09 - 12
文字数 13,684文字
09
「えっ、……こ、これ、彼が描いたの?」
「そう」
「……」
中学生が描いたとは思えない重苦しい絵を前にして、加納先生は言葉を失った様子だった。
「どう思う?」安藤紫は訊いた。彼女の意見が聞きたい。
「……」聞こえてないみたいに黙っている。
「ねえ?」
「……、すごい」
「でしょう」
「中学生で……こんな」
「彼、絵の才能を持っているわ」
「この女の子って誰なのかしら」加納先生は独り言のように言う。
「……」描いたのは自分ではない。だから答えようがなかった。
「きっと誰か特別な子なんでしょうね。だって彼女の肩には傷があるもの」
「そうだと思う」安藤紫は相槌を打つ。
「兄妹っていうことはないわ、彼は一人っ子だもの」
「あら、そう」安藤紫は嘘をつく。その事実は、とっくに知っていた。
「ええ」
「……」もっと何か加納先生が言ってくれるのを待った。ところが三時間目の授業の終了を知らせるチャイムが鳴る。
「そろそろ職員室へ戻るわ」
「うん」会話が続けられなくなっていて、加納先生はホッとしたみたいだった。安藤紫は彼女を促すように応えた。「じゃ、またね」
10
転校生の黒川拓磨が描いた絵を前にして安藤紫は美術室に一人だけになってしまった。おのずと過去の苦々しい記憶が蘇ってくる。こんな状態に陥る自分を止められない。
黒川拓磨の絵に対する加納先生の意見を聞こうとしたが時間の無駄に終わった。絵を見せたいがために、あえて会話をその方向へ持っていったのだ。聡明な女性で芯の強さを持っているから僅かでも期待を抱いていたのだが、やはり彼女には霊的なインスピレーションはなさそうだ。
きっと描いた絵に父親を亡くした影響が現れているのだろう、と加納先生は思っているに違いなかった。でも、そうじゃない。けっして、そうじゃない。安藤紫は断言できた。
なぜなら重苦しい絵に描かれた、左肩に傷のある少女は間違いなく中学二年のころの自分だからだ。
空には黒い雲、風は強く、今にも大雨が振り出しそうだった。夏の蒸し暑い日で、肩の傷が露わになろうが構わずにタンクトップを着ていた。痛々しい痕が残って、その所為で自分は醜い女になってしまったと感じた。自暴自棄だ。誰かに見られて何と思われようが気にしない。もう、どうでもよかった。
台風の接近で海は大荒れだった。千葉県の富浦にある祖父の家を、こっそり一人で飛び出して海岸までやってきた。死にたかった。これからどうなるのか、という不安に耐え切れなくなっていたのだ。
物心ついたころから、ずっと母親は父親の女癖に悩んでいた。家庭に諍いは絶えなかった。母親が泣きながら父親に物を投げつける場面を何度も見せられてきた。それでも二人が離婚しなかったのは一人娘の存在だった。
両親は紫を愛してくれた。父親と母親、どちらも大好きだった。それが故に二人が言い争うのは酷く心が痛んだ。
父親はスーツが良く似合う細身の体に、白髪交じりで苦み走った鋭い顔をしていた。多くの女性が憧れるのも無理もないと思った。母親は何度も泣かされ、その度に謝罪を受け入れて許してきた。
会社の上司だった父親の見栄えに一目惚れした事務員の母親だったが、それが彼女の人生を不幸に変えてしまう。
安藤紫が中学一年の三学期を迎えたころ、クラスに転校生が入ってきた。背が高くて綺麗な子だった。母子家庭で、両親は父親の暴力が原因で離婚したらしい。彼女の母親と安藤紫の母親とは同じ年だった。父母会の役員をしていた母親は色々と相談を受けることになる。すぐに二人は仲良くなり、可哀そうと感じた母親は何かと世話を焼くようになった。親同士が親しいので次第に紫と転校生も仲良くなり、親友と呼べるようにまでなった。二つの家族が自宅で一緒に夕食を食べることも何度かあった。
転校生の母親と自分の父親が不倫していることが発覚したのは中学二年の一学期だ。学校に来ていた母親の軽自動車のワイパーに誰かがメモを挟んで教えてくれた。これは今までとは違って、紫の母親を徹底的に打ちのめした。とうとう離婚を決意する。最後の話し合いをする為に、三人が自宅に集まった。安藤紫は二階にある自分の部屋にいて待つ。何をする気にもなれない。大好きな父親が家からいなくなる話し合いだ。気まずくて親友とは口を利かなくなっていた。ただ辛くて悲しい。アイワのミニコンポにプリンスの最新アルバムをセットしたが一曲目の『レッツ・ゴー・クレイジー』の途中で止めた。読みかけだった『アンネの日記』を開いてみたが内容が頭に入っていかなかった。
居間から叫び声がした。人が争っているような物音が続けて聞こえてきた。母親のことが心配になって急いで階段を降りた。
信じられなかった。母親と転校生の母親が掴みあっている姿が目に飛び込んできた。お互いに血まみれだ。父親は側で横たわり両手で自分の首を押さえている。何がどうなっているのか分からない。でも争っている二人の母親のどちらかの手に包丁が握られているのに気づく。お母さんが殺されてしまう。慌てて二人の母親の間に入って止めようとした。体当たり。三人が食器戸棚にぶつかり床に倒れ込む。安藤紫の肩の傷は、その時に出来たものだ。包丁を振り回していたのは自分の母親の方だった。わが子を切りつけたことを知って、やっと我に返る。父親の方は出血が酷くて意識がなかった。
母親は話し合っているうちに怒りが込み上げてきたらしい。席を立ち、台所から包丁を掴むと愛人へ襲い掛かった。しかし咄嗟に気づいて転校生の母親を守ろうとした父親を刺してしまう。それでも母親は怯まなかった。血を流して床に崩れる夫には目もくれず、愛人の方へ包丁を振りかざしたのだ。
父親は搬送された病院で息を引き取り、転校生の母親は身体に何ヶ所も切り傷を負う。安藤紫の母親は逮捕された。裁判では過度のストレスによる心神喪失を訴えたが認められなくて服役することになる。安藤紫は祖父の家に引き取られた。一度に二人の親を失った思いだ。何度か刑務所に面会に行ったが母親は人が変わったみたいに何も喋らない。一人娘と目を合わそうともしなかった。拒絶されていると安藤紫は感じた。
将来に対する夢や希望もなくなり、死にたいという気持ちが日増しに強くなっていく。その思いが、近づく台風の影響で荒れた海を一望できる高台へと安藤紫を歩かせたのだ。
ジャンプすれば死ねる。ジャンプするだけで死ねるんだ。その考えが頭の中をグルグル回った。背中を押し続ける強い風に身を委ねるタイミングを計っていた。
え、どこから?
子猫の鳴き声に気づいたのは、そんな時だ。 辺りを見回すと足元の側にダンボール箱が置かれていた。ミャー、ミャーという声はそこからだ。急いで歩み寄り、蓋を開けると中には汚れたタオルに包まれた黒い子猫がいた。差し伸べた安藤紫の手に頬を摺り寄せてくる。
うわっ、可愛い。きっと誰かが捨てたんだ。こんなところで可哀そう。このままでは飢えて死んでしまう。安藤紫の頭の中にあった『死にたい』という気持ちは『この子猫を助けてあげたい』という思いに変わった。
子猫を飼いたい、と言うと祖父母は快く承諾してくれた。少しでも孫娘が元気になってくれるなら、という思いからだろう。事実、子猫の世話をすることで新しい生活環境に慣れて物事を前向きに考えられるようになっていく。
黒川拓磨の絵には、黒い子猫が入れられていたダンボール箱までしっかり描かれていた。背筋がゾクゾクするほど怖い。どうして、そこまで知っているのか?
理解できない事はまだあった。美術の授業で生徒たちに絵を描かせるとき、安藤紫は教室内を歩き回って彼らに色々と感想や助言を与え続ける。やる気を促すためにだ。だから生徒たちがどんな絵を描いているのか最初から把握している。ところが黒川拓磨の絵に限っては、回収して一枚一枚に評価を付ける段階まで何も知らなかった。つまり授業中に彼の席を素通りしていたことになる。有り得なかった。どうして?
