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文字数 14,642文字

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 佐野隼人は悩んでいた。すべてが上手く行かない。サッカー部のキャプテンであったが、その務めすらどうでもよくなっていた。
 あいつの所為だ。それは強い霊感の所為で理解できた。しかし、どう対処すればいいのか分からなかった。
 霊感の強さを知ったのは小学校へ上がる前だ。山に囲まれた父親の実家へ行った時のこと。日が暮れてから祖母に連れられて何軒か先の家へ用事があって出かけた。帰り道だ、祖母は急に立ち止まって孫の手を強く握ると言った。
 「隼人」いつもの優しい声じゃなかった。
「なに、オバアちゃん」手を通して緊張感が伝わってくる。
「お前、あの人たちが見えるか?」
「うん」
 道路を境にして山沿いの片側は民家で反対側は田んぼが広がっていた。そこで、この暗さにも関わらず農作業をしている人たちがいるのだ。全く言葉を話さず黙々と仕事を続けている。声だけじゃなくて何の音も聞こえてこない。異様な雰囲気が漂う。
「見えるのか、お前?」と、念を押す祖母。
「うん、見えるよ。どうして?」
「そうか」がっかりしたような声だった。「お前な、あの人たちとは絶対に目を合わすな。もし話し掛けられても返事はするな」
「どうして?」
「なにも訊くな。ただババが言った通りにしろ。分かったか」
「うん。じゃあ--」
「じゃあ、何だ?」何も訊くなと言ったばかりじゃないか、そう咎める響きが言葉にあった。
「オバアちゃんの横に立って、血を流している人とも話しちゃいけないんでしょう?」
「ひえっ」
 悲鳴に近い声を上げると、その場に祖母は腰を落としてしまう。慌てて立ち上がると孫の手を引っ張って逃げるように家に帰った。
 「この子は霊感が強い。あたしの比じゃないよ。まわりが気をつけてやらないとダメだ」
 両親に向かって、そう言ったのを覚えている。警告するような感じだ。その晩から祖母は体調を崩して床に伏す。亡くなったのは一週間後だった。
 霊感が強いのは災いの元らしい。「隼人。もし変な人たちが見えたら、すぐに言いなさい」両親は心配した。
 幸いにも、その後は異様な体験をすることはなくなった。祖母が絶対に目を合わすなと言った人たちを見る回数が、次第に少なくなっていく。霊感というのが自分から消えていく感じがした。
 去年の十二月、期末テストが終わって家で開放感に浸りながらネスカフェのゴールドブレンドを飲んでいる時だ。心臓を鷲づかみされるような感覚に襲われる。病気じゃない、すぐに霊感が蘇ったんだと分かった。これまでで最も強い。どうして? 今になって。
 その日から毎日、何か悪いことが近づいているという思いに悩まされることになる。訳が分からなかった。どうすればいいのかも分からない。ただ目の前に何かが現れるのを待つだけだった。
 気になって勉強が手につかない。成績は落ち始める。ぎくしゃくし始めた佐久間渚との仲も、なかなか元に戻らない。
 キスまでは早かったが、そこから先が進まなかった。肩から背中を触って、ゆっくり手を彼女の腰の方へ近づけると、「もう、やめて」と強く拒絶されてしまう。「いいじゃないか。もう少しだけ」そう頼んでも首を横に振るだけだった。
 何だよ、オレたち恋人同士じゃないのかよ。オレのことが嫌いになったのか。交換日記なんて面倒くさいことがやめたくなる。
 たまに板垣順平の奴が訊いてくる。「隼人、どこまでいった?」
「順調さ。オレは焦っていないから」と、誤魔化すしかなかった。反対に、「お前と香月はどこまでいったんだ?」と訊いてやる。するとその話は、そこで終わりになる。あいつら二人はキスまでいかないで別れたことが明らかだった。
 順平は相当な金を五十嵐香月に貢いだ。初めのころは、「デートに三万円も使ったぜ」と笑っていたが、そのうち何も言わなくなる。渚から聞いた話しだと、水玉のワンピースから始まって、スカートやシューズ、下着、更には生理用品まで買わされたらしい。中学生の交際レベルじゃなかった。奴は香月と親密な関係になりたくて、どんどん金を使ったのだ。隼人が「佐久間渚とキスしたぜ」と秘密を打ち明けたことが切っ掛けに違いない。つまり順平の奴は金の力で女をものにしようとしたのだ。バカな奴だ。
 金で自由になるような女は手塚奈々ぐらいなもんだろう。スタイルのいい長い脚だけが取柄で、頭の中は空っぽだから。佐久間渚にしても五十嵐香月にしても、そう簡単に身体を許すような女じゃなかった。
