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文字数 14,851文字

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 「今日も上手く行ったじゃないか」相馬太郎が言う。上機嫌だ。
「そうだな」山岸涼太が応える。
「どのくらいになりそうだ?」前田良文が訊く。
「うむ、……五千円ぐらいかな」
「で、今回のオレたちの取り分は?」
「三千円だ」
「古賀と小池に二千円も払うのか?」文句は相馬太郎だった。
「そう決めたんだ。お前も同意したじゃないか」
「ちっ」
「おい、相馬。仕事が上手く行ってるのは、彼女たちが加わってくれたからだぞ」
「それは分かっている。だけどオレたちが始めた仕事なんだぜ、分け前が同等なんて気に入らねえ。それにオレたちは半分を土屋恵子に支払わなきゃならない。すると一人当たり、たった五百円だぜ」
「仕方ないだろう」
「いつまで払い続けなきゃならないんだ?」
「あの強欲な女が君津南中学にいる限りだろうな」
「ふざけんな」
「なあ、黒川拓磨の話に乗ってみないか?」前田良文が二人の会話に割って入る。
「お前、あんな馬鹿げた話を信じているのか?」山岸涼太が驚いて訊き返す。
「いいや、信じているわけじゃない。だけどダメで元々じゃないのか」
「そうだな、前田の言う通りだ」相馬太郎が賛同する。
「……」
「これに願い事を書けばいいだけのことだ」言いながら前田良文はポケットから白い紙を取り出してみせた。
「お前、まだそんな紙を持っていたのか?」
「そうさ。せっかく貰ったんだ、そのまま捨ててしまうのは勿体ないぜ」
「さすがだ、前田」と相馬太郎。
「何て書くつもりだ?」山岸が訊く。
「土屋恵子が学校からいなくなって欲しい、って書くのさ」
「それで?」
「関口が使っていた下駄箱に入れるだけでいい、と言っていた」
「お前、わざわざ黒川に聞きに行ったのか?」
「そうだ。悪いか?」
「……」あきれて何も言えない山岸涼太。
「上手く行くかな?」相馬が前田に訊く。
「たぶんダメだろう。上手く行ったら儲けもんさ。だけどオレたちに他に何ができるんだ? 馬鹿みたいに払い続けるしかないんだ。だったらダメ元で、やってみようぜ。どうだ、山岸」
「オレは乗り気がしない」
「どうして?」相馬太郎だった。
「オレは、……」
「どうした」
「あの転校してきた黒川拓磨っていう奴が不気味で気に入らない」
「どこが?」
「あいつは何かを企んでいそうで嫌なんだ。親しくなりたくない」
「親しくする必要なんかないぜ。あの紙を使う代わりに、来月の土曜日にB組の教室に集まればいいだけさ。そんなに時間は掛からないって言ってたぜ」前田良文が言う。
「……」
「おい、山岸。これでオレたちが失うモノは何もないんだ。だったら、やってみるべきだろう」相馬太郎が続く。
「分かったよ。お前ら二人がやりたいならオレは反対しない」
「そうこなくっちゃな。オレたちは仲間なんだから」相馬太郎が上機嫌に言った。
 山岸涼太は前田と相馬の二人に押し切られた形だ。こんなことは以前にはなかった。理由は明らかで関口貴久が転校してしまったからだ。暴走しがちな二人を抑えるのが山岸と関口の役目だった。それが今はできない。
 万引きは古賀千秋と小池和美が仲間になってくれたことで、格段にやり易くなった。
 古賀千秋の才能には驚かされた。素早い身体の動き、勘の良さ、大胆さ、まるで万引きをする為に生まれてきたみたいだった。的確な指示を出して、大柄な小池和美を立たせて死角を作る。本人は男の一人と恋人同士を装ってイチャつく。店員の注意を引く為だ。小柄な相馬太郎に楽に仕事をしてもらう。それでいて自らも欲しい商品を、しっかりポケットに入れているのだった。一緒にいた誰にも気づかせない手さばきだ。たいした女だと感心するしかなかった。
 もう万引きはやめたい、と言っていた前田良文と相馬太郎の二人は、仕事が上手く行き出すと言葉を翻した。もっと稼ごうぜ、と言って見つかる危険を軽視するようになっていく。
 土屋恵子への不満と憎しみは、どんどん募った。「いつか殺してやりてえ」が、前田と相馬の口癖になった。
 ある日のことだ、木更津のスポーツ用品店で客から注文を受けた幾つかの商品を物色していると、転校生の黒川拓磨と出くわした。たまたま古賀千秋と小池和美とは別行動を取っていた時だった。
 一瞬で状況を理解すると黒川は、「今日一日だけでも仲間に入れ