黒川拓磨。一体、お前は何者なの? 会って、直に話しを訊くべきだろうか? いや、怖い。まだ、とてもそんな勇気はなかった。
あの計画はどうする? 続けていけるだろうか。
ずっと安藤紫は一人の生徒を探していた。君津南中学二年生の中にいることまでは分かっている。一年八ヶ月前に行われた彼らの入学式で、あの女を見たのだ。校舎から体育館へ行く通路で出くわした。安藤紫が職員室へ戻ろうと逆方向に歩いていたとき、数メートル先で急に立ち止まる父兄に気づいた。不自然な動き。反射的に顔が向く。目が合った。
背が高くて綺麗という印象は変わりがなかった。さらに磨きがかかっている。色気があって大人の女の魅力に溢れていた。見ただけでは不十分だったろうが、相手の挙動が安藤紫に確信を持たせた。
立ち止まったのは一瞬で、すぐに女は気を取り直して足早に横を通り過ぎて行く。もちろん挨拶はない。会釈すらしなかった。体育館の方へと向かった。
その日、あの女の姿を二度と見ることはなかった。つまり入学式が始まる前に帰ったということだ。
偶然にも再会して、あの女の子供が自分が美術を教える生徒の中にいるという事実を知って安藤紫の心に怒りが蘇った。
あいつの母親の性衝動が原因で自分の人生は大きく狂った。死にたくなるほど苦しんだ。なのに、あの女は結婚して子供を産んでいる。反対に安藤紫自身は、いい男すら見つけられていない。ずっと幸せな家庭を持つことを夢みているにも関わらずにだ。
これは不公平だ。いけない。是正されなければならない。これまで安藤紫の肢体で快楽を貪りながら、性欲が満たされた後に不誠実な行動を見せた男達は全員が罰を受けている。あの親子が何事もなく生きていていいはずがない。
多くの男たちが結婚の話を持ち出した途端に態度を変えた。そして、いつも同じような台詞を聞かされた。
『今は経済的に難しい』だったらベッドに誘う前に言ってよ、バカ!
『結婚生活を続けていく自信がない』あら、ベッドに入る前は自信満々におっ立たせていたじゃない!
『まだ結婚は早いって、親が反対しているんだ』いきなり親の話を出してきて、あんた小学生だったの!
腹が立っても頭に浮かんだ言葉は一言も口にしない。『いいわ、わかった。だけど、それでもあなたが好きなの。こんなふうに時々逢ってくれたら、それだけで嬉しい』これが見切りをつけた時の台詞だ。都合のいい尻軽女を演じてやる。男は女の身体だけを目的に連絡してきた。逢うたびに安藤紫はペナルティと名づけた毒薬を男の飲み物に混ぜた。
殺しはしない。身体に障害を負わすのが目的だ。死んでしまったら面白くもない。
『最近になって急に視力が落ちてきたんだ』
『近ごろ疲れが酷くて』
それらの言葉が聞かれたら毒薬の効果が出てきた証拠だ。負った障害は決して回復しない。ここで尻軽女の演技は終わる。
『残念だけど、もう逢えないわ。あなたほど素敵な人じゃないけど、あたしを好いてくれる人がいるの。その人と結婚しようと思っている』これが別れの言葉だ。中には厚かましい男がいて、最後に一発やろうとせがんでくるのがいる。
『だめよ。だって、お腹に赤ちゃんがいるの』そう言って身体には指一本触れさせない。
失望させた男は全員が健常者でなくなる。残りの人生を障害を負って生きるのだ。安藤紫は浮気を繰り返す夫を何度も許した母親とは違う。受けた苦痛は何倍にもして相手に返してやる。あの親子にも同じ罰を受けさせてやりたい。ターゲットは奴らの孫であり子供である、この君津南中学に通う生徒だ。
母親を確認できた生徒の名前を名簿から一人ひとり消していく作業が続いた。あの女の子供だ、きっとそれなりの顔立ちをしているに違いなかった。また、成績が良くない生徒、だらしなさそうな生徒は始めから除外した。一年半ほど掛かったが、その数を十人ぐらいに絞れた。見つけ出したら失明させてやりたい。生徒に罪はないが、これがあの親子に大きな苦しみを与えられる唯一の方法だから仕方がない。愛する孫、愛する子供が障害児になって、そこで美術教師の安藤紫が何かしたんじゃないかと、少しでも疑いを持ってくれたら大成功。だけど安藤紫は逮捕はされない。証拠は何一つ残すものか。怒りに我を忘れて刑務所に入れられた母親みたいな真似はしない。疑わしきは罰せず、だ。奴らには、あたしの恐ろしさを死ぬまで感じて生きてほしい。美術室にある机の引き出しには、その生徒のために用意したペナルティの白い粉末が用意されていた。
だけど計画は思ったようには捗らず時間は残り少なくなりつつあった。一日でも早く生徒を捜し出して、一緒にインスタント・コーヒーを飲めるぐらいに手懐けないといけないのに、だ。黒川拓磨という転校生が現れたのは、新年を迎えて見直した計画を急いで進めようとしていた矢先だった。
11
放課後、職員室にいる加納久美子のところへ生徒が代わる代わる顔を見せる。部室の鍵を取りに来る水泳部の部員、担任するクラスの掃除が終了したと報告に来る生徒、大学入試レベルの英語で分からないところを訊きに来る優秀な生徒などだ。顧問を務める水泳部のクラブ活動が終了するまでの時間は、明日の授業で使うテキストを整理したりと準備を行う。
職員室のドアがノックされた。「失礼します」という声の後に生徒が入って来る。佐野隼人だった。サッカー部のキャプテンをしているだけに、痩せてはいてもアスリートらしい身体つきで、身のこなしには素早さが感じられる。学級日誌を届けに来たのだ。いい機会だ。手遅れになる前に成績のことで話がしたい。
「何か変わった事ある?」いつも同じ質問をする。
「いえ、別に」いつも同じ答えが返ってきた。
「あ、そう」視線を合わそうとしない。避けている。成績が良かった頃の彼とは大違いだ。
「失礼します」
「ちょっと、待って」加納久美子は生徒を引き止めた。
「……」
「勉強のことで話がしたいの。一体、どうしたのよ? すごく成績が落ちているじゃない」
「……」生徒が下を向く。
「何があったの?」
「いえ、別に」
「いえ、別に、じゃないでしょう」この言葉ほど嫌いな言葉はなかった。しかし生徒から最も聞かされるのが、この言葉なのだ。「心配しているのよ。どうしたの? 聞かせて」
「……」生徒が顔を上げた。でも言葉はない。
「ちゃんと教会には行っているの」加納久美子は話題を変えようと考えた。佐野隼人はクリスチャンだった。
「はい」
「そう」少し安心した。もし信仰心も無くしたとなれば事態は深刻だった。「何かに悩んでいるの?」このぐらいの歳になれば悩むことが手にあまるほど増えてるはずだった。恋愛、容貌、勉強、進路、親との関係、学校生活など数え上げたらきりが無い。それらに、どう対処して生きていくかが問題なのだ。
「……」顔は上げたままだった。
「ねえ?」加納久美子は促す。
「……先生」
「なに」何か言おうとしている。突破口が開けるかもしれない。
「先生は」
「うん」
「霊感ってありますか?」
「……、はあ?」一体、何の話よ。調子抜けしてしまう。
「……」
「どういうこと?」それと勉強と何の関係があるの?