五十嵐香月は順平に多額の金を使わせておきながらキスもさせずに、一方的に理由も言わないで別れたんだから、ある意味で凄い女だ。
 いつかオレも渚に捨てられるんだろうか。そんな不安が頭を過ぎった。なんとかして交換日記を始めたばかりの、ときめいた頃に戻りたかった。金でものにするつもりはないが、何かプレゼントをして渚を喜ばせるべきかもしれない。そう気づいた。
 さて、どこで何を買おうか。
 佐久間渚の嬉しそうな顔を想像しながら、色々と頭の中で品物を選んでいた。ところが今は、そんなことを考える気持ちになれなかった。
 何か悪いことが近づいているという感覚は年が明けて、ますます強くなっていった。すべてが明らかになったのは三学期の初日だ。転校生。こいつが恐怖の原因だった。
 加納先生に連れられて二年B組の教室に入ってくるなりだ、隼人と目が合う。驚いたことに笑みすら浮かべて見せた。休み時間になると向こうから接してきた。
 「待たせたな」
「……」ど、どういう意味だ。
「オレが来たからには、お前は邪魔者だ。すぐに消えてもらうからな」
「お、おい、……なにを」
 こっちの返事を聞こうともしないで自分の席へ戻っていく。隼人は呆気に取られるだけだ。
 あいつは君津南中学に佐野隼人が通っていることを知っていたような口振りだった。会ったこともないのに。まったく理解できなかった。どうして、オレを敵視するんだ。
 佐野隼人はキリスト教徒だった。小学校の四年生ぐらいまでは、いつも日曜日のミサに行っていた。最近は足が遠のいて熱心な信者とは言えなかった。転校生から酷い言葉を浴びせられると、何だか知らないが無性に教会へ行きたくなった。
 日曜日、久しぶりにミサに出る。よかった。教会の荘厳な雰囲気の中に身を置くと、心が清められる思いがした。参列者全員で聖歌を歌うと、自分は神と共にあるんだという安心感を得られた。来週も来ようと決めた。
 月曜日、登校すると下駄箱のところで転校生が待ち構えていた。
 「お前が昨日どこへ行ったか知っているぞ」
「……」いきなり何だ。顔を見るのも嫌な奴なのに、朝から。すぐに教会のことを言っているのは理解できた。
「二度と行くな。わかったか」
「どうしてだ? お前には関係ないだろう」
「あるのさ」
「……え」ど、どういう意味だ。
「あの場所へ通うバカ者が近くにいると、オレの力が削がれてしまうんだ」
 それだけ言うと転校生は、その場から去って行く。佐野隼人は下駄箱の前に残された。耳にした今の言葉を頭の中で反芻する。二年B組の教室に入って自分の席に座っても考え続けた。
 あいつはオレが教会へ行くのを嫌がっている。つまりキリスト教が弱点なんだ。これで邪悪な存在であることがハッキリした。それなら懲らしめる為に毎日でも教会へ行ってやろうかという気になった 隼人は決心した。みんなの前に奴の正体を暴いてやろうじゃないか。--あっ。
 うれしい。もう少しで声が口から出そうになった。その姿を目にしただけで気持ちが楽しくなる。開いた教室のドアの向こうに佐久間渚が見えたのだ。なんて可愛い女だろう。今日こそは優しい言葉を掛けてやろうと思う。彼女の横には五十嵐香月がいて、廊下で誰かと立ち話をしていた。山田道子かな? いや、違う。男子生徒らしい。黒い制服の一部が見えて分かった。少し不安になる。
 相手は誰なんだ。すごく気になっていく。それは渚の顔が嬉しそうな表情をしていたからだ。まるで恋人と喋っているみたいに見えた。不安が嫉妬心へと変わる。
 男子生徒の全身が見えたとき、佐野隼人は鋸山の展望台から背中を蹴られて突き落とされた気分になった。マ、……マジかよ。
 転校生の黒川拓磨だった。よりによって、あいつだ。あんな奴と何で楽しそうに喋っていられるんだ。
 渚の奴、オレからあいつに乗り換えようとしているのか? こっちが、せっかくプレゼントでもして喜ばせてやろうとしていたところなのに……。なんて女だ。
 もしかしたら自分の思い過ごしで、これからも佐久間渚は自分のガールフレンドでいてくれる。そんな心の片隅に僅かに残っていた期待が、彼女が次に取った行動で完全に打ち砕かれてしまう。
 手紙を、あいつに手渡したのだ。ラブレターに違いなかった。それも教室の横の廊下でだ。大胆過ぎるぜ。もう誰に見られても構わないってことらしい。畜生っ。オレにはラブレターなんかくれなかったのに。嫉妬心は憎しみへと変わった。ふざけた女だ。オレをコケにしやがって。絶対に許してやるもんか。自分の席に座りながら悶々とした気持ちだった。
 「佐野くん」
こんな時に呼ぶんじゃねえ、バカ野郎が。「……」声で小池和美だと分かったが無視した。
