第1話 -3-

文字数 1,430文字

「そういえば奥村。このまえやってくれたDV案件」
 昼休憩時間。スタッフは外の空気を吸おうと外食に向かう人間が多いが、奥村はいつもお気に入りのカップラーメンをデスクですすっている。毎日丁寧な自作弁当を持参する仁志は、そんな奥村に「メタボになるぞ」「塩分過多だぞ」とたしなめてくるが、こればかりはやめられない。
 今日もスープをグビグビと飲んでいると、不意に上原に声をかけられた。上原は上原で昼休みという概念がないらしく、デスクから動かずずっとお菓子を食べている。食事らしい食事をしているのを見たことがない。
「DV?」
「後半ほとんど聞きとれなかったやつ」
「あー」
 あれだけ苦しめられた音声でも、次から次へ来る案件にあっさりと埋もれていく。しかし要領よく忘れていくことが、この仕事を上手く続けるコツだと誰もが心得ている。それができずに心を病んだスタッフも少なくはなかったが。
「データ納品して、電話も入れたらさ、めっちゃくちゃあっさりしてた。後半ほとんど書き起こせませんで……って低姿勢でいったら拍子抜け。全然大丈夫ですよー、お手数おかけしましたーって、あっけらかんと言われたわ。結構身構えたのに。まー、結果オーライだからよかったんだけどさ」
 上原の言葉が、奥村の心を上滑りしていく。代わりに鼓膜によみがえるのは、あの女性のすすり泣く声だった。
『ねえ……許して。お願い、許して』
「なーんかむしろ明るかった。もしかして解決したのかなー」
『ねえ……許して。お願い、許して』
 殴打音。
『ねえ……許して。お願い、許して』
 殴打音。
『ねえ……許して。お願い、許して』
 殴打音。
「上原さんっ! あっちい!」
 勢いよく立ちあがると、カップラーメンの汁の残りがぶちまけられた。静かに食事をしたい仁志はすごい形相で奥村を睨む。しかし、当人はまるで気づかない。
「上原さんっ! まだそのデータ残ってますか?」
「え? 納品から一週間経ったら自動で完全削除するようにしてるけど……あれ、いつだったかなー。私、最近在宅だったからなー」
 上原は時折、出社が面倒という理由で何日間か休む。遠隔でやり取りできるので、全然構わないのだが、たまに厄介な電話がかかってきたりすると対応に慣れていないスタッフたちはしどろもどろになる。
「あ、あった。あっぶな、今日の14時までだった。サルベージする?」
「お願いします!」
 シェアボックスにデータを確認するなり、奥村はヘッドフォンを装着してフットペダルを踏んだ。音声再生のスイッチである。
 忘れかけていた湿っぽい音声が、再び鼓膜で響く。
『ねえ……許して。お願い、許して』
 殴打音。
 奥村は早送りして、一気に終盤のほうを確認する。
 遠くで聞こえる微かなやり取り。男性と女性の言い合い。きっと男性は女性になにかしら暴言を吐いているのだろう、と思いこんでいた。その暴言こそをすくい上げようと必死になっていた。
 でも、違う。
 その思いこみが、本当の発言を曇らせていた。感情移入してはいけないと心得ていたのに、奥村はどこかで先入観を持っていたのだ。
 男性が女性を殴っていると。
『頼む……やめっ……』
『ねえ……許して。お願い、許して』
 殴打音。
『許して、こんな私を許して』
 殴打音。
 奥村は再び勢いよく立ちあがった。もうカップ麺の容器は空である。上原と仁志は、顔面蒼白になっている奥村を怪訝な表情で見つめた。奥村はぽつりとこぼした。
「思いこみのせいで、真相を見失うところだった」
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