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文字数 18,179文字

   46

 「三月十三日は、どんな具合になっている?」女が黒川拓磨に訊いた。
「順調さ。きっと上手くいく」
「そうかい、それならいいけど。ところで鏡は、どうするつもりだい。そのまま放っておく気なのかい?」
「まさか。オレなりに考えているさ」
「失敗は二度と許されないよ。去年の暮れに平郡中学で死に掛けたのを忘れちゃダメだ」
「そんなの当たり前だろう」黒川拓磨は鼻で笑った。

   47 

 黒川拓磨と話をする機会は,あえて探す必要がなかった。
 翌日、加納久美子が英語の授業で二年B組の教室に入ると、教壇の上に青いチューリップがあった。「まあ、素敵。誰かしら? 持って来てくれたのは」
「僕です」
 黒川拓磨だった。加納久美子の胃が重くなった。「ありがとう」何とか感謝の言葉を搾り出す。授業中、生徒たちに付加疑問文を教えながら、このチャンス活かすしかないと自分に言い聞かせた。
 休み時間を知らせるチャイムが鳴ると、黒川拓磨の方から近づいてきた。「黒川くん、ありがとう」加納久美子は声を掛けた。
「どういたしまして。先生、チューリップは好きですか?」
「もちろん。嫌いな人なんているかしら」
「その通りだ」
「どうしたの?」
「近所の花屋で見つけました」
「こんな時期だから、さぞかし高かったでしょう?」
「はい、安くはありませんでした。でも大昔のオランダでは、チューリップの球根で家が買えたらしいですよ。あはっ。そこまでは高くありませんでしたから、ご心配なく」
「チューリップ・バブル」
「そうです。この花の球根が、そこまで高価になったなんて信じられますか?」
「いいえ。その当時のオランダ人て、どうしちゃったのかしら」
「あの頃に取引されていたチューリップは、これほど色や形が管理されたモノじゃなかったんです。すべてがウイルスに感染した奇形の花でした。色合いや形が病気に左右されて、球根が急に綺麗な花を咲かせたんです。それに病気なので長持ちしません。そんなんで希少価値が高くなってバブルに発展していったんです」
「まあ、詳しいのね」
「歴史は好きです。バブルに踊って、それが弾けて多くの人々が苦しむところなんか。チューリップ・バブルの後では長い年月に渡って、オランダは不況に苦しんだそうです」
「……」人が苦しむ姿が面白いなんて、嫌な性格。この話題は続けたくなかった。「黒川くん、ちょっと訊きたいんだけど」加納久美子は言った。
「はい、何ですか」
「あなた、板垣くんにゲーム・ソフトを貸したの?」
「いいえ」
「本当に?」
「はい。僕はテレビ・ゲームに興味はありませんから」
「そう」本人が否定するなら仕方ない。これ以上は追求できなかった。「もう一つ、訊きたいことがあるんだけど」
「なんなりと」
「五十嵐香月さんと交際している?」
「いいえ」
「そう。わかった。もう、いいわ」
「彼女は素敵な女の子ですけど、ちょっと好みじゃありません。僕の理想は知的な女性です。たとえば加納先生みたいな」
「……」最後の言葉にびっくり。
「先生はブルーが似合う。だから迷わずに青いチューリップを選びました」
「ありがとう」小さな声で感謝の言葉を口にした。生徒との会話に居心地の悪さを覚えつつあった。
「青や赤、黄色と様々な色のチューリップがありますが、どうしても作れない色があるのを知っていますか?」
「い、いいえ」
「黒です。黒いチューリップは絶対に出来ないらしい」
「そうなの」
「それとバレンタイ・ディですが、女性が好きな男性にチョコレートを送るのが一般的です。でも欧米では男性が好きな女性に花を送るという風習もあります」
「ごめんなさい。次の授業の用意があるから、もう行くわ」もう居た堪れない。ぼくと付き合ってくれませんか、なんて言葉が次に聞こえてきそうな雰囲気だ。加納久美子は、テキスト類をまとめると足早に二年B組の教室を後にした。

