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文字数 16,336文字

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 「う、うう」西山明弘は意識を取り戻した。
 周りに目にやると、二年B組の教室に一人だった。上半身を起こす。頭痛は消えていた。「バカやろう」悪態を口に出してみた。喋れた。
 良かった。舌の感覚が戻っている。少し安心した。しかし凄まじい毒を持つ虫だった。あれはマムシかコブラ並みだ。蜂なんかじゃない。何だろう。正体が分からないので不安が残った。このまま何もなく体が回復してくれたらいいが。
 それにしても冷たい生徒たちだった。黒川拓磨も手塚奈々も、学年主任のオレを見捨てて教室から出て行ってしまう。誰か手の空いた教師を見つけて呼ぶでもない。知らんぷりだ。信じられない。
 覚えていろよ。これは、お前たちの成績に反映させるからな。内申書にも影響するように働きかけてやろう。
 西山明弘は執念深い男だった。やられたら絶対にやり返す。酷い仕打ちをされて、そのままで終わらすことはなかった。
 一方的に付き合いを止めて別れたいと言ってきた女には、それまでに渡したプレゼントの代金に高い利息を付けて請求してやった。金額が千葉銀行の通帳に振り込まれると、デートで利用したレストランのレシートを全て送りつけて食事代も追加請求した。それでも腹の虫が収まらなかったので、女がノイローゼになって入院するまで無言電話を掛け続けた。あの生徒二人にも、オレの恐ろしさ分からせてやりたい。
 西山明弘は立ち上がった。よろけたのは少しだけだ。普通に歩ける。気づくと倒れていた場所が濡れていた。何でだ? 汗か? それとも誰かがオレを起こそうとして水でも掛けたのか。
 体は大丈夫なようだった。だけど用心に越したことはない。炎症を抑える薬でもつけておこうかと、保健室へ行くことに決めた。
 あそこにいる女、正式には養護教諭と言うらしいが、東条朱里を西山明弘は嫌っていた。
 最初に見た時は、『いい女が保健室にもいるじゃないか』と思えたのだが、今は無視する存在だ。うわべだけの挨拶しかしてやらない。
 痩せて背が高く、スタイルは抜群。ここまでだったら好みの女として、西山の恋人候補リストに上位ランクインしたはずだった。
 顔は細面でショートカットのヘアスタイルが似合う。ボーイッシュでセクシーだったが、なぜか小悪魔的な感じが目立つ。それに人を見下したような話し方をした。気が強そうで、サディステックな雰囲気を漂わす。地元選出の代議士の愛人になっているらしい、と噂を聞くと、なるほどそうかと素直に納得できた。何を考えているのか分からない。確かなのはひとつ、女の頭にあるのが決していい事じゃなくて、絶対に悪い事だろうと言えた。
 「あら、珍しい。西山先生、どうされました?」ノックをして保健室に入ると、東条朱里は椅子から立ち上がって迎えてくれた。その顔には意地悪そうな笑みが浮かんだ。
「たった今そこで、蜂みたいな虫に刺されてしまったんです」
「え、この時期にですか?」
「はい」
「どこを刺されました? 見せて下さい」
「ここです」西山はベッドの端に座ると、左足を持ち上げて靴下を脱いだ。さっきよりも赤く腫れていた。
「あら、本当だ。痛みますか?」
「ええ。少しズキズキしてます」
「頭痛や眩暈とかは?」
「ちょっとしているかな」
 この女、東条朱里に二年B組の教室で失神したことは言いたくなかった。好き勝手に話を大袈裟にして学校中に広めそうで怖い。
 「もしかしてアナフィラキシーかしら」
「えっ?」なんて言った、この女。「アナル、……フェラチ、……何ですか、それ?」
「アナフィラキシーですっ」
「す、すいません」なんだ、聞き間違いだった。虫に刺されて、アダルト・ビデオのタイトル用語を聞かされる訳がなかった。
「アレルギー症状です。鉢に刺されたのが二度目だったりすると発症します。吐き気や悪寒、冷や汗とか眩暈、それに耳鳴りや全身の震えに襲われるんです。死に至る確率も高いですから、気をつけないと」
「……」東条朱里の説明を聞いて、どんどん不安になっていく西山明弘だった。すべてが当てはまっている。
「毒性の強いスズメ蜂みたいなやつでしたか?」
「いいえ、ミツバチよりか少し大きい程度でした。黒くて、そいつの背中には--」
「え、……もしかして黄色いラインですか?」
「そうです」なんだ知っているのか。よかった。それなら治療方法にも詳しいはずだ。そう期待した。
「……」
 ところがだ、目が合ったままで東条朱里は何も言わない。その顔が一瞬だが小悪魔みたいな笑みに歪んだのは気のせいだろうか。
 「どんな虫なのか知っているんですか?」相手の無言が不自然だった。虫の説明が続くのかと思っていたのに。仕方なく西山は自分から訊いた。
「いいえ」
「え?」理解できない。「と、東条先生」そんな、冗談でしょう?
