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文字数 13,908文字

   29 

 「なあ、……この前の話なんだけど--」黒いメルセデス・ベンツの運転席に座る男が重そうに口を開く。
「いいわ。もう言わないで。わかったから」安藤紫は相手の言葉を途中で遮った。
 イタリアン・レストランでの食事を終えて、アパートまで送ってくれたところだ。ほとんど二人は車内で言葉を交わさない。レストランでも今までとは違う雰囲気だった。
 この男もダメだ。いざ結婚となると尻込みを始めた。電話で、逢おうと言われた時から否定的な返事を聞かされるんだと感じた。ウェートレスが注文を聞いて立ち去ると、男はトイレへ行った。安藤紫は行動を起こす。水の入ったコップにペナルティの白い粉末を落としてやった。躊躇いなんかない。これまで何度もやってきた。いい返事をくれないバカには代償を払ってもらう。タダ乗りは絶対に許してやらない。あたしの身体を楽しんでおきながら、その責任を果たさないで立ち去ろうなんて考えが甘すぎる。
 「すまない。今は仕事が忙しくて……」
「いいのよ。あたしが性急すぎたわ。あの話は忘れて」
「また逢ってくれるかい?」
「もちろん。あなたのことを好きなのは変わりないもの。また連絡して。今日はご馳走さま。おやすみなさい」
 安藤紫は助手席のドアを開けて外に出た。何歩か進むと振り返って、笑みを浮かべながら男に手を振った。同時に心の中では、こいつに安藤紫の恐ろしさを思い知らせてやろうと誓う。
 また一から始めなきゃならない。男漁りだ。目立つ服を着て、人が集まる場所へ足を運ぶ。
 どんな服を男が好むか、どんなポーズに男が興奮するか。すべて分かっている。学年主任の西山明弘は格好のモルモットだった。色っぽい仕草や甘い言葉にハッキリと反応してくれるから、ずいぶん勉強になった。
 その甲斐もあって、言い寄ってくる男は数知れない。しかし付き合うに値する男は数少なかった。
 メルセデス・ベンツの男には深く失望した。今度こそは、と思っていたのに……。医者の息子だった。長男だから、いずれ父親の経営する医院を継ぐのは間違いなかった。
 あいつから連絡が来たら、しばらくは逢ってやろう。ペナルティをドリンクに混ぜて飲ませなきゃならない。体格から計算して、確実に症状が出る量を用意してあった。
 お前は医者にはなれない。させるもんか。患者になるんだ、それも不治の病で。
 さあ、気を取り直さないと。いつまでも落ち込んでいられない。
明日は加納先生を誘って二人で食事でもしようかと思う。彼女と一緒だと楽しくて、気持ちが前向きになれた。
 それに悪いことばかりじゃなかった。もう一つの計画では大きな進展があったのだ。とうとう、あの女の子供を見つけた。女子生徒だった。
 なるほど、あの女の面影を引き継いでいた。可愛い。いずれ相当な美人になるだろう。すでに男子生徒たちの注目を集めているのも頷ける。これまで気づかなかったのが不思議なくらいだ。
 男よりも女でよかった。復讐のし甲斐があるというもんだ。美貌を奪って醜い女にしてやりたい。その変わり行く姿を見て母親と祖母が嘆き苦しむのが楽しみだ。
 上手く手懐けて、こっちに親しみを持たせよう。毎日のように会って、少量のペナルティを混ぜたコーヒーを飲ませ続ける。徐々に体調を崩し、可愛らしさを失っていく。男子生徒の憧れから、誰もが目を背けたくなるような存在へと変貌するのだ。 
 明日の昼休みに、彼女が美術室へ遊びに来ることになっていた。そうだ。ベンツの男に失望させられた腹いせに、女子生徒のコーヒーには、今回だけ大目のペナルティを混ぜたコーヒーを飲ませてやろうじゃないか。
 グッドな思いつきに安藤紫の気分は少しだけ良くなった。

   30

 「お前、どうして呼び出されたのか分かっているか?」
 学年主任の西山明弘は二年B組の教室で、生徒の机を間にして手塚奈々と向き合っていた。体育の授業でクラスの全員が校庭に出て行った。今は二人だけだ。彼女は見学者リストに入っていたので都合がよかった。お好み焼き屋でのアルバイトを問い質してやるつもりだった。