「ちょっと、佐野くんたら」
「何だよ」近くにこられて返事をするしかなかった。大柄な女で目立つのに、最近はレンズの大きな玩具みたいなメガネを掛けて余計に注目を集めてる。それ似合っていないから外したら、と誰か言ってやる奴がいないのかよ。 
 不思議なことに、そのメガネを掛け始めてから小池和美の態度が自信に溢れた感じに変わった。理解できない。本人はカッコいいとでも思っているらしい。
 「ボランティアの件だけど」
「それが?」
「どっちに行くか今日中に決めて知らせないといけないの」
「あ、そう」
 そんなことオレが知ったことかよ。委員長の古賀千秋と書記の小池和美、お前ら二人が勝手に決めたことだろう。高校受験で内申書を良くしたいが為だ。
「佐野くん、だから前に出てクラスの意見をまとめて」
「なんでオレが?」ふざけんな。オレは関係ないだろう。
「千秋が休みなのよ」
「……え」
「風邪らしいの」
「ウソだろ」冗談じゃない。今はそんな面倒なことをする気分じゃなかった。
「早く」
「お前がやってくれよ」
「いやよ。あたしは書記だもん」 
「じゃあ、明日でもいいだろう」
「ダメ。今日中に、って言ってるでしょう」
 この強情な女。言い出したら絶対に妥協しない。隼人が嫌がっているのを知っていて、心の中では面白がっているんだ。
「ちっ」佐野隼人は渋々だが立ち上がった。小池和美の声が大きくて周りの注目を集めていたからだ。早く終わらせて席に戻ろうと考えた。
「おい、佐野。ちょっと、いいかな?」
「何だ」教壇に立とうとしたところで、山岸涼太と相馬太郎の二人に呼び止められた。こいつらか、という思いだ。また何か、くだらないことをしようとしているのが、連中のニヤニヤした表情から明らかだ。
「アンケートの結果が出たんだ。発表させてくれ」と、相馬太郎。
 すぐに数人の男子生徒から声が上がる。そっちが先だ。山岸と相馬の話が聞きたい。そうだ、先にやらせろ。
 ここは引き下がるべきだと佐野隼人は判断した。「分かった。早くしろよ」そう言って自分の席に戻った。
 小柄な相馬太郎が山岸涼太を従えて教壇に立つ。右手に紙を持っていた。「前回の『二年B組女子生徒ベスト・オナペット』は、当然ですが投票権は男子に限られました。それで今回は『AV女優になりそうな二年B組女子生徒』のアンケートを行って全員に協力してもらいました」
 相馬太郎は生徒全員の反応を確かめながら話す。得意げだ。こういう場面では輝いていた。
 「では発表します。第三位は篠原麗子さんでした」一斉に拍手が起きる。『ベスト・オナペット』では二位でしたが、今回は順位を一つ落としました。でもさすがですね。おめでとうございます」
 拍手は続いた。視線が篠原麗子に注がれる。本人は恥ずかしそうに下を向く。その顔が次第に赤くなっていくと、逆に拍手は大きくなった。おめでとう、という声も上がって、はやし立てた。
 「第二位は五十嵐香月さんです。ベスト・オナペット第三位から一つランクを上げました。映画鑑賞で演技に対する感性が身についていると判断されたのでしょう。おめでとうございます」
 同じように拍手が起きたが、本人は注がれる視線に軽く笑っただけだった。
 「第一位は--」と相馬太郎が言い出すと、大きな拍手と共にクラス全員の視線が手塚奈々に集まった。「そうです。手塚奈々さんです。『二年B組女子生徒ベスト・オナペット』に続いての連覇を達成しました。おめでとうございます。みなさん、盛大な拍手をお願いします」
 相馬太郎の言葉に応えて手塚奈々が席を立つ。両手を挙げて勝利の喜びを表現した。「ありがとうございます。AVデビューしましたら、ぜひ応援して下さい」そして挙げた手を頭の後ろで交差させると身体を捻ってセクシーポーズを取って見せた。
 それが男子に受けて拍手が大きくなった。会釈して彼女が席に腰を下ろすまで続く。どんなに冷やかしても手塚奈々は期待を裏切らない。軽率な女に扱われて嫌がるどころか、反対に調子を合わせておどけて見せるので男子から絶大な人気があった。
 しかし今回のアンケートの結果発表は前回ほどの盛り上がりはなかった。ランキングに入る女子生徒に代わり映えがなかったからだろう。三度目は無いなと思った。相馬太郎と山岸涼太から、終わったと合図を送られてオバア佐野隼人は席を立って教壇へと進んだ。
 「ボランティアの件なんだ」その一言で教室は静まり返った。まったく関心がないという証拠だ。隼人は続けた。「南子安にある老人ホームか坂田の福祉施設のどっちへ行くか決めたいと思います。これから票決を取りますから手を上げてください」
 ……。 
