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文字数 10,389文字

   20

 「うっ」
 鼻血だ。小池和美は用意してあったティシュに急いで手を伸ばした。大好きなチョコレートを食べると、いつも鼻血が出た。
 久しぶりだったので大丈夫かなと思ったが、やはりダメだった。チョコレートと鼻血は切っても切れない縁になっているらしい。
 痩せたくて、しばらく嗜好品を口にするのは控えていたのだ。その間は欲求不満で気が狂う思いだった。チョコレートのことが、ずっと頭から離れない。
 小池和美は身長が百六十八センチで、体重は七十三キロと女子の中では大柄だった。背の高さを低くすることは不可能だが体重は落とせる。このままでは永久にボーイフレンドなんかできそうにないと考えて、ダイエットを始めた。十キロぐらい落とせば痩せた女というイメージを周囲に与えられるんじゃないかと期待した。
 二年B組には不思議なくらい綺麗な女の子が集まっていて、おのずと美意識を刺激された。五十嵐香月、佐久間渚、手塚奈々、篠原麗子、奥村真由美の五人だ。タイプは違うが、それぞれが魅力的だった。そして担任の加納久美子先生。こんなに知的で美しい人は見たことがなかった。
 当然だがクラスの中で自分の存在は薄い。男の子からは見向きもされない。大柄過ぎて恋愛の対象にならないのだろう。口には出さないが山岸くんたち不良グループが行った、『二年B組女子ベスト・オナペット』に選ばれた女の子たちが羨ましかった。
 小池和美は書記というクラスでの役にしがみついていた。三人いる役員の一人だというプライドだ。委員長の古賀千秋に寄り添うことで自分も彼女みたいに頭がいいのだという印象を作りたかった。
 彼女が学級委員長に立候補したときに、「あんたは書記をやりなよ」と誘われて和美も手を上げたのだ。
 「三年生になったら生徒会長に立候補するからね」が、古賀千秋の口癖だった。つまり、あんたも書記として付いてきなという意味だ。何度も聞かされて、和美もその気になっていく。
 今の時点で彼女に対抗できる候補は他にいない。当選は確実だろう。学校の成績は抜群。見事に整理され、マーカーで色刷りされた学習ノートは見たことがなかった。ここまでしないとトップの成績には届かないのか。古賀千秋のノートは完璧すぎて逆に小池和美の学習意欲を削ぐ。あたしには、とても無理だ。
 こんな頭のいい子と仲良くなれて嬉しかった。それだけじゃなくて、彼女は均整の取れた身体をしていた。学校では学生服のサイズが合っていないのか、何となく野暮ったい感じがした。それが秀才っぽい雰囲気を醸し出しているけど。
 日曜日とかに二人で会うときのカジュアルな格好では、スタイルの良さが際立っていた。ファッションにも詳しい。何を着ても似合いそうだから当然かもしれない。顔立ちだって悪くない。それなりに可愛いかった。『二年B組女子ベスト・オナペット』で五人と争える容姿を持っていた。男子が気づいていないだけだ。それとも頭が良すぎて恋愛の対象としては敬遠してしまうのか。
 この子とずっと友達でいたい、そう小池和美は願った。友情を保つ為にと、マクドナルドなんかで食事した時は和美が二人分の代金を支払った。
 痩せたくてダイエットを始めたのも、少しでも容姿を彼女に近づけたいからだ。五十嵐香月と佐久間渚の美人二人と仲良くしている山田道子みたいにはなりたくなかった。あれは、ただの引き立て役じゃないの。すっごく惨め。女として生まれてきて、あまりにも情けない。本人は頭が悪いから気づいていないのだろうけど。
 二十キロぐらい体重を落としたかった。そうすれば斜め四十五度から鏡に映った自分の横顔を、髪を強風で乱れた感じにすればだけど、ぽっちゃりした藤原紀香に見えなくもないはずなのだ。身長だって、ほぼ同じだし。
 勉強は頑張って東高校か君商には合格したい。ファッション雑誌にも目を通して服のセンスを身に付けたかった。男の子が恋愛の対象としてくれるような女の子になりたい。
