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文字数 21,105文字

   89
 
 君津南中学校の三年A組の生徒全員が、体育の授業で校庭に集まっていた。男子も女子もサッカーの予定だったが、担当する森山先生が職員室からなかなか出てこない。生徒たちは暇を持て余し、お喋りをしたり、ふざけ合ったりしていた。こりゃ、いい。休み時間の延長だ、そんな気分だった。
 しばらくして校舎の方から体育の教師が、二人の灰色のスーツを着た男を連れて歩いて来るのを認めると、生徒たちの喋り声は次第に消えた。明らかに場違いな感じのする男二人だ。いつも朗らかな森山先生の顔に浮かぶ緊張した表情。生徒たちは異様な雰囲気を感じ取った。
 側まで来ると体育教師は立ち止まって、一人の男子生徒を指差した。二人の男が、その生徒に近づく。体操着姿ではなくて学生服のままの秋山聡史だった。体調不良を訴えて見学者リストに入っていた。回りにいた生徒が自分は関係ないという感じで一斉に身を引くと、そこに黒いスーツの男二人と秋山聡史だけの空間が出来上がった。何が始まるのか生徒たちは固唾を呑んで見守る。いい事じゃないことは間違いなさそうだった。何か大それた悪いことであって欲しいという期待感。その目撃者になれるかもしれないという幸運。他のクラスにいる友達に自慢気に話せるという優越感。全員が一言も発しないでショーが始まるのを待った。
 「秋山聡史くんだね」
「……」声を掛けられた生徒は訝しげに頷く。
「警察の者だけど――」
「い、いやだっ」
 背広の内ポケットから黒い手帳を出して、男が口にした警察という言葉が耳に届くと生徒たちに衝撃が走った。一瞬の静寂。「え、何だって?」聞こえなかった生徒が他の生徒に問う声が上がる。
 「警察だってさ」
「え、マジで?」
「うん、そう聞こえた」
「警察だって」
「警察だってよ」
「警察らしいぜ」あちこちで同じ言葉が繰り返される。当事者の秋山聡史にしては、相手に最後まで言わせない。後退りして拒否の言葉を張り上げた。
「ちょっと、話を聞かせ――」警察官が続ける。
「いやだっ、いやだっ」
「落ち着こう、秋山く――」
「火、火はつけたけど……、く、黒川くんに言われて﹃祈りの会﹄には出ました。そこで、ちゃんと祈りました。だ、だから……、警察には捕まりません。警察には行かない、絶対に。いやだーっ」そう言うなり逃げ出した。
 慌てて追いかける警察官二人。「待ちなさい」
 秋山聡史は大声で怒鳴りながら校舎の中へと消えた。「いやだーっ」体調不良のはずなのに足は速く、小柄ですばしっこい。姿を隠してしまう。自殺する可能性も否定できない。すぐに身柄を確保する必要があった。教職員も総出で逮捕に協力するしかない。警察官は署に応援を求めた。突然すべての授業が中止。全校生徒は教室で待機、各自で自習することに。トイレに行くのも制限された。何人もの警察官が廊下を駆けて行く。一体何が起きているのか。騒々しくて教科書なんか、とても手につかない。外に首を出して校庭に集まっている三年A組の連中から何かを聞き出そうとする生徒。窓を閉めなさいと手振りで指示を出す体育教師を完全に無視。こういう状況では情報を持っている者が人気者になれる。
 「誰かが警察に逮捕されるらしいぜ」三年A組に仲のいい友達がいたB組の男子生徒が、経緯を聞いて教室で待機する生徒たちに告げた。
「え、何で?」クラスでリーダー的存在の生徒が訊く。
「たぶん万引きじゃねえの」
「万引きした程度で何人もの警察官が学校に押し寄せるかな」
「そうだな。じゃあ、テロか」
「生徒の中にアルカイダの戦闘員がいたってことかよ、まさか」
「きっとイスラム原理主義者が三年A組の中に潜んでいたんだぜ」
「あのクラスにアラビア系の顔つきっていたか? 待てよ、北朝鮮の工作員ていう可能性は考えられなくないか」
「有り得るな。だけどさ、こんなところで破壊活動って何かしょぼくねえか? たかが田舎の中学校だぜ」
「そこが狙い目なのさ。盲点を突いているっていうか」
「なるほど」
「ところで逃げてるのは誰なんだ?」他の生徒が訊いてくる。
「山岸じゃないかな。あのグループの誰かだぜ、きっと」
「違う。奴らは校庭にいるぜ。よく見ろよ」
「あ、本当だ。じゃあ、分からねえな。誰だろう、テロを計画してた奴なんて」
「ひょっとして高木教頭だったりして」
「え、あのハゲが? がっはは。笑えるぜ。だから好きだよ、お前って」
 君津南中学校は大混乱になった。
 秋山聡史が一人で家に戻ることも考えられたので、自宅の前には一台のパトカーが派遣された。
 父親は夜勤明けの休日で朝から酒を飲んでいた。ここ数日間はクレーンの重心が取れていないまま荷を吊ったとか、フォークリフトの爪が狭いまま長尺物の荷を運んだとか、口うるさいリーダーから注意されることが多くて気分は最悪だった。今朝は今朝で女房がスーパー富分のパートを休んでパチンコの新装開店に行った結果として、今月分の家賃が払えそうにないことを知って苛立ちは更に募った。これ以上はサラ金から借りられそうもない。浴びるように酒を飲んで現実から逃避することしか思いつかなかった。そこへ二人の警察官が現れて、息子が中学校で何か大変なことをしでかしたと伝えられると、とうとう堪忍袋の緒は切れた。おもむろに皮のベルトを手に取ると、横にいた女房に向けて勢いよく振り下ろす。
 「いいか。てめえの教育の仕方が間違っているから、こんなことになるんだ」
「い、痛いっ」妻は腰を落とし、肩を手で押さえた。
「あっ、ご主人。止めて下さい。暴力は――」慌てる警察官。
「畜生っ、やりやがったな。このヘボ亭主」妻は立ち上がった。
 父親の暴力を止めようとした警察官だったが、反撃に出た妻が投げた灰皿を側頭部に受けてしまう。「あっ」耳が裂傷を負って鮮血が噴出す。痛みに屈みこむと、そこに皮のベルトが飛んでくる。もはや泥酔いした父親は相手の判別がつかないらしい。目の前にいる者すべてが敵だった。真っ赤な返り血に興奮して我を忘れる。無我夢中で皮のベルトを叩きつけた。「いいか、よく聞け。指紋認証の時間が一分、二分早くてガタガタ言うんじゃねえ。そもそも終業ベルとタイム・レコーダーの時間が一致してないからダメなんだろうが。お前ら、みんなしてオレを悪者にしようって気なんだ」意味不明な言葉を口にしながら皮のベルトを振り回し続けた。「あれ、この虫は何だ? おい、見ろ。部屋が虫だらけじゃねえか。畜生っ。お前が掃除しねえから、こんな――」
 もう一人の警察官がパトカーの無線を使って君津署に応援を求めた。家の前には近所の人たちが集まって、中から聞こえてくる騒ぎの音に耳をそばだてていた。窓ガラスが割れる音、家具が壊れる音、罵倒と悲鳴。「ご主人、落ち着いて下さい。どこにも虫なんかいないでしょう。これ以上騒ぐと逮捕しますよ」
 「うるせいっ。今月の家賃をどうすりゃいいんだ、バカ野郎」
「奥さん、お願いですから何か服を着て下さい。今は、そんな事をする場合じゃ――う、痛てっ」
 耳に飛び込んできた警察官の最後の言葉に集まった人たちは思わず、お互いの顔を見てしまう。ねえ、今の聞いた? 一体、何が起きているのかしら。ああ、見てみたい。想像するだけなんてもどかしい。
 ここも君津南中学校に負けないぐらい大混乱になりつつあった。
 三時間後、逃げ回るのに精根尽きた秋山聡史が見つかったのは二階の女子トイレの中だ。よっほど暑かったのか、学生服を床に脱ぎ捨て、チューリップがプリントされた女性の下着姿だった。 