「わたしは知りません。まったく昆虫には詳しくないので」
「待ってください。いま背中に黄色いラインが、って言ったじゃないですか」そんなバカな。
「偶然です。たまたま口に出してみたら、当たっただけのことですから」
「そ、そんな……」こんな時に意地悪しないで欲しい。こっちは不安で、不安で困っているんだ。
「とにかく消毒しましょう」
「……」東条朱里は振り返ると薬剤を取りに行った。西山は左足を出したまま待つしかない。
「かなり沁みると思います。目を閉じて横を向いてて下さい」
「わかりました」言われた通りに従う。痛みには弱い西山明弘だった。歯医者は大嫌い。顎を閉じて少し力を入れた。「うっ」患部に液体が落ちるのを感じた。
「終わりました」
「え?」ウソだろ。「待って下さい。まったく痛くありませんでしたけど」
「それは良かった」
「そんな……。かなり沁みるって言ったじゃないですか」
「個人差がありますから。西山先生の場合は消毒液と相性が合ったのかもしれません」
「……」消毒液と相性が合ったから痛みがない、なんて聞いたことがないぞ。この女、本当に養護教諭としての資格を持っているんだろうか。
「これで少し様子を見ましょう。痛みが続くようでしたら、また何か治療方法を考えますから」
「東条先生」さっさと保健室から出て行くように促しているんだろうが、これで引き下がるつもりは西山になかった。
「なんですか」
「あの虫のことを知っているんでしょう?」
「まったく知りません。何度、訊かれても答えは同じです」
「そう言われても信じられない。さっきは知っているような口振りだった」
「西山先生。ご存知かと思いますが、来月には入学式に続いて身体検査が行われます。その準備で忙しいのです。これで失礼させて下さい」言い終わると東条朱里という女は、椅子に腰を下ろして机に向かう。ボールペンを手にして書類を捲り始めた。完全に西山を無視だ。
「おい、お前な……」もう頭にきた。学年主任のオレに向かって、その態度はないだろう。ここでしっかり、どっちが偉いのか白黒つけないと後々つけ上がらせることになると思った。こてんぱに、こき下ろしてやるしかない。
 「ふざけてんじゃねえぞっ、このアマ」
「……」驚いた様子だった。真顔で西山を見ている。怒鳴ってやったのが効いたようだ。さあ、これから人生のレッスンをしてやろうじゃないか。
「いいか、オレに嘘をつくな。オレを刺した虫の説明を今ここでしないと、素っ裸にして校庭に放り出すぞ。お前のスケベなオマンコを生徒たちに見せてやることになるんだ。そうする前に犯してやってもいい。丁度ここにベッドもあるしな。代議士の愛人だろうと、そんなのオレには関係ない。む、……ど、どうした? なにが可笑しい」怯えさせようとしているのに、相手がニヤニヤし始めた。この女、やっぱりバカか。
「西山先生」東条朱里は言いながら、ゆっくりと西山明弘の股間を指差す。「あははっ」
「うっ」促されて視線を落とすと、ズボンのチャックのところが円を描くように濡れていた。や、やばいっ。二年B組の教室で倒れていた時に、小便を漏らしてしまったらしい。
 西山はベッドから立ち上がると、急いで保健室を出た。後ろから東条朱里の声が聞こえた。
 「どういたしまして。西山先生」

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 「はい。波多野です」君津警察署の波多野刑事は受話器を取って応えた。古物商許可証の申請書類に目を通していた時だった。
「君津南中学の加納です。お仕事中に、すいません」
「いいえ、構いません。どうしました?」
 構わないどころか、魅力的な女性と電話で話せて嬉しいくらいだった。生徒が自殺した事件で初めて会った時に、その知的な美しさに波多野は心を奪われてしまう。こんな素敵な女性と毎日のように顔を合わせられる息子が羨ましかった。
「三月十三日の土曜日の件なんです」
「……」今の一言で波多野の浮かれた気持ちは一気に沈んだ。嫌な予感。また何か深刻な問題が持ち上がったんじゃないだろうか。無意識だったが椅子に座り直して身構えた。「はい」続きを促す。
「どうして先日、学校で三月十三日に何か行事があるのかと問い合わされたのか、その理由を知りたくて電話しました」 
「わかりました」君津南中学でも何かあったらしい、波多野は思った。「しかし自分も加納先生が何故、その理由を知りたいのか教えて欲しいです」
「当然です。今さっき、ほかの父兄からも同じ問い合わせを受けました」
「……」やっぱりだ。波多野は確信を強くした。三月十三日の土曜日には何かある。「そうですか」
「その父兄の息子さんですが、家でクラスのみんなに三月十三日に学校に集まるように、電話で誘っているらしいです」
「うちの孝行もそうでした。ところが学校で何の行事があるのかと問い質すと、まったく知らないとしか答えません。ふざけている様子はない。本当に記憶にないみたいだった」