 ただし二つだけ問題があった。一つはチョコレートだ。食べないでいられるか自信がなかった。あたしからチョコレートを取ったら何も残らない、それが本音だ。痩せたい。でもチョコレートは食べ続けたい。量を減らそうとしたが上手くいかない。思い切って一切口にしないことにした。
 もう一つはプロレスだ。誰にも言っていないが不沈艦スタン・ハンセンに憧れていた。ラリアットを相手に見舞うところが凄くカッコいい。あたしも、あんなふうにやってみたいと密かに思ってしまう。
 父親がプロレスの大ファンでリビングのテレビで、しょっちゅう試合のビデオを見ていた。最初は大嫌いだった。格闘技なんて野蛮な人たちだけが見るもんだと思った。汗まみれで血を流しながら、男同士で取っ組み合うなんて不潔で嫌悪感しか覚えない。スポーツ観戦そのものに興味がなかった。ワールドカップ・フランス大会で日本が惨敗したときも全く悔しくない。終わって良かった、これで静かになるとしか考えなかった。
 それがリビングの床に寝っ転がって、何気なくテレビの画面に映るプロレスの試合を見て気持ちが変わる。スタン・ハンセンとジャイアント馬場のPWFヘビー級選手権だった。すごく面白かった。試合はスタン・ハンセンがスモール・パッケージ・ホールドで負けてタイトルを失ったけど、彼のファンになった。あの荒々しさに魅力を感じた。興奮して和美自身も汗をかいてしまう。シャワーを浴びようと浴室へ行って、脱衣場で鏡に映った自分の裸体に驚く。何となく体型がスタン・ハンセンと似ているのだ。男の子たちが好むような女らしい体じゃないけど、悪い気はしなかった。ラリアットを見舞う動作をしてみる。うわー、なんてカッコいいの。すごく様になっていた。ああ、誰かにやってみたい。誰か憎らしい奴に食らわせてやりたかった。いつかチャンスが来るかもしれない。風呂場で、ラリアットとエルボー・ドロップの真似をするのが習慣になった。
 でもダイエットは止めない。自分はプロレスラーになりたいわけじゃないから。男の子から女の子として認められたいのだ。ただし女の子らしくないけどプロレスの試合は見続けることにした。
 なかなか体重が落ちなかった。ちょっと落ちても直ぐに元に戻ってしまう。ああ、何なのこれって。あたしに対する嫌がらせ? ずっとチョコレートのことが頭から離れないし。もうノイローゼになりそう。学校では秋山聡史とか相馬太郎なんか小柄でバカな男子を見ると、正面からラリアットを見舞ってやりたい衝動に駆られる。
 男のくせにチビなんてバカじゃないのかしら?
 小池和美は自分よりも背が低い男子を人間として認めていなかった。奴らは消耗品だ。生きていく価値もない。掃除当番は順繰りではなくて、連中の義務にすべきじゃないだろうか。テストの点は二十点引きにして、それを背の高い女子生徒たちに振り分ける。こういう意見を、どうして誰も言い出さないのか不思議でしょうがなかった。
 もし古賀千秋が生徒会長に選ばれたら、書記のあたしが提案するしかないのだろうか。いくつか考えを持っている。まず、背の低い男子全員から生徒手帳を取り上げる。お前らは正規の生徒として認めてやらない。彼らの学校での言動と行動は制限する。胸元には目立つ黄色いバッヂを、そして腰のベルトには鈴を付けさせよう。いつ、どこにいても誰もが分かるようにする為だ。お喋りは不可。言葉は挨拶だけに限らせる。あいつらから笑顔を奪いたかった。将来の夢も希望も持たせない。背の高い女子と目を合わすことは禁止。廊下ですれ違う場合は一歩退いて、相手の通行を妨げないようにする。教室とか校庭、トイレも一般の生徒と別に設けよう。いずれは財産の没収も視野に入れて校則の強化を図りたかった。
 背が低い男子への暴力や略奪は校則違反にならない。ストレスの発散として黙視される。廊下ですれ違いさま、いきなりラリアットを食らわせてやろう。ああ、面白そうだ。後ろに引っくり返って気絶するかも。そしたら即座にエルボー・ドロップで止めをさす。このコンビネーションが、プロレス技では大切なのだ。
 チョコレート、チョコレート、チョコレート、チョコレート。食べていないのに体重は減らない。もうダメだ。この鬱憤を学校で誰に晴らさないと、こっちが死んでしまう。教室で自分の席に座ってラリアットを食らわせてやる獲物を選んでいた時のことだ。隣に座る転校生の黒川拓磨くんから話しかけられた。