   48 

 「どうすりゃいいんだろう? オレは」秋山聡史は頭を抱えながら独り言を口にした。
「まさか死人が出るとは……、な」黒川拓磨が言った。
「足の悪いバアさんが一緒に住んでいるなんて知らなかったんだ」
「仕方ないさ」
「取り返しがつかないことをしちまった」
「死ぬのを少し早くしただけじゃないか、気にするな」
「お前は当事者じゃないから、そう簡単に言えるのさ」
「あの女の家に火をつけるとは思わなかったぜ」
「あの紙には、『土屋恵子が学校から居なくなってほしい』と書いてあったんだ」
「それで放火か?」
「そうだ。関口貴久の時は上手くいったからな。あの野郎、オレから金をふんだくろうとしたんだぜ」
「じゃ、これで二度目だな」
「もうしない。頼まれても絶対にするもんか」
「やり過ぎたな、今回は」
「言えてら。灯油を家の回りにハデに撒きすぎた。欲しかった佐久間渚の下着が手に入って、テンションが上がっちまった」
「放火すると教えてくれていたら、いくつかアドバイスしてやれたんだが……」
「どんな?」
「警察に捕まらないように、気をつけなきゃならない事がいくつかあるさ」
「マジかよ。だけど火をつける時は誰にも見られなかったぜ。心配はしていない」
「何を言ってる。それでも警察は放火犯を逮捕するんだ」
「どうやって?」
「すこしづつ容疑者を絞り込んでいくらしい」
「オ、オレが容疑者になっているって言うのか?」
「わからない」
「脅かすんじゃねえぜ。やめてくれ」
「お前、放火してからも現場に残っていたか?」
「うん。どこまで家が燃えるか確かめたかったからな」
「そりゃ、マズいぜ」
「どうしてだ?」
「警察の鑑識なんかがカメラを持って、現場の写真を撮っていただろう? 気づかなかったか?」
「た、たしかに……そうだけど」
「お前、写真に撮られたか?」
「わからない。覚えていない」
「写真に写っていたら容疑者の一人だぜ」
「火事の現場にいただけで、か? そんなの大勢いたんだぜ」
「そうさ。ほとんどの放火犯が、現場に残って火事に見惚れるらしいからな。気が遠くなる作業だけど、警察は写真に写っている野次馬の一人ひとりを調べていくさ」
「……」
「つまりだ、関口貴久の現場と土屋恵子の現場の両方に写っていたら、もう致命的だぜ」
「げっ。……ヤバい。どうしよう」
「自業自得だ」
「おい、黒川。待ってくれ、何とか助かる方法はないか? 警察なんかに捕まりたくない」
「……」
「おい。黙ってないで何とか言ってくれよ」
「祈るしかないだろうな」
「え、祈るだって?」
「そうだ。警察が捜査ミスを犯して、お前を見逃すことを祈るしかない」
「そんなことで大丈夫かな?」
「お前には、もうそれしかないぜ」
「……」
「三月十三日は参加してくれるよな?」
「約束したから、それは行くさ」
「そこで僕と加納先生が仲良くなれるように本気で祈ってくれ」
「関係があるのか? オレが逮捕されないで済むのと」
「もちろんだ。ぼくの為に祈ってくれたら、廻り回って秋山聡史の利益に繋がっていくんだ」
「……」
「放火殺人だぜ。ただの放火じゃない、重い犯罪だ。捕まったら始めは少年院かもしれないが、二十歳になる頃は刑務所へ移されるだろう。きっと懲役十年以上は食らうな」
「そんなのイヤだ。入院している佐久間渚の見舞いに行けないじゃないか」
「そうだ。それに、いくら心の優しい彼女でも前科者とは付き合わないだろうからな」
「わかった。祈るよ。お前の為に一生懸命に祈るさ」
「それがいい。見舞いに来てくれたら、きっと佐久間渚は大喜びするんじゃないか。感動して、お前しか頼る人がいないと思うに違いないぜ。一気に彼女と親密な関係になれるチャンスかもしれない」
「言う通りだ。オレは絶対に警察に捕まるわけにはいくもんか」
 不安の中に一縷の希望を見つけた。久しぶりに秋山聡史の顔に笑みが浮かんだ瞬間だった。

   49 

 「黒川拓磨と話したわ」お昼休みに美術室まで足を運んで、加納久美子は安藤先生に報告した。
「どうだった?」
「……わからない。言えるのは、あの子は普通の生徒とは違うということだけ」
「あなたのことを担任教師じゃなくて、異性として見ていたでしょう?」
「え、どうして知っているの?」加納久美子は安藤先生の言葉に驚いた。
「やっぱり」
「何で知っているのよ?」
「あたしのことも、そうだったから。間違いなく性的な目で見ていたわ」安藤紫は答えた。
「黒川拓磨と話をしたの?」
「探りを入れようとしたわけじゃないのよ。あの暗い絵を返す時に彼の方から話しかけてきたの。すごく居心地が悪かった」
「あたしも、そうだった」
「彼は何かを企んでいると思う。何か、すごく自信ありげだった。あたしなんか簡単にモノに出来そうな態度なのよ。信じられる?」
「あの子は手に余りそう」
「主任の西山先生に相談したら?」
「この前だけど手塚奈々がアルバイトをしていることで、あたしに代わって彼女と話をしてもらったの。任せてほしいなんて言ったけど、上手く行かなかったみたい」
「でも主任という肩書きを持っているから、相談はしておいた方がいいと思う。もし何かあった時に、報告をしていなかったとなったら問題になるわ」
「わかった。そうする」
「ところで黒川拓磨が転校して来た理由は何だったの?」
「聞いていないわ」
「父親が去年の暮れに亡くなったから?」
「そうかもしれない」
「前の学校に電話してみたら? 無駄かもしれないけど、もしかしたら何か情報が得られるかもしれないし」
「うん。黒川拓磨の担任をしていた教師と話がしてみたい」加納久美子は言った。
「いい考えだわ」安藤紫が応えた。
 
   50

 「おい、板垣。何を持って来たんだ、お前?」サッカー部員の一人が訊いた。
「ビデオだよ。あいつが退屈してると思ってな」
「どんな?」
「バカ、聞くだけ無駄だぜ。板垣のことだから、エロビデオに決まってんだろう」別のサッカー部員が横から口を出す。
「そうだな、訊いたオレがバカだった。また光月夜也のビデオに違いないぜ。あはは」
「いや、これは別モノさ」と板垣順平。
「お前、AV女優の好みが変わったのか?」
「そうじゃない。これは裏ビデオなんだ」
「えっ、マジかよ」
「先輩から借りてダビングしたのさ。『洗濯屋ケンちゃん』ていう有名なビデオらしい」
「見たのか?」
「当たり前だろう」
「どうだった?」
「モロだぜ。内容も悪くない」
「見てえ。オレにもタビングしてくれないか」
「いいぜ」板垣順平は応えながら、同じクラスの鶴岡政勝が黙っていることに気づく。こういう話題には、いつもなら真っ先に飛びつくはずなのに。「おい、どうした? 元気がないな」
「……」
「おい、鶴岡」
「え?」
「何を考えている? お前らしくないぞ」
「悪かった。なんだかオレ、ちょっと風邪をひいたみたいなんだ」
「しっかりしろ。今週中に治せよ。日曜日には富津中学とのリベンジ・マッチなんだからな」
「わかってる」鶴岡政勝の返事には、早く風邪を治したいという意思が微塵も感じられなかった。

