7 こんなに早く

文字数 1,967文字

 野々辺(ののべ)の母は、盆を越えて秋口に逝った。
 おふくろは、盆を越えられなかった。
 八月の第二週のことだった。ちょうど朝、出社したところで瑠都(るつ)からスマートフォンに電話がきた。

「急がなくてもいいから、来て」
 瑠都はこれまでに聞いたどの声よりも優しげな声を出していた。
 おふくろの容体が急変したのは早朝で、すでに「息がない」という話だった。我ながら不思議なくらい冷静で、会社には口頭で説明し、妻には短くメールして、そのまま名古屋駅へ向かい、東京行きのこだまに飛び乗った。伊豆(いず)(くに)市の病院へは、三島で伊豆箱根鉄道の駿豆(すんず)線に乗り換えることになる。
 妻からは〝気をつけてね〟と返信がきた。それ以外になにを言ったらいいのか、わからないのだろう。
 こちらが返信するより前に、追っかけで〝一度家に戻らなくていいの?〟とメールしてきたが、とりあえず夜には戻るから大丈夫だと打ち返した。
 今日はまだ葬儀ではないのだから、着替える必要もなければ、特別に持っていく物もない。スマートフォンと財布があれば、じゅうぶんだろう。まるでふらっと顔を見に行く程度の軽装だ。
 しかたなく、
「こんなもんかよ」
 と自問して、
「こんなもんだよ」
 と自答した。

 新幹線は、浜名(はまな)湖を越えて走っていた。
 親父もまた、十年前にがんで死んだ。そのときの光景が、車窓にだぶった。
 葬儀は沼津(ぬまづ)で執り行われた。俺たちは家族三人で、やはりこだまで沼津へ向かった。
 息子はまだ小さかった。現在中三だから、当時は五歳で、幼稚園児だったはずだ。
 その息子が、往路の新幹線で車窓に張りつき、「富士山!」を連呼して、はしゃいでいた様子が目に浮かんだ。
 俺はその記憶を、目の前の車窓に重ねた。ガラスの向こうでは、木々や畑や家並みが飛ぶように後ろへ消えていく。その景色の上に息子の記憶を再生し、何度も巻き戻してひたすら再生し続けた。
 他の思考を打ち消すために。

 浜松(はままつ)を過ぎた辺りだった。
 マナーモードにしていたスマートフォンが、胸ポケットのなかでふるえた。出して見ると、表示されているのは見知らぬ番号だった。
 平常なら無視するところだが、こういうときだし関係者からかもしれないと思って出てみると、
花菜(はんな)さんのこと、聞きました」
 野々辺だった。
「それで……」
「なんだって? ちょっと待ってくれ」
 先を続けようとする野々辺をたしなめ、俺はほとんど機械的に座席を立った。
「いま新幹線なんだ。デッキに出るから」

 デッキに出ると、騒音に対抗するように彼は声を張り上げた。
三島(みしま)駅でピックアップしますよ。病院まで車で送ります」
 なんでまた。
 意表を突かれ、絶句した。
 しかし理由を問うより早く、
「渡したいものがあるんです。というか、渡さなきゃいけないもの、です」
 野々辺がまくしたて、俺は嫌な予感がした。
「立ち入るようで、申し訳ないんですけど」
「いや」
 どんなに嫌な予感がしても、たとえそれがどんなものでも、受け止めなければならないのだろう。一種の覚悟というか、諦めが、胸の底からじわじわと広がってきた。

「三島駅の南口でいいですか。車で待ってます。白のハッチバックで、車種は……」
「当ててやろうか」
 本人が口ごもった(すき)に、俺のほうから正解を告げてやると、彼は一瞬、息を呑んだ。
「そのとおりです。前に話しましたっけ」
「ホームの駐車場で見たんだよ」
 はじめて野々辺と会った日に、迎えのタクシーを待つ間、駐車場が目に入った。あの人数と車椅子を楽にのせられる車は、ホームが所有する車両――側面に施設名が大きく描かれているワンボックスだ――以外には、それしかなかった。
「商売だからね」
 いまさらながら、俺は自動車メーカーの営業職である。
「さすがですね」
 野々辺はそれまでの緊張した口調をゆるめ、電話の向こうで笑んだようだった。
「じきにトンネルに入るから」と、俺は三島駅に着く予定時刻を伝えて会話を切り上げた。

 あのころ――老人ホームの駐車場で、野々辺の車をはじめて見た日――おふくろはまだ生きていて、比較的元気であり、親友との再会を喜んで、泣いていた。愛子という老女と、これから同じホームで暮らせる期待に、胸を躍らせていたに違いない。
 そんな彼女の気持ちを、俺は少しも考えようとはしなかった。
 突然、車窓が真っ暗になった。俺はデッキに立ち尽くしていた。反響する走行音が耳をふさいだ。
――こんなに早く死ぬのなら、好きにさせてやればよかったじゃないか。
 俺自身に責められて、轟音(ごうおん)にまぎれて舌打ちした。
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