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文字数 12,137文字

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 日本経済は長く低迷を続けていた。馬鹿な橋本内閣が消費増税前の駆け込み需要を、景気回復と判断を誤って緊縮財政を断行してしまう。経済が良くなっていないということは一般の誰もが実感していたことなのにだ。1997年の11月には三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券が破綻する。その年の初めにニュースステーションで久米宏の隣に座る高成田解説者が、政府の予算案に「これは酷い」と言っていた通りの結果を招く。不良債権という問題が新たにクローズアップされて、もはや日本経済はデフレ・スパイラルという、脱出不可能な泥沼の中だった。
 村山内閣は住専へ6千億円になる公的資金を投入した。その決定に対して、これほど国民が怒るとは思わなかったと後になって談話を残す。
 政治家たちは全く国民のこと、その生活ぶりを理解していない。だから間違った政策しか打ち出せないのだ。『地域振興券』とかいうものを出すらしいが、その効果は期待できそうにない。
 当然だが東証の株価もさえなかった。1万4千円前後をうろうろしていた。伴って君津南中学の教頭を務める高木将人の運用成績も芳しくなかった。ニューヨーク・ダウは1万ドルを突破する勢いなのとは対照的だった。
 こりゃ、まずい。何とかしないと。
 小渕内閣になって大蔵大臣に宮沢喜一が就任したが、その経済政策は従来の公共事業を柱とした目新しいものではなかった。「横浜ベイスターズの佐々木を登板させたのと同じだ」と意気込みを表わしたがインパクトは弱い。その後に、「この国の財政はやや破綻している」と口にした言葉の方は実感があった。これから日経平均株価が上昇していくとは思えない。つまり下げ相場で利益を出さなければならないのだ。カラ売りするほど相場感と勇気もない。株価が下げ過ぎたところのリバウンド狙いで行くしかなさそうだ。
 高木将人は金が必要だった。自分の生活基盤を築くための資金を作って妻と離婚したいと願っていた。
 一生懸命に勉強してきて六大学の一つに現役で合格できた。教員免許を取得して君津市の中学校に勤務する。数年後には、そこの校長の紹介で同じ歳の女性と見合いをした。
 異性と付き合う経験がなかった高木は、相手のふくよかな身体つきに惹かれた。口数は少なくて大人しそうな人だと感じた。この人と結婚したいと思った。
 高木将人の理想の女性像はラクエル・ウェルチだった。中学の時に新宿ピカデリーで見た映画、『恐竜100万年』に出演していた女優だ。ティラノサウルスの迫力ある映像を期待して映画館まで足を運んだ。しかし目に焼きついたのはボロ布を纏っただけのラクエル・ウェルチの肢体だった。なんてセクシーな女性なんだ、と見惚れた。
 それまでのアイドルはハニー・レーヌだ。秋山庄太郎が撮ったヌード写真は部屋の壁に飾られていたが、家に居ない時はその上に映画『イージーライダー』のポスターを縦に貼って見えないように隠した。
 二つのポスターの見ながら、グランド・ファンク・レイルロードの『ハートブレイカー』を聞くのが楽しかった。
 お見合いの席での妻の姿は女らしくて、ラクエル・ウェルチを彷彿させるものがあった。駅前にあるホテル千成のレストランでの会食だった。だが二度目に会った時には、あまりの背の低さに少し失望した。ハイヒールを履いてこなかったからだ。そんなにスタイルは良くなさそうだ。喋り方も、慣れてくるにつれて口調の強さが目立った。会う度に少しづつ幻滅を覚えていく。ところが高木将人の気持ちとは反対に、どんどん結婚の話は進んでいく。紹介してくれた校長からは、「僕の顔を立ててくれて有難う」とまで言われてしまった。自分からは後に引けなくなる。なんとか女の方から断ってくれないかと、それだけを願う。
 性格の弱さを呪った。勢いに流されるような感じで結婚してしまう。婿養子だ。悪夢の始まりだった。妻となった女は年齢を偽っていて、本当は八歳も年上だった。唯一、向こうが譲歩したのが高木という姓を名乗り続けられるということだけだ。