 何の反応もない。山田道子が隣に座っている奥村真由美に話し掛けるのが見えた。ボランティのことで何か言うのかと思ったら、英語の宿題どこまでだった、という声が聞こえてきた。隼人は一気に進めて早く終わりにしようという気持ちを強くした。「老人ホームでいいと思う人?」
 誰も手を上げない。どころか誰も、こっちを見ていない。嫌な予感が脳裏に走った。「じゃあ、坂田の福祉施設?」
 ……。
 やはり誰も手を上げなかった。完全に無視されていた。畜生、古賀千秋の奴が休んだりするから……。「おい、どっちかに決めなきゃならないんだ」言葉に怒りが滲んでしまう。「どっちかに手を上げてくれないと困るだろう」
 ……。
 教室は静かなままだ。これは大変なことになった。きっと長引きそうだ。佐野隼人に対して残りのクラス全員が対峙するという図式が教室に出来上がった。どうやって連中を説得させて、どっちに行くか決めさせるか。この状況から早く脱出したかった。 
 「ちょっと、いいかな?」やっと誰かが反応してくれたかと思ったら、それは黒川拓磨だった。
「何だよ。お前は関係ない」反射的に喧嘩腰の言葉が口から出てきた。心の中では、お前が転校してくる前に決まったことなんだよ、口出ししないで大人しく座っていろ、と怒鳴っていた。オレの彼女だった佐久間渚を横取りした憎い奴だ。
「そんなことはないと思うな。オレだって二年B組の生徒の一人なんだぜ」
 確かにその通りだ。苦々しい思いで隼人は応えた。「じゃあ、何だよ。言ってみろ」
「どちらにも行かないという選択肢はないのかな?」
「ふ、ふざけんな。どっちかに行くってことは決まってるんだよ」
「そう言うけど、みんなは行きたくないみたいだぜ」
「……」何も言えなかった。クラスの全員が興味深く二人のやり取りを見守る。佐野隼人は明らかに劣勢に立たされていた。教室の空気が張り詰めて時間だけが流れた。
 静寂。
 小池和美が立ち上がった。「黒川くんの言う通りだわ。どちらにも行かないという選択肢もあっていいと思う」
 隼人は自分の耳を疑った。こっ、このやろう。なんて女だろう。どっちかに決めろ、と指示を出したのはお前じゃないのか。全身が怒りで震えた。「おい、小池。お前と古賀の二人が勝手にボランティア活動を--」ことの経緯を明らかにしようとしたが、最後まで言わせてもらえない。
「そんなことは、もうどうでもいいの。どちらにも行かないという選択肢も加えて、全員の意見を聞くべきよ。ねえ、みんな」
 そうだ、そうだ、そうだ、という声があちこちから上がった。佐野隼人は一人、悪者にされた気分だ。無意識に親友の板垣順平の方を見て助けを求めた。ところがだ、奴は顔を下に向けて無関心を装っていた。いつもだったら、みんなに手を上げろよ、とか助け舟を出してくれてるはずなのに。今の奴の態度が信じられない。もはや孤立無援だった。「……じゃあ、どちらにも行きたくないと思う人は?」黒川拓磨の意見に従うしかなかった。当たり前だが、か細い声になっていた。
 ほぼ全員が手を上げた。それを見て佐野隼人は黙って自分の席に戻った。
 なんてこった。最悪の月曜日の朝だ。今日一日、誰とも話したくない。そう思った佐野隼人に声を掛けてきた女子生徒がいた。佐久間渚だった。
 「佐野くん、これ」
 オレを裏切った女だ。その手には交換日記帳を持っていて、差し出す。ムッときた。黒川拓磨にはラブレターで、オレにはこんな面倒くさいモノを持ってくるのかよ。もう続けていられるか、馬鹿野郎。怒りが爆発した。「うるせえっ」佐野隼人は彼女の手から交換日記帳を引ったくるように奪うと、思いっきり床に叩きつけた。
 教室が静まり返った。
 どうした? 何があった? 離れたところに席があって事情を知らない連中から声が上がる。
 佐野くんが渚に怒鳴ったのよ。渚のノートを床に投げつけたわ。問い掛けに答える声も聞こえてきた。二人が付き合っていることは周知の事実だった。二年B組において大スキャンダルと言ってもいい。もし君津南中学校で女性週刊誌が刊行されていたら、次号の表紙を飾る言葉はこれで決まりだろう。『二年B組の佐野隼人と佐久間渚が破局。本誌だけが知る赤裸々な事実』だ。そしてメディアの取材攻勢が始まるのだ。
 佐野さん、今のお気持ちは? 去年ですが二人だけになった放課後の教室でキスまでいったというのは事実ですか? もし傷心の彼女に声を掛けるとしたら、どんな言葉が浮かびますか? 別れた理由の一つに新たな男子生徒の存在があると聞きましたが本当なんですか? 佐久間渚が妊娠しているという噂がありますが、それについて一言お願いします。彼女のパンティとかブラジャーが頻繁に盗まれていますが、破局と関係がありますか? 
