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文字数 17,234文字

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 「お話があります」職員室で二人だけになれる時間を見つけて、加納久美子は高木教頭に詰め寄った。
「何だ?」高木教頭は身構えた。女教師の普段とは違う真剣な雰囲気に気づいたのだろう。
「先生が国際中学で教えた生徒の中に、木村優子という女の子を覚えていらっしゃいますか?」
「……」驚いた顔を見せると、その表情を読み取られまいとして教頭は視線を外した。
「わたしのクラスメイトでもありました」
「よく覚えていない。そんな名前の子がいたか?」
「そんなはずはありません」加納久美子は言い切った。
「どうして、そう断言できるんだ? きみは」
「わたしはハッキリと覚えているからです」
「きみと私とでは事情が違う。これまで何人の生徒に教えてきたと思っているんだ」
「彼女は普通の女子生徒ではありません」
「……」
「霊感の強い女の子でした。教頭先生が処分に困っていた鏡に気づいたのは彼女でしょう?」
「そ、そんなことがあったか……?」
「ある品物を高木先生から引き取ることになったと、木村さんが話してくれたのを覚えています。彼女の表情は、いつもと違っていました」
「よく覚えていないが、どうして今頃そんなつまらない話を--」
「つまらない話では決してありません」
「しかし昔の事じゃないか」
「そんなふうに片付けられなくなりました。その鏡を、どうやって教頭先生が入手したのか教えてほしいのです」
「……」高木教頭が息苦しそうに呼吸をし始めた。額に汗も浮かんでいる。苦悩しているのが明らかだ。
「お願いします。教えてください」
「頼む。……よく覚えていないんだ」声が小さい。下を向いて、まるで母親に叱られた少年みたいだ。
「思い出してくれないと困ります」久美子は容赦しない。
「きみは私を、そんなに苦しめたいのか」
「違います。教えてくれないと大変なことになりそうだからです」
「何だって」
「あの鏡で木村優子は命を落としました」
「えっ」
「黒川拓磨と関係がありそうなんです」
「なんで知っているんだ? そんなことまで」
「土曜日に木村さんの御主人と話をしてきました。彼女は平郡中学で英語教師をしていて、黒川拓磨の担任だったんです」
「まさか」
「十三日の土曜日に、この君津南中学でも何か事件が起こるかもしれません」
「十三日の土曜日だって?」
「はい」
「これ以上は、……もう」
「そうです」もう手に負えないほど沢山あり過ぎた。
「……」
「教頭先生、教えてください。その鏡はどこから手に入れたんですか?」
「加納先生」
「はい」
「今日は勘弁してくれ。気分が悪いんだ」
「では、いつなら?」
「一日、二日でいいから、待ってくれ。連絡を取らなければならない奴もいるんだ。なんとか思い出すから」
「どうして?」
「こっちにも事情がある」
「急いで下さらないと」
「わかってる、わかったから」
「……」
 加納久美子は半信半疑だった。待ったとして、教頭先生が本当のことを話してくれるとは信じ難い。すごく怯えていた。なぜ? 
 あの調子なら時間を掛けて、話を誤魔化す口実を考え出すかもしれない。その鏡が相当な曰く付きだということだけは分かった。果たして桜井弘氏が言った通りに、それを手にすれば黒川拓磨の正体を暴くことができるのだろうか。

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 「ところで、お前」女が黒川拓磨に訊いた。「どうなっているんだい、あの忌々しい鏡は?」
「心配ない。今のところ思った通りに事が進んでいる。三月十三日までには片づくと思う」
「そりゃいい。あたしも少しは役に立ったのかい?」
「もちろん」
「よかった。あれが無くなりゃ、お前が恐れるモノは何もない」
「手に入ったら、すぐにオレが自分で始末する」
「そうしな。平郡中学じゃ、そのまま残して失敗したんだから」
「まさか熱で割れずに残ったなんて……。信じられなかった」
「それだけ厄介な代物なのさ」
「今度は間違いなく、この手で破壊してやるぜ」
「そしたら誰も、もう黒川拓磨を止めることは出来ない。あはは」
「もう、やりたい放題さ。三月十三日が楽しみだ」
「その日は、あたしも後から行くよ。上手く行ったかどうか見届けたいから」
「大丈夫さ。でも好きにしてくれたらいい」黒川拓磨は笑みを浮かべながら言った。

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 高木将人は加納久美子にウソをついた。連絡を取らなければならない奴なんて一人もいなかった。もう誰もいないんだ。あの女に本当のことなんか口が裂けても言えるか。なにも知らないくせに。
 中学二年の頃、高木将人は東京の高円寺に住んでいた。初夏を感じさせる暑い日曜日だった、仲間四人と一緒に胆試しの目的で薄気味悪い空き家に入って行く。好奇心いっぱいで、何の恐れもなかった。真鍮みたいにスクラップ屋に売れる金属があれば、盗んでやろうという気だ。敷地内には、背中に黄色い線の入った見たこともない、ハエみたいな黒い虫が何匹も飛んでいた。
 「なんか気持ち悪いな」仲間の一人が言った。みんな同じ思いだったはずだ。だけど、引き返そうぜと弱気を口にする奴はいない。五人いれば怖いもの知らず。さっさと金目のモノを見つけて、ずらかろうという気だ。
