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文字数 20,997文字

   76

 「加納先生」
 ドキッ。
 一階まで降りて職員室へ戻ろうとした加納久美子は後ろから声を掛けられた。びっくりして思わず身を竦めてしまう。振り向くと男子トイレの前に教頭先生が立っていた。恥かしい。「あ、は、はい」
「あ、ごめん。驚かせてしまった」
「いえ、大丈夫です」
「上で何か変わったことがあったかな?」
「いいえ」相手の言葉には、どうだ、オレの言ったとおりだろう、という勝ち誇ったニュアンスが窺えた。「帰ります」教頭先生が正しかったと認めるように久美子は言葉を続けた。
「もう?」
「はい。何事もなさそうなので」
「そうか。うん、それがいい。土曜日なんだから、ゆっくり休みなさい。あはは」
「失礼します」加納久美子は努めて相手の顔を見ないようにして言った。
 でも教頭先生の言った通りで良かったと思う。何も起こらなければ、それに越したことは無いのだ。
 職員室に入り、自分の机の引き出しからフォルクス・ワーゲンのキイを取る。ほかに持ち帰るモノはなかった。
 採点が途中の小テストの束が目に入った。そうだ、これだけでもむ終わらせてしまおう。月曜日には生徒に返せる。何分も掛からないだろう。
 久美子は椅子に座って作業を始めた。テストの採点では、何か気がつくとコメントを残すことにしている。『すごい』とか『よく頑張った』、または『もう少し』だ。褒め言葉しか書かない。これで生徒がやる気を起こしてくれたら嬉しい。
 手っ取り早く終わらせて席を立つ。帰ってから家事を片付けていく段取りを考えながら足早に職員室から出いく。上履き用のパンプスから白いコンバースに履き替えて校庭に出た。
 素足にスニーカーを履くのって気持ちがいい。天気がいい日は特にだ。自由を感じる。カジュアルでラフな格好が久美子は好きだった。
 右腕のベビー・Gに目をやると、そろそろ午前十時になる。途中で127号線にあるタワー・ビデオに寄って行ける、と思った。
 駐車場へ向かいながらも無意識に顔を上げて二年B組の教室を見上げた。
 えっ。足が止まる。ど、どうして。
 不安が加納久美子を襲う。教室の窓が全て黒い遮光性のカーテンで閉じられていた。それも二年B組の教室だけが。誰かが教室にいるらしい。
 ……どうしよう。
 このまま帰るわけにはいかなくなった。久美子が戻ろうとした時だ、カーテンが動いて隙間から人の顔が見えた。誰だかは分からない。でも久美子の方を見たのは確かだ。
 足早に戻る。校舎に入ったところで、トイレから出てきた教頭先生と鉢合わせした。
 「あれ、帰るんじゃなかったか?」
「……」教頭先生の言葉を無視した。久美子が階段を上がって教室へ向かおうとしているのに気づくと、彼は嫌悪感を露わにした顔を見せた。
 三階まで一気に駆け上がり、教室の前で足を止めた。さっきとは違い、ドアが閉じられている。中から鍵を掛けられているかもしれないと思いながらも、ドアに手を掛ける。恐怖心はなかった。動いた。
 中は薄暗かった。明かりは数本のローソクが火を揺らしているだけだ。かなりの数の生徒がいるみたいで、そのうちの何人かは顔が認識できた。二年B組の生徒だ。
 教室は様変わりしていた。全ての椅子と机は中心に作られたサークルを囲むように四隅へ動かされ、その上に生徒たちが腰掛けている。教室の真ん中に出来たスペースで行われている何かを見ている観客のように。
 「あ、あなた達……、何をしているの?」
「……」
 答えが返ってこない。身動きすらしない。みんなが座ったまま居眠りしているみたいだ。状況を把握しようとして久美子は教室の中へと入った。「はっ」目に映ったモノが信じられず、無意識に口を手で押さえた。うっ、嘘でしょう? 心の中で叫んだ。
 教室の中心では下半身を露わにした黒川拓磨が、全裸で横たわる女性の上に身体を重ねていた。性行為の最中だ。それを二年B組の生徒たちが放心状態で見つめている。「えっ、安藤先生?」
 黒川拓磨が上体を起こして久美子の方を向いたところで、その女性が呻くように顔を横に動かしたのだ。
 「加納先生、待ってたぜ。次は、あんたの番だ」
「……」えっ、どういう意味? あたしを待っていたって。わけが分からない。
 安藤先生の下腹部から勃起したペニスを引き抜きながら、黒川拓磨は笑顔を見せていた。みんなに見られて恥かしがる様子なんて全くなさそうだ。立ち上がろうとしている。
 逃げないと。他の職員たちに知らせないと。でも身体が硬直して動かなかった。このままだと危ない。そう分かっていても,脚に感覚がなかった。「あっ」横から誰かに右腕を掴まれた。力が強い。「いやっ」
 板垣順平だった。反対の手にはロウソクを持っていた。「痛い。やめて」ところが手を離そうとしない。いつもの彼じゃなかった。夢遊病者みたいな目をしている。
 「先生、何を言っても無駄さ。もう奴はオレの言うことしか聞かないんだ」
「……」そうらしい。黒川拓磨に操られているんだ。何を言っても無駄みたいだった。
 しかし掴まれている手が痛い。片手なのに凄い力だ。どうにかして彼の手を振り解けないかと思っていると、それを悟られたのか、左側の手も他の男子生徒に掴まれてしまう。両手の自由を奪われて絶望感が久美子を襲う。「やめてっ。いや、離して」
「先生、大人しくしなよ。どうせ、オレに抱かれるんだぜ」
「いやよっ」怒りを込めて言った。
 黒川拓磨は話しながらペニスをティッシュで拭いていた。まるで次の獲物をさばく包丁を研ぐように。逃げ出したい。
「言うことを聞かないと、痛い目に遭うぜ」
「それは、あんたにしても同じことよ」両方の腕を掴む、男子生徒二人の力が強くて痛かった。振り解くどころじゃなくて、耐えるだけで精一杯だ。こっちへ黒川拓磨がやってこようとしていた。
「はっはっ。そんな強気なところが好きだな。加納先生なら、しっかりした子供を産んでくれそうだ」
「ふざけないで。誰が、あんたみたいな悪魔の子を産むかしら」口だけは強がりを言い続けた。怒りが恐怖心を薄れさせ、少しづつ脚の感覚を取り戻そうとしていた。
「安藤先生もそう言っていたけど、今はこの通りさ。すっかり観念して、オレに股を開いてくれたんだぜ」
「嘘よ」
「仕方ないな。時間もないし、オレたち三人で先生のセンスのいい服を脱がしてやるか」
「……」裸にされる。再び恐怖が加納久美子を包み込もうとしていた。逃げたくて身体を揺すった。「い、痛い」掴んでいる生徒の力が増して、立っているのも辛くなる。ああ、もうダメだ、と思った瞬間だ。
 『ミスター・ムーンライト』携帯電話が鳴った。
 ジョン・レノンの叫び声に驚いたのか、二人の男子生徒の力が緩んだ。この瞬間を逃さない。掴んでいた手を振り解き、加納久美子は向きを変えて一目散に教室から出て行く。
 「おい、逃がすなっ」
 後ろで黒川拓磨の声がした。「どけっ、オレが捕まえる」振り向かない。階段へと急ぐ。「あっ」廊下を歩く教頭先生の姿があった。久美子の様子を見に来たに違いなかった。「先生、逃げて」
 「加納先生、どうした?」
「せ、生徒たちが--」説明なんかしていられない。「いいから、早く逃げて」とても教頭先生一人で立ち向かえる状況ではなかった。 
 「あっ、お前。こらっ。何、やってんだっ」
 教頭先生のその声に久美子は思わず教室の方へ振り返った。「あっ」下半身を露出した黒川拓磨が追って来ていた。
 教頭先生が久美子を通り過ぎて彼に立ち向かおうとする。
 一人じゃ、とても無理。他の生徒たちも操られているんだし。そう思ったが、加納久美子は立ち止まって成り行きを見るしかなかった。