 初夜ではラクエル・ウェルチとまではいかなくても、せめてハニー・レーヌみたいな瑞々しい女体を期待した。しかし考えが甘かった。ただ太っているだけで、どこも女らしいところがないのだ。
 そのくせ、セックスのテクニックには驚くほど詳しい。四つん這いの姿勢で後ろから挿入しろとか、いきなりペニスを口に銜えてきたりと高木を圧倒した。なんとか性交したが、もう二度目は無理だった。性欲はあっても、妻の裸体を見ると急に萎えてしまう。
 高校時代にチューリップの『心の旅』を聞きながら、自分の初体験を期待を込めながらイメージしたものだ。なんか凄く初々しい感じだった。歌詞の『あー、今夜だけは君を抱いていたい』に心を躍らす。髪が長くて痩身の、恥ずかしがる彼女を両手に包み込む自分を想像した。
 ところがだ、現実は全然違った。相手には羞恥心の欠片もなかった。性欲の塊と言っていいくらいの女だった。平気で毛深い股を開く。何度も何度も求めてきた。大食いという形容詞がピッタリ。こっちの体が持たない。少し休ませてくれと頼んだか容赦してくれない。やっと務めを果たしたと思うと、今度は激しいイビキで一睡もさせてくれなかった。幻滅した。
 女を見る目がなかった。恋愛経験がないので、女が化粧とかハイヒールやコルセットで別人になれることを知らなかった。
 夫とは名ばかりで実際は妻の家族の奴隷と同じ。給料が振り込まれる預金通帳は取り上げられて、高木将人が手にできるのは小遣いとして月に一万円だけだった。忘年会とか同僚との付き合いがある時なんかは、頼めば金を出してくれるが渋々だ。へそくりをして自分の貯金を作るしかなかった。悲惨な結婚生活だ。一日でも早く独身に戻りたい。
 婿として入った家は一族の本家で何よりも世間体が大事。絶対に離婚は認めてくれないだろう。高木将人は密かにアパートを借りて夜逃げするしかなかった。少なくとも百万円ぐらいの金を持って姿を消したい。へそくりを株式で上手く運用して増やしていくしかないと考えた。
 『新日本製鉄』の株を百七十円で買って二百五十円で売った。八万円ほど利益を得た。次に六百円で買った『富士重工業』の株を七百円で売って十万円を稼ぐ。
 2戦して2勝、無敗だ。幸先がいい。少ない限られた資金で十八万円も儲けた。もしかして俺って株の天才じゃないのか。そんな思いが頭を過ぎった。自然と夢が膨らむ。
 あの年増のブスとは絶対に別れてやるんだ。アパートを借りて家に帰らなければ嫌でも離婚に応じるしかないだろう。自由を取り戻したい。四十三歳だ。やり直しは利く。今度こそ理想に近い女と一緒になりたい。
 最初の結婚に失敗して憧れの女性はラクウェル・ウェルチから、二人のボンド・ガールズへと変わった。たまたま立ち寄った近所のレンタルビデオ店で、旧作百円キャンペーンをやっていて、何本か007シリーズを借りたのが切っ掛けだ。学生の頃に見たときは、ただ綺麗な女性だなと思っただけだったが、二度目は彼女たちの美しさに心を奪われた。
 一人は『ロシアより愛をこめて』に出演したダニエラ・ビアンキだ。プロポーションよりも清楚で知的な美しさが印象に残った。ライトグリーンのスカートにイエローのブラウス、そして金髪をアップにした姿が醸し出す品の良さ。その格好で床に倒れて拳銃を構えたところなんか、もう最高。
 マット・モンローが歌うサウンドトラックのジャケットは、ショーン・コネリーとのラブ・シーンのカットだった。曲を聴きながらスクリーンでのダニエラ・ビアンキを何度も思い出す。
 ところが、その後は作品に恵まれなかった。この映画でしか彼女に逢えないのだ。願わくは『サンダーボール作戦』でカムバックさせて水着姿を披露して欲しかった。
 もう一人が、『ダイヤモンドは永遠に』のジル・セント・ジョンだった。ビキニのショーツにカセット・テープを入れられてびっくりするシーンは目に焼きつく。彼女はIQが162と高くて十四歳で大学の入学を許された才女だ。しかしセクシーなボディしか注目されなくて、映画に登場するのは多くがお色気シーンだった。