 「小池さん、ダイエットしているんだって?」
「……」驚いた、突然で。何で知っているんだろう。
「増やすのは簡単だけど、減らすってのは本当に苦労するんだぜ」
「どうしてダイエットしているって知ってるのよ?」
「古賀さんから聞いた」
「えっ、本当?」あたし、千秋に言ったのかしら。ぜんぜん覚えていない。
「食べたいモノを控えただけじゃダイエットは成功しないぜ」
「……」今の言葉、聞き捨てならない。「どういうこと?」
「つまり心にイメージ作りをするんだ。いつも頭の中に自分の痩せた姿を思い浮かべながらダイエットすると効果があるらしい」
「へえ、そうなの。でも自分の痩せた姿なんか見たことないから想像できないけど」
「その通り」
「……」なに、こいつ。期待を持たせやがって。やっぱりチビだから馬鹿なのかしら。意味のない話なんかして。
「だけど、もし自分の痩せた姿を見る方法があったら、どうする?」
「え、どうやって? そんなの聞いたことないよ」
「それがあるんだ」
「マジで? どこに?」
「これなんだ」
「え」冗談かと思ったら、転校生はポケットに手を入れると取り出して見せてくれた。「なによ、それ? ただのメガネじゃない」
「うん。たけど普通のメガネじゃない」
「……」からかってんの、あたしのこと? レンズが丸く大きくて玩具みたいな白いメガネだった。確かに、そういう意味なら普通のメガネじゃなかった。ホームセンターにあるサービス・カウンターの横でレジャー用品として売られているようなやつだ。
「これを掛けて鏡に映った自分を見てみなよ。きっと驚く」
「……」
「次の休み時間にトイレに行って試してみるといい」
「あたしのこと、からかっているんでしょう?」
「まさか。そんなくだらない奴に見えるかい、このオレが?」
「……」チビだけど勉強が出来て真面目で静かな男子、それがこれまでの印象だ。女の子にイタズラをして喜ぶような生徒ではなかった。それなら騙されたと思って話に乗ってやるのも面白いかもしれない。失うモノは何もないんだし。「わかった。次の休み時間にトイレで試してみるよ。その代わり何もなかったら、あんたにラリアットを食らわすよ」
「え、なに? ラリアットだって?」
「いいの、こっちのこと。気にしないで。次の休み時間に試してみるから」
「よかった。気に入ってくれたら嬉しいな」
 小池和美は転校生からメガネを受け取った。プラスチックで出来た安っぽい作りだった。ちょっと期待したが手にした途端に萎んでしまう。こりゃ、きっとダメだ。じゃあ、ラリアットか。
 授業終了のチャイムが鳴って、しばらくしてからトイレに向かった。誰も見ていないところでメガネを掛けるつもりだった。一人になるのを待つ。最後の女子がドアの外へ行くと、小池和美は鏡に向かった。ポケットからメガネを取り出し、そっと掛けてみる。
 「うわっ」思わず声が出て、反射的に後退りしてしまう。鏡には別人が映っていたのだ。だ、誰なの、この子? びっくりした。これってマジック? 綺麗な子だった。呼吸の乱れが治まってから、恐る恐る再び鏡の正面に立つ。この子の正体が知りたい。
「あれ?」何でだろう、あたしに似ている。あたしの面影があるじゃん。ま、まさか、……もしかして、これが自分の痩せた姿だったりして。でも、こんなに綺麗なはずが--。
 試しに小池和美は首を振ったり、何度も口を開けたり閉じたりしてみた。鏡に映った美しい少女も同じ動きをする。驚いた。これで確信した。な、なんて綺麗なんだろう。自分の痩せた姿に見惚れてしまう。
 ちよ、ちょっと待ってよ。こ、これって見方によっちゃあ、もしかして……もしかしてよ、まさかだけど……藤原紀香に勝っていない? 驚きの発見に額が汗ばむ。呼吸も乱れる。はあ、はあ。息苦しい。やだーっ。勝ってるよ。マジで、勝ってる。信じられない。もう嬉しくて嬉しくてトイレの中で奇声を発したいくらいだった。ラリアットでトイレの全てのドアを破壊したい。この喜びを表現するには、それしかない。感動で涙も出てきた。もう絶対に痩せよう。断食してでも痩せて--。あ、やばいっ。
