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文字数 21,758文字

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 五十嵐香月は仲良し二人と別れて、自分の姿が彼らから見えなくなる場所まで来ると歩調を速めた。もう気兼ねすることはない。気分はウキウキ、ルンルンだった。スキップさえ踏みたい気持ちだ。今日これから受けるレッスンのことを考えると、身体が火照るのを抑えられなかった。
 親が雇った家庭教師というのはウソだ。両親が知らない家庭教師だった。今日、彼が家に来ることだって知らない。
 彼と親しくなったのは一ヶ月前で、場所は国道127号線沿いにあるレンタル・ビデオ店だ。その日、香月は『ディープ・インパクト』のVHSビデオを借りたくて来ていた。しかし新作コーナーの棚に並ぶケースすべてにレンタル中と書かれた青い札が掛けられていた。
 がっかり。
 あのモーガン・フリーマンが出演している新作だけに人気は高かった。期待はしていなかったけど……、もしラッキーだったらという思いだった。見落としはないかと、しばらく棚の前に佇む。ひょっとして店員がレンタル中の札を外しに来るかもしれない。
 準新作コーナーには『タイタニック』が並んでいて、ほとんどが借りられる状態になっていた。いい映画だった。あんなに感動した作品は他に『ショーシャンクの空に』しか思いつかない。
 夜は赤川次郎の『三毛猫ホームズ』でも読んで過ごすしかなさそうだ、と諦めて帰ろうとしたところで誰かに呼び止められた。
 「五十嵐さん」
「あ」振り返ると同じクラスの男子生徒だった。その手には店の青いビニール・バッグが握られていた。何を借りたんだろう、と咄嗟に思った。
「見たい映画はあったかい?」
「……」香月は首を横に振って答えた。この男子とは口を利いたことがない。背は高くないし、顔つきも子供っぽくて、好きなタイプじゃなかった。
「それは残念だ」
 香月は背を向けた。話したくない。言い寄ってくる多くの男たちにはうんざりしていた。たいしてカッコ良くもないくせに、付き合ってくれないかと訊いてくる。いい加減にしてよ、あんたとあたしで釣り合いが取れると思っているの? そうハッキリ言ってやりたい場面は何度もあった。たまたまレンタル・ビデオ店で会っただけなのに、ナンパのチャンスと考えている愚かな男にしか思えなかった。
 「今、『ディープ・インパクト』を借りたんだけど、良かったら先に見るかい? でも映画同好会の五十嵐さんのことだから、もう見ちゃってるかな」
 香月を再度、振り返らすのに十分な言葉だった。
「これなんだけど」と言って青いビニール・バッグを差し出す。
「……」え、どうしよう。
「もう見ちゃったかい?」
「ううん」今度は言葉で答えた。
「それなら月曜日に学校で返してくれたらいいよ」
「え、見ないの?」
「いいや、それはない。親から頼まれていた用事を思い出して、今日は時間がなさそうなんだ。月曜日の夜にでも見ようかなと思っている」
「本当?」
「ああ。五十嵐さんが先に見ればいい」
「ありがとう」うわ、ラッキー。
 五十嵐香月は嬉しい気持ちで自宅に帰れた。あいつ、なかなかいい奴かもしれない。でも、もし付き合ってくれなんて言ってきたら即座に拒否。自惚れるじゃないわよ、たかがビデオを又貸ししてくれたぐらいでさ。口を利くぐらいならいいけど、それ以上は絶対にダメ。
 月曜日の朝、登校すると佐久間渚と山田道子の二人が近くにいない時を選んで、借りたビデオを彼に返した。もし見られたら、『どうしたの? 何があったの?』と徹底的に事情を聞かれる。きっと『ビデオを借りただけよ』と正直に答えても二人は信じない。あたしと彼が付き合っているらしいと、勘ぐるに決まっていた。山田道子に限っては香月の秘密を知ったと得意になるかもしれなかった。     
 映画はモーガン・フリーマンの出番が少ないことが不満に感じたが、内容は悪くはなかった。
 「これ、ありがとう」
「どうだった、この映画?」
「面白かった」
「それは良かった。今夜が楽しみだな」
「うん。ありがとう」そう言って、自分の席に戻ろうとした時だった。思いがけない言葉を背中に浴びた。
「五十嵐さんは本当に綺麗だなあ」
「……」え、どう応えていいのか分からない。そこまでハッキリと同級生から外見に対する賛辞を伝えられたことはなかった。
「やっぱり将来は芸能界へ進むつもりなんだろう?」
「え……」芸能界……うん、そう思っていた。……だけど。「わからない」なんとか五十嵐香月は声を絞り出す。
「わからないって、どういう意味だい? それだけ見栄えがいいのに、まさか無駄にするつもりなのかい」
「……」げっ。ずっと香月が悩み続けている問題の核心を、いきなり突かれた。
「五十嵐さんが、『プリティ・ウーマン』みたいな映画のヒロインを演じて、大スターになるのは想像に難しくないよ」
 え、ちょっと待って。お願い、待って。その言葉よ、まさしくその言葉だわ、あたしが期待していたのは。母親の口からは聞かれなかった、紛れもない、その言葉。
 ずっと自分は、そうなりたいと願っていた。そうなるのに相応しい美しさが、自分にはあると思っていた。君津のDマーケットで、もしくはルピタで、芸能界に関係した人からスカウトされないかしらと期待していた。しかし声を掛けてくるのは、ダサい格好の不細工な男たちだけだった。
 「お姉ちゃん、ドライブしない?」図書館からルピタへ歩いて行く途中で声を掛けられたことがある。お気に入りの青い水玉のワンピース姿だった。振り向くとサングラスをした長髪の男が黒いインプレッサを超スローで運転していた。明らかに自分で自分を凄く格好いい男と錯覚している超バカ者。もう、最悪。冗談じゃない。この服で、そんな暴走族みたいな車の助手席に座ると思ってんの? 家にあるのがフォルクス・ワーゲンの白いゴルフEなの。品のない自動車はお断り。
 おしゃれな格好をして出歩いても、それに反応して群がってくるのは田舎臭い阿呆連中だけなのが悔しかった。
誰にも言わなかったが芸能界への憧れは幼い頃からだ。最近は女優の中山エミリを強く意識していた。すごく可愛くて綺麗だ。彼女が写真週刊誌フライデーに、西麻布での路上キスをスクープされた記事を見たときは驚いた。なかなかやるな、と思った。女優たるもの常に注目を集めるために、話題を提供し続けなければならない。さしあたり自分だったら、と考えてみた。体育館の裏でキスを見つかったり……いや、ダメだ。男子の喧嘩じゃあるまいし、あそこはナメクジが多くてロマンチックじゃない。なら、保健室だったらどうだろう。西麻布には負けるが、ベッドは置いてあるし、みんなの想像をかき立てるには学校の中では最高の場所かもしれない。だけど……、どこにもキスするに相応しい相手がいなかった。ここは田舎すぎる。