 君津南中学のサッカー部員全員で、交通事故で入院している鮎川信也を見舞いに行くところだった。
 鶴岡政勝は良心の呵責に苛まれて、仲間の会話に入れない。鮎川信也が乗っていた自転車の前輪に細工したのは自分で、それが原因で奴は道路で転倒して、後ろを走っていた軽トラックに轢かれてしまう。
 左足の踵を複雑骨折して、二度とサッカー部には戻れそうにないと顧問をする体育教師の森山先生から聞かされたのだ。ショックだった。ちょっとした怪我をして次の試合を休んでくれたら、それでよかったのに。大変な事をしてしまった。
 「もう今までと同じようには歩けないんじゃないか。もしかしたら松葉杖が手放せなくなるかもな」、と言った板垣順平の言葉が胸に深く突き刺さる。
 軽トラックを運転していた老人は避けようとして、反対車線に飛び出すと対向車と正面衝突して亡くなった。つまり鮎川信也の自転車にパンクを細工したことで人が死んで、友達を障害者にしたのだった。もう取り返しがつかない。
 次の富津中学との試合に出場して、マネージャーの奥村真由美に活躍する姿を見せたかった。その思いが大変な事態を招く。
 皮肉なことに鮎川信也が事故に遭った晩に、奥村真由美から電話があった。「一緒に『メリーに首ったけ』を観に行かない?」という誘いだった。うれしかった。でも同時に罪悪感が込み上げてきた。
 あり得ない。信じられない。なんてこった。
 デートの約束をして携帯電話を置いた後は、鮎川信也の自転車に細工したことを後悔した。そんな事をする必要はなかったのだ。彼女は自分に好意を持ってくれていた。
 鮎川信也がパンクに気づいて、何事もなく家に帰ってくれることを願う。しかし夜の十時過ぎに板垣順平から電話があった。着信音が鳴った瞬間にイヤな思いが脳裏を過ぎる。最悪の結果を知らされた。
 「学校の帰りに鮎川が事故に遭ったらしいぜ」
「……」なんてこった、マジかよ。うな垂れて目を閉じた。
「おい、鶴岡」
「……な、何だ?」
「お前、聞いてんのか?」
「うん」
「鮎川が交通事故に遭ったみたいなんだ。今さっき親父のところに学校から連絡があった」
「そうか」小さい声でしか返事ができない。
「どうしたんだ、お前? 驚いていないみたいだな」
「い、いや……そんなことはない。驚いているさ」
「本当か?」
「当たり前だろう。ちょっとショックが強すぎて……。まさか、重傷じゃないよな?」
「そこまでは、まだ分からない。これから親父から詳しく聞く。明日の朝に学校で話すから。部室に集まってくれ。いいな?」
「わかった」

 鮎川信也の病室には一番後ろから入った。奴と顔を合わせたくない。左足は白い石膏で固めてあって、それが痛々しい。みんなを代表する形で板垣順平が話す。持ってきたビデオを渡すのが見えた。事故に至った詳しい経緯を本人から訊く。鶴岡が、「女の子の自転車を追い越そうとしたところで、前輪のパンクに気づいたんだ」と、みんなに聞こえるように説明し始める。
 聞きたくない。鶴岡は一刻も早く帰りたかった。誰かが、「そろそろ行くか?」と言い出すのを待った。
 「おい、鶴岡」板垣の声。
「……」ちっ、呼ばれちまったか。
「鮎川が話したがっているぜ。前に来い」
 促されて仕方なくベッドの側に立ったが、出来るだけ目を合わさないようにした。「早く治ればいいな」なんとか言葉を口にする。
「しばらく掛かりそうだ。もうサッカーは無理かもな」
「……」何も言えない。オレの所為だ。
「鶴岡、今度の試合は頑張ってくれよ。絶対に勝ってほしい。お前が自分のプレーをすれば絶対に大丈夫だから」
「うん」
 つらい。こんな励ましを受ける資格なんてないのに。本当に鮎川に悪いことをしたと思った。と同時に奴が凄くいい友達だと分かった。
 立ち直れそうにない。病院を後にして家に帰ってからも、罪悪感
に押し潰されそうだった。その夜だ、黒川拓磨から電話があった。
 「どうだった、鮎川の容態は?」
「最悪だ。二度とサッカーは出来ないらしい」
「マジか」
「畜生、大変なことをしちまった」
「仕方ないぜ」
「もう取り返しがつかない」
「そうだな。でも運が悪かったんだ。お前だけの所為じゃない」
「そうかな」
「軽トラックを運転していた年寄りが、運転操作を誤ったから事故になったんだろう」
「それもあるけど」
「いや、それがすべてさ」
「そうは思えない」
「もし鮎川が転倒しなかったら、軽トラックは女の子を轢いていたかもしれないぜ」
「まさか」
「その可能性が高いと思う。目の前で転倒した鮎川を避けられないぐらいだから、かなり反射神経は鈍いな。年寄りの運転なんて、気違いに刃物と同じだぜ。お前は自転車に細工して女の子を救ったと言えるんじゃないかな」
「……」
「もし女の子が轢かれたら足の怪我ぐらいじゃ済まないぜ」
「そうかもな」
「鮎川はサッカーが出来なくなったかもしれないが、死んだわけじゃない」
「……」
「お前は女の子を助けたのさ。くよくよしながら生きて行く事はないだろう。若いんだから、前向きに生きろ」
「それは言えてるな」
「祈ってやれ」
「え?」
「鮎川の怪我が一日も早く完治するように祈るんだ」
「どうやって?」
「三月の十三日に学校に集まってくれ。みんなと一緒に、まずはオレと加納先生が仲良くなれるように祈ってほしい」
「それとこれが関係あるのか?」お前と加納先生が仲良くって、それ本気かよ。ちょっと無理があるんじゃないのか。
「もちろん。オレの為に祈ってくれたら廻り回って、お前の願いだって叶うのさ」
「そういうもんかな?」
「そうだ」
「わかったよ」
「前向きに考えろ。過去を引き摺って生きたって、いいことは何もないぜ。奥村真由美と一緒に映画を見に行くことに集中しろ。きっと楽しいぜ」
「え? ああ、そうだな。お前の言う通りだ」そのことを何で知っているんだろう。
「前から思っていたんだけど」
「何を?」
「お前と奥村真由美なら、お似合いのカップルになるんじゃないのかな」
「マジでか?」
「嘘じゃないぜ」
「身長が彼女の方が少し高くて気になっていたんだけどな」実は5センチ近くも鶴岡は低かった。
「心配するな。そんなことを気にする奥村真由美じゃないぜ。いい性格だ」
「オレも、そう思う」
「せいぜいデートを楽しんでくれ」
「ありがとう。元気になった感じがするよ。三月の十三日は必ず学校へ行く」
「頼む」
 黒川拓磨から電話をもらって、鶴岡政勝は元気を取り戻した気分だった。ただ一つ、腑に落ちない。どうして黒川の奴が、オレが奥村真由美と映画に行くことを知っているのか不思議に思う。もしかして彼女が言ったのかもしれない。
 黒川が内藤に『メリーに首ったけ』を一緒に観に行かないか、なんて誘ったのかな。そこで彼女が「ごめんなさい、もう鶴岡くんと一緒に見に行く約束をしちゃったの」なんて答えたりして。それなら納得だ。
 『お似合いのカップルになりそうだ』という言葉を掛けられて有頂天の気分だった。ほかの事は別にどうでもいい。
 どんな服で行こうか? どこで食事しようか? 今は、生まれて初めてするデート以外のことは何も考えたくなかった。