「あたしの体操着が盗まれた件ですか?」
「なに? お前、そんなモノを盗まれたのか」その話は聞いていない。
「はい。体育の授業が終わって汗で濡れたままでした。でも翌日にはロッカーに戻してあったんです。なんか気持ち悪い」
「マジか? 誰だ、そんな事する奴は」
「男子の誰かじゃないかと思います」
「そうだろうな、きっと」変態じゃないか。いい女だから、そんな事をしたい気持ちになるのも分からないではないが。「二度と盗まれないように、しっかり管理した方がいいな」
「これで三回目です」
「えっ」
「もう困っちゃう」
「三度目なんて……。加納先生は知っているのか?」
「最初の時は報告しましたが、次からは面倒臭くなってしていません。いつも翌日には戻ってくるんです、だから……」
「そうか」呆れた。もう性犯罪だぞ、これは。「よし。四度目があったら、オレに報告してくれ」それしか言いようがない。
「わかりました」
「だけど今日、呼び出したのは別の話だ。お前、何か校則違反をしているだろう?」
 こうして近くで見ると本当に魅力的な女だと思えた。瑞々しい色気を全身から発散している。ナメクジみたいにジメジメした感じの大家の娘とは大違いだ。
「え、……さあ、なんだろう」
「とぼけても無駄だぞ。こっちには情報が入ってきているんだ」この言葉が効いたらしい。女生徒は顔を上げた。「正直に話せば悪いようにはしない」
「本当ですか?」
「もちろんだ。オレを味方だと思っていい。お前ぐらいの年齢になれば何かしらの過ちをして当然だ」
「じゃ、言います」
「よし」ますます気に入った。なかなか素直で性格はいい。
「原付に乗って友達の家やコンビニへ行くのは、もう止めます」
「は?」
「あの日は風が強かったんですよ。歩いてコンビニまで行くのがかったるくて、家にあったスズキのスクーターに乗りました。そしたら凄く楽ちんで、病みつきになっちゃったんです。すみませんでした。もうしません」
「お、おい」こりゃ、拙い。「お前な、それは校則違反どころか道路交通法違反だぞ。もし事故でも起こしたら取り返しがつかない。親は知っているのか?」
「母親はダメって言いますけど、父親は頼めば渋々ですがキイを渡してくれます」
「……マジかよ」これは大変なことを聞いてしまった。知りたくなかった。
 この女生徒の父親に電話して、娘さんにスクーターに乗らせてはいけません、なんて言ってみろ。返ってくる言葉は決まっている。うちの生活に口出しするな、だ。
 以前に、中学生の息子と毎晩のように晩酌を交わす父親に注意したところ、逆切れされて職員室まで怒鳴り込んできた。「お前らはガキどもに勉強だけ教えていればいいんだ。余計なことはするんじゃない」
 もう二度と、生徒たちの家庭とは関わりを持ちたくないと、これで決めた。連中が非行に走るのは、ほとんどが親に問題があるからだ。しかし何か不祥事が起きれば、マスコミは学校の責任を追及してくる。バカやろう。アホで道理が通らない親よりも学校の方が追求し易いからだ。
 いじめ問題は世間一般では、まるでそれが中学校でしか存在しなかのように扱われている。ふざけんな。いじめはどこにでもある。頭の回転の鈍い奴、運動の苦手な奴、力のない奴、気の弱い奴、空気が読めない奴、器量の悪い奴、要領の悪い奴、仕事のできない奴は、どこへ行こうがいじめに遭うんだ。指導する立場でありながら、ここ君津南中学校の職員室でも、いじめは大なり小なりあるんだから。
 「それじゃない。その件は聞かなかったことにする、いいな?」もし生徒が事故を起こして、学年主任のオレが無免許運転の事実を知っていたとなれば学校は責任を追及される。それは避けたい。「まだ他にもあるだろう。それを言え」
「じゃあ、板垣くんが学校に持ってきた光月夜也のアダルト・ビデオを黙って借りたことですか?」
「え、……光月夜也? あのロシア人とのハーフっていう--しまった。口が滑った。
「そうです。やっぱり西山先生も知っているんですか。すっごく綺麗な--」
「バッ、バカ言え。し、知らない。そんなものにオレは興味はないんだ」