 ドアが開く音がして女生徒がトイレに駆け込んできたのだ。小池和美は急いでメガネを外した。今、掛けている姿を見られちゃマズいと思った。
 手塚奈々だった。このメス猫野郎、人の邪魔をしやがって。バカだから、こんな時間になってオシッコをしに来るんだ。彼女が中に入って閉めたトイレのドアに向かって、小池和美は心の中で言い放った。「あんたが男の子たちに、ちやほやされなくなるのも時間の問題だよ。このあたしが次回の『二年B組女子ベスト・オナペット』で一位になるんだから」
 教室に戻って自分の席に座る前に転校生の黒川くんと目が合う。自然と笑みがこぼれた。それを見て相手が頷く。
 「どうだった?」
「これって、すっごい」
「だろう」
「あたし、買いたい。幾らなの?」ゆうちょの通帳に十万円の残高があった。
「いいよ、お金は。小池さんにあげるよ」
「うそっ」
「もう僕は使わないから」
「えっ、黒川くんも使っていたの? そんなに痩せているのに?」
「以前は太っていたんだ。ほら、証拠を見せよう」
 生徒手帳を取り出して、ページの間に挟んであった写真を見せてくれた。「ええっ」あたしよりも太っているじゃない。「こ、これが黒川くんだったの?」
「そうだよ」
「いつごろ? これって」
「半年ぐらい前かな」
「本当? たった半年で、こんなに痩せられるの?」
「そうなんだ。頭の中に自分の痩せた姿を常に思い浮かべていたからだと思う」
「イメージ・トレーニングが大切なのは聞いていたけど……、そこまで効果があるなんて」
「それにさ、食事なんかは同じ量を食べ続けていたんだぜ」
「え? ちょっと、待って」今の言葉もう一度、聞きたい。しっかり確認しないと。「つまり、食べたいモノを控えなくていいってこと?」
「うん」
「うわっ、信じられない」大好きなチョコレートが今まで通りに食べられるんだ。涙が出るほど感激。「黒川くん、本当にもらっちゃっていいの?」
「いいよ」
「ありがとう。すごく嬉しい」
「小池さん、そこで一つお願いがあるんだけど」
「何でも言って」あたしのヌードが見たいって思ってるなら、上半身は脱いでもいいわよ。下半身は自信がないけど、オッパイは両腕を使って寄せれば女らしいんだから。
「三月十三日の土曜日に『祈りの会』を開く予定なんだ。ぜひ出席して欲しい」
「なに、『祈りの会』って?」
「僕の願い事が成就するように、一緒に祈って協力して欲しいだけなんだ。たぶん一時間ぐらいで終わると思う」
「それだけ?」脱げとか触らせろ、を覚悟していただけに拍子抜けしてしまう。
「そうだ」
「出席するわ」本当にオッパイは見せなくていいのかしら?
「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」気が変わったら、いつでも言って。もう覚悟はできてるから。
 こんな凄いメガネを貰ったのに、『祈りの会』に出席するだけでいいなんてウソみたい。黒川拓磨くんには感謝してもしきれない。いつか何か御返しをしたかった。チビでも立派な人物っているもんだ。古賀千秋が生徒会長になっても、彼が正規の生徒でいられるように守ってあげよう。
 小池和美は下校途中でルピタに寄って、どっさりチョコレートを買う。帰宅すると自分の部屋に閉じこもった。勉強机の上に鏡を置いて自分の痩せた姿を見ながら、チョコレートを頬張る。鼻血が出ようが構わない。食べられなかったこれまでの分を取り戻す勢いで食べ続けた。口の周り、両手、鏡、目の前に置いた白いタオルが真っ赤になっても止めなかった。
 血が交じり合ったチョコレートの味はなかなかだ。結構いけるじゃないの。病みつきになるかも。ただし鏡に映った少女は、まるで恐怖映画に出てくる吸血鬼みたいだった。ニヤッと笑うと血だらけの唇の間から白い歯が現れて、恐ろしさが増す。うふっ。愉快。この血まみれの顔で相馬太郎や秋山聡史に襲い掛かってやりたい。首に噛み付いてやろうかな。きっと腰を抜かすぐらい驚くはずだ。
 あ、ダメよ。そんなんじゃあ。いいこと思いついた。
 まず獲物にラリアットを食らわせて気絶さす。目が覚めたところを吸血鬼の顔で驚かせてやるんだ。そして首に噛み付く。チビで馬鹿な連中を恐怖のドン底へ突き落としてやろう。