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 まったく、なんてこった。
 畜生っ。どいつも、こいつも。高木教頭には恐怖心など全く無かった。ただ怒りだけだ。何年か前に何かと面倒を見てやった後輩に裏切られた苦い思い出が蘇ってきた。
 隣の町で女子中学生の制服を盗んで、何を思ったか、それを着込み、スカート姿で自動車を運転して警察に捕まった馬鹿野郎だ。
 飲酒取締りの検問に気づいて急いでUターンをしたところが、逆に注意を引いてしまう。当たり前だろう、バカ。近くにあった空き地に車を停めて、着ていたセーラー服を脱ごうとするが、きつ過ぎてなかなか脱げない。飲酒運転だと思って追ってきた警察官は、どれほど目にした光景に驚いたことか。いい大人が女子中学生の制服を着たまま夜のドライブと洒落込んでいたのだから。
 いとも簡単にバカは白状したらしい。翌朝、学校に電話を掛けて、「警察に捕まったので休みます」と告げる。その後の職員室は大騒ぎだった。電話を取った女の事務員と女教師たちが、あれやこれやと、どんどん話を勝手に大きくしていく。仲が良かったと見なされた自分は質問攻めだ。何も悪い事はしていないのに、本人がいないから犯人扱いだった。
 罪状が明らかになると、自分も同じような趣味があるんじゃないかと、多くの人達から疑われた。とくに警察からの追求は厳しかった。干してある女性の下着や服を盗む破廉恥な連中と同類と見なされたのだ。
 「彼には親切にはしてやったが、そんな事をやっているなんて、まさか知らなかった。自分は無関係だ」
 しかし何を言っても信じてもらえず、こっちが必死に弁明するほど刑事は確信を強めていく。辛くて涙が出た。
 証拠が無いので警察からは釈放されたが世間の目は冷たかった。疑われただけなのに、もはや性犯罪者扱いだ。後輩に親切にしたばっかりに、恥かしくて悔しい思いを何年も味わった。なかなか教頭にさせてもらえなかったのは、きっとその所為に違いなかった。
 やっと事件の記憶が薄れた今、今度は生徒だ。君津南中学に、また汚点が一つ増えてしまう。
 黒川拓磨、こいつは優秀な生徒だ。もう意外とは思わない。セーラー服を盗んだ奴も国立の千葉大学を卒業していた。
 ふざけんなっ。性犯罪者は人間なんかじゃない。オレが懲らしめてやる。生徒だろうが何だろうが関係ない。それにだ、この小僧には株で大損させられていた。叩きのめしてやる。オレが味わった恥かしい思いと、大金を無くした喪失感の鬱憤を、ここで晴らしてやろう。
 高木の血液中のアドレナリン濃度が、今や最高値に達しようとしていた。
 いいか、このクソ小僧。このオレをただの教師と思ったら、大きな代償を支払うことになるぞ。そこらのひ弱な連中とは違うんだ。
 杉八小学校六年の頃に流行ったプロレスごっこでは、いつだって鉄人ルー・テーズの役だった。誰にも文句は言わせなかった。キーロックから四の字固め、スリーパーホールドやコブラツイストなど多彩な技を持ち、その掛け方は仲間で一番早かったのだ。その輝かしいテクニシャンぶりは今でも健在だ。
 だが、このクソ生意気な黒川拓磨にプロレス技をお見舞いする気はなかった。まどろっこしい。こいつには5階級制覇を成し遂げた脅威のボクサー、シュガー・レイ・レナードがするような、スーパー・エクスプレスと呼ばれた集中連打を浴びせてやりたい。ボコボコにしてやろう。
 「犯されそうになった加納先生を守るために必死でした」
 教師が生徒を袋叩きにすれば当然だが非難の声が上がる。釈明の言葉はこれだ。
 この野郎、股間をオッ立てたまま平然と歩いて来やがる。やはりバカなのか、お前も。いいだろう。まず、その顔面に必殺の右ストレートを食らわせてやる。
 上手いことに、オレの方を全く見ていなかった。完全に油断している。その視線は加納先生に注がれたままだ。彼女は、お前なんかが手の届く存在じゃない。ませたガキだ。
 射程距離に入った。下半身を露出した生徒は、まさか学校の教師が暴力を振るうとは思ってもいない様子だ。加納先生と一発ヤることしか頭にないのか、この色狂いの中学生が。よしっ。オレが目を覚まさせてやろうじゃないか。 
 高木教頭は身構えた。上半身の筋肉に力が入った。
 