このままではダメだ。この君津で、このまま埋もれて一生が終わってしまいそう。たぶん袖ヶ浦か天羽の高校を卒業して、ちっぽけな地元の建設会社の事務員になるのが関の山だろう。イヤだ、そんな人生。
 中学二年に上がって危機感を抱いた五十嵐香月は決断する。もはや自ら行動に出るしかない。母親に相談して芸能界に進みたいことを初めて伝えた。
 「お前の熱意は分からないでもない。だけど、かなり厳しい世界らしいよ。きっと辛い事は沢山あるよ。テレビに出られる人なんて僅かだろう。ほとんどが途中で挫折して辞めていくんだ。それでも挑戦してみたいのかい」
 散々否定的な意見を聞かされた。それでも香月が頷くと、ため息をつきながらも母親は出来る限り協力してくれると言ってくれた。
 その日のうちに杉浦書店へ行って、それに関係した雑誌を買う。エントリー用紙が付いていたので、それに必要事項を記入した。 
 週末は自宅のリビングで上半身と全身の写真を、父親のデジタル・カメラを使って撮った。気に入った服すべてで何度もシャッターを切る。朝から夕方まで、ほぼ一日を費やす。ベストの写真は、やはり青い水玉模様のワンピースだった。大人っぽくてセクシー。スタイルの良さも分かってもらえそうだ。二枚の写真をエントリー用紙に添えて港区の芸能プロダクションへ送った。
 返事は、すぐに来た。学校から帰ると、笑顔で母親が午前中に電話があったと教えてくれた。来月に行なわれるオーディションへ来てくれと言う。つまり書類選考に通過したということだ。すごく嬉しかった。『プリティ・ウーマン』のジュリア・ロバーツに近づいた思いだ。
 だが嬉しい思いはオーディションの日が近づくにつれて小さくなり、どんどん不安が大きくなる。会場は港区の事務所が入るビルの5階だった。青い水玉模様のワンピースで行くことにした。この服しかない。
 その前日だった。親戚に不幸があって、母親が一緒に行けそうにないと言い出す。じゃあ、一人で行くしかない。気持ちは沈んだ。
 君津駅から内房線に乗って蘇我駅まで行く。そこで京葉線に乗り換えた。次の電車が出発するまで時間があったので、駅ホームの自動販売機でシャキッと元気に行きたい思いでリアルゴールドを飲んだ。うまい。だけど喉の渇きを癒すには量が少なかった。香月は続けて自販機にコインを投入すると、次はドクター・ペッパーを選んだ。これも美味しかった。
 地元から遠ざかることで不安が増大していく。東京メトロの麻布十番駅に降りた時には、なんだか自分がアメリカのニューヨーク五番街に辿り着いたような思いだった。言葉は通じるかしら。
 何人かの人に道を聞いて会場を探し当てた。ガラス張りのエレガントな十二階建てのビルで、エレベーターに乗って5階へ上がる。降りた廊下には近くにデスクが置かれていて、ストレートの黒髪が綺麗な三十歳ぐらいの素敵な女性が立っていた。白いブラウスにグレーのタイトなスカート姿で、いかにも仕事が出来そうな感じだ。ベルトはブラックでゴールドの大きな丸いバックルが引き立っている。うわ、お洒落。そこが受付けだった。オーディションの順番を表す、番号札を渡された。二十五番だ。え、そんなにいるの? 
 受付けの横が待合室だと教えられて、そのままドアを引いて中へ入った。話し声が止む。一瞬の静寂。広さは学校の教室の半分ぐらいか。二十人近い人が四隅に備え付けられたソファに座っていた。全員の視線が五十嵐香月に集中。
 みんなが母親を連れて来ていた。友達同士で来ている子たちも何人かいる。やっばり、一人で来たのは香月だけらしい。
 視線に耐えられない。空いているスペースを見つけて、急いで腰を下ろした。バッグを開けて中から何か探す振りをして誰かと目が合うのを避けた。
 横目で周囲を観察する。若い綺麗な女の子たちばかりで、男の子は一人だけだ。痩せっぽちで、太った母親の横に大人しく座っていた。こんな女だらけのところに、よく居られる。どんな神経をしているのか。
 女の子たちの美しさは目を見張るほどだった。服のセンスは抜群で、これからステージに上がっても可笑しくない格好の子もいる。
タイトな服を着て身体の曲線を強調した超セクシーな子は特に目立った。悔しいけど凄く似合っていた。
 君津南中学校では美貌を誇れた五十嵐香月だったが、ここでは普通の女の子に成り下がってしまう。まるで二年B組の山田道子になった気分だ。最悪。どうしよう。
 斜め向かいには肩を寄せ合って座る女の子二人がいて、少し話しては何度もケラケラとよく笑う。こんなところで一体、何を話しているんだか。バカじゃないの。
 いきなりドアが開くと受付にいた女性が現れて、「二十番の人」と声を掛けた。長身でスタイルがいい、まるでモデルみたいな女の子が立ち上がって部屋から出て行く。あと五人もいるのか、と自分の順番が来るまでを数えてうんざりした。
 香月は、バッグの中から何も書いていないノートを取り出して読む振りをした。みんなの視線を集めたくないので、出来るだけ身体
を動かさない。
 時間が経つのが遅かった。まだかしら。少しでも早く、ここから立ち去り……。
 うっ、……しまった。ああ、どうして? オシッコがしたい。急に尿意を催す。蘇我駅のホームで二本も缶ジュースを飲んだのがいけなかった。このビルのエレベーターに乗り込む前にトイレに行くべきだった。後悔の念に駆られる。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。  
 トイレに立てば部屋にいる全員の視線を集める。いやだ。恥かしい。我慢できるか、……いや、出来そうにない。
 斜め向かいに座る二人が、またケラケラと口を押さえて笑った。
むっ。く、悔しい。あたしの事を笑っているに違いなかった。千葉県の君津から出てきて、オーディション会場でオシッコがしたくて我慢している、あたしを笑っているのだ。
 もし、こんな場所でオシッコを漏らしたら……。大好きなチューリップ柄のパンティを穿いていた。濡らしたくない。
 もうダメだ、限界。五十嵐香月は意を決して立ち上がった。ケラケラ笑っていた二人が驚いて顔を上げる。唾を吐きかけてやりたいと思ったが、そうしないで早足で部屋から出て行く。受付けの女性が、どうしたのというような表情を見せたが、無視してエレベーターへ急いだ。案の定、その近くにトイレがあった。