 あの板垣順平は学校にアダルト・ビデオを持ってきているのか。困った奴だ。よりによって光月夜也とは……。畜生。オレに馴染みのない女優だったらボロを出さなかったのに。『女教師 生徒の目の前で』に出演した三東ルシアに次ぐ好みのAV女優だった。
 「一日で返しました。でも最初に鮎川くんのリュックから探し出したのは山田道子なんです。あたしは、一緒に見ようって誘われただけです」
「もういい、それは分かった。違う。別の一件だ。心当たりがあるだろう」
「じゃあ、もしかして……」
「そうだ。その、もしかしてだ」もう早く言ってくれ。時間の浪費だ。早く本題に入りたい。
「関口くん達から万引きしたワコールの下着を買ったことですか?」
「……」えっ、相馬太郎だけじゃないのか? あいつが駅前のコンビニで万引きして捕まった時は、オレが燃費の悪いレガシィで駆けつけてやったんだ。叱ると、もうしませんと誓ったはずだ。まだ、あの連中は続けているのか。
「あたしだけじゃありません。関口くんたちが万引きした--」
「もういい、もう言わなくていいから。そのことは聞きたくない。それも違う」呆れた奴だ。叩けば叩くほど次から次へと埃が出る身とは、この長い脚をした手塚奈々ことを言うらしい。聞くだけ、こっちが困難な立場に追いやられていく。「オレが言いたいのは、お好み焼き屋でアルバイトをしていることだ」
「あ。それ、ですか」
「そうだ。れっきとした校則違反だろう。そう思わないか?」
「知りませんでした」
「知らなかったとは言わせない。ちゃんと生徒手帳に明記してあるからな。たまたま働いているところを、父兄の一人に見つかったんだ。しばらく止めた方がいいぞ」
「困ったな。オーナーに何て言おう?」
「学校で注意されましたって正直に言えばいいだろう」
「それが通ればいいんだけど……」
「どういう意味だ?」
「オーナーは木畑興行と関係がある人なんです」
「なに? ヤクザじゃないか」
「そうなんですよ」
「お前、どうしてそんなところで働き出したんだ?」
「森田桃子先輩の紹介です。先輩も中学二年の頃から、そこでアルバイトしてたって言ってました。あたしにピッタリな働き口があるって教えてくれたんです」
「……あいつか?」
 西山弘明は森田桃子が卒業してから、なんと千葉の栄町にある風俗店で顔を合わせていた。「あら、やだ。西山先生じゃないの」なんて気軽に声を掛けてきやがった。店の人に、知り合いなんですと事情を話して他のソープ嬢に変えてもらったのだ。まさかその話が手塚奈々に伝わっていたりして。背筋が寒くなる。この女生徒に伝われば学校中に広まるのは時間の問題だ。もちろん安藤先生や加納先生の耳にも届く。もはや身の破滅だった。
 「もう先輩は働いていません。オーナーと給料のことで喧嘩して辞めました。なんか千葉の風俗店に移ったとか、噂で聞きましたけど」
「そうか」良かった。まだ伝わってないらしい。「お前なあ、あんな先輩と付き合うのは止めろ。いかがわしい所でしか働けない女になってしまうぞ」
「別に付き合っていません。もう連絡は取っていないし。たまにルピタとかDマーケットで会ったりすると、向こうから声を掛けてくるんです」
「無視しろ。お前の為だ、それが」
「わかりました」
「お好み焼き屋のアルバイトはしばらく止めろ。ここだけの話だけど、ほとぼりが冷めたらまた始めていいから」 
「どうしよう。今月だけでも続けちゃダメですか」
「どうして」
「オーナーに借金があるんですよ」
「幾らだ?」なんて野郎だ。美人の女子中学生を借金漬けにして、強制的に店で働かせているらしい。西山明弘は犯罪の臭いを嗅ぎ取った。普通の人よりは少ないのは認めるが、それでも正義感が燃えたぎってきた。
 中国やインド、バングラディシュでは劣悪な環境で児童が、家計を助ける為に働かされて将来を奪われているのが現実だ。この手塚奈々というセクシーで可憐な少女を、過酷な労働から助け出してやりたいと思った。頭は悪いかもしれないが、その美貌を利用すれば玉の輿に乗れる可能性だってあるのだ。
 「十五万円ぐらいだったかな」
「えっ、そんなに大金を……」とても立て替えてはやれない。大家の娘との付き合いがあるし。
「そうなんです」
「とても一ヶ月ぐらいバイトしたって返せる金額じゃないだろう」