 高木将人は髪の毛が薄く小太りにも関わらず、これらの背が高くてナイス・ボディの女性が好みだ。大金を掴んで理想に近い女と仲良くなりたかった。その思いは強い。
 どう角度を変えて鏡に映った自分の姿を見ても、体形は中年そのものだった。見掛けは良くない。これからどんどん体力も衰えていくだろう。時間は少ない。早く株で成功したかった。
 まだ教師になったばかりの頃に、私立国際高校で自分の教え子だった加納久美子が今は同僚だ。それを考えると歳を取ったなと、つくづく実感させられる。四十五歳までにはなんとかしたい。
 しかしだ、三百四十円で買った『横河ブリッジ』の株が期待に反して上昇しなかった。買値を下回ったままの辛い毎日が続く。
 ビギナーズ・ラックで調子に乗って、安易な気持ちで『横河ブリッジ』の株に手を出したのが拙かったのだ。
 真剣に株のことを勉強しなければいけないと思う。日本経済新聞を学校に配達してもらうことにした。株式欄を表にして常に持ち歩く。暇があれば目を通して知識を得ようとした。
 「教頭先生は株をやっているんですか?」 
 廊下を歩いて二年B組の横を通り過ぎようとした時のことだ。一人の男子生徒から声を掛けられた。転校生の黒川拓磨だった。
 「いいや、やっていない。世の中の出来事を知りたくて読んでるだけなんだ」やっているなんて勤め先の中学校で正直に言えるわけないだろう。
「そうですか」
「君は株に興味があるのかい?」
「あります。父親が証券会社に勤めていて色々な情報を聞かされますから」
「何だって?」聞き捨てならない。
「貯金があるので投資してみようかなって思っています」
「どこの証券会社に、お父さんは勤めているんだい?」
「野中証券です」
「……」業界で最大手だ。なんてこった。こんな身近に情報源があったとは。
「先週だけど『宇部興産』がいいなんて薦めてました。連結での純利益が急回復してるそうです」
「え、どこだって?」
「化学の『宇部興産』です」
「……そ、そうか」やっと口から言葉を搾り出す。頭に生徒が口にした会社名を焼き付けた。急いで職員室へ戻って会社四季報で調べたかった。高木将人は足早に転校生の前から姿を消した。
 『宇部興産』の株価は、三年前に四百五十二円という高値を付けた後は一貫して下げ続けた。今年になって百四十円から百七十一円まで上昇したが、その後は百五十円前後まで値を戻す。会社四季報には増益と書かれていたが、これから更に再び上がって行くんだろうか。高木将人は半信半疑だった。証券会社に勤める父親が漏らした言葉を、たまたま生徒から又聞きした情報だ。迂闊に信じて大切な自己資金を投じるわけにはいかない。しばらくの間は様子を見ることにした。
 すぐに『宇部興産』の株価が再び百七十三円まで上がると、高木将人は百四十円が底値だったと確信する。しかしどこまで上昇するのか分からない。今から買えば高値掴みになる恐れがあった。
 その判断が間違いだったと思い知らされたのは株価が二百円を超えた時だ。買っとけば良かった。やはり野中証券の社員が言う言葉は信頼できる。
 「おはよう、黒川くん。あの会社の株が上がったじゃないか。さすが野中証券に勤めるお父さんの情報だけはあるな」朝、高木将人は転校生の姿を見つけると言葉を掛けた。
「そうなんです。僕も十万円ほど儲けました」
「えっ。あの株を買ったのか、きみは?」
「はい」
「……」なんてこった。中学生の小僧に出し抜かれた思いだ。悔しい。「よく、そんな勇気があったなあ」
「株は決断ですよ、教頭先生」
「……」ちっ。今度は説教か、こんなガキから。
「昨日ですが父親が僕に次の株を薦めてくれました」
「本当か」思わず心が躍る。「その会社を先生にも教えてくれないかな」
「いいですよ」
「頼む」
「二部上場の『京葉電気』です」
「え、二部上場だって?」
「はい」
「大丈夫なのか?」
「ええ。発行株式数が少ないですから値動きは激しいと思います。でも上がり出したら一気に行くっていう感じですよ」
「ふうむ、……そうか分かった。調べてみよう。どうも有難う」
「どういたしまして」
 二部上場と聞いて高木将人は怯む。馴染みがなくて、これまでは素人が手を出すような健全なマーケットじゃないと考えていた。生徒の言った通りで、値動きの激しいギャンブルに近い投資になりそうだった。ただ一つだけ期待できるのは、市場に出回っている株式数が少ないので動けば一気に上昇するところだ。