てほしい」と言う。誰も反対しなかった。ところが手伝わせてみると、なかなか使える奴だった。すばしっこい、この言葉に尽きた。あっ、と言う間に盗みたかった全ての商品を手に入れてしまう。古賀と小池が戻って来る前に仕事が終わっていた。
 「来週も一緒にやらないか?」前田良文が誘った。
「いや、今日だけで十分だ。楽しかったよ」
「分け前は火曜日までに渡せると思う」山岸涼太が言った。
「いらない。君らで取ってくれ」
「マジかよ。ありがたいぜ」と、相馬太郎。
「もし気が変わったら教えてくれ。いつでも歓迎するぜ」用事があるらしくて一人で帰ろうとする黒川拓磨に向かって、前田良文が声を掛けた。仲間に入れたいと思ってるのが明らかだ。山岸涼太は乗り気がしなかった。
 あれだけの働きをしながら一円の金も受け取らないのが不思議だった。一体、何を考えているのか分からない。不気味な奴だ。距離を置いて接する方が無難だ、と感じた。
 「そう言ってくれて嬉しいよ。じゃあ、月曜日に学校で」
「うん。じゃあな」
「あ、そうだ」帰ろうとしながら立ち止まった。
「どうした?」前田良文が応えた。
「久しぶりに楽しい事をさせてもらった御礼がしたいな」
「え?」
 御礼って、どういう意味だ? 助けてもらったのはオレたちの方なんだぜ。訝る三人を前にして黒川拓磨はポケットから一枚の紙を取り出した。
「何だ、それ?」
「ただの紙じゃないぜ。触ってみろよ」
 そう言われて前田と相馬は手を出す。山岸涼太は動かなかった。
 「なんか凄い紙じゃないか」相馬太郎だった。
「……」黒川はニヤニヤしているだけだ。
「でも何も書いてないぜ」前田が言った。
「きみらが何か書くのさ」
「え、オレたちが?」
「そうさ」
「意味が分からないな」
「何でもいいから、願い事を書くんだ」
「書いて、どうなるんだ?」
「きっと、それが叶う」
「ふざけんな。そんなこと信じられるか」と、前田。
「嘘じゃない」
「マジかよ」相馬だ。
「もちろん」
「……」前田と相馬は言葉を失ったようだ。二人が顔を見合して、お互いの表情を確かめている。今の聞いたか、お前? 
 山岸涼太は冷静だった。冗談に決まってら。前田と相馬が真に受けようとしているのが不思議だった。お前ら馬鹿じゃないのか。
 「信じる信じないは、きみらの勝手だ。お礼として、その紙は受け取ってくれ。じゃあ」
 黒川拓磨は立ち去った。三人は黙ったまま奴の小柄な後ろ姿を見つめるだけだ。「お前ら、何やってんだ? 冗談だよ」山岸涼太が言って二人を現実に戻す。そこへ古賀千秋と小池和美の二人が姿を現した。
 「遅くなってゴメンね。奈々から連絡があって、バイト先の友達が化粧品の注文をしてくれたんだって。今日は忙しくなりそうよ」
 手塚奈々は得意客の一人だ。お好み焼き屋でバイトしているだけあって、たんまりと金を持っている。一緒に働いている仲間に声を掛けてあげるよ、と言っていたのだ。それで、いい客を紹介してくれたらしい。化粧品は値が張って、なかなかの稼ぎになる。それに盗みやすい。段取りをどうするかとか仕事の話になって、黒川拓磨のことは誰も口にしなかった。

   26 

 いいアイデアって、これかよ? 期待したのが間違いだったと失望するしかなかった。
 秋山聡史が転校生の黒川拓磨に相談すると、返ってきた答えは、ザラザラした紙に願い事を書いて関口が使っていた下駄箱に入れろだった。
 おまじないかよ? がっかりさせてくるぜ。
 頭がいいんだから、もっとマシなアイデアを聞かせてくれると思っていた。例えば、お前が佐久間渚の家に訪ねて行って家族全員の注意を引く、そこでオレが庭に侵入して物干しにぶら下がっている彼女の下着を奪うといったみたいな。そんな具体的、現実的な話をして欲しかった。
 しかし奴は真顔だった。冗談を言っているような感じは微塵もない。その真剣さに圧倒されて、秋山聡史は何も言えずに聞くだけだった。
 「わかった。そしたらタダで手に入るのか、オレは?」相手の言葉が終わるまで待ってから肝心なことを訊いた。
「いや、そうじゃない」
「金か?」やっぱり、こいつも関口貴久と同じか。
「いや、違う」
「じゃ、何だ?」
「しばらくして関口の下駄箱には君が欲しかった物と一緒に、一枚の紙が入っているはずだ。それに頼み事が書いてあるんだ」
「頼み事だって?」
「そうだ」
「どんな?」
「きみにとっては難しいことじゃないと思う」
「勿体ぶるなよ。今、教えて欲しい。オレに出来ないことかもしれないし」
