第1話 -1-

文字数 1,457文字

『ねえ……許して。お願い、許して』
 すすり泣く女性の声。そのあとに必ず響く重低音。これは殴打音だ。
 奥村は目をぐっと閉じ耳をすませていたが、先ほどからゆうに3分はこの状態が続いている。3分というとカップ麺のできあがりを待つ時間。その例えはたいがい「短いじゃん」という感覚になるものだが、音声起稿の業務に関しては途方もなく長い時間だ。
 それも今、奥村が担当している音声データは素起こし案件。素起こしとは一字一句漏らさずタイピングし、話者のため息や微妙な相槌なども書き起こす。ただでさえ集中力を要する仕上げなのだが、素起こしを指定してくる案件内容はだいたいが重い。
 退職勧奨だったり裁判だったり、今聴いていたもののようなDV関連もある。さらに隠し録り。もちろん相手に悟られぬよう証拠を残すためにはそうするしかないのだが、音が遠かったりポケット内での衣擦れの音などが混じっていると、髪の毛をかきむしりたくなる。
 ヘッドフォンを装着したスタッフが黙々と各自の案件をこなす中、奥村はこっそりと給湯室へと向かう。
 顧客との窓口対応兼事務所のボスを務める上原は、奥村の退室を横目で追ったが見咎めはしなかった。スタッフにそれぞれ案件を割り振るのは上原の役目である。能力・適性を考慮した結果、どうしても難易度が高く精神的にきつい案件は奥村に回りがちだ。それを承知しているゆえ、奥村が本当に休息を欲しているときはなにも言わない。単純にサボろうとしているときは、なぜかバレてしまうのだが。
 奥村はマグカップにドリップコーヒーをセットして、湯を注いだ。すぐにコーヒーの香りが鼻をくすぐり、それだけでほっとため息が漏れる。
「どんな案件だ?」
「うわっ、びっくりしたー」
 給湯室の入口に、いつの間にか仁志が立っていた。仁志は奥村よりベテランで、上原からの信頼も厚い。常に冷静な態度は人によっては怖いと受けとられがちだが、一切の感情を挟まず淡々と業務をこなす姿勢は頼もしい。奥村もついつい愚痴をこぼす。
「DV。女の人がずーーっと泣いて謝ってる」
「それだけならよくある話だろ」
「ずーーっと殴られてるんだよ。普通、こういうのって少しは話し合いとか挟みそうなもんじゃん。一切なし。謝罪のみ。相手の男、一言もしゃべらず」
 その情報だけでどれだけ凄惨な音声か察したらしい仁志は、そっと眉間にしわを寄せた。静かな共感だけでも、奥村の心は幾分か休まった。コーヒーをすすると、体中の強張りもほどけていくような気がする。
「仁志は? 今なにやってんの?」
「裁判。親権をどっちが持つかの争い」
「そっちも大変じゃん」
「裁判の音声なんて快適だ。弁護士が録音してるからクリアだし、だいたいの問答がテンプレだしな。そして仕上げはケバ取り。ご褒美案件だ」
 ケバ取りというのは素起こしの逆。不必要な相槌や言い回しは徹底的に削除し、要点のみを書き起こす。
「でも、内容が悲惨だったら無理なやつは無理だけどなー」
「他人の事情にいちいち心を傷めてたら仕事が進まないんでね」
 奥村は背伸びをしながら「そりゃそうだー」と賛成する。所詮、音声の中だけの登場人物。関わるどころか会うことさえほとんどない。すべてに感情移入などしていたら、こちらの身がもたない。
「まあ、俺は今、余裕だ。どうしようもなかったらアラート上げろ」
 そう言って仁志は先に戻っていった。ぶっきらぼうな物言いだが、気を遣ってくれていることは伝わってくる。
 その背中に「サンキュ」と短く礼を言い、奥村は一気にコーヒーを飲みほした。
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