 そして『京葉電気』を買うには、持ち株の『横河ブリッジ』を損切りして資金を作らなければならなかった。一円でも金は失いたくない。だけど『京葉電気』で一儲けしたかった。その儲けが『横河ブリッジ』で出る損をカバーしてくれることを願うだけだ。
 どうしよう。悩んだ。「株は決断ですよ」と言った生徒の言葉が頭に過ぎった。同時にダニエラ・ビアンキとジル・セント・ジョンの二人がセクシーに微笑む姿が目に浮かんだ。
 次の休み時間、高木将人は職員室から出ると、人気のない駐車場から携帯電話で中原証券の担当を呼び出した。「山口さんを、お願いします。高木です」

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 どうしても次の富津中学との試合にスタメンで出場したい。
 サッカー部の鶴岡政勝は鮎川信也と左のミッド・フィルダーというポジションを争っていた。ライバル意識を燃やして競い合わせようと、顧問の森山先生も二人を交互に試合で使った。順番からいえば次は鮎川信也の番だ。
 前の試合では鶴岡政勝のミスプレーから失点して逆転で負けた。でも誰も咎めてきたりしなかった。板垣を除いて、みんなが「気にするな」と声を掛けてくれた。マネージャーの奥村真由美しては、「元気を出して、鶴岡くん。あなたなら失敗をバネにして次の試合で、きっと活躍してくれるはずよ」とまで言ってくれた。なんて、いい女なんだと思った。
 これまでは高嶺の花で、背の低い自分なんか相手にしてくれないと考えていた。去年に買ったキャノンのデジタル・カメラ PowerShot A5で密かに写真を撮り続けるだけだ。手塚奈々と並んで、お気に入りの被写体だった。
 手塚奈々には軽々しく水着の写真を撮らせてくれと言えたが、しっかりした性格の奥村真由美には無理だった。教室での様子とか体操服姿を隠れて撮影するのが限界だ。
 スレンダーな身体つきで手足が長く、顔は細面、ショートカットのヘアスタイルが抜群に似合っていた。スポーツは万能、どんな競技でもスター選手になれそう。泥臭いサッカー部のマネージャーなんかをさせてるには勿体ないくらいだ。付き合っている女がいない部員にとっては憧れの存在だった。
 やさしい言葉を掛けられて一気に親近感が増す。左のミッド・フィルダーという難しいポジションを任される自分の苦労を分かってくれているらしい。司令塔なのにフォワードの板垣順平は全く言う事を聞いてくれないのだ。これまではライバルである鮎川信也と二人で、試合運びの難しさを語り合って、板垣に対する愚痴を言うだけだった。 
 もしかしたら奥村真由美はオレに気があるんじゃないだろうか。あの優しい言葉には、そんなニュアンスが含まれていると思えた。彼女がオレのガールフレンドになってくれたら、どんなに嬉しいことか。 
 これはチャンスかもしれない。見逃しては駄目だ。男なら告白すべきじゃないか。
 だけど彼女には背が高くてカッコいいボーイフレンドがいたりして。それとも好きな奴がいるのかもしれない。もし、いなくても交際を断られる可能性だってある。不安だった。どうすべきだろう。しかし日々、奥村真由美に対する想い強くなって行く。鶴岡政勝は計画を練った。
 今日、明日に気持ちを伝えても効果は薄い。出来る事なら次の試合に出て、彼女が言った通りにオレの活躍で君津南中に勝利をもたらした直後の方が絶対にいい。その状況では、きっとオレの背の低さは問題にならない。感動で奥村真由美の心は高揚している。試合のヒーローから告白されてノーと言う女なんているもんか。
 これだ。これしかない。これなら、きっと上手くいく。
 問題は、どうやって次の試合にスタメンで出場するかだ。出れば富津中には必ず勝てる。連中の弱点は分かった。汚い富津弁さえ気にしなければオレたちが負けるはずがない。
 鮎川信也にオレを次の試合に出させてくれと言っても、拒否されるのは明らかだ。続けて二試合もゲームから遠ざかれば、実戦の感覚は鈍って取り戻すのに苦労する。左のミッド・フィルダーというポジションを完全に失うことを意味した。ましてや理由が女の子に好意を告白する為だと言ったら、ふざけんなと怒り出すのは目に見えている。
