3 苦い水
文字数 3,115文字
詳しい事情までは聞かなかったが、車椅子を押していた孫娘は両親がいないも同然で、老女が育ててきたそうだ。
老女は何年か前に倒れ、左半身と
そこで老女は、おふくろと同じホームへ入所を決めたというわけだった。あの日がちょうど入所日で、みんなで送り届けにきたということらしい。
みんな、というものについて、瑠都はやけに熱心に説明した(正直、俺にはどうでもいいことだったのだが)。
まず、自家用車を出して、みんなを乗せてくれたのが、野々辺だ。
これは野々辺の妻(
瑠都は、もともとおふくろと同じ教会に通っているから、老女と孫娘とは昔からの顔なじみだ。老女たちがおふくろのホームに行くと聞いて、「空席があれば乗せてほしい」と
ついでにおふくろの顔も
そして、日曜の午前中の礼拝が終わったところで、みんなで車に乗りこんだ。
「びっくりしたわよ、野々辺さんの御主人って、コウちゃんだったんだもの」
瑠都は声を弾ませた。野々辺公助は中学時代の同級生で、ともにクラス委員をやった仲だと楽し気に語る妹に、俺は苦笑するしかなかった。
「だから、兄さんにとっても後輩よ」
「まあ、そうだな」
「狭い街だからね」
瑠都のくぐもった笑いが、耳に冷やりと触れた気がした。
その狭さがたまらなくて、俺は
ひととおり事情説明が済んだあと、
「お願いがあるんだけど」
と、あらたまった
これが本題だ、と直感した。
本題に入る前に、いいだけ別の話題で回り道するのが、昔からの瑠都の癖だ。四十を過ぎているくせに、進歩のないやつである。
「一度、教会に来てほしいの。日曜の礼拝に出てくれない? 子どものころは出たこともあるでしょ。たいして変わっていないから。大丈夫だから」
「いや大丈夫とか。そういうことじゃなくて。なんで俺が教会に行かなきゃならないんだ」
「お母さんのお友達のみなさんと、話してほしいの。牧師の先生とも。みんな心配してるから」
「おふくろの件は、俺たち家族の問題だろう。他人を巻きこんだり、他人に干渉されたりするべきじゃないよ」
「そうだけど。家族みたいに支え合ってきた人もいるのよ。兄さんは知らないから」
語尾に怒りが
確かに昔、おふくろと瑠都と一緒に教会へ行ったことは何度かある。行く度に、
「あの教会っていうところは、昔から好きになれないんだ。悪いが断る」
通話を切る直前、瑠都のため息が聞こえた。
しかし、俺は結局、教会へ行った。
ホームを訪ねた翌週の日曜だった。きちんと話せば、治療に賛成してくれる味方もいるかもしれないと考えたのだ。
沼津の市街地を流れる
俺はひさしぶりに、生まれ故郷の街を歩いた。
やはりその日も
涼しくもなく、暑くもないぬるい空気に、狩野川の水の匂いが混ざっていた。
うんと昔、家の玄関の下足箱の上に、忘れ去られたように置かれていた、金魚の水槽の匂いを思い出した。
金魚が見えないほどに
教会は昔と変わらず、公民館と大差のない質素な建物で、灰色の景色に
あれは小学三年くらいのときだったと思う。日曜学校に連れて来られて、キリスト教会と聞いてきたのに、マリア像もイエス像もなく、絵画的なステンドグラスや宗教画もないのを不思議に思い、おふくろに尋ねたことがあった。
「そうね、ないわねえ。プロテスタントだから、ないのよねえ」
おふくろはなぜだか、けらけらと笑った。
単純に、子供に質問されてうれしかったのかもしれないし、
だが俺は、
思えばあれ以来、二度と教会に足を向けなかった。
礼拝自体は難なくやり過ごした。別段、害のあるものではないし、おとなしくしていれば事もなし、だ。
けれども礼拝が終わるなり、俺は婦人たちに取り囲まれた。瑠都の手が回っていたのだ。
「本人が望んでいないのに、本当に
「よく話し合って」
「心配なのよ、私たち」
「あなたの気持ちはわかるけど、花菜さんの気持ちも考えて」
六十代から最高齢は八十代も後半だろうか、いかにも
教会の婦人たちは子どものころから苦手だった。
ひらひらした生地のワンピースや、サマーツイードのセットアップなど、その人なりに気を使ったよそいきの装いに、イヤリングやネックレスを光らせて、香水なのか化粧品なのか知らないが、俺には耐性のないムッとする匂いをふりまいている。
つまりは〝女くさい〟のだ。
そして
「
本当に自立して、社会で仕事をして生きている女は、こういう軽はずみな――無責任に他人の人生に口出しするような――もの言いはしないものだ。
親切そうに見えて、偽善の匂いがする。その点も、俺は好きじゃない。
とにかく、
「先日はどうも」
人垣の向こうから、男の声が飛んできた。野々辺だった。
婦人らは反射的にふり返り、おかげでわずかに道が開いた。すかさず「失礼します」と通り抜け、針の
「モーセの海割りだね」
助かった、と謝意を素直に表すかわりに、冷やかし半分の言葉で気まずさを隠し、ネクタイを緩めていたら、瑠都が寄ってきて言ったのだ。
「相談にのってあげて」と、野々辺に向けて。
困り顔で、それだけを。
しかして、野々辺は、
「うちの夫婦は、クリスチャンではありません」
答えに代えて、俺に向かって宣言したのだ。