   51

 「加納先生」
 お昼休み、加納久美子は美術室から職員室へ戻ると西山主任から声を掛けられた。「はい」
「今さっきですが、波多野くんの父親から電話がありました。ここに折り返し電話してくれますか」そう言ってメモを渡された。電話番号が書いてあった。
「わかりました」
 波多野孝行の父親は君津警察署に勤務する刑事だ。佐野隼人が教室の窓から転落した件だろうか、と思った。それとも息子のことで何か話があるのだろうか。
 加納久美子は美術室で安藤先生と一緒に、二人で昼食をとるのが習慣だった。きっと波多野孝行の父親は、昼休みに担任教師は職員室にいるだろうと考えて電話してきたのだ。久美子はデスクの前に座ると受話器を取って、メモを見ながら番号を押した。
 「もしもし」
「君津南中学の加納です。お電話を頂いたそうで。席を外してまして、すいません」
「いいえ。こちらこそ、いきなり電話して申し訳ありません」
「どんな御用でしょうか」
「大した事じゃありません。ちょっと加納先生に訊きたいことがあって電話しました」
「はい」
「三月の十三日なんですが、学校で何が行事がありますか?」
「え、……ちょっと待って下さい」思い当たる節がない。
 久美子は小物入れケースの横に貼ったスケジュール表に目をやった。土曜日だった。「いいえ、何もありませんけど」
「そうですか」
「三月の十三日が、どうかしましたか?」
「いいえ、別に……。わかりました。お手数を掛けしました。どうも、ありがとうございました。これで失礼します」
「はい。失礼します」へんな電話だった。
「加納先生、どんな用件でした?」学年主任の西山先生が近くまで来ていた。
「別に大した事ではありませんでした」加納久美子は答えた。
「佐野隼人の事件についてじゃなかったんですか?」
「違います」
「本当ですか?」
「はい」疑っているらしい。
「じゃ、どんな件でした?」
「三月の十三日の土曜日に、学校で何か行事があるのか訊かれました」
「はあ?」
「ありません、て答えました」
「それだけ?」
「そうです」
「わかりました。もし佐野隼人の事件に関しての事だったら、僕にも知らせて下さい」
「もちろんです」
 期待外れだった様子だ。背中を向けて自分の机に戻ろうとしたところで、加納久美子が声を掛けた。「西山先生」
即座に振り返った。「え、何でしょう?」
「……黒川拓磨のことなんですが」ついでだ。ここで言ってしまおうと思った。
「黒川が、どうしました?」
「成績は問題はありません。でも何か、彼は不思議なんです。理解できないところがあって、わたしの手に余るというか……」
 どう言っていいのか分からない。本人が否定している以上、板垣順平に貸したゲーム・ソフトのことや、五十嵐香月と親密な関係にあったかもしれないことは口に出せない。
「じゃあ、僕が彼と話をしてみましょう」
「そうしてくれますか。先生となら男同士ですし、何か違った面が見えてくるかもしれません」
「任せて下さい。手塚奈々のときは、あまりにも彼女が反抗的なので、やむを得ず厳しい対応になってしまいました。今度は大丈夫です。世間話でもすれば、彼が何を考えているか言ってくるんじゃないかな」
「よろしくお願いします」加納久美子は頭を下げた。