   90

 いつ、映画『メリーに首ったけ』を観に行くんだろうか?
 その後は奥村真由美から何の連絡もなかった。早くしないと上映が終わっちまうんじゃないのか。そんな不安が鶴岡政勝の心に芽生えていた。
 誘われた直後は鮎川の交通事故あって、罪悪感から積極的な行動が取れなかった。それと、のぼせ上がった姿を曝け出して自分が安っぽい男と見られるのが嫌だった。
 鶴岡政勝は頻繁に女の子から電話がある男子生徒という印象を、奥村真由美には持ってもらいたい。舞い上がった気持ちを知られたくないので、こっちから電話をすることは避けた。彼女から連絡が来るのを辛抱強く待つ作戦だ。
 鮎川の交通事故で富津中学との試合は出場できたが、内容は散々だった。0-5のスコアで大敗。一方的だった。ボールを支配されて、シュートを打たれ放題だ。鶴岡政勝だけじゃない、チームの全員が精彩を欠く。不思議だったのは、惨めな試合が終わっても誰も悔しがっていなかった。帰りのワンボックス・カーの中で口を利く奴はいない。ボーッと景色を見ているか、携帯のゲームに集中しているかだった。付き添いの森山先生だけが、「お前ら、どうしちまったんだ」と一人で息巻いていた。
 救いは、奥村真由美がサッカー部のマネージャーを辞めていたことだ。無様なプレーを見られなくて済んだ。オレに対する好意に傷がつくことはなかった。翌日の朝に彼女から試合の結果を訊かれた時は、「ダメだった。やっぱり佐野隼人がいないと、チームの連係が上手く行かない。板垣じゃ代わりは務まらないよ」と、敗戦の責任は板垣順平にあるように仄めかした。
 もうサッカーなんて、どうでもいい感じになっていた。写真の撮影の方が楽しい。綺麗に撮ってあげて、女の子から喜ばれるのが嬉しかった。カメラを構えて美人に見える絶妙な角度を探す。そして光を調節して影を巧みに使う。本人よりも美しく写真に収めるのは高度なテクニックが必要だ。難しいだけに遣り甲斐があった。
 奥村真由美ガールフレンドになってくれたら、絶対にモデルになってもらう。あのスタイルの良さだ。セクシーな水着の写真を撮りたい。早く一緒に映画を観に行きたかった。
 日時の打診が来たら、ちょっと間を置いて、手帳なんかを調べる様子を装いながら、「あー、良かった。丁度その日は空いてる」と答えるつもりだった。
 しかし彼女から二度目の電話はなかなか来なかった。とうとう痺れを切らした。鶴岡政勝は自分から電話をすることにした。
 「今さっき思い出したんだけど、一緒に映画を観に行く約束はどうなった?」こう切り出そう。
 携帯電話を開くと、不思議なことに彼女から着信履歴が消えていた。間違って消してしまったか? まさか、あり得ないぜ。不思議に思ったが、仕方なくサッカー部の連絡表を見ながら彼女の電話番号を押した。緊張で体が震えそう。
 「もしもし」奥村真由美の美しい声。
「鶴岡だけど」もう喉がカラカラ。だけど悟られてはならない。
「え、鶴岡くん? あら、どうしたの?」
「あのさ……」ちぇっ。奥村の奴、すっかりデートのことを忘れているみたいな感じだ。すっげえ、がっかり。
 (あっ、ゴメンなさい。いろいろと忙しくて、いつ映画に行こうか決められなかったの)
 こんな言葉が返ってくるのを期待していたのに。失望を声に表さないようにして鶴岡政勝は考えていたセリフを口にした。
「え、……どういうこと?」困惑気味の奥村真由美だった。
「どういうことって? 一緒に映画を観に行く約束をしたじゃないか?」なんか話が噛み合っていない。すっげえ、焦る。
「あたしが?」
「そうだよ。電話で『メリーに首ったけ』を観に行こうって誘ってくれたじゃないか」どうなってんだよ。一から説明しなきゃならないなんて。悲しくなってくるぜ。
「それって、あたしじゃないよ。だって『メリーに首ったけ』は、先週だけど鮎川くんと行ったもん。退院したら一緒に映画でも観ようって約束したのよ。すごく面白かった」
「……」もはや死刑宣告に等しい言葉。もう絶望的だ。最悪のシナリオ。「なあ、その鮎川が交通事故に遭った日だよ、電話してくれたじゃないか?」ここまで詳しく説明すれば思い出してくれるか。
「知らない。あたし、電話なんかしていないから」
「マジかよ」そこまでシラを切る奥村真由美という女が信じられなかった。そんな奴じゃないと思っていた。「でもな、黒川だって知っているんだぜ」仕方なく証人の名前を出した。こっちは第三者が証言くれるんだから。もし法廷に立てば損害賠償だって請求できるはずだ。オレの精神的苦痛を考えたら十万円でも足りないぜ。畜生。せめて、いきなり電話した正当性だけは認めさせたい。
「え、誰? 黒川って」
「おい、おい。黒川拓磨は……、あのさ……」
「うん。誰よ、その人」
「……ちょっと、待って」……お、思い出せない。
「どうしたの?」
「いや、……」どうなってんだ?
「え?」
「わからない」
「どうしちゃったのよ、鶴岡くん?」
「す、すまない……」
「なによ。もう切るよ、忙しいから」
「う、うん」
 一方的に通話を切られても、鶴岡政勝は携帯電話を持ったまま動けなかった。奥村真由美とは恋人同士にはなれそうにない。それが明らかになった。しかし衝撃を受けているのは、黒川拓磨という生徒を名前のほかは全く何も思い出せないことだった。顔や体型も分からない。そいつがいつから二年B組の生徒になったか、そして何で今は存在しないのか、それらの理由がハッキリしない。黒川拓磨って一体誰なんだ? 鶴岡政勝の方が訊きたいぐらいだった。

