第3話 -1-

文字数 1,784文字

『だから、この日の夜9時頃、どこにいたか言ってくれればいいんだけど』
『覚えてないんだって。最近、仕事忙しかったしさ』
『じゃあ職場にいたかどうかだけでもわかるでしょ』
『いや、日によって業務量は違うし、何時までいたかなんてちょっと……』
『あなたの会社、固定残業代じゃないでしょ。ちゃんと勤怠管理してるはず。記録確認してよ』
『なんで、そこまでしなきゃいけないんだよ! タイムカードなんていい加減なもんだし、当てになんないよ』
 クロ確定だな、こりゃあ。男女の痴情のもつれをタイピングしながら、奥村は男の浮気を確信した。
 冷静に問いつめる女に対して、いちいち感情を露わにする男。タイムカードがいい加減と投げやりに言い切ってしまうあたりも余裕のなさを感じる。まあ、本当に当てにならないのならば、クロなのは男の勤める会社もだ。
 隠し録りにしては楽な案件だった。多分、隠していないのだろう。堂々と二人を隔てるテーブルのど真ん中にでもスマホを置いているのかもしれない。非常に会話はクリアに聴こえる。特に女の話しぶりは自信に満ちていて、言い淀みもなくこちらとしては願ったり叶ったりの話者だ。今年のベスト話者候補に入れてもいいかもしれない、と奥村は思った。
 男はなかなか煮えきらない。チェックメイトを言いわたされているのに認めないプレーヤーのようだ。
 書き起こしするだけの身分で、片方に肩入れなどしてはいけないが、どちらの視点に立つかで作業の捗りはずいぶんと違ってくる。女の視点で自白を迫っていく気持ちになると、タイピングする手も軽やかに踊るというものだ。
 まあ、あくまでも第三者。だからこそ野次馬根性でいられるのだが。
「なーにニヤニヤしてんだ、奥村―」
 ヘッドフォンを外して休憩しようかというタイミングで、ボスである上原が声をかけてくる。相変わらずペンタゴン煎餅をバリバリと頬張っているが、彼女はまったく太らない体質のようだ。いや、むしろ最近は煎餅しか食べているところを見ないので、少し痩せたかもしれない。
「男女の痴情のもつれってのは面白いですねえ」
「趣味悪いね、奥村」
「まー、所詮他人事ですから。ちょっと面白がるくらいじゃないと、続かないでしょ、この仕事は」
「そうね。性格悪いやつばっか残るからねー」
「上原さん。それは俺も入るんですか」
 奥村と上原の会話に割って入ってきたのは、【KIKOU】一番の古株である仁志だった。ヘッドフォン越しでも悪口は聞こえるのか、耳ざとく反応する。
「ええ、そりゃあもちろん。うちの筆頭じゃあーりませんか」
 冗談めかして上原は応じる。ムッとする仁志だが、ある程度そういう自覚はあるのか反論はしなかった。上原も悪い意味ばかりで言っているのではないのがわかるからだろう。
 他人の会話や揉め事に、真正面から向きあってしまうのは相当にメンタルを削られる。割りきって、スルーして、次の案件になったら忘れる。それが健やかな心身を保つコツだ。
 それはなにも【KIKOU】の仕事に限ったことではないかもしれない。自分たちは刑事や探偵でもないし、ましてや神なんかでもない。ただ、文字を起こして食うだけの人間だ。それを肝に銘じなければならないのだ。
「はいはい、仕事仕事―」
 上原は手をひらひらさせて、再びペンタゴン煎餅をかじりはじめる。指揮官でさえ、この脱力感なのだ。バランスは心底大事である。
 奥村は男女の痴情のもつれに戻った。音声はクリア。話者が増える気配もない、一対一の会話。起こしやすいこと、この上ない。ただ、男がしぶとく粘る。もう負けは決まっているようなものなのに。
 延々と平行線の会話が30分程度続いたところで、急に男の様子が変わった。うろたえるばかりだったのが、余裕を取りもどしたように理路整然と、一つ一つ弁明をしていく。そののらりくらりとかわす体裁に、今度は女のほうが焦りを見せはじめる。あと少しで追いつめられるはずだった獲物が、違う角度から反撃を始める。
 形勢逆転か、と奥村は無意識に歯を食いしばる。
 男の話しぶりは、どこか傍観者のような雰囲気をただよわせはじめた。それが女の癪に障るのか、いつの間にかきいきいと声を荒げ、聞きとりにくいのは女のほうになってしまった。
 ああ、今年のベスト話者候補だったのに、と奥村は勝手な自分の中だけのランキング崩壊をなげいた。
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