   52
 
 三月の十三日には学校で何の行事もないらしい。土曜日だ。それなら教職員の知らないところで、生徒たちは何か計画をしているのかもしれない。
 君津警察署の生活安全課に勤める波多野刑事は、頭の中で不安が大きくなっていくのを感じた。次々と何かが起きてる。
 放火事件は二度目が起きて、連続放火事件になった。しかし今度は放火殺人だ。足の不自由な祖母が逃げ遅れて焼死した。直ちに千葉県警の捜査一課から四人が派遣されて、彼らの仕切ることになった。波多野正樹はアシスタントに退き、これまでの捜査資料を渡した。
 目星をつけた君津南中学の二年B組の男子生徒が、第二の放火現場の写真にも写っていた。両方の場所にいたのは彼だけだった。これで決定的となった。しかし相手は未成年者なので、捜査は慎重に進めなければならない。少年の名前と住んでいる家は波多野が一人で調べ上げた。これから放火現場の近くに設置された監視カメラに残された映像を分析して、少年の容疑を固めていく。逮捕までは、もう少し時間が掛かりそうだ。
 君津南中学の二年B組の窓から転落した少年の捜査は、進展がない。このままでは自殺か、誤って転落したという線になりそうだった。しかし多くの疑問が残る。わざわざ窓から身を乗り出して、どうして転落したのか。最近は上手く行っていなかったらしいが、ガールフレンドが側にいたのは何故か。彼女は毒を盛られていて、視覚と聴覚が麻痺していた。警察の捜査に協力できない状態だ。少年のカバンから毒薬の白い粉が採取されたが、その入手経路が分からない。
 そして新たな心配が浮上した。息子の孝行だ。最近は頻りに何人かの友達に電話している様子が気になった。
 『三月の十三日に学校に来てほしい』と、訴えているのを何度が耳にした。夕飯のカレーを食べながら波多野正樹は向かいに座る息子に訊いた。
 「お前、三月の十三日に学校で何かあるのか?」
「……え、知らないけど」
「おい」
「なに?」
「さっきも電話で誰かと話しをしていて、三月の十三日に学校へ来てくれって頼んでいたじゃないか」
「してないよ」
「……」息子の返事に驚くしかなかった。「まさか覚えていないのか?」
「だって、してないもん」
「オレは聞いたぞ、お前が電話をしているのを」
「何かの間違いじゃないの」
「……」何も言えない。
 父親に嘘をつく息子ではなかった。ふざけている様子もない。本当に覚えていないらしい。理解できなかった。
 担任の加納先生に電話して、学校には何の予定がないことが分かった。そのことで波多野正樹は確信に近いモノを感じた。
 三月の十三日に学校で何かある。いい事じゃない。きっと何か悪い事に違いない。問題は自分に、それを阻止する手段と能力があるかどうかだ。得体の知れない不気味な存在に立ち向かうような気持ちだった。