「頼みごとをするのは僕じゃないんだ。だから分からない。それに心配するな。もし出来ないと思ったら、何も手にせずに立ち去るだけでいいんだ。取り引きは不成立っていうことさ」
「なるほど」秋山聡史は安心した。しかし一瞬だけだった。
 待てよ。佐久間渚が身に付けていたチューリップ柄の下着を目の前にして、このオレが手を引くことなんて出来るだろうか。無理だ、絶対に無理だ。それに気づく。人殺しをしてでも欲しかった。黒川拓磨に視線を向けると、野郎は意味ありげな笑みを顔に浮かべていた。まるでオレの足元を見るような。その目が、『きみは絶対に、手ぶらで立ち去ることなんて出来ないだろう。あはは』と笑っていた。畜生,その通りだ。
 「それと、もう一つだけ」
「何だ?」まだ何かあるのかよ。やばい取り引きに誘われて、次第に自分が泥沼にはまっていくいくような感じがしてならない。
「この取り引きを仲介した手数料じゃないけど、僕にも頼みがあるんだ」
「言ってみろ」
「来月の土曜日、十三日にB組の教室に来て欲しい。祈りの会をやるから参加してくれ」
「祈りの会?」
「そうだ」
「何を祈るんだ?」
「僕が加納先生と仲良くなれるように、だ」
「え? お前、佐久間渚から加納先生に心移りしたのか?」
「そうなんだ」
「……」こいつ馬鹿なのか。相手は大人じゃないか、それも美人で頭がいい。
「頼む、来てくれ。すぐに終わるから」
「出るだけでいいんだな?」そんなの祈ったってムダなのに。
「そうとも」
「わかった」秋山聡史は了承する。そして決心した。
 この不気味な転校生とは取り引きが終わった時点で手を切ろう。何を考えているのか理解できない。もう二度と口を利きたくなかった。

 家に帰って、机の上に広げたザラザラした紙を見ながら考えた。
 よし、お前が言った事を信じてやろうじゃないか。だけど、もし上手くいかなかったら家に火をつけやるからな。覚悟しろよ。秋山聡史はマイルドセブンを何度か深く吸った。そして黒いボールペンを手に取ると、自分の願いを慎重に書いた。
 『きみのチューリップ柄のブラジャーとパンティが欲しい』
 何度も読み返す。うん、悪くない。なかなかいい感じだ。しかしストレート過ぎて、ヤバくないだろうか。そうだな、それじゃあ関口の下駄箱に入れる前に黒川の奴に見せて、いいか悪いか判断してもらおうじゃないか。何だかぞくぞくしてきた。本当に手に入るような気持ちになってくる。ふと重要なことに気づいて急いで文章を付け加えた。『洗濯はしないでくれ』、と。
 秋山聡史の顔に自然と笑みがこぼれた。佐久間渚の匂いがプンプンしているブラジャーとパンティに顔をうずめて、歓喜の絶頂にいる自分の姿が頭に浮かんたからだ。

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 「加納先生、一番に電話です。板垣順平の親御さんから」
 放課後の職員室だった。声の主は西山主任で、加納久美子は目の前の受話器に手を伸ばした。「もしもし、加納です」
 また学校の外で何かあったのか? 今度は手塚奈々のことじゃないことを願った。お好み焼き屋のアルバイトは西山先生に注意されて辞めたと聞いている。
 「先生、板垣順平の母親です。いつもお世話になっています」
「こちらこそ」
「すいません。お忙しいのは分かっていますが、これからお伺いしても構いませんか?」
「は、はい」いきなり学校に来るって、それほど急を要する話なん  
だろうか。「どういう御用件でしょうか?」
「息子のことです」
「はい。それで」もっと詳しく聞きたい。
「最近なんですが息子の様子が前と全然違うんです」
「どんなふうにですか?」
「テレビ・ゲームに夢中で……」
「……」
「先生、電話じゃ上手く説明できません。今から行かせて下さい」
「わかりました。お待ちしています」相手の切迫した態度に圧されて、そう応えるしかなかった。
 板垣順平の母親が現れるまで加納久美子は考えた。ゲームに夢中が、それほど深刻な問題なんだろうか。学校での彼の様子を思い起こしたが特に変わったことはなかった。もしかして自分の知らないところで何か変化が起きていたりして。
 安藤紫先生が机に向かって仕事をしているのが見えた。席を立って彼女に声を掛けた。「これから板垣くんの母親が来るんだけど、一緒に話を聞いてくれる? なんか深刻な問題らしいのよ」
「どんな?」
「あの、……それがテレビ・ゲームに夢中らしくて」なんか腑に落ちない気持ちが口調に表れて言葉が弱々しい。
「テレビ・ゲーム?」訝しげな顔。
「うん」
「それって家庭の問題じゃないかしら。あたし達に何が出来るって言うの?」