   91  1999年 10月

 「しくじったのは、あんただけだよ。どうするのさ。アバズレの五十嵐香月だって、ちゃんと双子を産んだのにさ」
「……」
「やっぱり、あんは呪われた女らしいね。妊娠したことが間違いだったんだ」
 東条朱里は産婦人科病院に見舞いに来て、産まれた双子の一人が死産だったことを初めて知った。失望と怒りに駆られて、同僚だった美術教師に辛辣な言葉を浴びせ続けた。「子供が一人じゃ意味ないでしょうが。ろくでもない普通の子にしか育たないわ、きっと」
「ごめんなさい」
「謝って済む問題じゃないよ」
「……」
「せっかく、こうして――」
「なんとかする」相手は言葉を搾り出すように言った。
「え?」
「なんとかするわ」
「なんとかするって、……どうすんの」東条朱里は疑いの目を隠さない。
「考えたの」
「あんたが?」
「ええ」
「……ふうむ」どれほど相手の決心が強いか推し量ろうとして、しばらく東条朱里は何も言わなかった。「きっと大変なことになるでしょうね」
「わかっている」
「覚悟は出来ているの?」
「……」元同僚は無言で頷く。
「あんたに出来るの? 誰も助けてくれないよ」
「大丈夫」
「じゃあ、任せていいの? でも失敗は絶対に許されないよ」
「ええ」
「そう。それなら安心したわ」不安がなくなると東条朱里は態度を一変させた。「よかった。あんたなら、きっと上手くやれる。あたしね、信じているから」
「……」
「ねえ、聞いてくれる」本来の、お喋り好きな女に戻っていく。「あたし、本郷中学に転勤することが出来たんだけどさ。それが傑作なのよ。教頭の高木に頼みにいったんだけど、それがバカみたいに、『あのなあ、転勤は地区の教育委員会が決めることなんだ。キミが行きたいからと言っても自由にはならん。それに第一、そんな権限は私にはないから』、なんて真面目くさって言うのよ。だから、あたし言い返してやったんだ。『もちろん、そんな事は知っています。でも、どうしても本郷中学へ転勤しないと困るんです。何が何でも教頭先生には協力してもらいますから』って。あたしもこの時とばかりに、思いっきり強気に出てやったんだ。『この件については、あたしの指示に従ってもらいます』って傲慢な態度で付け加えたの。そしたら、さすがに怒り出したわ。『何だって? おい、言葉に気をつけないか。立場を考えなさい』だって。あたしの思う壺よ。そこでポケットから、あの虫の死骸を幾つか出して机の上にバラ撒いてやったの。高木のバカったら椅子から飛び上がって後退りしたわ。あははっ。笑えるでしょう? そのあとは子供みたいに身体を震わせて泣いてんのよ。ざまあみろって」
「……」
「あんた、ねえ、人の話を聞いてんの?」相手が期待した反応を見せないので、東条朱里は居心地の悪さを感じ始めた。
「……」
「いいわ。そろそろ帰るから」
 東条朱里は椅子から立ち上がった。「そうだ。あんたの決心が揺るがないように、これを置いていくわ」そう言うと、バッグの中から白いチューリップを取り出し、飲み水が入ったコップに差した。「きっと二度と会うことはないかも、あたしたち。うふっ」

   92

 万引きから始まって窃盗、詐欺、恐喝、傷害と多くの犯罪を犯してきた十七歳の少女が女子少年院に送られてきた。一ヶ月の考査期間を終えて単独室から集団室へと移り、一週間が過ぎた。新入りだったが先輩たちに頭を下げることはしない。挨拶も教官が見ていなければしなかった。いずれ近いうちに前から集団生活をしていた十一人を支配する気でいた。当然だろう。犯してきた犯罪の数では誰にも負けていない。暴力団との繋がりを仄めかす為に左肩には刺青が彫ってあった。無口で態度は大きく、周囲を恐れさせようとしていた。ここを仕切るのは自分だからな、と宣言するのも時間の問題だった。
 三度目の点呼が終わり、部屋の鍵が外から閉められて数十分は経っていた。これから長い夜の始まりだ。
 「起きな。お前に話があるんだ」と枕元で十七歳の少女は呼ばれた。明かりは消されて部屋は薄暗い。馴れ馴れしい言葉遣いにムカッときて、勢いよく布団から上半身を起こした。「おい。てめえ、誰に向って口を利いて――」
 少女は最後まで言葉を終わらせることが出来なかった。いきなりタオルで後ろから顔を巻かれてしまったからだ。咄嗟に逃げようとしたが、多くの手に抑えられて身動きは取れなかった。「うむっ、うう」息が出来ない。苦しい。
 「騒ぐんじゃない。大人しくしていないと殺すよ」
 その言葉に十七歳の少女は抵抗を止めた。「あっ」罠だった。相手はタオルで巻かれた頭の上にビニールを被せてきた。完全に空気が遮断される。頭の中が真っ暗。どんどん意識が遠くなっていく。下半身が漏れた尿で生暖かく感じたのが最後だった。
 「うっ」頬を引っ叩かれて少女は意識を取り戻す。先輩たち十一人に取り囲まれていた。その場に正座するように言われた。後ろにいる何人かは顎まで下げられたビニールの端を手にしていて、いつでも少女を窒息させる準備ができているのが分かった。恐怖が身体を包む。あんなに苦しい思いは二度としたくない。
 「お前、どうしてこんな仕打ちをされるのか分かっているだろ?」
 少女は素直に頷く。「すいません」謝罪の言葉が口から出た。
「あたしたちを甘く見るんじゃないよ」
「……」部屋の連中は、何も出来なくて大人しくしていたわけじゃなかったらしい。自分に制裁を加える機会を窺っていたのだ。
「ここには、ここのルールってもんがあるんだ。それを今から教えてやろうじゃないか」
「……」
「起床から消灯時間までは施設のルールに従う。一番偉いのが所長で二番目は教官、その次が部屋のリーダーだ。分かるな?」
「はい」
「消灯時間からは部屋のルールに変る。つまり、あたしが一番偉くなるのさ。それを忘れるんじゃないよ」
 十七歳の少女は目の前に立つ、あどけない顔をした大柄な女を見つめた。
 意外だった。体こそ大きいが年下のはずだ。数日前に教官から、入所して三ヶ月も経たない新人だと紹介してくれた女じゃなかったか。へんてこな眼鏡を掛けているので気持ち悪い奴だと完全に無視していたのだ。それがどうして一番偉く……。名前は……えーと、確か……小池? そうだ、小池和美とか言った。十四歳だ。思い出した途端だ、その年下の女が飛び掛ってきた。正座の姿勢だったので避けられずに攻撃をまともに食らう。「ぐうっ」彼女の太い左腕が顎に当たると、十七歳の少女は再び気を失った。