 もう、あの部屋には戻りたくない。みんなが、あたしを軽蔑して敵視しているんだ。用を足しながら香月は、そう思った。トイレを出ると、そのままエレベーターで下まで降りた。外に出て麻布十番の駅まで歩く。足取りは重かった。
 君津へ戻る電車の中で気分は最悪だ。もうダメだ、あたしは。人生が終わった。『うん、そうらしいね』と、他の乗客たちも心の中で思っているみたいな気がした。
 「どうだった?」玄関の扉を開けて、家の中に入った途端に母親が訊く。
「わからない」用意していた言葉で答えた。それしか言いようがない。色々と訊きたがる母親に、「すごく疲れた」と言って自分の部屋へ逃げた。一人になりたかった。
 なのに母親は一緒に二階まで上がってくる。無下にも出来ない。「三十人ぐらい、女の子がいたわ」
「まあ、そんなに。それで何て訊かれたの」
「色々と。趣味とか、やっているスポーツとか」
「へえ。でも、香月が一番きれいだったでしょう?」
「……、さあ、わからない」親ばか、そのもの。世間知らずなんだから、まったく。
 まあ、そう言う自分も今日、芸能プロダクションの事務所へ足を運ぶまでは不安もあったが、かなりの自信も持っていた。それが全て打ち砕かれてしまった。
 「疲れたから、もう寝るわ」
「え、夕飯は? 香月の大好きなスパゲッティにしたのよ」
「ありがとう。でも明日にするわ」
「そう」
 娘の沈んだ様子から空気を読み取って欲しかったが、そうは行かないのがうちの母親だ。そのあと何度も、それも毎日のように、うんざりするほどオーディションの話を持ち出す。「結果の知らせが遅くない? どうだったのかしら」とか。そもそも受けていないのだから、結果の知らせが届くわけがない。
 「さっき電話があったの。オーディションは受からなかったみたいだわ」次の日曜日、母親が買い物から帰って来たときに、そう言って嘘をついた。これで終わってほしい思いだった。
「え、どうして? 変じゃない、香月が落ちるなんて。どういう訳なのか、お母さんが電話してみようか」
「いい。いいから、お母さんは黙ってて。お願い」
「お前、そんなこと言ったって……。ここで引き下がっちゃダメなのよ。世の中、押しが大切っていう事もあるんだから」
「いいの、自分で何とかするから。ほかの芸能プロダクションを当たってみるわ」
「お前がそう言っても、お母さんは納得できない。失礼にもほどがある、うちの娘を落とすなんて。文句を言ってやらないと」
「止めて、お母さん。お願いだから」
「いい子で素直だから、お前は何を言われてもそのまま受け入れてしまう。だけど、それは時と場合によるの。理屈に合わないことをされて黙っていれば、相手を付け上がらせるだけなのよ。さあ、電話番号を教えて。お母さんがガツンと言ってやるから」
「違うの、お母さん。よく聞いて。まだ落ちたと決まったわけじゃないのよ」こう言うしか母親を止める方法はない。
「え、どういうこと?」
「最初の企画には通らなかったけど、他にも企画があるから、そっちで選考するから待ってほしい、って言うことだったの」
「……じゃあ、完全に落ちたわけじゃないのね」
「そ、そうなの」
「なあんだ。はっきり香月が説明しないから、お母さん、勘違いしちゃったじゃないの」
「御免なさい」
「でも良かった。まだ可能性はあるわけね」
「うん」
「期待できるわよ。香月ほど綺麗な子なんて滅多にいないんだからさ」
「……」
 この場は何とか収まった。だけど母親に協力を求めたことを強く後悔した。これからどうなるのか。
 芸能界には入れそうにない。だけど母親は頻りにオーディションの話を持ち出す。ノイローゼになりそうだった。これからの人生は長いのに目標がなくなった。何もする気が起きない。毎日だらだらと過ごしていくだけの自分。
 少し元気になったのは、日本代表がフランス・ワールドカップ出場を決めた時。最後は延長戦での岡野のゴールデン・ゴールだ。現実から逃避する思いでサッカー熱に酔った。
 初めて見た試合が四年前のドーハの悲劇で香月は小学三年生だった。その頃は父親が大好きで一緒にソファに座って観戦した。プレーを見ながら分かり易くルールや試合の運び方を説明してもらう。楽しかった。ロスタイムで同点にされた時は何が起きたのか理解できない。ただ父親の失望する姿から、すごく悪いことが起きたんだと感じた。その通りで、ワールドカップには出場できなかった。アメリカ大会では日本代表の代わりとして、サッカーの神様と言われるペレが推した、アスプリージャを擁するコロンビア代表を応援したが、初戦のルーマニアに続いて米国にも負けて,一次リーグ突破も叶わなかった。
 今では父親とは距離を置いて、ほとんど話をしない。
 「お父さんに、いつでもべったりなんだから」小学四年生の頃だったと思う、いきなり母親から言われた。そうしちゃ悪いみたいな言い方をされて戸惑う。
 「お父さんと仲良くしたらいけないの?」香月は訊いた。
「そんな事は言ってないわよ」と母親の答え。理解できない。
「だって、そんなふうな言い方だったじゃない」
「言ってません。お父さんと仲良くしたければ、すればいいのよ。あなたの勝手よ」突き放すような言葉を返されて、どうしていいのか香月は分からない。仕方なく父親とは口を利かないようにした。
 しばらくすると、「お父さんと仲良くしなさいよ。いい子なんだから、香月は」と母親。態度は一変して口調も優しい。一体、どうなっているのか。
「お父さんと何かあったの、お母さん?」
「何もないわよ」
 そう言われても香月は納得できない。しつこく何度も訊くと別の答えが返ってきた。「香月は子供だから知らなくていいの」
 やっぱり何かあったんだ。子供だから知らなくていいと言うけれど、お使いには「もうお姉ちゃんなんだから、このぐらいのお手伝いが出来なくてどうするの」と言われて行かされる。
 都合のいい時はお姉ちゃん扱いで、都合の悪い時は子供扱いらしい。
 母親に嫌われたくないし、両親の仲を窺いながらも面倒なので、いっそのこと香月は父親と距離を置くようになっていく。だからジョホールバルの試合は自分の部屋で一人で見た。
 日本代表がフランス大会の出場を決めたことで、君津南中学のサッカー部も注目を集めるようになった。特にストライカーの板垣順平は女子の憧れの的だ。回りが、キャー、キャー言うものだから香月も彼を意識するようになった。
 確かに背は高い。顔も悪くない。運動神経は抜群だ。女の子に人気があるのも頷ける。だけど……うむ、しかしだ、彼の家は中古車屋だった。新車のディーラーではない。それに彼の言動からは知性というものが感じられなかった。本を読んだり、洋楽を聴いたり、洋画を鑑賞したりするとは思えない。結論として自分のボーイ・フレンドには相応しくなかった。