 ふざけんな。絶対に誰にも何も喋ってやるもんか。そして佐久間渚が静かに床に落ちた交換日記帳を拾って自分の席に戻っていくのが音で分かった。
 可哀想なことをしたな、という思いはなかった。ざまあみろとしか思わなかった。
 渚、大丈夫? と問いかける五十嵐香月の声が教室の後ろから聞こえてきた。それに続いて、佐野くんて酷い、という誰かの言葉が耳に届く。女の子に八つ当たりするなんて最低じゃない? 佐野くんて男らしくない。非難の言葉が二年B組の教室に飛び交う。
 佐野隼人は自分の席に座ったまま、何一つ身動きできない状況に追い込まれてしまう。何もかもがイヤになった。このまま家に帰りたい。仮病を使って早退しようか。
 しばらくして、ほとぼりが冷めたころを見計らって、顔を上げて正面を向いた。目だけで回りを見ると、ほとんどが佐野隼人と顔を合わそうとしていなかった。……たった二人を除いて。
 一人は黒川拓磨で、薄笑いを浮かべたので直ぐに目を逸らした。オレがこんな目になって愉快なのが明らかだ。畜生。いつか殺してやるからな、覚えていろ。もう一人は意外なことに、根暗の秋山聡史だった。こっちを見てニヤニヤした表情をしていた。何やってんだ、馬鹿野郎。こいつには睨みつけてやった。

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 君津南中学校で二学年の主任を務める西山明弘は悩んでいた。最近まではすべてが順調だった。何もかもが上手く行く感じだ。しかし、ここにきて人生における最大の決断を迫られていた。
 始まりは去年の春に学年主任になれたこと。就任が決まっていた人物が交通事故に遭って休職を余儀なくされて、自分に白羽の矢が立つ。周囲からは、君津南中学校で最年少の学年主任だと祝福された。卒業したのは二流の大学だったが、ここで一気に出世コースに乗れたんじゃないかと自信を得た。目標にしていた教頭を通り越して、上手く行けば校長という地位に就けそうな気がしてきた。これからはヘマをしないで、しっかり職務を全うすることだと自分に言い聞かせた。学校、とくに二学年において絶対に不祥事は許されない。何かが起きれば管理責任を問われてしまう立場だ。イジメや暴力に対しては常に目を光らせた。
 主任手当てとして毎月の給与に五千円がプラスされたことは嬉しい。学生時代からの借金があって生活は苦しかった。中古で買ったレガシィのローンだって残っている。今にしてスズキかダイハツの軽自動車にすべきだったと後悔していた。自動車税は高いし、燃費はリッターで10キロに届かない。それにハイオク仕様だった。遊び仲間が大学卒業と同時にフォルクスワーゲンのゴルフGTIを買って、それに対抗意識を燃やしたのが拙かった。車自体は運転していて楽しいのだが、今の自分には維持していくのが大変だ。
 家賃を削るしかなかった。三軒目に訪れた不動産屋が探し出してくれたのが築三十五年を過ぎた木造アパートだ。ここでレガシィのローンが終わるまでは我慢するしかないと諦めた。
 もちろん外観はそれなりで古い。住んでみても多くの場所で不具合が見つかった。歩くだけでミシミシと建物自体が揺れる感じだ。もし大きな地震がきたらどうなるのかと不安だった。ただし入居者が少ない。両隣は空室で静かだった。
 意外なことに家賃は銀行振り込みではなくて、月末に一階の最も日当たりの悪い部屋に住む大家が自ら取りに来た。今時そんなの有りかよってな感じだ。五十代の母親と年頃の娘の二人暮らしで家賃収入だけで生活しているらしい。
 二度目のときに娘が家賃を取りに来た。洒落っ気のない普通の女だった。魅力を探すとしたら若いことだけだ。財布から出した金を受け取りながら、「学校の先生をしていらっしゃるんですか」と訊くので、「そうです」と答えた。すると娘の顔が、目の前に神が現れたかのような畏敬の表情に変わった。教師をしていると言って、そこまで崇められたのは初めてだ。同時に、このアパートにはロクでもない奴しか住んでいなさそうだと思った。
 事実、ほかに住んでる連中は建築現場の作業員みたいな汚い格好で部屋から出て行くか、生活保護を受けて一日中ぶらぶらしている年寄りしか見なかった。オレが唯一まともな人間らしい。
