「違いますよ！ いるんです。いるからうるさいんですけど、絶対その後ろで聞こえます！」
「なにがだ」
「旦那の悪口―？」
「じゃなくて！ 女性の叫び声と車のブレーキ音！」
奥村の言葉に、上原の目の色は変わった。「仁志、10月5日午後2時から4時。場所は○○町56」とすばやく指示をする。仁志もまたなにも問わず、言われたデータをたたきこみ情報を検索する。
「当たりです。付近の交差点で轢き逃げが起きてます」
「奥村、ほかになにか聞こえる？」
「えーっと……あ、おばちゃんたちもちょっと黙った……派手にクラクション鳴らしてます。しかもこれ、ちょっと改造してるっぽい。1時間32分48秒あたり！」
仁志が音声データの該当部分をトリミングして、スピーカーで流す。派手にと言うわりに、クラクション音はかすかだ。奥村の耳はそれを拾ったらしい。相変わらずの野性的な聴覚に、上原はこっそり舌を巻く。
「このクラクション音を扱ってるメーカー、ヒットしました」
さらに仁志の冷静で的確な情報収集能力にも、上原はいつも驚かされる。うなずいてから「警察に顧客情報洗ってもらう」と宣言し、段取りをつけるのは上原の仕事だ。
音声データには表面上だけでなく、その奥にまでドラマが潜んでいることがある。すべてに耳を傾けることは不可能だが、縁があって出会った音声はなるべく隅々まですくいあげたい。
それが【KIKOU】のモットーだ。
ぺちゃくちゃとおしゃべりを繰りひろげるおばさん集団の声に、奥村はたまらずフットペダルを踏んだ。ヘッドフォンから聞こえてくる姦しい話し声が停止される。
「こら、奥村。サボるなー」
ディスプレイの横から顔を出して、上原が見咎めてくる。部下の動向をチェックしながらも、手元にはちゃっかり茶菓子を用意している。今日のお供はペンタゴン煎餅。まさに今、自分が耳にした音声がそのまま具現化したようで、奥村は軽くめまいを覚えた。
「だって上原さん。座談会してたのに、急に休憩入りだしたんですよ、この音声」
奥村は口をとがらせた。【介護現場の座談会】という名の音声データを奥村に割りふったのは、女ボスである上原だ。
音声起稿の請負業務を行っている【KIKOU】には、さまざまな音声データが寄せられる。会議、裁判、ラジオ、隠し録り。それらを文字に起こすのが奥村をはじめとするスタッフの仕事なのだが、当然音声には当たり外れがある。音質の良し悪しもさることながら、発言している人間の滑舌、話者の人数などは正確性にかかわってくる。さくさくとタイピングできているときは気持ちいいが、何度聴いても聴きとれないときはヘッドフォンをたたきつけたくなる。
「座談会中座してるのに、レコーダー止めてくれないんですよ」
「いいよ、そこは無視して」
上原はペンタゴン煎餅をぼりぼりと噛みくだく。上司としてどうかと思うが、程よいところで見切りをつけるのもこの作業には必要なことだ。
「わかってるんですけど、もしかしてなんか重要なこと言ったりするかなーって思うと飛ばせなくて」
「素起こし案件じゃないだろ。無駄に時間かけるな」
冷静に口をはさんできたのは、スタッフの仁志だ。素起こしというのは一字一句落とさず、正確にすべて文字化する仕上げのことだ。意味のない相槌やため息なんかも文字に起こす。手間も時間もかかるので、割増料金となる。
「だいたいおまえ文句多いんだよ。集中しろ」
「だって、ただでさえおばちゃんって声似てんだぜ。聴きわけるだけでも大変なんだよ」
「そこも時間かけすぎるな。人数さえ間違ってなきゃいいだろ」
「でもさ、もう話し手・女性Ｊまで割りふっちゃった。６人の座談会って聞いてるのに」
「……どうにかＦまでにまとめろ」
仁志はあきれた表情で、再び作業に戻っていった。上原も電話にかかって、もう相手をしてくれない。ほかのスタッフも黙々とキーボードをたたいている。奥村もしぶしぶヘッドフォンを装着して、フットペダルを踏んだ。音声が再生される。不意打ちでおばちゃんたちの笑い声が鼓膜をつらぬいた。
奥村はげんなりして、見切りをつけて早送りをしようとした。
と、そのとき。
「え！」
皆、ヘッドフォンをしているにもかかわらず、奇声を上げた奥村のほうをにらんだ。当の本人はその視線に気づかず、必死にフットペダルを踏んで巻き戻しては再生を繰りかえしている。
「やば！」
「マジか！」
「うそだろ！」
一人興奮する奥村の後頭部を仁志が容赦なく引っぱたいた。「いだっ！」と奥村はうめき、ようやく周囲の冷たい空気を察した。
「奥村うるさいよー。なに？ おばちゃんたち、どっか行っちゃった？」
上原がのんびりとたしなめてくるが、奥村の興奮は静まらなかった。
「違いますよ！ いるんです。いるからうるさいんですけど、絶対その後ろで聞こえます！」
「なにがだ」
「旦那の悪口―？」
「じゃなくて！ 女性の叫び声と車のブレーキ音！」
奥村の言葉に、上原の目の色は変わった。「仁志、10月5日午後2時から4時。場所は○○町56」とすばやく指示をする。仁志もまたなにも問わず、言われたデータをたたきこみ情報を検索する。
「当たりです。付近の交差点で轢き逃げが起きてます」
「奥村、ほかになにか聞こえる？」
「えーっと……あ、おばちゃんたちもちょっと黙った……派手にクラクション鳴らしてます。しかもこれ、ちょっと改造してるっぽい。1時間32分48秒あたり！」
仁志が音声データの該当部分をトリミングして、スピーカーで流す。派手にと言うわりに、クラクション音はかすかだ。奥村の耳はそれを拾ったらしい。相変わらずの野性的な聴覚に、上原はこっそり舌を巻く。
「このクラクション音を扱ってるメーカー、ヒットしました」
さらに仁志の冷静で的確な情報収集能力にも、上原はいつも驚かされる。うなずいてから「警察に顧客情報洗ってもらう」と宣言し、段取りをつけるのは上原の仕事だ。
音声データには表面上だけでなく、その奥にまでドラマが潜んでいることがある。すべてに耳を傾けることは不可能だが、縁があって出会った音声はなるべく隅々まですくいあげたい。
それが【KIKOU】のモットーだ。