 「何だろう、この虫は。誰か知ってるか?」
「そんなこと、どうでもいい」
「でも目が赤くて、黄色いラインが背中に入った虫なんて珍しくないか?」
「うるさい、もう黙ってろ。構うなって」
 家の横に小さな蔵みたいなのがあって、そこで虹色に輝く鏡を見つけた。日本語じゃない不思議な文字が所々に書かれていて、異様な感じがした。珍しくて価値がありそうだ。みんなが欲しがった。しかし高木が二日後には千葉県の君津市へ引っ越すことになっていたので、餞別という意味合いで仲間が諦めてくれたのだ。嬉しかった、その時は……。
 空き家というより廃墟に近い。人が住んでいないと思っていたのが、そうじゃなかった。仲間はパニックになって逃げ出す。それ以来、お互いに連絡がつかなくなっていく。虹色に輝く鏡だけが残った。
 嫌な思い出の品となった。君津には持って行ったが押入れの奥に仕舞ってそのままにした。いつか捨てようと思っていたが、すぐに存在を忘れてしまう。
しかし何年も経って異変が起き始める。夜中に押入れから物音がするのだ。ネズミでも潜んでいるのかと思ったが、そうじゃなかった。中に入っている物を全て取り出して調べる途中で思い出す。原因は、この鏡だと直感した。早く処分した方がいい、と考えた。不気味過ぎる。持っているべきじゃない。
 盗んだモノなので、両親には知られたくない。君津高校へ通う通学路の途中で、ゴミ置き場へ黙って捨てた。これで安心。
 ところが数日して、また押入れから物音がする。原因は鏡じゃなかったらしい。もう一度、中の物を取り出して詳しく調べるしかない。その作業をしている途中で、無いはずの鏡を目にした時は心臓が飛び出すくらいに驚く。捨てたのに押入れの中に戻っていた。理解できなかった。
 もう一度、捨てに行こうかと考えたが止めた。戻ってきているのに、その逆の行為をすることはバチが当たりそうで怖かった。逆らわない方がいい。高木将人は保管し続けることにした。夜中に押入れから物音がするのは我慢するしかなかった。
 成人して教員になり、国際中学に就職した。そこで助けられた。
授業が終わって教室から出て行こうとすると、一人の女子生徒に呼び止められた。勉強のことで何か質問するのかと思ったが違った。
 「先生、処分に困っている物を持っていませんか?」
「え、なんだって」何のことが分からなかった。
「手放したいのに手放せない物を持っているでしょう?」
「さあ、……分からないけど」
「……そうですか」
「何のことだろう。あはは」
「わかりました。でも、もし心当たりがあるのでしたら、いつでも相談に乗ります」
「……」
 冗談を言われたのだろうと思って、その場を後にした。しかし女子生徒の真剣な表情が頭に残った。
 気がついたのは数日後だ。彼女は、あの虹色に輝く鏡のことを言っていたのかもしれない。どうして分かったのだろう。不思議だ、怖いくらいに。それ以後は授業中、その女子生徒の視線が耐え難いほど気になった。とうとう高木将人は自分から声を掛けた。
 「この前のことなんだけど。どういう意味で言ったのか教えてくれるかな」
「あたし霊感が強いんです。持つべきじゃない物を所持していて、高木先生が困っているのが分かります」
「……」そのとおりだった。
「助けてあげられます」
「どうやって?」白状したも同じ。
「わたしが引き取りましょう」
「ほ、本当か?」有難い。
「感じるんです。持っていれば、いずれ高木先生に大変なことが起きるんじゃないかと」
「……まさか」
「何か悪い存在が、それを奪い取ろうと追いかけて来るみたいなんです」
「悪い存在? なんだい、それは」
「わかりません。でも強い霊気を感じます」
「……」鳥肌が立ってきた。夜中に押入れから物音がするのも頷ける。「きみが何とかしてくれるのか?」
「はい。知り合いの神主さんに相談してみようと思います。そこの神社で預かってもらえるといいのですが……。とにかく、どこか神聖な場所に保管すべきだと思います」
「わかった」渡りに船だ。この話に高木は乗るしかないと思った。「明日、学校へ持ってくるから受け取ってくれ」
「わかりました」
「ありがとう」高木は心から感謝した。
 その女子生徒の名前は今でもハッキリと覚えている。木村優子だった。忘れるものか。
 口数が少ない賢そうな生徒で、成績も優秀だった。肩まで伸びたストレートの黒髪と色白の顔が調和していた。細身でしなやか。霊感が強いと言われれば、なるほどなと無理なく頷けてしまうような雰囲気を持っていた。
 あの鏡を職員室の外で彼女に渡した時は、重い荷物を肩から下ろしたような安堵感に包まれた。これからは自由に生きていける。長い刑期を終えて釈放された感じだ。
 それが……、あれから何年も経ったというのに、再び悪夢が蒸し返されようとしていた。
 あの鏡が原因で木村優子は亡くなったらしい。本当だろうか。信じられない。だが加納久美子が嘘を言うとも思えない。
 高木将人としては二度と、あの鏡を手にしたくなかった。見たくもない。入手した経緯なんかを明かしてみろ、きっと引き取ってくれと言ってくるに決まっている。嫌だ。絶対にイヤだ。加納先生には当然だが、本当のことは言えない。知らぬ存ぜぬ、を貫き通すしかないのだ。
 こんな大変な時に何でだ、という苦々しい思いも強い。高木将人は、まだ家族に株の損失を告白していなかった。カードローンからの多額の借金はそのままで、月末には口座から利息が引き落とされ続けていた。残高が底を突くのは時間の問題だ。一刻も早く助けてもらわないとデフォルトという事態になってしまう。