「その男子生徒も同じです。でも彼の場合は、両親が問い詰めようとすると暴力を振って暴れたらしくて」
「それはヒドい」
「はい」
「加納先生。わたしの意見ですが、二年B組の生徒たちで三月十三日の土曜日に、学校で何かを計画していると考えています」
「わたしも同じ考えです」
「だけど、それはいい事じゃない。たぶん何か悪いことだと思います。それを我々は阻止しなければならない。問題は、それが出来るかどうかです」
「そう思います」
「お互い、これから連絡を取り合いましょう。どんなに小さなことでも知らせて下さい」
「分かりました。お世話になります」
「こちらこそ」
 今のところ、これ以上の話はないと二人は判断した。「では失礼します」と言って波多野は受話器を置いたが名残惜しかった。
 二年B組の連中は何を計画しているんだろうか。まったく想像がつかなかった。しかし波多野の第六感が頻りに警告音を鳴らしていた。お前の手に負えない大変なことが迫っている、そう訴えているような気がしてならなかった。

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 「これからは連絡を取り合うことにしたわ」加納久美子は美術室にいた。波多野刑事とのやり取りを安藤紫に伝えたところだ。
「三月十三日の土曜日っていうのは確か?」
「うん。そう板垣順平の母親も言っていたから」
「あたし、黒川拓磨から訊かれたのよ」
「えっ、なんて?」
「三月十三日の土曜日は空いているか、って」
「ど、どういう意味?」
「わからない」安藤先生は強く首を振った。
「それで、どう答えたの?」ビックリだ。初めて聞く。
「もちろん、空いていないって言ってやったわ。もし空いていたとしても、絶対に正直には答えない。あの子は何を考えているのか分からないもの」
「正解だわ。つまり三月十三日にB組の生徒達が集まって何かやるのは、やっぱり彼が首謀者なんだ」
「そう考えて間違いないと思う。ところで西山先生は、どうなっちゃったのかしら?」
「すごく心配してる」加納久美子は責任を感じていた。
「連絡は?」
「ない。電話は繋がらないし」
「最後に話をしたのが黒川拓磨なんでしょう?」
「たぶん、そう。あたしが西山先生に彼と話をしてくれるように頼んだから。でも黒川拓磨は否定しているの。会っていないって。だけど体育の森山先生から話を聞くと、彼は嘘をついているとしか思えない。手塚奈々は、西山先生がB組の教室で倒れていたって言うし」
「黒川拓磨と殴り合いでもしたのかしら?」
「違う。東条先生が教えてくれたんだけど、西山先生はハチに刺されたって言ってたって」
「え、ハチに? この寒い時期に?」
「うん」
「保健室で東条先生に手当てをしてもらって、そのまま学校から姿を消したってこと?」
「そう」
「何があったんだろう」
「わからない」
「どうするつもり、これから?」
「黒川拓磨が通っていた前の学校に電話してみようと思う。彼の担任をしていた教師と話がしてみたい」
 今年に入って君津南中学で起きてる、ほとんどの事件に黒川拓磨が関係していると考えられた。前の学校での彼の様子が知りたかった。
「あたしが近くにいた方がいいかしら?」
「ありがとう。でも一人で大丈夫よ」
「わかった」

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 携帯電話を持つ右手が汗ばむ。結局、加納久美子は昼休みに美術室から平郡中学へ電話をすることにした。横には安藤先生がいてくれた。やっぱり心強い。しばらく呼び出し音が鳴り続く。カチッ、と音がして繋がったのが分かった。
 「はい。平郡中学です」女性の声。
「もしもし」加納久美子は喉がカラカラだった。 
「平郡中学です。もしもし」
「加納久美子と申します。君津南中学で教師をしています。実は、そちらから転校してきた男子生徒のことについて、聞きたいことがあるんです」
「……」無言だ。
「もしもし、自分は--」もう一度、繰り返そうと思った。
「うちからそちらの中学へ転校して行った生徒ですか?」
「そうです」よかった。一度で話を理解してもらえた。
「いつの事でしょう?」
「今年です。一月になります。三学期の始めに転校してきた男子生徒です」
「……」また無言。
「彼の名前は--」言う必要がなかった。
「黒川拓磨ですか?」
「そうです」
「どんなことを、知りたいのでしょうか?」相手の声は事務的なままだった。
「は、はい。それは、そちらから送られてきた書類に幾つかの空欄がありまして……。できましたら、彼の担任をしていた先生と話をさせて頂きたいのですが」
「……」また黙った。
「……」加納久美子は返事を待った。安藤先生の方を向く。目が合った。
「お待ち下さい。教頭先生と変わります」
「は、はい」担任だった教師は不在なんだろうか?