「いいえ、そんなことありません。上手くやれば……」
「上手くやれば? お前、時給は幾らで働いているんだ?」きっと安い給料でこき使われているんだろう。可哀想に。
「三千円です」
「えっ、……そんなに?」
「はい。あたしが働くようになったら店の売り上げが倍増したらしくて。最初は山崎先輩と同じで千五百円だったんですが、あたしだけ次の月から二倍に昇給してくれました。うふっ」
「……」オレは時給で換算して三千円も貰っているだろうか? 西山は自分の給料と、目の前に座る女生徒が受け取るアルバイト代を無意識に比較した。
「最近はオーナーが頻りに、あたしに言ってくるんです」
「何て?」
「あと三センチだけスカートの丈を短くしたら、時給を五千円にしてやるって。もう今だってパンティが見えそうなくらいなのにですよ。男の人って本当に、すごくエッチ。でも借金を返すためなら仕方ないかなって思ったりします。それにスカートが短いと、お客さんがチップを弾んでくれるんです。えへっ。千円なんてザラで、たまに五千円とか一万円だったりして」
「……」
 なんてこった。オレが主任手当てとして貰う五千円なんて、この脚の長いバカ娘にしてみれば、たった三センチだけスカートの丈を短くすれば一時間で得られる金額らしい。なんか情けない。すごく寂しい。これが、この世の現実なのか。
 金が無くてレガシィに給油するのも毎回20リットルづつと気を使いながらだった。満タンするなんてボーナスが出る月の、年に二回だけだ。この十四歳の娘は脚が長い理由で、倹約とか節約を常に強いられる苦労をしないで済んでいる。
 「お金をオーナーから借りた理由なんですが、ファッション雑誌に載っていたシャネルの財布とグッチのバッグが欲しくなったからでした。それと店の仲間とディズニーランドへ行って派手に買い物をしちゃったんです。あはっ。楽に稼げるもんだから、つい--」
「いい加減にしろっ」怒鳴った。
「え?」
「もう黙れ」聞いていられなかった。
 西山明弘の頭の中にスーパーいなげやでの怒りが蘇る。去年の暮れだ。大家の娘が作る不味い料理にはうんざりしていた。正月ぐらいは美味しいお雑煮を作って食べようと、食材を買いに行ったところが、かまぼこが千円近くもするのに驚かされた。いつも夕月は百円ぐらいで買えるのに何で? 仕方なく店を出て、周辺のスーパーを全て回ってみた。ふざけんなっ。どこにも安いかまぼこは無かった。こんな高いかまぼこには手が出ない。業界が談合して消費者に安いかまぼこを買わせなくしているのだ。正月なんで貧乏人から一儲けしてやろうという魂胆らしい。そんな卑劣なことが許されるのか? 三が日が過ぎた頃に、やっと安いかまぼこが店の商品棚に姿を現す。それを見て再び怒りに火がつく。畜生、オレをコケしやがって。こうなったら意地だ。もう二度とかまぼこは口にしてやるもんか。
 もしかして話し合いの場所は、手塚奈々がアルバイトをするお好み焼き屋だったりして。いや、きっとそうだ。この女子生徒は長いセクシーな脚を露わにして、業界の連中からたんまりチップを貰っているに違いなかった。反対に安月給で働かされる中学教師のオレは不利益をこうむっている。バカヤロー。「オレはな、お前たちのお陰で、かまぼこ無しのお雑煮しか食えなかったんだからなっ」いなげやでの怒りは目の前の女生徒に向けられた。 
「え、かまぼこ? お雑煮? どういうことですか?」
「うるさい。いいか、お好み焼き屋のアルバイトは永久に禁止だ。罰として一ヶ月間のトイレ掃除を言いつける。分かったな」
「え、どうして? 正直に話したら悪いようにはしないって、さっき先生は--」
「バカっ。そんなことオレが言うもんか。校則違反は厳しく処罰する」
 こんな不条理な話があるか? 世の中、間違っている。こんなことだからデフレ経済から脱却できない、それで国の借金が一千兆円にもなろうとしているんだ。
「先生、待ってください。なんか話が違いませ--」
「黙れっ。とっとと校庭へ戻って体育を見学してろ」
 西山明弘は席を立つと女生徒を残して、さっさと教室を出て行った。手塚奈々とは二度と話をしたくない。出来ることなら二度と顔も見たくなかった。あんなバカ娘はスズキのスクーターに乗っているところを大型トラックに轢かれりゃいいんだ。