 女房の機嫌がいいタイミングを見計らっていた。しかし、パチンコで損をしたとか背中が痛いとか、ジャイアンツが負けたとか愚痴ばかりが口から出てくる毎日で、なかなか告白するチャンスは巡ってこなかった。焦るばかりだ。
 もしタイミングを間違って告白すれば、家での待遇は奴隷以下に成り下がるだろう。今ですら、飼い犬のリボンに負けているのだから。それを実感したのは、たまたま冷蔵庫にあったアイスクリームのカップを食べた後だった。リビングのソファに座ってテレビのニュースを見ながら寛いでいた。そこへ凄い形相で女房がドアを開けて入ってきた。
 「あんた、何て事してくれたのよ。アイスクリーム、食べたでしょう?」
「う、うん」
「あれはリボンのデザートだったのに。二度と勝手なことはしないで」
「わかった。すまない」 
「まったく、もう」女房は吐き捨てるように言うと、リビングから出て行った。
 テレビでは、和歌山市の夏祭りで起きた食中毒事件の続報を伝えていたが、もう高木将人の目と耳に届かない。頭の中で、自分は食べさせてもらったことがないのに、犬のリボンにはデザートが与えられているという事実を噛み締めていた。
 働き手はオレなのに、この冷たい待遇はないだろう。人生をやり直したい気持ちを強くした。
 この家から出て行きたい。自由になりたかった。しかし自分は無一文だ。あるのは中学校の教頭という職業だけだ。
 人生に絶望していた。すっかり髪の毛も薄くなって、実際の年齢よりも老けて見える。鏡の前に立つのが嫌だった。影で生徒たちが自分のことをハゲと呼んでいるのも知っている。腹の回りは、たっふりと脂肪が付いて中年の体形そのものだ。運動をしなくなって何年も経つ。これでは、もし魅力的な女性に出会っても恋愛を楽しむなんて夢物語だ。悲しい。
 但し、……但しだ、もし金があれば、……話は別だろう。それなりに財力があれば、きっと女性が自分を見る目も変わってくるはずだ。アルマーニのジャケットに身を包めば、この身体だって見栄えは少し良くなる。
 なんとか再起を図りたい。とりあえずは株の損失を鬼の女房に告白して助けてもらう。早急にカードローンの借金を帳消しにしなければならなかった。たぶん通帳とキャッシュカードは取り上げられて、二度と京葉銀行から金を借りられなくなるだろう。
 だけど高木将人にはアイデアがあった。目を付けたのは、給食費とか修学旅行費として生徒たちから集めた金だ。手付かずで学校の金庫に眠っていた。旅行代理店への最初の支払いが生じるのは、まだ一ヶ月も先だった。それまでの間に、もし確実に儲かりそうな株が見つかったら……。
 リスクを冒さなければ大きな利益は手にできない。男は一生に何度が勝負しなければならない時を迎える。それが高木将人の信念だった。もし上手く行ったらと思うと、頭にはダニエラ・ビアンキとジル・セント・ジョンの美しい姿が浮かんだ。
 詳しく株式新聞を読む毎日が続く。安易に行動を起こす気持ちはない。犯罪行為なのだ。失敗したら身の破滅。絶対と確信が得られるまで金庫の金には手を出さない。儲かりそうな株が見つからなければ諦めよう、そんな気持ちだった。
 こんな事情だから、手放した鏡のことなんか考えている余裕はない。今は、それどころじゃないんだ。加納久美子には、やっぱり思い出せないと突っ撥ねてやろうと結論を出した。
 『何も起きたりするもんか。加納先生の誇大妄想だ』、と決めつけるしかない。




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 「どう思いますか?」加納久美子は電話で、これまでの経緯と桜井氏から聞かされた話を、君津署の波多野刑事に説明した。内容は大まかで五十嵐香月の妊娠については伏せた。しかし双子を身篭るという事実は重要な意味を持っていると意識していた。
「信じられないですよね?」相手の反応を促した。
「……そうですねえ」波多野刑事は言い難そうに答えた。「ですけど話して下さったことには感謝しています。知っているのと知らないのでは大きく違いますから。もし何かが起きたとしても、素早く対応できます」
「じゃ、良かった」
「加納先生」
「はい」
「十三日の土曜日は、私も学校へ行って待機しましょうか? 丁度その日は非番なんです」
「……」有難い。でも……、もし何も起きなかったら。
「何時ごろに学校へ行かれますか?」
「たぶん十時前です。早めに行こうと思っています」
「どうしましょう、僕は?」
「そうですね……、お言葉は嬉しいのですが」
「一人で行動するのは勧められませんよ」
「安藤先生がいます。彼女も事情を知っている一人です」
「しかし、……女性ですよね」
「ええ。まあ、そうですけど」
「私が学校の中ではなくて、外で待機しているというのは、どうです?」
「いいえ、そこまで。もし何も起きなかったら……」気が引ける。
「用心の為ですよ」
「待ってください。孝行くんも学校に集まる約束をした一人じゃなかったですか?」
「そうです」
「では自宅で息子さんの様子を見ていて下さいませんか?」
「……」
「もし彼が学校へ向かう様子を見せたら連絡を下さい。後を付けるなりして、こちらへ向かってくれませんか」
「なるほど」
「その前に学校で何かが起きる様子がありましたら、すぐに波多野さんに電話をします」
「わかりました」
「ありがとうごさいます」