「そのう……、つまり……、先生には霊的な体験がありますかっていうことです」
「なんで?」
「いえ、……ただ、訊いただけです」
「……」からかっているのか、という思いが頭を過ぎる。いや、そうでもないらしい。生徒は真面目な表情のままだ。ここは相手に付き合うべきだと考え直す。「ないわ。と、いうか良く知らないの」
「じゃあ、先生は金縛りに遭ったことってありますか?」
「寝ていて体が動かなくなったりすることね?」
「そうです」
「いいえ、ないと思う」
「そうですか」がっかりした様子を露骨に見せる。
「あなたは、どうなの?」
「僕ですか? はい、あります。霊の存在を感じることがあるんです」
「そう」それしか言いようがない。それとも、凄いわ、とか言うべきだったのか。
「ええ」
「ねえ、成績のことなんだけど--」話を戻さないといけない。
「先生」言っている途中で言葉を挟んだ。「転校生して来た黒川なんですが」
「え?」
「黒川拓磨のことです」
「どうかしたの、彼が?」
「あいつ、怪しいです」
いきなり何を言い出すのか。「どういう事、……怪しいって?」
「何て言うか……」
「何かされたの?」
「いいえ」
「じゃあ、どうして、そんな事を言うの?」
「……」
「あなたらしくないわ。理由もなく人のことを悪く言うなんて」
加納久美子の頭の中で、午前中に見たサッカーのゴール・シーンが蘇る。佐野隼人はシュート・チャンスを転校生の黒川拓磨に横取りされていた。それで腹を立てているのかしら、という考えが浮かぶが直ぐに否定した。そんな狭い了見の子じゃなかった。
「あいつは--」
生徒の顔は真剣そのものだ。その迫力に圧されて次の言葉を待つ加納久美子だったが、別の声に名前を呼ばれてしまう。
「加納先生、一番に電話です」学年主任の西山先生だった。
「……」生徒が口を閉ざす。
「……」どうしていいのか分からず、間ができた。
「加納先生、板垣順平の母親から電話です」返事がないので西山先生が繰り返した。
「はい」加納久美子は佐野隼人の顔を見たまま声を出す。「ごめんなさい。また後で話しを聞くわ」生徒に謝って、右手を躊躇いがちに電話に伸ばした。
12
オレらしくなかった。オレがするような事じゃない。キャプテンの佐野がすべき事だろう。
板垣順平は行動を起こすのに時間が掛かった。他の生徒に頭を下げるような行為はしたことがない。サッカー部のエース・ストライカーで、身長は百八十センチを超える。学校での存在感は抜群で、いつも周囲の注目を集めていた。こっちが知らなくても多くの生徒が会釈する。とくに女生徒からされると嬉しい。可愛かったり、美人だったりしたら尚更だ。しかし笑顔は見せない。常にクールを装う。
下校途中、前方に転校生の姿を認めた。ショルダー・バッグを重そうにして歩いていた。体育の授業で見せてくれた、あのヘッディング・シュートの興奮が蘇る。あれは本当に凄かった。よっぽどの運動神経がないと出来ないプレーだ。身長は百六十センチぐらいだろうか、身体つきも痩せて華奢だった。それでいてゴール前に走り込んだ俊敏な動きとジャンプ力。人は見かけによらないと言うが、その通りだと実感した。
さっそく休み時間にサッカー部のキャプテンである佐野隼人に、あいつを入部させようと提案した。ところが返ってきた言葉は、『うん、そのうちな』という乗り気のないもので、がっかりした。
劇的なゴールを決めた転校生が、今こうして目の前を一人で歩いている。自分が声を掛けて、サッカー部への入部を誘ってみようかという気になっていた。
三週間後には富津中学との練習試合がある。前の試合では2-3で逆転負けていたので、次の試合では絶対に勝ちたかった。
その自信はある。なぜなら前回の試合では彼らの技量に負けた訳ではないという気持ちがあるからだ。個々のテクニックとチームワークは君津南中の方が上だ。
負けた原因は一つで、それは富津弁だ。試合が始まると直ぐに、恫喝するような汚い言葉が飛び交い始めた。相手チームが仲間割れでも起こしたのかと思った。彼らが彼らなりに普通に意思を伝達しているだけだと知るまで時間が掛かった。けんか腰に喋ってるとしか感じられないのだ。観客の富津弁での声援も独特のものだった。いつものプレーが出来ない。方言に翻弄されて敗れた試合だ。
鶴岡政勝はビビッて動きに精彩を欠く。クリアミスして失点。あのバカは役に立たない。司令塔の器じゃなかった。
自分は自転車での転倒事故から体が完全に回復していなかった。前の試合は欠場を余儀なくされて感覚も鈍っていた。
次の試合は君津南中学で行われる。絶対に2点差以上のスコアをつけて相手をギャフンと言わせてやりたかった。もしチームに転校生が加わってくれたら、もう鬼に金棒だ。
板垣順平は歩調を速めた。「おーい」
声を掛けると転校生は振り向いて、怪訝そうな顔を見せながらも足を止めてくれた。追いつくと同時に相手を褒めた。「さっきのヘッディング・シュートは凄かったじゃないか」言いづらくて舌を噛みそうだった。褒められることには慣れているが、飼っている犬のルルを別にして誰かを褒めることはした記憶がない。
「ありがとう。だけど君が精度の高いクロスを上げてくれたから出来たプレーさ。感謝するよ」
「あはは。そんなことねえよ」その謙虚さ、気に入った。なかなかいい奴らしいな。こりゃあ、幸先いいぜ。「家はどこだい?」
「大和田だよ」
「そりゃあ、ちょっと学校からは遠いな。自転車通学の許可が下りるんじゃないの? 加納先生に頼んでみたら」
「うん。ほかの奴からも同じことを言われた。考えてみるよ」
「そうしろ。オレの家も学校から近いとは言えないけどな。途中までは一緒だ。実は話があるんだ」
「何だい」
板垣順平は転校生と並んで歩き出した。身長で二十センチも違うとかなりの体格差だ。こんなに小さい奴が、よくもあんなプレーが出来たもんだと再び感心する。が、バルセロナのメッシとかイニエイタにしても他のサッカー選手と比べると小柄な方だった。それに気づいて身体の大きさは関係ないと納得する。相手のショルダー・バッグのチャックが開いていて中身が見えていたが、無視して入部の誘いを開始した。「前の学校では、サッカー部だったのかよ」もしそうなら話は早い。
「いいや」
「……」残念。そう上手く話は運ばないらしい。最短で、周西小学校の前を通り過ぎるまでに話は決まるかもしれないと期待したのだったが。
「部活はしていなかった」
「おい、おい」意外な答えが返ってきた。ちょっと待て、あの運動神経を眠らせていたっていうことか? まさか。「でも、何か運動はしていたんだろう?」そうでもしなけりゃ、あんなヘッディング・シュートは出来るもんか。
「ううん、別に」
「マジ? それで、あのプレーかよ。ちょっと信じられないな。すごいの一言だよ、本当に。ところで、こっちの中学では何か運動部に入るつもりはあるの?」
「わからない」
「どういう事だよ、わからないって? その運動神経を、どこかの部活で生かすべきだろう」
「そうかな」
「そりゃ、そうさ。もったいないぜ」何なの、この欲のなさ。理解できねえ。サッカー部に入って、今日みたいなゴールを決めればオレみたいにヒーローになれるっていうのに。
「ところで、ちょっと訊きたいんだけど」
「なんだよ」何でも教えてやるぜ。君津南中じゃオレが一番顔が広いんだから、という気持ちだった。
「ここでは映画同好会っていうのがあるって聞いたんだけど」
「はあ?」予想もしていない質問だった。自信が崩れる。そのカテゴリーは守備範囲外だ。
「映画同好会だよ」
「止めとけ」
「どうして?」
「女しか入っていないぜ」
「それがどうした?」
「B組の五十嵐香月と佐久間渚、山田道子の三人が始めたクラブなんだ。じっとして、ただ映画を見ているだけだぞ」そんなのに興味を持つなんて、どうかしてるぜ。
「だから映画同好会っていうんじゃないのか?」
「ん……ま、そうだけどな。しかし退屈だろう、二時間近くも動かないで座って映画を見ているなんて」
「映画は嫌いなのか?」
「好きじゃない。『タイタニック』を見に行ったけど字幕が早くて読むのに疲れた」
渡辺香月と二人で初めて出かけたのが、その映画鑑賞だ。三時間近くも彼女の肩に腕を回していられたのは感激だった。香月の艶のある長い髪から漂ってくる甘酸っぱい香りに酔いしれた。座席から身を起こしたのは一度だけで、ローズがジャックの前で服を脱いだ時だ。香月に振り向かれて照れ臭い思いをした。あの頃に再び戻れたらいいのにな、と思った。