 理想のタイプは痩せていて背が高く、ハンサムな男。運動が出来て知性に溢れている。そして青年実業家であったら最高。グリーンのベンツEクラスを所有していたりすれば尚うれしい。まあ、BMWの3シリーズでもいいけど。あ、でもベンツのCクラスは嫌い。だって小ベンツなんて名前で呼ばれてよばれいるから。
 当たり前だけど、この君津南中には一人も該当者はいなかった。将来そうなりそうな人物も見当たらない。こんな田舎じゃ無理なのか……。
 それでも友達に誘われてサッカーの試合には応援に行くようになる。何もする事がなかったし、少しでも外に出れば自分が元気になれるかなと思ったからだ。
 観戦していて不思議なことに何度も板垣順平と目が合う。その理由を教えてくれたのは佐久間渚だ。彼女はサッカー部のキャプテンである佐野隼人と仲がいい。
 「板垣くんたら、香月のことが好きらしいわよ」
 あ、そうなの。最初は、その程度の反応だった。言い寄ってくる大勢の男達の一人としてとしか意識できない。恋愛感情は持てなかった。
 だが、それが噂となり広まっていくと、板垣順平を憧れる多くの女子を失望させた。香月は気分がいい。あたしは、みんなと違う。優越感に浸れた。オーディションで味わった悔しさを八つ当たり出来るチャンスかもしれない。もっとガッカリさせてやりたくて、みんなが見ている前で板垣順平に馴れ馴れしく声を掛けたりした。効果はてきめんだ。
 香月も好意を持っていると思った板垣順平は行動に出る。ちょくちょく用事もないのに電話してくるようになった。佐野隼人と佐久間渚と一緒に四人で出掛けようと誘ってきた。
 そんな気はさらさらない香月は、のらりくらりと生半可な返事を繰り返した。突然のプレゼントが気持ちを変えるまで。
 放課後、掃除当番をしていた香月に板垣順平が近づいてきて包みを手渡した。ソニー製のミニ・ディスク・ウォークマンだった。録音も出来るやつ。すぐに佐久間渚が教えたんだと悟った。
 その数日前だ、香月は小雨の中で飼い犬のリボンの散歩途中に、手に持っていたミニ・ディスク・プレーヤーを水溜りに落としてしまった。仲良しの犬に気づいたリボンが走り出そうと、いきなりリードを引っ張ったからだ。すぐに拾ったが内部に雨水が入ったらしく二度と再生はしなかった。買ってから半年も経っていなくて、ずっと大事に使ってきたのに。泣きたいほど悔しい。翌朝、佐久間渚と顔を合わせると一番にその話をした。「渚、ちょっと聞いてよ。昨日、リボンの散歩をしてたら……」
 それが板垣順平の耳に伝わって、突然のプレゼントという結果をもたらす。うれしかった。「うわっ、ありがとう」 
 と、同時に心の隅で理性が働く。同級生から、ましてや付き合ってもいないのに、こんな高価な品物を受け取っていいのだろうか。返す気は少しもなかったが、口からは礼儀をわきまえた言葉が出てきた。「本当に貰ってもいいの? こんな高いモノ」
 五十嵐香月の最大の弱点は、百円程度のモノでもプレゼントされると相手に好意を持ってしまうことだ。とにかくモノを貰うことが大好きだった。後になって、そんな安価なモノで自分が心を動かしたことに気づいて情けなく思うことが少なくなかった。
 今回はソニー製のミニディスク・ウォークマンだ。アイワ製じゃない。とても百円では買えない。お返しとして、四人で映画﹃タイタニック﹄を見に行くことを承諾した。彼は電車賃からファミレスでの食事代まで全てを支払ってくれた。お金を更に使わせることになってしまったが、そうすることで彼は喜んでいた。
 うん、なかなか紳士じゃない。そんなに中古車屋って儲かるのかしら。一人息子は親から小遣いをたっぷり貰っているようだ。ちょっと付き合っていいかも。そんな思いから二人だけのデートが始まった。ララポート船橋には何度も行く。いつも何か買ってくれた。ロキシーのロゴが入ったTシャツから始まり、ポロシャツ、青い水玉のワンピース、ハイレグ水着へと進み、とうとうブラジャーとパンティまで買わせた。それが当たり前になった。
「香月ったら、一体いくら板垣くんに使わせたのよ」と、見かねた渚が注意してきた時に、ちょっとだけ良心の呵責を感じた。しかし週末に立ち寄ったマツキヨでは、順平がエアーサロンパスを入れた買い物カゴをレジまで持って行く途中で、生理用ナプキンを忍ばせてしまう。
 板垣順平はモノを買うことで二人の関係を深くしようと考えていたらしい。しかし香月は身体には指一本触れさせない気だった。手を何度か握られたが、直ぐに払い除けた。
 とうとう「キスさせてくれ」と迫ってきた時は、「あたしたち、まだ中学生だから」と言って拒否した。すると思いも寄らない情報が耳に飛び込んできた。
 「何、言ってんだ。もう佐野と佐久間だってしてるんだぜ」
 えっ、マジで? 驚いて順平の顔を見ると、﹙しまった、言っちゃった﹚というような表情で口元を手で押さえていた。「おい、今の聞かなかったことにしてくれ。頼む」
「……」驚きは顔に出さない。しっかり無表情を保つ。
「お願いだから、聞かなかったことにしてくれ」
「……」無言のまま。こういう場合、出来るだけ長引かせることが肝心。交渉術には長けているつもりだ。
「香月、頼むよ」
「……いいよ。わかった」不満たらたらという感じで頷くが、心ははニンマリ。香月にとっては好都合。これで当分の間は順平がキスを迫ることはないだろう。このタイミングで、ミスティウーマンのショート・ブーツをねだれば買ってくれるかも。それに渚の秘密を知った。
 あの女、可愛い子ぶっていながら隅に置けない。あたしに黙って佐野隼人なんかとキスして。お互いの口の中に舌を入れて絡ませ合ったんだろうか。うわっ、気持ち悪い。あたしだったら絶対にしない、そんな不潔なこと。まあ、グリーンのベンツを運転する理想の彼氏が求めてきたら別かもしれないけど
 それにしても未だに報告がないのはどういうことか。ずっと黙っているつもりなのかしら。腹が立つ。異性との関係で自分より早く一歩前に踏み出したことも気に入らない。
 初潮のときはあたしが一番で、その二週間後が道子だった。渚はなかなか来なくて、「あたし、ダメかもしれない」と嘆いて心配するのを、「大丈夫、きっと来るから」と言って慰めて励ましたのだ。
 どこで調べたのか知らないが道子の方は安心させるどころか、「もしかしたらロキタンスキー症候群じゃないかしら」と、不安を煽る始末。生まれつき子宮がない女性のことだと説明を聞くと渚は泣き出した。「余計なことを言わないで」と、得意げに知識を披露する道子を嗜めてやったのは、このあたしじゃなかったか。それなのに、この仕打ち。仲間に対する裏切り行為に他ならない。絶対に許せなかった。