「でも加納先生、くれぐれも気をつけて下さい」
「わかりました」久美子は応えた。
 とても現実とは思えない、怪奇映画の脚本みたいな話なのに波多野刑事は聞いてくれた。馬鹿にした様子もない。本当に心配してくれているみたいだ。加納久美子は心強い味方を得た思いだった。

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 あいつ、こんな所に住んでいたのか。 
 あまりに古いアパートを前にして高木教頭は驚く。
 西山明弘は乗っている車はスバルのレガシイだったし、お洒落っぽい服をそれなりに着こなしていたので、どっかのモダンなマンションにでも住んでいるのかと想像していた。安い給料で上手くやっているんだと羨ましく思った。
 しかし奴の住所欄に書かれた番地に建っていたのは、取り壊しが時間の問題であろう老朽化したアパートだった。これじゃ、きっと家賃は三万円もしそうにない。
 住むところを節約して世間体を良くしていたらしい。なんて見栄っ張りな男なんだ。呆れる。
 西山明弘が職場を無断欠勤してから一週間以上が経っていた。みんなが毎日、自分に頻りに訊いてくる。
 「西山先生から連絡はありましたか?」
「西山先生、どうしちゃったんですか?」
「西山先生、どこか具合でも悪かったんですか?」
 それらの問い掛けには、「いや、知らない。何度も電話しているけど応答がないんだ」と答えた。
 しかし心の中では、『ふざけんな。知るわけないだろう。そんなに親しくないんだから。オレは、今それどころじゃないんだ』と、怒鳴りたい気持ちだった。
 西山明弘が出勤しなくなって別に何とも思っていない。逆に、気取った目障りな奴がいなくなって清々してるくらいだ。
 たいした仕事も出来ないくせに、偉そうに威張ってやがる。たかが学年主任のくせに。
 安藤先生と加納先生の尻を追い掛け回しているだけの、薄っぺらい男だった。『とてもじゃないが、お前には無理だ。どんなに努力しても、あの二人は手が届かない高嶺の花だ』と、ハッキリと西山明弘に言ってやりたい思いに何度も駆られた。
 奴への嫌悪感は、高木自身が既婚者で、独身男性のように魅力的な女性の前でウキウキできないという不満からも強くなった。教頭としての立場もあるので、西山が安藤先生の前でする下心が丸出しの態度は絶対に取れない。
 もし結婚していなければ、自分は西山なんかよりも若い女性に対して、上手に接することが出来ると自信があった。確かに恋愛経験は少ない。いや、まったく無いと言ってもいいだろう。片思いの苦い思い出しかなかった。しかし男女の恋をテーマにした映画を観た回数は、そこらの連中には負けていないと思う。
 『男と女』、『ある愛の詩』、『愛と青春の旅立ち』、『ゴースト ニューヨークの幻』なんかだ。特に気に入っているのが、『小さな恋のメロディ』と『天国から来たチャンピオン』だった。
 将来あんな素敵な女性と恋がしたいと心を躍らせた。現実は悲惨そのものになってしまったが。
 もしも次のチャンスがあれば,その時は慎重に相手を選ぼう。誰からも紹介されたくない。自分自身で探す。その場の雰囲気に飲み込まれないで、どんな状況でも自分の好みのタイプを思い出そう。そして魅力的な女性を見つけて、デートを楽しみたかった。映画で観たシーンを自ら体験するのだ。
 西山の奴が安藤先生と付き合うのは許せない。そんな事になれば自分は落ち込んで立ち直れないだろう。世の中、そんな不公平があってはならない。 
 安藤先生から、「西山先生から食事に誘われましたけど、都合が悪くて断りました」と聞かされた時は嬉しかった。あいつがオレよりも幸せになるのは嫌だ。「彼は、いい加減なところがある。気をつけた方がいいよ」と安藤先生に忠告することは忘れなかった。
 「教頭先生、西山先生の様子を見に行かないんですか?」職員室で加納先生が訊いてきた。
「どうして?」訊き返してやった。みんなが、そう目でオレを見ていることは知っている。
「え、だって心配じゃないですか?」
「そりゃ心配している。しかし幼稚園児じゃないんだ。もう彼は立派な大人だろ。責任というものを自覚しなきゃいけない」
「でも、もし病気だったら……」
「うん、……まあな。だけど無断欠勤する前は元気そうだった。もし病気でも連絡ぐらいは出来るはずだ。わざわざ私が様子に見に行くことはないと思う」
「そうですか」
 言い方が強かった所為だろう、これで加納先生は引き下がってくれた。色々と忙しいんだ。奴の家なんかに行きたくない。時間が勿体なかった。
 思いとは反対に西山明弘のアパートまで足を運ばなくてはならなくなったのは、校長から言われたからだった。この野郎、クソ面倒な事は全部オレにやらせやがって。
 「校長、今日の午後に行こうと思っていたところですよ。帰ってきましたら、すぐに報告します」そう返事をした。
 住んでいる所は簡単に見つかった。番地を頼りに路地を車で低速にして走っていると、奴の青いレガシイが目に飛び込んできたからだ。いつも洗車してあって、新車のような輝きを放っていた。老朽化したアパートの駐車場では特に目立った。
 なんだ、あいつ家に居るんじゃないか。どうして連絡してこないんだ。わざわざオレに足を運ばせたりしやがって。
 高木は怒りを覚えながら自分の軽自動車から降りた。運転席のドアを閉めた瞬間、新たな考えが頭に浮かぶ。待てよ、ひょっとして奴は死んでいるのか? もし死んでいるとしたら、きっと自殺だろう。