「誰と行ったんだよ?」
「え?」その質問も意外だった。
「誰と『タイタニック』を観に行ったのか訊いているんだ。まさか一人じゃ行かないだろう、あんな映画。ましてや好きでもないのにさ」
「うん。友達とだよ」
「女とだろ、一緒に行ったのは?」
「……」
「デートだったんだろう」
「よく分かるな」こいつ、なかなか鋭い。
「そりゃそうさ。誰だ、相手は?」
「誰にも言うなよ」声を落とす。もう学校中に知れ渡っていたが、お前だけには教えてやろうという態度を装う。
「もちろんさ」
「五十嵐香月だ」
「へえ。なかなか美人だよな、彼女は」
「まあな」心の中では、すっげえ美人だと絶賛している板垣順平だった。
「まだ付き合っているのか?」
「いいや、もう別れた。オレが振ったんだ」ここは声のトーンが高くならないように慎重に言葉を口にした。悔しさが滲み出ては威厳に傷がつく。
「どうして? もったいないじゃないか、あんなに綺麗な女を」
「いやあ、しつこくて参ったよ。毎日、電話してくるんだ。勉強も手に付かなかったぜ。女って、みんなあんな風なのかな」まったくの嘘で、香月から電話がないと不安で何も手に付かなかったのが事実だった。
「ふうむ」
「まさか五十嵐香月に気があるんじゃないよな?」もし、そうだったらヤバイ。よりを戻したいと願っている自分にとってライバルが一人増えることになる。負けるとは思わないが競争相手は少なければ少ないほどいいに決まっている。
「いいや、興味ない。もっと魅力的な女がいる」
「えっ」聞き捨てならない言葉が耳に届く。「誰だい?」
「……」
「おい、教えろよ。オレだって秘密を打ち明けたんだぜ。その女ってB組にいるのか?」
「うん」
「誰だ? うちのクラスには不思議なくらい綺麗で可愛い女が揃っているのは事実だけどな。わかった、篠原麗子か?」
「違う」
「じゃあ、佐久間渚だ。でも彼女は佐野隼人と交換日記している仲だから--」
「それも違うな」
「奥村真由美だろ?」
「ううん」
「待てよ。まさか、手塚奈々かよ?」あの軽薄な女を選んだとしたら、こりゃ笑える。お前も手塚の長いセクシーな脚に心を奪われた男の一人になるわけだ。
「いいや」
「え、じゃあ誰だよ。目ぼしい女は全て言ったぜ」
「一人、残っている」
「はあ? わからねえな。五十嵐香月、篠原麗子、佐久間渚、奥村真由美、手塚奈々のほかにも誰か魅力的な女がいるって言うのか?」
「そうさ」
「B組だよな?」
「うん」
「さっぱり、わからない。教えろよ」
「いいよ。でも条件が一つある」
「なんだよ」
「その女とオレが仲良くなれるように祈って欲しいんだ」
「祈るって、どう?」
「難しいことじゃない。ただ心から願ってくれたらいいのさ」
「いいけど。そんなんで効果があるのか?」
「ある」
「……」すっげえ、自信あり気じゃねえか。理解できねえな、こいつ。ちょっと不気味な感じ。関わりを持たない方か無難かもしれない。でも、その女の名前は絶対に知りたい。「教えてくれ。願ってやるから」
「本気か?」
「ああ、もちろん」それは嘘。ただ本気で知りたいだけ。
「加納久美子」
「えっ?」
「驚いたのか?」
「あ、当たり前だろう。先生じゃないか。歳が違い過ぎるぜ。無理だよ、そんな……」こいつ、バカじゃないの。その言葉は、あの見事なヘッディング・シュートに免じて口には出さなかった。けど、サッカー部へ誘う気持ちは一瞬にして消えた。付き合っていられねえ、こんな奴とは。
「それがどうした」
「オレ達みたいな子供を加納先生が相手にするもんかよ」
「恋愛に歳は関係ないぜ」
「そうは言っても、それは大人の世界の話だ。無理だ、諦めろ。お前と加納先生では釣り合いが取れなさ過ぎるぜ」
「君がオレを信じて願ってくれたら何とかなるんだ」
「……」バカらしい。なんてこった。キャプテンの佐野隼人は正しかった。オレが間違っていた。こんな奴をサッカー部に入れたら大変なことになりそうだ。試合に勝つために練習しないで祈祷でもしかねないぜ。これ以上もう話すだけ時間の無駄に思えてきた。「あれ?」
数百メートル先に同じ中学の生徒が何人か歩いているは知っていたが、それが全員B組のクラスメイトであることに気づく。
「うちのクラスの連中だよな?」転校生も気づいたらしい。
「ああ、そうだ。でも……、変だな」
B組で不良グループと思われている山岸涼太、相馬太郎と前田良文の三人に意外にも土屋恵子が一緒だった。不思議な組み合わせだった。学校では口を利いてる姿を見たことがない。しかも山岸と前田の家は逆方向のはずだ。こっちが後ろから歩いてくるのに気づいたらしい、連中は周西小学校の隣にある公園の中へと足早に入って行く。
「どうして?」転校生が訊いてくる。
「いや、なんでもない」こんな事、一々説明していられるか。連中のことなんかオレには関係ないし。「用事を思い出した。オレ、急ぐから」そっけない口調だった。もう構うもんか。こいつとは二度と話さないかもしれないし。
「じゃあ、また明日」
「うん」
板垣順平が歩調を速めようとした時だ、転校生が抱えたショルダー・バッグの中にCDケースが入っているのが見えた。それだけなら何でもなかった。だけど、そこに『バイタル・ハザード 3』という文字が書かれていたのだ。『2』は知っているが、まだ『3』は発売されてないはずだった。見過ごせない。「それ、何だよ?」
「え?」
「そのCDケースだよ」
「ああ、これか。『バイタル・ハザード』の新しいやつだよ。試作の最終段階で、試しにプレーしてれって頼まれたんだ」
「……」ええっ、何だって? 耳に届いた言葉が衝撃的すぎて百八十センチの体が硬直。
「ゲームはやるのか?」転校生が訊く。
「え?」
「ゲームは好きなのか?」
「おい、……あのな」転校してきて間がないから仕方ないか。そんな質問をする奴は学校中に一人としていない。オレからゲームを取ったら何も残らない、そういう覚悟でコントローラーを操作する板垣順平だ。そんな質問はオレに対する侮辱でしかない。しかし、ここでは敢えて文句は言わずにおく。もっと重要な解決すべき問題が持ち上がったからだ。「誰に頼まれたんだ? 試しにプレーしてくれなんて」
「父親がゲーム関係の仕事をしているんだ。それで発売される前に不具合とかがないか調べる目的でプレーを頼まれるのさ」
「マジかよ。すっげえな」
「この『バイタル・ハザード』の新しいやつは前作よりも面白くなっているぜ」
「どう?」
「プレイする度にゾンビやアイテムの配置が違う。それに敵の攻撃を瞬時に避けられる『緊急回避』や、一瞬で後ろを向く『クイックターン』ていう操作が追加されているんだ」
「……」
「イージー・モードだと最初からアサルトライフルが用意されていたり、初めて『バイタル・ハザード』をプレーする奴にはやり易いはずだ」
「面白そうだな」
「ああ」
「でも、どうして学校になんか持ってきたんだ?」
「鶴岡に貸してやったのさ」
「えっ、鶴岡って、……あの政勝か?」思わず声が大きくなった。
「そうだよ」
「……」
「どうした?」
「信じられねえ」ほとんど独り言に近い。
「何が?」
「いや、何でもないけど……」これについても話が長くなるので説明できなかった。
板垣順平は裏切られた思いで怒りを感じていた。ふっざけた野郎だ、あの鶴岡は。『バイタル・ハザード 3』の試作品を転校生から借りていながら自分には何ひとつ言わなかった。クラスは一緒だし、同じサッカー部員でもあった。一日に話す機会は何度もある。
富津中との試合で奴がミスして逆転負けするまでは、チームの左サイドバックとして信頼していた。部室でナムコの『鉄拳3』について話をしたのは昨日じゃなかったか? 確かそうだ。それなのに『バイタル・ハザード 3』のことは黙っていた。鶴岡政勝に対する考え方はいっぺんに変わった。「それを、オレにも貸してくれないかな?」気を取り直して転校生に訊いた。
「いいよ。本気で願ってくれるならな」
「え? 何を」
「忘れたのか? さっきの約束だよ」
「あっ、ああ。い、いや、忘れてなんかないよ」すっかり忘れていたぜ、そんなバカバカしいこと。
「祈ってくれるよな」
「もちろんさ」
「それならいい。貸してやるよ」
「いつ返せばいい?」
「いつでも構わない。飽きたら返してくれ」
「本当かよ?」それじゃあ、貰ったも同然じゃないか。
「ああ」