   31

 高木教頭は胃の痛みに苦しんでいた。何度もトイレに駆け込む毎日だ。正露丸も大田胃散も飲んでみたが全く効かない。そりゃ、そうだ。原因はハッキリしている。薬を服用して治る病気なんかじゃなかった。株式投資での損失が精神と体調を蝕んでいた。
 『横河ブリッジ』を損切りして、二部市場の『京葉電気』に乗り換えたのは間違いだったらしい。たかが生徒の言葉を迂闊に信じて行動を起こすべきじゃなかったのだ。
 『横河ブリッジ』は売却した途端に四百円を超えて上昇した。どうしてだ? オレに対する嫌がらせか。持っていれば六万円は儲かっただろう。逆に『京葉電気』は買ったら直ぐに下がりだした。一週間後の火曜日に大きく下落したので、思い切って高木教頭はナンピン買いをしていた。買値の平均単価を安くする為だ。資金は銀行のカード・ローンから借りた。そこから損失は二倍のペースで膨らむことになった。
 今まで稼いだ利益は一気に消えた。苦しい。悲しい。喪失感に身も心もボロボロだ。もう死にたい気分だった。ダニエラ・ビアンキやジル・セント・ジョンの美しさは頭の片隅にもなかった。
 どうしよう? 持っていれば、いずれ上がるんじゃないか。
 根拠のない期待に縋って生きる毎日だった。もはや日本経済新聞を読んで勉強する気も失せた。株式欄を見て『京葉電気』の下落を知るのが辛いのだ。いつか事態は好転する、そう自分に言い聞かせた。
 昨日の昼休みだ。携帯電話を鳴ったので応答すると、相手は中原証券の山口だった。
 「先日に買った『京葉電気』なんですが、午前中にストップ安になりました」という報告だ。大きな石を無理やり飲み込んだように胃が重くなった。「連結子会社の粉飾決算が明るみに出て、地検の家宅捜査が入ったらしく--」その後に説明が続いたが高木教頭は、もはや聞いていられなかった。黙って電話を切ってトイレに駆け込んだ。
 余計なことで電話してきやがって。知りたくなかった。もう仕事もしたくない。このまま一人で便器に座って死にたかった。家にも帰りたくない。あの鬼女房と顔を合わせたくなかった。ああ、つらい。精神的に疲労困憊しているのに、じっとしていられない。ヒリヒリと尻が痛い。トイレット・ペーパーの使い過ぎだった。
 どうして、ストップ安なんだ? 大手証券会社に勤める生徒の父親が推奨したのに。このまま何年も塩漬け状態になってしまうんだろうか。もしかして倒産したりして……。そしたら株券は紙切れ同然だ。買値まで戻ってくれないと、カード・ローンで借りた金の返済ができない。でも利息払いは、ずっと続く。
 不安に駆られて二年B組の教室へ急ぐ。黒川拓磨の姿を見つけると声を掛けた。「きみの父親が推奨した『京葉電気』がストップ安らしいぞ。一体、どうなっているんだ」もはや周りにいる生徒たちに聞かれてしまうことなんか気にしていられなかった。損失の責任を生徒に咎める口調になっていた。
 「……」
「おいっ」何も言わない生徒に腹が立った。(大丈夫ですよ。すぐに上がって行くと思います)と、そんな言葉が返ってくるのを期待していたのに。「きみが野中証券に勤める父親の情報を教えてくれたから、オレは資金の全額を使って--」
 黒川拓磨は急に立ち上がると、高木将人を残して、そのまま教室から出て行ってしまった。そ、そんな態度があるか? 教頭であるオレを前にして。気づくと生徒全員の視線が、何事かと自分に集まっていた。やっぱり、これはマズい。 
 仕方なく職員室へ戻った。階段の上り下りでは特に尻の痛みがヒドい。ドアを開けると加納久美子先生の姿が目に入った。静かに小説を読んでいる。彼女らしい。何年か前は教え子だったのに、今は知的な素晴らしい女性になっていた。なかなか仕事もできた。助けを請うような気持ちで声を掛けた。
 「加納先生」
「はい?」 
「黒川拓磨のことで一つ訊きたい」
「なんでしょう」
「彼の父親の勤め先なんだが、もし加納先生が知って--」いきなり彼女の美しい顔が曇った。どうしてだ? 言葉が続けられなくなった。
「教頭先生」
「なんだい?」オレが何かヘンなことを言ったか?
