8 ロードノイズ
文字数 1,526文字
太陽が真上から照りつけていた。
路面には陽炎 が揺れていて、律儀に車から降りて待っていた野々辺 は全身が白っぽかったせいもあり(白いポロシャツにベージュのチノパンだった)、蜃気楼 を思わせた。
その日は俺も大差のないラフな格好だったから、近づいても野々辺は俺と気づかず、至近距離で「やあ」と挨拶 したら、うろたえた。
「当社もクールビズでね」
「他社の車ですみません」
俺たちは、ほぼ同時に言い訳がましく発し、互いに苦く笑った。
仕事中かと尋ねると、有休をとったと野々辺は答えた。
「〝幼馴染 の親御さんが亡くなった。急だけど、ちょっと手伝ってくる〟と言ったら、〝そういうのはいつだって急なもんだ。早く行ってやれ〟だって。地元の小さい会社も、けっこういいもんですね」
助手席に座った俺に向け、野々辺は不器用にほほ笑んだ。
「実は、この車。母の介護のためにと思って、沼津 に来るときに買ったんです。それなのに、母のためには一度も使う機会がありませんでした」
その切なさを割り切って、こうして穏やかに語れるようになるまでに、この男はいったいどんな日々を乗り越えたのだろう。
俺はなにも言えなかった。
エンジンをかけたあと、ギアをパーキングに入れたまま、彼は体をひねってセンターコンソールの収納ボックスを開けた。
取り出したのは、紫陽花 色の封筒だった。
「花菜 さんから、預かった手紙です」
静かにそれを俺に手渡し、野々辺は車を発進させた。
「中身は見てないし、知りません」
花菜が愛子 に預け、愛子が孫の礼 に預け、礼が野々辺の妻を介して彼に預けたというのが、ここに至る経緯らしかった。
「なんで娘の瑠都 さんに預けずに、他人の手を借りてこんな面倒な経路でって思うでしょう。私も思いました。だけど」
俺にはまったく視線を向けず、不自然なほど顔を前方に向けたまま、野々辺は言いにくそうに言葉を継いだ。
「『自分が死んだら、渡してほしい』と、それが花菜さんの強い希望だったらしいので」
いかにもおふくろの言いそうなことだった。
「瑠都さんに預けると、すぐに渡してしまうんじゃないか。兄妹で読んでしまうんじゃないかって、心配したみたいですね。本当は礼ちゃんに預けたところで止めたかったんでしょうけど、彼女はもう東京暮らしでしょう。いざというとき、自分じゃ間に合わないだろうから、と。それで、うちの夫婦に頼んできたんです」
どうせ恨 み言 でも書き綴 った手紙だろう、俺が最後まで、おふくろの気持ちを無視したことへの。
嫌な予感は的中したと、胸の内は苦い気分にまみれていたが、受け止めなければならないという覚悟も嘘ではなかった。
せめて受け止めてやらなければ。そのくらいは、長男であるこの俺が。
俺は深呼吸をひとつした。
野々辺は、一人でしゃべり続けていた。
「正直、礼ちゃんには荷が重かったでしょう。こういうのは大人の仕事です。それに、うちは子供がいないから、妻なんか礼ちゃんが娘みたいに思えるとか言っていて」
しかし、俺が封筒の端を破って便箋を取り出し広げると、彼はぴたりと口をつぐんだ。
視野の隅を、ひっきりなしに真夏の緑が流れていた。
それがとてもうるさく思えた。耳元でずっと蝉 が鳴き続けているみたいに、うるさく感じたのだった。
実際は、病院に着くまで野々辺はしゃべらず、ラジオや音楽もかけようとはせず、二人きりの車内に響いていたのは、単調なロードノイズだけだったのだが。
路面には
その日は俺も大差のないラフな格好だったから、近づいても野々辺は俺と気づかず、至近距離で「やあ」と
「当社もクールビズでね」
「他社の車ですみません」
俺たちは、ほぼ同時に言い訳がましく発し、互いに苦く笑った。
仕事中かと尋ねると、有休をとったと野々辺は答えた。
「〝
助手席に座った俺に向け、野々辺は不器用にほほ笑んだ。
「実は、この車。母の介護のためにと思って、
その切なさを割り切って、こうして穏やかに語れるようになるまでに、この男はいったいどんな日々を乗り越えたのだろう。
俺はなにも言えなかった。
エンジンをかけたあと、ギアをパーキングに入れたまま、彼は体をひねってセンターコンソールの収納ボックスを開けた。
取り出したのは、
「
静かにそれを俺に手渡し、野々辺は車を発進させた。
「中身は見てないし、知りません」
花菜が
「なんで娘の
俺にはまったく視線を向けず、不自然なほど顔を前方に向けたまま、野々辺は言いにくそうに言葉を継いだ。
「『自分が死んだら、渡してほしい』と、それが花菜さんの強い希望だったらしいので」
いかにもおふくろの言いそうなことだった。
「瑠都さんに預けると、すぐに渡してしまうんじゃないか。兄妹で読んでしまうんじゃないかって、心配したみたいですね。本当は礼ちゃんに預けたところで止めたかったんでしょうけど、彼女はもう東京暮らしでしょう。いざというとき、自分じゃ間に合わないだろうから、と。それで、うちの夫婦に頼んできたんです」
どうせ
嫌な予感は的中したと、胸の内は苦い気分にまみれていたが、受け止めなければならないという覚悟も嘘ではなかった。
せめて受け止めてやらなければ。そのくらいは、長男であるこの俺が。
俺は深呼吸をひとつした。
野々辺は、一人でしゃべり続けていた。
「正直、礼ちゃんには荷が重かったでしょう。こういうのは大人の仕事です。それに、うちは子供がいないから、妻なんか礼ちゃんが娘みたいに思えるとか言っていて」
しかし、俺が封筒の端を破って便箋を取り出し広げると、彼はぴたりと口をつぐんだ。
視野の隅を、ひっきりなしに真夏の緑が流れていた。
それがとてもうるさく思えた。耳元でずっと
実際は、病院に着くまで野々辺はしゃべらず、ラジオや音楽もかけようとはせず、二人きりの車内に響いていたのは、単調なロードノイズだけだったのだが。