 ああ、卒業するまでに一度でいいからやってみたい。神様、お願いです。この小池和美にチャンスを下さい。それまで良い子にしていますから。
  
   21   

 ずる休み。今学期に入って四回目だ。母親は知らない。ざまあみろ。もうアンタの言いなりにはなりたくない。
 古賀千秋の母親に対する怒りと憎しみは、とうとう我慢の限界を超えた。これからは悪い事に手を染めてやろう。勉強だって、もうやる気を失いつつあった。
 さあ、今日はどうやって一日を過ごそうか。もうテレクラ遊びは飽きた。
 電話してバカな男たちと話すのは初めは愉快だった。なんとかデートにもちこもうと言葉巧みに誘ってくる。
 「歳はいくつ?」
「十八だけど」まさか十四歳とは言えない。十八から二十一歳の間で答えていた。 
「じゃあ、まだ学生?」
「そう」
「今日、学校は?」
「休んじゃった。最近は何もかもがつまらなくて」ここでエサを撒く。話の流れで、「ボーイフレンドと別れたばっかりなんです」と言うこともあった。
「気晴らしにドライブでもしようよ?」か、それとも「どっかで一緒に飲まない?」と誘ってくる。
「いいよ」行きません、なんて返事したことない。
 時間と待ち合わせ場所を決めて電話を切る。ほとんどがそこで終わり。約束はすっぽかす。以前に二度ほど男の声と話し方が良さそうだったので、待ち合わせ場所まで自転車で行ってみたことがあった。でも本人を見てがっかり。そ知らぬ顔で通り過ぎてやった。会話でバカな男たちを手玉に取るのは面白い。
 話していて、馴染みのある声に驚いたことがあった。聞き覚えがあるけど、なかなか思い出せない。誰だろう。しばらく話していて急に、相手の口調で思いつく。やばいっ。学年主任の西山先生だ、間違いない。古賀千秋は急いで電話を切った。これを最後にしてテレクラ遊びは止めた。
 今日もテレビのワイド・ショーを見て過ごすことになりそうだ。読みたい本もなし。聞きたい音楽もない。見たいレンタル・ビデオもなかった。でも、じっとしていると母親への怒りは募るばかりだった。
 何点取っても母親は満足してくれない。難しいテストで学年でトップの八十点を取れた時でも、自分は嬉しくても、母親の言葉は「その程度で喜んでいちゃダメでしょう。あんたには小川先生という家庭教師を付けているんだから、もっと頑張ってくれないと困る」だった。やる気を失う。怒りと憎しみを覚えた。
 七十点なんか取ろうものなら、家に帰ってからの叱責は恐怖に近いものがあった。前の席に座る手塚奈々が四十五点で世界制覇したみたいに大喜びしているのとは正反対だ。
 幼少の時に怯えた母親の言葉は、「ダメでしょう」と「早くしなさい」だ。小学校に入るとそれが、「何やってんの、あんた」と「いい加減にしなさい」、それと「何度言ったら分かるのよ、あんたは」の三つに変わる。
 三年生の時の作文で、ほとんど父親は家に居ないと事実を書いたところ、母親に怖い顔をされて叱られた。みっともないことは書かなくていいと言うが、どういう事がみっともないのか説明はなかった。
 生理が始まったときは、母親がどんな態度を取るのか分からなくて怖かったので伝えられなかった。一ヶ月近くも経ってから言ってみると、案の定で聞こえない振りをされた。娘が成長して女らしくなっていくことを快く思っていないことは明らかだった。胸が膨らみだして、「あたし、ブラジャーをした方がいいと思うんだけど」と控えめに言ってみると、返ってきた答えは「そんなの必要ない」だった。
 仕方なくクラスメイトの篠原麗子に付き合ってもらって、アピタで適当なサイズを選んで小遣いから買った。
 中学生になると勉強とクラブ活動で忙しくて、母親の話を聞いていられる時間が少なくなる。すると「こんなに苦しんでいるのに愚痴の一つも聞いてくれないの」という言葉を浴びせられた。
 もう子供じゃない。話の内容が理解できるようになって、母親にも非があることが分かる。ところがそこを突くと、「あなたに何が分かるの」と「あたしがどんなに大変だったか知らないくせに」と激しく反撃してきた。