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 「……」加納先生、早く出てくれ。
 片手で携帯電話を持ちながらも、波多野刑事は馬乗りになって凶暴になった息子を押さえつけていた。しかし殴られたり、蹴られたり、噛み付かれたりして、こっちの方がダメージは酷い。着ていたアメリカン・イーグルのポロシャツはボロボロで、あちこち血が滲んでいた。防御するだけで攻撃は出来ない戦いだが、やってられるのは警察に入って習得した格闘技のおかげだ。だが苦しい。左の肩がズキンズキンと痛む。もう、いつまで耐えられるか分からなくなってきていた。若いだけに息子の力は無尽蔵だ。こっちは限界を感じ始めていた。
 今は片手しか自由に使えない。息子が息を切らしているので少しの間はあるはずだ。加納先生と連絡が取りたかった。
 学校で何かが起きているか、それとも起きようとしているのか。彼女の身が心配だった。
 呼び出し音は鳴り続けている。でも応答がない。
 波多野は学校で何かが重大な事が起きていると確信した。すぐにでも駆けつけたいが--。「あっ」
 息子の孝行が勢いよく身を翻したのだ。こんな力が、まだ残っていたのかと驚かされる。と、同時に強烈なパンチも飛んできた。かわすことは出来たが、波多野は手にしていた携帯電話を落としてしまう。 
 しまった。加納先生と連絡が取れなくなった。もう息子の相手だけで精一杯だ。きっと彼女も学校で窮地に立たされているに違いない。
 「うっ」
 息子の両手が横から波多野の首に回る。まずいっ。転がっていく携帯電話を目で追っていた僅かな隙を突かれてしまう。締め上げてくる。その力の入れ方に躊躇いがない。
 こいつは自分が父親の息の根を止めようとしていることに気づいていない。誰かに操られて、目の前にいる敵と無意識に戦っているのだ。 
 苦しい。呼吸が出来ない。目の前が真っ暗になってきた。

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 高木教頭の肩に力が入った瞬間だ。
 「むぐっ」これから凄まじい強烈な右ストレートを生徒の顔面に浴びせようとしたところで、いきなり左の脇腹に強烈な痛みが走った。「うっ」腹部を押さえる。
 何が起きたのか分からない。気がつくと、黒川拓磨がこちらを向いていた。まさか、お前の仕業か? 
 奴の両手が拳骨になっていた。ボディ・ブローを食らったのかもしれない。信じられない。まったく目に見えなかった。
 やや前屈みの姿勢で苦痛に耐えていた。そこに生徒の膝が跳ねるようにして顎に命中した。勢いで頭が起き上がる。次は風を切る音がしたかと思うと拳が飛んできた。早過ぎて、かわすことも出来ない。左の頬と鼻面に二発のパンチが突き刺さった。「ぐうっ」
 高木は腰を落とす。そして自覚した。もはや小学校でルー・テーズのように無敵だった頃の自分はいない。あれから三十年という月日が経ち、胴回りが三十センチも増えていたことを考慮すべきだったのだ。
 気を失う直前、うつろな目に映ったのはビンビンに立つ黒川拓磨のペニスだ。それに向かって倒れ込む。自分の唇が触れそうになるところを、それだけは何とか体を捻って避けた。

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 「教頭先生っ」加納久美子は叫んだ。
 目の前で高木教頭が膝蹴りと二発のパンチを浴びてなす術も無く倒されてしまう。まさに秒殺だった。慌てて助けに向かおうとしたが思い止まった。自分もやられてしまう。ここは逃げるしかない。職員室まで行けば助けを呼べる。久美子は身体を翻して階段へと急いだ。「えっ」
 足音がする。また誰かが二階から上がってきた。
 「あっ、お母さん」黒川拓磨の母親だった。家庭訪問の時と同じで、緑のトレーナーにピンクのスエット・パンツ姿だった。何で、こんな時に、こんな所へ? 「早く逃げてっ」
 「こらっ、拓磨。何やってんだいっ」母親が叱る。
 息子が怖いと言っていたにも関わらず、その口調は強かった。「逃げて、お母さん」いくら母親でも無理だと思った。息子はオオカミのように野獣と化している。もう性欲しか頭にないのだ。加納久美子は母親の手を取って一緒に逃げようとした。
 違和感を覚えた。え、どうして? 同時に母親も久美子の手を取ったが、その力が強すぎる。これじゃあ、自由が利かなくて逃げにくい。「お母さん?」
 ところが母親は久美子の方を見ようともしない。息子に向けて放った次の言葉に背筋が凍りついた。
 「拓磨、この程度のアバズレなんかに手間取ってんじゃないよ。早く、ヤっちまいなったら」
「お、お母さん」
「黙れっ。手こずらせやがって、このアマ。パンティを脱いで、拓磨に向って股を広げるんだよ」
 乱暴な言葉と同時に平手打ちも飛んできた。「いやっ」親からも殴られた事がない久美子だった。身体から力が抜けていく。
「いや、じゃないよ。すぐに気持ちが良くなるさ。さあ、拓磨。捕まえててやるから、この女の下着を脱がしな」
 もう目の前に黒川拓磨が立っている。「ああ、お願い。許して」絶望感が久美子を包んでいく。
「大人しく拓磨に抱いてもらいな、このアバズレが」
 チノ・スカートの裾に黒川拓磨の手が掛かった。腹部まで引き上げられて下着姿の下半身が露わになる。久美子は目を瞑るしかなかった。生徒に犯される、それも学校で。身体は震え出し、もはや抵抗する気力は失せていた。
 「お前のお陰で忌々しい鏡は手に入った。もう処分したよ。これで拓磨が怖がるモノは何もなくなった」
「え、……あたしのお陰って?」どういうこと? わからない。
「そうさ。お前は踊らされていたんだよ。鏡を手に入れるのに利用したのさ。お前が思い通りに動いてくれたんで大いに助かった。ありがとうよ。お礼に拓磨の子供を妊娠させてやろうじゃないか。あはは」
「……そんな」絶望感が久美子を襲う。生徒の手がパンティを掴んで、腰から剥ぎ取ろうとしていた。唇を噛んだ。覚悟した。少しでも早く苦痛が過ぎ去ってくれることを願うしかない。
 「ぎゃあっ」 
 ボコッ、という何かがぶつかる音と共に母親の叫び声がした。久美子は驚いて目を開けた。何が起きたのか分からない。死んだ魚が放つような腐敗臭が鼻を突く。自分を捕まえていた母親の手が離れた。久美子の後ろに誰かいるらしく。そっちに向かって黒川拓磨が身構えていた。今なら、自由だ。慌てて身体を回転させて、この場から廊下の隅に逃げた。「あっ」

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 波多野は気を失う一歩手前で反撃を試みる。相手を息子と考えずに最後の力を振り絞って膝蹴りを食らわせた。「許せっ」孝行の急所に命中したらしく、首を絞めていた手の力が緩んだ。
 そのチャンスを逃さない。波多野は首と息子の手の間に自分の指を滑り込ませた。これで少しは抵抗できる。だが息子の力が緩んだのは一瞬だけで、まだジワジワと波多野の首を締め上げてきた。恐ろしいほどの力だ。くっ、苦しい。いつまで耐えられるか分からない。加納先生のことを心配する余裕もなかった。
 