「父親の勤め先って、どういうことでしょう?」
「いや、ちょっと気になったから訊こうとしただけさ。大したことじゃない」
「ですけど、去年の暮れに亡くなっていますよね?」
「えっ?」
「生徒の書類を渡してくれた時に、教頭先生が教えてくれたんじゃありませんか」
「……」冷たい水を首から背中に流されたような思いだった。
「彼の父親の勤め先が、どうして今になって知りたいんですか?」
「……」苦しい。息ができない。
「教頭先生?」
「い、いや、……何でもない。忘れてくれ」高木将人は言葉を搾り出す。その場を離れて、夢遊病者のように自分の席へと戻った。ゆっくり椅子に腰を下ろす。放心状態。
 そうだった。黒川拓磨が転校してきて、その書類を担任になる加納先生に渡すときに、このオレが指摘したんだ。すっかり忘れていた。理解できない。どうして、そんな大事なことを覚えていないのか。自分らしくない。欲に目が眩んだのかもしれない。
 自分は教頭という立場でありながら、中学二年の黒川拓磨に騙された。このオレが、あんなクソ小僧に手玉に取られた。してやられたんだ。殺してやりたい。
 もう取り返しはつかない。地獄だ。あの鬼女房とその両親に頭を下げて、カード・ローンの借金を説明しなければならない。助けてもらわないと返済は無理だった。ああ、なんて恐ろしい。もうオレは一生、あの家族の奴隷だろう。自由はない。未来もない。
 絶望で奈落の底に落ちた高木将人に一つ確かなのは、もう二度とレンタルビデオを借りて、ダニエラ・ビアンキやジル・セント・ジョンのセクシーな容姿を見ながら、心を躍らせたりしないということだった。

   32 

 計画では決行の日は三日後だった。いくら何でも十日ぐらいは掛かるだろうと篠原麗子は見込んでいたのだが--。
 決めた、今夜やる。
 義父は撒いたエサすべてに飛びついてきた。こいつって警戒心とかないの? と心配するほどだった。わざと騙された振りをしているんじゃないかしら、と不安を感じたことも。でも転校生の黒川くんは「大丈夫。そのまま進めて」と言ってくれた。
 男って、こんなにバカだったの? それとも、こいつだけ? だけど木更津高校を卒業してんだよ、こいつ。
 仲が悪かった子が急に態度を変えて優しくなったら、あたしなら何か変だなと感じて警戒するけど。それが普通じゃないの。
 始めは朝の挨拶からだ。そして笑顔。積極的に声を掛けた。向こうが馴れ馴れしく、自分の肩とか背中とかに触れてきても嫌がる様子は見せない。こっちも義父の背中を、ふざけて後ろから押してやったりした。喜んでる。ケラケラ笑っていた。
 母親が入浴している時を見計らって、下着姿でキッチンまで行って冷蔵庫からアイスクリームを取り出したりした。呆気に取られている義父に向かって、「きゃっ。まさか居ると思わなかった。ごめんなさい」と言って慌てて二階へ上がって行く。
 お尻の丸みを強調するように前屈みの姿勢を奴の目の前でして見せたり、ショートパンツにタンクトップという姿でリビングに降りてきたりした。黒川くんのアドバイスを忠実に守った。
 お色気作戦は効果抜群。ニヤニヤしながら、麗子の身体に熱い視線を送ってきた。もう目が釘付けと言っていいくらいだ。
 決行を決めた夜、義父が用意したホット・ミルクを手に取りながらウインクして見せた。そして小声で言葉を添えた。「パパ、どうもありがとう。上で待ってるわ」
 義父は目で母親の姿を探して、今の会話に気づいていないことを確認すると黙って頷いた。
 母親が夜の仕事に出て行くと、奴は間を置かずに部屋の中に入ってきた。麗子は寝た振り。
 布団の中に手が入ってきて早熟な十四歳の身体を触りだす。耐えた。まだ早い。どんどん義父は大胆になっていく。
 いやらしい手が麗子の太ももを伝わって、股間に届きそうになった時に行動を起こした。寝返りをうって義父の方を向く。手を伸ばしてジャージの上から男の股間に触れた。
 うわっ、すごく固い。これは、びっくり。ここまでとは思いもよらなかった。オッ立つって、このことだったんだ。なるほど。サラミを薦められたのも当然だ。こんなになってたら、普段の生活にも支障をきたすんじゃないかしら。男って大変。