 あの可愛い顔で、よくもそんな大胆な行動に出たもんだ。だったらあの二人、もしかしてセックスするのは時間の問題じゃないかしら。きっと両親や兄弟がいない時に、渚か佐野隼人のどちらかの家にしけ込んで、アソコとアソコを丸出しにして裸で抱き合うんだ。まあ、いやらしい。でも、もしそうなったら、どうヤッたのか全てを知りたい。その知識で自分もセックスが出来る女になれる可能性がありそうだ。
 気持ちの整理がつかない。しばらく渚とは少し距離を置いて、道子と仲良くするようにした。時には彼女の家を訪れた。渚と佐野隼人とのキスの一件を教えてやろうかと迷い続けたが、タダで言うにはもったいない情報なので止めた。映画『シックス・センス』の大事なネタを見る前にバラされて、面白味が半減した恨みも消えていなかったし。
 芸能界へ進むという夢は砕けたままだったが、山田道子の家で別の世界への道が一つ見つかる。それは彼女の兄が捨てるために山積みした古い週刊誌の一冊を、たまたま手に取って開いた記事からだった。
 内容は、あるAV女優が税金を逃れる為に所属していた会社に預けた三千万円と、未払い金の二千万円を踏み倒されたということだった。合計で五千万円。げっ。そんなに稼げるの、AV女優って。
 香月の頭の中は五千万円という金額でいっぱいになった。す、凄い。すご過ぎる。五千万円て、いったい一万円札が何枚になるのかしら。さっぱり見当がつかなかった。セックスするところを見せるだけで、そんな大金がもらえるなら、……ぜひやりたい。こうなったら、なんとしてでもセックスが出来る女にならないと。
 家に帰って、おもむろに父親に訊く。「お父さん、この家って幾らしたの?」
「土地と建物で三千万円ぐらいだったな。でも、あの頃はバブルが弾けて値段が下がり……」
 へえ、三千万円だって。その後に続く父親の説明は、もう聞いていなかった。五千万で二千万円もお釣りがくる。こんな家がキャッシュで買えるんだ。父親は三十年ローンを組んだらしいけど。やっぱり、五千万円で凄い。こうなったら行動開始。
 翌日、休み時間に板垣順平を捕まえて頼みごとをした。そのAV女優が出演しているビデオを借りてきて欲しいと伝えた。仕事の内容を詳しく知りたい。
 「えっ。オレが、かよ」
「そうよ。女のあたしが借りるのは恥ずかしいもの。あんなカーテンがしてあって仕切られているのに、その奥に入って行く勇気はないわ。お願いだから。だって順平は借りたことあるんでしょう」
「な、ないよ。そんなの借りるか、このオレが。バカ言うなって」
「嘘、言わないで。この前、学校に持ってきて鮎川くんに渡したじゃないの。光月夜也の『スチュワーデス暴虐レイプ』とかいうやつよ。あんた達がイヤらしそうにニヤニヤしてたもんだから、昼休みに道子が黙って鮎川くんのリュックを開けて見たんだから」
「マジかよ、それ」
「道子ったら、勝手に家に持って帰って、奈々と一緒に見たらしいわよ」
「そうだったのか。あれには参ったぜ。鮎川の野郎がビデオが無くなっている、なんて言ってきやがって慌てたんだ。加納先生に見つかったのかもしれないと心配してたら、翌日には机の中に戻っていたから安心した。一日分の延滞料金を支払うだけで済んだ。だけど山田道子って女は何をしでかすか分からない奴だな」
「そうよ。学校にアダルト・ビデオを持ってきても、みんなの前に出しちゃダメよ。道子は詮索好きで、勝手に人のカバンの中を覗いたりするんだから」
「……」
「だから、お願いだから借りてきて」
「わかった。だったら、そんな名前も知られていないAV女優よりも、やっぱり光月夜也のビデオを推薦するな。うふっ。お前に似ているんだよ。あ、いや、ごめん。お前の方がずっと綺麗だった。その女優の『令嬢教師強制登校』とか、『夫の目の前で犯されて』なんかは良かったぜ」
「それじゃダメなの。このAV女優のビデオが見たいのよ」
 この男には呆れる。その光月夜也とかいうAV女優のセックス・シーンを見ながら、あたしのヌードを想像しているらしい。まあ、いやらしい。お前に似ているんだ、と言ったところでニヤけながら目付きがギラギラと変わる。すごく美味しそうなケーキを目の前にして、今にも涎を垂らしそうな表情だった。
 「じゃあ、探してくるよ。でも見たことないぜ、そんな名前は」
「鮎川くんとかに訊いてみたらどうかしら」
「いや、オレが知らないんだから他の連中に訊いても無駄だろう」
「あら、そう」
 この男って本当に信用できない。アダルト・ビデオなんか借りたこともないって初めは言いながら、結局は相当に詳しいみたいな口振りに変わった。
 探すのが難しそうな言い方をした順平だったが、次の日には学校に持ってきた。えらい。なかなか使えるじゃない。信用は出来ないが、ここは評価しよう。当然、山田道子と佐久間渚がいないところで手渡してくれた。借りてきてくれたのは二本で、タイトルは『スチュワーデス ぐしょ濡れ直行便』と『愛と腰使いの果てに』だった。うわ、なんか凄そう。
 「参ったぜ」
「どうしたのよ」
「君津になくてさ、木更津まで行って借りてきた」
「本当に?」
「ビデオ屋を何軒も回ったぜ。もう疲れた。これって古すぎるんだよ。どっから見つけてきたんだ、この名前。どうして、このAV女優にこだわるのか分からない。ミス東京か何か知らないけど、光月夜也だって負けちゃいないぜ。ロシア人との混血なんだ。ビデオの内容にしたら、オレは光月夜也の方がいいと思う。お前に似ているのは、こっちの方だ。犯され方はリアルっぽいし、画質だって全然いい。アダルト・ビデオっていうのはな、もちろん女優の見栄えは大切なんだが、画質とかシーンの撮影の仕方で違ってくるんだ。いかに女優を綺麗に……」
 板垣順平、この男はアダルト・ビデオを語らせたら止まらないって感じ。得意な分野はサッカーだけじゃないらしい。「見たの?」香月は訊いた。
「え」
「この二本のビデオを見たってことなの?」
「う、うん。……まあな。オレも見ておくべきだと思ったんだ」
「どうして?」
「ど、どうしてって……そう、言われても」
「なんで見ておくべきなのよ、順平が」
「それは……なかなか綺麗な女優だったし、少しは香月に似ているなと思ったからだよ」
「へえ。順平がアダルト・ビデオを選ぶ基準ていうのは、どれだけ女優があたしに似ているかなの?」
「う、うん……そうだな」
 男ってヤることしか考えていないって、いつか先輩の山崎桃子から聞いたけど本当らしい。もし自分がAV女優になった場合、確実にファンは一人いるってことか。でもやるからには絶対に五千万円は稼いでやろう。
 あたしが出演するアダルト・ビデオを順平が見て楽しむのは、それはそれでOK。でもヤるのは絶対にイヤ。モノを買ってくれるのでデートはするが、身体には指一本触れさせたくなかった。
