4 泥の底

文字数 2,914文字

 あんかけスパが、湯気(ゆげ)を上げて運ばれてきた。
 カウンターの向こうの厨房(ちゅうぼう)では、白髪(はくはつ)のマスターが次のオーダーのために鍋を振っていて、その面影には覚えがあった。昔は黒髪だったけれど。
 皿を運んできた丸眼鏡(まるめがね)の若者は、見ず知らずの青年だった。
 昼時とあって、俺たちの後にも客は入り、ぎこちない高校生くらいのカップルと、四人連れのファミリーが、それぞれテーブル席を占めていた。
「ではどうぞ、ごゆっくりお召し上がりください」
 俺の前にはソーセージつき、野々辺の前にはトンカツつきのあんかけスパの皿を置き、丸眼鏡の青年は会釈(えしゃく)をして戻って行った。

 あんかけスパというのは、中華のあんかけ料理さながら粘性のあるソースを絡めたスパゲティのことである。沼津(ぬまづ)の場合は、その横にこんもりとライスが盛られる。
 スパゲティとライスをワンプレートに収める、沼津スタイル。その見た目にまず郷愁(きょうしゅう)を刺激され、ひと口含んで(なつ)かしさにうなった。名古屋のあんかけスパほどソースに胡椒(こしょう)がきいておらず、ほどよい甘辛さである。
「東京で、リストラされたんですよ」
 野々辺が、思わぬ話を切り出した。俺たちの間に横たわる居心地の悪さを、彼なりに、なんとかしようとしていたのかもしれない。

「去年まで、東京の広告代理店に勤めていたんです。妻は都内のFM局で、ディレクターをしていました」
 黙々とフォークを動かす俺に、野々辺は勝手にしゃべり続けた。
 そういえば、おふくろのホームで会った野々辺の妻は、どことなく都会的な空気を漂わせる女だったと、ぼんやり思う。野々辺よりずいぶん年下に見えた。
「早期退職優遇制度を〝自発的に選択した〟ってことになってますけど。まあ、実際は肩を叩かれていたんです」
 ちょうどそのころ、沼津に暮らす母親の具合が悪くなっていたのだと、野々辺は語った。父親は五年前に亡くなっていて、母親は沼津の実家で一人住まいをしていた。
「母の面倒を見るという口実で、戻ってくれば家もあるし、親戚の会社で雇ってもらえる話もある。それで、妻にも仕事を辞めさせて、越してきたんです」
 そんな話を、どうして俺に聞かせるのか。居心地の悪さを解消したいだけならば、もっとふさわしい話題があるだろう。

「それなのに」
 野々辺は一度、言葉を呑んだ。そして、
「すとんと、命が落ちたんですよ」
 再び、息をかみ殺した。
 野々辺の母は、息子夫婦が越してきて、わずか半年で他界したという。夏を越え、これから涼しくなるという時に、「すとんと命が落ちた」と、彼は表現した。
 気の毒な話ではあるけれど、俺は心の内で、瑠都(るつ)(にら)んだ。
 野々辺は母親を見送った。
 だからか。

 俺の席からは、野々辺の肩ごしに、四人連れのファミリーが見えていた。
 中年の両親が並んで座り、テーブルを挟んで親と向かい合う形で兄妹が並んで座っていた。兄のほうは、俺の息子と同年代だろうから、たぶん中学生。妹は小学三年くらいに見てとれた。
 兄の少年は、明らかに親との会話を煩わしがり、〝かったるい〟ポーズをとっていたが、妹に慕われるのはまんざらでもないらしく、中途半端な態度になっているのが微笑(ほほえ)ましかった。
 マスターがまだ黒髪を後ろでひとつに縛っていたころ、俺と瑠都とおふくろと親父も、あんなふうに映っていたのかもしれない。
 この店に、家族四人で来たことがある。そんなことを、芋づる式に思い出した。俺が中三で、瑠都が小三のときだったのではないか。

「私も立つ瀬がないっていうか。キツかったです。けど、それより、妻に悪くて」
 野々辺の声に、我に返った。
「今日は、奥さんは」
 俺が質問するなんて思ってもみなかったという顔で、野々辺は細い目を丸くした。
(れい)ちゃんのところ、東京です。いろいろ買い物につき合って、案内してやるとかで」
 礼というのは、あの車椅子の老女の孫娘だ。そういえば野々辺の妻とは、バイト先が同じだったとかなんだかで、親しい間柄(あいだがら)らしいと瑠都が話していた。
「妻は礼ちゃんと知り合ってから、なんだか生き生きしています。喜ばしいことなんですが、私のほうは、なんていうか、取り残された気分でして」
 それで一人で教会に来てみたんですと、野々辺は話を結んだ。

「やめてくれ」
 思わず発したひと言に、野々辺は唖然(あぜん)として、かたまった。
 取り残された気分でして――。
 その言葉が、耳に引っかかってこだましていた。
 取り残された気分だと? 子どものころ、日曜といえばおふくろと瑠都は教会へ行き、親父は寝てばかりで、俺こそが取り残された気分だった。
 長い間、心の底に泥のようにたまっていた感情が、一気に沸騰(ふっとう)して爆発せんとふくらんだ。
 しかし口から出たのは、別の言葉だ。
「伊豆の国市にある、J大学の医学部付属病院。あそこへ母を移します。みなさんは反対のようだがね」
「いえ」
 笑みを消し、真顔(まがお)で首をふる野々辺に、俺は続けた。
「おふくろはいま、確かにホームを動きたくないと言っている。だがそれは、まだ痛みが少なくて、起きて動き回れるからだろう。いざ病状が悪くなって、死を間近に感じたらどうなるか、考えてみてくれ。できる限りの治療を受け、一秒でも長く生きたい、そう望むんじゃないのか? だったら、手を打つのは早いほうがいい」
 でないと、手遅れになる――。
 俺が話し終えるのを、辛抱(しんぼう)強く待っていた野々辺はぽつりと言った。
「後悔したくない、ということですね」
 自身に言い聞かせるふうでもあったその言葉をかみしめるようにして、野々辺は食べ残しのソースが泥めいて見える皿の上で、意味なくフォークを動かしていた。

「後悔しているのか、君は」
「難しい。わからんです」
 蛇足(だそく)であるのを承知で俺は訊き、野々辺は低くうめいて腕を組んだ。
「ただ……私たちが越してきたせいで、母の死期を早めたかもしれない。でも逆に、越してこなかったらどうだったのか。母が生きている間は負い目を感じ続けただろうし、逝った後はきっと、いまより後悔したでしょう」
 いずれにしても、楽じゃないです――。
 野々辺は(くちびる)を引き結んだ。彼もまた、心の底にこごった泥を、のぞきこんでいるかのように。
 そのあとは、静寂に勝る言葉を互いに持ち合わせておらず、めいめいに会計を済ませて店を出た。

 ずっしりと疲れていた。
 午後はホームを訪ねる予定だったが、「今日は行けない」とおふくろの携帯にメッセージを送り、新幹線に乗りこんだ。
 午後の早い時間のせいか指定席がとれたので、スマートフォンの電源を切ってシートに身を埋め、まぶたを閉じた。
 泥のように眠りたかった。
 誰もいない、光も音も届かない、泥の底に深く沈んでしまいたかった。
 二度と浮き上らなくてもいいと思うくらいに。
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