 もう勘弁してくれ。そんな場面に立ち会うのは嫌だ。佐野隼人に続いて、これで二度目じゃないか。今度は第一発見者だぞ。えらい事になる。高木将人は同僚の死を心配するよりも、面倒に巻き込まれることが嫌だった。
 しかし、ここまで来たんだ。奴の部屋まで行ってみるしかない。諦めの心境で、錆ついた階段に足を掛けた。「おっと」慌てて手摺を掴んだ。三段目ぐらいのところで、グラッと揺れたのだ。どっかのボルトでも外れているんだ、きっと。
 ひえーっ。おっかねえ階段だ、これは。いつ倒れても不思議じゃない。とてもじゃないが、こんなところにオレは住めない。
 階段を上がった正面の部屋は204号室だった。奴の部屋は201で、つまり奥の角部屋がそうらしい。高木は一刻も早く立ち去りたい気分で足を進めた。歩くだけでミシミシと音をたてる建物だ。
 奴も結構、金には苦労してたんだな。高木の西山に対する嫌悪感が少し和らぐ。
 「西山くん」戸を叩きながら名前を呼んだ。
「西山くん」もう一度。応答を待つ。でも部屋の中から物音がしてこない。 
 留守か? 近所にタバコでも買いに行ったのかもしれない。それなら--いや、違う。奴は喫煙しなかった。
「西山くん、高木だ」
 静寂。
 やっぱり死んでいるのか。ヤバいことになりそうな雰囲気だ。この扉の向こうで奴が首を吊っていたりして。そんなもの目にしたくなかった。ここから早く帰りたい。高木は無意識にドアノブに手を掛けた。しっかり施錠されていることを願いながら。そしたら学校に戻って、彼は留守でしたと校長に報告できる。
 「ああっ」意に反してドアノブが回った。そして力も入れていないのにドアが勝手に開く。なんてこった。「……」安堵。口の中に溜まった唾を飲み込む。ロープにぶら下がって息絶えた奴の姿はなかった。
 「西--、あうっ」名前を呼ぼうとしたが最後まで言えない。中から強烈な異臭がしてきたからだ。高木は手で口と鼻を押さえた。
それに無数の黒い虫が飛んでいた。「ひゃーっ」
 驚きのあまり後ろに引っくり返った。恐怖が高木を襲う。金縛りに遭ったみたいに動けない。全身から流れる冷や汗。どきどきと心臓は大きな音を立てて鼓動した。上手く呼吸ができない。く、苦しい。
 ただの虫ではなかった。二十九年前、高木が中学二年の時に、仲間四人と一緒に忍び込んだ空き家で見た、あの虫だった。ハエのように黒く、目は悪意に満ちてギラギラと赤い。そして背中には黄色いラインが走っていた。
 その二日後に高木は高円寺から君津市へ引っ越す。仲間の四人とは、それっきり連絡が取れなくなった。一体、何が起きたのか分からない。でも良くない事が田口と寺島、それに菅原と市川の四人に起きたのは間違いなさそうだ。
 思い出したくない事実だった。忘れることは不可能なので、ずっと頭の隅に閉じ込めていた。この虫が再び現れたことで嫌な記憶が鮮明に蘇ってしまう。
 一刻も早く、この場から立ち去らないと。高木は這いつくばって階段まで辿り着く。手摺を掴んで、なんとか立ち上がる。腰が抜けたみたいだった。下半身がガクガクした。ゆっくり慎重に足を出して階段を降りていく。もう少しで地面というところだった、足がもつれて踏み外してしまう。
 丁度その時だ、片手にカップヌードルを持って階段を上がろうとする若い女が現れた。あまりに突然で避ける余裕なんかない。ほとんどラクビーのタックルみたいな感じでぶつかった。二人とも勢いよく地面に倒れこむ。鈍い音。カップヌードルが女の手から離れて転がっていく。
 普段だったら、深々と謝って落とした物を拾ってやったはずだろう。恐怖に怯えた高木将人は自分のことしか考えられなかった。乗ってきた軽自動車へ急ぐ。イグニッションを回してエンジンをオンにすると、何もなかったかのように車道へ出た。安全運転を心がけないと。こんな所で事故は起こしたくない。対向車を認めたので左側に寄らなければならなかった。早く学校へ戻りたい一心だ。落ちていたカップヌードルを前輪が踏み潰すのを知っていながらスピードは落とさなかった。
 一瞬、若い女がどうなっているか、それを確かめようと階段の方へ目を向けた。えっ、マジか? 落ちた状態のままで動いていなかった。やばい。でも軽自動車から降りることはしない。高木将人はアクセルを踏み込む。そうすれば抱え込んだ全てのトラブルから解放されるような気がして。
 ハンドルを持つ手の震えは収まらない。高木は今後のことを考えた。戻ったら校長には、こういうつもりだ。「彼は留守でした。また明日にでも行ってみます」と。安心して当分は何も言ってこないだろう。そのうち忘れてくれたら申し分ない。
 だけど二度と西山のアパートへ行くつもりはなかった。絶対にイヤだ。あんな恐ろしい目に遭うのは二度と御免だ。
 どうやら加納久美子の言った通りらしい。二十九年前に仲間と空き家に忍び込んで、自分が持ち去った鏡と、黒川拓磨は何か関係があるのだ。また今の君津南中学、二年B組で起きている不可解な出来事も同じように。
 高木将人は身が縮まる思いだった。自分に大きく責任がありそうだ。周囲から追及されて、槍玉に挙げられる可能性があった。
 あの時は、まだ十四歳の少年だ。遊び半分の気持ちで鏡を持ち帰っただけなのに。勘弁してほしい。
 こうなったら絶対に鏡には関与していないと言い張るしかない。認めたら身の破滅だ。ただでも問題を抱えて辛い思いをしているのに。