 保留のメロディが流れてきた。
 「教頭先生と変わってくれるって」加納久美子は早口で横にいる安藤先生に伝えた。
「どうして、担任教師じゃないの?」
安藤先生の問いに無言で首を振って、わからないと答えた。静かに待つ二人。しばらく保留のメロディが続いた。
「まだなの?」ずいぶん待たすじゃない、と文句を口にする安藤先生。
「……」それに加納久美子は顔をしかめて応えた。
「教頭先生なんかじゃ--」
 手で合図して安藤先生を黙らせた。保留のメロディが止まったのだ。咳をする音が耳に届いた。「もしもし」平郡中学校の教頭先生と思われる相手に声を掛けた。
「教頭の安部です」
「君津南中学の加納と申します。お忙しいところを申し訳ありません」相手の声と話し方から五十代の男性を想像した。
「どういった用件でしょうか?」その声には親しみが感じられなかった。
「そちらから転校してきた黒川拓磨という生徒について聞きたいことがありまして、電話させて頂きました」
「こっちから書類を送ったはずです。それを読んでもらえば、分かることじゃないですか」
「幾つか空欄ありまして、それで--」
「そんなことは珍しくもないでしょう」この電話を明らかに迷惑がっている口調だ。
「そうかもしれません。ですけど黒川拓磨という生徒が、そちらの中学ではどんな生活態度だったのか知りたいのです」
「どうして?」
「……」その問いに加納久美子は答えられなかった。
「普通の生徒ですよ。特に変わったところはなかった」
「そうですか」教頭は嘘をついている、と加納久美子は直感した。この会話を早く終わらせたくて、当たり障りのないことを言ってるだけだ。「では彼が転校した理由は、なにか分かりますか?」
「それは親の仕事の関係とか、いろいろ--」
「彼の父親は、去年の暮れに亡くなっていると書いてありました」久美子は相手の言葉を遮って言った。
「そ、そうだった。私は例えばの話をしただけだ。こちらでは、ハッキリした理由は把握していない」
「彼の担任をしていた教師と話をさせて下さい」
「その必要はないだろう。もう転校して行った生徒なんだから、そちらで好きなように対応したらいい」
「どうしても彼の担任をしていた教師と話がしたいのです」
「……」大きく息を吸って吐く音が聞こえた。
「お願いします」加納久美子は続けた。
「無理だな」
「何故です?」
「死んだよ」そう言うと平郡中学校の教頭は、一方的に電話を切った。

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 加納久美子は携帯電話を持ったまま動けない。
「どうしたの?」と安藤先生。
「……」ショックで返事が出来なかった。ただ安藤先生を見つめ返すだけだ。
「加納先生」
「死んだって」声は小さい。やっと言葉を口から搾り出した感じだった。
「え?」
「黒川拓磨の担任をしていた教師は亡くなったらしい」
「まさか」
「そう言うと電話を切ったのよ」
「信じられない」
「あたしだって……」
 加納久美子と安藤紫の二人の教師は、それぞれの椅子に座ったまま黙り込んだ。聞かされた事実を必死に頭の中で整理した。
 「担任をしていた教師の死と黒川拓磨が関係していると思う?」最初に口を開いたのは安藤紫だった。
「……」問われると加納久美子は顔を起こして、無言のまま小さく頷く。
「あたしも」
「平郡中学校の教頭先生は間違いなく電話を迷惑がっていた」
「……」
「きっと平郡中学校で何か大変な事が起きたんだわ」
「そして、それを隠したがっている」
「そう」
「何だと思う?」
「わからない」
「これから、どうする」
「わからない」加納久美子は返事を繰り返すだけだ。
 二人は再び黙り込む。考えていることは間違いなく同じだ。平郡中学校で起きた事が知りたい。それを知れば黒川拓磨に対して何か対応が取れるはずだろう。しかし知る方法は、これで閉ざされてしまった。
 「君津署の波多野刑事に連絡したらどうかしら」沈黙を破ったのは加納久美子だ。
「そうだ、それがいい」
「もし平郡中学校で起きた事が警察沙汰になっていたら、調べてもらえるかもしれない」
「早く電話して」
「待って」
「どうしたの?」
「そうしたら、これまでに君津南中学で起きた不可解な出来事を、すべて言わないと」
「もちろん」
「それらに自分たちが、黒川拓磨が事件に関係していると疑っているとも伝えなきゃならない」
「それが悪いことなの?」
「しっかりした証拠がない。本人は否定しているし」
「構わないと思うけど」
「気が引ける」五十嵐香月の妊娠については、口が裂けても誰にも言えなかった。それに、もし自分たちが間違っていたら……。そう思うと行動を躊躇ってしまう。
「そんなこと言わないで。一刻も早く黒川拓磨の正体を暴くべきだわ」
「ちょっと考えさせて」
「三月十三日の土曜日まで、そんなに時間がないのよ」
「わかってるけど」
 加納久美子は、安藤先生の黒川拓磨に対する態度に違和感を覚えた。彼の正体を知ろうと不思議なくらい一生懸命のは何故なんだろう。

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 大変なことになった。これは、ただの虫刺されじゃないらしい。