家に帰って、さっそく借りてきてくれた二本のビデオを自分の部屋でマックロードにセットした。母親には宿題をするからと言って、二階に上がってこないように釘を刺す。音量はギリギリまで落とした。
 生まれて初めてアダルト・ビデオを見る。なんか、大人の世界に一歩足を踏み出すみたいでゾクゾクした。心臓がドキドキ。あっ、すっごく綺麗な女の人が画面に映りだされた。うわっ、スタイルも抜群じゃない。この人がこれから裸になって男の人とセックスするの? 信じられない、こんな素敵な女性が……。
 えっ、……うわ。す、凄い。見ていて身体が火照ってくる。これほど綺麗な女性が、あんなに恥かしいことをするなんてと驚く。やっぱり五千万円を稼ぐのって大変そうだ。ただしアダルト・ビデオを見てもセックスの仕方は良く分からなかった。モザイクが掛かっていて肝心のところが見えないのだ。
 山田道子は正しかった。男の人って白い液体を出す。だけど女優が男の人のアレを口に含むのには参った。そんな下品なこと自分に出来るかしら。五千万円を稼いだ綺麗な女の人は白い液体を口の中に出されたり、顔に発射させられたりしていた。
 どうしよう。ちょっと自分に出来るかどうか自信をなくす。やっぱり地元の建設会社の事務員ぐらいしかなる道はないのか。将来への不安に再び襲われる。
 そして日本代表がワールドカップ・フランス大会でジャマイカに負けた時、大きな失望と共に、順平と一緒に出歩く気持ちも失せてしまう。趣味が合わなくて、好きでもない男と仲良くするのは、もうイヤだ。苦痛しかなかった。いくらモノを買ってくれても、もう限界。自分にウソはつけない。その晩に順平から電話が掛かってくると、開口一番に「もう一緒に出掛けるのはイヤだから」と言ってやった。
「え?」
「もう一緒に出掛けるのはイヤだから」もう一度繰り返す。
「え、どうしたんだ。何があった? 分かった、あのアダルト・ビデオがいけなかったんだろう。やっぱり、古すぎるんだよ。だったら光月夜也のビデオを見て欲しい。きっと--」
「アダルト・ビデオは関係ない。何もないの。今、言った通り。ただ、それだけ」
「おい、ちょっと待ってくれよ。何があったのか教えて--」
「何もないって言ってるでしょう。もう一緒に出掛けたくないの、ただそれだけよ。もう電話を切るから、さようなら」
「おい、待ってくれ」
 長々と話したくないので電話を切った。その後は何度電話が鳴っても受話器は取らなかった。具合が悪いので誰とも話したくない、と母親に言って電話を取り次がないようにしてもらう。
 翌日、学校へ行くと真っ先に佐久間渚が「香月、どうしちゃったの?」と真剣な表情で聞きに来た。順平から仲を取り持つように頼まれたのは間違いない。正直に答えた。最初から好きではなかったこと、一緒に出歩くことが耐え難い苦痛になっていることなど。
 渚が、「じゃあ、どうしてあんなに沢山のモノを買わせたの?」と痛いところを突いてきた時は黙って聞き流して、すぐに自分の主張を繰り返した。趣味が合わない、タイプの男じゃないと言葉を並べて彼女から順平に、しばらくそっとしてあげた方がいいと言ってくれるように頼んだ。
 それでも回数は減ったが、順平からの電話は続いた。ああ、しつこい。「何かプレゼントしたい」と言ってきても、はっきり「いらない」と拒否した。
 よりを戻したいからだろうが、学校で声を掛けてきたり、帰り道に偶然を装って待ち伏せをされたりするのが、うざったくて仕方ない。どんどん嫌いになっていく。憎しみを覚えるほどだ。
 芸能界へ入るのにもう一度オーディションを受けに行こうか、それとも男の人のアレを口に含むことを我慢してアダルト・ビデオに出演しようか、と悩む日々が続く。こんなこと、とても渚や道子には相談できなかった。彼らに秘密は守れない。とくに山田道子は信用ならない。香月は一人で思い苦しむ。そんな時だ、転校生の男子生徒に容姿を褒められたのは。
 その響きに気持ちは揺らいだ。綺麗だ、可愛いとか言われることは少なくない。だけど全ての褒め言葉が、五十嵐香月と付き合いたいという下心から生じたものだ。でも転校生のは違った。あたしのために言ってくれたと感じた。そして『プリティ・ウーマン』という大好きな映画まで口に出して褒めてくれたのだ。この人だったら相談できるかもしれないと、すぐに思った。
 「オーディションを受けに麻布まで行ったんだけど……あたし、怖くなって何もしないで帰ってきちゃったの」
 誰にも言わなかった事実を二年B組の教室で、転校してきたばかりの男子生徒に告げてしまう。自分でもビックリ。あたし、どうしちゃったの。
 「……」
 だけど相手は無言。ああ、言うんじゃなかった。きっと情けない女だと見下しているに違いない。他人に弱みを握られるなんて絶対にイヤ。うそ、うそよ。それは冗談です。と今から否定しても遅くはない。こんな男子に思わず口を滑らせてしまった自分がバカだった。取り繕うつもりで口を開きかけたが--。
 「分かるよ」
「え?」
「その気持ち、分かるな」
「……」意外な言葉が返ってきた。なんか凄く嬉しい。
「無理もないよ。初めてだったんだろう、オーディションなんて」
「そう」
「五十嵐さん」
「なに」
「一度や二度の挫折なんて当たり前さ。それを乗り越えて成長していくんだから」
「本当?」なんか凄い説得力。
「初めっから上手く行く人なんて、ごく限られた人間さ。色々と苦労を乗り越えて、また様々な経験を積んでこそ、実力が付いて人間的にも魅力が増していくのさ」
「へえ」
「たかが一度のオーディションで逃げ出しちゃったとしても、五十嵐さんの美貌を棒に振ることはないよ。もったいない。いつか有名になった時、それが過去のエピソードとして笑い話になるんじゃないのかな」
「……」うわあ、勇気づけられる。
「実は、僕の父親が洋画に関係する仕事に携わっているんだ」
「え、それ本当?」うわっ、なんてこと。
「ああ。色々とハリウッドの面白い話を聞かせて--」
「あ、待って」香月は、渚と道子が教室へ入ってくるのが見えて急いで相手の言葉を遮った。「ねえ、その話は後で詳しく教えてくれない。お願いだから」
 その週末、五十嵐香月は転校生を家に呼んだ。異性を自分の部屋に入れるなんて初めてのことだ。自分を勇気づけて欲しい、再び挑戦する新たな力を得たいという気持ちが強かった。
 父親は長期の出張中で、母親は必ず土曜日はオバアちゃんの所へ行く。自宅には香月と飼い犬のリボンが居るだけ。転校生に来てもらうには丁度いい。