 三月十三日の土曜日が心配になってきた。何か大変なことが起きるんだろうか。起きてほしくないが。高木は自分も学校にいるべきだと考えた。何かが起きそうなら、それを阻止したい。これ以上、君津南中学に事件が起きてはならない。

   72 三月十二日 金曜日の午後 1  
 
 加納久美子は、昼食を終えて少し経つと職員室から出た。今日は安藤先生が休みなので一人で食べた。なかなか風邪が治らないらしい。昨日は午前の授業が終わるとすぐに彼女は早退したのだ。
 誰もいない場所へ行ってポケットから携帯電話を取り出す。何時ごろに着くか桜井弘氏に伝えようと考えた。
 六時限目の授業はなかった。今日は早退しても問題はない。好都合だ。上手く行けば、帰宅のラッシュアワーを避けて君津に戻れるかもしれなかった。
 「もしもし」
「加納です。先日は失礼しました」
「いいえ。とんでもありません」
「五時限目の授業が終わり次第こちらを出発します。そちらへ着くのは--」
「ええっ、ちょっと待って下さい」
「はい?」もしかして都合が悪くなったのか。
「どういう事ですか?」
「……」久美子は自分の耳を疑う。
「話が分からない」
「お約束した鏡のことです」当たり前のことなのに口にするしかない。
「それなら昨日の夜に、そちらの安藤先生が取りに来られましたけど」
「ええっ」全身に衝撃が走った。何も聞いていない。
「加納先生の都合が悪くなって、こちらまで来れなくなったと聞いたんですが。そうじゃなかったんですか?」
「……」どうして? 
「加納先生?」
「は、はい」
「どうなっているんですか?」
「申し訳ありません。こちらの手違いでした」そう言うしかなかった。
「もしかして安藤先生が勝手に取りに来たんですか?」
「い、いいえ。そういう事じゃなくて……」
「では、どういう事ですか?」
「これから彼女に会って受け取る約束でした。色々と忙しくて私が勘違いをしたようです」
「本当ですか?」
「はい。すいません」信じてくれないのは分かっている。嘘をついて、この場を取り繕うしか方法はない。
「……」
「申し訳ありませんでした。明日、どうなるか分かりませんが、チャンスを見つけて黒川拓磨に鏡を突きつけてみます」
「……」
「どうなるにせよ、すぐに結果は知らせます」
「わかりました。……では十分に気をつけて下さい」
「ありがとう御座います。これで失礼します」
 加納久美子は廊下の隅に携帯電話を持ったまま動けない。信じられなかった。どうして? 理解できない。
 一瞬で安藤紫という仲が良かった女性が、まったく知らない別の人物になった思いだった。何かの間違いであって欲しい。
 勇気を出して加納久美子は安藤紫と連絡を取ろうとした。呼び出し音が続く。出てくれない。諦めて携帯電話を閉じた。もし応答してくれても、どう話を切り出していいのか分からなかった。彼女からも納得のいく説明が聞けるとも期待できない。頼りにしていた味方を失った思いだ。この状態で明日の土曜日を迎えなければならないのか。
 加納久美子は不安でいっぱいだった。

   73 三月十二日 金曜日の午後 2

 とうとう明日になった。
 山岸涼太は自分の席に座りながら、心は穏やかではなかった。心配していた。絶対にヤバいことが、この二年B組の教室で起きると思う。みんな集まるべきじゃない。
 仲間の相馬太郎と前田良文は集会へ行く気だった。二人は黒川拓磨に洗脳されていた。奴の言いなりだ。オレは、そうじゃない。賛同するような態度は見せてるが、心の中では毛嫌いしていた。手を切りたい。だけどそれを口に出せば、とんでもない目に遭わされそうな気がしてならなかった。
 黒川拓磨は人間じゃない。何か悪魔みたいな存在だ。周りにいる連中を唆して破滅の道へと誘う。今、二年B組の生徒たちは多くが何か問題を抱えて悩んでいる感じだ。前と違って全員に活力がなかった。
 黒川の野郎は、明日みんなを教室に集めて一体何をやる気なんだ? 加納先生も来るんだろうか? 絶対に行くべきじゃない、と山岸涼太は考えていた。
 どうしよう。加納先生に忠告すべきか、このオレが? これまで山岸涼太は、ずっと君津南中学校の問題児として見られてきた。勉強はしないが悪いことは何でもやらかす。それが教師たちのイメージだ。まあ、その通りだから仕方ないが。
 そんなオレが加納先生を助けようと行動を起こして、信じてもらえるだろうか。不安だ。笑われて終わりかもしれない。
 「加納先生、黒川拓磨には近づかない方がいいです。絶対に何かを企んでいる。奴を無視して下さい」こう言ってあげたい。
 クラスは、最後のホームルームで担任の加納先生を待っていた。
終わったところで呼び止めて、忠告すべきだろうか。なんか恥ずかしい。
 山岸涼太は迷っていた。オレらしくない。正義の行動を起こすことに躊躇いを覚えた。
 視界に黒川拓磨の後ろ姿を認めた。大人しく席に座っていた。見る限りでは普通の中学生と変わらない。しかし山岸涼太の霊感が強く警告を鳴らす。奴とは一切関わるな、と。
 五十嵐香月が近づいて黒川に何か話しかけた。二人ともニヤッと笑う。えっ、マジかよ。あの二人、出来てんのか? すると黒川が左手で五十嵐の顔を撫で始めた。それを嫌がらないどころか、五十嵐香月は唇に触れると奴の指を、おどけて口に含んだ。見ていた山岸涼太は、びっくりだ。
 学校で、そんな事やっていいのかよ? なんか、すごくエッチな感じ。校則違反じゃねえのか。いや、待てよ。さすがに生徒手帳には、校内で女子生徒が男子生徒の指をしゃぶってはいけません、なんて書いてなかった。じゃあ、許される行為なんだろうか? 