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 いつ現れたのだろう。黒川拓磨と母親の他に、もう一人、バットを手に持った人物がいた。汚れたトレンチコートに身を包み、顔と両手は血が滲む包帯に巻かれていた。髪は伸び放題。異様な姿だ。強烈な腐敗臭を全身から放っていた。骨格から男性だと判断できるだけで、誰なのかは分からない。
 少なくとも久美子に危害を加える存在ではないらしい。黒川拓磨と対峙し、その母親をバットで殴りつけたのだから。
 母親は両手で頭を押さえた格好で廊下の端に倒れていた。今にも階段から落ちそうだ。完全に気を失っている。
 黒川拓磨が前へ一歩踏み出そうとすると、男が動いた。バットを投げつけて、相手の動きを止めた。そしてコートのポケットからシャンプーの容器らしきモノを取り出し、そのキャップを外す。また新たに強い臭いが加わった。えっ、ガソリンだ。
 男は躊躇わない。一気に中の液体を黒川拓磨に浴びせた。容器を捨てると、すぐにポケットに手を入れ、ライターを出す。焼き殺すつもりだ。
 黒川拓磨は男が点火する前に飛び掛かった。二人が取っ組み合う格好で横倒れになる。その動きに押し出されて母親は階段から落ちていった。
 男からライターを奪おうと、その腕を激しく殴りつける。やはり腕力では黒川拓磨の方が上だった。だが男はライターを離さない。もう二人ともガソリンまみれだ。
 「ぎゃっ」腕に噛み付かれると、男は初めて声を上げた。聞き覚えがある、と久美子は思った。でも、……まさか。あまりの変わり果てた姿に確信が持てない。
 うわっ、助けて。目の前で凄惨な行為が始まった。黒川拓磨が頭を上下させながら、男の腕の肉を噛み千切り出したのだ。まるでオオカミ。見たくもないものを見せられて、ブルブルと久美子の身体が震えだす。

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 高木教頭は気を失っていたが、黒川拓磨との戦いが夢の中では続いていた。そこではワン・ツーとパンチを食らったが、反射的に伸ばした左の拳がクロス・カウンターとなって相手の顎に命中していた。一進一退だ。
 負けてなるもんか。俺は勝つ。足だ。足を使って奴を翻弄してやる。 
 高木教頭は、柳済斗にリターン・マッチでKO勝利した輪島功一と自分をダブらせていた。
 根拠のない自信が湧き上がってきて目を覚ます。やられたら、やり返すのがオレの主義だ。クソ小僧はどこへ行きやがった。今度こそ叩きのめしてやる。「畜生、よく見えない」頭から床に倒れ込んだらしい。こめかみのところが酷く痛む。くらくらして目の焦点が定まらない。ぼんやりとしか周りが見えなかった。

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 犯される。口を男の血で真っ赤にした黒川拓磨が加納久美子の前に立っていた。下半身は裸でペニスは大きく勃起していた。怖い。身体の震えが止まらない。
 腐敗臭を放つ男は骨が露わになった右腕を痛々しそうに抱えて横たわっていた。筋肉も腱も噛み千切られて、辛うじて手が腕に繋がっているという状態だ。全身が血まみれ。もう、どこにもライターは見当たらない。
 黒川拓磨は教室の前にいた何人かの男子生徒たちに顎をしゃくって見せると、その顎を次に久美子へ向かって突き出す。担任教師を担いで教室へ連れて行けという合図らしい。「早くしろ」
 数人の男子生徒が向かってくる。先頭は片手にロウソクを持った板垣順平だった。黒川拓磨の言葉に反応して走り出した。
 逃げないと。そう分かっていても久美子が出来たのは、その場に弱々しく立ち上がることだけだった。
 
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 「くそっ。め、目が--」高木教頭の視界はハッキリしない。その時だ、自分の前を走り過ぎようとする何者かに気づく。あの黒川の小僧じゃないのか? その足に高木教頭は咄嗟に飛びついた。だが、逆に膝蹴りを顔面に食らってしまう。勢いで首は曲がり、また床に頭から落ちた。気を失う。高木教頭のリターン・マッチは輪島功一のようにはならなかった。 

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 教頭に飛びつかれた板垣順平は前のめりに勢い良く倒れた。強く床に手をついた衝撃で右手に持っていたロウソクが二つに折れる。火のついた部分が床を転がり、黒川拓磨の足元まで届く。こぼれたガソリンに引火して、一気に炎が立ち上がった。
 目の前で黒川拓磨が炎に包まれる。「きゃーっ」加納久美子は叫び声を上げた。と、同時に廊下の壁に退いた。
 近くにあった消火器に手を伸ばそうとしたが、黒川拓磨が動いて立ちはだかる。
 どうして? 逃げようとしているんじゃなくて、火を消そうとしているのに。
 相変わらず生徒はペニスを向けたままだ。まだ勃起している。「そんな……」こんな状況でも性欲を失わない異常さに驚愕。
 まわりが一気に熱くなった。
 えっ。笑っている。いやっ、違う。炎に焼かれて顔が変形しているのだった。すぐ横でトレンチコートの男も燃えていたが、黒川拓磨の燃え方は異常なほど激しい。紙細工の人形だったのかと思えるほどだ。その目も鼻も口も形が崩れて顔から表情が消えた。どんどん炎が彼の身体を黒く蝕んでいく。恐ろしかった。
 断末魔なのか、黒川拓磨の体が小刻みに震え出す。だが勃起したペニスは萎むどころか逆に大きさを増す。一体、どういうこと。驚きの目で見ていると、いきなり白い精液が噴き出した。避ける間もなかった。大半が久美子のスカートまで飛んできた。
 男の体液で汚れた自分の衣服に注意が向く。目を離した瞬間だ、砂の袋が落ちるような音がした。正面に立っていた黒川拓磨の姿が消えた。
 久美子は首を左右に振って、辺りを窺う。燃えているトレンチコートの男の他には誰もいなかった。黒川拓磨がいた場所に、小さな黒い灰の山が出来ていた。まさか、あいつの燃え尽きた姿がこれなの。
 加納久美子は急いで非常ベルを押し、そして消火器を取った。レバーを握って白い泡を噴射させた。まずトレンチコートの男の火を消す。それから回りを消火させていった。
 黒川拓磨、あれは人間じゃなかった。一体、何者なの。
 火が消えて回りが白い薬剤だらけになると、一気に身体から力が抜けていく。これは後の掃除が大変だ。自分がしなきゃならないのかしら。ああ、気が重い。
 疲れた。もう動けない。非常ベルの音だけが、けたたましく校舎中に鳴り響いていた。うるさくてかなわない。早く誰かに来て欲しいが、一刻も早く静かになって欲しかった。その場に加納久美子は腰を落とそうとした。えっ、何これ?
 自分のスカートから蒸気みたいな煙が立ち上がっていることに気づく。「あ、あっ」黒川拓磨の精液だった。あいつの体液が驚いたことにスカートの生地を溶かして移動している。久美子の下腹部を目指しているんだった。
 急いでスカートを脱いだ。廊下の向こうへ投げ捨ててやった。露わになった下半身にはヘリー・ハンセンのウインド・ブレーカーを巻き付けた。なんて奴なの、あいつは。なんて恐ろしい。
 何故だが分からないが、また身体が震え始める。途端に悲しみが込み上げてきた。加納久美子は廊下の壁に寄りかかり、口を手で押さえながら嗚咽を洩らした。