   53

 篠原麗子は悩んでいた。
 大怪我をした義理の父親は君津中央病院に入院した。当分の間は退院できない。母親と二人だけの生活へ戻れた。
 憎らしいから奴のアソコを食い千切ってやろうと思った、と正直に話すと、娘の大胆な行動に驚いたのか母親はしばらく黙ったままだった。叱られるかもしれないと身構えた。でも耳に届いたのは慰めの言葉だった。
 「よく分かった。お母さんが後は引き受けるから、もう大丈夫だよ。悪いようにはしない。つらい思いをさせてしまったけど許してほしい」
 嬉しかった。義父と別れて再び二人でアパートに暮らせるんだと期待した。ところが、そうはならない。
 母親は駆け引きの達人だった。夜の仕事で培った酔った客の扱いの巧さが発揮されたのに違いない。娘への性的虐待を武器にして、義理の父親だった男に迫った。
 男は刑事告発を恐れた。何とかして示談で済ませたい一心だ。市役所の仕事を失うわけにはいかない。両親は老齢だが健在で、彼らにとっては自慢の一人息子らしい。もはや麗子の母親の言いなりだった。
 新築の家とグリーンのベンツ、それに高額の慰謝料を母親は手にした。男はアソコの機能を失っただけでなくて無一文になる。残っているのは住宅ローンの支払いと公務員の仕事だけだ。そして離婚届にも判子を押した。
 すべての事が片付いたとき、新たな生活は麗子の望んだのとは違った。母親が元に戻ってくれない。どんどん派手になっていく。若い女性が着るような服に身を包み、ルンルン気分でベンツに乗って出かけて行く。娘の麗子が見ていて恥ずかしくなるほどだ。近所に住む山田道子に知られたら大変だ、と気が気でなかった。
 最悪なのは、学校から帰ると頻繁に家で若い男と顔を合わすことだ。ほとんどが、いつも初めて見る人だった。お友達よ、と母親は言うけれど信じちゃいない。娘が学校へ行っている間に、二人が家の中で何をしているのか想像はつく。あたしだって、もう子供じゃないんだから。 
 塞ぎ込んだ顔を気づかれたのか、転校生の黒川くんが声を掛けてきた。義父のアソコを噛み切ったらいい、とアドバイスをしてくれたのは彼だ。計画は上手く運んだが、その結果は期待していたのと違う。それを話した。
 「もう祈るしかないかもしれない」彼は言った。
「え、どういう意味?」
「三月十三日の土曜日に、みんなで教室に集まって『祈りの会』を開く予定なんだ」
「何、それ?」
「みんな、それぞれ悩みや願望を抱えているらしい。それが解決したり、叶ったりするように祈るのさ」
「二年B組の生徒が全員?」
「いや。全員とまでは言えないが、ほとんどかな。まだ古賀千秋さんには声をかけてないけど」
「ふうむ」
「篠原さんには、ぜひ参加してほしいな」
「いいよ。あたしも行く」
「よかった。そこで頼みがあるんだ」
「なに?」
「同時に、ぼくと加納先生が仲良くなれるように祈ってくれないかな?」
「え、黒川くんと加納久美子先生が?」
「そうだ」
「歳が違い過ぎない?」
「わかってる。だけど全員の思いが集中すれば大きなパワーになるんだ。それを利用して一人ひとりの悩みや願望を解決するさ」
「へえ」
「もう一つ、お願いがあるんだ」
「なに?」
「ローソクを何本か用意してくれないか?」
「いいけど。でも何に使うの?」
「思いを集中させるのにローソクの火が必要なんだ」
「なるほど。何本ぐらいあればいいのかしら?」
「十本ぐらいでいいかな」
「え、十本も?」ドキッ。その本数を聞いて篠原麗子はDマーケットでの出来事を思い出す。形だって似ていた。
「うん」
「お、……大きさは?」声が上ずってしまう。
「普通でいいかな。細かったり小さかったりするのはマズい。炎が消えやすいと困るんだ」
「……」額に汗が滲む。つまり太くて長い方がいいらしい。
「や、……やっぱり硬い方がいいんでしょう?」
「え、どういうことかな?」
「あっ、な、何でもない。ごめんなさい」ローソクって、どれも硬さは同じだったことに篠原麗子は気づく。
「用意してくれるかい? お金は後で払うから」
「う、……うん」自信はなかった。でも出来ないとは言えない。
「ありがとう」
「古賀千秋は、あたしが誘ってみようか?」
「そうしてくれると助かるな」
「わかった」 
 その日の晩に、篠原麗子は古賀千秋に電話した。学校で面と向かって話したくはなかった。額の汗と火照った顔を見られたくないからだ。
 「千秋、いま話せる?」
「大丈夫だけど、なに?」
「三月十三日の土曜日に、黒川くんが学校で『祈りの会』を開くらしいの」
「何よ、それ? 『祈りの会』って」
「それぞれが持っている悩みや願望を、みんなで祈って解決するんだって」
「へえ、面白そう」
「一緒に参加して欲しいんだけど?」
「いいよ」
「それとローソクが必要なんだ。あたしが買いに行くように頼まれちゃったの。付き合ってくれない?」
「いつ?」
「明日でも。学校が終わってから」
「わかった」
「ありがとう」ああ、助かった。
 篠原麗子は一人で買いに行く自信がない。またエッチなオジさんが横から出てきて、お節介をされそうで怖かった。
『何をやってんだい、お姉ちゃん。そりゃダメだって。ローソクなんか、あんたの役に立つもんか。そういう事だったらサラミに限るんだ。見てごらん、この先端の丸み。ここが大切なんだから。硬過ぎることはなく、また柔らか過ぎることもない。使って滑らか。デリケートなところに触れさせた瞬間の心地良さが大きく違う。悪いことは言わないからサラミにしなさい。太さだって、お姉ちゃんの身体には丁度いいと思う。ローソクは細すぎて、満たされた感じがしないだろうから』
こう言われてしまったら終わりだ。もう逆らえない。ローソクを買いに行って、サラミを持って帰ることになったら、きっと黒川くんは激怒する。どうしたってサラミにローソクの代わりは務まらないもの。
 『ゴメンなさい。ローソクがサラミになっちゃったの』
 こんな謝罪を誰が受け入れてくれようか。みんなが馬鹿にした目で見るに決まっている。篠原麗子っていう女は早熟なくせに買い物は満足に出来ないらしい。そう思われてしまう。
 とても一人では買いに行けない。不安だ。気の強い古賀千秋の助けが必要だった。万引き事件を起こしたって平気な顔をして学校に来ていた。二年B組の学級委員長も、辞任する気持ちはなさそう。さすがだ。
 「ところでさ、麗子」
「なに?」
「まだ、あのサラミは残っている?」
「えっ、……」ドキッ。どうして、あたしがサラミで悩んでいるって分かったの? もう、恥ずかしい。「う、うん、……ま、まだあるけど。どうして?」
「もし良かったら、何本でもいいから少し譲って欲しいの。あれって、すごく使いやすいのよ」
「え、どういう意味?」
「あ、……つまり、すごく美味しいってことよ」
「そうなの」ああ、よかった。気づかれたんじゃないらしい。「それなら明日、学校に持っていくから」
「うれしい。この前は二本もらったけど、一本は古くなったから友達に上げちゃったのよ」
「そうなんだ」よく意味が分からないけど。
「じゃあ、明日」
「わかった」
 篠原麗子は持っているサラミすべてを、古賀千秋に渡してしまう気だった。もう用はない。あれを目にする度に、精肉コーナーにいたエッチなオジさんの言葉を思い出して嫌だった。『お姉ちゃん、またおいで。いつでも相談に乗るから。えへへ』
 Dマーケットの近くを自転車で通ると、ここの精肉コーナーで働くエッチなオジさんが、あたしのことを待っているんだと意識してしまう。忘れたいけど忘れられない。その度に、背中から腰にかけてゾクゾクした感覚が走った。いやらしい。でも溶けてしまいそうになるほどヘンな気持ち。あたしって、こんなに淫らな女だったのかしら。あの母親の娘だから仕方ないのかもしれないけど。
 ある日曜日の午後だけど、もう身体がムズムズして堪えられなかった。自転車でDマーケットへ急ぐ。一階の食料品売り場をうろうろ回った。足が精肉コーナーに近づく度に、強烈な快感が身体を貫く。もう汗びっしょりだ。あのオジさんに見つかるかもしれないというスリルに痺れた。もし声を掛けられたらどうしよう。そしたら『また相談に来ました』と言うしかない。 
 きっとエッチなオジさん二人が、ニヤニヤしながら迎えてくれるだろう。この前みたいな、すごく恥ずかしい目に遭わされるのは間違いない。それは困る、……でも、もう一回ぐらいだったらいいかな、と思ってしまう最近の篠原麗子だ。これまでは、そんな考えを持ったこともなかったのに。どんどんセクシーに大人びていく身体に、心が追いついていけない。
 胸の膨らみについては、こんなに早く大きくなって欲しくなかった。みんなの注目を集めようとしているみたいで、すっごく恥ずかしい。
 いつだって男性たちが熱い視線を送ってきた。それが、もう小学生の男の子から中年のオヤジまでが。『あたしは見世物じゃありません。もう見ないで下さい』、そう叫びたかった。と同時に着ている服を脱いで、この女らしい身体を自慢したいという気持ちになったりもした。
 中学二年で、この状態だった。これから高校、大学へと続いていく。早熟な身体をコントロールしていけるか自信がない。どうなってしまうんだろう。すごく不安だった。