 金曜日の夕方、ルピタへ行ってスナック菓子とドリンクを用意した。二千円も使った。もてなしは最上級だ。不思議なのは帰ってくるなり、飼い犬のリボンが自分に向って唸り声を上げたことだ。何か機嫌でも悪いのだろうか。
 二年前、近くの公園に捨てられていた子犬のリボンを家に連れて帰ったのは香月だ。すぐに懐いてくれた。今では香月の左脚を好んでマウンティングする。あまり気持ちのいいものではないけれど、あたしを愛している証拠なんだと思って我慢していた。ところが図書館へ行って犬の飼い方の本を読んで調べてみるとビックリ。犬は自分よりも下位の生き物に対してマウンティングすると書いてあったのだ。つまりリボンは保護してくれた恩人の香月を今では自分よりも下の地位として考えているらしい。一体、いつ立場が逆転したのよ。
 それ以来、リボンがマウンティングしてくると、なんだか風俗嬢にされたみたいな気分になってイヤだった。
 機嫌を直してもらおうと、お気に入りの左脚を出してマウンティングを促す。だけど見向きもしなかった。なにかヘン。土曜日、転校生が家の呼び鈴を鳴らしたところで、リボンの興奮は一層激しくなった。吼えて吼えて吼え捲くる。一階のリビングに閉じ込めるしかなかった。普段、お客さんが来ると好奇心いっぱいにして大はしゃぎでシッポを振るのに、この日は違った。
 「なるほど、な」部屋に入って椅子に腰を下ろすと転校生は言った。
「え、どういうこと?」自分の部屋に異性と二人だけなんて、なんだか恥かしくてぎこちない。テーブルの上にスナック菓子とコカ・コーラを用意しながら場をもたしていた。彼の言葉に戸惑う。意味が分からない。
「うふ。五十嵐さんらしい家だし、この部屋にしても五十嵐さんそのものって感じだ」
「そう?」どうしよう。お礼を言うべきなのか。ただ悪い気はしなかった。「ねえ、ハリウッドの面白い話ってどんなの?」
「今年のアカデミー主演女優賞候補になったグイネス・パルトローは、『恋におちたシェークスピア』での演技が認められた結果なんだ」
「うん」
「あの役のオファーは最初、ウィノナ・ライダーに来たんだって。だけど当時一緒に住んでいたグイネス・パルトローが台本を見つけて読んで、プロデューサーに自分を売り込んで役を横取りしたらしいよ」
「本当? つまり友情よりも自分キャリアを優先したってこと」あんなに綺麗な人が、なかなか凄いことをする。「じゃあ、その後の二人の仲は?」
「もちろん決別さ」
「ウィノナ・ライダーって、『シザーハンズ』に出た人でしょう。すごくキュートな女優だと思った。『若草物語』では主演女優賞にノミネートされたわ」
「そうだ。もし役を横取りされなかったら、今度こそ賞を獲れたかもしれない」
「悔しかったでしょうね」
「そりゃ、そうさ。アカデミー主演女優賞なんて獲れたら一気に仕事は増えて、ギャラも上がるからね」
「へえ」
「演技の上手な役者は沢山いるけど、なかなか世に出るのが難しくて大変なんだ。ほとんどがアルバイトをしながらの生活で、食べていくのが精一杯。華やかなのはトップに登り詰めた僅かな連中だけさ」
「厳しい世界だって聞くわ」
「多くが日の目を見ることなく終わっていく。当たり役に巡り合うことが出来るかどうかに掛かっているんだ。例えば『風と共に去りぬ』のビビアン・リー、『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーン。それと『プリティ・ウーマン』のジュリア・ロバーツ、『ショーシャンクの空に』のモーガン・フリーマンとか」
「実力の他に運が必要ってことね」
「その通り」
「あたしなんかが、やって行けるかしら」
「自分に半信半疑じゃ難しいだろうな。絶対になるっていう強い信念を持っていないと。その強い信念が幸運を引き寄せるんだから」
「……」ああ、自信がなくなる。
「どうした」
「不安だわ」
「五十嵐さんらしくないぜ」
「そうかしら」
「だって学校では、自信に満ちていて我が道を行くって感じだぜ」
「あんな田舎の中学校だからよ」
「あはは。麻布のオーディション会場だって、いつかそう思える日が来るさ」
「……」そんなふうに考えたことはなかった。でも言えてるかも。
「演技の勉強をしたりして、少しづつ自信をつけるといい」
「そうする」
「五十嵐さんが成功することを信じているよ」
「ありがとう」少し勇気が湧いてきた。
「五十嵐さんの美しさは、どこへ行っても通用するさ」
「そう言ってくれると凄く嬉しい。あたし、芸能界は無理だと諦めて、AV女優になろうかと考えたこともあったんだ」
 ああ、言っちゃった。この転校生の前だと無意識に自分を曝け出しちゃう。
 「どうして」
「だって、……お金が稼げそうだったから」
「いや、今は難しいみたいだぜ」
「そうなの」
「うん。AV女優になりたいっていう女の子が沢山いるらしい。当然だけど、反比例してギャラは安くなっていく。よっぽど綺麗でスタイルも良くて、その子ひとりでアダルト・ビデオが企画できるなら話は別だろうけど」
「へえ」この子って何でも詳しいみたい。すごい。
「やめた方がいいよ。寿命は短くて、すぐに飽きられていく。失うモノの方が多い。一度でも出演したら、元AV女優という肩書きが一生ついてくる。リタイアした後で、もし誰かに美しさを褒められても自慢できないぜ。子供だって諦めるしかない」
「え。どうして、子供が産めなくなるの?」
「母親が元AV女優だと知ったら悲しむさ」
「黙っていれば……」
「無理だな」
「なんで?」
「世の中には、おせっかいな連中が沢山いるぜ。どっかからか調べてきて子供に母親の素性を教えるさ。証拠として、しっかり裸の写真を持ってきてな。きっと学校中に知れ渡るようにするだろう。そうなったら引っ越すしかない。奴らは他人の家庭が崩壊していくのを見て楽しむのさ。それって悲しくないか?」
「言う通りだわ」
「でも……」
「でも、何?」
「ポルノ映画に出演したけど成功した俳優も何人かいるんだ」
「えっ。誰、それ」
「キャメロン・ディアス」
「えっ、あの『メリーに首ったけ』に出た女優?」
「そうだ。彼女が十九歳の時だった」
「信じられない。嘘みたい」
「ほかにはマリリン・モンローとかヘレン・ミレンとか、女優じゃないけど歌手のマドンナだって」
「へえ」
「ポルノ映画じゃないけど、『猿の惑星』でチャールストン・ヘストンの相手役を演じた女優は、あの役をもらう為にプロデューサーと寝たらしい。だけど台詞はもらえなかったんだ」
「そうだ、あの女優は映画の中で一言も喋らなかったわ」
「ほかにも『猿の惑星』にはエピソードがあるんだ」
「教えて」
「五十嵐さん、となりに座ってもいいかな」
「え」どういう意味? となりに座るって、こんなに近くに居るのに?