 三度目も娘が家賃を取りに来た。今度は少し世間話をした。いい感触だったので来月分も娘が取りに来るなと思った。その通りで、試しに西山は娘を食事に誘ってみた。丁度、新聞の折り込みでファミレスの割引券を見つけていたし。
 娘は、びっくりした様子だった。急に黙りこくって恥ずかしそうに頷いてみせた。デートに誘われたのは初めてらしい。
 土曜日の夕方、レガシィの助手席に乗り込んできた女の格好には西山がたじろぐ。まるでこれから結婚式に行くみたいな姿だった。ウエストに大きなリボンをあしらったピンク色のパーティー・ドレスだ。それがまるっきり似合っていない。サイズも大き過ぎるような気がした。化粧は歌舞伎役者ように厚かった。西山自身は紺色のチノパンツにサン・サーフのアロハだ。これから畑沢にある中華のファミレスへ行こうとしていたのに気が滅入った。知り合いには会いたくない。会えば、あのとき一緒にいた女の人は誰ですかと訊かれるにきまっている。きっと心の中では、あんなセンスの悪い女とよく一緒に食事ができるもんだと笑っているくせに。仕方なく同じ割引券が使える市原の店まで足を伸ばすことにした。
 食事中の会話は悪くなかった。女が西山を崇拝していたからだ。何を言っても興味深く聞いてくれた。気分がいい。その日のうちにアパートで肉体関係を結んだ。予想した通りで、処女だった。
 翌日から女が夕飯を用意してくれるようになる。これには助かった。味は不味いが金が浮く。セックスも毎晩のようにした。どんどん女が積極的になっていく。もうオレなしでは生きていけないってな感じだ。
 やばい。
 西山は女と所帯を持つことなんて考えていない。これ以上は親密になってはいけないと危機感を持つ。が、距離を取ろうとしても肉体関係は続けたいので難しかった。
 本命の女が勤め先の君津南中学校にいる。美術教師をしている安藤紫だ。一目惚れだった。ルックス、香り、笑顔、優しい性格、すべてに心を奪われた。
 特に、桃みたいな丸い尻が素晴らしい。ウエストの細いくびれと長い脚が更に魅力的に見せている。去年の夏だった、落とした何かを拾おうとして上半身を屈めた時、西山は幸運にも彼女の真後ろにいたのだ。ワンレングスの艶のある髪、華奢な背中、白いブラウスにブラジャーのラインがうっすら、そして大きなヒップが目に飛び込む。西山明弘は安藤先生のセクシーな尻に、しゃぶりつきたい衝動に駆られた。なんとか理性で自分を抑えたが、絶対に二度目は無理だと思った。
 なんてケツだ! こんなムチムチしたケツは見たことがない。今にもスカートの布がはち切れそうじゃないか。
 後ろから彼女を押し倒し、紺色のスカートの裾を捲くって頭を中に潜り込ませる。パンティの上から安藤先生の尻に顔を押し付けたかった。あのセクシーな尻に埋もれてみたい。
 しかし公立中学校の職員室で、いきなり女教師の尻に抱きつくことは日本国憲法が許してなかった。蚊がとまっていました、そんな嘘もこの場合は通用しないだろう。残念。欲望のままに行動すれば懲戒免職に直結するのだ。法律を守りながら生きていくってことは本当に難しい。  
 ああ、ヤりたい。ヤりたい。ヤりたい。安藤紫先生とヤりまくりたい。その日からは、ずっと頭の中で魅力的な美術教師の裸の後ろ姿を想像し続けた。授業中であろうが、食事中であろうが欲望の火が消えることはない。もしかしたら彼女は素っ裸よりも、衣服を着ていた方が逆に色っぽいかもしれないと思ったりもした。
 職員室にいれば、自然に目が安藤先生へと向いてしまう。仕事に集中できなかった。小テストの採点をしながらも頭の中では、安藤先生を四つん這いにさせて、後ろから大きな尻を両手で抱えて、オレの強力なミサイルを突っ込んでいるところを想像した。
 なんとかして親密な関係になりたい。何度も食事に誘った。しかし未だにいい返事をくれない。オレが嫌いなのか? いや、それはないだろう。なぜなら、ときどき親しげに話し掛けてきたりするからだ。オレが言った冗談にも笑って応えてくれるし。
 もしかしてオレは彼女の好みのタイプじゃないのか? 恋愛の対象にならないとか? だとすると問題の解決は難しい。