 しっかり練習を積んだ。サラミを買うのに一万円ぐらいは使ったはずだ。Dマーケットの精肉コーナーで適当と思うソーセージを選んでいると、後ろから店員のオジさんに注意されてしまう。
 「お姉ちゃん、むやみやたらに商品に触っちゃ困るな」
「あ、すいません」固さを調べていたのを見られたらしい。
「どんなのを探しているんだい?」
「いえ、……そのう、しっかり固いのが欲しいんです」
「固いの? それならこれかな。すごく美味しいよ」
「いえ、別に美味しくなくてもいいんです。固くて、適当に太ければ」
「固くて太い? へえ、一体どんな料理に使うんだい?」
「あ、いえ、まだ料理は決めていなくて。それなりに歯応えがあれば嬉しいです」
「ふうむ。じゃあ、これなんかどうだい? まあまあの味だけど値段が安いよ」
「あ、もう少し長い方がいいかも」
「え? これじゃ、短すぎるってことかい?」オジさんの訝しげな顔。
「……はい」か細い返事が精一杯。ああ、言うんじゃなかった。あたしって、バカ正直だから。
「そうか、なるほど」表情が笑顔に変わった。「お姉ちゃんは味は気にしないけど、固くて太い、それに長いソーセージが大好物なんだね」店員のオジさんは全てを理解したみたいに大きく頷くと、篠原麗子の下腹部に視線を集中させた。「分かるよ。オレも、あんたぐらいの年頃はそうだったから」
「……」自分でも顔が真っ赤になっていくのが分かった。
 違います。オジさんが想像しているようなことじゃありません。これは仕返しなんです。あたしは母親に元に戻ってもらって、二人だけで幸せに暮らしたいんです。それに、あたしとオジさんを一緒にしないで。そう声を大きくして言いたかったが、中学生の自分は我慢するしかなかった。
 「だけど、そういう事ならソーセージなんかじゃ意味がないさ。オレだったらサラミにするな。ほら、これ。固さといい、太さといい、長さだって、お姉ちゃんの可愛い手にしっくりくるんじゃないかな。どう? 握ってみるかい。もうバナナとかキュウリなんかは試してみたんだろう? えっ、まだだって? へえ、驚いた。最初からソーセージを選ぶなんて、お姉ちゃんは目の付けどころが人と違うな。素人っぽくないよ。かなり研究しているみたいだ。感心する。ああいう生モノはダメなんだ。長持ちしない。使えば摩擦で熱くなるからだけどさ。それに手に馴染んできたと思ったら、腐って使いモノにならないなんてことがしょっちゅうなんだ。それで男のオレが言うのも何だけどさ、こういうのは人によってサイズ的に微妙な好みの違いってのが出るらしいんだ。どんな風に自分が使うのか想像しながら探すのが一番さ。たっぷり時間をかけて感触を確かめてみたらいい。ここでオレが、ずっと見ててあげよう。ほら」
「い、……いいです」もう帰りたい。
「触ってみなったら、お姉ちゃん」
「い、いや」オジさんたら、黒くて太いサラミを持って、その先端を麗子の身体に当たりそうなくらいに近づけてくる。
「そう言わないで。ほら」
「いや、……いやです」そんなモノで、あたしを突こうとしていた。後ずさりするしかなかった。そこへ白いエプロンをした太った男の人が、お店の奥から現れた。サラミを持ったオジさんが身を引く。助かった。でも何かイヤな予感が……。
 「おい、何してんだ」
「あ、店長」
「どうした?」
「はい。この綺麗なお姉ちゃんなんですが、実はですね……」
 恥ずかしい。これまでの経緯を一部始終話し出す。固くて太い、を何度も繰り返して強調するので身が縮む思いだ。
「どれか丁度いいのを選んでくれなんて、こんなに綺麗な女の子から頼まれて面食らっちゃいましたよ。商品を棚に並べていたら、いきなりですから。あっはは」
 えっ、そんなこと言ってない。ひ、ひどい。オジさんの嘘つき。
「わかった、そういうことか。お姉ちゃんは澄ました顔をしているけど、隅に置けないな。あははっ。あっけらかんと恥ずかしい事を口にして、オレたちを慌てさせるんだから。よっぽど、そういうことが好きらしい。だけど、こいつの言う通りだ。そのサラミだったら絶対に間違いない」