「……そうだけど。きっと話を聞いて欲しいんだわ」安藤先生の言う通りだ。しかし加納久美子は一人じゃなくて誰かと一緒に聞くべきだと、そんな気がしてならなかった。
「……」安藤先生は机の上に広げた書類に目を落とした。言いたい事は分かる。この忙しいのに、だ。
「お願い」
「わかった。いいわ」
「ありがとう」これで借りができた。何かで御返ししよう。
 三十分もしなかった。ノックがして職員室のドアが開き、板垣順平の母親が姿を現すと加納久美子と安藤紫は同時に席を立って迎えた。普段着のままみたいだ。いつもは地元の商工会では有力者という感じで着飾っているのに。応接室の方へ通す前に同僚の女教師を紹介した。
 「こちらは美術の安藤先生です。お話を一緒に伺ってもよろしいですか?」
 母親は厳しい表情を変えない。「いいえ、困ります」口調は強かった。「加納先生と二人だけで話し合わせて下さい」
「わかりました」加納久美子は言うと、安藤紫の方を向いて頷いて見せた。彼女も頷き返すと、「では失礼します」と母親に言って自分の席へ戻っていく。拒否されたのなら仕方ない。一人で聞くしかなかった。
 テーブルを挟んで向かい合って座ると母親は口を開いた。「学校
での順平の様子はどうなんでしょう?」
「はい。私の見る限りですが、別に変わった様子はありません」
「これまでと全く同じということですか?」
「そうです。ほかの先生方からも特に何の報告もきていませんし」
「……」母親は黙った。途方に暮れた様子だ。
「テレビ・ゲームに夢中、ということですよね?」確認の意味で久美子は訊いた。今はそうかもしれないが、そのうち飽きるだろう。そう母親に助言して安心させたい気持ちがあった。
 「転校生って、どんな生徒なんですか?」
「は?」意外な質問に驚いた。どういうこと?
「今年になって転校してきた男子生徒のことです」
「どう彼が関係しているんですか?」
「ゲームです」
「はい」それだけでは分からない。久美子は先を促した。
「ゲームは転校してきた奴から借りたんだ、と息子は言ってました」
「……」黒川拓磨が……。何か嫌な予感が頭を過ぎる。
「どうして、あんなゲームを息子に貸したのか……」
「お母さん、いずれ順平くんはゲームに飽きると思いますよ。今は始めたばかりで--」
「そうは思いません」
「……」母親の強い口調に久美子は驚いた。
「先生」板垣順平の母親は一段声を高くした。そして次に口にする言葉の重要性を高めようとしたのか、少し間を置いて続けた。「テレビには何も映ってないんです」
「えっ」事情が飲み込めない。「ど、どういうことですか?」
「順平はゲームに夢中になっている格好こそしていますが、見ているテレビの画面には何も映っていません。白黒のノイズだけがパチパチと流れているだけなんです」
「……」加納久美子は言葉を失う。
「まるで悪霊か何かに取り付かれたみたいで異様な姿なんです。昨夜ですが主人が見かねて止めさせようとしました。そしたら怒り狂ったように殴り掛かってきたんです。父親にですよ」母親は言葉を止めるとハンカチで顔を覆った。「信じられますか、先生。こんなこと初めてです。もうどうしていいのか分からなくて……。助けて下さい。お願いします、加納先生」
板垣順平の母親は応接室のソファに泣き崩れた。その姿に商工会の有力者の妻というプライドは微塵もなかった。加納久美子は、どう応えていいのか分からない。その場から動くことすら出来ない衝撃を受けていた。

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 山田道子は、ずっと後悔していた。あんな手紙を出すんじゃなかった。文面は、『もし良かったら付き合って下さい』という簡単なものだった。五十嵐香月と佐久間渚に唆されて書いてしまったのだ。
 黒川拓磨くんには好意を持っていた。彼は背は高くないし、外見的には目立たない。だけど、どこか普通の男子生徒とは違う。頭は良くて、スポーツは万能だ。でも、それだけじゃなくて何か危険な雰囲気を持っていた。顔は笑っていても目は真剣そのもの。周りに調子を合わせていながら、心では別のことを考えているみたいな。常に自分の利益になるように、どう行動すべきか計算している感じだ。きっと何かを企んでいそう。いつか何か大きなことをやらかすつもりだ。そういう彼の闇の部分に、山田道子は強く惹かれた。
 これは誰にも言えないが、黒川くんと一緒に何か悪いことをしたい気分だった。何か悪いことを考えているなら、あたしにも手伝わせて欲しい。