   87  

「う……」意識が戻ると波多野は激しく咳き込んだ。「ごほっ、ごほっ」
 家の玄関にいた。どうして、こんなところに? 自分の身に何が起きたのか分からなかった。息子の孝行が真横で倒れていた。思わず声を掛ける。「おい」
 返事はなかった。寝息を立てながら眠っていた。
 体全体が酷く痛む。特に首の回りがヒリヒリと痛んだ。そこに手をやった時、やっと状況が理解できた。
 助かったらしい。死ななかった。操られていた息子は呪縛が解けたのに違いなかった。いつもの見慣れた寝顔だ。起こして部屋まで連れて行ってやりたいと思ったが、体に力が入らない。酷く疲れていた。せめて毛布でも掛けてやりたいが……。
 強い眠気が襲ってきた。だめだ。しなければならない事がたくさんある。まず立ち上がって--。くそっ、体を動かせない。波多野は逆らえずに目を閉じるしかなかった。一瞬、加納先生のことを思い出す。大変だ、連絡しないと--。そこで意識を失った。

   88  一ヵ月後 1999年 4月 新学期
   
 「遅っせえな、こん畜生」少年は癇癪を起こしたいところを堪えて、小声で悪態をつくだけにした。「何をやってんだろう、あのバカは」
 人が行き交う五井駅西口の真ん前だった。知った人間が近くにいないとも限らない。しかめっ面で汚い言葉を使うのを見られて、誰からも好かれる優等生という評判にキズがついてはマズかった。せっかく順調に滑り出したビジネスがやり難くなる。
 素直で勉強が出来る少年という印象が人の心に植え付くように努力してきた。必ず目上の人には挨拶をする。無視されても続けた。扱い易い少年と思って誰もが気を許して接してくれたら、こっちの思う壺だ。
 あれっ、このガキ、なかなか狡賢いぞ。
 そう気づいた時は、もう手遅れ。弱みを握って、相手を意のままに操れる立場に立っている。こっちは一枚も二枚も上手だ。オレは誰にも指図されたりしない。指図するのは、このオレだ。 
 四十分も前から駅の西口ロータリーで父親の帰りを待っていた。
コンビニが店先で流し続ける『団子三兄弟』の曲が耳障りでならなかった。もう二度と食ってやるもんか、という団子に対する嫌悪感すら芽生えてくる。しつこいんだよ、同じ歌ばっかり聞かせやがってよ。
 携帯電話をポケットから出して見ると午後二時前だ。三時までは父親を絶対に家に入れることはできない。だから約一時間はカトーヨーカドーで買い物させたり、ラオックスでパソコンのカタログを貰いに付き合わせたりで、なんとしてでも時間を潰さなくてはならなかった。
 父親が会社から自宅に電話を掛けてきたのが昼前だ。少年が受話器を取った。もしかして約束した人物が予定を変更するのかな、と思ったからだ。
 「おい、オレだ。あれ、……お前か、学校はどうした?」
「あっ、お父さん」畜生、こんな時間に何で父親が電話してくるのか。何がマズいことになりそうな予感が走る。「うん。あのね、今日は緊急の職員会議があるとかで午前中で終わったんだよ。それよりさ、どうしたの?」
「だったら、母さんは居るか?」
「え、……どうして?」
「どうして、じゃない。母さんと話がしたい」
「今は、……無理だけど」
「何で?」
「だって……さ、出掛けてるもん」
「どこへ行った?」
「サンプラザのプール……」
「何時ごろ帰ってくる?」
「一時間ぐらい後じゃないかな。……何で?」
「急に出張が決まったんだ。明日の朝早くに新幹線に乗らなきゃならない。その用意があるから今から帰る」
「……」
「おい、聞いてんのか」
「今すぐに帰ってくるの?」
「これから簡単な打ち合わせをして、その後だ」
「だいたい何時ごろの電車で帰ってくるの?」
「たぶん一時半ごろかな、そっちに着くのは。母さんが帰ってきたら、そう伝えてくれ」
「わかった、そう言うよ」
「じゃあ、切るぞ」
「うん」
 やばい。間もなく今日の客がやって来るというのに。こっちからキャンセルしようか。少年にとっては前金で手にした七万円を返す義務が生じる。ところが、ほとんど使ってしまって幾らも残っていなかった。それとも予定通りにプレーさせてやろうか
 午後二時半までは客が家に居るだろう。つまりキャンセルしないならば一時間から一時間半は、どこかで父親を足止めさせないといけない。
 よりによって今日かよ。急に出張が決まるなんて。せっかく上手く行き始めた少年のビジネスが存続の危機に直面していた。
 どうしようか。
 しばらく考えて、お客には連絡しないことに決めた。前金で貰っている手前もある。父親を三時近くまで外で連れ廻してやるしかない。
 電話で言った事は全て嘘だ。学校で緊急の職員会議なんかなかった。仕事の段取りがあるからサボっただけ。母親もプールへは行っていない。ちゃんと家にいた。お客を迎えるために、その仕度をしているところだった。
 第一、今日は月曜日でサンプラザ自体が休みだ。慌てたので、つい簡単にバレるような嘘をついてしまった。まだ甘いな、オレも。
 客は父親が通う近所の床屋、そこの主人だった。中年太りで、いつも脂ぎった顔をニヤニヤさせている。愛想はいいけど頭の中ではスケベなことばかり想像しているに違いなかった。
 こいつは客になる、と少年は直感した。自分の母親の姿に、嘗め回すような視線を送っているのを何度も見ている。
 母親は三十三歳になるが若作りでスタイルも良く、人目を惹くほど色気があった。高校生の娘と中学生の息子がいると知らされると、誰もが驚きを隠さない。
 一ヶ月前だ、少年が散髪に行くと都合がいいことに他に客は誰もいなかった。床屋の椅子に座って髪をカットしてもらいながら、それとなく誘いを掛けてみた。
「僕の母さんがオジさんのことを、男らしくて素敵だって言ってたよ」
「……」ハサミを持つ床屋の手の動きが止まる。間を置いて笑い出した。「わっはは。ボク、冗談が上手いなあ。あはは」
 予想通りの反応だ。こいつは満更でもない。それが事実であって欲しいと願っている。常識的に考えれば、こんな不恰好なデブを素敵だなんて言う女がいるわけがなかった。だけど不思議なことに本人だけは、そう思わない。
 自分がブスだと思っている女は、まずいない。それと同じように、自分が不細工でバカだと思っている男もいないのが事実だ。どこかに、たとえば鼻とか口元に長所を見つけ出すか、それとも太鼓腹を恰幅の良さと解釈したりして、人並みだと愚かに信じている。このデブも例外じゃなかった。
 「冗談じゃないよ。本当だってば」
「キミのお母さんみたいな綺麗な人がそんなことを言うわけないだろう。あはは」
「男の人は外見で判断できないって言ってたよ。こういう店を一人で経営しているなんて立派だってさ。それにね、内緒だけど母さんは離婚したがっているんだ」
「……それって、本当かい」
「うん。ずいぶん前から父親とは別々の部屋で寝ているしね」
「へえ、信じられないなあ。仲が良さそうな夫婦に見えたけど」
「離婚は時間の問題じゃないかな。お母さんが寂しそうにしているから、早くボーイフレンドでもできたらいいなと思っているんだ」
「……」
 さっきとハサミを動かすリズムが全然違う。まるで素人の手付きになっている。「オジさん、その気ない?」
「ま、まさか……キミのお母さんは俺なんか相手にしてくれるもんか」
「そうかなあ。オジさんみたいな人が友達になってくれたら、きっと母さんは喜ぶだろうな」
「あはは。そう言ってくれるだけでも嬉しいよ」
暑くもないのに奴が額の汗を袖口で何度も拭うのを見て少年は本題に入る。「どうする? ぼくが上手く話をまとめてみようか」