 悩んだ末に、板垣順平に怪我をさせた同じ方法を取ることに決めた。秋山聡史と二人で実行した仕返しは完璧なほど上手く行く。一試合だけ出場できなくなれば、それでいいのだ。そんなことを仲良しの鮎川にするのは気が引けたが、これが唯一の手段だと思った。
決断に踏み切ったのは転校生の助言が大きかった。 
 「素晴らしいヘッディング・シュートだったぜ」
 体育の授業が終わって真っ先に、そう声を掛けないではいられなかった。
「ありがとう。だけど二度と起きない。あれはまぐれさ」
「あっはは。そうは見えなかったな。かなり練習を積んでいるって感じだ」
「ミッド・フィルダーの司令塔に褒められて悪い気はしないな」
「サッカーは好きなんだろう?」
「ああ。だけどプレーするよりも試合を見る方が好きだ」
「じゃあ、ヨーロッパのサッカーだよな?」
「もちろん」
「好きな選手は?」
「アズーリの至宝、ファンタジ--」
「もう言わなくていい。ロベルト・バッジョだろ?」
「そうだ」
「オレはジダンだな。マルセイユ・ルーレットには惚れ惚れしている」
「まさに神業としか言いようがない」
「そのとおり」
 こんな調子で奴とはヨーロッパのサッカーの話で盛り上がった。授業を挿んで次の休み時間になっても続く。これまで回りには外国の事情に詳しい奴なんて一人もいなかった。やっと話し相手を見つけたっていう、そんな気分だ。次の日韓共同開催のワールドカップでの優勝争いを予想したりで楽しかった。
 どうしても次の富津中学との試合には出たいんだ、と悩みを打ち明けるのに時間は掛からない。
 「そういう気持ちなら、どんな手段を使ってでも試合に出る努力をすべきだな」と、転校生。
「……」当事者じゃないから簡単に言えるんだ。
「運を天に任すなんて態度じゃダメだぜ」
「そう言うけどな、なかなか思い通りにならない事だって……」
「セリエAなんかで活躍するストライカーは、いいパスが来るのを待っちゃいないぜ。自分から取りに行くんだ。たとえ相手が味方であろうと、オレがシュートするんだという気持ちで奪いに行く」
「すげえな」
「自分よりもチーム・プレーが大事という日本的な考えだと、本当の意味でのストライカーは育たない。Jリーグの試合ではキーパーと一対一なのに、パスの相手を探そうとするフォワードの選手をよく見る」
「オレも、そう思う」
「試合に出たいなら出来るだけのことはやれ」
「もし、……」
「何だ?」
「もし、それが汚い方法でもか?」
「見つからなければいいのさ」
「……」言えてる。
「上手くやるんだ。きっと成功する」
「わかった」
 放課後のクラブ活動が終わって、トイレに行く振りをして鶴岡政勝は駐輪場へ急いだ。いつもの場所に鮎川信也の白い自転車を見つけた。周りを伺う。誰もいないことを確かめて近づく。針で前輪に小さく穴を開けて、黒いビニールテープを貼った。完了。目立たないように、ゆっくり校舎へと戻った。板垣順平の時みたいに上手く行くことを願いながら。
 カバンと学生服を取りに二年B組の教室に寄ったが、部室へは行かなかった。鮎川信也と顔を合わせたくなかったからだ。後ろめたい気持ちは、これが最初で最後だからという思いで紛らわす。
 帰り道、もし上手く行かなかったらと考えた。ただの自転車のパンクで終わったとしたら。
 それは、それでいい。そしたら次の試合に出場することは潔く諦めよう。出来るだけの事はやったんだ、と自分を納得させられた。後悔はない。また、いつかチャンスが来るのを待つだけだ。
 家路を歩きながら想いが膨らむ。出場できた次の試合で大活躍してチームに勝利をもたらす。その勢いに乗って奥村真由美に告白すると、彼女の方からも前から好きだったと知らされて大感激。板垣順平を除くサッカー部の仲間たちに祝福されて、オレたちはボーイフレンドとガールフレンドの仲になるんだ。
 
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 『ぼくと付き合って下さい』
 波多野孝行は書いた文を何度も読み返す。うん、ストレートで何か凄くいい感じだ。これなら上手く行きそうだ、きっと。