「ありがとう。悪いけど、用事を思い出したから急いで帰るよ」
「わかった」
「また明日な」
板垣順平は走り出した。用事なんかなかった。ただ早く家に帰って、この『バイタル・ハザード 3』で遊びたいだけだ。
理解できないところはあるが、父親がゲーム関係の仕事をしているなんて凄い。これからは新作のゲームを発売前にプレーさせてもらえるかもしれない。サッカー部に入らなくても、ずっと仲良くしていくべき奴だ。順平の友達ランキング・リストに転校生の黒川拓磨が赤丸初登場で一位に君臨する。それまで長く一位をキープしていた親友の佐野隼人は二位に転落した。
「えっ、……こ、これ、彼が描いたの?」
「そう」
「……」
中学生が描いたとは思えない重苦しい絵を前にして、加納先生は言葉を失った様子だった。
「どう思う?」安藤紫は訊いた。彼女の意見が聞きたい。
「……」聞こえてないみたいに黙っている。
「ねえ?」
「……、すごい」
「でしょう」
「中学生で……こんな」
「彼、絵の才能を持っているわ」
「この女の子って誰なのかしら」加納先生は独り言のように言う。
「……」描いたのは自分ではない。だから答えようがなかった。
「きっと誰か特別な子なんでしょうね。だって彼女の肩には傷があるもの」
「そうだと思う」安藤紫は相槌を打つ。
「兄妹っていうことはないわ、彼は一人っ子だもの」
「あら、そう」安藤紫は嘘をつく。その事実は、とっくに知っていた。
「ええ」
「……」もっと何か加納先生が言ってくれるのを待った。ところが三時間目の授業の終了を知らせるチャイムが鳴る。
「そろそろ職員室へ戻るわ」
「うん」会話が続けられなくなっていて、加納先生はホッとしたみたいだった。安藤紫は彼女を促すように応えた。「じゃ、またね」
10
転校生の黒川拓磨が描いた絵を前にして安藤紫は美術室に一人だけになってしまった。おのずと過去の苦々しい記憶が蘇ってくる。こんな状態に陥る自分を止められない。
黒川拓磨の絵に対する加納先生の意見を聞こうとしたが時間の無駄に終わった。絵を見せたいがために、あえて会話をその方向へ持っていったのだ。聡明な女性で芯の強さを持っているから僅かでも期待を抱いていたのだが、やはり彼女には霊的なインスピレーションはなさそうだ。
きっと描いた絵に父親を亡くした影響が現れているのだろう、と加納先生は思っているに違いなかった。でも、そうじゃない。けっして、そうじゃない。安藤紫は断言できた。
なぜなら重苦しい絵に描かれた、左肩に傷のある少女は間違いなく中学二年のころの自分だからだ。
空には黒い雲、風は強く、今にも大雨が振り出しそうだった。夏の蒸し暑い日で、肩の傷が露わになろうが構わずにタンクトップを着ていた。痛々しい痕が残って、その所為で自分は醜い女になってしまったと感じた。自暴自棄だ。誰かに見られて何と思われようが気にしない。もう、どうでもよかった。
台風の接近で海は大荒れだった。千葉県の富浦にある祖父の家を、こっそり一人で飛び出して海岸までやってきた。死にたかった。これからどうなるのか、という不安に耐え切れなくなっていたのだ。
物心ついたころから、ずっと母親は父親の女癖に悩んでいた。家庭に諍いは絶えなかった。母親が泣きながら父親に物を投げつける場面を何度も見せられてきた。それでも二人が離婚しなかったのは一人娘の存在だった。
両親は紫を愛してくれた。父親と母親、どちらも大好きだった。それが故に二人が言い争うのは酷く心が痛んだ。
父親はスーツが良く似合う細身の体に、白髪交じりで苦み走った鋭い顔をしていた。多くの女性が憧れるのも無理もないと思った。母親は何度も泣かされ、その度に謝罪を受け入れて許してきた。
会社の上司だった父親の見栄えに一目惚れした事務員の母親だったが、それが彼女の人生を不幸に変えてしまう。
安藤紫が中学一年の三学期を迎えたころ、クラスに転校生が入ってきた。背が高くて綺麗な子だった。母子家庭で、両親は父親の暴力が原因で離婚したらしい。彼女の母親と安藤紫の母親とは同じ年だった。父母会の役員をしていた母親は色々と相談を受けることになる。すぐに二人は仲良くなり、可哀そうと感じた母親は何かと世話を焼くようになった。親同士が親しいので次第に紫と転校生も仲良くなり、親友と呼べるようにまでなった。二つの家族が自宅で一緒に夕食を食べることも何度かあった。
転校生の母親と自分の父親が不倫していることが発覚したのは中学二年の一学期だ。学校に来ていた母親の軽自動車のワイパーに誰かがメモを挟んで教えてくれた。これは今までとは違って、紫の母親を徹底的に打ちのめした。とうとう離婚を決意する。最後の話し合いをする為に、三人が自宅に集まった。安藤紫は二階にある自分の部屋にいて待つ。何をする気にもなれない。大好きな父親が家からいなくなる話し合いだ。気まずくて親友とは口を利かなくなっていた。ただ辛くて悲しい。アイワのミニコンポにプリンスの最新アルバムをセットしたが一曲目の『レッツ・ゴー・クレイジー』の途中で止めた。読みかけだった『アンネの日記』を開いてみたが内容が頭に入っていかなかった。
居間から叫び声がした。人が争っているような物音が続けて聞こえてきた。母親のことが心配になって急いで階段を降りた。
信じられなかった。母親と転校生の母親が掴みあっている姿が目に飛び込んできた。お互いに血まみれだ。父親は側で横たわり両手で自分の首を押さえている。何がどうなっているのか分からない。でも争っている二人の母親のどちらかの手に包丁が握られているのに気づく。お母さんが殺されてしまう。慌てて二人の母親の間に入って止めようとした。体当たり。三人が食器戸棚にぶつかり床に倒れ込む。安藤紫の肩の傷は、その時に出来たものだ。包丁を振り回していたのは自分の母親の方だった。わが子を切りつけたことを知って、やっと我に返る。父親の方は出血が酷くて意識がなかった。
母親は話し合っているうちに怒りが込み上げてきたらしい。席を立ち、台所から包丁を掴むと愛人へ襲い掛かった。しかし咄嗟に気づいて転校生の母親を守ろうとした父親を刺してしまう。それでも母親は怯まなかった。血を流して床に崩れる夫には目もくれず、愛人の方へ包丁を振りかざしたのだ。
父親は搬送された病院で息を引き取り、転校生の母親は身体に何ヶ所も切り傷を負う。安藤紫の母親は逮捕された。裁判では過度のストレスによる心神喪失を訴えたが認められなくて服役することになる。安藤紫は祖父の家に引き取られた。一度に二人の親を失った思いだ。何度か刑務所に面会に行ったが母親は人が変わったみたいに何も喋らない。一人娘と目を合わそうともしなかった。拒絶されていると安藤紫は感じた。
将来に対する夢や希望もなくなり、死にたいという気持ちが日増しに強くなっていく。その思いが、近づく台風の影響で荒れた海を一望できる高台へと安藤紫を歩かせたのだ。
ジャンプすれば死ねる。ジャンプするだけで死ねるんだ。その考えが頭の中をグルグル回った。背中を押し続ける強い風に身を委ねるタイミングを計っていた。
え、どこから?
子猫の鳴き声に気づいたのは、そんな時だ。 辺りを見回すと足元の側にダンボール箱が置かれていた。ミャー、ミャーという声はそこからだ。急いで歩み寄り、蓋を開けると中には汚れたタオルに包まれた黒い子猫がいた。差し伸べた安藤紫の手に頬を摺り寄せてくる。
うわっ、可愛い。きっと誰かが捨てたんだ。こんなところで可哀そう。このままでは飢えて死んでしまう。安藤紫の頭の中にあった『死にたい』という気持ちは『この子猫を助けてあげたい』という思いに変わった。
子猫を飼いたい、と言うと祖父母は快く承諾してくれた。少しでも孫娘が元気になってくれるなら、という思いからだろう。事実、子猫の世話をすることで新しい生活環境に慣れて物事を前向きに考えられるようになっていく。
黒川拓磨の絵には、黒い子猫が入れられていたダンボール箱までしっかり描かれていた。背筋がゾクゾクするほど怖い。どうして、そこまで知っているのか?
理解できない事はまだあった。美術の授業で生徒たちに絵を描かせるとき、安藤紫は教室内を歩き回って彼らに色々と感想や助言を与え続ける。やる気を促すためにだ。だから生徒たちがどんな絵を描いているのか最初から把握している。ところが黒川拓磨の絵に限っては、回収して一枚一枚に評価を付ける段階まで何も知らなかった。つまり授業中に彼の席を素通りしていたことになる。有り得なかった。どうして?