「その方が話し易いんだ」
そう言うなり、彼は椅子を持って真横に腰を下ろす。「じゃあ、いいよ」香月の承諾は後からで全く意味がなかった。
「ありがとう。実は、あの映画の猿は日本人がモデルかもしれないんだ」
「えっ」
「原作を書いたフランス人の作者は、第二次世界大戦の時に日本軍の捕虜にされて、フランス領インドシナで収容所生活を強いられたらしい」
「へえ。それで、あの物語のアイデアを思いついたの?」
「そうみたいだぜ」
「まあ」
「じゃあ、五十嵐さんが一番好きな映画を教えてよ」
「うーん、色々あるけど……やっぱり一番は『ショーシャンクの空に』だわ。あんなに感動した映画ってないもの」
「あれは素晴らしい作品だった。僕も大好きだ。スティーヴン・キングの原作よりも面白かった」
「え、小説も読んだの?」
「うん。最初に小説を読んでいたんだ。タイトルは確か〛刑務所のリタ・ヘイワース』っていう短編で、それほど面白いとは思わなかった。だから映画は二の足を踏んでしまったよ」
「へえ」なかなか知的な趣味を持つ少年なんだ、この子は。勉強が出来るのも頷けるかも。
「あの映画なんだけど……」
「うん。何?」
「ブラッド・ピットに出演をオファーしたけど、スケジュールの都合で叶わなかったんだって」
「へえ。じゃあ、あのアンディの役を、もしかしたらブラッド・ピットが演じたってこと? なんかイメージが浮かばないなあ。ティム・ロビンスで良かったよ」
「いや、違う。トミーの役さ」
「え、トミーって」
「アンディの妻を殺した奴を知っていると所長に話して、看守に銃で撃たれて殺された若い男だよ」
「あのイケメンの人?」
「そうだ」
「へえ」--あっ。いきなり彼の手が伸びてきて、香月の左足に触れた。そのまま動かない。ど、どうして。今度は承諾を求めてもこなかった。こ、困るんだけど。
「小説よりも面白い映画っていうのは滅多にないんだ」
「そ……そうなの」返事を口から搾り出す。左の太股に乗ったままの彼の手が気になって何も考えられない。どうして退けてくれないのか。こんな時って、どう行動すればいいの? ジワジワと彼の体温が手を通して、香月の下半身に伝わってくる。不安。 
「例えばルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』だな」
「……」頷くだけで精一杯。アラン・ドロンの出世作だと知っていたが相槌すら打てない。言葉が口から出てこなかった。心臓はドキドキ。彼の手が静かに太股を撫で始めている。
「原作はパトリシア・ハイスミスっていう人が書いたんだけど面白くなかった。がっかりしたよ」
「ふう……ん」か、か、身体が……熱い。何なの、この感覚は。
「五十嵐さんは小説を読むの?」
「……」ううん。急いで首を振った。質問に対する返事というより
も、身体に起きている異変を振り払うかのように。で、でも……ダメ。効果がない。なんだか身体が溶けていくような……。
「それは残念だ」
「は、はあ」ため息が口が漏れる。
「『スリーパーズ』という映画を覚えているかい?」
「……」え、スリーパーズ? あたしのこと? 目が虚ろになっているかもしれないけど、眠いわけじゃないのよ。
「ほら、ニューヨークに育った四人の少年たちが少年院に送られて看守に虐待される話だよ」
「あ、……ああ」それなら覚えている。なかなか面白かった映画だもの。確かブラッド・ピットが出演していて、他にも何人か有名な俳優が……。ああ、ダメだ。頭がボヤけてハッキリしない。
「あの映画そのものは悪くなかった。だけど原作となった小説の面白さには足元にも及ばないな」
「……」へえ、……そうなの。な、なんか映画の話なんか、どうでもいいような……もう興味がない。それよりも、こ、この……甘ったるい感じ……。
「『マジソン郡の橋』だって--」
「あっ、……あう」
 もう彼の言葉は耳に入ってこなかった。無意識にも香月の首は後ろに仰け反った。腿を撫でられることに違和感を覚えていたが、それが今は消えた。続けて……もっと続けて。あたしを撫でて。こんなに気持ちがいいのって初めて。「は、は、はあ」
 彼の手が動く。スカートの裾から中へと、奥の方へ進んでいこうとしていた。これって……もしかして、いけない事じゃなかったかしら。「はあ、はあ」そうだったかもしれない。恥かしいところに届いちゃう。だけど香月に拒絶する力は残っていなかった。逆に彼の手がスカートの奥で動きやすいように太股を広げてみせた。身も心も甘く溶けてしまう直前、一階のリビングに閉じ込められた犬のリボンが激しく吼えるのが聞こえた。

 演技のレッスンって、気持ちが良くて楽しい。女優はラブシーンで真価が問われるって言う彼の意見は正しいと思う。二人で土曜日をレッスンの日に決めた。だけど今週は水曜日に母親が上手い具合に出掛けることになった。「香月、ごめん。ご飯の用意はして行くから。帰ってくるのは、早くても木曜日の夕方になりそうなの」
 「いいよ、仕方ないもの」と面倒くさそうに答えたものの、心は宇宙に飛び上がるぐらい舞い上がった。彼を家に呼べる。泊まってくれるかも。そしたら朝までずっと--。想像するだけで下腹部がムズムズしてきた。顔はニヤけて火照りそう。そこをなんとか堪えて、難しそうな表情を保つ。頑張れ、香月。
 えっ、これってアカデミー賞級の演技じゃない、もしかして。『恋におちたシェークスピア』のグイネス・パルトローにも負けていないはず。
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