 佐久間渚が手紙を渡してくれてから一週間が経っても、彼から返事はなかった。無視されたのかもしれない。手紙を書いた自分がバカだった。あたしなんか相手にしてくれるわけがないんだ。五十嵐香月みたいな美貌もスタイルの良さもない。佐久間渚の可愛さの欠片もなかった。あたしは、ただの普通の女でしかない。
 名前からして普通過ぎた。道子、ありふれた名前。苗字にしたって山田だから、もう最悪。両親に言いたい。娘が産まれた時に、もう少し頭を使って名前を考えて欲しかったと。ぬか味噌の中に大根をつけていて思いついたと言われても、やっぱりそうだったのと返事ができそう。
 こんな名前で、いつか素敵なボーイフレンドができるだろうか? いいや。ハッキリ言って、疑わしい。彼氏ができる前に名前を変えたい。黒川くんから返事がこないのは、あたしの名前が障害になっているんじゃないかと考えてしまう。
 彼は道子と冗談を言って笑い合う、初めての男子生徒だった。あたしを女性として認めてくれた初めての人だ。日に何度も声を掛けてくれた。うれしい。学校へ行くのが楽しかった。こんな気持ちになったのは今までにない。恋をするって、こんな感じなのか。
 片思いの経験は小学校四年生時から何度もしてきた。佐野隼人に憧れたのは中学一年の夏だ。サッカーをプレーする生き生きとした
姿に心を奪われた。一人じゃ恥ずかしいので佐久間渚を誘って、仲良くなろうと行動を起こした。ところがカップルになったのは、あの二人だった。心が痛んだ。あたしは御膳立てをしただけ。感謝もしてくれない。それでも許した。いつか自分も素敵な男子と恋仲になれることを夢に見て。 
 しかし佐野隼人を横取りした佐久間渚を許す気持ちは、如何わしい現場を見た途端に消えた。
 去年の秋だった。クラブ活動が終わって下校しようとしたところで、忘れ物に気づいて一人で教室へ戻った。
 誰もいないはずなのに誰かいる。話し声が聞こえたからだ。穏やかな会話じゃなさそう。争っているみたいな。でも喧嘩じゃない。 
 「いや、放して」女の声。
「いいじゃないか、もう少しだけ」と、男の声。
「お願い、やめて」
 忍び足で教室に近づく。げっ。び、びっくり。目に飛び込んできた光景に身体が硬直した。なんと佐野隼人と佐久間渚が抱き合っていたのだ。お互いの唇と唇をくっ付け合ったりしている。いやらしい。不潔。不味い給食の肉じゃがを食べてからは歯を磨いてないはずなのに。道子の全身から沸き上がる嫌悪感。中学生のくせして、あんた達はB組の教室で……。あたし達が学問を学ぶ神聖な場所だっていうのに何てことしてくれるの。
 佐野隼人は手を佐久間渚の腰へ伸ばした。お尻を撫で回そうとしていた。渚は身体を捩って、それを止めさせようとする。「いや、いや」
 キスだけじゃなかった、その先へ進もうとしていた。鮎川信也くんのカバンから黙って借りたアダルト・ビデオ、光月夜也の『スチュワーデス暴虐レイプ』のシーンが山田道子の頭に蘇った。あれと同じことが今、目の前で始まろうとしていた。うわー、興奮してきた。この二人、どこまでヤるんだろうか。どうせなら最後まで行って欲しい。仲良しの佐久間渚が処女を失う瞬間が見たかった。
 よし。やれっ、佐野隼人。渚の抵抗に怯むな。早くヤッちまえ。クズクズすんな。スカートを脱がせ。裸にすれば、もう逃げられない。お前も早くズボンを下ろして勃起したチンポコを出せばいい。そうすれば女は観念する。渚の口に含ませろ。しゃぶらせるんだ。
 無意識にも山田道子は佐野隼人を応援していた。仲良しの佐久間渚が嫌がっているのだから助けるべきだったが、同級生のセックスシーンをライブで見たいという好奇心が大差で勝っていた。
 おっ、いいぞ。それだ、それでいい。佐野隼人の手がスカートの中へ入るのが見えたのだ。山田道子の期待が一気に高まる。
 佐久間渚のアソコを掴め。思いっきり撫で回せ。パンティを下ろしちまうんだ。そうすれば光月夜也みたいに、きっと自分から尻を振って喘ぎだす。ここまではアダルト・ビデオの展開と同じように進んで--。
 「もう、いやっ」佐久間渚が強い言葉と同時に佐野野隼人の顔を平手打ちした。
 あっ、バカ。なんてことを--。そんなことしたら興奮が冷めちまう。せっかく、いいところだったのに。え、……ウソでしょう。
 「ご、ごめん。もうしない」佐野隼人が驚いて手を引っ込めたのだ。
 何で? 謝ってんじゃないよ、この呆けっ。まさか、これで終わり? ふざけないで。佐野隼人、お前、それでも男かよ? 