黒川拓磨。一体、お前は何者なの? 会って、直に話しを訊くべきだろうか? いや、怖い。まだ、とてもそんな勇気はなかった。
あの計画はどうする? 続けていけるだろうか。
ずっと安藤紫は一人の生徒を探していた。君津南中学二年生の中にいることまでは分かっている。一年八ヶ月前に行われた彼らの入学式で、あの女を見たのだ。校舎から体育館へ行く通路で出くわした。安藤紫が職員室へ戻ろうと逆方向に歩いていたとき、数メートル先で急に立ち止まる父兄に気づいた。不自然な動き。反射的に顔が向く。目が合った。
背が高くて綺麗という印象は変わりがなかった。さらに磨きがかかっている。色気があって大人の女の魅力に溢れていた。見ただけでは不十分だったろうが、相手の挙動が安藤紫に確信を持たせた。
立ち止まったのは一瞬で、すぐに女は気を取り直して足早に横を通り過ぎて行く。もちろん挨拶はない。会釈すらしなかった。体育館の方へと向かった。
その日、あの女の姿を二度と見ることはなかった。つまり入学式が始まる前に帰ったということだ。
偶然にも再会して、あの女の子供が自分が美術を教える生徒の中にいるという事実を知って安藤紫の心に怒りが蘇った。
あいつの母親の性衝動が原因で自分の人生は大きく狂った。死にたくなるほど苦しんだ。なのに、あの女は結婚して子供を産んでいる。反対に安藤紫自身は、いい男すら見つけられていない。ずっと幸せな家庭を持つことを夢みているにも関わらずにだ。
これは不公平だ。いけない。是正されなければならない。これまで安藤紫の肢体で快楽を貪りながら、性欲が満たされた後に不誠実な行動を見せた男達は全員が罰を受けている。あの親子が何事もなく生きていていいはずがない。
多くの男たちが結婚の話を持ち出した途端に態度を変えた。そして、いつも同じような台詞を聞かされた。
『今は経済的に難しい』だったらベッドに誘う前に言ってよ、バカ!
『結婚生活を続けていく自信がない』あら、ベッドに入る前は自信満々におっ立たせていたじゃない!
『まだ結婚は早いって、親が反対しているんだ』いきなり親の話を出してきて、あんた小学生だったの!
腹が立っても頭に浮かんだ言葉は一言も口にしない。『いいわ、わかった。だけど、それでもあなたが好きなの。こんなふうに時々逢ってくれたら、それだけで嬉しい』これが見切りをつけた時の台詞だ。都合のいい尻軽女を演じてやる。男は女の身体だけを目的に連絡してきた。逢うたびに安藤紫はペナルティと名づけた毒薬を男の飲み物に混ぜた。
殺しはしない。身体に障害を負わすのが目的だ。死んでしまったら面白くもない。
『最近になって急に視力が落ちてきたんだ』
『近ごろ疲れが酷くて』
それらの言葉が聞かれたら毒薬の効果が出てきた証拠だ。負った障害は決して回復しない。ここで尻軽女の演技は終わる。
『残念だけど、もう逢えないわ。あなたほど素敵な人じゃないけど、あたしを好いてくれる人がいるの。その人と結婚しようと思っている』これが別れの言葉だ。中には厚かましい男がいて、最後に一発やろうとせがんでくるのがいる。
『だめよ。だって、お腹に赤ちゃんがいるの』そう言って身体には指一本触れさせない。
失望させた男は全員が健常者でなくなる。残りの人生を障害を負って生きるのだ。安藤紫は浮気を繰り返す夫を何度も許した母親とは違う。受けた苦痛は何倍にもして相手に返してやる。あの親子にも同じ罰を受けさせてやりたい。ターゲットは奴らの孫であり子供である、この君津南中学に通う生徒だ。
母親を確認できた生徒の名前を名簿から一人ひとり消していく作業が続いた。あの女の子供だ、きっとそれなりの顔立ちをしているに違いなかった。また、成績が良くない生徒、だらしなさそうな生徒は始めから除外した。一年半ほど掛かったが、その数を十人ぐらいに絞れた。見つけ出したら失明させてやりたい。生徒に罪はないが、これがあの親子に大きな苦しみを与えられる唯一の方法だから仕方がない。愛する孫、愛する子供が障害児になって、そこで美術教師の安藤紫が何かしたんじゃないかと、少しでも疑いを持ってくれたら大成功。だけど安藤紫は逮捕はされない。証拠は何一つ残すものか。怒りに我を忘れて刑務所に入れられた母親みたいな真似はしない。疑わしきは罰せず、だ。奴らには、あたしの恐ろしさを死ぬまで感じて生きてほしい。美術室にある机の引き出しには、その生徒のために用意したペナルティの白い粉末が用意されていた。
だけど計画は思ったようには捗らず時間は残り少なくなりつつあった。一日でも早く生徒を捜し出して、一緒にインスタント・コーヒーを飲めるぐらいに手懐けないといけないのに、だ。黒川拓磨という転校生が現れたのは、新年を迎えて見直した計画を急いで進めようとしていた矢先だった。
11
放課後、職員室にいる加納久美子のところへ生徒が代わる代わる顔を見せる。部室の鍵を取りに来る水泳部の部員、担任するクラスの掃除が終了したと報告に来る生徒、大学入試レベルの英語で分からないところを訊きに来る優秀な生徒などだ。顧問を務める水泳部のクラブ活動が終了するまでの時間は、明日の授業で使うテキストを整理したりと準備を行う。
職員室のドアがノックされた。「失礼します」という声の後に生徒が入って来る。佐野隼人だった。サッカー部のキャプテンをしているだけに、痩せてはいてもアスリートらしい身体つきで、身のこなしには素早さが感じられる。学級日誌を届けに来たのだ。いい機会だ。手遅れになる前に成績のことで話がしたい。
「何か変わった事ある?」いつも同じ質問をする。
「いえ、別に」いつも同じ答えが返ってきた。
「あ、そう」視線を合わそうとしない。避けている。成績が良かった頃の彼とは大違いだ。
「失礼します」
「ちょっと、待って」加納久美子は生徒を引き止めた。
「……」
「勉強のことで話がしたいの。一体、どうしたのよ? すごく成績が落ちているじゃない」
「……」生徒が下を向く。
「何があったの?」
「いえ、別に」
「いえ、別に、じゃないでしょう」この言葉ほど嫌いな言葉はなかった。しかし生徒から最も聞かされるのが、この言葉なのだ。「心配しているのよ。どうしたの? 聞かせて」
「……」生徒が顔を上げた。でも言葉はない。
「ちゃんと教会には行っているの」加納久美子は話題を変えようと考えた。佐野隼人はクリスチャンだった。
「はい」
「そう」少し安心した。もし信仰心も無くしたとなれば事態は深刻だった。「何かに悩んでいるの?」このぐらいの歳になれば悩むことが手にあまるほど増えてるはずだった。恋愛、容貌、勉強、進路、親との関係、学校生活など数え上げたらきりが無い。それらに、どう対処して生きていくかが問題なのだ。
「……」顔は上げたままだった。
「ねえ?」加納久美子は促す。
「……先生」
「なに」何か言おうとしている。突破口が開けるかもしれない。
「先生は」
「うん」
「霊感ってありますか?」
「……、はあ?」一体、何の話よ。調子抜けしてしまう。
「……」
「どういうこと?」それと勉強と何の関係があるの?