  

 54

 起死回生のチャンスが到来だ。西山明弘は意気込む。今度は失敗するものか。強い自信があった。相手は気難しい思春期の女じゃなくて、たかが十四歳のガキだ。勉強はできるかもしれないが、考えていることは単純そのものだろう。
 『黒川拓磨が、あたしの手に余る』と、加納先生から助けを求められた時は飛び上がりたいほど嬉しかった。手塚奈々を上手く説得できなかったことで、オレへの信頼は失墜したと思った。これでターゲットは安藤紫先生一人に絞るしかないと諦めていたのだ。
 悔しさから、二年B組で次々に起きる不祥事に担任の加納先生に対して辛く当たってしまった。お前に指導力がないから、こんな事が続くんだろう。そんな感じだ。ところが、まだオレを頼りになる男として認めてくれていたらしい。しっかり成果を挙げて、彼女にとっての憧れの存在へと登りつめたかった。
 黒川拓磨なら手塚奈々と比べれば赤子の手を捻るようなもんだ。まさか時給三千円でアルバイトもしていないだろうし。外見も子供そのもので、男としての魅力なんかあったもんじゃない。
 学年主任である西山明弘は、すぐに問題点に気づく。黒川拓磨は
担任の加納先生を教師ではなくて、異性として意識しているのだ。注目してもらいたくて何かしら事を起こす。手っ取り早いのが、悪さをして加納先生を困らせることだろう。
 やり方が稚拙だ。まあ、中学二年程度の知識と経験じゃ、それぐらいが精一杯かもしれない。
 年上の女性に憧れる年頃でもある。まして担任教師が魅力的な女性だから尚更だ。無理もない。そんな時期が自分の過去にもあったから良く分かる。
 『いいか、加納先生を困らせるんじゃない。今、お前にとって大切なのは勉強だ。このままいけば木更津高校に間違いなく合格できる。頑張れ。オレが応援してやるから』
 このぐらいの言葉を掛けてやれば、きっと奴は態度を改めるに違いない。一件落着だ。そして、これを切っ掛けにしてオレと加納先生が急接近する。
 『西山先生、ありがとう御座います。彼と上手くコミュニケーションが取れるようになりました。さすが主任です。お礼と言っては何ですが、今度いつか食事を御馳走させて下さい』
 こんな言葉が加納先生の口から聞けたら大成功だ。オレのレガシィで迎えにいって、ディナーの後は夜のドライブと洒落込みたい。鹿野山に上って、二人で君津の夜景でも見に行こうか。考えると、どんどん気持ちがウキウキしてくる。西山明弘は、やる気満々だった。
 「黒川、そこに座りなさい」
「何ですか?」
「まあ、いいから。体育の森山先生には許可はもらってある。少しぐらい授業に遅れても文句は言われない。安心しろ」
 体育の授業が始まる前の休み時間だった。二年B組の教室には西山と黒川拓磨の二人だけだ。手塚奈々と話した時と同じ所で、机を間に挟んで向かい合って椅子に腰を下ろした。
 今度は時間が掛からない。すぐに終わる。生徒に向かって話し出そうとしたところだった、ブーンと一匹の虫が西山の目の前を飛んで横切った。「なんだ、ハエか?」
 それにしては少し大きいみたいだ。黒いが、そいつの背中に黄色いラインが走っている。見たこともない、コスタリカにでも生息していそうな虫だった。この寒い季節に、ちょっと信じられない。
 「ハエじゃありません」と、黒川拓磨。
「何ていう虫か知っているのか? お前は」知ったような生徒の答えが意外だった。
「説明すれば長くなります。放っておきましょう」
「何だと」人を小馬鹿にしたような口振りにムッときた。オレを誰だと思っているんだ。「あっ」
 再び、あの虫が優雅に目の前を横切った。今度は顔に近すぎて、思わず後ろに仰け反った。その慌てた教師の様を見て、黒川拓磨の顔に笑みが浮かんだ。てめえっ。怒りが込み上げた。その態度は何だ。どうしてやろうか?
 空中に浮かぶ、あの黒い虫が目に入った。また、こっちへ飛んでこようとしていた。オレを、おちょくっているのか。
 「西山先生、手を出さないほうがいい。大変なことになりますから」
「うるさいっ。黙ってろ」
 虫が近づいてきて射程距離に入ったところで、西山は右手を勢いよく振り下ろした。命中。叩かれて虫は床に落ちた。寒いから動きが鈍いのだろう、簡単に殺せた。
 「ああ、やっちゃった」
「どうってことない、ただのハエだ」
「ハエじゃありません」
「うるさい。そんな事はどうでもいい。お前に話があるんだ」
「オレに?」
「そうだ、お前にだ」寛容な気持ちは消え失せた。このクソ生意気な小僧を、どう懲らしめてやろうかという思いしかない。手塚奈々の時と同じような結果になりそうだと考えたが、怒りが理性を凌駕した。
 「体育の授業に遅れたくないんで、手っ取り早く頼むぜ」
「なに」この野郎、このオレに向かってタメ口を利きやがった。
「落ち着けって、西山」
「くっ、……」今度は呼び捨てにしやがった。怒りで身体が震えてきた。
「西山、身の程を考えなきゃダメだろう。お前なんかには加納先生も安藤先生も無理だぜ。所詮は高嶺の花なのさ」
「なんだとっ」
「分からねえのかな、その歳にもなって。お前は大家の娘を相手にしてりゃ、それでいいのさ。お似合いのカップルだぜ。あっはは」
「どっ、どうして--」何で、このガキがそれを知っているんだ。
「まったく、お前には呆れるぜ。バーミヤンの割引券なんかで女を誘い出すんだからな。せこいったらありゃしねえぜ。まあ、そんな誘いに乗る女の方もそれなりだから丁度いいのかな」
「この野郎っ、もう許さん。懲らしめてやる」
 西山明弘は湯気が立ちそうなくらいに全身が熱くなった。このガキを虫と同じ目に遭わせてやる。叩き潰す。泣いて土下座して謝るまでボコボコにしてやろう。
 『失礼な口を利いて申し訳ありませんでした。これからは西山先生様と呼ばせて頂きます。許して下さい』
このぐらいの謝罪の言葉が、クソ小僧の口から出てくるまで殴り続けてやろう。
 もう殺したって構わないかもしれない。こいつがオレ様に向かって生意気な口を利いたのが悪いんだ。殺した口実は後から考えればいい。オレ様の偉大さを分からせてやりたい。
 すでに佐野隼人が死んでいるんだ。もう一人ぐらい増えたって大したことはない。『きっと後追い自殺じゃないですか』、それで説明がつく。
 「お前、覚悟しろ。しっかり後悔させてやるからな」
 一発目のパンチを浴びせてやろうと、右の拳を高く掲げたところだった。左足の脛に違和感を覚えた。何かに針を刺された感じだ。
 「うぐっ」それが直ぐに、強力なドリルで足に穴を開けられるような痛みに変わった。ど、どうした?
 目の前に座る生徒を殴るどころじゃなくなった。その場に西山は屈むと、急いでズボンの裾を捲り上げた。「ああっ」
 自分の目を疑う。殺したはずの虫が灰色のソックスの上に止まっていたのだ。こ、こいつに刺されたらしい。
 手で掃おうとしたが今度は素早く飛び立ってしまう。畜生っ。ソックスを下ろすと皮膚が赤く爛れていた。「おい、あれに刺されたみたいだ」
 黒川拓磨を見ると、椅子に座ったまま窓を通して校庭の様子を眺めながら、左手の人差し指を鼻の穴に突っ込んでいた。こっちを向いてもいなかった。ふざけた態度だ。少しは教師を心配--。「げえっ。げ、げ……」
 刺されたところから激痛が全身に広がろうとしていた。どっ、毒だ。吐き気。ひどい悪寒。冷や汗。めまい。耳鳴り。全身の震え。すべてが一気に襲ってきた。声を出したくても、口が麻痺して喋れない。「あう、あ、ああ……」
 誰かを呼んでくれ。助けてくれ。生徒に言いたかったが舌が回らない。その場に倒れこんだ。息が満足に出来ない。苦しい。意識が朦朧してきた。目の前が真っ暗になる直前に黒川拓磨の言葉が耳に届く。
 「体育の授業が始まってるんで、そろそろオレは行こうかな」