 西山明弘は君津南中学の保健室から出て行くと、そのまま自宅のアパートへ無断で帰ってしまう。一時間もしないうちに携帯電話が鳴り出した。相手が高木教頭なのは明らかだ。黙って学校から姿を消した同僚を訝って連絡を取ろうとしているのだ。無視した。それどころじゃない。
 ズボンを濡らしたままで職員室へ戻れるもんか。誰とも顔を合わせたくなかった。すべて持ち物は机の上に残してきた。
 きっと保健室の東条朱里が、西山は失禁していたと言い触らすことだろう。あの女の意地悪そうな笑みが頭に浮かぶ。悔しい。
 二年B組の手塚奈々は、西山先生はスカートの中を覗きたくて、仮病まで使ったと加納先生に報告してるはずだ。最悪。失態が全校生徒に広まっていくのは時間の問題。もはや君津南中学に自分の居場所は無くなったと思って間違いない。セクシーな安藤先生と知的な加納先生との永遠の決別だった。
 これからどうする。それを考えなければいけないことは、十分に承知している。しかし、……だ。
 虫に刺されたところが完治しないのだ。直後は強烈な痛みに気を失ったほどだった。それが二日もすると痒みに変わった。治りつつあるのかと思っていたら、そうじゃなかった。今では強烈な痒みに夜も眠れない。
 刺されたところは紫色で、それが太股の方まで広がろうとしていた。なんかヤバい状態だった。
 頼れるのは大家の娘だけだ。事情を話すと献身的に助けようとしてくれた。三度の食事はもちろん、何も言わなくても薬局へ行って色々な薬を買ってきた。その中にイボが付いたコンドームも含まれていたが、西山は酷い痒みに悩まされてセックスどころじゃなかった。性欲はなくなり女の要求に応えることができない。男として情けなかった。
 痒みに苦しみながらも、黒川拓磨に対する怒りを燃やす。絶対に許さん。こんな目にオレを遭わせやがって。もう一生が台無しだ。あいつは虫を操っていた。オレが刺されるように仕組んだのだ。数日後に電話までしてきやがった。
 「もしもし」
「オレだ、黒川だよ」
「……」マ、マジか。どこでオレの電話番号を調べやがった。
「西山、どんな具合だ?」
「……」
「痒いだろ? うふっ」
「……」
「せいぜい苦しむがいいぜ。あはは」
「ふざけんなっ、バカヤロー。覚えてろっ」西山は電話を切った。
 一日も早く完治して仕返しがしたい。黒川拓磨は邪悪の根源みたいな奴だ。尋常な方法じゃ始末は出来ないと悟った。何か方法を考え出さなきゃならない。
 西山明弘は復讐心を募らせた。

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 「吉川ひなのとイザムが結婚したけど、すぐに離婚しそうじゃない?」お弁当箱を片付けながら安藤紫が言った。
「言えてる」お茶のカップを口元からテーブルに置くと、加納久美子は応えた。
「誰もが、そう思っていそう」
「そう思っていないのは当事者の二人だけよ」
「あはっ」
 加納久美子と安藤紫は、いつも通りに昼食を美術室で取った。話題は、全豪テニスでヒギンズと対決した女ランボーことアメリ・モレスモから始まって、ペンティアムⅡ搭載のノート・パソコンを買おうか迷っている、と様々だった。
 安藤先生は黒川拓磨の話に触れようともしない。これからどうするのか知りたいはずなのに、あえて訊いてこなかった。加納久美子の判断に任せようという気らしい。うれしかった。
 「波多野刑事に電話するわ」加納久美子は言った。
「うん」安藤先生は大きく頷いて賛成した。
「生徒のプライバシーがあるから詳しく話せない事だらけだけど、大まかに事情を伝えるわ」
「それがいいと思う」
「もし何かがあった時に後悔したくないし」
「言う通りだわ。可能な限り手を打つべきよ」
 その時だった、加納久美子のバッグの中からジョン・レノンの叫び声がした。『ミスター・ムーンライト』
 「ごめん」苦笑いして久美子はバッグから携帯電話を取り出す。
この着信音は五十嵐香月の家で気まずい思いをしてから、変えなきゃならないと分かっていながら通話が終わると、すっかり忘れてしまう。
 「誰かしら」知らない番号だった。「もしもし」
「……」
「もしもし」もう一度。反応がなかった。イタズラかしら。
「もしもし。わたし、望月と申します」女性だ。同じ年ぐらいか。
「は、はい」聞き覚えのある声だった。でも思い出せない。
「平郡中学校で庶務をしています。昨日の電話を最初に--」
「わ、わかります」久美子は相手に最後まで言わせなかった。思い出した。血液中のアドレナリン濃度が一気に上がった。「お電話、ありがとうございます」
 もしかしたら突破口になるかもしれない。期待が高まる。目を大きくして安藤先生に驚いた表情をして見せた。会話を一緒に聞いてもらいたいくらいだ。
 「うちの安部教頭が昨日は失礼しました」
「いいえ、構いません。こちらこそ突然に電話したりして……」
「今、お話を続けても丈夫ですか?」
「もちろんです」
「黒川拓磨について、お話したいことがあります」
「ぜひ聞かせて下さい」
「うちの学校で大変なことが起こりました。担任教師の死は彼と関係があります。そちらの学校で何が起きているか、想像に難しくありません」
「……」加納久美子の額に汗が浮かんできた。
「すべてを説明するのは電話では無理があります。いつか、どこかで会えないでしょうか」
「わかりました。今週の土曜日では?」最も早い休みが、それだった。すべて予定はキャンセルしよう。
「大丈夫です。ただ自分の体調が不安定で遠くまで行けません。それでも〡〡」