 相手は同じクラスの篠原麗子だった。彼女の女らしい、ふくよかな容姿に強く惹かれた。長い黒髪と、それに合った優しそうな顔立ちも大好きだ。そのうち誰とでも寝るようになるに違いない手塚奈々や、男に対して見栄えしか求めない五十嵐香月の虚栄心とは対照的な女性。穢れない美しさ、純真無垢、それが篠原麗子だ。
 中学二年に上がってクラスが一緒になる。彼女の身体が丸みを帯びていくに従って目が離せなくなった。なんて女らしくて美しい。ほかの女生徒とは別格の存在だ。憧れた。でも気持ちを伝える勇気はなかった。片思いだ。
 波多野孝行は父親こそ君津署の刑事だが、本人は痩せていて存在感のない男子生徒でしかない。彼女とは挨拶をするぐらいでしか言葉を交わしたことはなかった。
驚いたのは、机に向かって自分の気持ちを文に表わそうとしていると、ドアを叩く音に続いて父親が部屋に入ってきたことだ。もう、びっくり。慌てた。女の子に手紙なんか書いていないで勉強しろ、と叱られるんじゃないかと思った。
 「孝行」だけど声は怒っていなかった。
「……ん?」心臓ドキドキ。不審に思われないように、ゆっくりパソコンのカタログで机の上にあった紙を隠す。
「お前、去年だけど校外学習に行ったよな?」
「うん」
「その時にクラス全員で写真を撮ったか?」
「と思うけど」
「見せてくれないか」
「え、どうして」
「いいじゃないか。見たいんだ」
「今、どこにあるか分からない。探して持っていくよ」
「よし、そうしてくれ。急いでな」
「うん」
 一体、何なんだよ。今になって去年の校外学習の写真が見たいだなんて。息子に対する嫌がらせか。あ、それとも……加納先生の写真が見たいのかな? すっげえ美人だな、なんて前に褒めてたからな。理解できない、うちの親父。
 しかし関係ない話で本当によかった。もしかしてバレたのかなと一瞬だけど身が縮まる思いだった。
 気を取り直して書いたを文章を眺めた。ボーイフレンド、ガールフレンドの仲になれますようにと願った。
 初めて心から好きになった女の子だ。何とかして仲良くなりたいと、ずっと考えていた。
 以前に篠原麗子への強い想いを、友達の新田茂男に話して、何かアドバイスをもらおうとしたが直前で気が変わった。よくよく考えてみると奴は女に全く興味がない感じなのだ。男らしいのは名前だけで、容姿は自分と同じように痩せて、なよなよしていた。
 初めて相談した相手は転校生の黒川拓磨だった。下校途中で、お互いに好きな人がいるなら告白しようということになったのだ。
 彼の口から加納久美子先生の名前が出てきたのには驚いた。「ええっ、それは難しいんじゃないのか。相手は歳の離れた教師だぜ。綺麗なのは分かるけど、中学生の男子なんか相手にするわけがないだろう」そう応えるしかなかった。
 「きみが協力してくれるなら何とかなるんだ」
「え、オレが?」びっくりするような事を言ってくる。
「そうだ」
「オレなんか何も出来ないぜ。クラスの女の子とさえ、よく話したことがないんだから」
「わかってる」
「だったら、何で?」
「三月の十三日、その土曜日に『祈りの会』を開くんだ。それに出席して欲しい」
「『祈りの会』だって? 何だい、それって」
「ぼくの願いが叶うように皆で祈るのさ」
「皆って?」
「もちろん二年B組の生徒たちだ」
「全員が了解済みなのか?」そういう話がクラスで進行しているとは知らなかった。新田茂男は知っていたのかな、オレに話さなかっただけで。
「いいや、一人ひとりを説得している最中だ」
「……」じゃあ、無理だろう。わざわざ休みの日に、そんな馬鹿らしいことで学校に出て来る奴なんかいないぜ。
「どうだろう、出席してくれるかい?」
「来月の話じゃ、今から約束はできないな。ほかに予定が入っちゃうかもしれないし」馬鹿馬鹿しい。そんなものに付き合っていられるか。
「なるほど」
「がっかりさせて悪いな」
「いや、構わない。でも残念だな。ひとつ提案があったんだが、それは言わないでおこう」
「提案?」
「そうだ」
「え、どんな?」こいつ、興味を誘う言い方をするじゃないか。
「お互いの思いが叶うように協力し合うことさ」