「そのう……、つまり……、先生には霊的な体験がありますかっていうことです」
「なんで?」
「いえ、……ただ、訊いただけです」
「……」からかっているのか、という思いが頭を過ぎる。いや、そうでもないらしい。生徒は真面目な表情のままだ。ここは相手に付き合うべきだと考え直す。「ないわ。と、いうか良く知らないの」
「じゃあ、先生は金縛りに遭ったことってありますか?」
「寝ていて体が動かなくなったりすることね?」
「そうです」
「いいえ、ないと思う」
「そうですか」がっかりした様子を露骨に見せる。
「あなたは、どうなの?」
「僕ですか? はい、あります。霊の存在を感じることがあるんです」
「そう」それしか言いようがない。それとも、凄いわ、とか言うべきだったのか。
「ええ」
「ねえ、成績のことなんだけど--」話を戻さないといけない。
「先生」言っている途中で言葉を挟んだ。「転校生して来た黒川なんですが」
「え?」
「黒川拓磨のことです」
「どうかしたの、彼が?」
「あいつ、怪しいです」
いきなり何を言い出すのか。「どういう事、……怪しいって?」
「何て言うか……」
「何かされたの?」
「いいえ」
「じゃあ、どうして、そんな事を言うの?」
「……」
「あなたらしくないわ。理由もなく人のことを悪く言うなんて」
加納久美子の頭の中で、午前中に見たサッカーのゴール・シーンが蘇る。佐野隼人はシュート・チャンスを転校生の黒川拓磨に横取りされていた。それで腹を立てているのかしら、という考えが浮かぶが直ぐに否定した。そんな狭い了見の子じゃなかった。
「あいつは--」
生徒の顔は真剣そのものだ。その迫力に圧されて次の言葉を待つ加納久美子だったが、別の声に名前を呼ばれてしまう。
「加納先生、一番に電話です」学年主任の西山先生だった。
「……」生徒が口を閉ざす。
「……」どうしていいのか分からず、間ができた。
「加納先生、板垣順平の母親から電話です」返事がないので西山先生が繰り返した。
「はい」加納久美子は佐野隼人の顔を見たまま声を出す。「ごめんなさい。また後で話しを聞くわ」生徒に謝って、右手を躊躇いがちに電話に伸ばした。
12
オレらしくなかった。オレがするような事じゃない。キャプテンの佐野がすべき事だろう。
板垣順平は行動を起こすのに時間が掛かった。他の生徒に頭を下げるような行為はしたことがない。サッカー部のエース・ストライカーで、身長は百八十センチを超える。学校での存在感は抜群で、いつも周囲の注目を集めていた。こっちが知らなくても多くの生徒が会釈する。とくに女生徒からされると嬉しい。可愛かったり、美人だったりしたら尚更だ。しかし笑顔は見せない。常にクールを装う。
下校途中、前方に転校生の姿を認めた。ショルダー・バッグを重そうにして歩いていた。体育の授業で見せてくれた、あのヘッディング・シュートの興奮が蘇る。あれは本当に凄かった。よっぽどの運動神経がないと出来ないプレーだ。身長は百六十センチぐらいだろうか、身体つきも痩せて華奢だった。それでいてゴール前に走り込んだ俊敏な動きとジャンプ力。人は見かけによらないと言うが、その通りだと実感した。
さっそく休み時間にサッカー部のキャプテンである佐野隼人に、あいつを入部させようと提案した。ところが返ってきた言葉は、『うん、そのうちな』という乗り気のないもので、がっかりした。
劇的なゴールを決めた転校生が、今こうして目の前を一人で歩いている。自分が声を掛けて、サッカー部への入部を誘ってみようかという気になっていた。
三週間後には富津中学との練習試合がある。前の試合では2-3で逆転負けていたので、次の試合では絶対に勝ちたかった。
その自信はある。なぜなら前回の試合では彼らの技量に負けた訳ではないという気持ちがあるからだ。個々のテクニックとチームワークは君津南中の方が上だ。
負けた原因は一つで、それは富津弁だ。試合が始まると直ぐに、恫喝するような汚い言葉が飛び交い始めた。相手チームが仲間割れでも起こしたのかと思った。彼らが彼らなりに普通に意思を伝達しているだけだと知るまで時間が掛かった。けんか腰に喋ってるとしか感じられないのだ。観客の富津弁での声援も独特のものだった。いつものプレーが出来ない。方言に翻弄されて敗れた試合だ。
鶴岡政勝はビビッて動きに精彩を欠く。クリアミスして失点。あのバカは役に立たない。司令塔の器じゃなかった。
自分は自転車での転倒事故から体が完全に回復していなかった。前の試合は欠場を余儀なくされて感覚も鈍っていた。
次の試合は君津南中学で行われる。絶対に2点差以上のスコアをつけて相手をギャフンと言わせてやりたかった。もしチームに転校生が加わってくれたら、もう鬼に金棒だ。
板垣順平は歩調を速めた。「おーい」
声を掛けると転校生は振り向いて、怪訝そうな顔を見せながらも足を止めてくれた。追いつくと同時に相手を褒めた。「さっきのヘッディング・シュートは凄かったじゃないか」言いづらくて舌を噛みそうだった。褒められることには慣れているが、飼っている犬のルルを別にして誰かを褒めることはした記憶がない。
「ありがとう。だけど君が精度の高いクロスを上げてくれたから出来たプレーさ。感謝するよ」
「あはは。そんなことねえよ」その謙虚さ、気に入った。なかなかいい奴らしいな。こりゃあ、幸先いいぜ。「家はどこだい?」
「大和田だよ」
「そりゃあ、ちょっと学校からは遠いな。自転車通学の許可が下りるんじゃないの? 加納先生に頼んでみたら」
「うん。ほかの奴からも同じことを言われた。考えてみるよ」
「そうしろ。オレの家も学校から近いとは言えないけどな。途中までは一緒だ。実は話があるんだ」
「何だい」
板垣順平は転校生と並んで歩き出した。身長で二十センチも違うとかなりの体格差だ。こんなに小さい奴が、よくもあんなプレーが出来たもんだと再び感心する。が、バルセロナのメッシとかイニエイタにしても他のサッカー選手と比べると小柄な方だった。それに気づいて身体の大きさは関係ないと納得する。相手のショルダー・バッグのチャックが開いていて中身が見えていたが、無視して入部の誘いを開始した。「前の学校では、サッカー部だったのかよ」もしそうなら話は早い。
「いいや」
「……」残念。そう上手く話は運ばないらしい。最短で、周西小学校の前を通り過ぎるまでに話は決まるかもしれないと期待したのだったが。
「部活はしていなかった」
「おい、おい」意外な答えが返ってきた。ちょっと待て、あの運動神経を眠らせていたっていうことか? まさか。「でも、何か運動はしていたんだろう?」そうでもしなけりゃ、あんなヘッディング・シュートは出来るもんか。
「ううん、別に」
「マジ? それで、あのプレーかよ。ちょっと信じられないな。すごいの一言だよ、本当に。ところで、こっちの中学では何か運動部に入るつもりはあるの?」
「わからない」
「どういう事だよ、わからないって? その運動神経を、どこかの部活で生かすべきだろう」
「そうかな」
「そりゃ、そうさ。もったいないぜ」何なの、この欲のなさ。理解できねえ。サッカー部に入って、今日みたいなゴールを決めればオレみたいにヒーローになれるっていうのに。
「ところで、ちょっと訊きたいんだけど」
「なんだよ」何でも教えてやるぜ。君津南中じゃオレが一番顔が広いんだから、という気持ちだった。
「ここでは映画同好会っていうのがあるって聞いたんだけど」
「はあ?」予想もしていない質問だった。自信が崩れる。そのカテゴリーは守備範囲外だ。
「映画同好会だよ」
「止めとけ」
「どうして?」
「女しか入っていないぜ」
「それがどうした?」
「B組の五十嵐香月と佐久間渚、山田道子の三人が始めたクラブなんだ。じっとして、ただ映画を見ているだけだぞ」そんなのに興味を持つなんて、どうかしてるぜ。
「だから映画同好会っていうんじゃないのか?」
「ん……ま、そうだけどな。しかし退屈だろう、二時間近くも動かないで座って映画を見ているなんて」
「映画は嫌いなのか?」
「好きじゃない。『タイタニック』を見に行ったけど字幕が早くて読むのに疲れた」
渡辺香月と二人で初めて出かけたのが、その映画鑑賞だ。三時間近くも彼女の肩に腕を回していられたのは感激だった。香月の艶のある長い髪から漂ってくる甘酸っぱい香りに酔いしれた。座席から身を起こしたのは一度だけで、ローズがジャックの前で服を脱いだ時だ。香月に振り向かれて照れ臭い思いをした。あの頃に再び戻れたらいいのにな、と思った。
「誰と行ったんだよ?」
「え?」その質問も意外だった。
「誰と『タイタニック』を観に行ったのか訊いているんだ。まさか一人じゃ行かないだろう、あんな映画。ましてや好きでもないのにさ」
「うん。友達とだよ」
