5 近くて遠い

文字数 1,869文字

 日没前に名古屋に着いた。
 沼津(ぬまづ)は雨だったのに、名古屋は快晴で、ひどく暑かった。
 街の色、雑踏(ざっとう)の音、人の速さ、時間の肌触り、感じるものすべてが異なっていて、新幹線でたった二時間の距離が、取り返しのつかないものであるように思え、俺は軽い吐き気を覚えた。

「どうして、いつもスーツを着て行くの。日曜なのに。というか、里帰りでしょうに」
 なかばあきれた妻の声が、水のなかで聞くみたいに鈍く鼓膜(こまく)に伝わってきた。
 息子が生まれた翌年に、中古で買った3LDKのマンションは、インテリアから何から妻好みにコーディネートされていて、俺にとっては自分の家という実感が薄い。
 リビングの続き間の和室で、俺の脱いだスーツにスチームを当てながら、彼女はソファにいる俺に向かって話していた。
 息子は受験生だから、沼津へ気軽に行ける時間はなく、必然的に自分もそうだ、と。
「お義母(かあ)さんのお世話はしたいけど、なかなかね」
 そんなようなことを、いつまでも。俺の承認がほしいのだろう。
「しかたないよ」とか「気にするな」とか、言ってやれればいいのだが、俺にそんな余裕はなかった。
 手助けできないなら、せめてほうっておいてくれ。
 むしろそう言ってやりたい心境だった。
 まいっている当事者に、手助けできないことを承認してほしい(許してほしい)と求めるなんて、甘えだろう。何もできないのはバツが悪いのかもしれないが、そのくらいの心の(もや)は自分自身で抱えてくれ。払拭(ふっしょく)するために、俺を利用しないでくれ。
 ひと言でも発したら、(せき)を切ったように気持ちを吐露(とろ)してしまいそうで、俺はひたすら黙っていた。

 妻はひと回りも年下である。
 野々辺の妻をずいぶん若いと思ったが、俺たち夫婦もハタから見れば同じようなものなのかと、そんなことに気がついた。
 結婚する時に、彼女の側から出された条件が、
「キリスト教の勧誘をしないこと」
 だった。
 俺自身が勧誘されたくない人間だから、別段問題はなかったし、むしろそういう相手だからこそ選んだとも言える。〝妻も無宗教だから〟というのを強みに、おふくろや瑠都とほどよい距離がとれるのは、好都合だった。
 うまくやってきたのだ。
 これまでは――。

「お義父(とう)さんの時は、普通のお葬式だったわよねぇ」
 妻は何気なく――あるいは俺が黙っているせいで、間がもたなくて――軽い気持ちで言ったのだろうが、その言葉を俺は聞き流すことができなかった。
 おふくろの死については、すでに覚悟するべき状況で、それなりに準備も必要なのだとわかっているから、葬儀について言われるのは、別にいい。
 また、なぜいま、このタイミングで妻がそんな話をふってきたのかといえば、彼女の関心が、その日俺が教会へ行ったという事実のほうに向いているせいだということも、察してはいた。
 その上で、俺が聞き流せなかったのは「普通のお葬式」という言葉だ。

「普通のお葬式」とはつまり仏式で、いわゆる〝ふだんは無宗教〟の人びとが、その場だけ(と、あえて言おう)神妙な顔で読経を聞き、意味も知らずに見様見真似で焼香(しょうこう)をする、あの状況を言っているのであり、いくら一般的によくあることとはいえ、それを「普通」と言うのには、俺には抵抗があったのだ。
 じゃあ、なんなのと問われても困るし、喧嘩(けんか)になっても面倒(めんどう)なだけではあるけれど。
 たとえば抹香(まっこう)の香りにありがたさや、なにか厳粛(げんしゅく)なものを感じ、仏前では信心深い気持ちになって手を合わせているというのなら、その人は、無宗教じゃなくて仏教徒だろうと思う。

 俺の場合、仏式の葬儀ではもちろん焼香も合掌(がっしょう)もするし、もちろん死者を(いた)む気持ちはある。けれど、そこにはいつも「形だけで申し訳ない」という呵責(かしゃく)がつきまとう。教会での葬儀でも、それは同じだ。
 仏教徒にもなれないし、キリスト教徒にもなれない(〝ならない〟と言うべきかもしれないが)。他の宗教を探そうとも思っていない。信仰する宗教を決めなくても(無宗教のままでも)日本の社会では生きられる。だから問題ない、と――。
 そう思っていたのだ。これまでは。
「〝宗教〟の勧誘をしないかわりに、おふくろや瑠都(るつ)の〝信仰〟にも、干渉しない約束だろう」
 かろうじて俺は妻にそれだけを言い、風呂に立った。
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