 「悪かった。許してくれ」佐野隼人は咽び泣く佐久間渚の肩に手を回して慰め始めた。
 ちっ、情けない男だ。女に泣かれたぐらいで怖気づきやがって。
アダルト・ビデオの男優は興奮して、もっと大胆になっていったんだから。ガッカリさせてくれるじゃないの。これで御仕舞い? 最後までヤればいいのに。
 二人は冷静を取り戻した様子だった。これから再び興奮して第2ラウンドが開始ってことはまずなさそう。
 ここで山田道子は気づく。もし覗いていたことを二人に知れたら不味いんじゃないか、と。その通りだ。覗き見してた女は、実際にヤってた本人たちよりも非難される可能性があった。ヤバいよ、帰ろう。忘れ物は諦めた方がいい。来た時と同じように山田道子は忍び足で教室を後にした。そっと階段を降りながら考えた。二人のセックスまでは見られなかったが、少なくともキスシーンは見た。収穫はあった。いつかこんな台詞を口にして佐久間渚から譲歩を引き出す場面がくるかもしれない。
 「あんたが放課後に佐野くんと教室でキスしてたのを見たよ」
 もし否定したりしたら、こう付け加えてやろう。「ウソは言わないでよ。スカートの中に佐野くんの手が入ってきたとき、あんたは平手打ちしたじゃい」、と。ここまで具体的に描写したら、ぐうの音も出ないはずだ。仲良しの弱みを握った。そう思うと佐久間渚の可愛らしさも前ほど悔しくなくなった。
 しかし初潮が一番遅かったくせに、男女の関係では早々とキスからペッティングまで経験してるなんて。呆れた女だ。
 癪に障るのは、これまで何一つ報告がないことだった。友達を何だと思っているのかしら。初潮が遅くて、あれほど心配してやったのに。礼儀を知らないとは佐久間渚のことを言うんだ。悔しい。裏切られた思いだ。あんなに可愛い顔をして、こんなにマセてるとは知らなかった。もしかしたら、男と知り合ったら即にヤらせるタイプだったりして。
 この件では出来れば五十嵐香月と一緒に、影で佐久間渚を激しく非難したかった。だけど、それには『渚のキスシーンを見ちゃったよ』と教えなければならない。無理だ。こんな貴重な情報をタダで香月にくれてやるわけにはいかない。あいつほど人の手柄を横取りして自分のモノにしてしまうことに長けた女を知らなかった。
 だけど誰かに言いたい。渚の秘密を誰かと共有したかった。人の秘密を知るのは大好き。だけど、もっと好きなのが人の秘密を多くの人に言い触らすことだった。
 口には出さないが態度で、あたしは知ってたんだから、と示してやる。知らされた相手が見せる驚いた表情に山田道子の優越感は満たされた。
 根っからの詮索好き。自分の欲求を満たす為なら勝手に人のカバンを開けて覗く。板垣順平がニヤニヤしながら鮎川信也に黒いビニールのバッグを渡した時にはピンときた。体育の授業で男子全員が教室からいなくなるのを待った。鮎川くんの青いバックの中にアダルト・ビデオを見つけて、やっぱりだと思った。あたしの目を誤魔化すなんて無理な話よ。
 うっわー、凄そう。『スチュワーデス暴虐レイプ』という強烈なタイトルが目に飛び込んできた。
 だてに映画同好会に入っているわけじゃない。恋愛、アクション、西部劇、サスペンスなど色々な作品を鑑賞してきた。しかしアダルトは未だだった。これは見るしかないと思った。まさか鮎川信也に又貸しさせてくれとは恥ずかしくて言えない。黙って借りることにした。五十嵐香月と佐久間渚を誘ったが、予定があるからダメだと言われた。近くにいた手塚奈々に声を掛けると、目を輝かせて一緒に見たいと言う。そりゃそうだろう。ひょろっと細長かっただけの脚が女らしい曲線を帯びてきた去年の夏から、彼女はセクシー路線で男子の人気を集めているのだから。だけど家で待っていると、スズキのスクーターに乗ってやって来たのには驚いた。黄色いヘルメットから長い髪をなびかせて颯爽と姿を現した。運転も上手そう。馴れた手つきでスタンドを掛けて玄関の前に停車させた。身体だけじゃない、行動も女子大生気取りだ。
 佐久間渚と佐野隼人のキスは、誰かに言いたくて欲求不満になりそうだった。そこで頭に浮かんだのが幼馴染みの篠原麗子だ。あの子は大人しくて口が堅い。新築したセキスイハウスの家に遊びに行った時に教えてやった。
 最近の篠原麗子は自分よりも佐久間渚に急接近していた。美術部の活動に誘ったりして。やきもちではないが、何か気に入らない。渚のキスのことをバラせば、二人の仲にヒビが入るんじゃないかと期待した。一石二鳥だ。ところが麗子の反応ときたら期待外れもいいところだった。