 優しく接して彼女の気持ちが変わるのを待つしかない。これは時間が掛かるので気が滅入る。手っ取り早いのは、やっぱり、オレにヤらせてみろよ、だ。すぐにタイプの男になれるだろう。これまでがそうだった。どんな女もオレに背後からミサイルを打ち込まれたら我を失う。持っていた自尊心は粉々に崩れて快楽の奴隷に成り下がる。ヒーヒー、ハアハアと喘ぎ声を漏らして、その目は虚ろ。タイミングを見計らって、オレがミサイルの核弾頭を破裂させてやると、女は身体を弓なりにして歓喜に悶えた。
 しばらく余韻に浸って、声が出せるようになって最初の一言は決まって、「もう一度して」だ。もはやオレの虜だった。
 安藤先生にも同じことが起きるのは間違いない。オレのミサイルを味わった途端に後悔の念に襲われるのだ。ああ、もっと早く食事に付き合うべきだった、と。
 あの手この手で西山明弘が、美術教師からデートの約束を引き出そうと画策していた矢先だった。君津南中学校は何人かの新任教師を迎い入れて、そこで計画が大きく狂うことになる。
 加納久美子、英語教師として赴任してきた女が西山の集中力を乱す。一目見た瞬間に気持ちが舞い上がった。
 憧れていた安藤先生とは全く違うタイプの女だった。痩せてスレンダーな肢体は、何か運動で鍛えられたアスリートという印象が強い。オッパイやヒップが特に大きいわけではない。安藤先生みたいに女らしい身体じゃない。それでも、どこか凄くセクシー。目つきとか仕草とか、男を引き付ける魅力を待ち合わせていた。
 知的な顔立ちは意思の強さを醸し出す。この女を口説くのは大変だと思った。それが故に西山は自分のミサイルを突っ込みたい強い衝動に駆られてならない。難攻不落な女ほどミサイル攻撃をしてみたかった。
 職場に二人のターゲットだ。これは拙い。高校の時にクラスに付き合っていた女がいたにも関わらず、他の女に手を出したことがあった。上手く行っていたのは一ヶ月だけだ。すぐに、どっちの女に何を話したか、どっちの女に何を約束したか、頭の中で混乱してしまう。最後は両方の女に二股がバレて破局した。
 安藤紫と加納久美子、どっちかを選ぶべきなのか。食事に誘っても未だにいい返事をくれない安藤先生を諦めようか……。いいや、それはできない。あの魅力的な尻を忘れられるもんか。ミサイルを撃ち込んでもいないのに。オレが諦めれば誰か他の男がミサイルを撃ち込むことになるのだ。そんなこと絶対に許せるもんか。俺が目をつけた尻だ。誰にも渡したくなかった。
 じゃあ、加納久美子を忘れるべきか。ああ、それも難しい。あの女は安藤先生みたいな尻を持っているわけじゃない。だけど、あの痩せた女には何か新鮮な魅力があった。若々しく、活力に溢れていて、躍動感に満ちていた。
 乗っている車はエアバックやABSも付いていない、十年以上も前のフォルクスワーゲンでマニュアル仕様だったが、それをサングラスを掛けて運転するする姿が実にスポーティでカッコいい。絵になっている。乗っただけで古い色褪せた乗用車をスタイリッシュにしてしまう女なんて、オレは今までに知らない。
 西山明弘は悩み続けた。超いい女が二人も自分の職場にいる。この幸運が信じられない。もしかしてこれは、どんなにブスでもしっかり女の相手をしてきたオレに対する神様からのご褒美か? それとも神様がオレに与えた試練なんだろうか。ここで、どう対処するかでオレの今後が決まったりして。
 可能性は低いかもしれないが、上手く立ち回って安藤先生と加納先生の二人をモノにするという期待は捨てていない。まるっきり有り得ない話じゃない。「あたし、二股でも構わないわ。これからも抱いてくれるなら」なんていう言葉を両方の口から言わせたら、これは最高だ。大成功。きっと神様も喜んでくれるに違いない。オレは人生の勝利者と言っていい。
 その勢いに乗って一気に教頭に、そして校長へと上り詰める。その後は教育委員会に迎えられて、もはや地元の名士と言っていい存在になるだろう。