 しかしだ、学校で最も綺麗な女の一人と評される、あの五十嵐香月を転校して来て何ヶ月も経っていないのに、モノにしてしまった黒川拓磨って奴は凄い。こんな調子でクラスの全員を言いなりにする気だろうか。それってヤバい。誰かが阻止しないと大変なことになりそう。でも誰がいる、そんな正義のヒーローみたいな生徒?
 うっ。
 一瞬で山岸涼太は恐怖に足が竦んでしまう。前方の別々の席に座っている相馬太郎と前田良文の二人が、わざわざ後ろを向いて自分を睨んでいるのに気づいたからだ。その視線は敵意を含み、はっきりとしたメッセージを送っていた。『お前、黒川拓磨の邪魔をするんじゃないぞ』、だった。
 オレがリーダー的存在だったはずだ。なのに、その力関係は崩れた。連中は黒川拓磨を後ろ盾にして態度がでかくなっていた。無力感が山岸涼太を襲う。
 やめた。加納先生に忠告はしない。自分の身が大事だ。山岸涼太は下を向いて何も考えないことにした。

   74  三月十三日 土曜日

 加納久美子が学校に着いたのは朝の九時過ぎだ。心配で昨夜は何度も目を覚まし、寝不足で身体が少しだるかった。
 日曜日なので、サックスのポロシャツに紺色のチノスカートというカジュアルな服装にした。それにヘリー・ハンセンの黄色いウインド・ブレーカーを羽織る。いつもの休日と同じで白いコンバースは靴下なしで履く。
 運転中はブルース・スプリングスティーンを聞いた。彼の音楽から勇気を貰いたかった。最も好きなのが『ジャングルランド』だ。
 ドラマチックな曲で、クライマックスにはクラレンス・クレモンズのサックスが夜空を引き裂き、続いてB・スプリングスティーンが雄叫びを上げるのだ。3rdアルバム『明日なき暴走』の最後を飾るに相応しい。
 駐車場でフォルクス・ワーゲンから降りる時に、さすがにローデンストックのサングラスは外す。
 職員室には当直の教師とクラブ活動の顧問ら数人がいたが、教頭先生の姿もあった。みんなが普段とは違う久美子の格好に一瞬だが驚いた様子を見せた。
 『何も起きたりするもんか。加納先生の誇大妄想だ』と、あれほど言っておきながら教頭先生が学校に来ている。
 意外な感じはしなかった。これで重要な何か隠していると確信した。高校生だった木村優子に鏡を渡したのも違いないだろう。久美子の不安が増して行く。
 自宅に持ち帰って整理した書類の束を机の引き出しにしまって鍵を掛けると、すぐに二年B組の教室へと向かった。少し怖い。出来たら一人では行きたくなかった。安藤先生と一緒だったら良かったのにと思う。
 彼女とは連絡が取れないままだ。したがって加納久美子の手に鏡はない。黒川拓磨と対峙するのに唯一の武器だというのに。
 校舎は静まり返っていた。階段を上る久美子の上履きにしているパンプスの軽い足音しか聞こえない。何かが起こりそうな気配など全くなさそうだが、不気味だ。
 三階の教室すべてのドアが開いていた。ひとつ一つをチェックしていく。二年B組の教室にも誰一人いなかった。窓から入る日光が眩しくて、その明るさで少し不安が和らぐ。
 いつもと違うところは何もなさそうだ。ウソの情報を掴まされたのかもしれない。
 ホッとすると同時に精神的な疲れがドッと出てくる。心配して日曜日に学校へ足を運んだ自分がバカみたいだ。すぐにも自宅へ帰りたい。
 『ミスター・ムーンライト』
 慌てた。二階まで階段を降りているところで携帯電話の着信音が鳴る。静まり返ったところに、いきなりジョン・レノンの声だ。この着信音は良くない。早く変えよう。波多野刑事からだった。「もしもし」
 「加納先生、おはようございます。いま学校ですか」
「おはようございます。そうです」
「何か変わったことがありますか」
「いいえ、ないです。教室には誰もいませんでした」
「そうですか。それなら良かった。じゃあ、我々の思い過ごしだったのかな」
「そうかもしれません。ご心配をさせてしまって申し訳ありませんでした」
「いや、そんな事はありませんよ。用心に越したことはありませんから。加納先生、これからどうされますか」
「帰ろうと思っています。ところで孝行くんは家にいるんですか」
「ええ、居ます。風邪をひいたらしくて、ぐっすり寝てますよ」
「あら、それは〡〡」
「大丈夫ですよ、ご心配なく。たぶん月曜日には学校へ行けるでしょう」
「そうですか」