 「へえ、そうなの」ときた。
「ねえ、あの二人が放課後の教室で抱き合ってキスしてたのよ」言い方が悪かったのかと思って、具体的な事実を加えて繰り返した。
「ふむ」
「……」この女、耳が聞こえないの。それとも難しい日本語は理解できなかったりして。「それに佐野くんたら渚のお尻を触ったりし
てたのよ。手をスカートの中にも入れたわ」これで、どうだ。少しは驚けよ。
「ねえ、道子。サラミは好き?」
「え?」何だって、サラミ? それと渚のキスが、どう関係しているの。「……嫌いじゃないけど」
「たくさん買っちゃったのよ。いくつか持っていって」 
「そう」もう呆れた。この情報に飛びつかない女っているんだ。信じられない。「あんた、これ一体どうしたの?」目の前に十本ものサラミを並べられて、ちょっとビックリ。もしかして万引きしたのかしら。いや。この子は、そんなことしない。
「Dマーケットで買ったんだけど……」
「どうして、こんなに買ったのよ? そんなに好きなの、これが」
「ううん。そういうわけじゃないけど」
「普通、一度に十本も買うかしら、サラミを?」
「仕方なかったのよ」
「仕方なかったって、どういうこと?」
「すごく恥ずかしかったから」
「え、恥ずかしくて十本もサラミを買う? ちょっと理解できないわ」
「本当は十一本だったの。あたしが一本は噛んで食べたから」
「十一本も? あんた、よく買えたわ。逆に偉い。あたしだったら恥ずかしくて出来ない。相当な酒飲みじゃないかって思われそう。それに、見て。この形よ。何か別のことに使うんじゃないかと、疑われちゃうわ」
「どうする、道子? 持っていく?」
「一本でいいわ。そんなに何本も続けて食べられないもの」
「わかった」
 サラミを渡されて山田道子は、幼なじみだった篠原麗子がすっかり変わってしまったと感じた。知らない間に理解できない女になっていた。佐久間渚がキスしたことを教えてやったのに、ぜんぜん無関心だし。大人しそうな顔をしているのに,Dマーケットではサラミを十一本も買ったと言う。それって衝動買いなの? 理解に苦しむ。食べるんじゃなくて、もし別の使い道を考えていたとしても二本もあれば充分なはずだった。

 待ちくたびれた。黒川拓磨くんから返事は来ない。『あれは佐久間渚たちに仕組まれた冗談だったのよ。お願いだから忘れて』そう言って誤魔化すしかないと考えた。すでに十日が経っていた。もう彼が自分と交際してくれる可能性はゼロに近い。はっきり断われる前に、こっちから、あれは無かったことにして欲しいと伝えるしかないと思った。これまで通りの友だち付き合いは、なんとか保ちたい。
 ところがだ、その黒川拓磨から応えがあった。諦めていたところに、いきなりでビックリした。朝、登校して自分の席に座っていると後ろから声を掛けられた。
 「メモを関口が使っていた下駄箱に入れたんだ。それを返事と受け取ってくれて構わないよ。ぼくの要求を書いた。もしOKだったら、それを同じ場所に置いてほしい」
 え、どういうこと? でも「わかった」と答えて頷くしか出来なかった。あまりにも突然で思考回路が働かない。まったく意味が分からなかった。
 休み時間になるまで待つしかない。ずっと考え続けた。加納先生の英語の授業だったけど山田道子は上の空だ。『ぼくの要求』って、どういうこと? あたしと交際してくれるのかしら。
 ああ、早くメモが見たい。頭が痛いとかウソを言って、早退しようかしら。いや、そこまでしなくてもいい。「先生、おトイレに行かせて下さい」もっといい口実を思いついて言った。山田道子は席を立つと一階の下駄箱へ急いだ。廊下でも階段でも誰にも会わない。好都合だ。関口貴久が使っていた下駄箱を見つけると、ビクビクしながら扉を開けた。
 手が震える。もしかして中に何も入っていなかったりして。あたしは騙されたのかもしれないという不安を急に覚えた。がっかりして教室へ戻ったら、クラス全員に大爆笑で迎えられたりして。知性に溢れた加納久美子先生さえも教壇の横で、お腹を抱えてゲラゲラ笑っていたら……。ああ、大変。
 ドッキリだったら、どうしよう。もう生きてはいけない。どこかでビデオ・カメラが回っていたりして。もしそうだったら、これから何度も教室で給食の時間に再生されるだろう。その度に自分は笑い者にされるんだ。