   55

 「先生」
「西山先生っ」
「どうしたんですか?」
 誰かが自分を呼んでいた。女子生徒の声だった。西山は目を覚ました。頭痛はするが周りが見えた。どのくらい意識を失っていたんだろうか。焦点が合うと声の主は手塚奈々だと分かった。いつもと変わらず綺麗な顔だ。良かった、助かった。
 「あわ、……わう、う、う」
「え?」
「あう、……あい、い、い」駄目だ、喋れない。舌に感覚が戻っていなかった。
「なんですか?」
「あう、あひ、あひひ……」職員室へ行って誰かを呼んでほしい、と伝えたいのだが上手くいかない。
「先生、笑っているんですか?」
「あふ、ひひ、……ひふ」ちっ、違う。この状況で笑っていられるか、バカ。
 言葉を出そうと必死になるほど、口の中に唾が溢れた。悲しい。こっちの要求を、なんとか女子生徒が悟ってくれないだろうか。
 涎を床に落とそうと顔を横に向けた時だった。手塚奈々の悩ましい太股と白いパンティに包まれた股間が、間近で西山の目に飛び込んできた。ひやっ。倒れていた教師を心配して反射的に、スカートが短いにも関わらず腰を屈めた結果だった。
 なんてラッキーなんだ。しかし……、残念なことに、まったく性的な興奮を覚えなかった。毒虫に刺されて感覚が麻痺していた。体が衰弱して、そんな気持ちにならない。も、もったいない。
 「西山先生っ」
「あうっ」あっ、まずい。こっちの視線に気づかれたらしい。女子生徒は急に立ち上がってスカートを両手で押さえた。 
「先生のエッチ」
「はっ、はう」違う、違うんだ。
「仮病まで使って、あたしのスカートの中を見たかったんだ」
「ひい、ひ、……ひい」誤解だ。本当に体調が悪くて苦しんでいるんだから。
「お金を払わないでタダで見ようとしたなんて、信じられない」
「う、……うう」必死で首を振って否定した。
「加納先生に言いつけます。本当に男の人って、みんながエッチで困っちゃう」
「あっ、あう」ま、待ってくれ。
 手塚奈々は踝を返すと、さっさと立ち去っていく。振り向きもしない。助けてもらえなかった。絶望感が全身を包む。西山明弘は力が抜けていくのが分かった。疲労困憊だ。また目を閉じるしかなかった。
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