 小池和美はジャストでの万引きで警察に補導された。友達の古賀千秋が捕まりそうになって、後ろから女の警備員を階段の下へ突き落とす。仲間が上手く逃げてくれるのを見届けようとして、自分が逃走するチャンスを失った結果だ。
 男の警備員に押さえられて店の事務所に連れて行かれた。名前や学校を聞かれたが何も言わない。警察署での取調べでも一貫して黙秘を続けた。証拠はない。盗った物は何も持っていない。黙っていれば家に帰れると考えたからだ。
 口を閉ざしながら和美は勝利感に酔っていた。古賀千秋を助けられたことが本当に嬉しかった。
 突き飛ばした女の警備員が階段の踊り場に頭を強く打った音に、千秋は気づいて振り返った。一瞬で何が起きたのか理解すると、和美に向って笑顔で頷く。同時に右手の親指を立てて見せた。(ありがとう)という合図だ。
 やった。
 古賀千秋に恩を売ることが出来た。あたしの存在価値を認めてくれたはずだ。これからは対等な立場で接してくれるかもしれない、そう小池和美は期待した。
 勝利の喜びは、取調べで古賀千秋も捕まったことを知らされると一変に消えた。それでも黙秘は続く。義務感からだ。何か喋れば千秋に不利に働く、と思った。
 女の警備員は重傷を負ったらしい。意識が朦朧としたまま救急車で病院へ運ばれたと聞かされた。悪いことをしたという思いは和美の頭に浮かばなかった。友達を捕まえようとした警備員の方が悪いんだ。余計なことをしやがって。
 警察から鑑別所へ送られて、長期少年院送致が決まる。えっ、マジで? ああ、早く家に帰りたい。一体いつまで掛かるのかしら、と思っていたら最悪の結果だ。黙秘を続けたことが反抗的と見なされる。決定的だったのは突き落とした警備員が半身不随の障害者になったことだったらしい。
 僅か数日だけど誕生日が過ぎていたことも悪い結果に繋がった。十四歳未満だったら、児童自立支援施設とかいう、もっと楽な場所へ行けたのだ。畜生、もう何もかもが最悪。
 この世の終わりだ、という気持ちで女子少年院に送られたが、自分の担任になった若い教官は、それまでとは違うタイプだった。黙っていても頭ごなしに怒鳴ったりはしない。いきなり机を強く叩いて威嚇したりもしなかった。ジャストでの万引き事件についても無理に触れることはしない。あたしを犯人扱いしないところが嬉しかった。
 そりゃ、そうだ。自分は古賀千秋が店の商品を盗むのを見張りしたり、大きな身体を利用して死角を作ってやったりしただけなんだし。半身不随になった警備員にしたって、ちょっと後ろから押しただけじゃないか。階段から転げ落ちて首の骨を折ったからといって、自分に責任を追及されても困る。上手に落ちなかった警備員の過失なんだ。ざまあみろ。あたしの人生をぶち壊しやがって。
 女子少年院の若い教官は綺麗で優しかった。頭の回転も早くて、動作も優雅だ。君津南中学の加納久美子先生に似ているところがあった。一緒に過ごす時間が長くなるほど、その魅力に引き込まれていく。ああ、こんな女性になりたい、と思わせてくれた。
 閉ざしていた口が次第に開いていく。この人なら何を話してもいいかもしれない。味方になってくれると信じた。小池和美の大きな体に激震が走ったのは、万引き事件のことを話し出してすぐだ。それは、「どこの女子少年院に古賀千秋は入っているんですか」という問い掛けに対する答えだった。
 「彼女は君津南中学の三年生になって、今まで通りの生活を送っているわよ」
 若くて美しい教官の言葉に、和美は頭をハンマーで横殴りされたような衝撃を覚えた。「えっ、ど、ど、……どうひって」気が動転して舌を噛みそうになった。理解できない。そんな不公平な処分が何で下されたのか?
 教官は話してくれた。古賀千秋は捕まると警察署で、涙ながらに
万引きは初めてで、小池和美にそそのかされてやったと白状したらしい。
 そんなバカな。ウソだ。なんて女だろう。助けてやろうとしたのに。信じていたものが崩れていく思いに、全身から力が抜けた。ああ、悔しい。あたしは裏切られたんだ。
 黙秘を続けた自分が、知らない間に主犯にされてしまう。家庭裁判所の判断は、学校での成績の良し悪しも大きく影響したらしい。それを考えたら、あの女は学級委員長で自分は書記だ。不利は否めない。
 「それは違います。すべてウソです」と教官に訴えたが、返ってきた言葉は「もう遅いわ。今となっては家裁の判断は覆らない」だった。失望と後悔。再び小池和美は口と心を閉ざした。身体の中で古賀千秋に対する怒りがメラメラと燃え上がった。
 数日後には事実を確かめたくてクラスメイトだった、奥村真由美に電話を掛けた。特に仲が良かったわけではないが、彼女ぐらいしか思いつかない。やはり教官の言葉に違いはなかった。あたしを裏切った女は自由の身だった。美味い娑婆の空気を吸っている。
 「あいつ、生徒会長になったの?」最後に訊いた。入学した時から古賀千秋は、三年生になったら絶対やりたいと言っていた。二年生の三学期までは誰もが認める最有力候補だった。
「みそぎ選挙にするとか言って立候補したわ」
「やっぱり」万引きで捕まっても生徒会長に立候補するなんて、あの女らしい。あつかましさは称賛に値する。「それで?」
「落選したの。六人の中で最下位の得票だった」
「そりゃ、良かった」君津南中学にも、それだけの良識が存在するということだ。嬉しかった。
「かなりショックだったみたい。体育館で当選した子に殴りかかったのよ。教室に戻ってからも窓から飛び降りようとしたりして」
「へえ」
「みんなで止めたの。その後は学校に来なくなって、久しぶりに登校したら茶髪だった」
「やけになって、グレだしたんじゃないかしら」ざまあみやがれ。落胆した古賀千秋の様子を、この目で見たかった。「で、誰が生徒会長になったの?」どんな奴がなろうが、もう関心はなかったが、話の流れで訊く気になった。まさか受話器を落としそうになるほど驚かされるとは思わなかった。
 「手塚奈々」
「えっ。だ、誰?」聞き間違いに決まってる。そんな……。
「あの脚の長い奈々ちゃんよ。ほら、二年B組で一緒だった」
「うそっ」
「本当よ」
「し、……信じられない」
「男子の応援が凄かったの。学校にファン・クラブまで出来ちゃってさ。鶴岡くんが撮影した水着の写真集を――」
 もう最後まで聞く気になれなかった。バカらしい。将来はAV女優にしかなれそうにないバカ女が生徒会長だなんて。オナペット・ランキング一位の勢いが、そのまま選挙結果に反映されたということらしい。君津南中学の良識なんて、やっぱりそんな程度か。オナペットを選ぶ基準で生徒会長を選んじゃいけないのに。それが理解できない連中の集まりだった。さようならも言わずに小池和美は電話を切った。 