「もし何かありましたら、連絡して下さい。いつでも結構です」
「わかりました。ありがとうございます」
「それで、あの……加納先生」
「はい」
「……あ、いえ。すいません、何でもありません。失礼します」
「はい、失礼します」
 加納久美子は携帯電話を閉じると再び階段を下り始めた。波多野刑事には勇気づけられる。安藤先生と連絡が取れない今となっては彼しか頼れる人はいない。
 さて家に帰ったら何をすべきか。掃除に洗濯、それに買い物。休日といっても普段できない日常の雑務で半日は潰れてしまう。
 なんとか時間を作って、夜は久しぶりにレンタル・ビデオを借りて気分転換を図りたいと思った。『タイタニック』が見たかった。きっと泣くだろう。だから絶対に一人で見ようと決めていた。

   75

 何事もなさそうだ。波多野刑事は安心した。不安が無くなると加納先生に対する想いが蘇ってくる。素敵な女性だ。もっと長く話していたかった。
 とっさに何か他に話題を探そうとしたが見つからず、不自然な形で電話を切ることになった。なんてカッコ悪いことを……。
 どうにかして食事に誘えないかと考えてしまう。その反面、オレみたいな子持ちの刑事なんか相手にするもんかと、勝手に落ち込んだりする。その繰り返しだ。オレは非番で彼女も休み。しかし今日という日は、いくら何でもまずい。誘う勇気もないし、心の片隅には交通事故で亡くなった妻に対する罪意識もあった。
 じっとしていられなくて、息子の部屋へ行って様子を見てこようと立ち上がる。携帯電話は離さない。いつ署から呼び出しがあるか分からないからだ。
 孝行が羨ましい。あいつは毎日、加納先生に会えるんだ。もしオレが生徒だったら絶対に一日も学校を休むものか。一生懸命に英語を勉強して加納先生から褒めてもらいたい。
 女性に憧れるなんてことは、ここ数年なかった。もう二度とないと思っていた。それが今は恋する高校生の気分だ。恥かしくて、とても人には言えたもんじゃない。
 息子の部屋のドアを開けたところで自分の目を疑う。ベッドには誰も寝ていなかった。波多野正樹の浮いた思いが一瞬で消えて無くなった。
 トイレにでも行ったか。それならいいが。しかし刑事という職業で培ってきた危険に対する第六感が、激しく警告音を鳴らし始めていた。息子を探しにトイレには行かず、波多野は玄関へと急いだ。
 「おい、どうした」
 波多野は一瞬、躊躇う。玄関に立っていた息子の後ろ姿が別人に見えたからだ。いつもと違う。へんに肩がいかつい。レスラーかボクサーのような体つきになっている。ただし着ている服は、いつも身につけている白いトレーナーと黒のジーパンだった。「どこへ行くんだ? 寝てなくていいのか、お前」
「……」
 返事がない。振り返ろうともしない。「おい、孝行」  
 あまりの反応の無さに聞こえないのかと思い、近づいて息子の肩に手を掛けた。やっと振り向いてくれたその顔は、今まで見たことが無い表情をしていた。「……」波多野は言葉を失う。
 その目は赤く充血して頬と口は怒りに歪んでいた。
 どうしたんだ、と声を掛けようとしたところで、避ける間もなく拳が飛んできた。まさか息子に殴られるとは思ってもいない。不意を突かれた波多野の顔面を直撃した。「ぐうっ」
 目の前が真っ暗になり、足元はフラつく。体勢を整えようとするが、次の一撃を右の脇腹に食らう。息を吐き出し、後は呼吸が出来ない。その場に倒れこんだ。
 普段は弱々しく見えた息子に、これほどの力があるとは思わなかった。「た、たか……おいっ」
 立ち上がれそうにない。それでも相手の動きを読んだ。まだ攻撃してくる。波多野は身体を回転させて、踏みつけようとした息子の足をかわす。「やめろっ」
 空を切って床を蹴ったその大きな音から、このままでは殺されるかもしれないと悟った。応戦するしかない。でも相手は息子で、怪我はさせたくない。手加減しながらの戦いになる。簡単ではなさそうだ。
 「孝行っ」姿こそ息子だが、何かに取り憑かれたように凶暴になっていた。学校へ行こうとしているのは間違いなさそうだ。だが絶対に行かせてはならない。
 そうだっ。
 加納先生が危ない、と波多野は気づく。学校でも何かが起きているはずだ。助けに行きたいが、今は息子をなんとかしないと--。
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