 そこからはトントン拍子だ。友達になるための御膳立てから、売春の斡旋に話が変わっても床屋のオヤジは何も言わなかった。ヤりたくて、ヤりたくて堪らないらしい。ただ何度か念を押すように訊いてきた。「本当に出来るのかな、そんなことが。大丈夫なんだろうね。君を本当に信用していいのか」
その度に、こう答えてやった。「任せてよ、上手くやるから。ただし幾らかの手数料は欲しいなあ」と。
 手数料と聞くと床屋のオヤジは僅かに首を立てに振って見せた。タダでは出来ないことは承知しているが、子供に小遣いを渡す程度で済ませようとしているのは見え見えだ。
 奴の休みは月曜日だ。その日の午後に家まで来てもらうところまで話を煮詰めてから、やっと金を要求した。七万円という金額に、さすがに床屋のオヤジは身を引く。
 「そ、そりゃあ、高いよ。相場っていうモノがあるだろう。千葉に栄町っていう遊ぶところがあるんだが、そこの方がずっと安い。それにだ、キミの母さんよりもずっと若い子が相手をしてくれるんだから」文句を並べ始めた。「そんな大金を何に使うんだ。君みたいな中学生が小遣いにする金額じゃないぞ。もう少し、まともな数字を出しなさい」
「……」少年は反論しない。相手に好きなだけ言わせて、ただ黙って聞いていた。
 ソープランドの女なんて、いくら若くても所詮は商売女じゃないか。近所に住む美貌の人妻を相手に遊ぶ方がどれほどスリルがあるか想像してみろってんだ、このバカ。そう思っても少年は口には出さない。
 「いや、勘違いするなって。金を出さないと言っているわけじゃないんだ。どうだろう、三万円ぐらいで……。すぐに払うから」
 無言に不安を覚えたらしく、直ぐに奴は譲歩してきた。「ほら、三万円だ。受け取りなさい」
「……」床屋のオヤジが財布から取り出した札に少年は目もくれない。その代わりに用意してあった台詞を口にした。素直に床屋のオヤジが七万円を出すとは最初から想定していないぜ。「わかった。それじゃあ、いいよ。この話は無かったことにするから」
「……え」
「オジさん、時間を無駄にして悪かったね。忘れて下さい」
「ま、待てよ。そ、そんな気の短い――。そしたら一銭も手に入らないことになるぞ。せっかく、ここまで話は進んだのに。すべてが水の泡になってしまうじゃないか」
「いや。そんなことはないと思う」
「どうして。オレは一銭も払わないぞ」
「別にオジさんに払ってもらわなくてもいいから」
「どういう意味だ」
「駅前にあるスーパーの店長にも話しをしてみるさ」
「何だって?」
「ほかにも何人か母さんと仲良くなりたがっていそうな人がいるんだよ」
「……」
「どうする、オジさん」
「おっ、お前ってガキは……、そいつらにも同じ話を持ち掛けてたのか?」
「違うよ。オジさんに断られたら、そっちに話を持って行こうかなって考えただけさ。だって、母さんのお気に入りはオジさんだったからね。でも、あのスーパーの店長も四十歳を過ぎてるけど独身らしいよ。買い物に行く度にさ、ニヤニヤしながらオレの母さんに声を掛けてくるんだぜ」
「……」
「じゃあ、失礼しました。そろそろ帰ります」
「ま……待て」
「え?」
「待てと言っているんだ。帰らなくていい」
 
 そこで見せた床屋の表情は今でも忘れられない。顔いっぱいに苦々しさが浮かんでいた。たかが中学生の小僧に手玉に取られた悔しさだ。やっとオレの狡賢さに気づいたみたいだった。
 
 「話はオレがつけた。月曜日に床屋のオヤジに抱かれろ」 
 こう告げた時、母親は何も言わなかった。ただ食器を洗う手の動きが僅かに止まっただけだった。何を言われても素直に従うしかない、そう観念しているらしい。
 母親が自分の息子に違和感を覚えたのは、産んで間もなくだったようだ。まだ産婦人科病院から退院もしていなかった。
 小学校六年の二学期が終わるころ、私立の有名中学校から特待生として受けると通知が届いた時に、父親が洩らした。
 「お前は自慢の息子だ。素晴らしい。だけどな、お母さんは産婦人科病院で起きた事件のショックからだと思うけど、お前を自分の子供じゃないと言い出した時があったんだ。あっはは。今じゃ笑い話だ」そこで父親は真剣な表情になった。「もう中学生になるんだから話してもいいだろう。実はな、お前が産まれた病院で悲惨な事件があったんだ。気が狂った看護婦が、お前が寝ていた隣の赤ん坊をピンセットで刺して殺してしまったのさ。たまたま近くに父親がいて止めたから、それ以上の犠牲は出なかった。その看護婦は我が子を殺されて逆上した父親に殺されたけどな。俺は病院に着いたところだった。新生児室へ行ってみると、お前は血まみれで殺されたのかと思ったぐらいだ。大変な事件だった。バカな看護婦を殺してくれた、その父親に感謝したい。そうしなかったら、お前も殺されたかもしれないんだ。学校の成績は優秀だし、スポーツは万能で絵の才能もある。俺にとって宝のような息子なのに」
 言われてみると頭の片隅にそんな記憶が残っているのに気づく。しかし聞かされた話とは少し違う。その父親は最初に看護婦を殺したんじゃなかったか。それから隣に寝ていた赤ん坊を抱き上げて、その首に何かを突き刺した。真っ赤な血がほとばしった。少年は血を浴びせられ続けた。生暖かくて心地良かった。 