 長い女子少年院生活を続けるしか選択肢はなかった。もう死にたい。だけど死んだら古賀千秋に復讐するチャンスがなくなる。口うるさい教官に耐えながら、退屈な毎日を送り続ける気力を支えたのは自分を裏切った女に対する怒りだ。いつか絶対に仕返ししてやろう。
 体は大きく、無口で無愛想。集団室で前から生活している十人にしてみれば、態度がデかいクソ生意気な新人としか思えなかったようだ。
 「起きな。お前に話があるんだ」と夜中に枕元で呼ばれた時も、怒りで目は覚めていた。上半身を起こしたところで、後ろから顔をタオルで巻かれた。抵抗しなかった。多くの手で体を押さえられてしまう。息が出来なくて、だんだん苦しくなっていく。
 「騒ぐんじゃない。大人しくしていないと殺すよ」
 何だと、この野郎。ふざけやがって。あたしに命令する気かよ。その言葉に小池和美の怒りは一気に爆発した。何人かの手に体を押さえられたままだったが、後ろでタオルを握っていた女の横面に、上半身を捻ってエルボー・ドロップを放つ。「ぐうっ」命中。気を失って布団の上に倒れるのが見えた。驚いて連中が身を引く。
 これで自由だ。残りは九人、全員が和美にとって憎き古賀千秋に見えた。目の前に立つリーダー格の女に飛び掛った。先手必勝。相手の出方を待つなんてことはしない。身体が勝手に動く。そして無意識にも、スタン・ハンセンのラリアットを見舞っていた。女が後ろに仰け反って倒れ込む。そのまま身動き一つしない。まさに秒殺だった。目にした光景に残りの八人が凍りつく。
 父親が見ていたプロレスのビデオのお陰だ。知らずにプロレスの技が身についていた。小池和美は次々と女たちにラリアットを浴びせた。四番目のデブが反動で柱に頭をぶつけて血を流すと、興奮に油を注ぐ結果をもたらした。
 お前ら、全員を血祭りに上げてやる。こうなったら、もう皆殺しだ。一人も生かしておくもんか。
 小池和美は残りの連中にドロップ・キックを浴びせた。逃げようとした奴には後ろから。そいつは前のめりになって机の角に顔面から突っ込んだ。ざまあみろ。
 布団に倒れたままの女たちには、その場で飛び上がってニー・ドロップで止めを刺す。落下する勢いで和美の膝頭には100キロ近い重さが集中しているはずだった。骨が折れるような音と感触を味わった。意識を取り戻して起き上がった奴らには、また強烈なラリアットを食らわせた。
 ああ、楽しい。こんなに自分が強いとは気づかなかった。もう楽し過ぎて気が狂いそう。気分はスタン・ハンセン。あたしは最強。もっと、もっと、暴れ捲くってやろうじゃないか。
 無抵抗の連中に次々と襲い掛かる。やりたい放題。プロレス技を思い出しては、身体が覚えるまで何度も練習。今夜たった一晩でズブの素人から世界タイトルを狙えるぐらいの立派なプロレスラーになってやろう、という意気込みだ。様々な状況の中で反射的に手足が動いて、プロレス技が出てくるようにならなきゃダメだ。時間を忘れて無我夢中。窓の外が明るくなるまで続く。全員を叩きのめして一息つこうかと思ったところだった、部屋の隅で小柄な女が身を潜めているのに気づく。朝日のお陰だった。
 ブルブルと震えていた。獰猛なライオンでも見るような目で和美を警戒している。動物園に来て、何かの間違いか、飢えたライオンの檻に一緒に閉じ込められてしまった小学生みたいだ。
 あはっ。こりゃ、愉快。 
 和美の視線に気づくと、もうこれ以上は小さく出来ないというところまで身体を縮こます。首を激しく横に振って、こっちに来ないでと合図を送ってきた。無傷のままで、ひっそりと隠れていたらしい。ただし一部始終を見ていて小池和美の凶暴さは目に焼きついている。
 獲物だ。まだピンピンしてる。たっぷり遊べそう。
 女は恐怖で泣いていた。目で慈悲を訴えてる。無理に怖がらせたりはしない。ゆっくり小池和美は笑顔で近づく。「お願い、許して」その言葉に優しく頷いてみせた。と、急に身体を反転させて、勢いよくローリング・ソバットを女の左脇腹に炸裂させた。「ぎゃっ」
 痛みに身を屈めて倒れそうになる女を、パジャマの襟を掴んでリングの中央まで引っ張ってきた。抵抗しなかった。もう、されるがままだ。そいつの首根っこを掴むと、腰を支えながら身体全体を空中に垂直になるまで持ち上げた。効果を高めるために滞空時間を長くする。そして豪快にブレーン・バスターを見舞う。小柄な女は布団の上に頭から落ちて気を失ったようだった。それを無理に立ち上がらせる。うしろに回り、痩せた背中を抱えて、次はジャーマン・スープレックス・ホールドを決めた。ジョー樋口の代わりを務めてくれるような気の利いた奴がいないので、カウント3はなし。どこまでやるかは和美の気持ち次第だ。もう乗りに乗っていた。真っ赤なGOサインしか見えない。とことんやってやろうじゃないか。
 小柄な女は体重が軽いのでプロレス技の掛け放題だ。練習するにはうってつけ。倒れたまま動かなくなると、ジャンピング・エルボー・ドロップを何度も何度も何度も連打で浴びせてやった。咳をしながら口から真っ赤な血を吐き出しても容赦はしない。こいつが死のうが構うもんかい。あたしが一人前になることの方が大切なんだから。この時の小池和美は元NWA世界ヘビー級チャンピオン、テキサス・ブロンコこと、あのドリー・ファンク・ジュニアになりきっていた。
 その小柄な女は出所が間近で、和美に制裁を加えることには強く反対した一人だったと後になって聞かされる。これでもかと色々なプロレス技を掛けられて、二度と自宅には帰れない体になってしまう。
 ストレート・ヘアで細面だった顔は、陰毛が生えたジャガイモみたいになった。変わり果てた姿に、病院に駆けつけた八度目の離婚調停中の母親も、「うちの娘じゃありません。知らない子です」と言い張る始末だ。おぞましい異様な姿に、近づいて良く見て確かめようともしない。
 女は流動食しか受けつけず、呼吸は酸素ボンベの助けが必要だった。顎の骨が砕けて泣くことも満足に喋ることもできない。しばらくして病院から障害者施設へと移って行く。
 この乱闘で小池和美は自信と勇気を得た。やってみたかったプロレスの技をすべて試す。ジャイアント・スイング、四の字固め、コブラツイスト、パイル・ドライバー、アルゼンチン・バックブリーカー、ダブルアーム・スープレックス、ランニング・ネックブリーカー・ドロップ等だ。どの技が自分にしっくりくるか、少しでも意識のある女を無理やり起こして、プロレスレごっこを続けた。結果として十八番技と言えるのが、やはりラリアットとエルボー・ドロップだった。
 翌朝、女子少年院は大騒ぎとなった。小池和美を除いて部屋の全員が重傷を負っていたからだ。自力で起き上がれるのは一人も居ない。内出血で全身が紫色の斑点だらけ。骨折、内臓破裂、重度の打撲と酷い裂傷。ほとんどが人間としての原型を留めていない。首や手足は考えられない方向へ曲がっている。何台もの救急車が駆けつける事態となった。