「私が平郡中学校の近くまで行きます。場所と時間は、そちらの都合に合わせますので」
「そうして頂けると助かります」
「どこがいいですか?」
「国道から平郡中学へ向かう県道へ左折する交差点は御存知ですか?」
「わかります」確かではないが、たぶん行けば分かると思った。
「その近くにマホニーというファミリー・レストランがあります。そこの駐車場に午前十時に待ち合わせでは如何でしょうか」
「大丈夫です」
「スズキの白い軽自動車で行きます」
「私の車はフォルクス・ワーゲ--、いえ、2ドアの紺色の自動車です」車種を言っても一般の人には馴染みのない車だった。
 お互いにフル・ネームを言い合って通話を終えた。加納久美子は手帳を開いて、三月六日の欄の空白に待ち合わせの時間と望月良子という名前を書いた。そして好奇心に満ちた顔を見せる安藤先生に会話のすべてを教えた。
 「あたしも行きたい」安藤先生が言った。
「え、本当?」
「連れて行って」
「待って。望月さんに電話して了解を取るから」
「そうして。いきなり二人で現れるより、事前に話しておいた方がいいわ」
 久美子としても安藤先生と一緒に行きたい。携帯電話を取り出して連絡を取ることにした。
 「あ、加納久美子です。さっそくで、すいません。土曜日の件なんですが、私の同僚で安藤という女性と一緒に行ってもいいですか?」
「こちらは構いません。ええ、お二人で来られた方がいいと思います」
「ありがとうございます。そうさせて頂きます。それでは--」
「待ってください」
「はい?」
「言い忘れたことがあって、電話しようと思っていたところなんです」
「何でしょう」緊張する。
「黒川拓磨の母親と話をしたことがありますか?」
「い、いいえ」会ったこともないし、電話で言葉を交わしたこともなかった。
「こちらでは、家での黒川拓磨の様子を聞こうと日時まで約束したのですが、あの事件が起きて出来なくなったのです」
「そうでしたか」
「何か強く伝えたい事があるような印象だったのですが……」
「……」
「もし可能でしたら、そちらで--」
「わかりました。彼の母親と連絡を取ってみます」
「もし話ができたら、こちらへ来たときに結果を教えて下さい」
「もちろんです」
「それだけです」
「では、土曜日に」
「はい。失礼します」
 加納久美子は携帯電話を畳むと、安藤先生に言った。「黒川拓磨の母親と話をしてみてくれって」
「会ったこと、あるの?」
「ない」
「黒川拓磨の家まで行くつもり?」
「そう。午後は空いているから電話してみる」
「がんばって」

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 意外だった。加納久美子はフォルクス・ワーゲンのポロを、外壁のトタンが所々に赤く錆びた家々が並ぶ一画の前に停めて唖然とした。低所得者向けの集合住宅だった。
 この中に黒川拓磨が母親と二人で住む家がある。何軒かは人が住んでいなくて、もはや廃墟に近い。五十嵐香月が住む家みたいな建物を頭に描いて、住所と地図と頼りに探したのだが当てが外れた。
 生徒の学力は家庭の経済力と比例する。収入が高いほど子供の成績はいい。それが定説だった。しかし今、唯一の例外を目の前にしていた。
 加納久美子は自動車から出て、道路に面した手前の建物の前に立った。「あれ?」表札がなかった。
 その隣の家にも同じようにない。何号とかいう建物の番号すらなかった。
 書類に目を落としたが、やっぱり黒川拓磨の住所の欄にも番地までしか書かれていない。母親は何も言ってくれなかった。久美子は午後、お昼休みが終わるとすぐに電話を掛けた。母親は家に居てくれた。
 「息子さんの担任教師をしています、君津南中学の加納という者です。失礼ですが、お母さんでいらっしゃいますか?」
「……はい」
「拓磨くんのことで、お話したいことがあります。今から、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「……」
「時間は掛かりません。すぐに終わります」久美子自身も時間がなかった。
「また拓磨が学校で何かやらかしたんですか?」
「……」また、という言葉が久美子の頭に残った。「いいえ、そういう事じゃありません。家庭訪問みたいなものです。こちらに転校されて、まだお会いしていなかったので」
「そうですか」
「何分も掛かりません。すぐに帰ります。今から行ってもよろしいですか?」
「わかりました。お待ちしています」
 それだけだった。家が判りづらいとは一言も口にしてくれない。探すしかない。ここまで来て引き返すことはできなかった。加納久美子は勇気を出して、目の前に建つ家のドアを叩く。「ごめんください」
 人が住んでいる気配があるのに反応がなかった。間合いを保ってドアを叩き続けた。声は次第に大きくなっていく。家の中から物音が聞こえたので止めた。 
 鈍い音を立てながら中から引き戸を開けてくれたのは、汚れた白いトレーナーの上下に薄手の黒いジャンパーを羽織った、七十代と思われる痩せた老人だった。
 「……」何も言わないで加納久美子を見てるだけだ。
「失礼します。実は黒川さんのお宅を探しています。ご存知ないでしょうか?」
「えっ、なんだって?」耳が遠いらしい。久美子は声を大きくして繰り返した。