 クラブ活動で疲れて帰ってきたところを、成績のことで文句を言われて、とうとう不満が破裂する。「お母さんが中学生だった時よりも、あたしはいい点を取っているんだから黙っててくれない」と言い返した。母親はやっと君津商業へ進学できるぐらいの成績だったと、父親から聞かされていた。ショックだったのか、しばらく沈黙が続いた。母親は静かに部屋を出て行った。
 その後の母親は人に会う度に、「あたしは子育てに失敗した」と本人を前にして言いふらす始末。あの女ならではの仕返しだ。自分を否定されているようで酷く辛い思いをさせられた。
 もう許さない。絶対に許してやらない。
 良い子でいること、いい成績を取ることを強く求められ続けて、もう疲れた。それは娘である千秋の為ではなかった。すべてが世間体の為だ。もうイヤだ。母親の操り人形でいることに耐えられなかった。
 「あんたの為だから」という言葉にもうんざり。そう言っては娘の行動に干渉してきて自由を束縛するのだ。
 これからは自分のやりたいように生きていく。服も着たい服を着る。肌の露出が大きいセクシーなのが好き。ミニスカートが穿きたかった。脚には自信がある。あのバカな手塚奈々にも負けていないと思う。
 ルピタとかで女らしくて大人っぽい服を選ぶと、母親は顔をしかめてこう言う。「千秋には似合わない。そんな服を着て歩いているところを人に見られたら、何て思われるかしら。ダメよ、ほかのを選んで」
 ずっと地味で野暮ったい服ばかりを着せられ続けた。まだ中学生なのにオバさんみたいな格好だった。このままだと母親みたいな大人になってしまう。そんな危機感を覚えた。
 オシャレな服が着たい。母親は買ってくれないから自分の小遣いで買うしかない。
 幸いにも山岸涼太と相馬太郎、それに前田良文の三人が、千秋が指定した商品を万引きして安く譲ってくれた。連中から切れ者の関口貴久が転校して抜けたことは心配の種だったが、ビジネスは今のところは順調に行っている。
 ここにきて古賀千秋は新たなアイデアを思いつく。山岸たちの万引きグループに加わることだ。欲しい物を自分で盗めばリスクはあるが金を払う必要がなくなる。それと母親を失望させる行為をしているという満足感が得られるのだ。
 「ねえ、あたし達も仲間に入れてよ。今度、一緒に行きたい」古賀千秋はリーダー格の山岸涼太に言った。
「ちょっと、待ってくれ。仲間って、どういう意味だよ」
「万引きグループに決まってるでしょう。あんた達が万引きした品物を学校で安く売っているのは、誰もが知っているわよ」
「古賀さん、声が大きいよ。今は、もうやっていないってことになっているんだから」
「あら、そうなの」
「そうさ。相馬が駅前のコンビニで捕まってからは、足を洗ったってことにしてあるんだ」
「でも、色々と売っているじゃない」
「どうしても金が必要なんだ。それで仕方なく」
「あたし達もやりたいの。一緒に連れてってよ」
「マジかよ、学級委員の古賀さんが……」
「本気よ」
「女には無理だぜ。ヤバい仕事なんだ、やらないほうが--」
「そんなこと分かっている。でもやりたいの」
「困ったな」
「あたし達のこと、足手まといだと思っているんでしょう」
「当たり前だろ」
「そんなことは絶対にない」
「どうして」
「あんた達が最も多く売る商品って、ほとんどが女物じゃないのかしら」
「そうだけど。可愛い下着なんかは女子が必ず買ってくれるんだ」
「女連れの方が商品に近づいても不審に思われないわよ。あたしと山岸くんで恋人同士みたいにいちゃついて、店員の注意を引くこともできるじゃない。仲間の仕事をし易くするのよ。どう?」
「なるほど」
「切れ者の関口くんが抜けた穴を、あたし達二人が埋める」
「分かった。古賀さんの言う通りかもしれない。一応、仲間に相談してみるよ。ところで、もう一人の女って誰なんだい?」
「小池和美よ。あの子は、あたしの言いなりだから」
「やっぱりそうか」
 これで決まりだった。次の土曜日が初仕事だ。その日のために古賀千秋はスニーカーや目立たない地味な服を選びながら、期待に胸を膨らませた。 
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