 施設は県や家庭裁判所への報告義務があった。しかし真相が明らかにならない。多くが口を閉ざす。説得すると何人かは口を開いたが、「あたし達が仲間割れを起こして、夜中には大喧嘩になったんです。小池和美さんは関係ありません」という腑に落ちないものだった。
 若くて美しい教官が無傷の和美を個室に呼んで問い質すことになった。
 「夜中に何があったのか教えて」
「知りません。あたしは疲れて寝ていましたから」いつもと違って教官の口調はきつかった。和美は身構えて話すことにした。
「嘘だわ。みんながあれほどの大怪我をしたっていうのに眠っていたなんて」
「あたし、熟睡するとなかなか目が覚めないんです」
「……」教官は信じていない。和美のことを見つめながら核心を突いてきた。「あなた一人で皆に大怪我を負わせたの?」
 小池和美も真剣に見つめ返して、ゆっくり落ち着いて答えた。「いいえ、違います」そのとき、ラリアットで連中を叩きのめした感触を思い出して、僅かに笑みがこぼれた。
「……」それで十分だったらしい。教官は事実を理解したみたいだった。一瞬だが机から身を引く。その目に畏敬の念が宿ったのを和美は見逃さない。この子って凄い、そう読み取れた。
 嬉しかった。初めて人から認められた気分だ。教官みたいな素敵な女性になりたいという気持ちは消え失せた。あたしはあたしだ。これからは女スタン・ハンセンとして生きて行く。
 女子少年院は居心地のいい場所になった。歳は関係なく誰もが小池和美を恐れて、媚を売るようになった。ここでは女王だ。あたしが一番偉い。
 よく同じことを訊かれた。「和美さん、あの凄い技は何て言うんですか?」いつも答えは決まっている。「カズミ・ラリアットって言うのさ。あたしが考え出したんだよ」そして相手から賞賛の言葉を全身に浴びるのだ。
 この施設にずっと居てもいい。そんな気持ちにもなったが、やはり復讐という大きな仕事が頭から離れない。それなら早く娑婆に出ないと。
 じゃあ、どんな方法で実行するか。
 殺しはしない。古賀千秋は生かしておく。死んだら、それで御仕舞いだ。それじゃ面白くない。ただし苦痛を伴って、だ。
 娑婆に出たら、まず格闘技を本格的に習う。女子プロレスに入門しよう。あたしのラリアットに磨きを掛けたかった。
 きっとプロレスラーとして世界チャンピオンになれるだろう。もしかしたら女子プロレスに限らないで、男の団体でも十分にやっていけるかもしれない。あのスタン・ハンセンと互角に戦える自信があった。
 リング・ネームはどうする。小池和美じゃ、迫力がない。アントニオ猪木の由来はアントニオ・ロッカだ。じゃあ、プロレスの神様と称えられるカール・ゴッチにちなんでカール小池なんてどうだろう。
 ……いや、ダメだな。どこかのスナック菓子と間違えられそう。           
これは、じっくり考えるべきだ。下手なリング・ネームをつければ笑い者になる恐れがあった。時間をかけて慎重に選ばないといけない。
 goodなリング・ネームが決まれば実力はあるのだから、きっと人気者だ。雑誌の取材、インタビュー、テレビのコマーシャル、どんどん高収入のオファーがやってくる。セレブだ。テレビ朝日の﹃徹子の部屋﹄に呼ばれちゃったりして、超有名人の仲間入り。君津南中学校からも講演依頼が来て地元に凱旋。女子少年院へ送られた生徒が、その後の努力で大成功を掴む。あたしの話に誰もが拍手喝采。そうだ、その時はサングラスをして真っ赤なメルセデス・ベンツで行ってやろう。
 準備が整ったところで古賀千秋に連絡する。再会しても、女子少年院に入れられた恨みは一切口にしない。これまで通り下手に出てやるつもりだ。近況を聞きながら、いつどこで待ち伏せすればいいかを探る。夜に人気のない通りで後ろから襲う計画だ。警察に捕まりたくないし、千秋にも顔を見られたくなかった。付き合いは続けたい。
 まずラリアットで気を失わせよう。そしてカミソリを二枚刃にして、あの女の顔にCKのイニシャルを描いてやる。二枚刃にするのは病院で皮膚の縫い合わせを難しくさせる為だ。顔の傷は太く、ハッキリと残したい。みんなが目を背けるように不気味に仕上げる。誰もが古賀千秋と目を合わせて話をしなくなるのだ。
 CKは、あいつの名前とは別の意味がある。
 中学二年の夏休みだった。古賀千秋はカルバン・クラインのTシャツを着て待ち合わせ場所に現れた。「これって、あたしと同じイニシャルなんだ」と言う。その後も何度も「今,流行っているの」と自慢するので、こっちも相槌を打つつもりで「カッコいいね」と言葉を返す。すると透かさず、「じゃあ、売ってあげてもいい。あたしには少し大きめだから」と、無理やり四千円で買わされた。
 数日後にルピタで同じTシャツを着た山田道子と遭遇する。「しまむらで二千円で見つけた」と聞かされた時はショックだった。お前が、売った金で白と黒の二枚のTシャツを手に入れたと知ったのも間もなくだ。でも何も言えない。文句を言えば友達でなくなる恐れがあった。自分の居場所、自分の存在が脅かされるのだ。
 奢らされるのは毎度のこと。一緒にマクドナルドへ行けば支払いは、いつも自分だ。嫌われたくないから金を出す。でも有難うの言葉は聞かない。あいつがしてくれた事と言ったら、篠原麗子から貰ったサラミを食べきれないからと一つ分けてくれただけだ。それも賞味期限の切れたやつを。何かに何度も何度も擦られたみたいで、包装してあるビニールの色は褪せて商品名すら消えかかっていた。どうしてだろう。太くて固くて長いから食べ難いし、全然おいしくなかった。
 その積もり積もったツケを支払わせてやろうじゃないか。
 お前の顔にCKの文字を刻み込む。それでカルバン・クラインのTシャツを着て君津の街を歩いてもらいたい。顔にも胸にもCKの文字だ。これって究極のお洒落じゃないだろうか。
 もう満足な仕事には就けないのは明らか。そこで付き人として、あたしが雇ってやるんだ。散々こき使ってやるよ。『徹子の部屋』では、生活苦の同窓生を雇って世話していると美談を披露しよう。それで人気はウナギ登りだ。女スタン・ハンセンとして、小池和美の想像は果てしなく膨らんでいく。君津南中学では書記でしかなかった少女が、地位と名声そして富を得るのだ。サクセス・ストーリー。
 あ、そうだ。気が変わった。転校生に貰ったメガネは掛けることにしなきゃ。知らない奴は、見てバカする。そこが狙い目だ。ラリアットで思い知らせてやる。身につけたプロレス技が出所するまで錆びないように時々は使わないといけないことに気づく。
 待ってなよ、古賀千秋。
 