 しかし問題は金だった。それなりの女を口説くには、それなりに軍資金が必要なのは経験から知っている。今のオレには、それが全くない。超いい女が二人もいるのに総攻撃を仕掛けられないもどかしさ。ここは手堅く、どっちか一人をモノにするというスタンスで行くべきなのか。
 上手い具合に加納先生には、自分が頼りになる男だと証明するチャンスが巡ってきていた。
 放課後、職員室で加納先生が生徒の佐野隼人と話しをしている時に掛かってきた電話だ。相手は板垣順平の母親だった。加納先生の顔から何か問題が起きたらしいと悟ったオレは、すぐに受話器を置いた彼女に話し掛けた。「どうしました」
 「……」
「何があったんです?」話すべきか躊躇っている加納先生にオレは強く促した。
「生徒のことでした」
「聞かせて下さい」
「うちのクラスの手塚奈々なんですが……」
「彼女が?」脚が長くて魅力的な女生徒だ。もしかして性犯罪に巻き込まれたか。
「板垣くんのお母さんが言うには、彼女、お好み焼き屋さんでアルバイトをしているみたいなんです」
「本当ですか?」何だ、そんな事か。
「いえ。まだ本人から話を聞いていないので、ハッキリしたことは分かりません」
「しかし知らせてくれたのは板垣順平の母親でしょう?」
「そうでした」
「だったら間違いはない。父親は中古自動車の販売を手広くしていて、地元の商工会では副会長を務めたこともあるらしいです。君津の商店街については知らないことは無いはずです」
「明日、手塚奈々に聞いてみます」
「加納先生」
「はい」
「お好み焼き屋のアルバイトなんか今だけですよ。すぐに稼ぎのいいスナックやバーで働くようになるでしょう。行き着く先は風俗店です。早いうちに辞めさせた方がいい」
「そうですね」
「ここは僕に任せてくれませんか」
「西山先生が手塚奈々と話をするということですか?」
「そうです。ただ叱るだけでは逆に反感を募らせてしまう。上手く彼女を説得してアルバイトを辞めさせてみせます。まだ中学生なんだから仕事なんかよりも学業に精を出すべきでしょう」
「それは、……そうですけど」
「加納先生、ここは学年主任の自分に任せて下さい」
 二年B組の担任である加納先生は当然だが、まず自身で対処したい様子だった。そこで自分は学年主任だということを強調した。
「わかりました。結果は教えて下さい」
「もちろんです」
 西山明弘には考えがあった。手塚奈々を言い聞かせてアルバイトを辞めさせれば、加納先生に自分は頼りになる男だという印象を与えられることだ。オレに対する見方が変わるはずだ。
 それともう一つ。あの手塚奈々という女生徒と話がしてみたかった。
 長い魅力的な脚をしていて、成長と共に最近は非常に目立つ存在になった。急に背が高くなった為にスカートの丈が短くなってしまう。見たくなくても視線は、その長い脚に惹きつけられた。
 スタイルは抜群だ。今すでにイイ女と言えた。これが数年後、女らしく色気づいて、化粧を覚えて、髪を肩ぐらいまで伸ばしたら、もう目が飛び出るほどセクシーな女になるんじゃないかと期待できた。そう考えると自分と歳が離れ過ぎていることが、とても残念でならない。
 だけど将来に何が起きるかは誰にも分からない。年月が経てば二人の歳の差は、どんどん縮まっていく。この機会に言葉を交わして少しでも親しくなっておくことはいいことだと思った。
 お好み屋のアルバイトなんて大したことない。そのぐらいの校則違反は誰でもやることだ。西山自身も中学時代から新聞の配達、御歳暮や御中元の配達で小遣いを稼いできた。
 叱ったりはしない。その長く美しい脚で目の保養をさせてもらっている恩義がある。働いているところを、口うるさい板垣の母親なんかに見つかったのが拙かったんだ。運が悪かったと思ってバイトはしばらく止めろ、と説得するつもりだ。ほとぼりが冷めたら、また始めたらいい。オレは味方なんだ、という印象を手塚奈々に残したい。西山先生は物分かりがいい思ってもらいたい。
 歳の差なんか関係ない。魅力的な女生徒と親しくなることは、キツくて単調な教員生活を少しでもバラ色に変えてくれる。西山明弘は手塚奈々を呼び出して話をすることが今から楽しみだった。
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