9 立ち枯れ紫陽花

文字数 2,224文字

 教会の前庭に、紫陽花(あじさい)が咲いている。
 咲いているというよりは、花弁が(正確には花弁ではないと、ネットの記事か何かで読んだことはあるのだが)枯色(かれいろ)に乾いていて、まるでドライフラワーである。どういうわけか葉や茎のほうは瑞々(みずみず)しく、花だけが生きるのを止めてしまったみたいだった。
「来てくれたのね。朝一の新幹線?」
 教会の入口から、瑠都(るつ)が出てきた。黒いワンピースに真珠のネックレス――喪服を着ているわりに、表情は柔和(にゅうわ)である。
 今日は、おふくろの葬儀式だ。仏式でいえば、告別式にあたるものだという。

 教会の親しい人達で送ってもらうほうがいい。俺は邪魔(じゃま)だろう。そう思っていた。
 だから「葬儀には出ない」と言ってあったのだが、昨夜の〝前夜(ぜんや)祈祷(きとう)会(仏式の通夜にあたるものと聞いた)〟を欠席したら、居ても立ってもいられなくなった。
 ゆうべはまんじりともできず、結局、早朝の新幹線に乗ってしまった。
 今朝、まだ夜も明けきらぬうちに、妻と息子を起こさないようこっそり起きたら、リビングと続き間になっている和室の壁に、俺の喪服がかけてあった。行かないと言ってあったのに、妻が出しておいてくれたのだ。

 奏者の指ならしか、教会の奥からオルガンの音が響いてくる。
「やっぱりこれ、兄さんが持っていて」
 青い紫陽花の色の封筒を、瑠都は差し出した。おふくろの手紙である。
 野々辺からそれを受け取ったあの日、病院で、息をしなくなったおふくろの、紙風船に似た亡骸(なきがら)の横で、「お前も読め」と俺が瑠都に渡したきりになっていた。
「だって」
 瑠都は一度言葉を切って、気を取り直したように笑顔をつくった。
「最初から私に渡せば簡単なのに、お母さんはそうしなかった。ほかの人の手をいくつも経て、兄さんに届くようにした。だから、兄さんが持っているほうがいいのよ」
 ほんとうにそれが、おふくろの意図だったのかどうか。俺にはわからない。
 むしろ〝結局、俺には届かなかった〟という結果もありとして、他人に預け、賭けをしたんじゃないかという気さえする。
 いまとなってはそれこそ、神のみぞ知る、というものだが。
「紫陽花は、おふくろの好きな花だったよな」
 あえて話を変えながら、俺は封筒を受け取った。
「え、そうかな?」
 瑠都は首を傾げ、
「ルピナスとかアネモネとか、それにアルストロメリアが好きだったよ」
 遠い目で、白い歯を見せる。
 どれも、聞いたことのない花の名だった。自分の知っている花だけを、俺はおふくろの好きな花として覚えていたということだ。
 おふくろの何を、俺はわかった気になっていたのだろう。

「この紫陽花、枯れてるのか」
 動揺を悟られまいとして、話を()らした。
「うーん、環境にもよるんだけれど……」
 重要な問いじゃないのは明らかなのに、瑠都はやけに真面目に説明を続けた。
「こうして植えられている紫陽花は、たいてい、花の季節が終わると、花首(はなくび)から上を切り落としてしまうの。そのほうが株に栄養が溜まって、翌年もきれいに咲くから。でも、こうして花を切らずに放っておくと、その場所の条件によっては、花びらが散らないで、こんなふうにドライフラワーみたいな状態になるのよ。いい意味で〝立ち枯れ紫陽花〟とか言って、好む人もいるみたい」
 俺が黙って聞いていると、瑠都はさらにつけ足した。
「うちの教会は、信徒が高齢化してるでしょ」
 思わず俺も、苦笑いで同意する。六月に、瑠都に()われて礼拝に出たとき、信徒に高齢者が多かったのを思い出したのだ。
「つまり、老いと向き合う人が多いのね。おかげで、『散ってもいないのに、花を切るなんて忍びない』って声があるの。だから、こうして残してる。たまたまここは条件がいいみたいで、毎年こんなふうに、きれいな花の形を保ったままで枯色(かれいろ)に退色するの」
 小鳥が二、三羽にぎやかにさえずり、突然、近くの立ち木から飛び立った。

「終わりの迎え方はいろいろあっていい。そうでしょう」
 瑠都はしみじみと言い、俺は目を伏せた。皮肉などでないのはわかっているが、俺には重い言葉である。
 おふくろに、そう言ってやれればよかったのだ。いまごろ思っても、どうにもならないのに。
「お父さん」
 背後から呼ばれてふり返ると、妻と息子が立っていた。息子は学生服、妻は喪服だ。
「来たのか」
 つぶやくと、
「そりゃそうよ」
 妻が応えた。
「亡くなった人とお別れするのに、宗教の違いもなにも、ないじゃないの」
 妻は俺の反応など待たずに、つかつかと瑠都に向かって進み、「お数珠(じゅず)はいらないんでしたよね」と挨拶(あいさつ)している。
 息子はズボンのポケットに手を入れて、つまらなそうに立っている。
 目が合って、
「いいのか、勉強は」
 などと()いてしまった。
「いいよ。一日ぐらい。夏休みだし」
 息子のほうも、ぶっきらぼうな物言いだった。かえって、血の通った温度を感じ、不意打ちのようにじんとくる。ずいぶん久しぶりに息子と会話をした気がした。そして、ああこいつもすっかり変声期を終えていたんだなと、なぜか、明確に意識した。
 ふと、あんかけスパの店で見た、親子の姿が脳裡(のうり)をよぎった。
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