   93  

 はあ、はあ……あ、……。あうっ、……い、いや。
 いやらしい男の舌が太股からじわじわと上がってきて敏感な部分を舐めるたびに、篠原麗子の口からは甘い喘ぎ声が漏れた。
 はあ、はあ……いや、……お願い、許して。
 どんどん高まりへと追い詰められていく。お気に入りの赤いチューリップ柄のベッドシーツは、身をくねらしているうちにしわくちゃになっていた。左右に振っていた首が無意識に後ろに仰け反る。あ、……あう。
 また恥ずかしい狂態を義理の父親だった男に晒してしまうことになりそうだ。いや、あ、……あ、許し――。
 あ、いやっ。
 途端に愛撫が止まった。な、……なんで? 深い失望感が麗子を包む。
 「ねえ、一休みしようか」
 麗子の太股の間に顔を埋めていた中年男が布団から這い出てきて言った。夜の暗がりの中でも、そいつの太って弛んだ醜い体は隠しようがない。首から下は男なのか女なのか分からないほどだ。こんな不細工な奴に愛撫されて自分は感じている。いいや、それだけじゃない。こいつに女の喜びを教えられたんだ。そう思うと麗子は情けなかった。どうして波多野くんじゃないのよ。
 はあ、はあ、……はあ。
 しばらくは何も言えない。呼吸が整うまで時間が掛かる。返事をする代わりに麗子は布団をはいで片方の脚を高く上げると、その膝を大きく曲げた。こんな格好をすれば陰毛が生えた淫らなところが丸出しになるのは分かっている。思った通りで、男の視線が自分の下腹部に釘付けだ。その隙を突いて奴の肩を思いっきり蹴ってやった。
 半年前に母親と離婚した男はベッドから転げ落ちた。両手は後ろで固定されているので床に直撃だ。
 「い、痛いっ。な、何をするんだ」
 麗子は上体を起こすと床に転がった男を見下ろした。「誰が休んでいいって言ったの?」
「そ、そんな……麗子ちゃん」
「せっかく、いいところだったのに。早く上がってきて続けな」
「待ってくれ。もう、たっぷりサービスしたじゃないか。それに麗子ちゃんが、いや、いやって言う――」
「ばかっ。あたしの口癖じゃないの、知っているくせに。トボけるんじゃないよ、まったく。ほら、まだ二時間ぐらいしか経っていないじゃないの。あたしが満足するまでは休んじゃダメよ」
「勘弁してくれよ。もう前みたいな体力はオレにない。いくら土曜日の夜でも朝までなんて無理だ。それにノドがカラカラに渇いている。舌だってヒリヒリして痛いし、アゴもシビれて感覚が無くなってきているんだ。頼むから少しだけ休ませてくれ。そしたらまた続けるから、な?」
「だめ。早くしないと大声出して騒ぐわよ」
「そんな……」 
「また警察の厄介になりたい? 今度は前みたいに穏便に済ませたりしないからね。犯されそうになったって訴えてやる」
「そ、そんなのウソじゃないか。あの事件の後で、今度は麗子ちゃんの方から誘って――」
「あっはは。お前の言葉なんか誰が信じるかしら。あたしは警官の前で大泣きしてやるからね。夜中に忍び込まれてパンティを脱がされましたって」
「……本気じゃないだろう? そんな事をされたらオレは――、もう市役所で働けなくなる」
「その通り。だから言うことを聞くしかないのよ、お前は」
「もう十分に償ったじゃないか。家も土地も、あのグリーンのベンツも譲った。オレに残っているのは仕事だけなんだ」
「ばか言わないで。それは全部あたしの母親の名義じゃないの。あのスケベ女が全て自分のモノにしたの。あいつったら、最近は店の客だった若い兄ちゃんと付き合っているみたいよ。先週だった、その堅くて長いチンポコを一生懸命にしゃぶっているところを覗き見しちゃったもんね」
「ほ、本当か?」
「そうよ。あのスケベは男にハメてもらわないで十日も過ごしたことないの。お前と結婚してた時だって浮気は頻繁にしてた。そう、そう、集金に来た新聞配達のオジさんとも玄関で二度、三度ヤッてたんじゃないかしら」
「……信じられない」
「だけどさ、それが現実なのよ。お前は家や土地とか車を差し出すことなかったの。あの女にも弱みがあったんだからね。あたしと直に話をつけるべきだった」
「……」
「落ち込んでいる暇なんかないよ。早くベッドに上がってきて続けなさい。お前の務めは終わっていないの」
「……待ってくれ、麗子ちゃん」そう言うと男は首と肩を使って不自由な体を起こし、その場に正座した。
「だめよ。早くしないと大声出すわよ」
「なあ、勘弁してくれないか。こんな関係は止めたい。……もう疲れたよ。今の話を聞かされて生きる気力も無くなりそうだ」
「なに言ってんの、お前」
「また逢いたいって麗子ちゃんから電話があった時は……」男は派手な柄のトランクスに視線を落として続けた。「もしかしたらオレ
の能力が回復してくれるかもしれないと期待して承諾したんだ」
 しかし八ヶ月前に十四歳の少女によって激しく傷つけられた男の股間は二度と元に戻らなかった。性欲はあるが挿入できるように上手く勃起しないのだ。
 麗子は気にしていない。こんな不細工な中年男、――ましてやスケベな母親が散々使い古したボロ雑巾みたいな男じゃないか――その汚らしいチンポコを自分の大切なアソコに突っ込む気は更々なかった。こいつの舌がヌルヌルと動いてくれたら、それでいい。いつの日か波多野くんと結ばれる時が来るまでは処女のままでいるつもりだ。