「知らねえ」ぶっきらぼうな言い方だった。誰とも関わりたくないという態度が明らか。老人の開いた口の中には歯が数えるほどしかなかった。
「わかりました。失礼しました」久美子は頭を下げて、その場から身を引く。
 別の家に当たったみるしかない。どうしよう。ここは近所付き合いが、まったくない場所らしい。辺りを歩き回って自分で探すしか方法はないのか。すごく居心地が悪かった。家から出てきてくれた老人が、そのまま中に戻らずに久美子の様子を眺めていた。まるで不審者を見るような目で。
 これは苦労しそうだ。時間の許す限り一軒、一軒を調べるしかないと覚悟した。
 「加納先生ですか?」
 いきなり後ろから声を掛けられた。ヒヤっとした。振り返ると、ピンクのスエット・シャツに緑のトレーニング・パンツ姿の中年女性がいた。きっと黒川拓磨の母親だ。助かった。
 「そうです。拓磨くんのお母さんでいらっしゃいますか?」
「はい」
「初めまして。担任をしています、加納久美子です。よろしく」
「黒川です。こちらへ」
 久美子は母親の後ろに付いて行く。通路が狭くてプロパンガスのボンベと何度か接触しそうになった。気をつけないと、無造作に置いてあるバケツや鉢植えに躓きそうだった。黒川拓磨が住む家は最も奥に位置していた。
 居間に通された。座布団に腰を下ろすと、壁に掛けられた派手なワインカラーのワンピースに目が引き付けられた。母親は夜の仕事をしている、と理解した。「お構いなく。時間がないので、すぐに帰りますから」母親がお茶を煎れようとしたので遠慮した。
 「拓磨くんの家での様子は、どんな感じなんですか?」久美子は訊いた。当たり障りのない質問をしながら、何かを読み取りたかった。
「……」どう答えていいのか母親は分からない様子だ。
「どんな事でも構いません」
「普通じゃないかしら」声が小さい。
「お母さんとは話しをしますか?」もっと具体的に訊くことにした。
「はい。少しは……」
「どんな話をしますか? 例えば」
「え、……そう、天気とか」
「……」これでは埒が明かない。母親は事実を言っていない、と思った。隠したがっている感じだ。「息子さんの学校での成績を知っていますか?」
「い、いいえ」
「どのくらい彼が勉強しているか興味はありますか?」
「はい」
「でも彼と成績のことで話をしたことがないのですか?」久美子は決め付けるように言ってみた。
「……そうかもしれません」
 信じられなかった。ここまで親が勉強に無関心なのに、息子の成績はトップクラスだ。
「拓磨くんは、とても勉強ができます」
「そうですか」
「このまま行けば、どこでも高校は入学できると思います」
「はい」息子を褒められても嬉しそうでもない。
「息子さんについて何か困っている事はありますか?」
「ないです」
「……」話が続かない。
「……」母親は目を合わそうとしない。自宅に担任教師が来たのが迷惑らしい。
「わかりました。これで失礼します。お時間を割いて頂いて感謝します」
 この母親と話を続けても何も得られるものは無さそうだ、と判断した。自信がなくて、いつも何かに怯えている感じだ。あの自信に満ちた黒川拓磨とは似ても似つかない。座布団から立ち上がろうとしたところだった。
 「加納先生」
「はい」
「ここに先生が来たことは、息子に言わなくてもいいですか?」
「どちらでも構いません」黒川拓磨に知られても別にいい、と思った。
「そうですか。では内緒にしてくれますか」
「どうしてですか?」興味が湧いた。親子の間で都合が悪いということなのか。
「拓磨には言いたくありません」
「なぜです、お母さん?」
「……」
「お母さん、教えて下さい」
「怒るんです、あたしが勝手な事をすると」
「暴力を振るうとかですか?」
「いいえ、そこまでは……」
「わかりました」久美子は了解した。
「あたし、とにかく拓磨が怖くて……」言いながら一瞬だが、母親は恐怖に体を震わせた。
「お母さん」加納久美子は看過できない何か異常なものを感じた。
「……」
「どうして、そんなに息子さんを怖がるんですか?」
「あ、あの子は……」首を振って何かを否定しようとしていた。
「お母さん、説明して下さい」
「先生。あたし、拓磨から逃げ出したくて」
「……」母親から聞く言葉じゃなかった。驚いて久美子は何も言えない。
「助けて欲しいんです」
「待って下さい。突然そう言われても困ります。事情を詳しく説明してください」
「話せば助けてくれますか?」
「……」聞きたい。しかし助けると安易に約束はできなかった。
「先生」答えを促していた。
「すべて話を聞いてみないと何とも言えません。約束できるのは、お母さんの力になれるように努力するということだけです」
「……」
「話して頂けますか?」久美子は訊いた。
「わかりました、それで結構です。あの子は、最初から自分の子とは思えなかった」
「どういう意味でしょう?」
「あたしが産んだのは事実なんですが、……何か、どうも不思議な気がしてならない」
「なぜ?」
「普通の子供とは違うような気がしました。……どう言えばいいのか、子供なのに何か強い意志と目的を持っているみたいでした」
「……」
「賢くて、あたしの子らしくなかった。すごく悩みました。ところが主人は違います。期待していた通りに、男の子が産まれて非常に喜んでいました。だから相談できなかった」
「そうでしたか」
「それに、あの子は双子で産まれてきたんです」
「えっ」兄弟がいるのか? 今どこに?