 息子が能力を発揮すればするほど父親は溺愛するようになった。
「お前はオレの全てだ。お前は間違いなく成功する。お前ならオレが出来なかった夢を実現できる。そのための援助は惜しまないからな」
 小学校六年になるころには、はっきりと息子中心の家庭になった。 
少年は家でしたい放題だ。まず三つ年上の姉に手をつけた。思春期を迎えて色気を帯びてきたところを頂いた。初めっから無抵抗。弟には逆らえない、そんな気持ちがあったようだ。彼女には中学校から付き合っていたボーイフレンドがいたが、結局それまで。高校二年の姉は、たちまち少年の性欲の虜になった。
 日中に姉弟が裸で抱き合う姿を母親が目にするのは時間の問題だった。父親の方は姉弟の仲がいいと喜んでいただけかもしれないが、女だけに何か怪しい雰囲気があると気づいていたのは確かだ。もちろん姉は性行為を秘密にしたがっていたが、少年の方は逆にバレることを期待していた。
 その日、いつも通りに学校へ行く振りをして家を出た姉弟は、母親が自転車でカトーヨーカドーへ買い物に出かける時間を待って、こっそり戻ってきた。
 誰も居ないはずなのに姉の部屋から物音が聞こえる。家に帰った母親が不審に思ってドアを開けた時は、まさに自分の娘が全裸で跪いて、弟の勃起したペニスを美味しそうに頬張っているところだった。
 少年が意図した通り、強烈なショックを与えた。金縛りにあったように母親は動かない。何秒かすると、その場に腰を落として手をついた。呼吸が荒い。
 少年は姉から離れると、苦しそうにしている母親の横に立った。放心状態で何の気力も体力も残っていないことを確かめてから、おもむろに膝を突き、勃起したままのペニスを今度は母親の口に捻じ込んでいった。

 「亭主を失望させたいのか? 家庭を打ち壊したいのか? お前が黙って我慢している限り、うちの家は平和なんだ」
 この言葉で母親を服従させた。しばらくの間、高校生の瑞々しい女体と三十代の成熟した女体を交代で犯す日々が続く。そのうち母親の方を他の男に抱かせて、小遣いを稼いでやろうと考えた。
 最初の客は父親が通う床屋のオヤジ、二人目は駅前にあるスーパーの店長だ。どんどん、お得意を増やしていくつもりだった。田所とかいう金払いのいい、君津に住む米屋を紹介してくれたスーパーの店長は、次回は割引き料金でプレーさせてやってもいいだろう。
 但し、あの床屋のオヤジには追加料金を請求したかった。少年も呆れるぐらいの性欲の持ち主なのだ。
 約束した二時間は、休むことなしに母親の裸体を弄ぶ。手錠とロープを使って自由を奪い、あらゆる手段で女を辱めるのが趣味らしい。母親の消耗が激しすぎた。
 「あの人だけは許して。とても体が持たないわ」二度目のプレーが終わると母親は訴えた。
「もう少しだけ我慢しろ。他に楽な客を見つけたら、あいつは断ってやるから」そう言って少年は宥めた。
 しかし女っていうのは不思議な生き物だ。あれほど嫌がっていたのにプレーが七度目を越えるころには、すっかり母親は床屋のオヤジに順応して喜びを覚えるまでになってしまう。
 客との性行為は隠しカメラで記録してあるので少年には母親の変化が一目瞭然だ。「どうしたんだよ、お前? 今では床屋のオヤジに抱かれるのが楽しいみたいじゃないか」
「……」母親は恥ずかしそうに下を向いたままで、否定はしなかった。
 