 あたしが今度は主導権を握る。だから再び自分の部屋に入れてやる時は、暴力を振るう恐れを無くす為に、義理の父親だった男の両手は後ろで手錠を掛けることにした。
 「あら、そう。つまりオッ立たなくなったのは、あたしの所為だって言いたいのかしら」
「い、いや。……そうじゃないけど」
「じゃあ、聞くけど。あたしの身体をこんな風にしたのは誰よ?」
「……」
「今じゃ、頻繁に疼いちゃって勉強も手につかないの。高校受験は目の前だっていうのに」
「悪かった」
「言葉だけじゃダメ。舐めて。あたしのアソコをもっと舐めて。しっかり心を込めて舐めるの」
「麗子ちゃん、……遅くなったけど償わせてくれ」
「はあ?」
「出来ることなら何でもする。して欲しいことを教えてくれ」
「……」こいつって馬鹿なのかしら? さっきから言っているじゃないの。舐めろって。
「高価な服でもアクセサリーでも、海外旅行だって……そうだ、運転免許が取れたら好きな自動車を買って――」
「じゃあ、ここに寝てよ」
「え?」
「ベッドに横になれって言ってるのよ。あたしが今度は上になるから」
「……」男は途方に暮れた様子だ。
「早くしなさいよ、ばかっ」
 これから何をされるのかと、両手を後ろで縛られた中年男が怯えていた。その顔には以前に見せた好色な表情はない。なんて愉快なんだろう。相手に言うことを聞かすのに麗子は、ただ膝を曲げて足蹴にする格好をするだけでよかった。「さあ、上を向いて寝てよ」
 男がベッドに仰向けになると、麗子は大胆にもその顔を跨いだ。「そのまま動いちゃダメ」腰を沈めていく。「じっとしていなさい」
 あ、……う。
 鋭い快感が麗子の身体を下から貫いた。あ、……あう。こっちの方が全然気持ちイイじゃないの。何で気が付かなかったんだろう。お尻の穴に男の鼻が当たって身も心も溶けてしまいそう。腰を前後に動かすともっとイイ。ベッドで横になって股間を舐められるだけで満足していた今までの自分が馬鹿みたい。
 「れ、麗子ちゃん、ま、待――」
 聞こえない振りをして続けようとした。波多野くんに丸裸で抱かれているところを想像しようとしているところだ。
「お、お願いだから――ちょっと」
 仕方なく腰を少し持ち上げてやった。「何よっ、うるさい」
「くっ、苦しい。これじゃあ、息ができない」
 知らずに股間を男の顔に強く押しつけていたらしい。気持ち良すぎて、生きている人間の上に跨っているのを忘れてしまう。深呼吸
して大きく吐き出された男の息が麗子の熱く濡れた部分を冷ましてくれる。
 「やっぱり、オレが上に――」
「なに言ってんの、ばかっ。息が出来ないなんて、そのくらい我慢しなさいよ、男でしょっ」
 つまらないことで波多野くんとの愛の営みを途中で打ち壊されて腹が立つ。また初めから想像しないとダメじゃないの。頂上まで登りつめるには、そのプロセスが大切なのに。頭にきた麗子は豊かな腰を持ち上げると、全体重をかけて思いっきり尻餅を突いてやった。
 むぐっ。
 義理の父親だった男は返事すら出来ない。何か言おうとして息を吸い込んだところを、女子中学生の丸い尻に鼻と口を完全に塞がれてしまったからだ。歳こそ十五才だが、一年前から性の快楽を貪ってきた下半身は、すっかり女らしく成熟していた。息をする隙間を与えないほど相手の顔に密着するのだ。
 下敷きにしてやった男の頭が苦しそうに左右に逃れようとしていた。空気を求めて藻掻いているのだ。その必死な動きが女の敏感な部分に伝わってきて、すっごく気持ちイイ。
 「たっ、助け――」
 両方の太股を男の顔に強く押し当てて黙らせた。ざまあみろ。しばらく呼吸なんかさせてやるもんか。あたしの命令に素直に従わないと、どんな目に遭うか思い知らせてやる。波多野くんの人差し指が、疼く股間の奥へ侵入したところで想像を中断された。その御仕置きをしてやらないとね。
 うふっ、楽しい。
 両目を瞑り、キッスされながら優しくオッパイを揉まれる最初の場面を頭に描いていく。朝までたっぷり時間はある。篠原麗子のエッチで長い夜はこれからが始まりだった。

   94   

 加納久美子は本郷中学の駐車場に愛車フォルクスワーゲン・ポロを停めると、さっそく携帯電話のメールをチェックした。着信音が鳴ったのは運転中で、すぐに開いて読むことが出来なかったのだ。
 『おはよう。きっと素晴らしい一日になる』
 うふっ、やっぱりだ。思わず笑みがこぼれる。メールをくれたのは君津署の波多野正樹刑事だった。
 久美子は返信した。『メール、ありがとう。勇気もらった』
  
 あの事件から半年が過ぎて季節は秋になっていた。異様な出来事であると地区の教育委員会も判断して、加納久美子には特別に年内の休養を認めてくれた。と同時に君津南中学からの移動も決まる。本来ならば本郷中学には来年の三学期から赴任すれは良かった。二学期の途中から教職に戻らなければならなくなったのは、引き継ぐ予定だった三年Α組の担任教師が急に体調不良を起こして仕事を続けられなくなったからだ。
 外に出てフォルクスワーゲンのドアを閉めたところで、本郷中学の教頭先生が歩いて近づいて来るのに気づいた。白髪のオールバックが似合う初老の紳士だ。女子生徒に人気があると評判らしいが、まったく不思議じゃない。

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