「もう一人は殺されました」
「何ですって」
「産まれてすぐです。それも病院の新生児室で」
「信じられない」久美子は思わず手で口を押さえた。「だ、誰が?」
「病院の婦長です」
「ま、……まさか」
「だけど腑に落ちない事ばかりでした」
「聞かせて下さい」
「これは主人の話ですが……」そう言うと母親は視線を逸らす。言いたくない事を、これから口にしなければならないという気持ちが伝わってきた。
「はい」久美子は促した。
「あたしを見舞いに来て新生児室の前を通りかかると、婦長がピンセットで自分の息子に危害を加えているところを見たそうです。急いで中に入りましたが、もう息子は死んでいました。主人はポケットにあった小型カッターを取り出して、怒りから婦長を刺し殺したのです」
「どうして? そんなことを」
「わかりません」
「……」あまりにも悲惨な話で、なんて言葉を掛けていいのか分からない。
「その後が大変です。主人は殺人罪で逮捕されました。少しでも刑を軽くしてもらいたくて、東京の有名な弁護士を雇ったんです。うちの実家は小さくても建設会社を経営していたんですが、多額の出費が続いて倒産しました」
「そうでしたか」
「主人は婿養子です。中学を卒業すると見習いとして入社してきました。期待はしていなかったのですが、ベテランの従業員が次々と辞めていって、それで会社の重要なポストを任されるようになります。あたしは一人娘です。新婚旅行中のことでした、両親が交通事故に遭って亡くなりました。それで主人は会社を継いだんです」
「……」なんか凄い話を聞かされている、そんな気分だった。
「五年で主人は仮釈放になります。知り合いを頼って建設作業員として働き出しました。ただ、不思議なのは……」
「なんです?」
「主人は殺された息子のことを全く悲しみませんでした。墓参りすら行きません。怒りから婦長に襲い掛かったのに、ですよ」
「どうしてでしょう?」理解できない。
「わかりません。理由を訊こうとすると話をはぐらかすんです。今は忙しい、とか言って」
「ご主人は去年の暮れに亡くなられたんですか?」確認するように久美子は言った。できたら、その理由も知りたい。
「そうです」
「ご病気ですか?」
「いいえ」母親は首を振った。
「……」それ以上は言いたくないのか。
「焼死でした」
「……」久美子は息を飲み込んだ。それなら自殺だと思った。
 これ以上はプライベート過ぎて訊けないと感じた。カシオのGショックに目をやると、学校へ戻らなければならない時間になっていた。
 「すいません、お母さん。授業があるので、もう帰らなければなりません。時間を作って、お話の続きを聞けるようにします。もし何かありましたら、遠慮せずに学校に電話して下さい。今日は、これで失礼します」
 玄関を出ようとしたところだ、母親は吐き出すように言った。
 「主人は平郡中学で死にました」
「……」加納久美子は凍りつく。「あ……、あとで電話します」それしか言えなかった。
 君津南中学へ戻るフォルクス・ワーゲンの中で、ハンドルを握る久美子の手は小刻みに震えていた。なんて悲惨な話だろう。産まれたばかりの赤ん坊が新生児室で殺され、その父親は息子が通う中学校で命を断つ。理解に苦しむことばかりだ。
 陸橋を下って君津市役所の交差点を右折したところで気づく。母親は息子の黒川拓磨を恐れる理由を何ひとつ言わなかった。時間がなくて、そこまで話が辿り着かなかったのか。授業が終わったら、電話しようと思った。まだ話は終わっていない。
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