 その床屋のオヤジが今日の客だ。この時間、あのデブは様々な道具を使って母親を悶えさせているはずだった。
 少年は追加料金として幾ら請求してやろうかと考え始めた。トータルで十万円ぐらいは貰いたい。ただ、あのケチのことだから素直に支払いに応じることは絶対にない。納得させられるだけの何か言い訳を作り出さなくてはならなかった。
 何がいいだろうか。父親が現れるまでにアイデアが浮か--。
 「うへっ」少年は吹き出した。
 いきなりだ。思考も中断するほど野暮ったい格好をした中年女の姿が目に飛び込んできた。
 女は数十メートル先の駅の階段の入り口に立っていた。誰かと待ち合わせでもしているのか、そこから動こうとはしていない。
 なんて派手な服装だよ、あのババア。恥ずかしくねえのか。
 ピンクのスエット・シャツに緑のトレーニング・パンツだ。ここは駅前だぞ。お前ん家の自宅の居間じゃねえ。さらに人目を引いて滑稽なのは頭に巻いた大きな白い包帯だ。階段から転げ落ちるみたいな、よっぽど酷い怪我でもしたらしい。通り過ぎる誰もが一目見るなり、汚いモノを避けるようにババアから距離を取ろうとした。
 いつからそこに突っ立ってんだろうか。つい、さっきまではいなかったのに。階段から降りてくる一人ひとりに注意してたはずなんだが気づかなかった。まったく幽霊みたいに――。
 ……おい、嘘だろ。
 戦慄を覚えた。その中年の女が、じっとこっちを見ていることに気づいたからだ。何で? どうして? 失礼なババアだな。お前とオレとじゃ身分が――。や、やばい。鳥肌が立ってきた。中年女の視線を浴びて少年は不安に駆られ始めた。
 友達の母親にあんなのがいたか? いや、覚えがない。それに、もしそうだとしても、あんな表情でオレを見たりするもんか。こんなことは生まれて始めてだ。オレを見るなっ、見るんじゃない。
 逆に睨み付けてやった。この野郎、オレ様から視線を外――。でも中年の女は見るのを止めない。
 呼吸が荒くなっていく。怖い。頼むから、オレを見るのを止めてくれないか。少年も中年女から目が離せない。あっ。その女の口元が僅かに動く。な、何か言う。
 「拓磨っ」女が呼んだ。
 えっ、なに。……タクマ、だって? バカヤロー。オレは、そんな名前じゃないぜ。人違いじゃ――いや、女は確かにオレに声を掛けた。このオレが誰なのか、ハッキリと知っている自信が窺える。なぜだ。
 「行くよ」
 それだけ言うと女は振り返り、改札口へと続く駅の階段を上がっていく。すぐに姿が見えなくなった。
 少年は汗びっしょりだ。もう中年女はいない。助かった思いだった。
 あっ、……そうだ。
 去年の十月ごろだった、同じようなことが起きたじゃないか。そのときは、これほど慌てはしなかったけど……。
 久しぶりにドクター・ペッパーでも飲もうかと、家の近くにある自動販売機の前で自転車を降りたところだった。「ねえ、君」そこで父親と同じ年ぐらいの男に声を掛けられたのだ。
 「五井駅の近くにあるラオックスに行きたいんだけど、道が分からないんだ。教えてくれるかい?」
 ウソだろ、おじさん。オレと話をする口実にすぎない、と分かっていた。なぜなら、その男の姿はすでに二回ほど見ていたからだ。学校からの帰り道と公園で友達とサッカーをしている時だった。距離を取って遠くからオレを観察している様子が窺えた。この日は、とうとう話し掛けてきた。案の定だ、こっちが道順を説明しても上の空でしか聞いていない。
 それどころか、「この辺にキミは住んでいるのかい?」とか「今は何年生なんだい?」、「どこの学校に行っているのかな?」とか全くラオックスに関係のない事ばかり聞いてくる。
 変なオヤジだなあ、と思ったが付き合ってやることにした。態度からオレと仲良くしたがっていることが明らかに分かるからだ。悪いヤツじゃなさそうだし。
 「実はさ、お昼を食べていなくて、お腹を空かしているんだ。良かったら、どうだろう。一緒に食事をしてくれないか?」と言われると素直に応じた。どうしてだか分からないが強い親近感を覚えていた。この人と一緒にいたいと感じていた。 
 「いいよ。だったら、この近くにデニーズがあるんだけど、そこへ行かない?」と言うと、知らないオジさんは満面の笑みを浮かべた。
 しかし、この人の言う事は全部がウソみたいだ。『お腹を空かしているんだ』って言わなかったっけ? スパゲッティを注文したくせに、ほとんど食べない。反対に「もっとフルーツ・パフェは欲しくないかい? アイスクリームはどうだい?」とか、どんどんオレに食べさせようとする。
 時々コーヒーを飲みながら、ずっとこっちを見ていた。不思議なのは左の耳の傷を嬉しそうに見ていることだ。ほとんどの人たちが意識的に見ることを避けるのに。
 そして気になる一言を口にする、「そっくりだ」と。すぐにオレは反応した。「え? どういうこと」
「あっ、すまなかった。忘れてくれ、別に何でもないんだ。ごめんよ」
「……」その否定の仕方は、何か意味があるというふうにしか受け取れなかった。
 ひょっとしたら、この人はオレの正体を知っているのかもしれない、と思い始めた。『そっくりだ』って、一体このオレが誰にそっくりなんだ? 教えてくれ。両親と姉に全く似ていないのは、どうしてなんだ。それに、ずっと周囲の人間と自分は何か違うと感じていた。それらの疑問に答えてくれそうな気がした。バナナ・パフェを食べながら待った。でも世間話をするだけで、聞きたい事は何も教えてくれなかった。一時間ほどしてデニーズを出たが、苦しいぐらいに腹いっぱいになっただけだった。
 「オジさん,ありがとう。すごく美味しかったよ」お礼を言って自転車に跨った。返事はない。愛情に溢れた笑顔を見せて頷くだけだった。
 少年は相手の名残惜しそうな態度から、この人とは二度と会えないことを悟った。交差点を曲がる時に後ろを振り返ったが、もう姿はない。オジさんが帰りにラオックスに寄ったとも思えなかった。
 それから半年が経って、今度は野暮ったい中年女が現れてオレを惑わす。
 だけど……だけど、行くよって、どういう意味だ。勝手に行けって。さっさと行ってくれ。オレに構うな。まったく、わけが分からない。呼吸を整えようと深く息を吸う。早く落ち着きたかった。
 父親が帰ってくるのを待たないと。
 どうする、……どうしよう。何事もなかったように、また父親の姿が現れるのを待ち続けていいものか、疑問が浮かぶ。
 オレってタクマなのか? いや、……まさか。
 えっ、もしかして――。
 その時、不意に気がつく。半年前にデニーズで一緒に食事をしたオジさんは、産まれたばかりの新生児室で隣に寝ていた赤ん坊を殺した父親と同じ人物じゃないのか? 「ああーっ」 
 人が行き交う五井駅の前なのに無意識に声が出てしまう。きっとそうだ。十四年も経って会いに来たんだ。この事実に少年は背筋が震えるほど衝撃を覚えた。どうしてなんだ? 赤ん坊を殺した理由はオレに関係があるのか? たぶん、……いや、きっと、そうらしい。何かの運命に導かれていると確信した。
 無視できそうにない。
 あの野暮ったい中年女に声を掛けられたことで、少年の中で何かが崩れ去った。生まれてから今まで築き上げた様々な事が無意味に感じてきた。学校の成績も、周囲の評判も、始めたばかりのビジネスですらどうでもよくなった。
 オレはオレじゃなかったらしい。ずっと自分は周囲の連中とは違うと不思議に感じてきたが、その答えが見つかろうとしているようだ。 
 父親を引き止めないで、まっすぐ家に帰せば大変なことになる。自分の愛する女房が床屋のオヤジに裸を縛られて弄ばれているのを目にすることになるんだから。息が止まるほど父親は驚くはずだ。明日の出張はキャンセルかもしれないな。期待を掛けた息子が黙って姿を消したら、もう立ち直れない可能性が強い。それに追い討ちを掛けるように、たぶん一ヶ月もしないで愛娘の妊娠が明らかになる。姉は双子を身籠っているんだった。
 出来ることなら家庭の崩壊を自分の目で見て楽しみたい。絶望に打ちひしがれて、苦悩する父親の姿を知らずに立ち去るのは辛かった。問い詰められ、責められて母親が苦しむ様子も見たかった。
 決心した。
 少年は見ず知らずの中年女の後を追って五井駅西口の階段を上り始めた。コンビニの店先では,相変わらず『団子三兄弟』の歌が流れていた。
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