「協力し合うだって?」
「うん」
「どうやって?」
 すると転校生は答える代わりにポケットから折り畳んだ一枚の紙を取り出して見せた。「何だよ、それは?」
 「触ってみろよ」
 言われるがままに波多野孝行は差し出された紙を手にした。「へ
え、なんか凄い紙だな」高価な和紙らしい。表面はザラザラしていて重々しい感じがした。
 「だろう」
「うん。だけど協力し合う事と関係があるのかい、この紙が?」
「ある」
「どんな?」もったいぶってるぜ、こいつ。
「その紙に願い事を書くと叶うんだ」
「えっ、何だって?」
「聞こえただろ。今、言った通りさ」
「待ってくれ。もう一度、言って欲しい」
「願い事が叶うんだ、その紙に書けば」
「マ、マジかよ?」
「ああ」
「そんなこと信じられ--」
「信じられなければ、それでいいさ。そういう気持ちなら願い事を書いても叶うことはない」
「……」
「信じるってことが大事なんだ」
「つ、つまり、その紙に願い事を書いて信じれば、叶うってことなのか?」
「その通り」
「……」マジかよ。にわかには信じられない話だが、この重厚な紙の手触り感が信憑性を醸し出していた。無視できない。
「どうする?」
「この紙を貰うために、オレは何をすればいいんだ?」
「祈りの会に出席して欲しい」
「それだけか?」
「そうだ。ただし……」
「ただし、何だ?」きっと金だ。世の中、すべてが金で動いてる。
「自分の願いが叶うように強く信じるのと同じように、僕の願いが叶うように強く信じてくれないとダメなんだ」
「……」何だって? そりゃ、簡単じゃない。なにしろ、お前の相手は学校の教師なん--。
「難しいのは分かっている」
「おい、相当に難しいぜ」
「じゃ、止めるか」
「いや、待ってくれ」篠原麗子と恋人同士になるチャンスかもしれない。ダメで元々だし、見逃すわけには行くもんか。
「やるのか」
「ああ」波多野孝行は決断した。
「出来るのか?」
「もちろんだ」
「もし同じように信じられないと大変なことが起きるぜ」
「え、……例えば?」
「きみの気持ちが、思ってもいなかった相手に伝わってしまう場合もあるんだ」
「別の女に、っていう可能性が出てくるのか?」
「そうだな」
「いやだ。オレは篠原麗子じゃない女には興味がない」
「だったら自分の為に、そして同じように僕の為に強く信じてくれないと困る」
「わかった、任せてくれ」
「大丈夫か?」
「心配しなくていい」
 そう返事して転校生と別れた。魔法の紙が欲しくて、出来そうにもないなんて言えなかった。すぐに相当に難しいことだと、ひしひしと感じた。自分が篠原麗子と恋仲になりたいという気持ちは強くて、絶対になれると信じることはそんなに難しくもない。しかし奴の相手は加納先生だ。とてもじゃないが、二人が恋人同士になるなんて想像できるもんか。身長だって奴の方が5センチぐらいは低くないか。見た目にも釣り合いの取れないカップルだ。だけど、ここは努力しないと。自分の恋を成就させる為にも、あいつの思いが叶うように信じてやらないといけない。
 波多野孝行は最後に、魔法の紙に書いた文の横に自分の名前を付け加えた。黒川拓磨の指示が、その紙を篠原麗子のではなくて、転校した関口貴久が使っていた空の下駄箱に入れろというものだったからだ。何でだろう? 不思議に思ったが言われた通りに実行することが大事だと考えた。そこで一応、念のために波多野孝行と署名を入れた。彼女が誰から思われているか、ハッキリと分かるようにだ。これなら間違いない。
 明日の朝、下駄箱の中に魔法の紙を入れるつもりだった。篠原麗子がガールフレンドになってくれたら、二人でディズニーランドへ行きたい。どんなに楽しいだろう。そうだ、カメラが必要だ。どれを買えばいいのか、鶴岡政勝にアドバイスをしてもらおう。
 映画も見に行きたい。ピクニックもいい。ショッピングも一緒にしたい。夏には海へ行こう。彼女の水着姿が見てみたい。きっと超セクシーだろうな。うきうきしてくる。波多野孝行の頭の中は、恋人同士で過ごす週末のプランでいっぱいになった。そこには一抹の不安も入る余地はない。
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