 恋した男にドッキリ・カメラの標的にされた女子生徒、というレッテルが背中に貼られる。これから自分とすれ違った誰もが、うしろを振り向いて指差すのだ。あの子だ、と気づいて口元を押さえて笑う。男子は遠くから見つけただけで、『おーい、山田道子。下駄箱にメモはあったのか?』と大声を上げて大爆笑だ。それが死ぬまで続く。ああ、恐ろしい。たとえ義務教育であろうが、この君津南中学を二年で中退するしかない。死んだ方がいい。それとも一人で旅に出ようか……。 
 「えっ、あった」中に紙を見つけると思わず大きな声が出た。ヤバいっ。慌てて回りを窺う。よかった、誰もいない。そっと手に取り、広げて書かれていた文字を読む。飛び上がりそうになるほど驚いた。えっ、マジで? 何度も読み返した。短い文だから読み間違いなんかしない。確かに、そう書いてあるのだ。衝撃で身体は、その場に凍りつく。息もできない。『スチュワーデス暴虐レイプ』よりも強烈な文だった。
 『きみのチューリップ柄のブラジャーとパンティが欲しい』、その横に、『洗濯はしないでくれ』が続く。
 信じられない。まだ付き合ってもいないのに、あたしの下着が欲しいだなんて。黒川くんらしくない下手な字だった。キスだってしていないのに……、この性急さには付いて行けそうにない。
 あ、そうだ。早く戻らないと。
 山田道子はB組の教室のドアを開けて自分の席へ向かう途中で、加納先生から声を掛けられた。「大丈夫? 山田さん」
「え、……はい。何でもありません」遅かったので心配させてしまったらしい。ちょっと、ヤバい。
 その日は下校するまで、ほとんど誰とも口を利かなかった。五十嵐香月と佐久間渚が訝しげな様子を見せたが、あえて弁解しない。考え事に夢中で、それどころじゃない。黒川拓磨くんのことは意識的に避けた。目を合わせでもしたら、顔が真っ赤になってしまう。
 これって付き合ってくれるっていう意味なのかしら? それとも下着だけが欲しいの? えっ、まさか転売目的? それともコレクターだったりして。 
 だけど、どうしてチューリップ柄の下着を、あたしが持っているって知っているんだろう。しっかりリサーチしたってこと? つまり、この山田道子に好意を抱いてるってことじゃないかしら。
 あたしには五十嵐香月みたいな美貌とスタイルの良さはない。だけど、あの女みたいな計算高いところもなかった。見栄えか、それとも貢いでくれる金額の多さでしか彼女は男を選ばない。
 あたしには佐久間渚みたいな可愛らしさもなかった。だけど男と少し付き合っただけでキスしたり、お尻を触らせたりするほど軽薄な女じゃない。
 外観では二人に負けている。でも心では負けていない。好きになった男には全力で尽くすつもりだ。その人だけを心から愛す。お金なんか恋愛に関係ない。愛があれば、それだけでいい。
 そんな純粋な心に黒川くんは気づいたってことなの。すごい。なんて鋭い洞察力だろう。家に帰って夜中になるまで考えて、山田道子は一つの結論に達した。
 あたしの魅力が原因だ。あたしに魅力が有り過ぎるから、あんな行動に彼を駆り立ててしまったのだ。これで全てが解決した。
 あの黒川くんらしくないヘタな字は、ずいぶん緊張して書いたからに他ならない。そりゃそうだろう。好きな女の子に、いきなり洗濯していない下着をくれって言うのだから。返事が遅れたのも当然だ。
 あたしには分かる、よく分かる。家で飼っている犬のロンと同じだから。散歩に連れて行けば出会うメス犬の尻の匂いを嗅いでばかりいる。
 こうなったら、こっちもそれなりに大胆な行動で応えないと、彼の期待を裏切ることになってしまう。山田道子は決心した。チューリップ柄の下着を三日ほど穿き続けて、あたしという匂いを染み込ませてから渡してやろう。
 翌日の朝、黒川拓磨の姿を見つけると近づいて何気ない振りを装いながら、そっと耳打ちした。「金曜日の朝まで待って。登校したら
真っ先に下駄箱に入れておくから」
 その時の彼の顔ったら思い出すだけで笑えちゃう。ずっと欲しかった新型のスポーツ自転車を買ってもらったみたいな喜びに溢れていた。うふっ、すっごく可愛いかった。山田道子は生きてきた十四年間で一番の幸せを感じた。
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