「女とだろ、一緒に行ったのは?」
「……」
「デートだったんだろう」
「よく分かるな」こいつ、なかなか鋭い。
「そりゃそうさ。誰だ、相手は?」
「誰にも言うなよ」声を落とす。もう学校中に知れ渡っていたが、お前だけには教えてやろうという態度を装う。
「もちろんさ」
「五十嵐香月だ」
「へえ。なかなか美人だよな、彼女は」
「まあな」心の中では、すっげえ美人だと絶賛している板垣順平だった。
「まだ付き合っているのか?」
「いいや、もう別れた。オレが振ったんだ」ここは声のトーンが高くならないように慎重に言葉を口にした。悔しさが滲み出ては威厳に傷がつく。
「どうして? もったいないじゃないか、あんなに綺麗な女を」
「いやあ、しつこくて参ったよ。毎日、電話してくるんだ。勉強も手に付かなかったぜ。女って、みんなあんな風なのかな」まったくの嘘で、香月から電話がないと不安で何も手に付かなかったのが事実だった。
「ふうむ」
「まさか五十嵐香月に気があるんじゃないよな?」もし、そうだったらヤバイ。よりを戻したいと願っている自分にとってライバルが一人増えることになる。負けるとは思わないが競争相手は少なければ少ないほどいいに決まっている。
「いいや、興味ない。もっと魅力的な女がいる」
「えっ」聞き捨てならない言葉が耳に届く。「誰だい?」
「……」
「おい、教えろよ。オレだって秘密を打ち明けたんだぜ。その女ってB組にいるのか?」
「うん」
「誰だ? うちのクラスには不思議なくらい綺麗で可愛い女が揃っているのは事実だけどな。わかった、篠原麗子か?」
「違う」
「じゃあ、佐久間渚だ。でも彼女は佐野隼人と交換日記している仲だから--」
「それも違うな」
「奥村真由美だろ?」
「ううん」
「待てよ。まさか、手塚奈々かよ?」あの軽薄な女を選んだとしたら、こりゃ笑える。お前も手塚の長いセクシーな脚に心を奪われた男の一人になるわけだ。
「いいや」
「え、じゃあ誰だよ。目ぼしい女は全て言ったぜ」
「一人、残っている」
「はあ? わからねえな。五十嵐香月、篠原麗子、佐久間渚、奥村真由美、手塚奈々のほかにも誰か魅力的な女がいるって言うのか?」
「そうさ」
「B組だよな?」
「うん」
「さっぱり、わからない。教えろよ」
「いいよ。でも条件が一つある」
「なんだよ」
「その女とオレが仲良くなれるように祈って欲しいんだ」
「祈るって、どう?」
「難しいことじゃない。ただ心から願ってくれたらいいのさ」
「いいけど。そんなんで効果があるのか?」
「ある」
「……」すっげえ、自信あり気じゃねえか。理解できねえな、こいつ。ちょっと不気味な感じ。関わりを持たない方か無難かもしれない。でも、その女の名前は絶対に知りたい。「教えてくれ。願ってやるから」
「本気か?」
「ああ、もちろん」それは嘘。ただ本気で知りたいだけ。
「加納久美子」
「えっ?」
「驚いたのか?」
「あ、当たり前だろう。先生じゃないか。歳が違い過ぎるぜ。無理だよ、そんな……」こいつ、バカじゃないの。その言葉は、あの見事なヘッディング・シュートに免じて口には出さなかった。けど、サッカー部へ誘う気持ちは一瞬にして消えた。付き合っていられねえ、こんな奴とは。
「それがどうした」
「オレ達みたいな子供を加納先生が相手にするもんかよ」
「恋愛に歳は関係ないぜ」
「そうは言っても、それは大人の世界の話だ。無理だ、諦めろ。お前と加納先生では釣り合いが取れなさ過ぎるぜ」
「君がオレを信じて願ってくれたら何とかなるんだ」
「……」バカらしい。なんてこった。キャプテンの佐野隼人は正しかった。オレが間違っていた。こんな奴をサッカー部に入れたら大変なことになりそうだ。試合に勝つために練習しないで祈祷でもしかねないぜ。これ以上もう話すだけ時間の無駄に思えてきた。「あれ?」
数百メートル先に同じ中学の生徒が何人か歩いているは知っていたが、それが全員B組のクラスメイトであることに気づく。
「うちのクラスの連中だよな?」転校生も気づいたらしい。
「ああ、そうだ。でも……、変だな」
B組で不良グループと思われている山岸涼太、相馬太郎と前田良文の三人に意外にも土屋恵子が一緒だった。不思議な組み合わせだった。学校では口を利いてる姿を見たことがない。しかも山岸と前田の家は逆方向のはずだ。こっちが後ろから歩いてくるのに気づいたらしい、連中は周西小学校の隣にある公園の中へと足早に入って行く。
「どうして?」転校生が訊いてくる。
「いや、なんでもない」こんな事、一々説明していられるか。連中のことなんかオレには関係ないし。「用事を思い出した。オレ、急ぐから」そっけない口調だった。もう構うもんか。こいつとは二度と話さないかもしれないし。
「じゃあ、また明日」
「うん」
板垣順平が歩調を速めようとした時だ、転校生が抱えたショルダー・バッグの中にCDケースが入っているのが見えた。それだけなら何でもなかった。だけど、そこに『バイタル・ハザード 3』という文字が書かれていたのだ。『2』は知っているが、まだ『3』は発売されてないはずだった。見過ごせない。「それ、何だよ?」
「え?」
「そのCDケースだよ」
「ああ、これか。『バイタル・ハザード』の新しいやつだよ。試作の最終段階で、試しにプレーしてれって頼まれたんだ」
「……」ええっ、何だって? 耳に届いた言葉が衝撃的すぎて百八十センチの体が硬直。
「ゲームはやるのか?」転校生が訊く。
「え?」
「ゲームは好きなのか?」
「おい、……あのな」転校してきて間がないから仕方ないか。そんな質問をする奴は学校中に一人としていない。オレからゲームを取ったら何も残らない、そういう覚悟でコントローラーを操作する板垣順平だ。そんな質問はオレに対する侮辱でしかない。しかし、ここでは敢えて文句は言わずにおく。もっと重要な解決すべき問題が持ち上がったからだ。「誰に頼まれたんだ? 試しにプレーしてくれなんて」
「父親がゲーム関係の仕事をしているんだ。それで発売される前に不具合とかがないか調べる目的でプレーを頼まれるのさ」
「マジかよ。すっげえな」
「この『バイタル・ハザード』の新しいやつは前作よりも面白くなっているぜ」
「どう?」
「プレイする度にゾンビやアイテムの配置が違う。それに敵の攻撃を瞬時に避けられる『緊急回避』や、一瞬で後ろを向く『クイックターン』ていう操作が追加されているんだ」
「……」
「イージー・モードだと最初からアサルトライフルが用意されていたり、初めて『バイタル・ハザード』をプレーする奴にはやり易いはずだ」
「面白そうだな」
「ああ」
「でも、どうして学校になんか持ってきたんだ?」
「鶴岡に貸してやったのさ」
「えっ、鶴岡って、……あの政勝か?」思わず声が大きくなった。
「そうだよ」
「……」
「どうした?」
「信じられねえ」ほとんど独り言に近い。
「何が?」
「いや、何でもないけど……」これについても話が長くなるので説明できなかった。
板垣順平は裏切られた思いで怒りを感じていた。ふっざけた野郎だ、あの鶴岡は。『バイタル・ハザード 3』の試作品を転校生から借りていながら自分には何ひとつ言わなかった。クラスは一緒だし、同じサッカー部員でもあった。一日に話す機会は何度もある。
富津中との試合で奴がミスして逆転負けするまでは、チームの左サイドバックとして信頼していた。部室でナムコの『鉄拳3』について話をしたのは昨日じゃなかったか? 確かそうだ。それなのに『バイタル・ハザード 3』のことは黙っていた。鶴岡政勝に対する考え方はいっぺんに変わった。「それを、オレにも貸してくれないかな?」気を取り直して転校生に訊いた。
「いいよ。本気で願ってくれるならな」
「え? 何を」
「忘れたのか? さっきの約束だよ」
「あっ、ああ。い、いや、忘れてなんかないよ」すっかり忘れていたぜ、そんなバカバカしいこと。
「祈ってくれるよな」
「もちろんさ」
「それならいい。貸してやるよ」
「いつ返せばいい?」
「いつでも構わない。飽きたら返してくれ」
「本当かよ?」それじゃあ、貰ったも同然じゃないか。
「ああ」
「ありがとう。悪いけど、用事を思い出したから急いで帰るよ」
「わかった」
「また明日な」
板垣順平は走り出した。用事なんかなかった。ただ早く家に帰って、この『バイタル・ハザード 3』で遊びたいだけだ。
理解できないところはあるが、父親がゲーム関係の仕事をしているなんて凄い。これからは新作のゲームを発売前にプレーさせてもらえるかもしれない。サッカー部に入らなくても、ずっと仲良くしていくべき奴だ。順平の友達ランキング・リストに転校生の黒川拓磨が赤丸初登場で一位に君臨する。それまで長く一位をキープしていた親友の佐野隼人は二位に転落した。