「……」ああ、困った。この店長っていう人、すごく声が大きい。それで特売でもやっているのかと、まわりに買い物客が集まってくる。麗子は身体を小さくして頷くだけだ。早く解放されたかった。
「どうしました? 万引きですか」紺色の制服姿の警備員だった。人だかりに気づいて急いでやってきたらしい。
「違う、違う。そんなんじゃない。この、お姉ちゃんが……」
 ああ、いやだ。また一部始終を話し出す。でも今度は声が大きい店長の番だった。警備員だけじゃない、まわりの人たちにも聞こえるように説明する。
「そりゃあ、お姉ちゃん、サラミしかないよ。なあ、みんな」
 警備員のオジさんも納得した。余計な事に、まわりの人たちに同意を求めたりして。
 「わかりました、サラミにします。サラミを買います」この場から早く立ち去りたくて篠原麗子は言った。
「そうさ。それが一番いい」と、警備員の人。
 すると店長が、「お姉ちゃん、楽しいことに一生懸命な姿勢が気に入った。よっしゃ。十本買ってくれたら一本サービスしよう」、と言い出す。
 え、そんなにいらない。一つでいいです。だけど周りの人たちが拍手で応えてしまう。次々と声も上がった。
「さすが店長、太っ腹」
「気前がいいんだから、この人は」
「男の中の男っていうのは、あんたのことだな」
「肉屋の店長にしておくには勿体ないよ」
「良かったねえ、お姉ちゃん」
「あんたが、うらやましい」
「やっぱり可愛い顔してると得だな。ラッキー」
 そんなに欲しくありません、と正直に言えない状況に追い込まれていく。「じゃあ、十本買います」としか返事ができなかった。
 十一本のサラミを抱えてレジへ向かう篠原麗子の後ろ姿に、店員のオジさんが声を掛けた。「お姉ちゃん、またおいで。いつでも相談に乗るから。えへへ」
 Dマーケットの精肉コーナーには、二度と近づきたくないと思った。
 こんなことで思っていた以上の出費を余儀なくされた。失敗は許されない。
 ここまでが限界。もう義父に身体を触らせたくない。そのためには麗子の方が大胆になるしかない。ジャージを下ろして固くなったモノを外に引っ張り出す。なんなの、これって。気持ち悪いけど我慢して顔を近づけた。相手も下半身を前に突き出してくる。篠原麗子は目を瞑って素早く銜えた。口の中がいっぱいになった。やっぱりサラミやソーセージとは感触が大きく違う。
 「う、……う」
 さぞかし気持ちいいのだろう。義父は呻き声をもらした。気が緩んでいることは間違いない。ちょっと愉快。だって、これから大変なことになるのも知らないで快楽に身を委ねているんだから。作戦は大成功。黒川くんのアドバイスのお陰だ。お返しに彼の『祈りの会』には出てあげよう。篠原麗子は満身の力を込めて一気に顎を閉じた。
 ギャーッ、ギャー、ギャー。
 ハゲた中年男の断末魔の叫び声が夜の静けさを破った。最初に反応したのが隣の家で飼われていたイヌたちだ。異様な叫び声に驚いて吼えた。一匹が吼えると二匹目が続き、すぐに大合唱になった。それが他の家で飼われているイヌへと伝染する。君津市中野地区で飼われているイヌすべてに広まるのに時間は掛からなかった。
 吼え続けるイヌ、怯えて逃げ回るネコ、それを止めさせようとして慌てる人間たち。各家の中が大混乱。階段から足を踏み外す者、倒れてきたタンスの下敷きになる者、多くの人が怪我をした。何人かは重傷で救急車を呼んだ。地域に住む全員が暖かい布団から叩き出された。パジャマ姿で何事かと玄関の外へ出て行く人も少なくなかった。
 「ああ寒い。何なの、これって?」
「いや、知らない」
「起こされちゃったじゃない」
「泥棒か?」
「放火じゃないかしら?」
「テロかもしれないぜ」
「だったら早く君津南中学に避難すべきだ」
 しばらくして救急車のサイレンが聞こえてきた。それに合わせてイヌたちは遠吠えに変えた。坂田地区と北子安地区のイヌたちにも届きそうだった。消防車とパトカーも市内を走り回った。すべてが落ち着くまで朝日を待たなければならなかった。
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